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川柳的逍遥 人の世の一家言
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迂回路閉鎖 人生なんてこんなもの  雨森茂樹




       「麒麟がくる」ザ・ラスト



「迂闊を招いた愛宕百韻」
豊臣秀吉「中国大返し」と称される尋常ならざるスピードで備中高松
城から上洛し、同年6月13日の「山崎の戦い」明智光秀を討った。
所要日数10日。距離200㌔。重装備の大軍団。この悪条件の中、
光秀のいる現場へ戻るのには、どのように計算をしても、秀吉が事前に
光秀の計画を知っていないと不可能である。すなわち「愛宕百韻の連歌
の会」の内容が秀吉の耳に入ったのではないか、参加した紹巴、昌叱、
兼如、心前、仰佑、宿源、行澄らさえも光秀の句意から、信長打倒の執
念を察知したのである。狡猾で知栄者の秀吉である。本能寺から6日前
に行われた連歌会の歌内容が耳に入っていたとしたら…、
「中国大返し」脱兎の勢いの説明がつく。



愚かさを自分探しの旅で知る  ふじのひろし




   山城小栗栖月(月岡芳年画)



「麒麟がくる」 山崎の戦



本能寺の変の三日後の天正10年6月5日、光秀は安土城に入城した。
そして各地に古い領主を呼び戻し、室町幕府体制を復活させようと動き、
9日には、光秀は、朝廷や洛中の主要寺院へ銀子を贈り、自身の行動へ
の理解を求めた。まもなく朝廷は、光秀の行動を認めた。
しかし、事前に光秀から全く相談がなかったとして、娘婿(お玉)細川
忠興、その父・藤孝は関りを嫌い、髻(もとどり)を切って主君・信長
への弔意を表した。やむなく、光秀は細川邸へ「天下を嫡子・明智十五
郎と忠興とに譲る」という書状を送り参陣を促すが、父子は変心しなか
った。一方。「都の公家たちは、たびたび宴を開き、大酒を飲み、信長
の死を祝うかのような行動をとっていた」『勧修寺晴豊の日記』があ
かしている。



社会的距離であなたが遠くなる  村山浩吉



一方、信長に追放されていた室町将軍・足利義昭、「本能寺の変」
知るや、各地の大名に書状(御内書)を送っている。
6月13日付けの乃美宗勝(小早川家臣)宛の御内書では「信長を討ち
果たしたうえは、急いで京の都へ上るための援助をせよ」と記し、あた
かも自ら信長を討ったかのような態度で、上洛援助を要請している。
朝廷・公家・将軍ら信長に反対していた勢力のいずれもが、光秀の行動
を支持していて、光秀が構想する「古い時代の秩序と伝統の復活」は、
成し遂げられたかのように見えた。



深鍋で男料理がぐらり煮え  柴本ばっは
 
 


 小泉川を挟み左・天王山下に秀吉本陣、右・勝竜寺城下に光秀本陣。



「解説」
 
 

 
しかし、光秀が予想だにしなかったことが起こった。
中国地方で毛利氏と戦い、当分は釘付けになっているはずの羽柴秀吉
「軍勢を引き連れて京の都に迫ろうとしている」という知らせが入った
のである。その動きを察知した光秀は、山崎・八幡・洞ヶ峠に軍勢を派
遣した。さらに、11日には、淀川船運の要港である淀の城を修築した。
目的は、秀吉軍による山城盆地への侵入を食い止めること、首都防衛を
強く意識していたからである。ただ光秀の重臣・斉藤利三は秀吉方との
兵力差を鑑み、光秀に「籠城を勧めた。(『新撰豊臣実録』)



同時通訳ロシア語のべらんめい  井上一筒



しかし、光秀は、これを却下し首都防衛に執着した。
公家や権門の支持を受けたことを強く見ていたのである。合戦前々日の
11日にも、光秀は、筒井順慶に来援を打診したが、同意は得られなか
った。その前に順慶は、秀吉に誓詞を遣わし「光秀に抵抗する」意思を
明確にしていたのである。



私も地球も水でできている  井丸昌紀



12日、秀吉方は、兵庫の池田恒興、茨木の中川清秀、高槻の高山右近
と合流し、西国街道のみに軍勢を集約させて進軍した。
翌13日の昼には、大坂から参着した織田信孝と会った。涙を流した信
孝を見て秀吉も「ほへた」と本人が記している。(『金井文書』)
秀吉方は、信孝、丹羽長秀と糾合し総勢4万人に達した。(『太閤記』)



錆びついた非常階段に置く明日  木口雅裕
 
 
 「解説2」
 


 一方、軍勢を分散させていた光秀方は、作戦の計画を改めざるをえなく
なった。12日には山崎、八幡の兵を後退させた。軍事拠点としていた
西国街道沿いの勝龍寺域周辺に軍勢を集め、迎撃態勢を整えた。
この同日、勝龍寺域の西で光秀、秀吉両軍の前衛部隊が衝突した。
すなわち「日向守敵歟(かたきか)」とする軍勢が大山崎から出勢した
ため、勝竜寺城の西で足軽達が出合い、鉄砲戦と放火がなされ、小さく
も戦いが始まったのである。(『兼見卿記』)



小栗栖を通る時分に丹波色  江戸川柳
 

「解説3」



この合戦前夜、光秀は部下の松田太郎左衛門に「汝は山崎の案内を能智」
っているとして、大山崎の背後にある天王山占拠を指令した、という。
これに対し、秀吉も部下の堀尾吉晴に天王山占拠を命じた。両者は競合
したが、結果として吉晴が先んじて、占拠した。「これによって秀吉軍
は安心して戦うことができた」という。(『太閤記』)
さらに『太閤記』には他に、先陣高山右近が大山崎に入った後、その西
黒門を閉めて、後続部隊を入れなかったとも記す。
これは「右近の手柄独り占め」という武勇談の一つになっている。



この辺でご破算空が青いうち  津田照子



(拡大してご覧ください)
 「山崎合戦図屏風」
左隻ー秀吉を中心に描かれている。
西国街道沿いの高山右近隊、「南の手」(淀川沿い)の
池田恒興隊、山の手沿い(天王山麓)羽柴秀長隊が三手
から進軍している。左下赤丸が西黒門(大坂城天守閣蔵)




というのも、この右近の武勇談で後続の池田恒興は門内に入れず、仕方
なく大山崎の「惣構」の外の脇を通って、淀川沿いを進軍せざるを得な
かった、という。この門は「街道の門」とも記され、江戸時代後期の
「山崎合戦図屏風」にも描かれている。
一方、フロイス『日本史』では、右近が大山崎に入ると「村の門」
閉めて光秀に対峙したとある。ここでは、右近は、なかなか来着しない
後続部隊を待ち続け、出来る限り門を開けなかったという。
『太閤記』『日本史』が、ともに大山崎の黒門の開閉を記している点
が面白い。後の秀吉書状では、「軍勢を高山右近らの西国街道沿いと、
池田恒興らの「南の手」、羽柴秀吉らの「山の手」に分けて進軍した」
と記しており、基本的には矛盾しない。



ちぎれ雲に魔法かけてはいけません  郷田みや



(拡大してご覧ください)
 「山崎合戦図屏風」
右隻ー明智方を中心に描かれている。
南東から見た構図で手前に流れているのが淀川


光秀軍は「先手」松田太郎左衛門、丹波衆の並河掃部、山城衆の伊勢
氏らで構成され、総勢1万5~6千で秀吉方は、4万人越え。両軍は小
泉川沿いで激突した、と推定される。
戦いは申刻(午後4時)頃に「鉄放(鉄砲)之音数刻止まず」という、
状態であり、本格的な主戦は夕刻からであった。
13日早朝光秀は、前線の御坊塚(おんぼうつか)まで本陣を移し、味
方を鼓舞しようと努めたが衆寡敵せず、申の刻(午後4時)、兵力に勝
る秀吉方が、なんなく押し切った。光秀は御坊塚を放棄して、勝竜寺城
へ入り、籠城するが、その日の深夜には逃亡し、坂本城を目指した。
しかし、山科で百姓らに殺害された。



藪からは棒よりひどい槍が出る  古川柳




      「明智藪の碑」
光秀は坂本城へ敗走中に小栗栖(京都伏見)で
農民の落武者狩りにあって落命したとされる。



光秀の首は、本能寺に晒され、同月24日に京都粟田口に首塚が築かれ
たが(『兼見卿記』)光秀の墓は複数ある。
一つ目は真言宗寺院・谷性寺(亀岡氏)である。光秀の家臣・溝尾庄兵
衛が光秀の首を隠しておき、のちに谷性寺に懇ろに葬ったという。そこ
に建立されたのが、「光秀公首塚」という供養塔である。
二つ目は天台宗寺院・西教寺(大津市)である。同寺は、光秀が近江を
支配した際、総門や庫裏を寄進した関係から、光秀だけではなく、妻・
煕子や明智一族の供養塔が建立された。光秀の墓は高野山にもある。
「いずれが本物なのか」と問われれば答えに窮するが、それぞれの所縁
の地で、光秀を慕う人々が菩提を弔いたいと願い、供養塔を建立したと
いうものであろう。



四日目は早い因果の巡りよう  江戸川柳



「光秀伝説」
明智光秀は本能寺の変から11日後の天正10年6月13日に落首した
ことは事実である。ところが、実は光秀は殺されることなく生き延び、
何と南光坊天海になったというのである。
天海は、徳川家康の側近として活躍した天台宗の僧侶である。天海の生
年は、天文5年(1536)で亡くなったのは寛永20年(1643)
と百歳を超える長命であった。ちなみにおこでは享禄3年(1538)
としており、少しの差はあるが、時代的なことで、さほど取り立てるほ
どのものではない。



清水の舞台棚引く弥陀の雲  みぎわはな
 
 


日光東照宮の随身像に使われている明智家の家紋の桔梗



さて何故光秀=天海説が唱えられたのだろうか。
江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠「秀」字は光秀の「秀」を採用したと
いう。また三代将軍・家光「光」も同じように語られるが、いずれに
しろ単なるこじつけに過ぎず、光秀=天海が関与したものではない。
次に日光東照宮陽明門の随身像の袴などには、明智家の家紋・桔梗が
用いられているという、が、これは織田家の家紋、木瓜紋であり、
やはり光秀=天海は関係がないようだ。
 天台宗の比叡山・松禅寺に「慶長二十年二月一七日 奉寄進願主光秀」
と刻まれた石灯篭があることから、この「光秀」「明智光秀」であり、
天台宗の僧侶・天海が関わっていたのではないかという説がある。
しかし、光秀はありふれた名前であり、必ずしも明智光秀と同一人物で
あるとはいえない。
「ついでに」
徳川三代に仕えた春日の局は、光秀の重臣・斎藤利三の娘。
その春日局が、ある日、天海と会った時に「お久しぶりで
ございます」と挨拶したということが文献に残っている。
 
 
 
馬の背の透けて遥かな旅終る  笠嶋恵美子

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