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川柳的逍遥 人の世の一家言
人生リセット素顔を光らせる 野邉富優葉
「浴 恩 園 千秋館」 国立国会図書館所蔵
「浴恩園 千秋館」は、江戸時代後期に「寛政の改革」を主導した松平定信
が、隠居後に築いた庭園「浴恩園」の中に建てた館です。
庭園は「天下の名園」と称され、定信は隠居後「楽翁」と号してこの千秋館
に住みながら、庭園の作庭に没頭しました
「文化人・松平定信」 松平定信は、万葉調の歌人としてして知られた父・田安宗武の感化を受け、
若いころから芸術文化に慣れ親しんだ。側近の水野為長からは和歌、木挽
町狩野家第六代目の狩野栄川院からは絵画を学ぶなど、文化の素養は豊か
だった。
その定信が三十歳で老中首座に抜擢されて幕政のトップに立つと、社会の
模範となるべき武士の「綱紀粛正」を図って、質素倹約や学問武芸を奨励
する。そのため、武士が小説を執筆したり、狂歌を詠むなどの文化活動に
走ることに嫌悪感を隠そうとしなかった。文化活動への厳しいスタンスは
町人についても同様だった。
風俗取締りを名目に、遊郭を舞台にした洒落本の著者・山東京伝、その出
版の仕掛け人だった版元・蔦屋重三郎をも処罰した。
このように文化を敵視したイメージが強い定信だが、老中退任後の三十年
余にわたる一連の文化活動についてはほとんど知られていない。
実のところは、文化に大変理解のある人物でもあった。
羊だって活断層を秘めている 森井克子
「千 秋 館」
蔦谷重三郎ー幕政を退いた後の定信
定信は、36歳で老中を退任して、政治の第一線から退くと、豹変する。
絵師や学者、作家といった文化人を動員し、多彩な文化事業を展開し始めた。
定信による文化事業の象徴と言えば、全国規模での「文化財調査図録」である
『集古十種』の編纂である。その命を受けた白川藩お抱えの絵師たちは、全国
各地を回り、古書画や古器物の模写に励んだ。
生来、好古趣味が濃厚な定信は、文化財の保護にたいへん熱心だったが、実は
「模写」の重要性を痛感する出来事が老中在職中にあった。
老中首座就任から約半年後にあたる天明8 (1788) 年正月晦日に、京都御所が
焼失した。幕府は、偽書の再建に取り掛かることになり、定信はその造営総督
に任命されたが、ここで苦難が生じる。
ポケットの中にポケットもうひとつ 津田照子
朝廷の要望を踏まえ、御所の建物のうち紫宸殿と清涼殿は、平安時代の様式に
戻すことになった。ところが、平安時代の御所の様子を伝える絵画資料に不足
したため、その再建にたいへん苦労する。
絵画資料は、既に焼失あるいは散逸していたのだろうが、模写だけでもあれば
と思わずにはいられなかったことだろう。
定信は、そうした苦い経験を踏まえ、絵師を総動員して、古物の模写に取り組
むことを決意していた。もともと古物への関心は高かったが、寛政5 (1793)
年7月に退任すると、白川藩の文化事業として模写の作業に本格的に着手する。
その事業の役を任されたのが、田安家家臣の家に生まれ、寛政4年に定信の近
習に抜擢されていた定信の5歳年下の谷文晁である。
文晁は、仙台・松島・平泉で什物を調査し、西へは京都・大阪から高野山・熊
野奈良などを廻り、そして中国や四国地方に足を延ばし資料を集めた。
百年生きたら私をみてほしい 市井美春
『石 山 寺 縁 起 絵 巻』
巻6,7巻は、詞書は飛鳥井雅章。絵は、谷文晁が二年がかりで完成させた。
定信は文晁に、「一草一木たりとも文晁が私意を禁ぜられ」たといい、新図は
定信自ら指導し、図様に関しては、古い絵巻などから抜き出して使用している。
定信は、『集古十種』の編纂と並行し、絵巻や古画の模写集である『古画類集』
の編纂に着手した。『源頼朝像』などの古画、そして『伴大納言絵詞』などの
部分図が収録された『古画類集』でも、その模写にあたったのは文晁たち白河
藩お抱えの絵師たちだった。
定信は、絵巻自体の模写にもたいへん熱心であった。
『北野天神縁起絵巻』や『春日権現験記絵』などを模写させたが『石山寺縁起
絵巻に至っては、欠損していた巻を補作までしている。残された詞書から絵を 推定して復元したが、その作業を任せられたのが文晁だった。
文晁は『春日権現験記絵』などを参考に文化元 (1804) に年から二年にかけて
補作を完成させる。彼らは、絵師に代表される文化人たちの能力を活かすこと
で貴重な文化財の数々を模写といいう形で後世に遺したのである。
世の中は何でだろうのネタだらけ 北出北朗
『江 戸 一 目 図 屏 風』 「江戸一目図屏風」は江戸時代初期の江戸の市街地や近郊の様子を描いている。
下の図はセンター部分を拡大したもの。
「危険視していた戯作者を起用する」
定信は文化財保護に力をいれる一方、新たな作品を世に出すことにも熱心であ
り、他藩お抱えの絵師にも発注して画才を発揮させた。
江戸を鳥瞰して描いた屏風絵として知られる『江戸一目図屏風』の作者・鍬形
蕙斎(くわがたけいさい=北尾政美)は、その一人だが、老中在職時に因縁の
あった意外な作家たちも製作陣に加わっていた。
文化3 (1806) 定信の依頼を受けた蕙斎は『近世職人尽絵絵詞』を制作。
大工、屋根葺職人、畳職など数十種に及ぶ職人の風俗のほか、庶民生活の様子
も描いた作品である。
上中下の三巻から構成される『近世職人尽絵絵詞』の絵を担当したのは蕙斎だ
が『詞』の担当は別の人物だった
胃袋をつかむ「サシスセソ」の塩加減 靍田寿子
仏 を 彫 る 職 人 カマボコ屋・豆腐屋
文化3年、定信は『近世職人尽絵詞』を製作。大工、屋根葺職人、畳職人など、
職人の風俗のほか、庶民の生活が描かれていて、「江戸の職人」の実像を知る
貴重な資料となっている。上中下の三巻で構成され、文章はそれぞれ四方赤良
(大田南畝)朋誠堂喜三二、山東京伝が担当した。
四方赤良は、寛政改革に一環として言論弾圧が強まるなか、身の危機を感じて
狂歌を詠むことを止めた。
朋誠堂喜三二こと秋田藩江戸留守居役の平沢常富は、改革政治を風刺した黄表
紙を執筆したことが幕府の忌諱に触れるとして、藩から執筆活動を止められた。
山東京伝は、寛政改革の一環として発令された出版取締令違反の廉で手鎖50
日の処分、出版した洒落本は絶版となった。
以後、京伝は幕府の目を恐れて勧善懲悪を説く作品を書くようになった。
意地という文字がこの頃出てこない 船木しげ子
定信が進めた言論弾圧の方針を受けて、文芸活動の修正・断念を余儀なくされ
た3人だが、この頃、定信は無役の大名だった。
幕政トップの立場からすると、3人の執筆活動は危険視せざるを得ないが、幕
政に関与していない無役の身としては別に要注意人物ではない。
むしろ、彼らの文才を自分の文化事業に活用したいと考え『近世職人尽絵図』
の詞書を担当させた。それだけ定信は3人の才能を評価していた。
吉原の遊女の1日を、12の時に分けて描いた『吉原十二時絵詞』は、蕙斎だが
「詞」は山東京伝の担当であった。
吉原をテーマとした本であることから、吉原に詳しい京伝に白羽の矢を立てたの
だ。華やかな吉原の世界が絵と詞で、またひとつ後世に伝えられることになる。
湯戻しをして柔らかくする昨日 平井美智子
『 花 月 草 紙 』
『花月草紙』は、松平定信による江戸時代後期の随筆集。
「定信の文化サロン」
文化9 (1812) 55歳になった定信は、藩主の座を嫡男・定永に譲り、築地の白
川藩下屋敷で隠居生活に入った。
隠居したその日から日記を書き始めるいっぽうで『花月草紙』に代表される随筆
も執筆した。『花月草紙』は、格調高い文体である上に、識見の高さと教養の深
さ滲み出ている作品であり、江戸時代の代表的な随筆と評価される。
築地下屋敷には、浴恩園と名付けられた庭園が設けられたが、定信が隠居生活を
送ったのは園内に立つ建坪二百坪ほどの「千秋館」である。
千秋館で執筆活動に勤しむかたわら、園内を歩いて景観を眺めるのが、何よりの
楽しみだった。
余生には無用な過去を破り捨て 松浦英夫
「大 名 か たぎ」
定信は、部屋住み時代(17歳の頃)にハマった江戸の戯作「金々先生栄華夢」
が刊行された安永4年黄表紙風の『大名かたぎ』を執筆している。
浴恩園で余生を過ごす定信のもとには、同じく教養豊かな大名が頻繁に訪れた。
大名だけでなく、大学頭の林述斎、儒学者の成島司直、国学者の屋代弘賢、歌人
の北村季文なども常連だった。文晁たち絵師も同様である。
浴恩園は定信主宰の文化サロンとして、身分の差を超えて文化人が集う場となっ
ていた。浴恩園に集まったメンバーを中心に、詩歌会も催された。
「詠源氏物語和歌」というタイトルの歌集は文化11 (1815) 年歌会で詠まれた
歌を集めたものだが、この歌会には定信はもちろん、好学の大名だった近江堅田
藩主の堀田正敦、備前平戸藩主の松浦静山に加え、国学者の塙保己一たち56名
が参加した。
意地と意地化学反応して消える 竹内いそこ
定信はミュージシャンー心の草紙
翌12年には、浴恩園の51箇所の景勝を詠んだ「浴恩園和歌」が編まれた。 各名勝ごとに儒学者の頼春水(頼山陽の父)や狂歌師の四方赤良こと太田南畝た
ちの詩を添え、正敦が跋文を担当した。南畝も浴恩園に集まったメンバーだった
ことがわかる。定信は浴恩園を拠点として、江戸の文化を満喫しながら余生を送
った。寛政改革後の定信は、一連の文化事業を通して、絵師や作家にその能力を
発揮させた。文化人たちのパトロンのような役回りを演じていたのである。
その後半生に焦点をあてることで、江戸の文化を愛した知られざる素顔が浮かび
上がってくる。定信はこの12年に72歳で死去する。
百年をお眠りなさいサボテンの強さかな 井上恵津子 PR 戦場で人間ポンプ微笑せよ まつりべさん
『花菖蒲文禄曽我』 「江戸のニュース」 寛政六年五月
浮世絵師の東洲斎写楽が役者の大首絵を出版。
人気役者の大首絵の浮世絵多数を一気に発表し、たちまち姿を消した浮世絵
師の東洲斎写楽は、長らく謎の存在だったが、現在では阿波徳島藩のお抱え
能役者の斎藤十郎兵衛説が有力である。
大首絵とは、画面一杯に顔を中心に描いた絵を指す。この手法は喜多川歌麿
によって美人顔のクローズアップとして創作されていたが、東洲斎写楽は歌
舞伎役者をモデルにしたことで注目された。要するに役者の似顔絵であるか
ら現代風に言えばプロマイドである。写楽は江戸三座の時代狂言を取材して
描いたが、中でも都座興行の狂言『花菖蒲文禄曽我』など二十八枚が知られ
ている。本作でデビューした写楽は、大首絵の浮世絵百四十四点を遺して、
十か月後に忽然と消えた。
(不思議なことに、発表当時には写楽、の大首絵はそれほど人気はなかった。
評判になるのは、90年後、それも海外の識者が写楽を評価したことによる。
こうした現象は珍しいことではないが、写楽は無念のまま文政3 (1820) に
没したといわれている。享年58歳)
提灯を張り替えてから登る月 森 茂俊
三代目沢村宗十郎の大岸蔵人 蔦谷重三郎ー東洲斎写楽
東洲斎写楽も歌麿と同様、蔦重に見出されて一世を風靡した絵師である。
活動期間は、寛政6年 (1794) 5月から翌年1月までのわずか10カ月。
「江戸ニュース」が伝えるように、突如、浮世絵界に現われ、忽然と姿を消し
たことから「謎の絵師」ともいわれるが、近年は徳島藩お抱えの能役者である
斎藤十郎兵衛とする説が有力視されている。
写楽がデビューした当時、美人画は幕府の出版統制令の対象となりつつあった。
経営難を乗り切るため、蔦重が期待をかけたのが写楽の役者絵だった。
同6年5月~6月、写楽は蔦屋から、一気に28枚もの役者絵を出版し、役者
絵市場を席捲する。
山門の仁王真っ赤な仁王立ち 中川喜代子
市川富右衛門の蟹坂藤太・佐野川市松の祇園白人おなよ 「写楽の最大の特徴は、役者の表情の豊かさにある」
当時の役者絵は、役者を美化して描くのが定番であった。
しかし写楽が描く役者は、吊り上がった眉、見開いた眼、歪んだ口など、顔の
細部が極端に誇張された。それが、手指の動きと相まって、役者の一瞬の所作
を封じ込めた緊迫感を醸し出すのである。加えて写楽は、役者の実年齢に合わ
せて、顔の皺や弛みもリアルに描き、容貌の衰えまで容赦なく浮き彫りにした。
絵の背景に、雲母(うんも)の粉を散らして光沢を出す雲母摺(きらずり)
の技法を用いたのも特徴だった。
新人絵師の装飾としては、異例の贅沢さで、写楽に対する期待の大きさが表れ
ている。その後も写楽と蔦重は、月々の歌舞伎の興行に合わせて、役者の大首
絵や全身像の浮世絵を次々と出版したが、次第に作品から精彩さが薄れていく。
写楽の人気は急速に衰え、寛政7年1月の作品を最後に姿を消すのである。
ご破算にしようと透明になった 柴田桂子
四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛 大田南畝は、「浮世絵類考」で写楽の人気が続かなかった理由を「余に真実ら
しく描こうとして、かえって真実でないように描いたため」としている。
役者をありのままに描きすぎたことが、歌舞伎ファンの反発を招いたというこ
となのだろう。
ともかく、写楽の後半期が余りにも力弱くなるのは、写楽のせいでもあるが、
蔦重の気力の衰退と無縁ではあるまい。清長に対して歌麿、豊国に対して写楽
を意識的に売り出すことで、結果的に浮世絵界を活性化させた蔦重も、その晩
年は寂しいものになった。
真相は不明だが、写楽の引退により、役者絵で出版業の不振を挽回しようとし
た蔦重の目論見が外れたことだけは確かであった。
谷村虎蔵の鷲塚八平次
言い訳が写楽の目玉なら許す 石橋芳山 万全の準備のもとにスターを作り出す営業方針を持っていた蔦重が、では何故、
浮世絵とは無縁の写楽で役者絵界に打って出たのか、謎とすべきだが、或いは
俗文壇の大御所的存在の蜀山人あたりの入れ知恵ということも考えられる。
蜀山・蔦重の共同作業がなされたのではあるまいか。
写楽の後半期があまりにも力弱くなるのは、写楽のせいでもあるが、蔦重の気
力の衰退と無縁ではあるまい。
清長に対して歌麿、豊国に対しては写楽を、意識的に売り出すことで、結果的
に浮世絵界を活性化させた蔦重も、その晩年は、やや寂しいものになった。
注目すべきは、蔦重の浮世絵は、その最期にいたるまで幕末期のそれのような
大衆の趣味に迎合した下品さがまったく感じられないということである。
二世小佐川常世の竹村定之進妻桜木 茹で上がる刹那の蛸の溜め息 酒井かがり
「写楽別人説」
三世大谷鬼次の奴江戸兵衛 「写楽は誰か」という謎ほど、浮世絵に関心を持つ人びとを興奮させるものは
ないだろう。(だが一般的な興味とは別に実は、写楽が誰であるかということは
ほぼ明らかになりつつあるのだ)現存するおよそ140点の写楽画と称する作品は、
描かれた演目から、寛政6 (1794) 年5月から、あくる正月までの十ヶ月間の
作画期間をもつ、というよりわずか十ヶ月しか「写楽」は存在しなかった。
そして、これらすべてが蔦谷重三郎といおうたった一軒の店から売り出された。
この二つのことを疑う人はいない。
いわゆる写楽別人説は、江戸の考証家・斎藤月岑(げっしん)が『浮世絵類考』
に補訂した『増補浮世絵類考』の写楽の項に
「俗称斎藤十郎兵衛。居八丁堀に住す。阿波候の能役者也」
と加えた記事を疑うところから発した。
深い意味ないがと謎を掛けてくる 三好聖水
意外に思うやもしれないが、別人説が発表され始めたのはかなり遅く、昭和も
30年代に入ってからのことである。
丸山応挙・谷文晁・葛飾北斎・山東京伝・歌川豊国など、ここに枚挙するいとま
がないほどの人物が当てはめられた。こうした写楽別人説が唱えられるたびに、
新聞やテレビが取り上げ、写楽人気、写楽人気・浮世絵人気がいやましに高まっ
たのも事実である。
昭和51年、中野三敏氏により、役者の三世瀬川富三郎が編んだ人名録『諸家人
名方角分』という写本の記事により「写楽本」という名の浮世絵師が「八丁堀・
地蔵橋」に住んでいたが、すでに故人であること、が明らかにされた。
そしてさらなる調査ののち、八丁堀地蔵の国学者・村田春海の燐家に、阿波候の
能楽師の斎藤与右ヱ門なる人物が住んでいることが突き止められたのである。
中野氏の追及を強固にしたのが、内田千鶴子氏で、氏による『重修猿楽伝記』
『猿楽分類帳』の発見で、以下のことが明瞭になってきた。
キリギリス瞑想遠く祭笛 藤本鈴菜
斎藤家では与右ヱ門と十郎兵衛の名は、父子相続の名であり、問題の官製年は、
ちょうど十郎兵衛を名乗る代であったこと。また当時の能楽師の勤務形態は、
隔年で非番と当番の日があったこと。寛政6年の斎藤十郎兵衛は33歳にあた
ること。(すなわち絵も描けない幼年にあらず)
ここにいれば「写楽」の名を款した作品のことごとくが、寛政6年という一年に
限って登場し、退場していった経緯が無理なく説明できることになる。
もちろん7年の正月興行については、少なくともその下絵は前年中に仕上げられ
ていたであろう。
江戸八丁堀地蔵橋に住む阿波候の能楽師・斎藤十郎兵衛なる者が、寛政6年の年
33歳のときに描いたのが「写楽」の版画だったということになる。
サイコロがタヌキだったという博打 通利一遍
その斎藤十郎兵衛が、何そのゆえにその正体を隠さなければならなかったか、
に、ついては中野氏が明快に応えている。
大名のお抱えの能楽師はれっきとした士分であり、浮世絵の中でも「いわゆる河
原者たるが歌舞伎役者絵の製作に従事することのうしろめたさ」がそういう態度
をとらせたのである。
しかも、それが武士の身分というものを厳しく律することを求めた「寛政の改革」
の直後であった。という時代背景を考えなければならない、と。
そのためには版元はひとつに絞られる必要があった。
写楽は、これでもやはり、謎の浮世絵師なのだろうか。
写楽の役者絵、ことに初期の雲母摺大首絵による作品の類いまれな表現力は、
謎があろうとなかろうと、肖像画の傑作として鑑賞し得るはずではないか。
過去が問う何かお忘れ物ですか 藤村とうそん
私は以下省略の中にいる 藤井康信
「里見八犬伝 行徳入江の場」 歌川豊国(三代) さて馬琴は武家出身で几帳面な性格の努力家であり、『南総里見八犬伝』や
『椿説弓張月』など、勧善懲悪の理念に基づいた長編小説を数多く執筆した
大作家である。
蔦谷重三郎ー曲亭馬琴ー②
「高 尾 船 字 文」 曲亭馬琴の読本の初作。歌舞伎の伽羅先代萩(伊達騒動)の世界に中国小説・ 忠義水滸伝を綯い混ぜた趣向で書かれている。 馬琴という人物は、洒落も滑稽もわからず、なにかあれば儒教や中国文学に
見立てて説教を垂れてくる。明烏の時次郎と同じ部類の人物だ。堅物。
しかし、蔦重は馬琴について匙を投げたわけでなはなかった。
馬琴には馬琴の良さあがある。それはこの「寛政の改革」である今だからこそ
光る長所と踏んだ。
これでいい不満はみんな捨ててきた 安土理恵
蔦重は黄表紙を堅物馬琴に書かせた。洒落や滑稽、見立てで読ませる黄表紙は、
馬琴の最も苦手とする分野だ。そこを敢えての黄表紙、実は、馬琴でなければ
書けない黄表紙の需要が高まっていたのである。
寛政の改革で、社会風刺や廓を舞台にする色事、不適切な表現が描かれる描か
れる黄表紙や洒落本はご法度となった。
恋川春町を亡くし、京伝に「筆を折る」とまで言わせ、且つ自分も身上半減の
咎めに遭い、さすがに蔦重も用心せざるを得ない。歌麿の美人画で浮世絵出版
が主になっていたのも、そうした事情があった。
美しく自粛 金魚が澄んでいる 山本早苗
とはいえ、本を出さずに書肆とはいえぬ。そこで目を付けたのが、教訓を分か
りやすく物語にして説く「草双紙」だった。
内容を孝行話や勧善懲悪、道徳などに変えた、絵本仕立ての黄表紙である。
これなら馬琴の得意とするところだ。馬琴が戯作者を目指したひとつに儒学や
国学、歴史、中国文学など自身の知識を役立てたいという思いがあった。
すでに心学の本については山東京伝が『心学早染草』というヒット作を出して
いた。しかし、これまで滑稽や洒落を書いてきた京伝にとって、教訓本は、
京伝の良さを活かしきれない。馬琴ならそれができるのだ。
いのち絞り この世鳴き急ぐ 太田のりこ
ただし、商業出版なら消費者に受ける本でなければならない。
売れなければならない。売れなければ耕書堂の儲けは出ず、馬琴の名も上がら
ない。だからこその黄表紙であった。いくら好みではないとしても、滑稽や洒
落が分からないでは、、戯作者は務まらない。この先読本に転向するとしても
馬琴が書くのは大衆文学だ。であれば、大衆に寄り添うことを考えねばならぬ。
「人情を知る」「世情を読む」ことが重要だ。蔦重は、いくつも黄表紙を書か
せた。多くは勧善懲悪や水滸伝(明王朝の中国でかかれた長編型の自話小説)
を取材したもので、教訓ぽさが出ているものの、学びもエンタメ化させている。
町人たちに意外と受け入れられて。馬琴の野暮な理屈っぽさも、大衆の知的好
奇心をくすぐった。
帽子から飛び出す鳩も私も いつ木もも花
馬琴作北斎画共作の水滸伝 ついに寛政8 (1796) 年、馬琴は蔦重を版元として読本『高尾船字文』を出版
した。『水滸伝』を『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の世界に付会し
た中本型読本で、歌舞伎を題材に使うなど、あの馬琴が大衆に寄り添っている。
なにより、大衆エンタメの親方である歌舞伎と伝奇物語(上代や中国から伝わ
った話を題材に、空想的な出来事を認めた物語)の水滸伝を綯い混ぜる趣向は
斬新で、蔦重もこの企画ならとゴーサインを出した。
用済みと捨てた言葉が駄々こねる 森井克子
結果は、馬琴が本気を出して語る水滸伝は、江戸の庶民たちに早すぎたことも
あり、馬琴ものちに「世間に受け入れられたとは言いがたい」と、珍しく自省
している。しかし、この蔦重と馬琴が世に問うた新しいタイプの読本が、その
後の読本ブームの嚆矢となったことは間違いない。そして、かつて師であった
ライバルの関係になるという、熱い展開がはじまるのだ。
正論を叫ぶ鉛筆振り立てて 宮井元伸 私は以下省略の中にいる 藤井康信
さて馬琴は武家出身で几帳面な性格の努力家であり、『南総里見八犬伝』や
『椿説弓張月』など、「勧善懲悪」の理念に基づいた長編小説を数多く執筆
した大作家である。 蔦谷重三郎ー曲亭馬琴ー②
馬琴という人物は、洒落も滑稽もわからず、なにかあれば儒教や中国文学に
見立てて説教を垂れてくる。「明烏の時次郎」と同じ部類の人物だ。
堅物。しかし、蔦重は馬琴について匙を投げたわけでなはなかった。 馬琴には馬琴の良さあがある。それはこの「寛政の改革」である今だからこそ
光る長所と踏んだ。
これでいい不満はみんな捨ててきた 安土理恵
蔦重は黄表紙を堅物馬琴に書かせた。洒落や滑稽、見立てで読ませる黄表紙は、
馬琴の最も苦手とする分野だ。そこを敢えての黄表紙、実は、馬琴でなければ
書けない黄表紙の需要が高まっていたのである。
寛政の改革で、社会風刺や廓を舞台にする色事、不適切な表現が描かれる描か
れる黄表紙や洒落本はご法度となった。
恋川春町を亡くし、京伝に「筆を折る」とまで言わせ、且つ自分も身上半減の
咎めに遭い、さすがに蔦重も用心せざるを得ない。歌麿の美人画で浮世絵出版
が主になっていたのも、そうした事情があった。
美しく自粛 金魚が澄んでいる 山本早苗
とはいえ、本を出さずに書肆とはいえぬ。そこで目を付けたのが、教訓を分か
りやすく物語にして説く「草双紙」だった。
内容を孝行話や勧善懲悪、道徳などに変えた、絵本仕立ての黄表紙である。
これなら馬琴の得意とするところだ。馬琴が戯作者を目指したひとつに儒学や
国学、歴史、中国文学など自身の知識を役立てたいという思いがあった。
すでに心学の本については山東京伝が『心学早染草』というヒット作を出して
いた。しかし、これまで滑稽や洒落を書いてきた京伝にとって、教訓本は、
京伝の良さを活かしきれない。馬琴ならそれができるのだ。
いのち絞り この世鳴き急ぐ 太田のりこ
ただし、商業出版なら消費者に受ける本でなければならない。
売れなければならない。売れなければ耕書堂の儲けは出ず、馬琴の名も上がら
ない。だからこその黄表紙であった。いくら好みではないとしても、滑稽や洒
落が分からないでは、、戯作者は務まらない。この先読本に転向するとしても
馬琴が書くのは大衆文学だ。であれば、大衆に寄り添うことを考えねばならぬ。
「人情を知る」「世情を読む」ことが重要だ。蔦重は、いくつも黄表紙を書か
せた。多くは勧善懲悪や水滸伝(明王朝の中国でかかれた長編型の自話小説)
を取材したもので、教訓ぽさが出ているものの、学びもエンタメ化させている。
町人たちに意外と受け入れられて。馬琴の野暮な理屈っぽさも、大衆の知的好
奇心をくすぐった。
帽子から飛び出す鳩も私も いつ木もも花
ついに寛政8 (1796) 年、馬琴は蔦重を版元として読本『高尾船字文』を出版
した。『水滸伝』を『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の世界に付会し
た中本型読本で、歌舞伎を題材に使うなど、あの馬琴が大衆に寄り添っている。
なにより、大衆エンタメの親方である歌舞伎と伝奇物語(上代や中国から伝わ
った話を題材に、空想的な出来事を認めた物語)の水滸伝を綯い混ぜる趣向は
斬新で、蔦重もこの企画ならとゴーサインを出した。
用済みと捨てた言葉が駄々こねる 森井克子
結果は、馬琴が本気を出して語る水滸伝は、江戸の庶民たちに早すぎたことも
あり、馬琴ものちに「世間に受け入れられたとは言いがたい」と、珍しく自省
している。しかし、この蔦重と馬琴が世に問うた新しいタイプの読本が、その
後の読本ブームの嚆矢となったことは間違いない。そして、かつて師であった
ライバルの関係になるという、熱い展開がはじまるのだ。
正論を叫ぶ鉛筆振り立てて 宮井元伸 ばあちゃんはじいちゃんなしで生きられる 助川和美
「滝沢馬琴とは」
明和4〈1767〉年6月9日、江戸深川海辺橋東の松平屋敷内長屋で父滝沢興義・
母門の5男として生まれる。幼名春蔵 (後に倉蔵)。長兄が家督をついだが,
翌年故あって浪人になり、2男3男は早世した。10歳で滝沢興邦(おきくに)
(のちに滝沢解)を名乗り、幼君八十五郎に仕えた。
興邦はひとり主家に起臥し,幼主の呵責に耐えるという少年時代を過ごしたが,
14歳のとき ”木がらしに思ひたちけり神の旅 ”の一句を障子に書きつけて
松平屋敷を出奔した。その後、兄の勧めもあって、戸田家の徒士かちになるが
18歳の時、再び出奔し市中を浮浪。24歳で山東京伝宅に転がり込むまで放蕩三
昧を繰り返した。
飾りボタン見栄を張らずに生きてゆく 堀尾順子
「滝沢馬琴の名前」
幼名は倉蔵(くらぞう)滝沢を継承して滝沢興邦(おきくに)。作家としての
筆名は、曲亭馬琴、他に笠翁や篁民(こうかんみん)など多くの号がある。
寛政4(1792) 年)3月、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代(番頭)として
雇われる。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名と身分を捨て、
通称を「瑣吉」に諱を「解」とした。
「馬琴の性格」
非常に几帳面で、毎日のスケジュールはほぼ同じだった。朝6時から8時
の間に起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側で徳川斉昭考
案の体操を一通りし朝食。客間で茶を飲んだあと、書斎に移り、前日の日
記を記したのち、執筆作業に入る。まず、筆耕者から上がってきた前日の
原稿のチェック。一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。
そのほかにも、出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆より
も校正に苦しめられた日々だったという。
あらすじの真ん中辺にだんご虫 北原照子
蔦谷重三郎ー曲亭馬琴
おそらく蔦重にとって扱いにくい作家の筆頭が曲亭馬琴だったのではないか。
喜多川歌麿、十返舎一九、馬琴、など蔦重が食客として面倒を見ながら、
無名から有名へとプロデュースした作家は多く、馬琴もその1人なのだが、
馬琴はその性格ゆえ、また蔦重の成功法則ゆえに、有り体にゆえば合わなか
ったと思われる。
ともかく馬琴は、性格的にかなりの難があり、交友関係は乏しく近寄りがたい
イメージの人物で、仲間であるべき文化たちからは「傲慢で性格最低な野郎だ」
と敬遠され、師匠である山東京伝との関係すらも、かなり複雑で、京伝の弟・
山東京山からは「恩知らず」と罵倒されるなど、嫌われ者作家として孤高の人
だったようだ。
一方で馬琴は馬琴で苦しんでいた寂しい人という見方もある。
薬指紅塗る以外使わない 武良銀茶
馬琴が戯作者を志し、山東京伝の門を叩いたのは、寛政2 (1790) 年、24歳の
事だった。京伝は弟子を取らない考えだったが、まあまあ骨のある奴と見込ん
だのだろう、飯を食わせて(酒はいらないと断った)「弟子としてではなく、
同じ戯作者仲間としてならたまに見せに来てもよい」と伝えたら、「では師匠
と呼ばせていただきます」と言って、毎日、京伝宅に通い始めた。
だが、寛政3年黄表紙『尽用面二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)
でデビューを飾ったあと、何か考えるところがあったのか、「神奈川に行って
占い師になります」といって馬琴は旅に出てしまった。
傾いた船の絵がある心療科 平井美智子
2,3か月して戻ってみると、深川の馬琴の家は洪水で流されていた。
寝起きするところがないので、京伝家を頼ると京伝は、洒落本の咎めで手鎖の
刑になっている。
京伝の方も、弟子が(認めていないが)「家が流された」と言い、戻ってきて
無下に帰れともいえない。加えて自分も手鎖で執筆できない。
仕方がないので馬琴を食客とした。
蔦重はこれ幸いに、「馬琴に『実語教幼稚講釈』を書かせる。
京伝の代作で、挿絵は勝川春朗(葛飾北斎)だ。
蔦重が、そのつもりがあったかは分からないが、馬琴&北斎のバディもここに
誕生した。
上中下前後左右に動く首 通利一遍
馬琴は空気を読めないし、読もうともしない。
ちょうどこの時、京伝と菊園の夫婦はまだ新婚生活の真っ只中。
というわけで、京伝の勧めもあり、蔦重の耕書堂で手代(番頭)として、働く
こととなった。
蔦重としては、武士の戯作者が全滅の人材不足の中、書ける手は欲しかった。
馬琴には「執筆を優先させる働き方」を提案し、馬琴としても「戯作が書ける
のならば」ということで、蔦重の食客となった。
へそ踊りくらいがへその使い道 橋倉久美子
ところが馬琴が書きたいものは、剛健な勧善懲悪ものの読本。
ナンセンスな笑いの黄表紙や男女の色事の洒落本ではなかった。
そして、馬琴は「武士が商人に雇われる」ことを恥と考えていた。
武士の名を捨て「瑣吉」としたのもその理由だ。
こうしたプライドの高さなので、蔦重はどうにも扱い辛かったらしい。
蔦重流吉原研修が効かないのだ。
なにせ「洒落本は教育によろしくない」という堅物で酒も女も興味なし、
吉原で、めきめきと才能を伸ばした喜多川歌麿とは真逆である。
これまで武士作家と交流してきた蔦重だが、朋誠堂喜三二に恋川春町、
太田南畝とみな吉原に通じており、洒落がわかるクリエイターたちだ。
接待すればそれだけヒット作になって返ってくる。
蔦重にとって馬琴は「どうすりゃよいのか」なのである。
要らんものあり上唇と目蓋 井上一通
「とにかくマイペースの馬琴」
寛政5年(1793年)7月、27歳のとき、馬琴は、重三郎や京伝にも勧められて、
元飯田町中坂世継稲荷下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の3つ年上の未亡人
・百の婿となるが、会田姓でなく滝沢清右衛門を名のった。
結婚は、生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、
手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の大家をして生計を立てた。
加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。
寛政7(1795) 年に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むように
なり、履物商はやめた。
打算ありきで結婚した妻の百にしても何かとトラブルがちだった。
(結婚の翌年である寛政6年には、長女・幸、寛政8年(1796年)には
二女・祐が生まれた。のちの寛政9(1797年)には、長男・鎮五郎(宗伯興継)
が、寛政12年には三女・鍬が生まれ、馬琴は合わせて一男三女の父親となった。
行きづらい世の中知りつくすカラス 靍田寿子
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