目を閉じて見えてくるのは過去ばかり 笠原道子
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左・馬琴の下絵・右・絵師重信の挿絵 (国立国会図書館蔵)
江戸の小説は、読本でも合巻でも、挿絵の絵組みは著作者が指定した。
普通、著作者は原稿とともに、挿絵の下絵を描いて絵師にわたす。
絵師は著作者の指定に基づいて、絵を描く。
絵師が口を挟むことはほとんどない。
著作者が指定するのは挿絵だけでなく、口絵・表紙・見返しなど
一切のデザインは、著作者の指揮下にあり、想像過程の腹案もあって、
造本の監修まで著作者がした。
「馬琴」-④ 晩年
頭陀二たび著作堂に来訪す(国貞画)
掛軸に「写し見する鏡に親のなつかしき我が影ながらかたみとおもへば」
額には「仁者は寿(いのちなが)し」 の揮毫がある。
山東京伝の薦めで勤めていた蔦屋の手代を辞め、馬琴が下駄屋の養子と
して入った飯田町坂下の住居は敷地10坪にも足らぬ二階家で、40余
りの蔵書を積んでおいたため、土台がめりこみ、柱が傾き、障子の立て
付けが合わず、大風が吹けば家がぐらぐら揺れ動くほどだった。それで
もその二階には、「著作堂」と名付けた馬琴の書斎兼執筆部屋があり、
多分楽しかっただろう彼が世に出る前の青春時代がつまっている。京伝
や北斎、大田南畝らを招き、芸術論を交わし、口論もした。だが、馬琴
が人気作家になるにつれ、放漫な彼の性格に嫌気がさして、多くの仲間
が絶交というかたちで離れていったのも、この家の延長線上にある。
神様の吐息でしょうか星が降る 合田瑠美子
馬琴がお百と結婚した翌年の寛政6年(1794)長女・幸が生れ、2
年後に二女・祐が生まれ、その翌年には、長男・鎮五郎(のち宗伯)が
生れ、三女の鍬が2年後に生まれた。子供たちは無事成長した。文化8
年春、長女・幸に養子をとって、飯田町の家を譲ろうと考えた。しかし
馬琴の眼鏡にかなわず秋にはそれを取り止めた。翌年春にも縁組したが、
夏にこれも取りやめ、立花家へ奥奉公入った。近所では「あの気難しい
親爺がいたんじゃ婿にくる男はいないよ」ととりざたされた。
そして幸が31歳になったとき、奥奉公から戻っており、ようやく伊勢
の出身で、呉服屋の手代をしていた吉田新六というものを婿に迎えるこ
とができた。馬琴は自分が継ぐことを避けた伊勢屋清右衛門という名跡
と飯田町の家を譲り渡して、自分は神田明神下石坂下の家に移った。つ
まり幸の誕生一年前から結婚までの32年間、飯田町にいたことになる。
馬琴59歳であった。
居心地がよくて胸びれうしろ肢 山本早苗
現在、中坂下(千代田区九段)の滝沢馬琴邸跡には馬琴ゆかりの井戸が残り、
この井戸で馬琴が硯に水を汲み筆を洗っていたことから「硯の井戸」と
呼ばれ都旧跡に指定されている。
神田明神下の家は、馬琴51歳の秋、長男・鎮五郎が宗伯と改め、兄の
興旨を継ぎ滝沢嫡家が住む家として買い求めたものである。二女の祐は、
山崎屋平太郎に嫁いたが離縁。まもなく四谷麹町の伊勢屋喜兵衛と再婚
しており、宗伯に妻のお百と三女の鍬が同居していた。
今度の家は敷地50坪、建坪16坪で前の飯田町の家よりはましだった。
その後、隣の家を買い取って80坪の敷地となり、家も改築して庭や池
をこしらえ、上野の市に出かけて苗木を買って植えこんだりした。ただ
し今は、町人の身分になっていた馬琴が、江戸の土地を買うことは許さ
れなかった。馬琴が買ったのは借地権であって、権利を所有する旗本か
ら屋敷の一部を借りて使用するだけだった。この地主の継母が小うるさ
く、地主風を吹かせて馬琴を悩ませ続けた。馬琴も一時転居を考えて、
別の場所を探したけれど、おもわしい処もなく天保7年(馬琴69歳)
に四谷信濃坂に移転するまで、腹を立てながら暮らすことになる。
黄色い雨の降る朝の時間割 井上一筒
ただし神田明神下という場所は、当時の馬琴の活動にとって極めて都合
がよかった。というのは、この頃、馬琴は一介の戯作者でなく和漢天竺
古今東西のことに通暁した学者の一人とみられ始めており、神田明神界
隈には、すぐそばに国学者・屋代弘賢(やしろひろかた)の屋敷があり、
湯島には考証学者・狩谷棭斎(かりやえきさい)の家もあったからであ
る。いずれも古今東西にわたっての物知りである。特に屋代弘賢は、随
筆家・山崎美成ら同士とともに、「耽奇会」という集まりをもって珍し
い古書画や古い道具を持ち寄って見せ合う一方、毎月一回、「兎園会」
を催して、めいめい世間の珍事異聞を報告し合うことを常とした。
馬琴にとってこういう集まりは、小説と知識の種を仕入れるのに絶好の
場所だったのである。
靴紐を結びなおして生きて行く 吉崎柳歩
もっともこの「耽奇会」も「兎園会」も、やっぱりというか、どちらも
劣らず我の強い馬琴と山崎美成との激しい口論のため、解散してしまう。
この二つの物好きの集まりが潰れてから、馬琴はほとんど外出せず、も
っぱら室内で戯作三昧の生活を続けることになった。たまに外出しても、
寺参り、お宮参り、縁日の植木を冷やかすくらいで、個人の家を訪ねた
ことは滅多にない。馬琴の日記によれば彼の外出回数は、1年間に20
回そこそこ。銭湯は江戸っ子の唯一の気分転換の場所であるが、馬琴は
半年に一回づつ、年に二回ほどしか行っていない。また当時、一介の戯
作者に家風呂をもつことは許されなかったから、入浴するには銭湯に出
かけなければならない。それが嫌いだったから入浴しなかったのだろう。
夏の暑い盛りには行水をしたが、それも一夏を通して3、4回にすぎな
かった。そのように外出をしないから、耽奇会・兎園会が消滅してから
馬琴の交際範囲は一段とせまくなった。
その向うはジンベイザメの領分 山口ろっぱ
だがすぐ近くに住む耽奇会仲間の屋代弘賢とは、ずっと昵懇にしており、
馬琴が重病にかかった時は、弘賢は勤めの往復に立ち寄って病状を尋ね、
何度も見舞いの品を贈り、なじみの針灸師をやって、治療させている。
つね日頃も、古書珍籍を貸したり借りたり、古事や文字に不審があれば
互いに尋ねあったりして、弘賢との交際は、耽奇会解散を十二分に補っ
て余りがあった。にも拘わらず、馬琴のほうから弘賢の屋敷を訪れるこ
とはあまりなく、本を借りたり貸したりするのには、息子の宗伯や下女
を遣わすことが多かった。そんなことで訪れてくるのは、親戚や出版関
係の本屋・絵師・版木師などのほかには、まず知名の士はやってこない。
むろん、戯作者の第一人者だから、その名声を慕って面会を求める者が
少なくなかったけれど、すべて居留守を使って玄関から追い返されるの
が常だった。
首までにしとく情けに沈むのは 清水すみれ
製本作業中
このころ馬琴がもっとも充実していた時期であり、著作、挿絵の下書き、
校正、版木の選定と交渉、抄録・写本の校閲、その間に読書をいれると、
無用の客に応接していヒマも、銭湯に出かけてのんびり鼻歌を歌ってい
る余裕などなかったのかもしれない。
その忙しさは、人気作家である馬琴は、それぞれ異なる出版屋の求めに
応じて、八種の長編を同時に出版していた。1年に8種類の続きものは、
江戸時代のテンポは、きわめてのろかったことを考えれば、先に書いた
ように著作から校正まで1人で担当しなければならなかったのだから、
原稿用紙に書き捨てれば、あとは全て編集者がやってくれる現代の流行
作家の何倍もの苦労があった。
丹田に闘志燃やしている寡黙 上嶋幸雀
天保2年、馬琴65歳、その多忙ぶりは6種の長編の続きものと一冊の
随筆集を出版したが「著述、下絵書きに従事した日が201日、著書の
校正した日が51日」で、そのほかの日も読書・抄録写本の校閲など、
著述の準備にいそしんでいるほかに、筆まめだった馬琴は、耽奇会に出
品された珍しい品々を絵に写し、兎園会で語られる珍聞奇談をかき取っ
たり、自分の一族の身の上話や、いままで取り上げられたことのない江
戸戯作者たちの評伝なども、根気よく資料を蒐集・調査して、書き留め
たものを手写しするという作業までしていた。
頑な私にまぶす塩麹 松本柾子
当時の暮らしにおける物の値段
さて休む間もなく働いて馬琴の収入はどれくらいだったのか。
馬琴は、一年に平均二挺ずつ古梅園の墨を使うというほどの精力家で、
51歳から70歳まで、20年間の著作数を見てみると、読本類が24,
5篇、合巻類が60篇近くあり、ほかに随筆、雑著が20種ほどある。
とにかく1年に4,5篇の著述を書いて100両から140両の収入を
得ていたように推測される。
ほかに宗伯の勤め先からの扶持米、売薬、上家賃などを加えると、まず
中流生活者として相当のものであった。それに質素倹約を第一とする馬
琴だから、そう生活に窮迫するはずもなく、余裕はありそうに見え、相
当の資産を残したように思える。だが事実は、いつも貯蓄というほどの
ものがなかった。同業者仲間と比較しても、かなり裕福なはずの馬琴が、
どうして生活に窮乏していたのだろうか。
ボリュームを下げて本音を語りだす 靍田寿子
馬琴が絶頂期の天保3年9月の篠斎への手紙には「貯えも貨殖もせず、
その日暮らし同様に過ごしている」と書いている。『南総里見八犬伝』
の回外剰筆(かいがいじょうひつ)に和漢必要の書籍を買うには、原稿
料では、不足していた。いつも倹約していたと書いている。
ほかに馬琴が不時の金の必要に迫られたのは、宗伯を滝沢本家を継がせ、
医師開業させるために家屋を求めた時、宗伯・お百が大病を患った時、
文政10年の馬琴が霍乱に罹った時、天保7年四谷に組屋敷を買って孫
に御家人の株を買い与えた時、その翌年、その古家に修繕を加えた時、
これらが重なり続き、馬琴は気の毒なほど打ち萎れ、金策に心を労して
いる、と日記に認めている。その金策のために馬琴は、どんな嫌なこと
でもあえてやらざるを得なかった。
むつかしく考えないで水を飲む 谷口 義
「江戸高名会亭尽 両国柳橋 河内屋」(歌川広重画)
料亭では富裕町人や文人画人をも交えた雅宴や書画会がよく開かれ、
社交クラブの役割も果たしていた。
天保7年(1836)馬琴の古希に『南総里見八犬伝』の板本の文溪堂
丁子屋平兵衛が「書画会」を興行するよう勧めた。『新編金瓶梅』の板
本の甘泉堂泉屋市兵衛も勧めた。書画会とは今でいう「経済交流会」の
ようなもので、馬琴は気がすすまなかった。しかし前の年に宗伯を失い、
孫の太郎に滝沢嫡家を継がせるため大金を必要としていた。結局は両国
「柳橋の万八楼」で興行することにした。化政天保明治時代には書画会
は大流行した。一流料亭でできるだけ多数の客を寄せ集めて、自作の書
や絵を配り、あるいは席上で依頼に応じて筆をとるのだが、これに対し
て参会者は、花代を用意してゆく、酒肴はもとより、芸妓入りのどんち
ゃん騒ぎも珍しくなかった。しかも会を成功させるためには、半年も前
から高名な文人墨客の宅を回って、出席を依頼する必要があった。
どれもこれも馬琴には、やりきれぬことばかりであった。歩行不自由な
馬琴は駕籠に乗って廻った。夏の暑さの中大変な思いをした。
だが今回ばかりは利のための俗事、何事も渡世の一助と思って努めた。
言わんでもその顔見たら分かります 北原照子
御料理献立競
行司審判として萬八の名も見える。
書画会は大盛会であった。儒者・書家・戯作者・画工・筆工・狂歌師・
紙問屋・江戸市中の本屋・出版元等が来会した。渡辺崋山・屋代博賢・
柳亭種彦・為永春水・歌川国貞などが来た。
万八楼の中座敷40畳、左右各24畳、別席12畳など約110数畳
にぎっちりつまって、入れぬ客は縁側から下座敷にまであふれた。八
犬伝の人気作家を一目見ようと、物好きもいた。来客は800人余り、
世話人や馬琴の身寄りのものを加えると、1千人にも達した。当日、
膳札・さかな札1284人前、酒は三樽ではたらず、さらに半樽を買
い足した。早朝から日暮れて会を閉じるまで、正座して謝辞を述べ、
頼まれるままに扇子に一行認めていたのは、馬琴にとって一生に一度
の辛抱だった。
機械です歪な丸が描けません 郷田みや
[3回]