- 2026/05/31
- Category : アルバム(風景)
ニュースー皇位継承問題
ニュースー女帝問題について
仲哀天皇、神功皇后、建内宿禰を描いた絵
成務天皇が亡くなると直系がいなくなり、ヤマトタケルの御子の
仲哀天皇が即位します。 仲哀天皇は神功皇后との間に応神天皇が
うまれます。
仲哀天皇
「愛子天皇はあるのか」
近年、愛子さまの即位を望む声が、インターネットやメディアで盛んに見ら
れます。NHK等の調査でも、国民の7割が女性天皇を容認しています。
れます。NHK等の調査でも、国民の7割が女性天皇を容認しています。
一方で、女系天皇まで許容するかどうかには意見が割れています。
「玉依姫(たまよりひめ)」
玉依姫は海神(ワタツミ)の娘で、姉の豊玉姫が産んだ鵜茅葺
不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を養育し、のちにその妻
となって初代・神武天皇を生んでいます。
各地の玉依姫を祀る神社では、女性の守護神として信仰を集めています。
玉前神社、海の女神として信仰される玉依姫命を祀る。
玉前神社、海の女神として信仰される玉依姫命を祀る。
下鴨神社・上賀茂神社、賀茂の玉依姫を祀る
鳥飼八幡宮、 神武天皇の母である玉依姫命を祀る。
日本の皇室は「万世一系」、つまり初代・神武天皇から連綿と続く男系での
血統を守ってきました。
血統を守ってきました。
男系=父親をたどって受け継がれる血筋のことです。子供の性別に関係なく、
父親がその家系の血を引いていれば「男系」になります。
父親がその家系の血を引いていれば「男系」になります。
実際、過去の女性天皇もすべて「男系」の血筋であり、「女系天皇」は一度
も存在しません。例えば、女性天皇である推古天皇も、父親が天皇(男系)
であったため「男系の女性天皇」です。
も存在しません。例えば、女性天皇である推古天皇も、父親が天皇(男系)
であったため「男系の女性天皇」です。
江戸時代までは側室制度があり、比較的多くの男子皇族が生まれていたため、
男系継承が維持されてきました。
男系継承が維持されてきました。
「女系天皇」とは、母親が天皇または天皇家出身で、父親が民間人や他家と
いう場合に、その子どもが、天皇に即位するケースです。
いう場合に、その子どもが、天皇に即位するケースです。
例えば、愛子さま(天皇陛下の長女)が、天皇に即位した場合は「女性天皇
(男系)」ですが、愛子さまが民間の男性と結婚し、その子が天皇になれば
「女系天皇」となります。
(男系)」ですが、愛子さまが民間の男性と結婚し、その子が天皇になれば
「女系天皇」となります。
重要な違いは、「男系」が父方をたどって神武天皇(初代天皇)にたどり着
くのに対し、「女系」は母方をたどる血筋になるという点です。
くのに対し、「女系」は母方をたどる血筋になるという点です。
21年前の有識者会議の議論の行方
「男系か女系かの争点」
【男系血統にこだわる派の意見】
【男系血統にこだわる派の意見】
① 世界最古の男系血統の伝統を守れる。
② 父系で辿れる「天皇家の血」を途切れさせないことができる。
③ 世界的にも類を見ない歴史の重みを次世代へつなげられる。
【反対の意見】
① 国民の多くが、「民間で育った人が突然皇族になる」ことに違和感を
覚える可能性がある。
覚える可能性がある。
② 現代社会において、伝統のみを強調することが、時代に合わなくなっ
ている側面もある。
ている側面もある。
③ 旧宮家の方々が皇族としての役割を受け入れるかどうか、本人たちの
意志や適性も大きな課題。
意志や適性も大きな課題。
「女性・女系天皇の容認派」
【男系男子原則の緩和・女性天皇・女系天皇の容認】
女性皇族が、結婚後も皇族の身分を維持できるようにする
女性皇族が民間男性と結婚し、その子が皇位継承者となる場合も認める。
【賛成の意見】
① 現代の価値観(男女平等や多様性)に合致し、国民の支持も強い。
(NHK等の調査で7割が女性天皇に賛成)。
② 歴史上、女性天皇が有能で長く在位した実績もある。
③ 男子を産むことへの、過度なプレッシャーから女性皇族・親王妃を
解放できる。
解放できる。
【反対の意見】
① 「女系」になれば、万世一系(父系)という連続性が途絶えてしまう。
② 世界最古の王朝という権威や日本独自の伝統が失われる懸念。
③ 現在の「皇室典範」や、これまでの社会的合意を覆すには慎重な議論
が不可欠。
が不可欠。
「歴史」
政府から「立憲制度」の調査を命じられた伊藤博文は、ウイーン大学の権威・
シュタイン教授に学び「男系男子を基本としつつ止むを得ない場合には、女系
で継ぐ」と考えていました。
実際,明治19年(1886)に発表した「皇室典範」の草案「皇室制規」では女系を
容認している。しかし、法制官僚の井上毅が強く反対し、伊藤の女系容認論は
見送られました。
シュタイン教授に学び「男系男子を基本としつつ止むを得ない場合には、女系
で継ぐ」と考えていました。
実際,明治19年(1886)に発表した「皇室典範」の草案「皇室制規」では女系を
容認している。しかし、法制官僚の井上毅が強く反対し、伊藤の女系容認論は
見送られました。
最近では、小泉政権時代、当時の有識者会議が女性女系天皇の容認を柱とする
報告書をまとめ、翌年の国会に「皇室典範改正案」が提出される見通しになっ
ていました。想定されていたのが、愛子天皇の誕生です。
報告書をまとめ、翌年の国会に「皇室典範改正案」が提出される見通しになっ
ていました。想定されていたのが、愛子天皇の誕生です。
その後、紀子さまが懐妊され、06年9月、皇室で41年ぶりの男子悠仁さま
を出産されました。そこで女性・女系天皇の議論は立ち消えになったのですが、
先送りせず、並行して検討を続けておくべきでした。
を出産されました。そこで女性・女系天皇の議論は立ち消えになったのですが、
先送りせず、並行して検討を続けておくべきでした。
天皇のお住まい
「ちょっと穿ると」
※ 大正以降は一夫一妻制が確立され、側室は昭和に廃止。
1947年戦後初の皇室会議で、十一宮家、五十一人の皇室離脱が決定し、
皇室はスリム化に大きく舵を切ったのです。
1947年戦後初の皇室会議で、十一宮家、五十一人の皇室離脱が決定し、
皇室はスリム化に大きく舵を切ったのです。
記紀(古事記・日本書紀)に記された皇室の祖とされる皇祖神の天照大御
神は女神です。だとすれば、天照の子孫である初代・神武天皇は、女系天
皇になるのですよね。
神は女神です。だとすれば、天照の子孫である初代・神武天皇は、女系天
皇になるのですよね。
「こんな話も…」
神功皇后
「卑弥呼をモデルにした"女帝の処遇"」
現在の歴代天皇の系図(皇統譜)では、第14代天皇の次に第15代として
即位したのは応神天皇ということになっています。
即位したのは応神天皇ということになっています。
当時はまだ、天皇号もなかったのだから、応神天皇は、歴史学的には、応神
天皇の生前の実名・誉田別(ホムダワケ)と表記されるべきだろう。
天皇の生前の実名・誉田別(ホムダワケ)と表記されるべきだろう。
(ただ、昔は第15代天皇とされる人は、応神天皇ではなかった。気長足姫
{オキナガタラシヒメ)東風諡号(しごう)で、神功皇后だった。
{オキナガタラシヒメ)東風諡号(しごう)で、神功皇后だった。
彼女は仲哀天皇の后で応神天皇の母だった。東風諡号でも「神宮天皇」と表記
されず、皇后である。
されず、皇后である。
にもかかわらず『日本書紀』では、彼女を天皇と同格に扱い、夫の死後70年
間にわたって日本を統治したことになっている。
間にわたって日本を統治したことになっている。
「この時期の日本を女性が統治していたことにしたのはなぜか」
それは、中国の歴史書『三国志』との辻褄を合わせるためだった。
かの有名な「魏志倭人伝」である。
そう7~8世紀に『日本書紀』を編纂した人たちは、神功皇后が魏志倭人伝
で卑弥呼と呼ばれている女王だったことにしたのだ。
で卑弥呼と呼ばれている女王だったことにしたのだ。
『日本書紀』はきちんとした漢文で書かれているため、中国や韓国の人たち
も読むことができた。
も読むことができた。
その場合、あちらの史書との矛盾は少なくしておいた方が良い。
さもないと書物全体の信憑性を疑われてしまう。
そこで卑弥呼という名の女性を、皇統譜のなかにオキナガタラシヒメとして
位置づけたのである。
位置づけたのである。
ところが江戸時代に徳川光圀が編纂させた『大日本史』では、彼女は息子の
摂政であって即位していないとみなして天皇代数から外した。
摂政であって即位していないとみなして天皇代数から外した。
その後、この主張が正式に採用されて、現在では仲哀天皇のあとすぐに応神
天皇が即位したことになっている。それでも、朝鮮半島に遠征してそこの王
たちに、日本への服属を誓わせたことや、息子の応神天皇に歯向かう大和の
勢力と内戦を闘った功績により、明治後期から昭和初期にかけての教科書で
は、今だに大きく取り上げられていた。
天皇が即位したことになっている。それでも、朝鮮半島に遠征してそこの王
たちに、日本への服属を誓わせたことや、息子の応神天皇に歯向かう大和の
勢力と内戦を闘った功績により、明治後期から昭和初期にかけての教科書で
は、今だに大きく取り上げられていた。
「戦後の教科書に神功皇后は登場しない」
「魏志倭人伝」の記載に基づいて、邪馬台国のことが紹介され卑弥呼の名が
載っているにもかかわらず、卑弥呼をモデルに初の女帝として、記紀に登場
する彼女の名はない。
載っているにもかかわらず、卑弥呼をモデルに初の女帝として、記紀に登場
する彼女の名はない。
(それは、歴史学の発展により、記紀の信憑性が薄れたためばかりか、対外
戦争の指導者という神功皇后のイメージが教育には相応しくないと配慮され
たためだろう)
戦争の指導者という神功皇后のイメージが教育には相応しくないと配慮され
たためだろう)
もちろん、歴史的事実としてはそれで正しい。けれど、記紀編纂者たちが讃
えた彼女の業績の記憶が、将来の世代に受け継がれなくなっていくのは寂し
いかぎりである。彼らが考えていた日本国の成立過程を、神功皇后の伝承か
らうかがうことができるのだから。
えた彼女の業績の記憶が、将来の世代に受け継がれなくなっていくのは寂し
いかぎりである。彼らが考えていた日本国の成立過程を、神功皇后の伝承か
らうかがうことができるのだから。
神功皇后と卑弥呼
※ 神功皇后が『魏志倭人伝』に登場する女王・卑弥呼であるという説は
、江戸時代から続く歴史学・神話学上の代表的な仮説の一つです。
、江戸時代から続く歴史学・神話学上の代表的な仮説の一つです。
古事記や日本書紀の記述と、中国の正史における邪馬台国の記述の整合性
を説明するために提唱されました。
を説明するために提唱されました。
この説は『日本書紀』の編纂者が、大和朝廷の正当性を高めるために3世
紀の邪馬台国の女王・「卑弥呼」やその後継者「台与(とよ)」の事績を、
紀の邪馬台国の女王・「卑弥呼」やその後継者「台与(とよ)」の事績を、
14代仲哀天皇の皇后である「神功皇后」の物語に投影させたという見方
が主流です。
が主流です。
推古天皇
推古天皇は、欽明天皇(第29代)の第三皇女で第三十三代天皇となった
人物で、「日本最初の女性天皇」です。母親は「蘇我堅塩媛」(ソガノ
キタシヒメ)、大臣・蘇我稲目の娘で、蘇我馬子は、叔父にあたります。
人物で、「日本最初の女性天皇」です。母親は「蘇我堅塩媛」(ソガノ
キタシヒメ)、大臣・蘇我稲目の娘で、蘇我馬子は、叔父にあたります。
「さて、日本で最初の女帝は推古天皇です」
592年に即位し、東アジア初の女性君主としても知られています。
事績: 甥である聖徳太子を摂政に登用し、冠位十二階や十七条の憲法の制定
など、中央集권的な国家体制の基礎を築きました。
など、中央集권的な国家体制の基礎を築きました。
※ 当時の混乱した政治情勢のなか、有力豪族である蘇我馬子らの要請に
より即位しました
より即位しました
歴代の女性天皇の一覧は以下の通りです。
第33代 推古天皇 (592~628年) 日本史上初の女性天皇。
第35代 皇極天皇 (642~645年) 後に重祚して斉明天皇となる。
第37代 斉明天皇 (655~661年) 皇極天皇が重祚(再び即位)。
第41代 持統天皇 (690~697年) 天武天皇の皇后。藤原京を造営。
第43代 元明天皇 (707~715年) 平城京へ遷都。
第44代 元正天皇 (715~724年) 女性天皇で唯一、独身で即位。
第46代 孝謙天皇 (749~758年) 後に重祚して称徳天皇となる。
第48代 称徳天皇 (764~770年) 孝謙天皇が重祚した。
第 109代 明正天皇 (1629~1643年)称徳以来、859年ぶりの女性天皇。
第 117代 後桜町天皇(1762~1770年 史上最後の女性天皇。
※ 女性天皇の多くは、本来の皇位継承者(男子)が幼少であったり、
政治的な空白期が生じたりした際に、次の天皇が成長するまでの「中継ぎ」
として即位しました。
政治的な空白期が生じたりした際に、次の天皇が成長するまでの「中継ぎ」
として即位しました。
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