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川柳的逍遥 人の世の一家言
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有情無情流し心に句読点  須磨活恵



 


「麒麟がくる」



 本来、足利義昭の側近であるはずの光秀が、どうして信長にも仕える
ようになったのか。時期は厳密には、不明である。事実『信長公記』
永禄11年9月の義昭・信長の上洛の箇所に光秀の名は記されていない。
だが、光秀は、細川藤孝に「我等、彼の室家に縁ありて、頻りに招かれ」
と語ったとされる細川家の史料から、両者の血縁性濃関係も浮び上がっ
ており、信長が光秀の才能を買ったのではないかとされている。そして
永禄12年頃から光秀は、その才能を発揮し始める。
(「彼の室家」の彼は信長、室は濃姫。濃姫の母・小見の方は、光秀の
叔母とされる)



尻尾からぞろぞろ喋りだしそうだ 谷口 義






「目まぐるしい明智光秀激動の15年」 -①


【光秀、いよいよ歴史の表舞台に登場」
永禄11年(1568)光秀41歳。足利義昭の側近となった光秀は、
周辺の些細な出来事まで信長に報じている。
こうした光秀の尽力が功を奏したのか、義昭は、7月に信長の元に迎え
られ、9月には、上洛に向け信長は、義昭を奉じて軍事行動を開始する。
いわゆる、この時期の光秀は、義昭の側近筆頭として、周囲から認知さ
れた証しである。


能のある蟻だときどき跳ねている  福尾圭司



 
信長上洛の図


【信長、上洛】
室町幕府の再興を唱え、足利義昭を迎えて上洛。15代将軍の座につい
た義昭は、恩賞として、副将軍の地位を与えようとするが、信長は拒否。
次第に将軍義昭をないがしろにし、権勢を振るい始める。京に上った
は諸国の武士に、天皇や将軍に挨拶をするために、京に馳せ参じるこ
とを命令するが、越前国を支配する朝倉義景は、信長の命令を無視する。
【信長、エピソード】
  あるとき、丹波の長谷川城主・内藤備前守の与力である赤沢加賀守
信長に面会し「熊鷹2羽のうちのいずれか1羽を献上する」と申し出た。
すると信長は「お心はありがたいが、いずれ(自分が)天下を取るであ
ろうから、それまでそのほうに預けておく。大事に飼ってくれ」と言っ
たという。赤沢加賀守は帰って、皆にこのことを伝えたところ「国を隔
てた遠国からの望みで実現しまい」と大笑いしたという。しかし、それ
から信長が足利義昭を奉じて上洛するのに10年もかからなかった。
                        (『信長公記』)


欲が出て神のしっぽを踏んじゃった 岡田 淳

【光秀の働き】
永禄12年1月4日の「本圀寺の戦」を皮切りに、翌元亀元年(157
0)4月の「越前征伐」、6月の「姉川の戦」、9月からの「志賀の陣」
に従事する。このうち越前征伐では、金ヶ崎城に残留し、秀吉とともに
浅井・朝倉方の追撃を撃退した。
実は「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」と呼ばれるこの戦いでは、秀吉の
活躍が強調されることが多いが、これは秀吉の軍功を過剰に強調するべ
『太閤記』などの著者が、光秀の働きを削ったからである。実際には、
光秀も浅井・朝倉方の撃退に軍功を挙げている。さらに、若狭の諸城を
無力化させるといった、手際の良い手腕をみせた。


受けて立つ覚悟が出来た武士の顔  槙坂政子


【信長に非凡の才能を認められた光秀】
永禄12年(1569)春、光秀42歳。信長は、明智光秀、木下秀吉、
丹羽長秀、中川重政、の4人に京都や周辺の政務を担当させた。光秀ら
4人による活動で特筆すべきは、同年4月に禁裏御料(朝廷の直轄領)
山国荘の違乱停止を命じている点である。信長は以上の4人と別の5人
(佐久間信盛、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚)とを、交代で
政務を担当させていたことが判明している。いずれにしても、本来は
の側近であり、信長の家臣として、まだ数年の新参者・光秀が信長の
重臣である長秀らと肩を並べて、重要な職務を任されているのだ。
(違乱停止=法に違反し秩序を乱すこと)
『人を用ふる者は、能否を採択すべし、何ぞ新故を論ぜん』
                        (『信長名言』)

法の番人忖度仕事にしています  向井 清


【信長、越前に侵攻】
永禄13年(1570)4月20日、光秀43歳。信長は、3万の軍勢
を率い越前に侵攻。先陣を木下秀吉、信長盟友の徳川家康がつとめる。
不意を打たれた朝倉勢は壊滅状態となるが、浅井長政が朝倉方について
信長に叛旗を翻したため、信長の大軍は補給路を断たれて孤立する。
「その時、信長の行動」
4月28日、信長は軍勢を残し、戦場から姿を消す。2日後、京の都に
姿を現し、かねてより命じていた御所の修理のようすを視察。その後、
本拠地岐阜へ舞い戻り、長政討伐の大号令を発して、軍勢を招集する。
「その時、織田軍の行動」
取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始、織田軍の殿(しんがり)
となった木下秀吉、徳川家康、明智光秀の3武将が一致団結、朝倉軍の
追撃をかわして、撤退の道を切り開く。


死に神よなんでおまえがそこに立つ  藤村亜成




        五 カ 条 の 条 書


「五カ条の条書」
義昭が将軍になって、2年後の永禄13年4月(元亀に改元)正月23
日の日付で、信長は義昭に1通の条書を出した。
、「御下知の儀、皆以て御棄破あり」
(これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること)
、「天下の儀、何様にも信長に被任置」
(天下のことは、すべて信長にまかせること)
 要するに、義昭の行動を監督下に置こうとしたものである。
諸国へ御内書を以て、仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞かせら
れ、書状を添え申すべきこと。
(諸国への御内書を送る場合は、信長の添状を副えること)
公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞、御褒美を加えられたく候と
雖も、領中等之なきに於いては、信長分領の内を以ても、上意次第に申
し付くべきのこと。
(忠節の者に恩賞を出すにも所領のない場合は、信長が提供する)
天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるのこと。
(禁中のことは、丁重にしなければならない)


舞台反転捺印を押すたびに  赤松ますみ


信長義昭の政治行動を制限する「五カ条の条書」を突き付けたとき、
光秀は、朝山日乗とともに証人として名を連ねている。
「天下の儀」を信長に任せることを義昭に誓わせた文書に、光秀が署名
したということは、とりもなおさず、光秀が信長の天下取りを支持する
立場を、明確にしたことを意味する。
さらに、翌2年末頃と推定される自筆消息で、光秀は義昭に「御暇を賜
りたい」旨を申し出ている。この直前、光秀は、信長から近江坂本城主
に任じられており、織田家中でも別格の扱いを受け始めていた。ここに
至って光秀は、将来性の乏しい義昭と訣別し、信長の将来にかけること
を決意したと思われる。


満開へ約束はせぬ落椿  松山和代



 
       姉 川 の 戦 い


元亀元年(1570)6月1日、光秀43歳。浅井・朝倉軍との攻防に参陣。
「金ヶ崎の戦い」信長浅井長政の裏切りにあい撤退。その時、羽柴
秀吉とともに殿を務める。
6月3日 、 丹羽長秀とともに若狭へ参陣。武藤友益の城館を破壊。
9月には、志賀の陣に兵力400人の兵をを率いて参戦。
森可成の戦死後、宇佐山城を任される。近江国志賀郡周辺の土豪の懐柔
を担当。


騒乱に泳ぐワラにすがりながら  山口ろっぱ


【信玄、足利義昭の要請を受ける】
義昭武田・浅井・朝倉など他の有力大名に呼びかけ、反信長包囲網を
形成し、覇権を目指し始めた信長を牽制。義昭の要請を受けた信玄は、
京の都に上り、当時、畿内を制していた信長を打ち砕くべく行動を起す。
【姉川で合戦】
北近江の姉川で織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉景健の同
盟軍が衝突。浅井・朝倉軍の大敗に終わるが、戦いに呼応して各地に信
長に敵対する大名が決起。本願寺の顕如も、全国の信者に向けて信長
戦うよう檄文を送る。


大甕の底に信玄の股引き  井上一筒


【信長、小谷城に迫る】
元亀元年 (1570)6月19日、信長は近江に攻め込み、長政の居
城・小谷城に迫る。
6月21日。信長は小谷城の寸前で軍勢を止め、陣を敷く。浅井軍を城
から引きずり出すため、信長は、小谷城の城下町に火を放たせた。町に
火をかけられても長政が動かないとみるや、信長は小谷城の向かい側に
ある浅井家の城、横山城を取り囲む。
【長政軍,大依山へ移動】
6月25日夕刻。長政は軍勢を大依山へと移し、信長の本陣まで姉川を
挟んでわずかな距離となる。26日、援軍の朝倉軍が到着。
【姉川両岸を挟み対峙】
6月28日早朝、姉川両岸を挟み、南には織田・徳川連合軍、総力3万
8千。北には、浅井・朝倉同盟軍、1万8千が布陣。
【徳川軍、朝倉軍に突撃】
一方、6月28日午前6時ごろ、徳川軍5千の軍勢が川を渡り、8千の
朝倉軍に突撃。浅井軍は織田軍に向けて突進し、織田軍は、徐々に後退。
総崩れ直前まで追い詰められたところを、横山城の側にいた織田軍前衛
部隊3千の兵が駆け付け、浅井軍の側面に攻撃して逆転。浅井・朝倉軍
は敗走する。


砂嵐と根気比べをする駱駝  高島啓子



        比叡山焼き討ち


【石山合戦はじまる】
元亀元年(1570)9月12日夜半。光秀43歳。大坂本願寺で早鐘
が打たれ、蜂起した門徒たちは、天満森の信長の陣所へ向けて鉄砲を打
ち込む。本願寺と信長との10年におよぶ「石山合戦」がはじまる。
【大坂本願寺を中心とした寺内町】
一向宗の本山・大坂本願寺には、寺を中心とした巨大な町(寺内町)が
つくられていた。免税などの経済的特権があるため、信者だけでなく商
人も集まり、防御のために塀も設けられ、独立した都市国家の様相を呈
した。


勢いは鍾乳石になっている  岩根彰子


【信長、比叡山延暦寺を焼く】
元亀2年(1571)9月、光秀44歳。信長は、比叡山延暦寺の焼討
を敢行。浅井・朝倉軍との戦いの際、中立を守るように申し入れたにも
関わらず無視したことに信長は憤慨。僧侶だけでなく、寺に逃げ込んだ
男女3千~4千人が死去。
「その時 顕如の動き」
顕如は反信長勢の結集に向かう。武田信玄に書状を送り味方に引き込む
ことに成功。元亀3年には、本願寺、浅井、朝倉、武田などの反信長同
盟が成立。信玄軍は上洛に向けて動き始め、三方ヶ原の合戦で、信長
同盟する家康軍を蹴散らして圧勝する。
「坂本城在住」
『信長公記』によると、延暦寺を攻め落としたその日のうちに、信長
比叡山のお膝元である近江志賀郡を光秀に与えた。この新領地に築かれ
たのが「坂本城」である。


手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊


【光秀の苦悶】
元亀3年(1572)4月、光秀45歳。
河内出兵の際の軍事編制では、信長方の佐久間信盛・柴田勝家らと別に
光秀の名が「公方衆」としてあげられている。信長と義昭の2人の主君
を持つところに、他の織田家臣とは、異なる光秀の特殊な立場があった。


流れる雲と反省会をしています  西澤知子





   足利幕府最後の将軍


【義昭のあがき】
元亀4年2月、光秀46歳。、義昭は陰に陽に、信長に敵対するように
なり、義昭が挙兵すると光秀は、公方衆の拠る近江石山城・今堅田城を
攻撃して、反義昭の姿勢を明確にした。そして同年7月、義昭は「槙島
城の戦い」
に敗れ「室町幕府は滅亡」。光秀はようやく、両属関係に終
止符を打った。一方、義昭は復讐心に燃え、全国の大名「信長打倒」
呼びかけた。義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名
が連携して信長包囲網を形成。3年に亘り各地で激しい合戦が相次いだ。
4月、信玄が突如死去、信長は上京し、義昭を京都から追放。室町幕府
を滅ぼした信長は、7月に元号を「天正」と改める。
「恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる」
(『信長の名言』)


夕焼けにアホがひとりで泣いている  くんじろう


【義昭の無能ぶりを揶揄した逸話】
「ある日何者かの手によって、義昭の邸の前に貝が9枚並べられていた。
しかも、9枚の貝はいずれも割られていた」
9枚の貝は、公界という言葉に通じさせる判じ物である。
公界とは、公の仕事を意味する。その貝が悉く割られていたということ
は、つまりは「義昭には、公の仕事は何もできない」ということを、都
の人々が痛烈に当てこすったのであった。
信長の強力な軍事力と政治力は、新しい秩序をもたらす有力者にふさわ
しいと映ったに違いない。(光秀、天正時代の10年へ続く)


今を押し込んで亀甲透かし編み  森田律子

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