生体解剖された日は砂嵐 井上一筒
岩松院葛饰北斋八方睨凤凰图
(葛飾北斎・応為共作)
「葛飾北斎の家族」
北斎は、2度結婚している。「さわ」とも「悌」ともいうが、正式には
名は不明。その妻との間に3人の子に恵まれた。長男は富之助、長女は
阿美与、次女は阿鉄。しかし二つの不幸が襲う。一つは、寛政6年(1
794)、春朗の時代、勝川派にいながら、密かに狩野派の画法を学び、
それを聞いた師匠の春章が憤り、破門させられ貧乏暮らしの中、唐辛子
売る破目になったこと。もう一つは妻が亡くなったこと。北斎34歳で
ある。3人の子をかかえた北斎は後妻をもらう。後妻の名は「こと女」
(朝井まかて著『眩(くらら)』では、「小兎」という字をあてている。
小兎との間には、2人の子をもうけた。次男・多吉郎、三女・阿栄。
小兎は前妻の子を加えて一時は、二男三女の子の面倒をみることになる。
雑草に生まれたことを怖れない 中前棋人
長男・富之助は、中島家の後継者となった後、早世したと伝わる。何歳
だったかは不明。長女・阿美与は、北斎の弟子・柳川重信と文化10年
(1813)頃、結婚し男子を生むが、夫婦仲が悪く、文政5年(18
22)頃に離婚する。阿美与は子を連れて実家に戻るが、まもなく死亡。
北斎には孫にあたる阿美与の連れて帰った子(時太郎)は、大の問題児
であった。ぐれて人様に迷惑をかける暴れるで、手を焼いた北斎は、別
れた婿の重信に引き取れせる。が、重信は天保3年(1832)に死亡。
問題児はまたまた北斎の許へ戻ってきた。成人すると、悪たれの仲間に
交じり、博打・借金など放蕩の限りを尽くす。金がなくなればせびりに
くる、北斎にとって苦渋の疫病神になる孫である。
鶏頭と瓜しか見えぬ四畳半 くんじろう
渓斎英泉の美人画
蝙蝠が飛ぶ夜空ー応為の夜桜美人と美人比べをしてください。
応為の絵のうまさがわかります。
次女お鉄。「画をよくし、他へ嫁せしが、夭死す。一説に幕府の用達
某嫁せし」とある。また、渓斎英泉の『無名翁随筆』(続浮世絵類考)
には「次女は、他へ嫁す 画工にあらず 早世 御鏡御用の家に嫁す」
とあり、画工でないとする部分に食い違うが、早世は確かなようである。
また北馬が北斎に入門したころ、「師北斎は(前)妻を亡くし、一人の
娘と住んでいた」と回想している。お栄がまだ生まれていないので、こ
の娘がお鉄ではないかという推定もあり、錯綜している。何しろ北斎は、
前妻との間の子は、孫の時太郎を含め、良い印象ある家族ではなかった。
薄切りの幸せらしきものひらり 高野末次
小兎の子の阿栄については、ある程度歴史は明確なので、後回しにして、
阿栄の弟の多吉郎をとりあげる。多吉郎は崎十郎と改名し、本郷竹町の
御家人加瀬氏の養子となる。その加瀬家に入った崎十郎は、御小人目付
より御小人頭に進み、支配勘定となり、御天守番から御徒目付へと昇る。
俳諧を好み、椿岳庵木峨の号をもち、北斎が没すると墓を建立し、一人
きりになった阿栄を邸に迎えたりして生活の支えになる。
崎十郎には娘・多知(多知女)が居り、白井家に嫁ぐ。この北斎の孫で
阿栄の姪になる白井多知の遺書を『葛飾北斎伝』が随所に引用している。
『白井多知女は、加瀬崎十郎の女(むすめ)にして、白井氏に嫁す。即
ち白井孝義氏の母なり。[白石氏、今本郷弓町に住す。加瀬氏の後、此
に同居せり]』この白井氏が、北斎の血を繋いでいく。
働いた雲がゆっくり流れてる 市井美春
寛政12年ころ(1800)に出生したとされる三女・阿栄に関しては、
彼女が20歳のころから『葛飾北斎伝』にしばしば登場する。
「阿栄は、天才的な画才あり、画名を応為という。絵師・堤等琳の弟子
南沢等明に嫁ぐが、等明は余りパッとしない絵描きであったので、画才
のある阿栄は、そんな夫に嫌気がさし『未練なく離婚、実家に戻る』と
ある。阿栄については、別頁を割いて書くことにするが、この阿栄の下
に四女・阿猶(なお)が目が悪くして生まれ早死にしたという説がある。
『北斎伝』に「文政4年11月13日、北斎の娘と推定される人物が没
するとある」が、次女・阿鉄のことなのか、阿猶のことなのか、詳しい
ことは不明である。
ペナルティみたいだなあと年をとる 美馬りゅうこ
朝顔美人図
落款における「辰女」「栄女」の「女」が上の字より小さいなど筆跡が
類似し、手や指、頭髪などの細部描写が一致することから、応為の若い
ころ、南沢等明に嫁していた頃の作品とみられている。
『無名翁随筆』
「南沢等明との結婚生活」
南沢等明は応為(阿栄)の夫として名は知られつつあるが、実のところ、
作品も知られていなければ、生没年も分かっていない。渓斎英泉の『無
名翁随筆』には、等明は「堤派系図」に名前のみあり、関根只誠「浮世
絵百家伝」では「履歴不詳」井上和雄「浮世絵師伝」に至り、ようやく
「三代等琳門人、文政期、堤を称す。南沢氏、俗称吉之助、橋本町二丁
目水油屋庄兵衛の男なり、北斎の娘阿栄を妻とせしが、後之を離縁す」
と出てくる。関場忠武『浮世絵編年史』にも「三女名は栄、亦画を能く
し三代等琳の門人南沢船二に嫁せしが後、離別せり、一文人形の元祖は
即、此栄女なり」と、名がみられる程度である。
応為が南沢等明に嫁いだからには、その間、堤派の絵師に数えられてし
かるべきである。が、堤派系図にも応為と言う名も、辰女という名も出
てこない。家事もせず、芥子人形を作っていて、等明の仕事も手伝わな
ければ、絵の拙所を笑ったというのだから、等明の絵に対する仕事ぶり
にそれ相応の不満があったのだろう。夫と同じに見られたくない、しか
し嫁ぎ先で「葛飾」姓を名乗る訳にもいかず、また「堤」とも名乗りた
くない。そこで「朝顔美人図」のような軸物の落款には、敢えて「北斎
娘」と書いた。応為にしてみれば、等明の画業よりも、北斎のもとでの
画業の方が興味を引いたのだろうことは、北斎一門との画巻や北斎一門
が関わったと推定される洋風風俗画の存在からも、確かなことである。
何につけても、等明と阿栄は心擦り合わず、離縁に漕ぎつけてしまった。
とどのつまり
「阿栄、家に帰りて再嫁せず、「応為」と号し、父の業を助く」となる。
それだけの事だったのか離婚印 目黒友遊
北斎の妻であり、阿栄の母である小兎は、文政11年(1828)6月
6日に死ぬ。小兎が没した時、北斎は69歳になっていた。小兎の生前
に阿栄が離縁されたとすると、以後、再嫁せず、北斎のもとにいた理由
も、一人になった父・北斎と暮らす必要を感じたからではなかったか。
嫁ぎ先では「心かなわずして離縁された」とされる阿栄だが、離縁後は
父・北斎の傍にいようと、決めた、厚い親思いの気持があったのだろう。
踏みだした所にシッポがあったから 宮井いずみ
左の文字は栄女筆
大海原に帆掛船図
「天才絵師・阿栄」
《大海原に帆掛け船図》「狂歌国尽」文化七年(1809)頃
画才は娘たちばかりに受け継がれたようで、阿栄の天才ぶりは、10歳
のころ『狂歌国尽』に、北斎ほか門人ともに挿絵に「栄女筆」の署名で
『大海原に帆掛船図』を描いたとある。
文政7年、24歳の頃、シーボルトが持ち帰った水彩画のうち「商家図」
に文政7年の年記あり、この頃、南沢等明に嫁しており「辰女」の画名
を用いている。天保4年(1833)のころ、渓斎英泉『无名翁随筆』
には「女子栄女 画を善す、父に随て今 画師をなす、名手なり」とある。
選ばれたのね天使が膝に乗っている 大内せつ子
夜桜美人図
「余の美人画は、お栄に及ばざるなり、お栄は巧妙に描きて、よく画法
にかなえり」 これは北斎が、娘お栄を評して言った言葉である。
天才浮世絵師である父・北斎にここまで言わせ、時には北斎の肉筆画の
代筆や彩色をしたといわれる。また、応為自身にも弟子がおり、裕福な
商家や武家の娘の家を訪問して、家庭教師のような形で絵を教えていた、
こともある。
『阿栄門人あり、大抵商家の娘、および旗下の士の娘などなりし、晩
年には、自往きて教授せり』
くしゃみしたらあかんねこが目を覚ます 宮井いずみ
画号に適当な由来がある。父の北斎が娘の事を「エイ」とは呼ばず、い
つも「おーい」と呼んだ。そこからそのまま「応為」とした。オーイ即
ち呼び声である。27歳のとき、南沢等明と離婚してからは、画から離
れられず、北斎の世話をしながら一緒に暮らし、自らも描き、父の絵の
制作助手を務めた。北斎の『富嶽36景』も、所々、阿栄が描いたもの
といわれる。北斎が没して、阿栄51歳の頃、飯島虚心『浮世絵師 歌川
列伝』には「北斎36景の模造品あり、北斎の死後、応為の手になり出
版されたものか」とある。応為は北斎が遣り残した未完成36景を、ず
っとそれを手伝っていたことでもあり、完成させたのだろう。
粒選りの愛を一粒持っている みぎわはな
「北斎の死」
嘉永2年(1849)北斎と応為は、浅草聖天町の遍照院境内の仮宅に
居た。『馬琴日記』2月25日の条には、
「中村勝五郎来る(勝五郎とは板元)…画工北斎、此のせつ大病のよし、
勝五郎の話也」とある。さすがの北斎も、90歳を迎えた2月には大病
を患っていた。『葛飾北斎伝』では「嘉永二年、翁病に罹り、医薬効あ
らず。是よりさき、医師窃(ひそか)に娘阿栄に謂いて曰く、”老病なり
医すべからく”と。門人および旧友等来たりて、看護日々怠りなし」この
文に続いて、北斎最後の言葉として有名な「翁死に臨み、大息し、天我
をして十年の命を長うせしめば、といい、暫くして、更に謂いて曰く、
天我をして五年の命をば保たしめば、真正の画工となるを得べし、と言
い終わりて死す。実に四月十八日なり」と吐いたともある。
「天我をして…」の言葉は、臨終に立ち会った者が聞いたことになるが、
応為だったのか、加瀬崎十郎が立ち会ったのか。
天国は死ぬ心配がありません 寺川弘一
あたしはあたしのままがいい
北斎が没し、北斎の家族で残ったのは、阿栄と弟・崎十郎だけになった。
阿栄も北斎が死んだときは、「悲嘆やるかたなく安座することも出来な
かった」という。そんな阿栄に崎十郎は、本郷弓町の自分の居宅に来て、
共に住むようにと何度も説得に通い勧めた。が、阿栄は、堅苦しいとこ
ろは性に合わないと拒絶し続けた。しかし安政の大地震(1855)で、
住むところを失った阿栄は、本郷弓町の加瀬家へ移り住むことにした。
しかし加瀬家にあっても、応為の性格はあたかも男子のようで、崎十郎
の奥とは合わなかった。弟夫婦の家に変人姉が転がり込めば、仲睦まじ
くとは、いかなかった。また、阿栄も溶け込めなかった。
白井孝義氏曰く、「阿栄は、余が母方の祖父・加瀬崎十郎の家に居りし
が、その気性、恰も男子のごとくなれば、祖母と善からず。常に曰く、
妾(わらわ)は筆一枝あらば、衣食を得ること難からず。何ぞ区々たる
家計を事とせんやと」父・北斎と暮らした30年のシミはなかなか落ち
なかった。また落したくもなかったのだろう。
(白井孝義氏は、崎十郎の娘・多知の息子で、北斎からすれば曽孫)
真っ直ぐな息吐く海に還るまで 太田のりこ
「応為の行方」
『葛飾北斎伝』には「安政4年の夏、応為は加瀬家を出て、戸塚へ向かっ
たのを最後に、行方知れずになってしまった」とある。
関根只誠の『浮世絵百家伝』には「栄女が没年詳ならずといえども、安政
2,3年のころ、加州候寡婦の老衰を憐れみ、扶持せられしが、遂に金沢
に於いて、病に罹り没せしよしにききぬ」とある。
この記録を最後に、以後、応為の行方は分からない。二説を合わせて考え
た時、安政4年の夏に応為は江戸を出て、戸塚に絵を描きに行き、その後、
それ以前に聞いていた寡婦を扶持した加賀藩主の情報を頼り、そのまま加
州金沢に赴き当地で病没した、ということになる。
別に淋しくないの生き死にはひとり 靏田寿子
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