神代にもだます工面は酒が入り 万句合 伊丹酒合戦の図 酒の良し悪しを語るのは人の常、江戸時代でも変わりはない。 江戸の人々も好みの銘柄や産地の酒を語り、楽しんだことであろう。 その江戸の酒を語るとき「下り酒」は、避けて通ることのできない話題 である。 世の中に酒というもの無かりせば 何に左の手を使うべき 蜀山人 「江戸の暮らし」 酒の話 「下り酒」 江戸時代初頭より、酒に限らず塩、醤油、油、呉服をはじめとする商品 のうち、品質のよい上等なものは、京・大坂を中心とした上方からもた らされており、それらを総称して「下り物」と呼んだ。 江戸を中心とした関東で作られたものは「くだらない」ものなのである。 しかし、時代とともに、関東産の商品にも品質のよいものがあらわれて、 下り物を駆逐していった。その最たるものが醤油で、江戸時代中期以降、 下総(千葉)の銚子や野田をはじめとして醤油製造業が発展して、幕末 には上方醤油は、江戸市場から姿を消している。 から樽をみんなおろすと馬になり 万句合 酒の場合は、江戸時代を通じて下り酒の優位が続き、寛政年間(178 9-1800)には、幕府が政治的介入して、下り酒の江戸流入押え、 関東の製造業を保護する政策をとったほどである。 しかし、良質の酒を生産することが出来ず、結局は失敗して関東の酒は 「地廻り悪酒」などと呼ばれた。 から樽に馬の尻尾のはえたよう 玉柳 「摂津国伊丹酒造之図」 「灘の生一本」 下り酒は、年間60万から70万樽が、江戸にもたらされ、19世紀に は100万樽にも及んだ。ただ、一口に下り酒といっても、産地などに 消長が見られた。17世紀以降、摂津(大阪府)の池田や伊丹の製造業 が発展しており、池田酒は甘口、伊丹酒は強い辛口であり「剣菱」ほか の銘柄が好まれた。池田も伊丹も猪名川沿いの内陸に位置しているため、 より輸送に便利な条件を備えた灘が醸造地として発展して、江戸市場に おける優位性を勝ち得ている。 灘では、冬にじっくりと作る寒造りの製法を確立し、18世紀以降には、 水車によって、米の精白度が飛躍的に向上して、有名な「灘の生一本」 が生まれている。 (※上方の醸造が江戸でもてはやされたのは、輸送の便だけではない。 かつて夏が酒造りの季節であり、雑菌のために酸味のある酒が出来るこ とがあった) 我も迷うやさまざまの利き酒 新編柳多留 新酒番船入津繁栄図 その年の新酒を積み、西宮から江戸まで運ぶ早さを競う新酒番船は、 江戸の風物詩となっていた。文久三年の番船が江戸に到着した様子。 「新酒番船」 その年の新酒を運ぶレースが「新酒番船」であった。西宮から江戸まで 「樽回船」に酒を積んで、その速さを競ったもので江戸の風物詩となっ ていた。一着の船は、江戸酒問屋たちの盛大な出迎えを受け、この時の 新酒値段によって、その酒値段が決まった。新酒番船に勝つことは回船 問屋にとっては非常な名誉となった。当時、一隻の回船には290トン の荷物が積まれたといい、通常江戸ー大坂間で10日から14日ほどを 要したが、新酒番船は3、4日で江戸に着いており、中には2日ほどで 到着した船もあった。 二日酔い飲んだところをかんがえる 柳多留 銚釐で酒を飲む図 居酒屋では、框や椅子に腰かけて談笑しながら酒を酌み交す。 燗をつける小僧や、銚釐から直接注ぐ客の姿が見られる。 「江戸で飲む酒は冷やよりも燗」 江戸時代、濁り酒は別にして清酒の場合は、冷やよりも燗酒が主に飲ま れていた。「鉄や銅鍋」に直接酒を温めたが、江戸時代中頃からチロリ (銚釐)と呼ばれる取っ手のついた金属製の容器があらわれ、酒を温め て柄のついた銚子に移して飲んだ。また、当時の居酒屋の情景を描いた 絵には、チロリから直接酒を注ぐ場面も見られる。 幕末には、小さな陶器製の器に入れて湯煎して、直接盃に注ぐ燗徳利が 生まれた。本来、銚子と徳利は別物なのである。 ちりぐるみ吸うはこぼした琥珀酒 新編柳多留 (拡大してご覧ください) 酒器の絵 江戸時代の人々は想像以上に酒を飲んだようである。 仕事の帰り、居酒屋の店先に仕事道具の天秤棒を置いて、一杯飲む庶民 の姿も多く見られたことであろう。生活レベルは庶民と変わらない下級 武士の場合もよく酒を飲んでいる。 ①燗鍋:かつては銅製の鍋に酒を入れて火にかけ燗をつけた。 ②銚釐:酒を入れて湯煎して燗酒にした。 ③銚子:銚釐で温めた酒を移した。 ④燗徳利:幕末には陶器製の徳利に酒を入れて温めた。 (※ 幕末の江戸では、格式ある宴席のみに銚子を使い、他は燗徳利を 直接宴席に出した。宴席や料理屋などでも銚子を用いた) なあるほどみの一つだになあるほど 新編柳多留 「酒は、愚痴の聞き役、色恋話の語り役」 儀礼に忙しい殿様は、品行方正で酒はあまり呑まず、ストレス発散に酒 の力を借りていたのは、大名の参勤交代について江戸詰めとなった中・ 下級の武士たち。江戸の武家人口約50万のうち、大半が中・下級武士 で。一般の町人と比べて、広い屋敷の中に住まいを構えているものの、 その実態は、庶民とあまり変わらぬ長屋暮らし。違いといえば、屋敷内 には樹木や泉池があり、前庭で蔬菜(そさい)の自家栽培ができたこと くらい。非番の日は役職によって3日から10日に1度程度、住まいは 狭く、単身赴任の寂しさもある。 何か物たらぬ雨夜のひとり酒 柳多留 そんな彼らの息抜きのひとつが酒である。日常的に酒を呑んでいたのは もちろん、国元に帰れると喜んでは、酒を呑み、殿様の江戸滞在期間が 突然延長されたと聞けば、それを嘆いて、ヤケ酒を呑み、荒れに荒れ… …。実際の記録にはこんなのがある。万延元年(1860)から江戸に 単身赴任となった紀州藩下級藩士・酒井伴四郎の場合、藩邸の長屋や銭 湯の二階で酒盛りを始め、蕎麦屋や料理屋に入って昼間から酒を飲み、 風邪薬と称して酒を飲む。江戸詰めの武士や庶民にとって、酒は生活に なくてはならないものであった。 百毒の長だとおもう二日酔い 柳多留 江戸一番の酒処ー豊島屋 「江戸の人々は酒豪だったというが」 江戸に運ばれてきた酒の量を江戸の全人口で割ると、1人あたり1日2 合の酒を飲んでいた計算になる。この計算で行くと、確かに江戸の人々 は酒をよく呑んだようだ。先に書いたように、上方から大きな樽を積ん だ樽廻船で運ばれてきた、その量は年間90万樽にもなった。船に揺ら れて運ばれる間に杉樽の中で酒と空気が程よく触れ合い、味がまろやか になった。 としまやで通うちろりのなく聲は 柳多留 しかし、そのまろやかな酒も、そのまま庶民の口に入るかというと、そ うではない。当時の酒は現在のアルコール度数の半分くらいで、安い酒 はそれをさらに水で薄めていたともいう。水で薄まった度数の低い酒を 飲んで『昨日は一升呑んだ』なんて豪語している酒豪が、江戸には数多 あったようだ。 いそがしさ浮世袋の酒びたし 柳多留 「酒の味」 下の句は、江戸の後期、4斗樽2本を馬の背に載せ、上方から江戸まで 運ぶ様を描いた句である。140里(560㌔)を超える道のりを10 日以上をかけて運ばれた樽の中の酒は、馬の背で揺られ、揉まれ続けて 熟成が進み、味が増したという。 酒十駄ゆりもて行くや夏木立 柳多留 菱垣廻船 樽廻船 馬の背で運んだ酒は「樽廻船」に取って代わるが、4斗樽に詰められた 酒は、やはり船の上でもずっと揺られて熟成が進み、江戸へ着く頃には 柔らかく旨みのある酒となる。上方から波に揺られ、左手に富士山を見 ながら江戸に下ってきた酒を江戸の酒好きたちは「富士見酒」と呼んで、 親しんだという。 一軒でよべばすだれが皆うごき 万句合 また、上方から江戸まで運んだ「下り酒」を再び、上方までそのまま、 持って帰ってきた酒のことを「戻り酒」という。船に揺られる時間が 倍となって熟成が進み、酒がさらに旨くなって珍重された。 幕末に田辺藩藩医原田某が勤番侍の江戸生活マニュアルとして書いた (※『江戸自慢』には、下り酒でなくとも、上等なものは口当たりも よいと記している。しかし、値段が非常に高く、酔いが醒めるのもい たって早いとあり、大酒飲みはたちまち財布が空になって、借金の淵 に沈むと書いている。) 女房はぬかに釘だと古事をいい 柳多留 酒飲み合戦 「千住・酒飲み合戦」 江戸の酒食文化が爛熟に達した文化・文政期(1804ー30)それを 象徴するのが酒量を競う大酒会である。 文化12年の11月、千住の中屋六右衛門の還暦記念に催された、人 気の文人・亀田鵬斎と画人の谷文晁が、検分役として迎えられ、大田 南畝(蜀山人)や酒井抱一も同席した。 南畝は参加者の酔態など、酒合戦の模様を『後水鳥記』に記し、狂歌 も詠んでいる。 はかりなき大盃のたたかいは いくら飲みても乱に及ばず 蜀山人 (拡大してご覧ください) 緑毛亀杯 大盃にはそれぞれ呼び名があり、市兵衛なる人は、一升五合入の「万 寿無量杯」を三杯、作兵衛なる者は二升五合入の「緑毛亀杯」を三杯 も飲み干したという。ちなみに2年後の文化14年3月には、両国柳 橋の料亭万八楼で、大酒大食会が行われ、これも大評判になった。 世の中は色と酒とがかたきなり どうぞ敵にめぐりあいたい 蜀山人
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積善の余光君子の花に座し 詠史余慶 韓信股くぐり・絵馬(堤等琳画 浅草寺蔵) 韓信は楚の項羽、後に韓の劉邦に仕え、韓の建国三傑に数えられる武将。 若い頃人の股をくぐる辱めを受けたが忍耐し、その後、高名な人物にな ったことから、小さな屈辱も大志の前では我慢できることを例えた故事。 (浅草寺には江戸の頃から多くの大絵馬が奉納され現存するものも多い) 聖堂は心の垢の洗濯所 詠史宋頃 今も、その慣習が受け継がれている「絵馬」は本来生きた馬のかわりと して「馬の絵」を寺社に奉納していたものだった。 徐々に歴史・伝説上の人物、或いは風俗・花鳥・山水など多彩なものが 描かれるようになった。変化したのは、その題材だけではなく、絵馬自 体の大きさも巨大になり、参拝に訪れた善男善女の注目を集めるように なる。このため、願主が信仰心から奉納したといっても、それは自ずと 願主を宣伝する効果、つまり広告のような役割も併せ持つようになった。 月明らかにして星は隠れたり 詠史春秋頃 一方で、この「大絵馬」は願主から依頼を受けた絵師にとっても多数の 人々に自分の絵を、見てもらえる絶好の機会であった。まして、大勢の 参拝者が訪れる著名な寺社の絵馬であればなおさらである。 若手にとっては、一流絵師になるための登竜門、著名な絵師にとっても 改めて自分の実力を発揮する場であった。つまり、絵馬を掲げた寺社は 今日でいうギャラリーであり、一種の展覧会の役割を果たしていた。 峯の寺墨絵のように帰る僧 柳多留 喜三郎が見つけた額面左下の角の部分 「ものがたり」 ある日、この等琳画の韓信の股くぐりの絵馬を見つめる少年がいた。 少年の名は喜三郎。喜三郎は、丁稚奉公に出されていたのだが、暇さえ あれば、絵を描いていたので、ついには勤め先を解雇されてしまった。 それで父親は仕方なく絵の道に進ませることにした。この少年は感動し つつ、時間の許す限りこの絵を眺めていたのだが、どうしても「腑に落 ちない所」があった。 左から二人目の人物の右足なのだが、本来小指があるところに親指が描 かれている、のだ。早速、絵の師に告げると、すぐさま師は浅草寺へ出 向いたが、喜三郎の言う通りだった。 ひょんな目を入れて達磨の貰い泣き 柳多留 「この絵馬は、何年も大勢の人が見ているのに誰も気づかず、こんな少 年が見つけ出すとは不思議なことだ」と、この師は会う人ごとに語った という。この師の名は、葛飾北斎という。少年だった喜三郎は、後に二 代目・北斎を名乗ることになった。 師の恩は目と手と耳にいつまでも 万句合 「葛飾北斎伝には」 『前北斎為一老人は、其名四方に高く、幼童といへども知る程なり、師 の弟子に深川高橋に住みける橋本某が倅・喜三郎といふものは、幼年の 頃、堀江六間町なる砂糖店の丁稚奉公に仕はしけるが、客のいとまある 時は筆をとりてゑがく、されば自然、主人の心に叶ず、終に家にもどる、 父も心に任せ北斎門人とす。 或日、浅草観音へ詣で、堂内の掛額の中、雪山等林が筆をふるひし韓信 市人の「胯潜の図」をよくみて、師のかたへ行き、「等琳が筆意、眼を おどろかすばかりなれど、一の失あり、後ろのかたに立ち居る衆人の足、 小指のあるべき方に大ゆびあり」と語る、師すぐさま喜三郎を同道して、 かの額をみるに、喜三郎がいふにたかはず、「是まで数年多くの人こゝ ろ付ずありしを、若年のもの見出し候は不思議なり」と、語られしが、 此の喜三郎二代・北斎となり、終惜しいかな新吉原遊女屋の養子となり、 画名発せず、末はいかゞなりしや』とある。
師の恩は目と手と耳にいつまでも 万句合 劉邦に天下を取らせた国士無双の大将軍・韓信 「韓信の股くぐり」 韓信が若い頃、町の破落戸(ごろつき)に「てめえは背が高く、いつも 剣を帯びているが実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ、 できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発された。韓信は黙って若者の 股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。 その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の 得もなく、それどころか、仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断 していたのである。 この出来事は後世「韓信の股くぐり」として知られることになる。 人間万事さまざまな馬鹿をする 柳多留 「堤等琳」 「浅草寺に韓信の額あり、秋月と云いしを三代目・等琳と改名せし時の 筆なり。今猶存す…中略…門人あまたあり、絵馬や職人、幟画職人、提 灯屋職人、総て画を用る職分のものは、皆此門人となりて画法を学ぶも の多し」と述べられている。このように等琳は、絵馬や屏風などといっ た肉筆画を最も得意としていた。この等琳が三代目を継いだ時に浅草寺 に寄贈したといわれる「韓信股くぐり図」の絵馬が現存する。 墨の出る町には筆も生きている 柳多留 その他、雪山等琳名の絵馬を、東京近郊や上総安房方面の寺社に多く見 かけることがある。さらに『増補浮世絵類考』に堂舎の彩色を請け負っ たり、貝細工などの見せ物までも、手掛けていたことが述べられている。 これは絵馬、幟絵などといった庶民的肉筆画を生業とする町絵師の元締 め的な存在であったことを示していると思われる。反面、浮世絵師とは 異なる町絵師という立場故か、狂歌絵本や摺物類以外の木版作品(錦絵) は、ほとんど残っていない。 (『増補浮世絵類考』) 菓子鉢は蘭語でいうとダストヘル 新編柳多留 「等琳と北斎」 等琳と北斎と互いに意識し合う関係だった、らしい。文化元年(1804) に北斎が護国寺で大達磨を揮毫した際、等琳はその様子を見物して驚愕 したことや、反対に北斎が、浅草寺に掲げられた等琳の大絵馬について 門人の二代目・北斎と批評したという話が残る。 実作品を見ても、寛政から文化初年頃の北斎作品には、等琳風の漢画的 描写が見受けられる。他にも『北斎骨法婦人集』の序文によると、文政 5年(1822)春頃根岸御形松近くにあった等琳宅に一時、北斎が同居し ており、さらに北斎の娘・応為は等琳の門人・南沢等明に嫁している。 これらから二人は、単なる同業者仲間を超えた深い交流があったと分る。 友だちに一竿戻す渡し守り 万句合 (漢の三傑) 蕭何 張良 「国士無双」 劉邦の腹心であり、名宰相として知られた蕭何(しょうか)は、長び く戦闘に疲れ故郷へ帰っていく多くの武将の中で「韓信だけは引き止め たいと考え」、そのあとを追った。劉邦としては、韓信の実力を認識し ていないから、蕭何の行動を理解することができなかった。そこで劉邦 は、その理由を蕭何に訊ねた。蕭何は、 「あなたが中国の地方の王で満足しているなら、彼を用いることもあり ませんが、天下を取ろうと望まれるなら、彼を重用するより方法はない のです。韓信は、国士無双と称するに足る人物なのですよ」と諭した。 劉邦も後に帝王となるような偉大な人だから、蕭何の論説を素直に信じ、 韓信を大将軍に任じた。 (※ 劉邦のもとに集まった「国士無双」と呼ばれるような英雄たちが、 劉邦の右腕となって全知全能を尽くして働いたのも、劉邦が「漢中の王 では収まる人物でない」と考えたからである。 三人寄って種を蒔く桃の下 詠史三国・晋
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元日の粗相二日に叱られる 万句合 江戸の朝の風景 時の鐘の音と共に江戸の朝が始まる。 釣り鐘を夕日の覗く峯の寺 柳多留拾遺 寛永寺の鐘 寛永寺の「時の鐘」は、今でも、午前6時・正午・午後6時に撞かれ、 その鐘の音は「日本の音風景100選」に選ばれている。 「時の鐘」 <花の雲 鐘は上野か 浅草か> この句で芭蕉がいう鐘とは、「時の鐘」のことである。 江戸時代の時刻制度は、今とは違い「不定時法」が主流だった。 不定時法は、夜明けを「明け六つ」日没を「暮六つ」とし、その間を それぞれ六等分し、「一刻」と、した。 よって、春分および秋分の一刻は二時間となるが、昼夜の割合の変化 により、時の長さは違ったのである。一見すると、不便そうに感じる が、季節に即して夜明けと共に行動を開始し日没と共に行動を終える。 自然とうまく寄り添った仕組みだったとも言えるものであr。 来る年の物知り顔やこよみ売り 柳多留 江戸の頃は、各家庭に時計があるわけではないし、もちろん腕時計など ありはしない。そんな人々の時計の役割を果たしていたのが「時の鐘」 である。江戸府内には、現在確認されているだけで15ヵ所に設置され ており、芭蕉の句にある、上野寛永寺や浅草寺弁天山の時の鐘は現存し ている。時の知らせ方は、一刻ごとにまず「捨て鐘」を三回撞いた後、 その刻数だけ鐘を撞いた。 鳥も鳴け鐘も鳴れ鳴れふられた夜 柳多留拾遺 浅草寺の鐘 浅草寺の時の鐘は、都指定の文化財 時の鐘を撞く基準となるものには、和時計(大名時計)が使われた。 これは、西洋から入った定時法用の機械時計を「不定時法」に合うに 改良したものだが、半月に一度、時の長さの調整が必要なこともあっ てか、狂いやすかった。そのため、複数の時計を使用したほか、他の 時の鐘の音も参考にして、その精度を高めていたようだ。 鐘突きの足跡ばかり寺の雪 新編柳多留 時の鐘の中には、制度を維持するため、鐘の聞こえる範囲の町々から 「鐘役銭(かねやくせん)」を集めている所もあった。 いささか無粋だが、上野寛永寺は「鐘役銭」を集めており、浅草寺は 集めていなかったといわれている。 浅草の二日は江戸の台所 柳多留 花 の 雲 「除夜の鐘」 <除夜の鐘鼻水だけが暮れ残り> 芥川龍之介 「除夜の鐘」は、大晦日の23時頃から「捨て鐘」といって二つ余分に 撞いてから始まり、余韻が消えてから次の鐘を打ち、一つ一つの煩悩を 消して、最後の一撞き(百八つ)は、新年0時に合わせるのが、正式な つき方だといわれる。 「百八つの鐘」は、仏教の思想に基づくもので、中国の宋の時代〈十世 紀後半〉には始ったとされ、人間の持つ百八つの煩悩を追い払い、心身 ともに清浄になって新年を迎えるため、という説がある。 大三十日ぴぃぴぃぴぃが十二文 柳多留 大 三 十 日 旅人も女房も老人も職人も年越しそばを食いにくる大晦日 「年越しそば」 なぜ、大晦日に「年越し蕎麦」を食べるのか。 月末にソバを食べる「みそかそば(晦日蕎麦/三十日蕎麦)」という風習 が大晦日だけに残ったもので、江戸時代の町人の間で始まったといわれる。 ソバのように細く長く長寿であるように、またソバは切れやすいことから 「一年の災厄を断ち切る」「苦労と縁を切る」など、縁起の良いものとい う謂われがある。 蕎麦を打つ音も馳走の数に入り 万句合 又、この習慣は江戸時代中期に江戸商人の間で始まったとも言われている。 商家の奉公人は月末に帳簿を締めるのに忙しく「夕食をとれないため、夜 遅くにそばを食べたことが始まり」という説や、金銀細工職人に由来する との説もある。仕事場に飛び散った金粉を、そばを練って作った団子で集 め、その団子を焼いて金粉を取り出したことから「蕎麦は金を集める」と いう良い縁起の意味もあったとか。 大雨で鐘の縁起が聞こえかね 柳多留
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年のくれはなしの奥に春があり 柳多留拾遺 文久2年(1862)の絵暦 (国立国会図書館) 右肩の上部から順に1月(大)2月(小)3月(大)と続く。 中央部の重なっている緑の丸は、8月(大)閏8月(小)となる。 「江戸のカレンダー」 映画やドラマを見ていると、裏ぶれた長屋で浪人が長屋で傘張りの内職 をしていると、戸口の方で声がして、商人が集金にやってくる、という シーンによくでくわす。江戸時代は「晦日払い」といって、酒などを買 うにしても、ひと月分をまとめて、月末に精算するのが一般的だった。 傘張りに精を出す浪人だったが、手元に支払えるだけの金はない。 「次回は必ず」などと頭を下げつつ、なんとかその場を取り繕う。 ほっとして、ふと、戸口から空を見上げると、その心象を表すようにき れいな「満月」が浮かんでいる。 来たかとも言わず来たとも言いもせず 柳多留拾遺 我々はうっかり見逃してしまうのだが、実はこれは間違い。 江戸時代の晦日に「満月」が輝いていることは、ありえない、のである。 美しいびんぼう神に気がつかず 柳多留拾遺 現在、我々が使っている暦は、地球の公転を一年とする「太陽暦」だが、 明治5年(1872)まで日本で使われていたのは、旧暦(太陰太陽暦) で、月の満ち欠けにより、ひと月を決めていた。月の満ち欠けの周期は 29,5日だった為、ひと月は大(30日)と小(29日)の二種類を使用した。 またこれだと一年は、354日となり季節のズレが生じるため、三年弱に 一度、ひと月分を増やす「閏月」を作り調整も行っていた。 然ればという所から先をよみ 柳多留拾遺 慶応3年(1867)の絵暦 (国立国会図書館) 判じ絵暦の一つ。 絵の中に文字が書かれていて福助の頭の上に「十」裃に「十一、十二」 着物の裾に「二」右袖に「八」左袖に「四と大」の月が描かれている。 旧暦では、月の始まりを新月としたため、満月は15日前後となる。 そうすると、月末である晦日に「満月」が輝いているはずがない。 満月の夜ならば、そもそも集金人がやってくる心配は、最初からなかった のである。 月に村雲独吟の咽へ痰 新編柳多留 その月の「大小」、及び「閏月」は年ごとに変化するため、現在でいう カレンダーも必要だった。これは「大小暦」と呼ばれ、商店ほか各家庭に も一般的に貼られていた。干支や歌舞伎を題材とした絵暦のほか、一種の 「謎解き」のように趣向を凝らした「判じ絵暦」など種類も多様だった。 浮き世の鐘のやかましい大晦日 万句合 「一年の終わりに、ちょっと笑いで締め括る」 浪人のところへ掛け取りに行き、 「アイ、米屋でござります」 女房 「留守だ」という。 米屋、障子の穴から覗き、 「それ、そこにござるではないか。ここから見えます」 と言えば、浪人、蚤取り眼にて穴をふさぎ、 「どうじゃ。これでも見えるか」 「イヤ、見えませぬ」 「そんなら、留守だ」 年々歳々、1年が速く過ぎて行くような気がしますが、 皆さまは、いかがでしょうか。 この1年、この拙いブログにお付合いいただき、ありがとうございました。 「行動は、言葉よりも声が大きい」この名言とともに… どうぞ良いお年をお迎えください。 いつかいい春におもてはなっている 柳多留拾遺