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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あの人が好きで嫌いで春嵐  吉松澄子
 

 
                                 かるたあわせ鎌蔵武勇六家仙
左上から時計回り→鎌倉武者に風刺言葉とともに。
江間小四郎 (いしのうへにもさんねん)
政子御前  (おいてわ子にしたがへ)       
北条時政  (えんの下の力もち)
九郎義経  (ほねおりそんのくたひれもうけ)
源実朝   ( みからでたさび)
大江広元  (えてにほにあげ)


 「まさかの小四郎が」
鎌倉幕府の第二執権となった北条義時(江間四郎義時)は、権謀のかぎ
りをつくして政権を牛耳った策略家として知られる。
ことに父・時政を出家させて伊豆に幽閉し、幕府の実権を握ってからの
義時の行動は、冷徹そのものである。
すなわち、侍所の和田義盛一族を滅ぼし、実朝暗殺にも一枚かんでいた
と思われ、源氏の正統が絶えた将軍家には、九条道家の子・三寅を迎え
て継がせ、自らは、権力をほしいままにした。
そして、承久の乱では、朝廷を制圧して、敵方の所領三千余カ所を没収
して新補地頭をおき、幕府の威力を全国にいきわたらせたのである。


モザイクをかけてあるから人でしょう  米山明日歌
 


  
   比企比企尼         比企能員
 

「鎌倉殿の13人」 新垣結衣ラブ


しかし、この冷徹な義時は、女性に関しては、意外なほど純情であった。
建久3年(1192)9月、義時は30歳で結婚した。
当時としては晩婚である。
相手は比企能員の兄・比企朝宗の娘で、もとは頼朝の女官だった。
女癖の悪さには定評がある頼朝の女官だったところが気にかかるが、
姫前(ひめまえ)と号する女性を正室に迎える。
比企氏は、頼朝の乳母・比企尼が、20余年にわたって、伊豆配流中の
頼朝の生活の面倒をみたことから、比企氏一族は重用され、政界の一勢
力であった。
姫前は容貌はなはだ美麗、頼朝のお気に入りで、権威無双とさえいわれ
た女性である。
(ドラマでは「比奈」の名前で登場する)
義時はこの女性に想いをかけ、1両年にわたって、しきりにラブレター
を送って求愛したが、彼女に受け入れられず、思い悩んでいた。
(このあたりは、ドラマの新垣結衣八重とダブル)


棒読みになってしまったプロポーズ  橋倉久美子


そんな義時の想いを知った頼朝が、仲人になって話をまとめ、決して離
婚しないという起請文を義時にかかせた上で、彼女を娶せたのであった。
【余談】 「ご盛んな頼朝の色好み」
頼朝義時姫前の仲を取り持つ前年の、建久2年正月、頼朝45歳の
時である。頼朝が政子に隠して寵愛していた大進局という女性と、その
間に生まれていた6歳の男の子の存在が妻の政子に露見してしまった。
彼女は伊達常陸入道の娘で、鎌倉御所に出仕していた女房衆であったら
しい。
嫉妬屋の政子に知られてしまえばおしまいだ。
頼朝は、大進局に伊勢国の地頭職を与えて鎌倉から遠ざけた。
なおその子は、まもなく出家して仁和寺に入り、貞暁と称したという。
このように浮気性な殿のお側に務めたと聞けば何かと邪推していまう…。


私という欠片を入れてシチュー鍋  雨森茂樹
 




ドラマ「鎌倉殿の13人ー」の4月17日の放送で、
北条義時(小栗旬)の妻となった八重(新垣結衣)が、のちに鎌倉幕府
3代執権となる北条泰時(坂口健太郎)を出産する、場面があった。
三谷幸喜氏ならではの新説・脚本である。


義時の年表を繰ってみると、たしかに寿永2年(1183)北条泰時が、
義時の長男として生まれるとある。
幼名は金剛。母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は
不明とでてくる。
阿波局が八重のことなのかどうか…?
時に義時は21歳。姫前を正妻に迎える9年前のことである。
祖父の時政ら北条一族と共に、源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目
の頃である。
母とある阿波局は、源頼朝の政子の妹で、阿野全成の妻となった阿波局
(実衣)とは別人。
生れた子は、頼朝の一字を賜わり「頼時」と名付けられた。
義時が姫前と結婚して4年後の13歳で泰時は元服した。
烏帽子親は、源頼朝であった。(頼朝の死後に「泰時」に改名)
<あーややこしい>


人間を脱いで着ぐるみらしくなる  加藤ゆみ子
 
 
   
   伊藤祐親           伊東祐清


 以前にも書いたが、物語を少し振り返ってみる。
八重は、伊豆国伊東庄の豪族・伊東祐親の三女。
頼朝の最初の妻とされ、頼朝の初子・千鶴丸を出産した。
その時、頼朝は千鶴丸の誕生を大いに喜んだ、という。
が、喜ばぬものもいた。
八重の父・伊東祐親である。
京都から伊豆に戻った祐親は、小さな布団にくるまり
可愛い寝息を立てているややを見た。
「この子は誰の子か?」
祐親は、妻に尋ねた。妻は、
「八重が高貴な男性との間にもうけた子です」
と答えた。


何故だろう夫の茶碗また欠ける  林田千鶴子


「親が知らぬ婿というものがあろうか!」
と、祐親が激怒し、さらに追及すると「頼朝の子」だという。
祐親は愕然とし、頭は真っ白になった。
祐親は、平家方豪族として清盛からの信頼を受けている。
此度も流人・頼朝の監視役を任されている。
「源氏の流人を婿にとって、子まで生まれたとなると、
平家方より咎めがあった時、私はどうしたら良いか」
このことであった。


石になるコースと人になるコース  杉山太郎


祐親は家を守るためにどうするかと考えた。
出てきた答えは、
「千鶴丸をどこかに隠した上で、頼朝を殺害する」
だった。 頼朝の危機は、祐親の次男である祐清が、
「父が頼朝様を殺しにくると」知らせに奔った。
頼朝は、馬を駆って、北条時政の館に逃れ事なきを得た。
その後祐親は、八重を頼朝から引き離し、伊豆国の武士・江間次郎
嫁がせた。『曾我物語』
【このあたりのことを歴史家は】
「八重についての歴史上の資料はほとんどありません。
 伊東祐親の娘で頼朝との間に1児をもうける。
 そして祐親に2人の仲を裂かれ子供を殺された。
 史実として確かなのはここまでです」 らしい。


その後のこと聞きたくないが気にはなる  青木敏子



        八重姫御堂
静岡県伊豆の国市に真珠院という曹洞宗寺院がある。
その境内には、八重姫の供養堂が存在する。


義時八重と結ばれたと唱える論者は、ドラマの監督三谷幸喜氏を含め、
「この阿波局こそ、八重だった」
という人も多々いる。
義時が江間の領主となり、江間の人々と関係を持つようになったことと、
頼朝が、有力御家人やその子弟の結婚に乗り出していたことが、
推測の根拠となっているらしい。

北条義時の父は、時政である。
時政の先妻は、伊藤祐親の娘である。
すなわち北条時政の義父が、伊藤祐親だから、
祐親は、義時の母側のお爺ちゃんになる。

つきつめれば、八重は伊藤祐親の娘だから、義時の叔母さんである。
つまり、義時は、「叔母さんと結婚し、子をつくった」こととなる。
もしかして、八重を恋にはいたって純情な義時へ、妻の政子の悋気を恐れ
た頼朝が、小四郎に押し付けたのかもしれない。
(頭、ころころこんがりますねー)


破ること好きなお人の障子張る  前中知栄



「北条義時の八重ラブは、三谷幸喜氏の新垣結衣さんラブ」


悲劇の女性として描かれてきた八重に関心を持った三谷幸喜氏は、
「新垣さんに演じてほしい」
と、熱心にオファーしたという。
幸喜氏は、新垣結衣の大ファンなのだ。
「シナリオは、もうできていますから…」と言ったかどうか…、
「鎌倉殿」でも頼朝と八重との間に、子供が生まれることから、
新垣さんありきでシナリオ化する前に、八重=新垣が決っていたようだ。


反則のような笑顔で攻めてくる  平井美智子


八重は意志が強く、自分の思いに忠実に行動できる女性。
実際に会った新垣さん本人と重なる部分が多々あり、
「新たな八重像が広がった」
と、新垣への愛情度が膨らむ。 こんなことも
「僕は当て書きの脚本家。俳優さんありきで、その人にどんな役を演じ
 てもらったら面白いか、どんなセリフを喋ってもらったら楽しいか。
 そこから物語を作っていく…」

【NHK関係者の言】
「三谷さんはもちろん八重が身投げしたという伝承はご存じでした。
 とはいえ、八重が江間次郎という男性に嫁いだという別な説もあり、
 江間の領地が伊豆の北条館の目と鼻の先だったことから、
 義時と結婚するという今回のシナリオが誕生した」と、言っている。
 
 
あと少し明るい空を貼り付ける  稲垣康江


【恋は盲目】
幸喜氏は、頼朝と義時と結ばれる新垣さんを
「2人の英雄と結婚する美女・クレオパトラ」
と、評し、撮影後も
「自分が思い描いていた以上の八重さんでした」
と、ベタ褒めしている。 さらに
「新垣さんは稀有な女優さんだと思う。
…中略…
 ほんの小さな眉の動き、固く結んだ唇が少しだけ緩む瞬間。
 そういった細かい表情で、気持ちを表現する。
 これってとんでもなく難易度が高いこと…」
と、興奮気味に語り、さらに一呼吸おいて、
「きっと信じられないほど台本を読み込み、役を自分に落とし込んで
 いるのだろう」
と、褒めるをちぎりまくっている…幸喜氏である。


美しいものに出会うと出る涙  河村啓子


幸喜氏の熱烈なラブコールに新垣さんは
<難役にプレッシャーを感じていました>
といい
<全部、報われました>
と、はにかみの笑顔を覗かせていたらしい。
幸喜氏には、このはにかみ顔さえも、夢の中にも出てくるのだろう。


眩しいと言われ照れてる影法師  下林正夫



  教導立志基廿五 北条泰時 小林清親

危険を冒して弟を救った泰時「大事の前の小事」と批判した者に
対し、泰時は、「弟を救うことは、自分にとって小事ではない」
と、答え、周囲のものを感服させた。


「義時の長子・三代執権・北条泰時とは」


泰時は、優れた人格で、武家だけでなく公家からも人望が厚かった。
その治世は善政だったとされ、泰時の制定した「御成敗式目」は、
室町時代・戦国時代・江戸時代と長く武士の法律の手本とされ、
多大な影響を与えた。
父・義時や伯母・政子と同じように、北条のためには、容赦のない面
もあったが、訴訟で負けた武士に親身になったり、
弱者救済に尽力したりと、人情ある清廉な人物だった。


いい人の明るい刺を持てあます  丸山進


【御成敗式目】
泰時は、武家最初の法典である『御成敗式目』を制定した。
貴族の法律である律令は難しい言葉で書かれている。
武士の中には、漢字が読めない無学な者もいた。
まして法律なんか尚更、読めない。
「もっと簡単な言葉で書かなきゃダメだよ」
「法律を分かりやすくしないと、誰も守らないよ」
と、公平な裁判を行うための基準とした。
御成敗式目は、恩領の売買を禁じたほかは、御家人がその所領を自由に
処分するのを認めていたが、仁治元年からは、恩領については、
質入までも禁止し、私領についても、御家人以外への売買を禁じた。


人の世に明りが灯る人の手で  前田楓花


【政治】
義時・政子時代の独裁政治を廃し、合議政治への転換を図った。
【交通網の整備】
 鎌倉の交通網を整備した。和賀江島という港を材木座の海に築き、
流通をよくした。
 鎌倉北東の朝夷奈口を整備し、武蔵の六浦と鎌倉を結んだ。
【鎌倉の僧徒に対して】
僧兵のように、顔を包んで市内を横行することを禁じ、
念仏者が魚鳥を食い、女人を招き寄せ、党類を結び、酒宴を好む、
ことを禁じた。
【順徳上皇の皇子と土御門上皇の皇子の皇嗣問題に干渉】
承久の乱の際、順徳上皇が討幕に積極的であったことを嫌った泰時は、
皇位問題に干渉して、土御門皇子(後嵯峨天皇)を推戴した。
この処断は、順徳の外戚であった九条家と幕府との亀裂を深めた。


にんげんを外してならぬ滑走路  井上恵津子



     『英雄百首』の泰時 歌川貞秀


【総合的・北条泰時の評価】
泰時の政治は、世の賞讃を以て迎えられ、堯・舜の再来とまでいわれた。
反面、摂政・近衛兼経は、泰時を「極重悪人」と評しており、
まったく悪評がなかったわけではない。
しかし、後世でも、北畠親房から頼山陽に至るまでが泰時を讃え、
「武家が皇室から政権を奪った」
ことを非難する中で、泰時だけを例外と見ている。
※ 堯・舜=中国古代で徳をもって天下を治めた聖天子・堯と舜。
  即ち、賢明な天子の称で「明君」ということ。


クレヨンで描くと人はみな笑う  真鍋心平太

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