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川柳的逍遥 人の世の一家言
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身も心も乱して雨は走り去る  柴辻踈星
 
 
 
            奥州高館大合戦 歌川芳虎画
 
 
文治5年(1189)、奥州合戦に勝利した源頼朝は、9月22日に
葛西清重を奥州総奉行に任命し、28日に鎌倉へ向けて帰還した。
陸奥国内では、奥州藤原氏に従属していた武士団が土地を没収されて、
清重を始め、多くの東国武士が「地頭職」を与えられた。
一方で、多賀城国府では、在庁官人による国務運営が継続し、
戦場とならなかった出羽国内陸部では、旧来の在地豪族が勢力を保持
しており、東国武士と在地勢力の間に、軋轢が生じるようになる。
奥羽地方では「伊予守源義経、木曽義仲の嫡男・朝日冠者、藤原秀衡男」
と、自称した「平泉藤原氏残党の反乱」があいついだ。
なかでも最も大規模であったのは、
同年12月から、翌建久元年正月にかけておこった、
大河兼任(おおかわかねとう)の反乱であった。


うやむやで済ませた過去が通せんぼ  上田 仁
 

 
                    源九郎狐  (千本桜)寿好堂よし国画


「鎌倉殿の13人」 源フェイクロウ義経
  
  
源義経を自害に追い込んだ、平泉藤原泰衡は、生き残りをかけて、
義経の首を頼朝のもとへ送り、恭順の意を示した。
が、頼朝は、これを認めず
「反逆者義経を長く匿い、また許可なく首を取った」
などといいがかりをつけ、奥州藤原氏壊滅へと駒を進めた。
この奥州合戦で栄華を誇った黄金の都・平泉は灰に帰した。
だが、北奧には、無傷の将兵が数多いた。
「九郎義経や木曽の遺子・義高が生きている」と、
嘘の噂を流し、鎌倉方を錯乱。鎌倉軍の統制の乱れをついて、
ひとりの男が立った。
大河兼任(おおかわかねとう)である。


火の酒を煽ってコンと化けてから  くんじろう


出羽国北部八郎潟沿岸の大河の豪族で、藤原氏累代の郎従であった兼任
は、藤原氏が滅亡した奥州合戦の直後より、鎌倉政権への叛逆を企てた。
そして、挙兵に際して、由利維平に使者を送り、
「昔から今まで六親・夫婦の怨敵に仇を報ずるというのは、
 尋常のことである。だが、主人の仇を討った例はまだ見当たらない。
 兼任が、その例をはじめようとして、鎌倉に赴くのだ」
(古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常のことなり。
 いまだ主人の敵を討つの例あらず。
 兼任独り、その例を始めんがために鎌倉に赴くところなり)
と、言っていたという。
 六親等=昆孫(こんそん)玄孫の孫。 自分から6代後の子孫。


言い切った言葉の先にある想い  靏田寿子


そして、文治5年も明けようとする12月、すでに泉下にいるはずの
九郎義経木曾義仲の子息・朝日冠者義高、藤原秀衡の子息たちが、
「同心して鎌倉へ進軍する」と、いう風説が流れた。
鎌倉を攪乱するため風説を流したのは、大河兼任であった。
戦さの天才や頼朝に強く恨みを抱く者の名を利用して、鎌倉側の混乱
を狙ったのである。それを囃すのが先の宣告、
「…未だ主人の仇を討った例はなく、その例を始める」
というものであった。


わたくしの影にも赤を着せておく  宮原せつ


挙兵した兼任は、秋田城を奪い、さらに7千余騎を率いて、
陸奥の国府多賀城を攻め、鎌倉へと向かい軍を進めた。
その経路は、秋田城を経由して大関山を越えて、多賀城国府へ出ようと
するものであったが、八郎潟を渡る際に氷が突然割れて、
五千人余りが溺死するといった事故にあった。
この痛手にもかかわらず、進路を変えて小鹿島、津軽方面に向かい、
男鹿に進んだ兼任軍は、行く手を遮った鎌倉方の由利雄平・橘公業、
宇佐美実政らの軍勢を撃破した。


ちっぽけな意地でも今日は押し通す  津田照子


明けて7日、兼任の弟で御家人となっていた二藤次忠季、新田三郎入道
らから報告を受けた頼朝は、軍勢を派遣することを決断し、
相模以西の御家人に動員令を下した。
8日、千葉常胤率いる東海道軍、比企能員率いる東山道軍が奥州に向い、
13日には、追討使として足利義兼、大将軍として千葉胤正も出陣する。
奥州に所領を持つ御家人、上野・信濃の御家人も、次々に下向した。
頼朝は、個々の御家人が手柄を競って、寡兵で敵に挑むのを戒め、
兵力を結集して、十分に準備を進めてから事に当たるよう指示を下した。


侵攻の日から桜は眠れない  笠嶋恵美子



           有多宇末井(うたうまい)之梯

「於外濱與糠部間、有多宇、末井之梯、以件山、爲城郭兼任引篭」
『吾妻鏡』に「件の山を以って城郭をなし兼任引き籠もる」とある。
義経を騙って乱を起こした秋田五城目領主・大河兼任が最後の砦とした
「有多宇末井の梯」は、この「善知鳥崎」であるという説がある。
 (兼任が籠もったと推定される山のさらに上に、蝦夷館跡がある)
 
 
兼任軍は、津軽から陸奥中央部に進んで平泉に達し、
奥州藤原氏の残党を配下に加えて、一万騎に膨れ上がった。
この形勢を見て、多賀城国府の留守所も兼任に同調した。
2月12日、兼任軍は、栗原郡一迫で足利義兼率いる鎌倉軍と激突する
が、壊滅的打撃を受け敗走する。
兼任は、残存兵力500余騎を率いて、衣川で反撃するが敗北し、
北上川を越えて、外ヶ浜と糠部の間にある「多宇末井の懸橋」近くの山
に立て籠もったが、義兼らの急襲を受けて行方をくらました。


素頓狂の声から蛇が逃げて行く  高田佳代子


兼任は花山、千福、山本など各地を転々とした後、
亀山を越えて栗原に戻ったが、3月10日、栗原寺で錦の脛巾(はばき)
を着て、金作りの太刀を帯びた姿を地元の樵夫(きこり)に怪しまれ、
斧で斬殺された。
首実検は千葉胤正が行い、約3ヶ月に及んだ反乱は終息した。

3月15日、頼朝は、兼任に同意した多賀城国府の留守所に替えて、
伊沢家景を留守職に任じた。
以後の陸奥国は、平泉周辺を基盤として軍事・警察を担う葛西清重と、
多賀城国府を管轄する伊沢家景の二元的な支配体制となり、
鎌倉幕府の勢力が浸透することになる。


バカだねとすこし笑っている遺影  宮井いずみ
 
 

                                  「堀川夜討乱入之図」 歌川芳虎画

頼朝は、弟・義経の勝手な振る舞いに怒り、家臣・土佐坊昌俊(とさの
ぼうしょうしゅん)に義経追討を命じた。昌俊は熊野参詣のふりをして、
京都六条堀川にあった「義経の館」に近づき、夜討を仕掛けた。
三谷幸喜氏は、5/15のドラマ・「鎌倉殿…」に、このシーンを放送)
 

「義経生存伝説の変遷について」

 
  
『吾妻鏡』の文治5年(1189)閏4月30日の部分ゟ
 「三十日己未。今日。陸奥国に於いて。泰衡が源義経を襲う。
 これは、且つは勅定によるもの、且つは、頼朝の仰せによるものなり。
 義経は、民部少輔基成朝臣の衣河舘にあり。
 泰衡の従兵数百騎、某所へ馳せ至って合戦す。義経の家人など相防ぐ
 といえども、悉く以て敗績す。義経は持仏堂に入り、先ず妻、22歳
 と子、女子4歳を害し、次いで自殺す」
(すなわち、奥州藤原氏の政治顧問的立場にあった藤原基成の居館の
 衣河舘に居た義経は、藤原泰衡の軍勢に襲われ、奮戦空しく敗れ、
 持仏堂に入り、妻子を殺してから自害したのであった)


夕焼け小焼けはゴミの回収車  通利一遍


義経の死直後には、義経に対する「称賛と批判」の両方が存在したが、
積極的生存説はなかった。
当時の貴族の九条兼実は、義経の大物の浦での遭難を聞いた際、
日記『玉葉』に、
「義経こそは武勇・仁義において後世に名を残す人物である。
 嘆美すべし。しかし、頼朝に対して謀反の心を起したのは、
 大逆罪といわねばならない」 と、記している。
自滅した義経に対して「同情は同情、罪は罪」とけじめをつけた。


横っ腹からグリーン化した男  井上一筒


『吾妻鑑』にも、義経の首を見た人々の様子を、
「観ル者ミナ双淚ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホスト」
(義経の最期を観た人は皆、)
と記すが、
平家討伐の大功労者の変わり果てた姿への、素直な悲しみであった。

また『吾妻鑑』は、男鹿半島に大河兼任の叛乱について、
「奥州の故泰衡の郎従の大河次郎兼任以下、去年の窮冬以来、
 反逆を企て、或いは伊予守義経と称し、出羽国海辺の庄に出る、
 或いは佐馬頭義仲(木曽義仲)の嫡男の日冠者と称し、
 同国仙北郡に立つ」と、書き記している。
これらは、義経義仲という有名な武将の名を騙ったもので、
生存説とまでは言えないとされている。 (相原康二ゟ)


  緑濃き哲学の道雨しとど  樋口百合子



       源頼朝


「義経自害から10年後、頼朝は怪死する。頼朝年譜

文治5年(1189)43歳
4月30日  頼朝の圧力に屈し藤原泰衡、源義経を討つ。
6月13日  鎌倉で義経の首実検
7月29日  頼朝、平泉追討へ鎌倉を出発。総勢28万。
8月8~10日  鎌倉軍、平泉軍を破る。 藤原国衡、死亡。
8月22日    頼朝、平泉に入る。 藤原基成、降伏。
9月3日、    藤原泰衡、秋田比内で郎党・河田次郎に討たれる。 
12月      大河兼任が反乱を企てる。

 奥州征伐の功績で、頼朝は後白河法皇から按察使(あぜち)への任官
を打診される。が、頼朝は辞退する。 按察使=(地方行政の監督)


ガチャガチャを五回挑戦したけれど  山本早苗


文治6年/建久元年(1190) 44歳
頼朝は11月9日千余騎の軍勢を率いて、上洛、後白河法皇と謁見。
「征夷大将軍の任命を希望する」が、叶えられず、
「権大納言・右近衛大将に」と、求められたが、これを辞退する。


建久3年(1192) 46歳
3月、後白河法皇崩御。
7月12日に頼朝は、征夷大将軍に任ぜられ、
鎌倉幕府を開く。

建久4年(1193)47歳
富士の巻狩りで嫡男・源頼家が初めて鹿を射止め、頼朝は後継者と認む。

建久5年(1194)48歳
奥州合戦にも従軍し、鶴岡八幡宮の法会でも、参拝する頼朝の御供の
筆頭として頼朝に信頼された甲斐源氏・安田義定だったが、
謀反の疑いで梟首する。


真っ当な道もそれほど楽でない  西陣五朗


建久6年(1195)49歳
2月、頼朝は、東大寺再建供養に出席するため、
妻・政子と嫡子・頼家・長女・大姫ら子女達を伴い、再び上洛する。
その時、大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく、源通親丹後局と接触し
朝廷工作を図った。

建久8年(1197)51歳
頼朝は、病持ちの大姫の入内を計ったが、大姫の病は回復する事なく
7月に死去、20歳だった。
頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて、女御とするも、
三幡もやがて病死し頓挫する。

建久9年(1198)正月、頼朝の反対を無視して後鳥羽天皇は、
通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して、上皇となり院政を開始する。
これにより通親は、天皇の外戚として権勢を強めた。
頼朝はこれに危機感を抱いて九条兼実に書状を送り、朝廷との付き合い
を模索した。


人間の欲知り尽くすルーレット  武市柳章



        頼朝の最後 
義経の亡霊に祟られたのか?


建久10年/正治元年 (1199)53歳
1月11日に出家するも、わずかその2日後の13日に死去。
死因は、「落馬説、糖尿病説、尿崩症説、溺死説、暗殺説、亡霊説、
誤認殺傷説」などの説がある


問うたなら花はこたえの形する 佐藤正昭

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