川柳的逍遥 人の世の一家言
平成二十九年 酉年元旦 「吉日は昨日になって夜は明ける」 十二支の動物に現代の代表的なペットである猫が入っていません。 なぜなのでしょう。 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥を十二支といい、 その漢字は、3千年前の中国の時代には、すでに方角や時刻・年・ 日などを表すのに実際に使われていました。 しかし、当時の十二支には、まだ動物の名はあてられていません。 元々ネズミ・ウシ・トラ・といった意をはめる意識はなかったのです。 それが十二支に動物の名をあてはめようと考えたのは、無学の庶民に 十二支を浸透させるためで、中国・戦国時代(紀元前480~247年)の頃と いわれています。その動物たちは、もともと中国に馴染みの深い動物 たちを選び適当に当てはめたというのが、「十二支=十二の動物」の 真相のようで子がネズミ、午がウマ、丑がウシ、酉がトリでなくても よかったのです。 それにしても、どうして猫が選抜の中に入らなかったのでしょうか? 答えは簡単、当時、中国には、まだ猫はいなかったというだけのこと。 中国に猫が入ってくるのは、十二支の選抜から、遅れること約2百年 中東からくるのを待たねばなりません。 『日本つくり話』 むかしむかし神様が元旦、動物たちに 「私の社に1番から12番目までに来たものを1年交代で大将にする」 というお遊びを思いつきました。 それを聞いた動物たちは、我こそが一番になるんだと戦々恐々です。 明ける朝が待てず、足ののろい牛などは前日の夜中から出発します。 ちゃっかり者のネズミは、猫に競争日を2日と教え、牛の背中に隠れ、 腕力がある虎はマイペースの走り、兎は虎に食われない距離を保ち健 脚を発揮、竜と蛇は無駄足が多く、馬と羊は尻を叩かないと走りません。 猿・鳥・犬は桃太郎時代を懐かしみ、ぺちゃくちゃお喋りしながら走り、 方向音痴の猪は、アッチへ突進、こっちへ猛進しながらの走りのために、 いいスピードを持っていながら、12着ギリギリに入ってきたのでした。 結果は、前日の夜中に出発していた牛が、実は一番に到着したのですが、 ゴール直前に牛の背中に隠れていたネズミが飛び降り一着のテープを 切ったので、牛は二着になってしまいました。 それを目の当たりにした牛もさすがに「モゥー!」と腹を立てたとか。 茶助 PR
神前へ世界の無理が溜まってる 喜柳
「平和な江戸へ」(江戸川柳を楽しむ) 「千姫」(1597~1666) 猛火落城の際、家康は「千姫を救い出した者には、千姫をとらす」と大声 で叫び、孫の救助を求めました。誰もがたじろぐなかで、紅蓮の炎の中に 飛び込んだのが坂井出羽守。彼は全身にひどい火傷を負いながらも千姫を 救出しました。しかし家康は千姫を坂崎の顔が火傷で妖怪のようになった ただとき ことから与えず、伊勢・桑名城主の本多忠政の息子の忠刻に嫁がせました。 恨んだ坂崎は忠刻を待ち伏せして、斬り付けたため切腹させられました。 恨む相手は家康と思いますが、その忠刻も間もなく病死し、千姫は江戸番 町の吉田御殿に移りました。30そこそこで未亡人になり、以後、夫を持 たなかったので、男漁りの毎日とか、賞味した男はなぶり殺しにしたかと いう噂が立ち、 振り袖で天命をしる吉田町 ―振り袖は独身の証明。天命は男たちの天命。 千姫は狂死したとされていますが、実際は忠刻の死の直後に仏門に入り、 天樹院と号し、自家の持仏堂に最初の夫の秀頼、二番目の忠刻、自分の ために死んだ坂崎の位牌を安置して、静かな弔いの日々を過ごし、三代 将軍・家光の乳母の春日局のよき相談役になり、73歳まで生きました。 男漁りやなぶり殺しは「火のない所に煙はたたない」逆例でしょう。 吉田町皆雑兵の手にかかり ―この句、千姫を詠んだとしているが、千姫が雑兵では意味が通じない。 この吉田町は江戸・本所の吉田町。夜鷹の巣窟で、彼女たちが梅毒患者 だったことから雑兵は梅毒。 憂苦界花も楽しむものにせず 佃丸 「春日局」(1579~1643) 二代将軍・秀忠夫妻は、三代将軍は次男の家光にほぼ決まっていたのに、 寵愛する三男の忠長を就かせようと画策しました。驚いた家光の乳母の 春日局は、 駿河まで行くは大きな抜け参り ―抜け参りは家人に告げないお参り。 伊勢参りと称し春日局は密かに駿河の家康を訪ね、将軍を家光にするよう 頼み込みました。これが奏し、家光は大御所から正式に指名を受けました。 将軍になれなかった忠長は自暴自棄に陥り、やがて発狂して自殺。将軍で ない方が気楽で良いと思いますが、どんなものでしょう。 元和2年(1616)、家康は75歳で波乱に満ちた生涯を閉じ、江戸を守る 目的で、鬼門の日光に「東照大権現」として祀られました。 御祭礼四十九で三十六里也 ―例祭は4月と9月。江戸と日光間は36里(138キロ)。 家康の功績は、戦争のない時代を切り開いたことで、 泰平の世は兵法も腹ごなし 虫も利も食うは御代の鎧也 ―鎧を質に入れても利子がかかると。 家康は鯛の天ぷらを食べて腹を壊し、死んだとされていますが、淋病菌が 脳に回ったという説もあります。 西に入る 月を誘い 法をえて 今日で火宅を 逃れけるかな 春日局 湯豆腐は波うちぎわですくい上げ 松鱸 慶安の変 「由比正雪」(1605~1651) 三代将軍・家光は参勤交代制を実施しました。大名が幕府に刃向かえない よう、その妻子を江戸に住まわせて人質とし、大名には在府一年在国一年 の勤務体制を採り、その往来で多額の路銀を使わせ財力を消耗させました。 この制度が、徳川幕府を長続きさせた最大の理由でしょう。 大名は一年おきに角をもぎ ―どの大名も国元には側室がいるから、江戸の正室は嫉妬で角が生え、 そこで一年おきの江戸勤務では機嫌をとったと。 また幕府の権威を示すため、約60の大名を取り潰しました。これにより 禄を失ったリストラ失業武士が巷に溢れ社会不安が増大。そこで由比正雪 と丸橋忠弥が共謀して、浪人武士をあおり立て、世直しクーデターを企て たのが「慶安の変」です。 家光の死去を合図に正雪は駿府城を、忠弥は江戸城を乗っ取り、別派は大 坂と京都で騒乱を起こすという大規模な計画でした。 正雪は江戸・牛込の寺子屋で、旗本の子弟に軍学を教えていたお師匠さん。 牛込のがっそう肝の太い奴 ―がっそうは軍学師のトレードマークのオールバックの頭。 正雪は駿河由比の染物屋の息子で、南朝方忠臣の楠木正成の子孫と自称し、 クーデターのために準備万端整え、旗までも用意しましたが、 菊水もよくよく見れば手前染め ―菊水は楠木氏の旗印。手前染めは家業と正成の子孫に掛けて、 自称だからいい加減なものと。 手筈が整ったところで仲間内から密告され、 ふてい奴江戸と駿河で捕らえられ 忠弥は、同士とともに江戸で捕まり処刑。正雪は由比で捕らわれる寸前に 毒をあおって自害しました。玉川上水に毒液を流し、江戸市民を皆殺しに する計画だったと伝わっていますが、玉川上水の工事開始は、この事件の 3年後のこと。川柳子は浮説を信じてしまい、 玉川の鮎もちっとで皆殺し 「慶安の変」の反省から、大名の取り潰しは極端に少なくなり、また幕府 が失業武士の再就職に乗り出すなど、政策変更が行なわれました。 この例を見るように意外と江戸時代の政治は、今の時代に比べて学習効果 が高く対応性にも、融通性にも富んでいたようです。 人間万事さまざまな馬鹿をする 和風
雲を掴んで通天閣は冬の景 桑原伸吉
大坂城落城の様子を描いた「真田武功の記」の付録 松代藩士が書いた真田家の合戦をまとめた古文書で、 最後に大坂の陣も記される。 「その後の真田の血流」 初代藩主・真田信之(1566~1658) 明暦3年(1657)、真田信之は91歳になってやっと隠居を許された。 これまで再三の隠居願いに対して4代将軍・徳川家綱は、 「真田は天下の飾り物(武士の鑑)」としてその願いを許さなかった。 幕府の許可を得た信之は、真田領13万石のうち、 2男の信政に松代10万石を信利(長子・信吉の2男)に沼田3万石を与えた。 ところが6ヶ月後、信政が急逝する。 残ったのは2歳である信政の5男・幸道(右衛門佐)だけであった。 信号がずっと黄色のままである 杉山ひさゆき 二代藩主・真田信政(1597~1658) 真田家に相続争いが起きる。 信利が松平城主の座を狙ったのである。 信利の母は、下馬将軍といわれた幕府の実力者・酒井忠清の叔母に当る。 背後に実力者を持つ信利は、強く松代藩主の座を要求した。 こうした事態に信之は「歴戦の強者」ぶりを発揮した。 「真田の魂、武門の意地にかけても松代は右衛門佐に譲る」 とする信之に圧力をかける忠清であったが、 信之の覇気と真田魂が家臣団をも動かした。 信之が後見となることで、幕府も幸道の家督相続を許した。 そして、信之は死ぬ間際まで後見であり続けた。 春が来る迄は無口で通す種 小林満寿夫 三代藩主・真田幸道(1657~1727) 信之の生涯には派手さはないものの、隠忍自重した行動と、 徳川家の忠臣の立場で真田本家を守った。 いわば信之は「守成の人」である。 信之が基礎を築いた松代藩10万石はその後、跡目争い、 火災、厳しい財政などを抱えながらも、一応は安定した統治を保ち続けた。 なお松代領主の座を望んで信之とぶつかった沼田城主で孫の信利は、 その後不行跡のゆえに改易処分とされている。 信之の慧眼が見事に当たったことになる。 シーザーの気持が分かる冷や奴 瀬渡良子 八代藩主・真田幸貫(1791~1852) 信之が松代藩に遺した財産は、30万両に及んだという。 のぶなり 3代・幸道の跡を継いだ信弘は、2代・信政の庶子・信就の7男である。 以後、信安・幸弘と信弘の血筋が続き、ここで男児が絶えたため、 ゆきたか 井伊家から迎えた養子が7代・幸専だあったがやはり男児に恵まれず、 ゆきつら 養子になったのが8代将軍・吉宗の曾孫・幸貫である。 幸貫は、「寛政の改革」で知られる老中・松平定信の2男でもある。 幸貫は、天保12年(1841)に真田家としては初の老中に就任する。 幸貫は幕末に「世界のなかの日本」を意識し「日本の国防」を見据えて 人材登用と殖産興業、幕政改革、軍制改革を果たした。 渋皮を不知火型に剥いて煮る くんじろう 十代藩主・真田幸民(1850-1903) この幸貫に感化され、世界を見据えるようになったのが佐久間象山である。 幸貫35歳、象山15歳。 この出会いが、君臣を超えた信頼と互いを認めることに繋がった。 象山の「海防八策」は幸貫の思想からでたといっても過言ではないだろう。 幸貫の孫・幸教が9代藩主になり、「藩校文武学校」をつくる。 しかしまたしても男児がなく、 むねなり ゆきもと 宇和島藩・伊達宗城の長男・幸民を10代藩主として迎えた。 幸民は戊辰戦争には新政府軍として2千3百の藩兵を飯山・会津などに 派遣して幕府方と戦った、最後の真田家藩主でもあった。 その後、松代藩知事となり廃藩置県で辞し、明治24年に伯爵となった。 困るではないか酒もメシも美味い 雨森茂樹
海のほう海のほうへと傾ぐ首 八上桐子
燃え落ちる大坂城 (モンタヌス日本誌) 「大坂城終焉」 数で劣り、疲労を極めた西軍はほぼ壊滅状態となり、 前線で采配を振るった西軍将のうち、大坂城本丸に帰還できたのは、 毛利勝永と大野治房ぐらいであった。 大阪城へ一番乗りを果たしたのは松平忠直の部隊である。 幸村隊を撃破し、本丸への一番槍は大いに満足したことだろう。 続いて東軍の将兵が次々と城内へなだれ込んだ。 気持から引き算ばかり12月 河村啓子 内通者が出て城内の台所から火の手が上がり、城内にいた秀頼、淀君、 大野治長らは「山里丸」と呼ばれる北側の曲輪に移動し食料蔵へ身を潜める。 日付は代わり、5月8日正午、秀頼や淀君が籠る蔵の中にはまだ大勢の 近習や武将たちがいた。 城外戦から帰還していた毛利勝永、真田大助たちである。 その間にも東軍の追手は山里丸に迫り、蔵は包囲された。 藁一本つかんだままでうかばれず 皆本 雅 家康74歳 最後の時と悟った一行は刃を手に取った。 淀君は蔵に火をつけるよう指示する。 銃弾の音が響くなか、点火と同時に彼らは己の身に刃を突きたてた。 若き大助も殉じている。 蔵は業火に包まれ、家康は大坂城を陥落させ念願の天下統一を実現した。 以後、日本を250年に及ぶ泰平の世へと導く偉業を果たした家康は、 この翌年4月17日、安堵したかのように世を去っている。 自画像はナスビのへたに彫っている 森田律子 九度山にいた幸村の妻子は、どうなったのだろうか。 家康に命じられ紀伊藩主・浅野長晟は領地を捜索。 5月19日に紀伊伊都郡にいた幸村の妻、竹林院と娘・あぐりを発見した。 3人の武士が警護していたという。 真田大八、阿梅は伊達政宗の家臣・片倉重綱に保護されて東北で生き残り、 阿梅は重綱が妻とし、大八は「8歳の時に京都で死んだ」という情報を流し、 実際に白石で暮す大八のことは家系図を書き替え、 「幸村の叔父・信伊のの孫」ということにして巧妙にその存在を隠した。 そこから大八は「片倉守信」として生き、息子の辰信の代に、 「すでに将軍家を憚るに及ばず」と内命を受けて姓を真田に復すまで、 凡そ100年の時を要した。 家康が築いた250年の平和江戸 明けぬ夜は無いって本当なんですか 高橋謡々 「幸村生存説」 薩摩に降りたつ幸村 夏の陣の最後の戦いでは、幸村の影武者が何人かいたため、 家康には複数の幸村の首が届けられ、どれが本人のものか分からなかった。 故に幸村は生存し、息子・大助とともに豊臣秀頼を守って薩摩へ落ち延びた という伝説が生まれた。 「花のようなる秀頼様を、鬼のような真田が連れて退きも退いたり加護島へ」 という俗謡が、戦後まもなく流行ったほどである。 鍵束のどれもが謎を孕んでる 徳山泰子 では身代わりとなった首は一体、誰のものなのか。 首実検に並べられた幸村とされるホンモノの首はどれなのか。 家康は本当の幸村の顔は知らない、そこへ幸村に恩がある御宿勘兵衛が、 「せめて首を葬ってやりたい」と家康に申し出てきた。、 「勘兵衛の選んだ首が本物であれば、首を葬った後腹を切るはず」 と考え、家康はその申し出を許した。 勘兵衛は幸村の首を躊躇なく選び、首を抱きしめて涙を流した。 そして丁重に首を葬った後、勘兵衛は腹を切って果てた。 家康は疑うことなく勘兵衛の選んだ首こそが、「本物の首である」とした。 さよならは濃霧のあとでやってくる 堀川正博 幸村が作った抜け穴 実際には、勘兵衛が選んだ首は、体形や顔立ちが幸村とよく似た家臣の 穴山小助ではないかとされる。 勘兵衛は小助とも涙を流し合える親しい間柄で、自然と泣くことができた。 一方、幸村は大坂城の抜け穴を使って脱出、 秀頼を守りながら薩摩に落ち延びたというのである。 『真田三代記』にも薩摩に下ったが、翌年10月に吐血して死去したと記す。 別の説では、しばらく薩摩で暮らした幸村、大助親子は、 巡礼姿で諸国を巡り、奥州大館に落ち着いたと言われている。 大館では真田紐を編んで生計を立て、後に酒造に転じて信濃屋を号したとも。 信濃屋は寛永18年(1641年)に75歳で没し、その墓石には、 「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」と刻まれている。 みみずくに宵眼薬差してやれ 井上一筒
きっぱりと明日を捨てるレモン水 清水すみれ
家康をあと一歩のところまで追いつめる幸村を描いた浮世絵 家康本陣の馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来42年ぶり(2度目) 赤備の具足を身に纏った真田勢 「狙うは、家康の首級のみ」 運命の慶長20年5月7日、大坂の空は早朝から蒼く澄み渡っていた。 ひおどし かづの はぐま 幸村は緋縅の鎧に鹿角の脇立てをつけた白熊の兜を被り、 きんぷくりん 六連銭の紋を打った金覆輪の鞍を置いた愛駒に跨っている。 むながい しりがき あつふさ 馬の胸懸と鞦も眼に鮮やかな緋色の厚総だった。 1万の兵を采配し、茶臼山に布陣していた。 赤備の具足を身に纏った真田勢は、小高い山一面に咲く蓮華躑躅の様だ。 この茶臼山は、昨年、冬の戦いで家康が本陣とした場所である。 幸村はあえてその場所を陣に選び、 「いつでも攻めて来い」と言わんばかりに、赤備の姿を見せつけていた。 武者ぶるい男を決める枝である 前中知栄 幸村所用馬具 眼下には徳川の先鋒、松平忠直の率いる1万5千がいる。 さらに本多忠朝の1万6千余が見え、その後方に家康の本陣と1万5千ほど の旗本衆が置かれていた。 「狙うは、家康の首級のみ」 幸村は三白眼で徳川本陣を見据える。 本気で家康の喉笛に食らいつくつもりでいた。 いや家康の首級を挙げるしか、この一戦に勝つ可能性は残っていなかった。 惣構えと堀を失った大坂城は裸同然であり、籠城することも叶わなかった。 豊臣勢は城下の野戦に賭けるしかなく、 幸村は毛利勝永に家康を討ち取ることを約し、その先陣に立っていた。 散っていく最後の力ふり絞り 河村啓子 幸村隊と交戦する、松平忠直の将兵 松平隊は幸村や毛利勝永のすさまじい勢いに押され、 混乱の極みに陥って家康本陣の防備を手薄にしてしまう。 しかし徐々に体勢を立て直すと、数の利を生かして反撃に転じた。 陽が中天に上った正午、いきり立った毛利勝永の寄騎が、 物見に出ていた本多忠朝の一隊に鉄砲を撃ちかける。 この小競り合いを契機に戦いは瞬く間に広がっていき、 双方の全軍が入り乱れて戦う状況となった。 寡兵の豊臣勢は、わざと乱戦を創り出したのである。 乾坤一擲の勝負を仕掛け、混乱に乗じ家康と秀忠の首だけを狙うためだ。 勝永と幸村の軍勢が本多忠朝の軍勢を打ち破り、徳川方の先陣を突破する。 エスカレーターのない天国は断固拒否 佐藤美はる 「大坂夏の陣図屏風」から 本多忠朝(馬上)の奮戦。毛利勝永との激闘の中で命を落とした。 酒で不覚をとったため「戒むべきは酒なり」と反省の言葉を残したという。 一進一退の攻防を続ける中、幸村が狙って謀計を仕掛ける。 「紀州が寝返ったぞ!」 ながあきら 方々から徳川方の浅野長晟が裏切ったという怒声が響く。 単純な流言飛語の計だったが、乱戦の中では意外に効力を発揮する。 真田の忍びたちが発したこの虚報に、松平勢が動揺した怯む。 「今だ! 行け! 一気に突っ切るぞ!」 幸村の雄叫びに呼応し、 真田の赤備衆は火焔となって松平忠直の軍勢を打ち破った。 毛利勝永も混乱する第二陣の榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄らを撃破し、 逃げようとする敗兵が雪崩れ込んだ第三陣は大混乱をきたし、 ついに家康の本陣に繋がる道筋が見えた。 力ではかなわないから心理戦 中村幸彦 長刀を両手に持ち、白馬を駆る幸村 「真田、その日の装束は緋縅の鎧に抱角打つたる冑に白熊つけて猪首に、 着なし」という『難波戦記』の記述通りに描かれている。 いける!これこそ待ち望んでいた勝機! 幸村は愛駒の腹を蹴り、恐るべき疾さで駆け出す。 「われに続け!家康の首は、すぐそこぞ!」 十文字槍で敵兵を薙ぎ倒しながら猛然と幔幕内へ乗り込む。 「真田が来た!」 家康の本陣に悲鳴にも似た叫びが響き、 恐怖にかられた足軽が総崩れになった。 旗奉行が「三方が原の戦い」以降は倒れたことのない家康の馬印を倒し、 旗本衆が取り乱して逃げ始め、主君の姿まで見失う始末だった。 当の家康は誰のものとも分からぬ馬に乗り、ほうほうの躰で逃げ出す。 付き添う家臣も小栗久次とわずか数名の者しかいない。 つんつんがほどよく効いてきたらしい 雨森茂喜 幸村の勇姿 圧倒的な劣勢の中で、幸村の執念がそれに匹敵する戦況を作り出す。 家康の首を求め、三度に渡り徳川本陣へ突撃し、 その間に無数の傷を負っていたが、それをものともせず十文字槍を振るった。 しかし、獅子奮迅の戦いも、ここまでだった。徐々に態勢を立て直した 徳川勢が相手を押し返し始める。 幸村は雲霞の如く群がる敵に囲まれそうになるが、間一髪その危機を脱し、 満身創痍の身体を引きずり、茶臼山の北にある安居神社まで後退する。 付き添う兵も、高梨内記、青柳清庵、真田勘解由の3人だけだった。 納豆の糸もスタミナ切れて 冬 山本昌乃 これが采配を振るうの「采配」です 誰もが半死半生である。 愛駒を下りた幸村は、槍を杖代わりにして蹲の処までいき、 動けなくなった家臣たちのために水を汲み、それを柄杓で飲ませてやる。 「皆、疲れたであろう。もう休んでもよいぞ」 末期の水をもらった家臣たちは、微かな笑みを浮かべ、次々と目を閉じる。 幸村は愛駒にも水をやり、最後に己の乾ききった喉を潤した。 すでに立っている余力はなく、灯篭にもたれかかりながら地面に崩れる。 気を失いそうになる幸村を、駆けつけた松平忠直の鉄砲隊が囲む。 幸村は最後の力を振り絞って鎧通しを抜き、躊躇いなく己の首を貫いた。 これでいいこれでよかったこれでいい 嶋澤喜八郎 |
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