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川柳的逍遥 人の世の一家言
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隠すものはないこれがわたくしです  市井美春




「謎かけ戯画‐鰻」


        『朝日奈三郎平ノ義秀』(勝川春朗)
  鰻とかけて 儘ならぬ恋路ととく………… 
                     さかれてのちに身をこがす


 

れんこんの穴を覗いた楽屋落ち  山本早苗


「北斎の真骨頂」極力年譜に沿って


 
 (各画像を拡大してご覧ください)
「江都両国橋夕凉花火の図」(春朗) 1779~1794 (19歳)



北斎は19歳の頃、役者絵の名手・勝川春章に入門し、20歳で春朗
号し「役者絵」を描き始める。この頃の北斎の画業で特筆すべきは「浮
絵」
を描いていることだ。浮絵とは、浮世絵の様式の一つ。西洋の「透
視画法」
を応用したもので、建物などが手前に浮き出るように見えるこ
とから名づけられた。北斎は春朗の時期に11点の浮絵を手掛けている。

モナリザに描き足してみる笑い皴  前川 真

(画像をクリックすると拡大されます)
  「駿州江尻」 1830-32 (70~72歳)



零点透視図法は、遠くのものほど小さく描くだけで遠近感を与えられる
「遠近法」である。これの特徴は、一点透視図法のような奥行を表現す
る直線がないということである。上の図を見ると、手前の山が富士山よ
りも大きかったり、奥に行くほど人が小さく描かれたりしている。が、
直線はほぼ描かれていない。

そない言うても下が透けてるかずら橋  宮井いずみ


「四代目半四郎(かくし)」 1779  (20歳) 



20歳のとき、春朗(北斎)の名で、役者絵デビューした作品。
北斎といえばユーモアと奇想天外が個性。この頃はまだ、北斎らしいところ
は影もみせていない。

鬼灯を鳴らして肩で風きって   森田律子

 
「夏の朝」 1801~1807   (41-47歳)



北斎は青年期から壮年期にかけて、数多くの「美人画」を描いている。
宗理と名乗った30代後半、瓜実顔に富士額、ほっそりスタイルの「宗
理型美人」を確立した。
水盤には金魚が泳ぎ、手前の鏡の蓋には、茶碗が置かれ金魚が浮かぶ、
その横に歯磨き粉と爪楊枝、釣り衣桁に掛けられた着物は、男物である。
そこに誰がいるのか、謎を含んだ絵の仕立てになっている。

待つことに慣れた女の膝がしら  杉浦多津子


  「酔余美人図」



40代後半に描いた作品。対角線を描くようにして三味線箱にもたれ、
酔いを覚ましている芸者の姿態はこのうえなく艶めかしい。
多くの絵師は、総じて自分の得意なジャンルに特化して画業を極めて
いる。若冲なら花鳥画、歌麿なら美人画というように。北斎は「何で
もござれ」の天才絵師なのである。

サプリより酒に機嫌の良い身体  清水久美子


  くだんうしがふち 1804~09 1(43-49歳)



木版画西洋画に挑戦する。9段坂の牛が淵を描いた風景版画。
キャンバス左上に「くだんうしがふち」という、欧文の筆記体のような
文字、周囲には額縁のような縁取りと、洋風表現が強調されている。
北斎の油絵画風の木版画の中で、特に傑作として評判が高い作品である。

浮世絵の中に流れるフランス国歌  蟹口和枝


「転ぶ駕籠かき」 (1804~18) (43-57歳)



ここではコントの世界へ、駕籠が大きく傾き、中の客が空に足を突き出
しながら、落っこちそうになっている。一方、2人の駕籠かきは動じず
呑気な表情。「点のような目鼻、細長い手足の人物たちを面白おかしく
描いたこの戯画スタイル」「鳥羽絵」と呼ぶ。

アドリブを拾って歩く散歩道  みつ木もも花

    
鳥羽絵集会 「お稽古」  「身づくろい」



「鳥羽絵は」江戸時代初期から中期の京都で生まれたとされ、享保20
年(1720)に大坂で出版された大岡春朴の『鳥羽絵三国志』竹原春
潮斎『鳥羽絵欠留』(とばえあくびどめ)が大流行し、全国各地に広
まった。そこに描かれる人物は、「目が小さく、鼻が低く、口が大きく、
極端に手足が細長いという
特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」
の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)に由
来するものとされる。 江戸でも名だたる浮世絵師が描いており、読本
挿絵に没頭していた40~50代頃の北斎もそのうちの一人。どれも北
斎らしい軽妙さとユーモアのセンスがキラリと光っている。

思いきり顔を拭いたらずんべらぼん  木本朱夏

    
 「文字絵」(小野小町)1810頃 (50歳)




「おのの小丁」の五文字え輪郭や衣紋が表されているが、これが巧妙で
意外と解読が難しい。「遊び絵」であるが、歌人たちの優美さもちゃん
と描かれている。北斎の六歌仙シリーズは、平安初期の優れた歌人たち
を文字絵で表したもの。「文字絵」は江戸時代に流行し、隠された文字
を解読して楽しむ遊び絵。仮名や漢字を組み合わせた歌仙たちの名前で
肖像を描いている。北斎も楽しみ、ほくそ笑んで描いていただろう。

藤色の基礎体温が高くなる  吉松澄子

   
 在原業平 




北斎による文字絵で、平安時代の和歌の名人である六歌仙の在原業平
歌仙シリーズの一枚。歌仙の名前の文字を、衣文線に用いた文字絵を、
北斎ならではの構成力で巧みに文字を組み込み、典雅な歌仙絵の世界
を見事に描き出している。「在原業平」は、「在ハラのなり平」の文
字で構成され、「在」の草書体が前身頃に、「ハら」は向かって左側
の袖、「の」は右側の脚「な」は右側の肩「り平」は、後ろに引いた
裾(きょ)で表現している。

クレヨンを掴めば壁は子の宇宙  山田こいし





「寄せる波と引く波」



北斎漫画二編「寄せる波と引く波」において北斎は、波の動きに合わせ
てその形を描き分けようとしている。(おそらく)実際に浜辺に立って、
長いこと海を見つめ、丹念に写生したのだろう。
風や滝、富士山など、とことんまで拘りぬいたモチーフは、数多くある。

空は画布ファンタジックな絵を描く  八木侑子


  「琉球八景」 1818  (58歳)



前回は壮観の「東海道名所一覧」を出したが、今回は「琉球八景」。
享和3年(1803)、北斎のライバル絵師とされる鍬形蕙斎(くわが
たけいさい)の鳥瞰図が大ヒットし、数年後に北斎もそれを参考にして
鳥瞰図に取り組んだ。鍬形蕙斎から「よく人の真似をする」されたほど、
実は北斎には、他の絵師の作品に影響を受けて?描いたものが多々ある。
彫師は北斎お気に入りの凄腕職人、江川仙太郎(留吉)が務めた。「こ
のやろう」といいながら性格的にも留吉と北斎とは気があったのだろう。

俯瞰でみたらなんか淋しい馬と鹿  酒井かがり


    「驟雨」 1824-1826    (64歳)



署名はないが「北斎画」といわれている。オランダ製の紙に描かれて、
光が木々の合間に立つ人物を照らし出しているところなど、まるでスト
ロボがあたっているかのよう。意識的に自分でいままでのスタイルを変
えて、常にあたらしいものに挑戦する北斎を見る。応為も手伝っている。

雨の日に雨をなじっちゃいけません  清水すみれ


「富嶽三十六景江戸日本橋」 1831   (71歳)



歌川広重「自分の絵は見たままの景色を写しているのに対し、北斎の
絵は構成の面白さに主眼をおいている」というように北斎「定番を嫌
った
」。「富嶽三十六景江戸日本橋」図を見ても、透視図法に目を奪わ
れてしまうが、日本橋というのに橋は描いていないし、日本橋を象徴す
る往来の賑わいも、あえて手前に描き、人々の頭しか見せず「これが日
本橋でござい」というのである。これが北斎なのだー。

反則のような笑顔で攻めてくる  平井美智子


「富嶽三十六景 甲州三坂水面」 1831  (71歳)



これ絵も掲載は二度目である。北斎のユーモアと言うべきか、面白いと
ころは「平気で嘘をつく」ことである。上の絵は夏の富士山さんなのに、
水面に映る富士は雪を被った冬の富士である。
「諸国滝巡り 和州吉野義経馬洗滝」にしても、歴史の記録を探しても、
見てきたように描いているが、吉野にこのような名称の滝はない。面白
がっているとしか思えない。平気で嘘をついているのである。

キャンパスの海で一日中遊ぶ  柴田比呂志


  「百物語」 1831  (71歳ー)



北斎が描く「百物語」は歌舞伎の演目が多い。その代表的なのが「お岩
さん」
一般的には、お岩さんの顔は、目がつぶれて額まで大きく腫れあ
がっている。ところが、北斎の描くお岩さんは小顔で大きく目を見開い
ている。お岩が提灯に乗り移り、提灯の破れた部分を口にして、情けな
い顔で「助けてー」とか何かを叫んでいるようだ。恐ろしいというより
滑稽で慰めてやりたくなる。「うらめしやー」がセリフなのに。

おんばさらうんうんうんと・・・  山口ろっぱ

          
 「北斎が描いた描いた[日新除魔」」 1843~44    (83-84歳) 



83歳を迎えた天保13年(1842)から1年程の間、北斎「日新
除魔」と称して唐獅子や獅子舞の絵を毎日描いた。朝起きて、ササッと
一枚描いては丸めて家の外に捨て、応為や弟子たちが拾い集めたという。
獅子頭をかぶった人物が片足で立ちながら、御幣(ごへい)を振り回し
て生き生きと舞っている。見るからにサラッと素早く描かれたことが分
るが、その熟達した筆致と躍動感はさすがの一語につきる。
日によって表情や動き、手に持つものが異なり、毎日の北斎の心境も表
れているようで、見ていて飽きない。当時、放蕩の孫にほとほと困り果
てていたことから、その魔除けとして描かれたのではという説もある。

呪いは効いたでせうか柘榴の木  内田真理子


「八十三歳自画像」1843     (83歳)



北斎が83歳、ちょうど「日新除魔」を描いていた頃の自画像である。
これも二度目の登場で注文作などではなく、41,2歳頃の作品への質
問に対する返信状に描かれたもの。右には直筆で「みしゆく(未熟)の
業 御容捨之上 御一笑」とあり、当時の自分を「未熟」と評している。
北斎は『富嶽百景』初篇の跋文でも70歳以前に描いた作品は取るに足
りないと書いており、80歳でますます上達し、さらに百何十歳にもな
れば、ようやく一点一格が生きているように描けるだろうと信じていた。
北斎の自画像はいくつか残されているが、この図は北斎晩年の風貌をよ
く伝えている。常に貧乏で、身なりに全く気を遣わなかったと有名だが、
質素な着物の描写からその生活ぶりがうかがえる。

ええかっこしいが出てくる副作用  きゅういち


「雪中虎図」
 1849 (90歳)



雪の中を満足気な表情を浮かべながら駆け上がっていく一匹の虎。
北斎は、この肉筆画を描いた僅か3か月後、90歳で亡くなる。

葬儀までデザインをして逝きはった  前中一晃

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