- 2026/07/19
- Category : アルバム(風景)
豊臣兄弟ー本能寺の変・予兆と理由
「明智光秀の首実検に立ち会う秀吉(中央)」
豊臣兄弟ー本能寺の変・予兆、理由
「ドラマ検証」
(小栗旬)の明智光秀(要潤)への信頼感が薄い。第15回「姉川大合戦」で光
秀は、ようやく信長の家臣になったのだから、仕方ないのだろうか。
岐阜城での評定で、信長は重臣たちに、
秀は、ようやく信長の家臣になったのだから、仕方ないのだろうか。
岐阜城での評定で、信長は重臣たちに、
「今日より明智十兵衛光秀が、わが家臣として加わることとなった」と紹介し、
光秀は「これよりは殿のため身を賭して励みます」と答えた。なにしろ、家臣
になったというのも、第14回「絶体絶命」で、それまで仕えていた足利義昭
(尾上右近)から「光秀、そなたが信長のものになれ。家臣となり、織田の動
きをわしに知らせるのじゃ」と指示されてのことなのだから、信頼されるほう
がおかしいかもしれない。
光秀は「これよりは殿のため身を賭して励みます」と答えた。なにしろ、家臣
になったというのも、第14回「絶体絶命」で、それまで仕えていた足利義昭
(尾上右近)から「光秀、そなたが信長のものになれ。家臣となり、織田の動
きをわしに知らせるのじゃ」と指示されてのことなのだから、信頼されるほう
がおかしいかもしれない。
第16回の「覚悟の比叡山」では。光秀は信長から「延暦寺に書状を送り、従わ
ないときは女、子供だろうと皆殺しにしろ」と命じられ、それを実行に移す。
その残虐な振る舞いに義昭が激怒すると、光秀は「信長に疑われているからそ
うするしかなかった」と呟いた。だが、結論を先にいえば、この時点で信長が、
光秀を疑っていたとは思えない。それどころか、他の重臣たちがうらやむほど
の信頼を勝ち得ていたようにみえる。
ないときは女、子供だろうと皆殺しにしろ」と命じられ、それを実行に移す。
その残虐な振る舞いに義昭が激怒すると、光秀は「信長に疑われているからそ
うするしかなかった」と呟いた。だが、結論を先にいえば、この時点で信長が、
光秀を疑っていたとは思えない。それどころか、他の重臣たちがうらやむほど
の信頼を勝ち得ていたようにみえる。
そして第27回の「本能寺の変」。安土城で信長が家康(松下洸平)を接待中に
出されていた食事に毒が盛られていたことから、信長は客人をもてなす役割の
光秀に話を聞くも、「わかりませぬ」と言う。すると信長は、光秀が誰かを庇
っていると思い逆上。平手打ちをした後、「答えよ !」と何度も蹴る殴るの暴
行を加えたうえで最後には跳び蹴りをかまして、光秀は壁に叩きつけられた。
信長は切れると自制の効かない性格で、誰も止められない暴走の虎となった。
出されていた食事に毒が盛られていたことから、信長は客人をもてなす役割の
光秀に話を聞くも、「わかりませぬ」と言う。すると信長は、光秀が誰かを庇
っていると思い逆上。平手打ちをした後、「答えよ !」と何度も蹴る殴るの暴
行を加えたうえで最後には跳び蹴りをかまして、光秀は壁に叩きつけられた。
信長は切れると自制の効かない性格で、誰も止められない暴走の虎となった。
燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年作)
「織田信長の絶頂だった「馬揃え」で起きた“変事”」
天正9年(1581)2月28日、織田信長は京都で大規模な「馬揃え」を催した。
「馬揃え」とは、名馬や精鋭部隊を集めての一種の軍事パレードで、イエズス
会宣教師のルイス・フロイスによれば、参加者は13万人を超え、20万人もの群
衆が集まったという。
「馬揃え」とは、名馬や精鋭部隊を集めての一種の軍事パレードで、イエズス
会宣教師のルイス・フロイスによれば、参加者は13万人を超え、20万人もの群
衆が集まったという。
武将たちは可能なかぎり華やかに着飾って参加するように命じられていた。
そこで、たとえばキリシタン大名たちは、ロザリオや大きな十字架、西洋風の
マント、十字架がついた馬覆い、金の房がつきローマ字が染め抜かれた真っ赤
な旗、といったいでたちを競い合った。
そこで、たとえばキリシタン大名たちは、ロザリオや大きな十字架、西洋風の
マント、十字架がついた馬覆い、金の房がつきローマ字が染め抜かれた真っ赤
な旗、といったいでたちを競い合った。
信長はというと、金紗という唐織物を身に着け、後ろに花を挿した帽子をか
ぶり、紅梅に白の模様の華麗な小袖をまとい、イエズス会の巡察師アレッサン
ドロ・ヴァリニャーノから贈られた黄金の装飾がほどこされた真っ赤な椅子に
座った。
ぶり、紅梅に白の模様の華麗な小袖をまとい、イエズス会の巡察師アレッサン
ドロ・ヴァリニャーノから贈られた黄金の装飾がほどこされた真っ赤な椅子に
座った。
イエズス会の軍事パレードに参加した信長
「本能寺の変の原因」
…その武将とは四国の覇者、長宗我部元親(磯部寛之)だった。そして、四国
を制覇した折には、土佐のうまい魚を馳走すると小一郎に約束する。この時点で、
元親は四国を平定することに意欲満々だ。
を制覇した折には、土佐のうまい魚を馳走すると小一郎に約束する。この時点で、
元親は四国を平定することに意欲満々だ。
ところが、少しすると織田信長は明智光秀を呼んで、「元親による四国平定を認
めない」と言い渡す。光秀は大いに困惑するが、信長は光秀にこう伝えた。
「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」。
めない」と言い渡す。光秀は大いに困惑するが、信長は光秀にこう伝えた。
「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」。
「変事の予兆」
馬揃えから1年3カ月後の天正10年(1582)6月2日に起きた「本能寺の変」の
原因としては、現在、この「四国説」がもっとも有力視されているのである。
信長の見事なまでの手のひら返し。
原因としては、現在、この「四国説」がもっとも有力視されているのである。
信長の見事なまでの手のひら返し。
長宗我部元親は、この馬揃えに5年余りさかのぼる天正3年(1575)9月、四万
十川の戦いで土佐一条氏を破り、土佐一国を完全に統一していた。次はいよいよ
四国全土の攻略だったが、そこで元親に手を差し伸べたのが信長だった。

十川の戦いで土佐一条氏を破り、土佐一国を完全に統一していた。次はいよいよ
四国全土の攻略だったが、そこで元親に手を差し伸べたのが信長だった。
本 能 寺 の 変 の 死 闘
それは信長一流の戦略にもとづいていた。そのころ信長は、大坂本願寺と戦って
いたが、阿波の三好氏が物資を搬入するなど、本願寺を後方支援することに手を
焼いていた。そこで元親を助け、三好氏を討伐させようと考えたのである。
天正6年(1578)10月には、元親が四国全土を攻略することを容認し、その嫡男
に「信」の1文字をあたえて信親と名乗らせた。
このとき元親の取次を務めたのが明智光秀だった。元親の事績を記した『元親紀』
によれば元親の妻は、光秀の重臣として知られる斎藤利三の義理の妹だったため、
光秀が取次に選ばれたのだという。
によれば元親の妻は、光秀の重臣として知られる斎藤利三の義理の妹だったため、
光秀が取次に選ばれたのだという。
以後、光秀は一貫して元親の取次を務めたが、天正8年(1580)閏3月、信長が
10年も争ってきた本願寺との和睦が成立し、同年8月には宗主の顕如が大坂から
退却した。そうなると、四国全土を制覇しようという元親は一転して、信長には、
危険な存在になってしまった。
10年も争ってきた本願寺との和睦が成立し、同年8月には宗主の顕如が大坂から
退却した。そうなると、四国全土を制覇しようという元親は一転して、信長には、
危険な存在になってしまった。
「間に挟まれた明智光秀の苦悩」
信長が元親を危険視するようになった理由は、もう一つあった。
「豊臣兄弟!」でも描かれているように、羽柴秀吉は、播磨(兵庫県南西部)を、
弟の秀長は、但馬(兵庫県北部)を平定し、さらに淡路島も制圧して、播磨灘の
制海権を獲得した。その過程で秀吉は、三好家も調略して服属させていた。そう
なると信長にとって、もはや長宗我部氏の力を借りる必要はまったくなかった。
「豊臣兄弟!」でも描かれているように、羽柴秀吉は、播磨(兵庫県南西部)を、
弟の秀長は、但馬(兵庫県北部)を平定し、さらに淡路島も制圧して、播磨灘の
制海権を獲得した。その過程で秀吉は、三好家も調略して服属させていた。そう
なると信長にとって、もはや長宗我部氏の力を借りる必要はまったくなかった。
そこで信長は、天正9年(1581)9月頃、光秀を通じて元親に、支配地域は土佐
のほかに、阿波の南半分だけで我慢するように伝えている
のほかに、阿波の南半分だけで我慢するように伝えている
だが、いまさらそんなことをいわれて、元親が納得するはずもない。
3年前に四国全土を攻略していいといわれ、まさに実行中なのだ。
抵抗したが信長にとっては、自分の決定に従わないことほどけしからぬことはない。

3年前に四国全土を攻略していいといわれ、まさに実行中なのだ。
抵抗したが信長にとっては、自分の決定に従わないことほどけしからぬことはない。
左 15代将軍・足利義昭。
右・土佐を拠点に四国を支配していた長宗我部元親は信長と対立していた。
最終的に信長は、元親の敵で、少し前まで信長の敵でもあった三好康長に、阿波
一国を統治させることに決める。そして、天正10年(1582)1月、光秀に命じて
元親に、当初、打診した阿波の南半分もあきらめ「領国は土佐一国」とするよう
に伝えさせた。信長と元親のあいだに立って、苦慮したのは光秀だった。信長の
道理に合わない要求を、次から次へと元親に伝えさせられ、しかも、元親からは
色よい返事がもらえない。とくに「領国は土佐一国」と伝えてからは、返事自体
をもらえなくなってしまった。
一国を統治させることに決める。そして、天正10年(1582)1月、光秀に命じて
元親に、当初、打診した阿波の南半分もあきらめ「領国は土佐一国」とするよう
に伝えさせた。信長と元親のあいだに立って、苦慮したのは光秀だった。信長の
道理に合わない要求を、次から次へと元親に伝えさせられ、しかも、元親からは
色よい返事がもらえない。とくに「領国は土佐一国」と伝えてからは、返事自体
をもらえなくなってしまった。
だが光秀も放置はできない。元親が納得しなければ、自分の身が危うくなりかね
ないからである。光秀は元親に、信長の命令に従わなければ長宗我部家が滅亡さ
せられる、と伝えて必死の説得を試みた。
ないからである。光秀は元親に、信長の命令に従わなければ長宗我部家が滅亡さ
せられる、と伝えて必死の説得を試みた。
ところが、こうして説得している最中に、信長は元親征伐を兼ねた四国への出兵
を決定してしまう。さすがに光秀は、立場がなくなったことだろう。
を決定してしまう。さすがに光秀は、立場がなくなったことだろう。
四国出兵の総大将は、信長の三男の信孝で、出兵が予定されていた日は6月3日。
すなわち、「本能寺の変」の翌日だった。元親の取次として立場を失った光秀が、
このままでは自分および明智家にも、どんな処分が下されるかわからないと悲観
しても不思議はない。その挙句、四国出兵の前日に信長と信忠父子を襲った、と
いうのが「四国説」である。
すなわち、「本能寺の変」の翌日だった。元親の取次として立場を失った光秀が、
このままでは自分および明智家にも、どんな処分が下されるかわからないと悲観
しても不思議はない。その挙句、四国出兵の前日に信長と信忠父子を襲った、と
いうのが「四国説」である。
「饗 応 役 解 任 事 件」
本能寺の変の決め手になったか、家康饗応役に信長が激怒。
本能寺の変の決め手になったか、家康饗応役に信長が激怒。
「本能寺の変の黒幕」
京都本能寺に滞在中の織田信長を襲撃したのは誰かという黒幕説も飛び交い、
「秀吉」「家康」「朝廷」「足利義昭」など複数の候補が的にされた。
「秀吉」「家康」「朝廷」「足利義昭」など複数の候補が的にされた。
1. 秀吉黒幕説
本能寺の変が起きた際、秀吉は毛利氏との戦い(備中高松城の戦い)の最中で
あったにもかかわらず、いち早く信長の死を察知して和睦を結び、驚異的な速
さで京都へ引き返して光秀を討ち果たした。あまりにも手際が良すぎたため、
「裏で光秀を唆したのではないか」と疑われた。
あったにもかかわらず、いち早く信長の死を察知して和睦を結び、驚異的な速
さで京都へ引き返して光秀を討ち果たした。あまりにも手際が良すぎたため、
「裏で光秀を唆したのではないか」と疑われた。
2. 家康黒幕説「饗応役解任事件」
信長の同盟者であった家康だが、以前に信長の命令で妻と長男を自害させられ
ており、強い恨みを持っていたとされ、光秀と裏で共謀し、信長を討たせたと
する説。変の直後に堺に滞在していた家康が、わずかな供を連れて命からがら三
河へ逃げ帰った「伊賀越え」も暗殺計画が漏れるのを恐れたためだと解釈される。
ており、強い恨みを持っていたとされ、光秀と裏で共謀し、信長を討たせたと
する説。変の直後に堺に滞在していた家康が、わずかな供を連れて命からがら三
河へ逃げ帰った「伊賀越え」も暗殺計画が漏れるのを恐れたためだと解釈される。
3. 朝廷黒幕説
織田信長は朝廷の権威を脅し、神格化や天皇の地位をも凌ぐような独裁的な振る
舞いを見せていたため、朝廷(正親町天皇や近衛前久ら)が危機感を抱き、光秀
に排除を命じたという説。
舞いを見せていたため、朝廷(正親町天皇や近衛前久ら)が危機感を抱き、光秀
に排除を命じたという説。
4. 将軍義昭黒幕説
足利義昭本人および、義昭を支援していた毛利氏側の記録。
中央に光秀の首
「光秀本能寺急襲成功から自らの死まで」
6月2日 本能寺の変。明智光秀が本能寺と二条新御所を急襲し、
信長・信忠父子を自害に追い込む。
6月3日 夜~翌朝の間に本能寺の変報届く。
信長の死をしらず安国寺恵瓊と停戦交渉開始。
6月4日 信長の死を秘して毛利輝元と和議。高松城主清水宗治切腹
夕刻、毛利方に本能寺の変報が届く。
6月5日 高松退陣、備前野殿を経て沼城へ
6月6日 中国大返しを開始。実際は、秀吉先陣が姫路城に到着。
6月7日 沼城-姫路城間70km、全行程200km中92km踏破。
朝廷が勅使吉田兼見を安土に送り、光秀の勝利を祝賀。
6月8日 光秀坂本城に帰還。秀吉大行軍の情報を得る。
6月9日 姫路城を出発。
姫路城-明石間35km、全行程200km中127 km踏破。
高山右近より光秀の動向を確認。足利義昭、自らの京都
入りを吉川元春父子・小早川隆景に命令。
6月10日 兵庫に到着。明石-兵庫間18km。全行程200km中145 km踏破。
筒井順慶の出陣を促すため洞ヶ峠に滞陣。
6月11日 尼崎に到着。兵庫-尼崎間26km。全行程200km中171km踏破
6月12日 富田に到着。尼崎-富田間23km。全行程200km中194km踏破。
6月13日 山崎に到着。富田-山崎間6km、全行程200km踏破。
「中国大返し」を完了。織田信孝と対面。
光秀軍と山崎で決戦して勝利。光秀は勝竜寺城より坂本城
へ退却中、「落ち武者狩り」に遭い小栗栖で死去する。
6月14日 秀吉、三井寺在陣中に光秀の死を知る。
堀秀政隊、明智秀満軍を撃破。坂本城落城する。
光秀たった13日間の命であった。
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