雨天につき第二関節まで決行 酒井かがり
錦 旗 を 掲 げ る 新 政 府 軍
慶応4年(1868)1月4日、新政府軍は軍事総裁仁和寺宮嘉彰に
錦旗と節刀をさずけ、征討代将軍に任命した。
「西郷どん」 戊辰戦争開戦
大政奉還が行われ、政権が返上された後も徳川慶喜は、政治の実権を
握ったままであった。
慶喜の考えていた新しい政府は、天皇の下で徳川家が実質的な盟主となり、
政治を運営していく、というスタイルであった。
あくまで慶喜の首を取ることにこだわっていた薩長にとっては、
はなはだ面白くない。
そのため西郷は、何としても慶喜を引きずり下ろすことを画策していた。
新しい政治体制に徳川家の影響が残ることを、とにかく嫌ったのである。
ゴミの日にいつか私も捨てられる 杉本義昭
そもそも、大政奉還後の朝廷は、中川宮親王や摂政・二条斉敬など、
いわゆる佐幕派の重鎮にいまだに主導権があり、岩倉具視らの倒幕派の
影響力は弱いものであった。
このため討幕派は状況を一変するために王政復古クーデターに踏み切る。
その内容は、摂関、将軍、幕府、京都守護職、京都所司代の廃止と総裁、
議定、参与の三職からなる新政府の樹立を宣言するものである。
大号令が発せられたことで、約260年続いてきた幕府は終焉を迎えた。
だが,慶喜もさまざまな人脈を使い、新政府への参画を画策。
しかも実現しそうな勢いですらあった。
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そんな折、慶応3年12月23日に江戸城西の丸が焼失する事件が起きた。
薩摩藩と通じていた奥女中の仕業とされた。
さらに庄内藩の屯所が発砲され、これも薩摩藩の関与が囁かれた。
これに怒った老中の稲葉正邦は、庄内藩に薩摩藩邸を襲撃させたのである。
これは上方に「江戸では幕府と薩摩が交戦状態になった」と伝わった。
大坂に駐屯していた旧幕府勢力は激高し、慶応4年1月2日、
2隻の幕府方軍艦が兵庫沖に停泊する薩摩藩軍艦を砲撃。
翌3日には、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発したのである。
これは薩長にとって、願ってもない幸運な事態であった。
雨上がらんでええ暫しこのままでええ 藤井孝作
すでに入京していた薩長の軍は約5千人、対する旧幕府軍は1万5千人。
しかも今回は、旧幕府軍の方が新式の武器を揃えていた。
だが3日は、指揮系統や戦略の不備から旧幕府軍は、苦戦を強いられる。
翌4日、朝廷から「慶喜追討令」が発せられ、錦旗、節刀が登場。
新政府軍は正式に「官軍」となった。
これを見て西国諸藩は、一斉に新政府側についてしまった。
接続詞を迷っているあいだに秋 竹内ゆみこ
ナポレオンから贈られた軍服を着る慶喜
【付録】 慶喜とナポレオン
フランス公使・ロッシュは、国の方針を越えて徳川慶喜に個人的に相当
肩入れしていたと言われる。
慶喜にフランス産の馬を送った他、ナポレオン三世からの贈り物として
皇帝服を送っている。慶喜が皇帝服を着た写真がそのときのものである。
また、幕府はフランスから240万ドルの支援を受けて、横須賀製鉄所の
設立の計画にも着手しており、徳川幕府とフランス公使のロッシュとの
関係は相当な浅からぬものがあった。
山芋のぬるぬる少し甘えるか 山口ろっぱ
ナポレオン三世は、世界中に影響力を及ぼす壮大な構想を描いており、
アルジェリア、中国、ベトナムなどへの侵略的進出などを実行してきた、
野心家である。すなわち日本をも植民地化してしまおうという、
野心と深謀がナポレオンの腹の奥に、垣間見えるのである。
所謂フランスから金の支援を受けたり、日本建設の事業に着手したりと
ナポレオンの使命を受けたロッシュの外交は、非常に危険な火種を抱
いているものであった。
怪しいものですとは誰も言わんやろ 西山春日子
ただ慶喜がロッシュ一辺倒だったかと言うとそうでもなかったようだ。
大政奉還後に薩長の武力的京都占領の際、大坂へ逃げた慶喜だったが、
そこでフランスと対抗するイギリス公使のパークスと面談し、
「今後も日本の外交を司るのは自分だ」と発言している。
したたかでずる賢い慶喜は、この時点でもフランスとイギリスを
天秤にかけ、薩長の出方をみて勝ち馬に乗ると考えていた節がある。
それを証明するように勝海舟が江戸開城について西郷と話し合った際、
慶喜の助命をどうしても西郷受け入れない場合には、
パークスの手引きで慶喜をイギリスに亡命させる手筈を整えていたという。
まもなく幕府は潰れるわけだが、なぜかロッシュは慶喜のことが好きで、
結果的にロッシュの愛もナポレオンの野心も片思いで終わってしまう。
仰向けになるほど信じてはいない 下谷憲子
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