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川柳的逍遥 人の世の一家言
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たばこはくらげくらげはたこにあこがれる 藤本秋声
  
  
  
     
  豊国似顔絵(国貞)         武者絵(国芳)             景色絵(広重)

国貞は師・豊国のにがおえを、国芳は馬琴の挿絵で武者絵を広重は景色
絵で葛飾北斎の向こうをはった。
江戸寿那古細撰記』には、

「国貞にがおえ国芳むしゃ広重けしき」と、当時の名人を並記している。

 
 
文政13年(1830)、日本全国から500万人もの人が「伊勢参り」に出
かけたという報告がある。困難はあったであろうが、江戸時代の人々は、
予想外に自由にしかも安全に旅をすることが出来たのであった。
参勤交
代の制度は、早くから街道や宿場の整備を促し、18世紀になる
と、ど
のような山奥でも道が通じ、いかなる小島でも舟の便があり、あ
らゆる
階層の人々が頻繁に旅をするようになっていた。



地球という花器に明日を活けてみる  船木しげ子



さまざまな理由による旅があったが、庶民の旅といえば「金毘羅参り、
勢参り、富士登山」などの信仰の旅が中心であった。
しかし、その目的は
純粋な信仰であれ「弥次喜多道中」に典型的にみら
れるように、途中の
移動の間も実は大きな楽しみがあった。各地の名物
に舌鼓をうち、名所
旧跡は必ず訪れながら、のんびりと旅程をこなすの
である。旅行案内が
出版され、北斎や広重の「街道絵や風景画」が人気
を博すというのも、
当然のことなのである。



     東海道五拾三次之内  (日本橋 朝之景 広重)
西へ行くのも、東へ行くのも、ここからはじまる。




月と歩くあなたも休めないんだね  市井美春



「歌川広重」



歌川広重は、幕府の定火消同心安藤家に生まれた。つまり武士である。
本名は重右衛門。早くに父母を亡くした広重は、15歳のとき、浮世絵
師を目指して、歌川豊広の門に入った。翌年16歳で、師匠の画号の一
字である「広」と、本名の「重」の字をとって「広重」の画号を師から
命名されている。将来を嘱望されてのことである。しかし、21歳を過
ぎた頃から役者絵・美人画や合巻の挿絵などにかなりの数の作品を残し
ているが、特にヒット作もみられず、浮世絵師としては、ごく常識的な
活動範囲にとどまっていた。



ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて 太田のりこ



その広重が風景画家としての力量を発揮するのは、35歳(天保2年)
の頃に出された「東都名所」という風景版画においてである。事実上、
これが広重の風景絵師としての出発点となるが、広重は北斎を私淑して
いるところもあり、図柄の点で北斎の「富士三十六景」との影響関係が
かれた。
しかし続いて天保4年頃に保永堂から出された「東海道五十
三次之内」
では、北斎色は払拭され、広重独自の抒情的な風景画の世界
が展開して
いる。これが大成功をおさめると、広重は、押しも押されもし
ない風景
版画の第一人者として、浮世絵界の最前線に躍り出たのであった。




花は無臭にピエロは愛を待つのです 山口ろっぱ



東海道五十三次 亀山
別名・雪晴。
雪の降った翌朝、空気は冷たく限りなく透明であり、
大気は輝いている。
右上がりの斜線を基調とする手法をとった。




北斎(1760-1849)と広重(1797-1858)は、風景画家として一括りにされる
ことがよくある。美術愛好家の間では「北斎の力強い絵画世界と、抒情
的な広重の世界」のどちらを評価するかという議論がしばしばあるが、
容的には、はっきりと異なっているのである。
広重の場合に注目すべき
点は、季節、天候、時間といった自然の属性
さまざまに変化させて、各
宿場に配する、その仕方の巧妙さにある。



縦のものむりやり横にして遊ぶ 下谷憲子



東海道五十三次・庄野 白雨



例えば、天候である。
雨雪霧、そして晴天。それに時刻の別や昼夜の別
が重ねられる。
雨にしても、さまざまなシチュエーションの雨が用意さ
れている。
その他、月、風など自然のさまざまな要素を要所要所に取り
込み、
55枚という大部な揃物を変化に富んだものとしているのである。




富嶽三十六景  常州牛堀



広重の風景画作品は、彼が幕府の一行に従って東海道を旅行、京に上っ
た経験を生かして作画にあたったもの、といわれることがある。しかし、
秋から冬にかけての、この旅行の季節に符合しない、情景があったり、
ほと
んど雪の降らない静岡の蒲原を雪の景にしたり、別の出版物から図
柄を
借用していることも事実である。
これは北斎もおなじこと、名所でもなく、北斎が訪れた記録がない場所 
「常州牛堀」のように。作品のすべてについて、彼が実際の風景を見て
描いたわけではない。



パレットの真っ赤な嘘が溶けにくい 木村良一



富嶽三十六景 甲州石斑沢 
  
  
  
  「広重と北斎」 
自尊心の高い、そのくせ貧乏な孤高の年老いた絵師・葛飾北斎が37歳
も年下の歌川広重にメラメラと対抗意識を燃やす、といった面白い小説
がある。藤沢周平「溟い海」である。ざっとさわりを紹介しよう。


「シーン1」
「東都名所(一幽斎書き東都名所)」を出し、広重が売れっ子の出発点
となったのは、天保2年のことである。
その2年前、北斎は、広重のその「東都名所」という作品を見ていて
「非常に平凡で自分の座を脅かす存在になることはないだろう」と想っ
ていたことを思い出していた。そして、あの「東都名所」という凡庸な
絵を描いた広重が、町のチンピラにでさえ名前を知られるほどの評判に
なっているのは「何故だろう、東都名所から天保4年に出した『東海道
五十三次』はどう変わったのか」広重が少し気になり始めるのだった。



浮き雲の裏でゲリラを産みおとす  堀口雅乃



天保5年 。この時、北斎は73歳のとき、37歳も年下の広重を、多少
ながらも、意識したものか「画狂老人」「卍」の号を用いはじめ、次の
ような言葉を吐いている。
「私は6歳のころ物の形状を写し取る癖があり、50歳ころから数々の
図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足ら
ぬものばかりである。(そのような私であるが)73歳になってさまざ
まな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた」
 『己六才より物の形状を写の癖ありて半百の此より数々画図を顕す
といえども七十年前画く所は実に取るに足ものなし七十三才にして、稍 
禽獣虫魚の骨格 草木の出生を悟し得たり』



リンゴ落ちてから転がる道さがす 石橋能里子



北斎が版元・崇山房の主人小林新兵衛を訪ねた時、そこでも広重の「東
海道五十三次」の話が出た。
北斎は「どんな絵かいね」と尋ねた。
「風景に違いないのだが、先生のおっしゃる風景と、多分、少し違うと
思います」と言う。その言葉の中に、顔には出さないが、自分に対する
軽い嘲りが含まれているように感じたのだった。



ジョーカーのように扱われている黒  下谷憲子



広重が気になる北斎は、その足で版元・永寿堂を尋ねた。やはりそこで
も広重の話題につきた。やがてあって帰宅してみると、弟子たちが集ま
っており、広重の「東海道五十三次」のことでもちきりではないか。
そこで北斎は会話の中にあって、皆の意見を尋いてみた。
一人は
「平凡だ」と言い、一人は「先生の富獄のような、前人未踏とい
った感じののものは、一枚もない」と言う。
だが、一人の弟子は「平凡と言えば平凡です。先生の風景とは、また違

った、別の風景画を見たような気がした」と言う。
永寿堂の主人と同じ感想を述べたのだ。只、この時点で、北斎だけが、
広重の「東海道五十三次」を見ていなかった。



そういうことらしいがそれがどうしたの  安土理恵



崇山房から北斎、「貸していた東海道の絵が戻ってきた」と、連絡が
入り、早速出かけると、そこに崇山房の主の前に先客が来ていた。
主から紹介をされた男は、「歌川広重」と名乗った。
初対面同士である。
37歳も年下の広重は、少し躰を後ろに下げ、丁重に挨拶した。
その挨拶を受けた時、北斎は右の耳の下に、普通見かけないほど大きな
黒子を見つけてしまった。北斎はその時、彼の柔らかい物腰とは逆に、
放漫さを垣間見た気がしたのだった。



入道雲の真下にいると自覚する  山口美代子



それから崇山房の主人は
「これが広重さんの東海道の絵ですといって
北斎の前に絵を置いた。
北斎が見てみたいと思った絵である。
北斎は、一枚一枚を見た、どれもごく平明な絵。
さらりと描き上げられている。
『東都名所』と『東海道五十三次』を峻別するものはどこにあるだろう、
この平凡な絵の中に広重は、何かを隠していないかと探した。
やはり何もないと手を休めたとき、突然、鱗が落ちた。
霧が晴れたように東海道の平凡さの全貌が、浮かび上がってきたのだ。



座ったら針のムシロに変わる椅子  ふじのひろし



東海道五十三次 蒲原



広重の絵は、風景を切り取ったものだが、それは北斎も同じ。
北斎「三十六景」は、風景を画材として切りとったのに対して、広重
は無数にある風景の中から、人間の哀歓が息づく風景、人生の一部を切
り取り、それを描いている、ではないか。
北斎は恐ろしいものを見るように、広重の「東海道」のうち「蒲原」
いう絵を見続けた。



収まりは付かず抜き身のままである  石橋芳山  



一面静寂の中にシンシンと雪が降り続いていて、北斎はその雪の音を聞
いたような気がした。その秘かな音に重なって、巨匠と言われていた自
分の姿が地鳴りのように崩れていくのを感じ、思わず目をつむった。
北斎は丁度、黒々と身構える一羽の海鵜の背景を描いていて、初めは蒼
黒くうねる海を描いたが、やがてそれらの線を塗りつぶし、漠とした暗
いもの、深く「溟い海」のようなものを、黙然と書け続けるのである。



メビウスの輪に円周率をかいている  木村宥子



  名所江戸景 駒形堂吾嬬橋



「広重の進化」
広重は、天保期(1830-44)の前期に「東都名所(東海道五十三次)」のシ
リーズで、名所絵師としての地位を不動のものとし、その後も、多くの
名所絵を刊行したが、そのほとんどは「横長の大判」であった。その広
重が竪大判の名所シリーズに挑んだのが、嘉永6年(1853)から刊行を開
始した「六十余州名所図会」である。
「六十余州名所図会」は安政3年の春に69枚で完結するが、その後も
受ける形で安政3年(1856)2月に刊行を開始したのが「名所江戸百景」
である。



夕暮れは明日のために忙しい  柴本ばっは
 
 

大きな梅の枝ごしに梅園とそこに集う人々
 
 
  「名所江戸百景」もはじめは「六十余州」と同様の鳥瞰図的構図で、
図柄も天保5年(1834)刊の『江戸名所図会』に依拠したものが多かっ
たが、安政3年7,8月ごろから近景を拡大した「誇張描法」即ち、
「近景の一部を極端に拡大誇張して前景とし、その近景ごしに遠景の
風物を眺める構図」が多くなる。この近景拡大構図と鳥瞰図ながら空
間の広闊感を表現した作に魅力あるものが多く、本シリーズの声価を
高めている。



瞑想の形で咲いた冬すみれ  合田瑠美子
 
 

万年橋の欄干と放生会用の亀
 
 
近景拡大構図の例では、大きな梅の枝ごしに梅園とそこに集う人々を
描いた「亀戸梅屋敷」万年橋の欄干と放生会用の亀が吊り下げられ
た桶ごしにみる富士と墨田川を描いた「深川万年橋」。空間の広闊感
をみせた例としては、暗い雨雲から篠突く雨が、橋と江戸の町を襲う
「大はしあたけの夕立」、秋空に浮かぶ花火が祝祭のように隅田川を
彩る表題にあげた「両国花火」、巧みなぼかし摺の雲の間を飛ぶほと
とぎすから初
夏の風を感じさせる「駒形堂吾嬬橋(あずまばし)」
どがある。

 
 
 
  平凡な街を極彩色で描く くんじろう
 
 

   大はしあたけの夕立
 
 
広重は北斎と対抗するように花鳥画の制作にも力を入れた。



  北斎「桜花に鷹図」
 
   広重「冬椿に雀」
 
 
発想の煌めき脳は多面体 森井克子


次に、北斎と広重の作品を並べてみました。
どれが北斎で、どれが広重かわかりますか。
三枚づつあります。



① 駿府江尻


② 佐夜の中山


③ 信州諏訪湖


④ 湖水


⑤ 東海道坂ノ下観音


⑥ 薩垂

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