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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いい日旅立ち知らない街が呼んでいる  片岡加代




 (画像をクリックすると拡大されます)
東海道53次細見図会 日本橋

 

品川周辺には縄文時代から集落があったとされるが、中世を迎えると、
東京湾へと注ぐ目黒川の河口に位置する地の利を生かし、武蔵野平野
全体への物資の集散拠点として繁栄をみせる。
そして、その隆盛を確実なものとするきっかけとなったのが、幕府が
慶長6年(1601)に制定した、東海道の宿駅伝馬制度である。
以来、品川はその第一番目の宿場となり、西国へ通じる陸海両路の
玄関口として活況を呈した。

 

「詠史川柳」 江戸の景色-6-①  江戸の小咄と旅事情

 

いまも昔も、旅は庶民のおおきな楽しみの一つ。
街道や宿場が整備された江戸時代、庶民は何かと窮屈な中でも旅費を
やりくりし、名目を立てて近場へ遠方へと足を延ばした。
旅の起点はお江戸日本橋だった。
当時は京都に朝廷があったから、京都の方へ行くことを「上る」といい、
京都から諸方へ行くことを「下る」といった。
江戸っ子はおのぼりさんになって、仲間内や親方などに見送られながら、
夜中に日本橋から品川の「宿場」へ向かう。


 

すこやかに生きて情けのど真ん中  上田 仁




 
東海道53次細見図会 品川

 


【宿場】 宿場は、将軍の御用で荷物や人を運ぶ馬や人員を確保する
目的で設置されたものであった。
そのため将軍や幕府の用の場合は無料であったが、大名や町人も有料で
使用することが出来た。
その後寛永12年(1635)大名たちの参勤交代が制度化されると
街道はますます整備が進み、設備などが充実する。
街道には一定の距離ごとに宿場が設けられ、一里ごとに道しるべとなる
「一里塚」が設けられ、さらに街道の脇には木が植えられるなど、
安全な旅が出来るようになっていった。


 

時々は心に風を通さねば  靍田寿子

 

品川が見送り人との別れの所で、ここらで夜が明けて、提灯の灯を消す。
小咄ー①
ある男が京へ旅に出ることになり、親方や仲間が品川まで送ってきた。
送ってきた人からはここらで餞別ををくれることになっている。
「いい親方だ、きっと別れにははずんでくれるよ」と仲間が言う。
男は期待していたが、さて別れ際となると親方は、
「じゃあ道中無事で行ってこいよ」と言ったきりだった。
男、あとでひとり言。
「だれが無事で行くものか」


 

二番出口もともとなかったことにする  河村啓子

 

品川をあとに京都まで、急いで13、4日、ゆっくり行くと20日から
1ヵ月はかかろうというのが、当時の東海道の旅だった。
新幹線で2時間ほどで行ってしまうの現在とは違い、大方は徒歩で行く
のだから、それくらいかかるのは当たり前なのだが、途中、最大の難所
は箱根山だった。
ここには江戸へ出入りする者を取り締まる関所があった。

 

Y字路に来るたびサイコロを投げる  岸田万彩




 
東海道53次細見図会 小田原

 

【関所】 宿場が整備されると同時に「関所」が設けられた。
江戸時代は軍事態勢下であったため、西国の大名などから、江戸を攻め
られぬよう取り締まりをするためである。
しかし箱根の関所は、従来、言われていたような、厳しい取り締まりが
行われていたわけではなかった。通行手形も必須ではなかった。
箱根の関所の管理は小田原藩に任されており、あまりにも関所で問題が
多い場合には、小田原藩の責任となる。
こうしたことを回避するためにも、重箱の隅をつつくような取調べは、
しなかったのである。

 


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃

 


江戸っ子は箱根まで行けば、当時は話の種になった。
行かないで知ったかぶりをする者もあった。
小咄ー②
ある男が宿屋へ行くと、亭主が挨拶をして序に箱根の話をした。
「このあたりには見られないが、山椒魚は、さて風味のよいもので
 ございます」

と言われて、男、ものしり顔で
「あのぴりぴりとした辛味が、すごくいい」
山椒魚というから、植物の山椒の実のようにぴりぴり辛いものと思って
知ったかぶりを発揮したのである。


 

二枚目の舌がこむら返る夜  笠嶋恵美子




 
東海道53次 箱根湖水図


 

箱根を越すと富士山が見える。
江戸時代は空気が澄んでいたから、秋から冬の終わりまで晴れた日なら
市中から富士山がよく見えた。もちろん明治大正にも見えた。
見えなくなったのは昭和の終わりころから、経済成長などのあおりで
スモッグのカーテンが富士山を隠してしまったからである。
小咄ー③
床の間の掛物を見て、男が
「ははァ、これは立派、立派、わたしはこの間富士へ参りましたが、
 いやこの通りでござる」
「するとあの山の上からは、わしの家までも見えましたでしょう」
「とんでもない、どうしてあの山の上から、ここが見えるものですか」
「はてな見えるはずだが、わしの家の物干しからは富士がよく見える」


 

画布全て私色に染めてゆく  中川 尚

 

【川越え】 東海道には川があるが橋がない。
旅を続けるためには川を渡らなければならない、どうして川を渡ったか。
川越し人足というのがいて、肩車や背負ったりして渡してくれたり、
蓮台渡しといって、台の上に乗せて渡してくれる。
そういう川で一番有名なのは、駿河と遠江を流れる大井川だった。
水かさが増すと、川止めといって、水が歩いて渡れるほどに引くまで、
何日も足止めをくらうことがある。
旅人は大きな川になればなるほど、川越えには苦労したが、一方、
小さい川には川越え人足などいないから、みんな川の中へ入って歩いて
渡る。ところどころに深いところもあり、溺れる人もあった。


 

心電図ルート66が終わらない  岩田多佳子


 


東海道53次 岡崎・矢矧の橋

東海道の岡崎宿を通る参勤交代の大名行列


 

小咄ー④
4,5人の巡礼が川にであった。見ると橋はなし船もない。
川の瀬も知らずさて困ったと向こうを見ると、首だけ出して渡っている
人がある。心細く思ったが、「南無観世音薩」と祈り、手に手を組んで、
川へ入って行ったが水は脛までもない、これは有り難い、きっと観音の
ご利生だろうと、喜んで川を渡りきり、先ほどの人を見ると、
岸へあがってきて「抜け参りに一文くださいまし」と言った。
見ればいざりであった。
(抜け参りー親や主人に内緒で家を抜け出し、手形もなしで伊勢参りに
 行くこと)


 

有情無常賽の河原のかざぐるま  加納美津子


 


当時の東海道は、いまの東海道線とは違い、桑名から四日市へ抜けて、
伊勢の山中を草津へ出て、琵琶湖畔から京都へ入る。
桑名の名物は蛤。その蛤で失敗する話がある。
小咄ー⑤
「これ八兵衛」
「はい」
「この蛤をこの鍋のままかけて、蓋を取らずによく煮ろ、蓋をとるもの
 ではないぞ」
「はいはい」
というわけで火を焚いていると、蓋がむくむくする。
これは飛んだことになってきたと思い蓋を取ってみて、
「もし旦那さま、とんだ不調法をいたしました」
「どうした」
「つい蓋を取りましたなれば、みんな裂けました」
なかで蛤が開いたのを、八兵衛は自分が蓋をとったから、裂けたとのだと
思ったのである。

              さて次は京都・大坂へ足を延ばしましょ。

 

終電の終着駅で待つ始発  近藤北舟




  西 行

「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」


 

詠史川柳 


 

≪西行法師≫

 

柿本人麻呂、芭蕉とともに、日本三大詩人と称されている西行法師は、
平安末期から鎌倉初期の人。
戦乱の世に無常を感じ、出家して山奥に隠遁することが流行りました。


 

北向きの武士やめて西へ行き
折りふしは佐藤兵衛の時の夢



北向きの武士が西へ向かう…川柳子のやったーの声が聞こえる一句。
西行も北面のエリート武士でしたが佐藤兵衛義清と名乗り旅にでます。
持ち前の社交性から各界各層の人と親しくつきあい、
またヘビースモーカーの上、大の旅行好きで


 

西行と狩人一つ店に住み
すり鉢をを伏せて西行煙草にし


親しい人と住む店は借家。すり鉢は富士山の事。
西行は愛煙家のように詠まれているが、当時の日本に煙草はなく、
「風に靡く富士の煙の空に消えて 行くへも知らぬ我が思いかな」
の句の煙に絡めたもの。


 

一割ほど乗せさせてもろてます  雨森茂樹


 

鴫が立たぬとへんてつもないところ
命なりけり快気して二十なり


 

一句目は名所「鴫立沢」。
「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」を題材に。
二句目は「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり佐夜の中山」
の文句取り。佐夜の中山は名所「東海道・日坂」。
西行の旅好きが見える作品は多々ある。




西行冨士見図


 

富士山がなければはっち坊主なり
きさらぎのその望月に西へ行き


 

鉢坊主は、托鉢をして回る乞食坊主。
ボロボロの装束で冨士を見ている西行だが、
「冨士見西行」で富士山が描いてあるから西行とわかるというのだ。
そして旅の最後に訪れた場所は西方弥陀の浄土であった。
「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」から。

 


地球外生命体に添い寝する  酒井かがり

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偏平足の話でしばし盛り上がる  竹内ゆみこ


 

(画像は拡大してご覧ください)
 三 囲 の 景(広重)

 

三囲(みめぐり)の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の
神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる。
元禄6(1693)年6月28日に俳人・宝井其角が雨請いのために、
「夕立や田を見めぐりの神ならば」の句を捧げたところ、雨が降ったと
いうことでも有名。神社は低地にあり、鳥居も土手の下に立っていた為
隅田川の方から眺めると、鳥居は土手にめりこんだように見えたという。



 

「詠史川柳」 江戸の景色ー⑤ 俳句(芭蕉・其角・千代女)




 
  芭蕉と曽良


 

≪松尾芭蕉≫ (1644~1694)

 

藤は捨て芭蕉で広く名を残し



 
俳諧を芸術にまで高め「俳聖」と謳われた松尾芭蕉。若年の頃は、伊賀
上野の藤堂家に仕え、身分は料理人でしたが、主君の藤堂良忠が俳句を
することから共に俳諧を嗜むことになる。寛文6(1666)年良忠の死ぬと
仕官を退き俳諧に精進。当時40歳。「奥の細道」の旅にでます。
これが訳ありで、生まれたのが忍者の里・伊賀であること、旅費のこと、
健脚で移動速度の速いこと、行き先が東北方面であること、などから
仙台藩の謀反の調査を兼ねた密偵が目的ではないかといわれました。
深読みすれば、名句「いざさらば雪見にころぶところまで」が、忍者説を
暗示するかのように聞こえてきます。それが川柳子にかかると、
 


いざさらば雪見に呑めるところまで
いざさらば翁も酒がなると見え
転んでも汚れねぇのが名句なり

 

しがらみのすべてを虹にしてしまう  山本昌乃


 

転びそうになって「おっとどっこい 転んでなるか」
などと言いながら、芭蕉は、また二三丁頑張って歩きだすのです。


 

どっこいと言い言い芭蕉二三丁
膝や手をはたいて翁一句詠み 


 

転んだのは、「下駄の鼻緒が切れたから」と言い訳をし
「転ぶところまで」と言っているからには、転ばなければ
果てしなく行くことになります。


 

転ばずば翁の雪見果てがなし


「芭蕉は転ぶところまで」と言っているが、俺たちだったら



 

いざさらば居酒屋のあるところまで


 

捕まえた陽射しと午後のお茶にする 吉川幸子


 

芭蕉の川柳はパロディーが多い。
ご存知「古池や蛙とび込む水の音の名句には、


 

芭蕉翁「ぽちゃん」というと立ち留まり
古池にその後とび込む沙汰もなし


 

「夏草や野良者どもが夢の跡」には


 

夏草や野良者どもが出合い跡



 

「無残やな甲の下のきりぎりす」には



 

むざんやな梯子の下の草履取り


 

「煮売屋の柱は馬に喰われけり」には


 

道のべの木槿は馬にくわれけり


 

なぜかあっしも危険分子の一部 山口ろっぱ





其角と大高源吾


≪宝井其角≫ (1661~1707)


 

師は寒く弟子は涼しい名句也


 

これは、宝井其角の句「夕立や田をみめぐりの神ならば」と、松尾芭蕉
の雪見句とのセットで、子弟対照を詠んだもの。
其角は芭蕉門下の雄に収まらず元禄俳壇の大立者として活躍しました。
後年、芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」と記し、其角は
桃に、服部嵐雪は桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠ん
でいます。ただ芭蕉の弟子とはいえ、其角の作風は師の目指ところの
「わび・さび」とは遠いところにあり、人々の生活を華やかに唱い洒落を
きかした句がメインです。これを疑問とする森川許六は芭蕉に「いいので
すか」と問いました。それに対して芭蕉は、「自分の俳諧は閑寂を好んで
細く、其角の俳諧は、伊達を好んで細い、この細いところが共通する」
と答えたといいました。


 

やんちゃな男が四角を丸にする  福尾圭司

 

江戸時代の随筆集・『墨水消夏録』(三囲稲荷)燕石十種(えんせきじっ
しゅ)から、川柳子は句を考えます。

 

宗匠へ蓑よ笠よと土手の雨
人の田に水を引かせたは其角

 


墨水消夏録には、農民が其角をとりまき、ぜひ雨乞いしてくだされ」
と頼んだと書き出しにあり。其角は止むを得ず…向島土手下の三囲神社
「ユタカ」の字を折句にして「ゆうだちやたを三囲の神ならば」と詠
んだといいます。すると夕方近くになって、筑波の方から雷は鳴りだし、
盆を覆すほどの雨が降り出した、というのです。其角の自選句集に、
牛島三囲の神前にて、雨乞いするものに代わりて」と前書きをしてこの
句が載り「翌日雨が降る」と書き添えてあるところからみると。まんざ
ら事実のようで、川柳子にかかると普通の雨が豪雨になっていますが。


 

脳内へ隠し包丁式包丁  山本早苗


 

一句吟ずればゆたかの雲起こり
よく詠んだなあと褌まで絞り


 

頭文字「ゆ・た・か」が豊作を呼んだと農民は大喜び。
 旱天の雨は金のように価値があり、


 

金の降る雨は宝の井から湧き
たなつもの持って発句の礼に来る

 

たなつもは穀物のこと。農民はお礼をもって其角を訪ねました。





世間体しばらく雲に載せておく  岡田陽一




 井戸端の千代

 

≪加賀の千代≫ (1703~1775)


 

朝顔で千代万代に名を残し

 

芭蕉が俳句作りの旅に出発し、東北・北陸を巡り、紀行文「奥の細道」
を元禄15年(1702)に出したこともあり、千代女が生まれた時代、
土地(加賀松任)では、蕉風俳諧が隆盛を見せていました。
千代女は、このような時代背景の元に生まれ、その影響で幼い頃から
俳諧に興味を持ち、親しんでいました。
代表作はいうまでもなく「朝顔に釣瓶とられてもらい水」です。
このため
松任では毎年、「千代女朝顔祭り」が開催され、朝顔はこの町
のシンボルの花にもなっています。


 

起きて三つ寝て三つ蚤を六つ取り



 

千代女は田沼時代の俳人。加賀松任の表具師の娘に生まれ、結婚をして
一子を産みましたが、最愛の夫、子供と死別し、以後は俳諧一筋に暮ら
しました。親子三人仲良く寝ていたのにと、しみじみ思い詠んだのが
「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」でした。



 

眠られて寝られぬ蚊帳の広さかな
起きて見つ寝て見つ蚊帳の穴だらけ
お千代さん蚊帳が広くば入ろうか


 

教科書をはみ出たとこで咲いている  笠嶋恵美子


 


千代が17歳の頃、諸国行脚中で芭蕉門下の俳人・各務(かがみ)支考
出合い「弟子にしてください」と頼むと、支考は「さらば一句せよ」と、
ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められました。
千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて
明にけり」
という句で、遂に支考に才能を認められ俳句の道に進むこと
になりました。


 

「お千代さんさぞ眠かろう」時鳥

 

千代は、心優しく風流のわかる女性です。井戸水を汲み上げる釣瓶に朝顔
の蔓が巻き付いているのを見ても、無理に切ったりせず、そのままにして
おいて、他所に水を貰いにいったのですが、世の中には無粋な奴もいて、


 

朝顔に振り向く千代の空手桶
無雅なやつからんだ蔓を切って汲み


 

朝顔は千代女を有名にした花でもあり、無雅なやつの仕業に懲りて、翌年は
井戸端から離れたところに朝顔を植えただろうと川柳子の推理が働きます。


 

翌年は千代井戸端をよけて植え

 

わがままも言ってくれたら風は初夏  森田律子

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美しい車力熊野の湯葉へ来る  説教節



「詠史川柳」
江戸の景色 湯屋ー② 山東京伝 黄表紙





         
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『賢愚湊銭湯新話』
曲亭馬琴の師であり、また半世紀早く金の取れる唯一の作家として
活躍した山東京伝は、遊里短編小説としての洒落本の第一人者であり、
浪漫的な伝奇小説、読本、そして黄表紙においても一流の作者である。
その京伝が著した『賢愚湊銭湯新話』は、享和二年(1802)出版の
黄表紙で、寛政改革時に厳しい出版取締令が出た後の出版であるため、
教訓的姿勢が濃厚であり、文芸的価値の点では、高く評価されないが、
江戸文化における「銭湯」を知るための資料として貴重なものである。
ついでながら黄表紙について、絵と文とを同時に並行して見、読むと
いうところは、現代の劇画に似ているが、軽妙、洒脱、機智に溢れて、
泰平の江戸の住人の興味を、そのまま反映しているところに、特殊な
価値を有するものである。
黄表紙とは、こんなものであったことを絵と合せ読んでみてください。



 


賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)と湯屋の湯番は高きところに上りゐて、
その形よく似たり、賓頭盧は衆生を済度するが役目、湯番は人の出入り
を守るが役目なり。これ軽き役にあらず、たとはゞ天道様ありて、人の
善悪を見分け給うがごとし。然れども湯番はもとが凡夫なれば、をり々
居眠りをして、出入の人に草履を履き違へさせ、帯を間違へさせること
などもあれど、天道様は居眠りなどはし玉わず、つねに日月の眼を押し
開きて、人の善悪を見分け玉ふ故に、あなたに少しも誤りあることなし。
天道様が見通しといふは、此故なり。
「わしが草履をかぼちゃのやうな頭のぢいさまが履きちがへて行ったと
いふことだ。裸足では帰られず、これは当惑千万だ。
ぞうりでかぼちゃが当惑とは、此の事であんべい」



 

    定
一、神儒仏の教は不申及主人父母の命をかたく相守可申候事。
一、身の用心大切に可仕候事。
一、極老の御方貪欲の源 入被成間敷(いりなされまじく)候。
一、浮気と云う悪敷病ある御方、色里へ御入込御無用の事。
一、心に奢りの風立候節は、何時成共御断なく身上しまわせ申候。
一、金銀其外大切の品御持参の御方、旅の夜道御無用の事。
一、名聞利欲の喧嘩口論、喜怒哀楽の高声御無用の事。
一、魂魄(こんばく)の失せ物不存候。
一、地水火風のあづかり物不仕候。

   月 日


   定
一、ひとむかし  拾ねん
一、子供のうち  八ねん
一、わかざかり  廿ねん
一、札銭人間一生ニ付  五十枚
一、陰徳をほどこす時は人間一生二度入りの御方となり、
  百年の寿命も保たれ申候。
一、右の通りご承知の上、正直に世渡り可被成候。

   月 日




 

そもそも銭湯の風呂口を石榴口といふは、むかし鬼子母神千人の子を
腹のこの中へ隠し玉ひしことあり。
風呂口も千人万人の人を隠しいるゝところなれば、鬼子母神の縁により
て石榴口と名付けたるよし。又諸人風呂へ這入る姿は蟒蛇(うわばみ)
に呑まるゝやうなりとて、蛇喰口とも名づくるよし、つくづく考ふるに、
正直なる人は楽しみ多く、邪なる人、愚痴なる人は苦労多し。
故に邪苦労愚痴なるべし。
されど尊きも賎しき湯へ這い入る時は裸となる。
これ天地自然の姿にて、風呂口より出る人は、産湯を浴びて生れ出るが
如く、着物を脱捨てて風呂へ這入る人は、この世金銀家財を残し置きて、
死して沐浴を受くるがごとし。
いかほど不精な人も此の二度の湯はぜひ々浴びねばならず、
死あるが故に生あり、生あるが故に死あり。
生死一重が儘ならぬと唄いしも此の事なり。





 

「すべるは すべるは どこい どこい。
 いちばん滑ってくんさるなら、かたじけ流しの真ン中だあも さ。
 こいつは朝湯なのせりふだ。
「おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ。だが、ふく坊は風呂へ這入って
 いい子になったぞよ。かかァが乳をためて待っていよふぞ。
「ことしは静かな良い春じゃ。去年中の心の垢を洗い落として、
 恵方参りとでかけやう。




 

諸人入込の銭湯は、貴賤老若混雑の世界によく似たり。
初会の床の当推量、辻占いの八つ当たりも、大概は衣装着物で見てとる
なれど、湯へ這入る人はみな裸なれば、貴賤上下おしなめて見分け難く、
襟に瘕(なまづ)のできたは鰻屋の隣の人か、顔に雀斑(そばかす)の
あるは饂飩屋(うどんや)のかみ様か、額に疥(はたけ)、肩に田虫が
できたは百姓の息子か、鳩胸は豆屋の亭主か、鮫肌は蒲鉾屋の隠居か、
手の長い人には油断なるまい、内股に膏薬を貼った人には滅多なことは
言われまい。小賓(こびん)に痣のある人は景清が末葉ならん。
背中に竜を彫った人は水滸伝の九紋龍が子孫かと、これ皆当推量の目利
きにして、まことの目利きにあらず。
人の心の善悪もなりふり顔つきで見分けがたきこと、この道理なり。



 

「お前の背中は猫背中だから、鼠の糞のような垢がよれます。
「二百はずむからずいぶん糠袋を買いつかんで、脂垢を西の海へさらり
 と流してくりやれ。よく、洗いましょ、垢落しだ。
「南無金毘羅大権現大平饂飩蕎麦か。
「あなたは桂馬様ではございませんか。お飛車しや 々
「かやうに金を握って申すは失礼でござるが、貴公の歩はお達者かの。





 

朝湯の人の身にひゝりとしみるは、此ごとく朝から家業を身にしみろと
いふ教え、仏嫌いな爺様も、湯へ這入れば我知らず南無阿弥陀南無阿弥
陀と念仏を申す。皆これ銭湯の湯徳也。
「人裸になれば貴賤上下を分け難し、然れども、土佐裃に外記袴、
半太羽織に義太股引と、一ㇳ口づつの湯屋浄瑠璃、豊後正伝唄祭文、
潮来四つ竹新内節、猫じゃ猫じゃに到るまで、ただその好む所によりて、
人柄の上下が知れるなり。
隅にいる人がいふ。
「さつきから聞いていれば、謡いもあればめりやすもあり。
 触り文句に責念仏,神祇釈教恋無常、これはとんだ乗合舟だ。
「一家も一門もない、きなかものでござい。ごめんなさいまし。




 


「これは強勢に熱い湯だ。
 焦熱地獄の銅壷の蓋か、不動様の背中ときてゐる。
「たがひの心うちとけて、うわべはとけぬ五大力、さはさりながら、
 変る色なき御風情っさ。
「あゝいゝ加減な湯じゃ。これがほんの極楽往生、あゝ南無阿弥陀 々。
「おぬいは涙せきあへず。恋は女子の癪の種。
「阿蘇の宮の神主友成とは我が事なり。






 

湯屋の流しも折々砂をつけて磨かざれば、人を滑らして大きな怪我を
させることある故、毎日々怠らずこれを磨くなり。
人の渡世も亦折々気をつけ、十露盤の玉をもって磨かざれば、
商いに上滑りがして人の身代に怪我をさせるのみにあらず、
我が家蔵の腰をぶんぬき、大工の骨接ぎ、左官の鏝療治(こてりょうじ)
でも治らず、晦日物前に打身がおこりて、終に病のもととなる。
怠らず商売を磨くべし。
「玉磨かざれば光なしだ。流しも洗わねば、溝板同然だ。
「さっさとこすれや、節季候 節季候。







 

草木こころなしといへども湯にも心あり。人の心には私ありて、
湯の心には私なし。それはまた何故といふに、人ひそかに湯の中にて
放屁する時は、直にぶくぶくと音がして、泡のやうなるもの浮み出る。
これすなわはち人の心に私ありて、湯の心に私なき証拠なり。
「もふ昼だそふで、腹が少し北山の武者所だ。酒を一杯熊谷なら、
 せめて二八の敦盛でもしてやりたい。
「かう毎日柄杓を持つが商売とは、梅が枝が川留めにあったやうだ。
 芝居だと手裏剣を受け止めて、巡礼に御報謝という役だ。





 

芝居にも土用休みあり。職人にも煙草休みあり。
湯屋にも定まれる休み日があって、風呂場を乾かし、小桶を干し、
風を入れ、日に照らすは、水に腐らせぬ用心なり。
大酒を好むものも此の道理にて、毎日々酒浸しになって休み日が無ひと、
腹が小桶のやうに張って、鼻が石榴口のやうに赤くなり、
壁のあばら骨があらわれ、四十四の骨の柱が腐って、命のを失ふこと
目前なり。慎みて大酒を好むべからず。
「此の本には女が少ないとて、おいら二人が此処へ書かれたのさ。
畢竟(ひっきょう)作者のおさきだま。
両方から駒下駄を履いた女中が来て、
「おやおやどうしやうの、休みじゃ無へと思ったに。
「わっちもさ。照らされたよ。どうしやうの。
と二人ながら下駄で来た故、げたげたと笑ふ。これを湯屋笑ひといふ。









湯屋の若い衆、休み日に奢りかける。
「かう奢っては明日の貰い湯を台無しにするぞよ。
「はて酔ったら儘の川千鳥、足がひょろつくぶんの事だ。
 もふ一つ もふ一つ。
 絵の△は、京伝の宣伝が書いてある。
一、忠臣水滸伝 売り出し中、お求めのほどよろしく。
一、京伝煙草入新型 京伝は煙草入れを発明したことで有名。






 

湯屋にも仁義五常あり。
湯をもって人を温め、草臥れ(くたびれ)を休めるは仁なり。
人の桶に手をかけぬは義なり。
田舎者でござい、冷え者でござい、御免なさいとは礼なり。
糠洗い粉軽石糸瓜の皮で垢を落すは智なり。
風呂の板を叩けば承知して水をうめる、これ信なり。
「湯は陽にして天の象(かたち)による故に、円き柄杓をもって円き
小桶に汲み入るゝ。水は陰にして地の象による故に、四角な水槽より
四角な升をもって汲みとる。
湯は男なり。水は女なり。男の熱き熱湯の中へ、女の冷き水をうめれば、
よき加減の湯となる。夫婦和合の道理、此ごとし。
熱湯の儘にて使へば火傷をする。水ばかりでは風邪を引くなり。




 



「動左衛門様、もうお上がりか。お前は烏の行水じゃの。
「商人は手拭を絞るにも、身の脂をしぼる気にならねばならぬ。
「けふもだいぶん湯が込むかへ。
「湯へ這入る所は誰でも、ざまの悪いもので、湯のよる処へは、ざまが
 よるとは此の事だ。
「そりゃ焼十能でござい。御免なさいまし。






 

男湯と女湯の分かるは、男女別あるの道理なり。
楊貴妃が驪山(りざん)の浴室には、玄宗の涎を流し、
塩谷が妻の湯上りには、師直のうつつをぬかす。
これらは皆煩悩の垢なれど、光明皇后は千人の垢を流して、仏の化身に
あひし事もあり。
煩悩あれば菩提あり、盆前もあれば大晦日もある道理なり。
「そもそも湯上りの時美しき女はまことの美人なり。雀斑(そばかす)
疥(はたけ)、疣(いぼ)、黒子、頬の赤きも大痘痕(あばた)も、
紅粉白粉でくろめれば、相応に見ゆるものなり。人の心もまずその如く
追従軽薄の紅粉白粉で彩しは真の心にあらず。
正直の糠袋で洗ひあげたる所が無疵の実心なり。
此の二人娘、粂三かお七といふ気取りで自惚れている。
「なんだか悪臭い匂いがするのう。
「あれは水虫へつける薬に糠の脂をとるのさ。
「お竹さんを人がいゝいゝといふが、気が知れねへよ。
「そふさ。あの横顔を見なゝ。精霊さまの馬を見たやうだ。
「これから帰って狆に湯を浴びせてあらふ。






 

「さあ々湯へ這入りましょ。坊やいゝ子だぞ 々。
「だいぶ御成人でござります。おとなしいお子じゃ。
「おつぼさん待ちなよ。付合いを知らねへ子だのふ。






 

湯の中で温まれば酒麩のやうに縮まった睾丸も自然とだらけてくる。
人の身代も内証が温まってくると、そろそろ金袋がだらけて、思わぬ
無駄銭を使ふかも、盛って入る時は、又盛って出づる道理。
ただ銭金を湯水のやうに使えば、じきさま休み日の湯屋のやうに、
身代の内証が空っぽしやぎとなるは目前なり。
「あゝいい心持ちだ。さっぱりとしてよいぞ々。
 おれが形は干し大根で作った文覚上人ときている。
「御隠居様この頃は碁はどうでござります。
「これ小僧、冗談をするな。小桶戻れば千里も一里だ。






 

「これはいかいこと小桶が並んだ。
 小人島で沢庵漬の問屋をするようだ。

「これはけしからぬ混みやう。おらが方へおはちの廻るは夜が遥かだ。







 

長湯を好む老人などは、たまたま湯気に上りて目をまわすことなどあれ
ども、気付けを用ゆるに及ばず。
顔へ水を吹きかけるとたちまち気がつくなり。
銭湯人殺さずとは此の故ならん。
「誰だと思ったら八百屋のお爺さんか、やれやれあんまり長湯をなさる
 からの事じゃ。長湯もあれば短湯もあるは八百屋の隠居様、
 これもうし気が付きましたか、気がつきましたか。
「頭が唐茄子のやうで、鼻が胡桃のやうで、手足が干し大根のやうで、
 睾丸が何首烏(かしう)のやうだから、八百屋のお爺さんだと思った。







ずっと大昔は、湯屋で物を掠めたがる者もありけるよし。
もしさやうの者ある時は、顔や体へ一面に鍋墨をなすって、辱しめたる
となり、これ何故なれば、崑崙国(チャンバ王国)の人は俗気多く、
珊瑚樹などを奪いて逃げ出す所、絵にもよく書くやつなり。
故に黒ん坊となして、恥を与へけるとぞ。
「まづ此の薪雑把を食わせるがいゝ。
「こいつはとんと黒ん坊の生捕りときている。
 珊瑚樹のかわり十能を見知らせてくりやう。どっちも赤いものだ。
「憎い八つ目鰻だ。おもいれ油をとってやれ。




 

湯屋の二階で売る駄菓子を食ふにも謂われなきにあらず。
教化別伝不立文盲な咄をして尻を腐らせる人は、達磨糖をしてやり、
お釈迦様の開帳話をしながら、さがおこしを食ふもあり。
生姜糖をしてやる薬取りもあり。
昼寝の夢のお目覚ましに粟の岩おこしを食ふもあり。
頭巾を被った人が大黒煎餅をせしめ、大ころばしを食って雪隠へ行きた
くなるお爺が、飴一本四文、大福餅あったかいにも故事来歴あるべし。






「今日はよい天気でござります。香煎をあがりまし。
「明日は大師河原へ行くつもりだが、気はなしか。
「昨日は堀の内へ参って、強勢に草臥れた。遠いぞ 々。
「番公変ることもないか。
「八兵衛が来るはずだが、まだ見へねへ。






 

「わりゃァよくおれが睾丸を糠袋と間違へてつかんだな。
 それで湯をぶっかけたが何とした。此の黒砂糖の固まりめ。
 柿のやうな眼を剥きだしても怖かあねへぞ。
「こいつが々、わりゃァまたおれが眼の柿のやうなをどの眼で見た。
 悪く笛を鳴らすが最後、犬に褌を咥へさせ大津の宿へしたにやるぞよ。
 漆掻きの尻を杖で突つくとはちがふぞよ。
「これさ二人ともきん玉があぶないあぶない。
蓼の虫葵に移らずといへども、襤褸襦袢より羽二重の小袖へも移るは
湯屋の虱なり。
人も又此の湯屋の虱の如く、襤褸襦袢の賎しきより羽二重の尊きへも
移らざるといふことなし。




 

もし旦那、それそれ葵虱が二つ胴に二匹連れ、裾までよって這います。
それからご覧じろ。こいつは続きの二匹だはへ。
「はて合点のゆかぬ。
 裁(き)りたての小袖へ千手観音のあらわれ給ふは心得ぬ。
 察する所、時は弥生の半なれば、こいつ花見虱じゃな。
 何にもせよ、むさいこの場の風呂屋じゃなァ。






 

大晦日の夜はいづくの湯屋も夜通しなるが、東雲のころ、風呂の栓を
抜きけるに、悪臭き匂いして、湯いちどきに流れ出で、湯気霧の如く
立ち昇るうちに、異形の物あらわれ出でたり、角は鼠の糞の如く、
面は軽石の如く、歯はつるしてある櫛の如く、手は鋏の如く、
胴は小桶の如く、足は手拭・糠袋に似て、糸瓜の皮の褌を締めたる鬼、
洗粉の如き生臭き毒気を吐きて、すっくりと立ちたり。
これをいかなる物と思ふに、一年三百六十日の間、毎日毎日入りくる
人の洗い流したる垢の亡魂なり。










垢の亡魂がいふ。
「色の黒き男色男にならんと洗粉にて磨きたるは、これ色欲の垢なり。
 金の番をする爺様が長き爪にて掻き流したるは、これ貪欲の垢なり。
 その他不幸不忠の垢、不義不仁の垢は申すに及ばず、高慢自惚の垢
 悋気嫉妬の垢、憎い可愛いの垢、嬉し悲しの垢、追従軽薄の垢あり
 て、一人として欲垢に汚れざるものなし。
 その垢積り積りては此の様な鬼となって一生を苦しむぞや。
「これ申し番頭どの、我が身欲垢の鬼となり、焦熱地獄の釜風呂の底
 に沈みて苦しむことを、世の人に告げて心のうちの欲垢を溜めぬや
 うに、よくよく伝えて下され。
 そのお礼には万歳で一つ祝っておきませう。





 

「欲垢に御万歳とは、お湯屋も栄へてましんます。
といいつつ小桶の尻をぽん々と叩き、
消し炭の火鉢のうちを掻き消す如く失せにけり。
「湯屋はけしからぬ化物だ。
「二日の初湯松の内、桃の節句や菖蒲風呂、盆の燈籠二度の貰い湯、
 一年中の人の垢、積り積りて此の姿、
 あゝ苦ししに牡丹で石榴口の絵解きだなァ。
「なんだか無性にめでたい めでたい。





 

夫天地間は湯室(ゆや)で看(みた)よりも大にして。
量り得がたきこと。浴盤を彭翁菜(ごぼう)で探るが如く。
一切衆生湊集(いりごみ)欲界。恰も銭湯の光景に似たり。
邪心悪念人心の垢。箇々十泉を以って。いかでも洗い落すべき。
琉球の洗粉、朝鮮の水石(軽石)。
紅毛(オランダ)の天糸瓜皮は用いるにたらず。
唯神儒の糠袋。仏老の垢擦り。よく心裡の垢をおとす。 
に浴しぶうしぶういふ険悍(ちうつばら)も。 蛮の垢を去り。
身にもろもろの惰的(ぶしょうもの)も。心に日頃の垢をたけな。
あらひ玉へきよめ玉へとまうす。

享和壬戌春  東都  山東京伝誌





【詠史川柳】 誰のことを言っているのか分かればかなりの歴史通



湯治場の評判になる車引き
車止めすこぶる困る照手姫
照手姫毎日そこら握って見



この主人公は、誰の事か今回は書いておりません。

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おとがいはひねもす春の海になる 河村啓子


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式亭三馬の『浮世風呂』に描かれた湯屋

 
「詠史川柳」 江戸の景色ー5  湯屋
江戸に「湯屋」が初めて誕生したのは、天正19年(1591)のことである。
寛政の時代に入ってからは「銭湯」ともいう。
錢瓶橋(ぜにがめばし)のたもとに伊勢出身の与一が永楽銭一文で入浴
できる「蒸し風呂」を開いたのが最初だった。
大きな釜湯を沸かして蒸気を密室へ引き込み、その熱と湿気で垢が浮いて
くると、別室に出て垢をかき落して水で流す式である。
しかし、江戸は火事が多く、幕府は火を出したものは死罪と定めたから、
江戸では、庶民だけではなく、豊かな商人も内風呂を作らなかった。

 
浴びるには少し足りない盥の湯  杉浦多津子

 
江戸は風が強く、埃のたつことが激しいので毎日入浴する習慣がある。
ところが武家屋敷には浴室があって、主人や家族は屋敷内で入浴するが、
そのほかの江戸の家では、大町人の家でも浴室を持たない。
宿屋でも、客は銭湯へ行くのであり、大町人の女房や娘でも銭湯へ行く
のを恥としない。火事を恐れ、また江戸は水が不自由だったからである。
下町は家康の江戸入城後、埋め立てられた土地で、良質の水を得ること
は難しく、同時に山の手は、江戸の俚諺で譬えて「麹町の井戸」という
ように、水脈が深くて水に不自由をしたのである。
江戸に井戸が整うのは200年後の化政時代まで待たねばならならず、
そのため湯屋の数は、増える一方だった。

 
裸婦像が画布を出たがるので困る  青砥たかこ

 
文化5年(1808)には、523軒、文化11年頃には、600軒余
の銭湯が出来た。が、江戸の町方の人口は、50万人を超え、町数は、
1200余町。ほとんどの町人が銭湯を使用しており、しかもほとんど
が毎日入浴したというのだから、銭湯の数は足らない。
そのため、銭湯の新規開業を願う者は多かったが、幕府は、銭湯が火を
焚く商売であり、火災の多い江戸では、火災防止上から無制限に営業の
許可をしなかった。

 
  
蒸しタオルの中途半端な正義感  森田律子



 
が、寛政2年(1790)に少し前向きなお触れが出される。
1、新しい湯屋を開業したいという願いは従来許可しなかったが、
  今後は軒数に応じて許可することにする。
1、江戸城周辺の建て混んでいるところは、二町を限り一軒を許可する。
1、場末の町では、両側町の場合は四町を限り一軒を、片側町の場合は
  五町を限り一軒を許可する。
1、女客専用の銭湯についても、前の二項に述べる通りである。
  ただし男女入込み(混浴)の湯屋の場合は、日を分けるとか、時間を
  分けるとかして女客を入浴させれば、風俗を正しくすることにもなり
  また女湯が少ないことへの対策として、一町に一軒を許可する。
  川柳にも、山の手の湯は女人とて隔てなし と詠まれた。
(やがて湯屋は蒸し風呂形式から、湯船形式が主流になっていく)

 
うどんでも食べて帰ろかこんな日は 都司 豊



   石 榴 口

 
江戸の湯屋は、入口で番台に入力料を払って、土間から履物を脱いで、
板の間へ上がる。そこは脱衣場である。ここで裸になって服は脱衣棚に
入れて先へ進むと、洗い場が現れる。
その奥の間が「湯船」のある浴室なのだが、洗い場から浴室への入口を
「石榴口」と呼び、唐破風型などの屋根とその下に大きな板を貼りつけ、
鴨井板の下に狭い隙間がある形状になっている。
客はそこからかがんで浴室に入らなくてはならない。
蒸気や湯気を逃がさないために、そうした構造になっているのだ。
浴槽は石榴口より10㌢高く、浴槽の中に沈めば板の間は全くみえない。
因みに浴槽の広さは九尺四方というから、約3㍍四方で狭く、
常に、ごったがえした様子が想像できる。
(因みに、入浴料は大人10文(200~250円)子供6文程)


傷跡のふたつみっつを撫でながら  合田瑠美子




  湯 船

 
入口や脱衣場は男女別々なのに、浴室は一緒になっていることが多い。
湯船を二つ作るには、釜も二つ誂えなければならないので、経済効率の
ためだったとされる。
こうした混浴を「入込み湯」と呼ぶが、浴室には灯や天窓はなく、
密閉されているので互いの姿が見えないほど暗い。
だから浴室入って来た者が先客にぶつかると、身体が冷たいので相手を
驚かせてしまう。このため石榴口をくぐるときは、「冷えもんでござい」
などと声をかけて入るのがエチケットであった。
 石榴口人を呑んだり戻したり 
そんなところから、次のような江戸小咄も生まれる。
※ 田舎客を銭湯へ連れて行ったときのこと。
「冷えもんでござい」と石榴口へ入ると、後から田舎客がそれを真似て
「わしは江州の多左衛門でござります」
 
今日の心は45度でちょうどいい  山口美代子

『東京名所三十六戯撰 芝飯倉』

 
江戸の銭湯には、男湯に限って、湯代とは別料金で12文払えば、
「二階座敷」を利用することが出来た。。
「皇都午睡」に二階の様子説明をしてもらうと、
『番台の傍らに、二階へ上る大段階子有り。
二階は男湯のみにて、高欄付き、二階より往来を見おろす。
座敷には隔てなく、碁将棋の席屋に似たり。
中央に二階番頭が居、白湯を釜にたぎらせ、客の顔を見れば、煮花を拵え
持ち来る。前に菓子、羊羹など重に入有。爪切、鋏、櫛など傍に置有。
贅沢者は、ずっと這入って二階へ行。二階に着物脱入る戸棚あり。
これへ脱ぎ、湯代と手拭を持ち、階下を下りて銭を置き、入湯して二階へ
上って、ゆるりと躰を乾かす。
茶を持ちくる。菓子を喰う、茶を飲み、爪を切って、ゆるりとして着物
を着る…茶店で休まんよりはるか安上がりにてゆるりとす。
勤番の侍衆、近辺の若者などはこの二階にて遊び、碁将棋盤が有りて、
温泉湯治場の如し』とある。
(煮花とは、煎じたての香り高い茶)
 

人生のロスタイムからファンファーレ  斉藤和子



 
二階にいる番頭は最古参の者で、二階で払う金は、彼の収入となった。
このため番頭は、客が喜んで二階に上って来てくれるよう、
さまざまなサービスを提供した。その一つが覗き穴や遠眼鏡の用意だ。
これを用いて階下の女湯を覗かせるのである。
時折、二階の座敷では、講談や浄瑠璃、落語なども催された。
師匠を招いて生け花や囲碁の教室を開催する湯屋もあった。
壁には料理屋や薬屋、寄席の広告があちこちに張り出されていた。
こうした湯屋の二階で男性客はゆったりと寛ぎ、今でいうところの社交
サロンのように歓談に耽っていたのだろう。江戸時代の湯屋は、いまの
スーパー銭湯のような総合娯楽施設でもあった。


 
神さんがくしゃみしてはる間に悪さ 居谷真理子




湯女が男の背を流す洗い場
話は石榴口の先の洗い場へ。
男女共用の洗い場では、男は褌、女は湯文字(下着)をつけているのが
一般的。江戸時代初期には、洗い場には湯女(ゆめ)と呼ばれる女性が
いて、客の垢を巧みに素手でかき取り、背中を流してくれるサービスが
あった。髪を洗ってくれ、櫛で髪を梳いて紐で結んでくれた。
その上、求めに応じて性も売った。こうした状況に幕府は、風紀を乱す
という理由で、明暦2年(1656)に湯女を厳禁。
500余人の湯女を捕まえて吉原に強制移送した。
以後、湯女は完全に廃れ、代わって三助という男が客の背を流すように
なった。


 
自然体もいいけど骨なしになるよ 安土理恵



 
入浴客は、浴槽を出ると、流し板で糠袋を用いて体を洗う。
糠袋とは袋のなかに糠をいれたもので、客は袋を持参し糠は番台で買う。
番台は入浴に必要なものを売ったり貸したりしてくれる。
手拭や爪切り鋏も貸してくれたし、膏薬や水虫の薬まで売っていた。
仏壇仏具コロッケも売ってます  井上一筒 

 
いずれにせよ、湯屋では老若男女、貧富貴賤が入り交じり、さまざまな
会話がなされた。
そのため町奉行所の与力は、湯屋で最新の情報を入手した。
ただ顔が割れてしまっているので、なんと彼らは、女風呂に入って壁越し
に男風呂の会話に耳をすましたのである。
そう、与力は朝の女風呂に入る特権を持っていたのだ。
もともと女は早朝、湯に入る習慣がなかったので、こうした与力の行動が
可能だったのである。
このため女湯には、与力のための刀掛がしつらえられていたという。
ここだけの話が三日で洩れてくる 木村良三

 
「詠史川柳」
五右衛門の処刑


≪石川五右衛門≫

 
五右衛門は生煮えの時一首詠み    
 
石川五右衛門は、安土桃山時代の泥棒の首領。
実在の人物で、京都三条河原で「釜茹での刑」に処せられたのも史実。
その時に「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽くまじ」
という辞世を詠んだと伝わります。主題句は此の事を詠んだもので、
煮えたぎった油の中で絶命する前、生煮えのうちにに一首詠んだという
のですが、ここらはさすがに作り話。



芋ならばさして見るころ五右衛門歌
 

 
芋は頃合いを見て、串をさして芯まで煮えているか確かめます。
五右衛門は芋なら串を刺してみる時分に辞世を詠んだというのです。
白波の居風呂桶に名を残し
 

 
「白波」「盗賊」の意味。「居風呂桶」(すえふろおけ)は、
かまどを作りつけて、湯をわかし入浴するのに用いるもので、
これが「五右衛門風呂」。五右衛門は風呂にまで名を残したのだという。



無いとアカンのでしょうかキャラクター  雨森茂樹

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運命は同心円のこま回し  三村一子 


 
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       浮 世 床  
髪結床に暇な連中が集まっている。
欠伸するやつ。本を読む奴。将棋指す奴。
浮世床はいつもさわがしい。
          

 

「詠史川柳」 江戸の景色ー④ 髪結床-2


 

【夢床】 (江戸小咄)
江戸の中頃、「世辞床」という床屋、親方が愛嬌もので大層はやる。
客が詰めかけて、その人の番がくるまで1時間も2時間もゆうゆうと
して待っている。
将棋盤があり、碁盤があり、貸本なども並べてあるから、待っていても
退屈しない。親方は人の顔さえ見れば、「色男!」という。
どんな人でも色男と言われれば、悪い気はしない。
「親方、こんにちは」
「ヤァ、色男」
流行る床屋だから、いつでも客が混んでいる。
大勢待っている中に、ひとりゴロリ寝ている男がいる。
「ヤァ金さん、こいつはさっきからここに寝ているのかね。
    この忙しいところへ来てゆうゆうと寝ているとは、呑気だなァー、
 大きな鼾をかきゃァがってーオイ民、起きろ起きろ」
「ァァァーやァ お早う」
「お早うじゃねえや、この混む床屋に来て呑気に寝ている奴もねえもん
   じゃねぇか。邪魔にならァ」



 

ぐっすりと眠り眉間の皺を取る  新家完司



 

「眠る気もなかったが、昨夜のお疲れで、ついトロトロと」
「昨夜のお疲れという面じゃァねえや」
「いつのまにか大分揃ったが、色の出来ねぇ醜男ばかりだ」
「てめえの面を見ろ」
「よく面面というが、人間は面で女が惚れやしねえよ。
 胸三寸の心意気というものがある」

「何を言ってやがる。て
 めぇの胸三寸心意気なんざァあんまり役にたたねえ。
 人から借りたものは忘れてしまう、貸したものはいつまで経っても、
 覚えているしー」

「そんなことはどうでもいいや。
 こう見えてもおれはたいへんな色男なのだが、お前は知るまいね」

「よっぽど酔狂な女でねえと、お前にゃァほれやしねえ。
 器量が悪くっても身なりがいいとか、垢ぬけているとか、読み書きが
 出来るとか、遊芸ができるとか、金があるとか、何とかいう人には、
 一つの取り柄のあるものだが、お前を見ねえ、面ァまずいし、人間が
 卑しいし、身なりは悪いし、金は年中なし、その上いうことが口に悪
 を持ってるし、洒落はわからず、粋なことは知らず、食い意地がはっ
 て色っぽくて、おまけに無筆ときているから一つだって取り柄がねえ」


 

空っぽになれと理髪店の鏡  桑原伸吉




   出張床屋


 

「そねむなそねむな。
 実は昨日芝居を見に行って、とんでもない女に惚れられて実に弱った」

「お前の言うことは違ってらァ、どこで芝居の中でおめえに惚れるような、
 酔狂な女があるものか」

「ところがあるね、ちょっと一幕のぞこうと思って、小屋の者に親しい
 のがあったから、そいつに頼んで、後ろの方で、おれがぼんやり見て
 いると菊五郎のすることに、いいところがあったから、音羽屋ァーと
 褒めたと思いねえ。
 すると桟敷から年齢32、3になる垢抜けした年増が出てきて、俺の
 顔を見て、「あなたは音羽屋がご贔屓でございますか」と言うから、
 わっちは大の贔屓だが、このくらい気の利いた役者はございません、
 というと、頼もしいじゃありませんか、「わたしも音羽屋が贔屓でご
 ざいます、どうぞこちらえ」ってんで、桟敷に案内されて、「今度い
 いところがあったら、女が褒めるというわけにはいきませんから、ど
 うぞ褒めて下さいましな」、と頼まれたから、俺も男だ、ええお安い
 ご用でございます、褒めてやりますとも、と言った。
 きっかけでいいところがあったから、音羽屋ー!と褒めた。
 「もっと大きな声で」、と言うから、うんと声を張上げて音羽屋ー!
 「もっと大きな声で」、と言うから、これより大きな声は出ません、
 これが頭抜けの一番でございます、と言った」


 

耳打ちの数だけ揺れるヤジロベー  神野節子


 

「棺桶屋みたいだなァ」
「それからなほ褒めてやろうと思ったが、声が続かねえから、眼をつぶ
 って、音羽屋!音羽屋!と褒めていたところが、「もうとっくに幕は
 閉まっていますよ」、
と言われて眼をあいてみると、なるほど幕が閉
 まっている。するとその女が、「まこと相済みませんが、あなたのお
 茶屋はどちらでございます
」、と聞くから茶屋も何もございません、
 芝居に懇意な者がいますから、一幕のぞきに来ましたんで、と言うと、
 「私のお茶屋は、これこれという茶屋でございますが、まことに失礼
 ですが、ちょっとお茶屋まで来て下さいまし」、と言って行ったが、
 しばらくして、茶屋の若い衆が迎えに来た。
 茶屋へ行って二階へ上がって見ると、女がちゃんと坐っている。
 そこへ茶に煙草盆が出ている。
 ところがその女が、「あなたご酒を召し上がりますか、それとも甘味
 がお好きでございますか」、と言うから俺は考えた。
 いきなり酒を飲むと言ってみねえ、この人酒飲みだから、付き合いは
 出来ないと思われるのが嫌だ、といって下戸だと言うのも、気が利か
 ねえ」

「何と言った」


そう来たら恋に落ちてくしかなくて  中村幸彦


 

「さようでございます、甘い物を下さいますれば頂きますし、ご酒も下
 さいますれば頂きます。下さいませんければ、頂きませんと言った。
 すると、「あなた 大層お眠そうでございますこと、昨晩のお疲れで
 ございますか」と言うじゃァねえか。
 それから俺が、実は昨夜友達に誘われて、つき合いで仕方なく繰り込
 んで、夜っぴて騒いだもんですから、どうも眠くてしようがございま
 せん。実は後の幕はこの間見ましたから、お前さんまことにすみませ
 んが、こちらの座敷でもようございますから、少しの間拝借して寝か
 して頂くわけにはまいりませんか、と言ってみたところ、「お安いご
 ようでございます。どうぞお休み下さいまし」とやがて女中を呼んで、
 何だか内緒話をしていたが、「さァどうぞこちらへ」と、奥の離れた
 小座敷へ連れていったのさ」


 

現役のままボリュームは絞らない  美馬りゅうこ


 


「なるほど」
「暖簾くずしの掻巻に、暖簾くずしの蒲団を二枚敷いて、ちゃんと床が
 とってある。芝居茶屋に限って、こんなことがあるわけのものじゃァ
 ねえが、どういうわけか趣向がちゃんとしてある。
 枕元に煙草盆があって、こっちの方の盆の上に湯沸かしに水が入って、
 湯飲みが伏せてある。なお床の上に船底の枕に、縮緬のククリと枕が
 二つ並んでいるからおかしいや」

「何故」
「何故って、この枕は誰がすると思う」
「てめえがする」
「一つは俺がするが、もう一つは誰がすると思う」
「てめえが寝相悪いから、向こうで気を利かして二つならべたんだろう」
「枕を二つするやつがあるか、首が二つありゃァ、しめえしー、ところで
 一つの枕をそばへおいて俺が大の字になって寝てしまった。
 するとその女がやってきた」

「来たか」


 

舞い降りた女神へ思わずスキップ  山本昌乃


 

「来て
「あなたまァそんなに大きくなって寝ていらっしゃてはいけないじゃァ
 ありませんか、わたしも頭痛がして仕方がないので、あとの幕はみた
 くございませんから、まことにすみませんが、あなたの脇へ少々入れ
 て寝かして下さいまし」
と、こう言うんだ」
「でどうした」
「それから俺が、ご遠慮なくお入んなさいまし、と言うと、恥ずかしそ
 うに入って来た」

「それから」
「入ってくると、ここに俺が困ったことが出来た」
「何が困った」
「小便がしたくなった」
「間抜けなやつだなァ」
「そこで俺が女に、小便に行きたくなりました、と言うと、
「今下へおりると少し面倒でございますから、少々待っていてください。
 わたしが都合いたしますから」
と言って女が下へ駆け下りて、算段してきたものは何だと思う」

「わからねえ」


 

引き算を重ねこころを無に保つ  高浜広川




煙草盆の中の竹筒が灰落とし


「灰吹きだ。灰吹きを5、6本持ってきて、
 「この中へなしくずしなさいまし」と言うんだ。
 灰吹きとは、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。
「たいへんな騒ぎだなァ」
「ところが小便が詰まっていたんだから、なかなか灰吹きにしきれねえ」
「おやおや」
「すると女が障子を開けて「廂間 (ひあわい)なら誰もみておりません、
 土蔵と土蔵の間ですから、この廂間 なら大丈夫でございます」
 と言うから、成程と関心をしてその廂間 へ小便をした」

「それから」
「いい気持ちに小便をして寝たと思ったら、てめえに起こされた」
「なんだ夢か」
「夢だ」
「この野郎、長い夢を見やァがったな。まるで形なしか」
「少し形がある」
「どこのところが本当だ」
「小便だけー 少しここがジメジメする」

 

片方の眉で昨夜の傘たたむ  山本早苗




浮世床の店前はいつも賑やか


 

「不精床」  (江戸小咄)
江戸の中頃、人呼んで「不精床」という髪結床。
障子に大きな達磨の絵が描いてあって、その絵は達磨の顔だが、
親方の顔だかわからぬという程、親方が髭ぼうぼう。
よく髭っ面というのはあるが、面っ髭というほうで、髭の中に顔がある。
店先にあるものは道具でも何でもすべて汚い。
12、3になる子供を1人下剃りに使っているが、親方は不精で、
おまけに頑固で世辞もなにも言わない。
近辺の人は、不精床と称えて、めったに髪を結いにも来ない。
けれどもそこは広い江戸のことで、通りがかりの人が空いているから
ちょっと結ってもらおうと、入り込む人もいる。


 

首筋に刃物散髪屋の微笑  くんじろう


 

「親方、ひとつ結ってもらいたいもんでございます」
「なにをやるんです」
「頭を結ってもらいたいものでございます」
「どこへやるんだえ」
「頭髪(あたま)が出来ようというのさ」
「お気の毒だが俺の家では頭髪は出来ない。
 頭髪は人形師の処へ行かなくっちゃァ出来ない」

「人形の頭髪をこしらえるのではない、髪が結えようかと言うのさ」
「髪なら結う」
「だからさっきから髪が結えようかと言っているのに」
「髪を結えるから髪結職をしているんだ。結えなければ床屋はしていない。
 髪結床へ来て髪が結えようかとは何だ」

「堪忍しておくんなさい。じゃァ結っておくんなさい」
「お前さんはお客だろうね」
「代を払うから客ですね」
「客が職人に仕事をさせるのに、結っておくんなさいとは何だ。
 そんなお世辞は面白くない。髪を結えなら結えと言えばいい、
 その言葉も余計なことだから、言わなくっていい。
 黙ってここに上がっていれば俺の方で月代を剃る。髷も結ってやる。
 余計なことは言わない方がいい」

「堪忍しておくんなさい、小言を言われに来たようなものだ。
 どうです、すぐにようがすか」

「下剃りからはじめやります」

電気椅子空いた私の番がきた  田久保亜蘭


「親方、髷の形をみてこの通り結っておくんなさい」
「お気の毒だが俺の家では、その通りは結えない。もう少し新らくなる」
「冗談言っちゃいけない。髷っ節を切っておくんなさい」
「またそんな余計なことを言う。黙っていても月代を剃るのに、
 髷を結ってあっちゃァ剃れないから、俺の方でちゃんと切る」

「ごめんなさい。じゃァ湿しましょう」
「それでー」
「やかんを貸しておくんなさい。-銅壷もないようだが」
「髪結床へ来てやかんを貸してくれー。贅沢を言いなさるな。
 銅壷で湯などを沸かして客に使わせる人の料簡が知れねえ。
 頭寒足熱といって、頭は冷やすべきものだから、水で沢山だ」

「オヤオヤ、水がちっともありゃァしない。底の方にすこしばかり
 こびりついてるーやァ大変だ、親方ボウフラが湧いてるぜ」

「あァ20年以来瓶を洗ったことがないからね」
「小僧さんにでも、そう言って水を一杯汲みにやっておくんなさい」
「お気の毒だが、俺のところの小僧は水汲みに来ているのじゃないから、
 キレイな水を使いたければ向こうの裏に井戸があるから、
 一杯汲んでおいでなさい」

「冗談言っちゃァいけない。髪結床へ水を汲みに来やァしない」
仕方がないから、客は汚い水で頭を冷やして腰をかける。
小僧は小さいから高い下駄を履かなければ、月代を剃ることができない。
小僧はゴリゴリ剃るからたまらない。



 

この思い届くでしょうかかすみ草  柴本ばっは




 明治22年頃の床屋

 

「落語にするとこうなります」

行きつけの床屋が混んでいるので、代わりに入った床屋が大変な店。
掃除はしていないし蜘蛛の巣だらけ、ハサミも剃刀も錆だらけ。
肝心の主人たるや、無愛想でぐうたらそのもの…。
顔に乗せた手拭いが熱すぎる。
「熱いよ!親方!」
「こっちも熱くって持ってられねえから、お前の顔に載せたんだ」

 

 語尾上げる余程自信がないらしい  平井義雄

 

次は頭を濡らしてもらおうと頼むと、
「水桶にボウフラがわいているから」
「おい親方、ボウフラなんか湧いてるのかよ!」
「これぁ飼ってんだよ。水桶をこう叩くだろ。そら、沈んだ。
 かわいいだろ。その間に頭ぬらしとけ」
非衛生極まりない。

 

 過呼吸をときどき起こすハーモニカ  北原照子

 

頭を剃る段になると、小僧に剃らせようとする。
「おい大丈夫かい?」
「何言ってやがんでえ。うちの小僧にも稽古させねえといけねえ」
「俺は稽古台か!」

 

鑑あるから目を合わす舌を出す  田中博造

 

しぶしぶ剃刀を当てさせると、案の定痛くてたまらない。
聞くと下駄を削った剃刀で剃っているという。
呆れて音を上げた客、剃刀も親方に代わってもらうが、
親方は客の頭がデコボコで剃りにくいとこぼす始末。
しかも側に控えて見学する小僧にいちいち指図する。
「おい、俺の手元よく見ておけ……何見てんだ? 
何ぃ、表に角兵衛獅子が通っている!? そんなもの見てんじゃねえよ!」
と小言の連続。そのうち親方、手を滑らせる。
「あ痛ッ! ああっ、血が出ちまったじゃあねえか。
 親方!どうしてくれるんだ!」
「なあに、縫うほどのものじゃねえ」


すぐ破るルールでセロテープだらけ  山本早苗




【詠史川柳】



 
人丸の肖像画と和歌
 ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に
    島隠れゆく 舟おしぞ思ふ  

 

≪柿本人麻呂≫

 

人麻呂は枕時計を世に残し

 

万葉の歌人柿本人麻呂。その人麿が枕時計を世に残したというのですが、
「そうか、人麻呂が枕時計は柿本人麻呂が発明したのだ」
などと感心してはいけません。古今和歌集に
「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく船をしぞ思う」
という和歌があり
「この歌はある人の曰く、かきのもとのひとまろがうたなり」
と注がついています。
小野篁(たかむら)が隠岐へ流される時に詠んだ歌とも、言われますが、
川柳ではもっぱら人麻呂の歌ということになっています。
実は、この歌は早起きの「おまじない」として使われました。
早起きをしなければならない日の前の晩、寝る前にこの歌の上の句を唱え、
翌朝、首尾よく目覚めた時に、下の句を唱えます。
それを枕時計といったのです。

さかむけを噛んでる湯気の立つ茶の間  森田律子

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