ポリバケツ履いて帰ってきてしまう 森田律子
東海道名所一覧
鳥の目を持つ北斎が、東海道53次を一望するという鳥観図を描いた。
北斎の北斎らしい一枚である。雪舟の『天橋立図』に対抗して描いた
北斎の負けず嫌いも凄いが、版木に再現した彫り師の技も超人的だ。
七並べから始まったいけずの芽 オカダキキ
「北斎の逸話」 奇人といわれた北斎
葛飾北斎伝
明治26年(1893)に飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』という本を
編むにあたって、凡例のなかで次のように述べている。
嘉永2年(1849)北斎が没して、43年の月日が流れている。
「まず遺族を尋ねようとしたが、所在が明らかでなく、菩提寺の誓教寺
を訪れ寺僧に問うが、すでに子孫は絶えたことを聞く。次に、直接北斎
と面談のあった古老を捜すが、存命するのは、戯作者の四方梅彦(柳亭
種彦門人)と門人の露木為一の二人で、他はニ三度面談したことがあっ
たという考証家の関根只誠(しせい)と戸崎某(本所石原で菓子商を営
む狂歌子・文志)の四名から、多くの情報を得た」としている。そして
「かつて北斎の版本を出版したことのある版元を尋ねるものの、すでに
閉店した店も多く、調査できたのは三店だけであったが、書簡数通と遺
事のいくつかを知り得た」とある。
アドリブを拾って歩く散歩道 みつ木もも花
これら東京での調査の他に、「天保年間(1830-1844)に一時潜居したと
される相州浦賀を訪れ、また名古屋の永楽屋東四郎の店と、文化14年
の同地で描いた120畳大の「大達磨の図」の所在をも調べた」引用し
た文献としては13種類の書名と美術誌の一誌を提げ、これらによって
纏めたことを明記した。ただ虚心自身が凡例で述べているように、内容
の多くは北斎と面談したことのある人たちからの聞き取りを行ったまま、
弁証することなく、紹介するに止まっていることに信憑性を欠く憾みが
ある。だが北斎像の大半は、この一書に収録されている動静や人間性に
よるところが極めて大きく、今日でも広く一般にイメージされている北
斎像は、この『葛飾北斎伝』が出発点なのである。
哲学の道の途中で足す小用 藤井孝作
自らを画狂とした自画像
この北斎伝には、史学者で貴族院勅選議員でもあった、重野安繹(やす
つぐ)が序文を寄せて、冒頭から「画工北斎奇人也」と北斎は「奇人」
であると断じている。何をもって奇人としているのかは、やはり虚心の
聞き取りによる話の内容が大きく原因しているのだろう。例えば、度重
なる転居、乱雑な環境での生活、日常の振舞と風貌などがあげられる。
それを虚心がどのように描いているのか。
「性転居お癖あり、広益諸家人名録に、住所不定とす、生涯の転居93
回、甚だしきは一日三所に転せしときありとそ」
「又懶惰(らいだ)にして居室を掃除せず、常に弊衣を着し、竹の皮や
炭俵など左右に取り散らかして、汚穢(おあい)が極まれば、即居を転
して他に移る、という……」
身のほどを知っているから迷わない 橋倉久美子
「まずは四方梅彦氏からの聞き取り」
「四方梅彦氏が言うには、北斎は転居の癖があった。私はかつて北斎の
引っ越し癖の疑問に対して、言った。引っ越し三百といって諺があって、
先生のように度重なる引っ越しでは、たとえ富裕であっても、終には費
用に追われて、生活に困ることとなってしまうでしょう。部屋の汚穢を
嫌って引っ越そうと思うのであれば、人を雇って掃除させれば良いので
はないか」と言った。北斎は、微笑んで、「幕府の寺町百庵という人が
あって、この人は生涯に百回引っ越すと目標をたてて百庵と号し、いま
九十数回の引っ越しをして、そのうえで死に場所(最後の居宅)を占っ
て定める」と言った。
ぴったりの甲羅磨いているところ 津田照子
転居先で息つくカッパ
嘉永元年、北斎は本所から浅草聖天町の遍照院境内に転居。
「梅彦氏が言うには、北斎が遍照院境内の長屋へ移転して来た時に、一
首の狂歌を詠んで贈ったところ、北斎は大いに喜んだ。その狂歌は「百
越もおろか千里の馬道へ まんねんちかくきたの翁は」というものであ
った。北斎は生涯葛飾の里に居住して死ぬのだと言っていたが、浅草に
来た翌年、終にこの地で死去した。
案ずるに、この狂歌の大意は「北斎の転居の癖は諫めても、無駄なので、
百回でも二百回でも壮健なうちは行うべきだ。命あってこそあってこそ
転居も可能なのだから、という意味を含めて、北斎の年齢もまた百歳を
超えて欲しいと、祝ったものである」
紙オムツついに汚さず逝った父 渋谷さくら
北斎が転居を繰り返していたことは、一時親交のあった曲亭馬琴が「居
を転すると、名をかゆることは、このをとこほどほどしば々なるはなし」
(『曲亭来簡集』)としていることからも、虚心の聞き書きも、北斎と
直接交わりのあった四方梅彦らからの話が大半を占めているので、信憑
性は十分ある。だが、文中の「生涯の転居93回、甚だしきは一日三所
に転せしことありとそ、の部分は、?である」93回というのは、何処
から出た数なのか、北斎が四方種彦に語ったというように、90余の転
居を行なったというのであればまだしも、93回という具体的な数には
疑問を投げかけざるを得ない。
転居通知届く日記の真ん中に 新川弘子
「転居癖に続き、乱雑な生活について」
北斎下仮宅の図
北斎の弟子・露木為一が描いた84歳の北斎と娘・お栄の住んだ仮宅。
2人は、本所亀沢町榿馬場(はんのきばば)という場所に住んでいたと
され、今もある「稲荷神社」の横に長屋らしきものがあったとされる。
関根只誠が、嘗て浅草なる翁の居を訪いし時、「翁は破れたる衣を着て、
机に向い、その横に、食物を包みし竹の皮など、散りちらしありて、そ
の不潔なりしが、娘・阿栄(おえい)も、その塵埃の中に座して描き居
たりし。そのころ翁歳八十九、頭髪白くして、面貌痩せたりと雖(いえ
ど)、気力青年の如く、百歳の余も生きぬべしとおもひしが、俄然九十
にして死せり、惜しむべし」と同氏の話なり。また「翁の面貌は、痩せ
て鼻目常人と異ならざれども、ただ耳は巨大なり」いう。
ちはやぶる神はとっくに転勤す 田口和代
北斎の上の貼り紙には
画帖扇面之儀は堅く御断申候
三浦八右衛門
娘 ゑい
為一 国保
過日、露木為一氏は、北斎が本所亀沢町榿婆に住んでいた時の有様を描
いて、私に贈ってくれた。この図中で、炬燵を背にして布団を肩にかけ
筆を執っているのが北斎で、その傍らに座り作画の様子を見ているのが、
お栄である。室内の様子はいづれも荒れ果てて、北斎の傍らの杉戸には
「画帖、扇面之儀ハ、堅く御断申候、三浦屋八右衛門」と書いた紙が貼
ってある。又、お栄の傍らの柱には、蜜柑箱を釘づけにして中に日蓮の
像を安置している。火鉢の傍らには、佐倉炭の俵や土産物の桜餅が入っ
ていた籠、鮓を包んでいた竹の皮などが取り散らかされ、物置や掃溜め
などと同様な状況である。
按ずるに、北斎翁仏法を信じ、日蓮宗に入り、深く日蓮を尊敬せしもの
と思われる。
玄関に倒したままの竹箒 森田律子
四方梅彦氏が言うのには、「北斎は礼儀や減り下ることを好まず、性
格はとても淡泊で、知人に会っても頭を下げることはなく、ただ「今
日は」というか「イヤ」と言うだけで、四季の暑さや寒さや、体調の
具合など長々と喋ることはなかった。また、買ってきた食べ物や、人
から贈られた食べ物も器に移さず、包みの竹の皮や重箱であっても、
構うことなく自分の前に置き、箸も使わないで、直に手で掴んで喰い
食べ尽くすと、重箱や竹の皮はそのままに捨て置いていた」 という。
「ふ~ん」「へぇ~」午後のカップの聞き上手 百々寿子
清水氏曰く、戸崎氏誉翁を訪いし時「翁机によりも筆をもて、室の一隅
を指し、娘阿栄を呼びて曰く、「昨夕まで此に蛛(くも)網のかかりて
ありしが、如何にして失せたりけん、爾(そう)ならずや」阿栄首を傾
げ、すかしみて、大に怪しみ居たり。戸崎氏出でて人に語りて曰く「北
斎および阿栄の懶惰(らんだ・なまけおこたること)にして、不潔なる
ことは、此の一事にても知るべし」。
戸崎氏曰く「北斎翁、本所石原片町に住せし時は、煮売酒店の隣家にて、
三食の供膳は、皆この酒店より運びたり。故に家には、一の飯器なし。
唯土瓶、茶碗二三個あるのみ。客来れば、隣の小奴を呼び、土瓶を出し、
茶をといい、茶を入れさせて、客に勧めたり」と。
ひと巡りして真実になる噂 橋倉久美子
露木氏曰く、「翁誉自ら謂て言うには『余は枇杷葉湯に反し、九月下旬
より四月上旬までは、炬燵を離るることなしと。されば如何なる人に面
会すとも、誉炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時
は、傍らの枕を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の
袖は、無益なりとて、つけざしし。昼夜かくの如く、炬燵を離れざれば、
炭火にては、逆上(のぼ)すとて、常に炭団を用いたり。故に布団には、
虱の生ずること夥し』と。
電気椅子大塚家具に誂える 雨森茂樹
北斎獅子の絵
北斎翁、本所榿馬場(はんのきばば)に住せし頃、毎朝小さき紙に獅子
を画き、まろめて家の外に捨てたり。或人、偶(たまたま)拾い取りて
披(ひら)きみれば、獅子の画にして、行筆軽快、尋常にあらず。より
て翁に就き賛を請う。翁即ち筆を採りて、
「年の暮さてもいそがし、さはがしし」
或人更に翁に問う。
「何の故に毎朝獅子を画きて捨て給うや」
翁の曰く、
「これ我が孫なる悪魔を払う禁呪なり」
故杉田玄端氏の話なるよし。乙骨氏いへり。奇といふべし。画工・翆軒
竹葉、誉この獅子の画、数十葉を蔵せしが、日課に画きたるものなれば、
一葉ごとに月日をしるしてあり。紙は、皆半紙なりとぞ。又按ずるに、
書中一行禅師、一生キンメイ録とあれど、キンメイ録といふ書なし。蓋
(けだし)看命一掌金なるべし、禅師は唐の人なり
自由律であるはずなのに見る 埃 小林満寿夫
絵の分解—北斎の様子を書いた北斎の上の文を読み解くー
<卍翁が人に語るには、我は枇杷葉湯に反し、九月下旬より四月上旬ま
では、炬燵を離るることなしと。されば、如何なる人に面会すとも、誉
炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時は、傍らの枕
を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の袖は、無益な
りとて、不付(つけない)よし。>
その左、一段下がって
本所亀岡町はんの木馬場假宅(仮宅)の躰老人長く住居…
ゑかく
御物語 御目通し…
昼夜如斯なる故炭にてハ、逆上なす故炭団を用ゆ
然るゆへ虱の湧ことたとゆるに物なし
左下、お栄の上の文
娘 ゑ以
角一畳分 板敷分、佐倉炭俵土産物の桜餅の籠
鮓の竹の皮 物置ト掃溜と兼帯之
お栄ー左横の箱の上
蜜柑箱に高(く)祀像ヲ安置す
山惑へ笑いとばして阿弥陀像 小嶋くまひこ
[3回]