川柳的逍遥 人の世の一家言
落ちつくのですがらくたに囲まれて 小林すみえ
絵本満都鑑(寄席風景)
『醒酔笑』(せいすいしょう)
抜けた男に、海老ををふるまったところ、赤いのを見て「これは海老の
生まれつきか、それとも朱を塗ったものか」と、尋ねるから「生まれつ きは青い色だが、釜で茹でると赤くなる」と、説明してやると合点した。 ある時、馬上の侍の前を中間たちが、二間半の朱槍を持って歩いている のを、この男が見て、「世間は広い、珍しいことがある」と感心する。 「何をお前は感心しておるのだ」と、聞いてみると「あの槍の赤い色は、 火をたいて皮をむいて色をつけたものだが、あれ程の長い釜があったも のだ」といった。「安楽庵策伝」 安土桃山時代に京都の僧侶・安楽庵策伝が、上級階級の前で演じた口演・
「醒酔笑」また、戦国時代には、大名あるいは将軍といった身分の高い 人に聞かせた「お伽衆」や「咄職」が落語の原形といわれます。 それは、いまでいうとラジオ・テレビなどの代わりの役目を果たしたわ けで、毎夜のように新しい話を聞かせる。 種がなければ、自分でどんどん作って聞かせるという具合でした。 これらの人の中で著名なものとして伝えられているのは、冒頭の僧侶・
安楽庵策伝、お伽衆・曽呂利新左衛門で豊臣秀吉その他に、小咄または 落語のようなものを聞かせたと伝わります。 やがて、江戸が江戸らしくなって、五代将軍・綱吉の頃、京都・大坂・ 江戸において不特定の聴衆を前にして軽口、滑稽を演じ、街頭で喋り、 何がしかの代銭をとって、営業化する者が現われはじめます。
「辻噺」と呼ばれるもので、その代表的な人物が、京の露の五郎兵衛、 大坂の米沢彦八。醒酔笑の作品をヒントに五郎兵衛は長目の小咄を創作 独演したと伝わります。また、大阪落語の始祖・彦八は、生國魂神社に おける「彦八まつり」というイベントにその名が残ります。 一見、順調に発展すると思われた「辻噺」でしたが、悲劇が起こります。
京・大坂、江戸でも人気の大家(たいか)に鹿野武左衛門という人が作 った「堺町馬の顔見世」という噺をヒントに事件が起きたのです。 当時、市中に疫病が発生し死者が出るという騒ぎが起きたとき。 この騒ぎに便乗して一儲けを企んだ八百屋と浪人が、南天の実と梅干の 特効を説き、処方箋までつけて売りまくりました。 このため、南天と梅干は高騰、偽の予防薬は大いに売れましたが、まっ たくのイカサマと露見し、犯人は斬罪と牢死、著者と版元は島流しとい う、大騒動になったのです。 この「南天梅干事件」のお陰で、庶民の「噺」に対する興味は急速に衰
退し、安永2(1773)年から、庶民参加型へと変わっていきます。 それは、「雑排、にわか、小噺」などを一般から募集し、出来映えに応 じて景品をだすという趣向のものでした。それを出版社がバックアップ して東西で流行り出したのが、「噺の会」というものです。 「噺の会」は、従来の「軽口噺」にオチをつけて滑稽味を加えた落し噺
で、それが「落語」へと発展していく礎となります。 こうして疫病事件以降衰退していた噺の世界が、復活を遂げます。 復活の機運を特に盛り上げたのは、職業は、大工棟梁ですが、狂歌を好 んだ初代・烏亭焉馬(うていえんば)が天明6(1786)年の噺の会でした。 " いそかすは濡れましものと夕立のあとよりはるゝ堪忍の虹 " 焉馬
窓際のうつろな春の福寿草 北原照子
寛政3(1791)年には、大阪下りの落語家・岡本万作が、日本橋の駕籠屋
の二階を借りて行った夜興行が好評を博します。同人が同10年、神田 豊島町の露店び「頓作軽口噺」の看板をかかげ、辻々にビラを貼って客 を集めて興行をしました。これが「寄席興行」の初めであるとともに、 ビラによる集客宣伝の新機軸は、今日の寄席文字の初めとの位置づけが され、また寛政10年には、職業落語家第一号、江戸噺元祖といわれる 初代・山笑亭可楽が下谷稲荷社の境内で「プロの落語家」としてはじめ て興行を開いています。 檜扇が咲いて祭りが始まった 河村啓子
これがきっかけとなって、江戸市中の寄席は、文化元(1804)年、33軒、
同12年75軒、文政8(1825)年には、130余軒と増加していきます。 こうしたブームの中、天保13(1842)年、老中水野忠邦の「天保の改革」
で落語の演目は神道講釈、心学、軍書講談、昔話に限られ、寄席は15 軒に制限されました。しかし、翌天保14年に水野が、失政により罷免 されると、再び活況を帯び66軒に回復、10年後の安政年間にいたっ ては、従来の軍談講釈220軒を含め392軒までにふくれがりました。 寄席の数の増加に伴い、落語家も増え、興行体制も整備されていきます。 (寄席の収容人数は、ほぼ千人程度で木戸銭は48文。歌舞伎の大衆席
が木戸銭だけで130文であったことからも、寄席がいかに庶民的なも のであり、安価な娯楽であったかが分かります。(一文、凡そ20円) 忘れよう象に踏まれたことなんか 笠嶋恵美子
明治維新後の東京は、地方出身者が多くなり、それに伴い、江戸っ子好
みの「人情噺」よりも笑いの多い「滑稽噺」が好まれるようになります。 明治10年代には初代・三遊亭圓遊が、滑稽な文句と踊りの「ステテコ踊 り」で人気を得ました。同様に初代・三遊亭萬橘(まんきつ)は「ヘラ ヘラ踊り」で、4代目・立川談志は「郭巨(かっきょ)の釜掘り」とい う滑稽な仕草で、4代目・橘家圓太郎が、「馬車の御者の吹くラッパを 高座で吹き」人気者となりました。これが「珍芸四天王」と呼ばれた芸 人さんです。圓遊は、ことに時事的な話題を盛り込んだ笑いの多い改作 「新作落語」も演じ、さらに人気を高めました。 「露の五郎兵衛のこんなものです軽口噺」
まるで字を読めない田舎侍が、お供を数人召し連れて、京都の室町と
いう通りをぶらぶら歩いておりました。この室町という通りは、呉服 屋だとか商売をしている店が多く並んでいるところでして、それぞれ の店は軒に暖簾を垂らし、店の屋号や売り文句なんかを、そこに書き 付けてあったんですが、この田舎侍、読める字がひとつもありません でした。ですが、お供の手前もあって「字が読めない」とも言えず、 いかにも読めるという風を装って、右の暖簾を見ては頷き、左の暖簾 を見ては、「ははん、なるほど」などと言いながら歩いておりました。 前頭葉写っていないレントゲン 合田瑠美子 すると、その通りの中に戸を閉ざしている家がありまして、その板の戸
に短冊状の紙が貼ってありました。 見ると、なにやら文字がすらすらと書かれてあります。 「これはなにやら、見事な句に違いない」
そう思った田舎侍、お供の一人を近くに呼び寄せ、
「お主は字が読めるか?」
「はい、多少は」
「うむ。それでは、お主の教養にもなるだろうから、ちょっとこの句を
読んでみなさい」 「はい。ええっと、“ 貸し家、貸し蔵あり ”と書いてございます」
田舎侍、動じもせずに、腕なんか組んで、
「うむ、字はよろしくないが、“ この家貸します、この蔵貸します ”と、
長々と書かない奥ゆかしさが、なんとも良いではないか」
ええ、負け惜しみも、ここまでくると立派なものですな。
昼は賢者で夜は過敏な幻燈屋 山口ろっぱ
「おまけ」
ある家の主人が銭を庭に埋めて隠す時、
「必ず、他の人の目には蛇に見えて、自分が見る時だけ銭になれよ」 と言うのを、こっそり家人が聞いていた。 家人は銭を掘り出し、代わりに蛇を入れて置く。
後になって例の主人が掘ってみると、蛇が出てくる。 「おいおい、俺だ。見忘れたか」 と何度も名乗っていた。 「おい棚の修理をするから、大家んとこへ行って、金槌を借りて来い」
言い付けられた者が、手ぶらで戻ってくる。
「どうしたい?」
「へえ、釘でも打たれたら、頭が減るってんで、貸さねえんです」
「ちぇ、ケチな野郎だ。しようがねえ、家のを使おう」
梅雨前線通過中です揉めてます 美馬りゅうこ PR |
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