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都市伝説ー長命寺の井戸

都市伝説ー長命寺の井戸





日本で都市伝説という言葉が知られるようになったのは、80年代後半。
そのきっかけとなったのは、アメリカの民俗学者、ジャン・ハロルド・ブルン
ヴァン氏の著書『消えるヒッチハイカー』。
これは、現代社会にまつわる噂話を集めた本で、民話や伝説と区別して「アー
バン・レジェンド」という言葉が使われた。
それが「都市伝説」と翻訳されたのだ。いわゆる語源である。
近年、都市伝説めぐりをする人たちも増えてきている。
都市伝説に詳しい芸人の島田秀平氏は、巡る際の注意点をこう語る。
「塩を持参すること。訪れた場所を離れる際に舐めてみて無味、もしくは苦み
が強いと感じたら要注意。何かが憑いている場合もあるので、直接帰宅せずに、
喫茶店など、30分以上滞在できる場に立ち寄るなどして” 霊 ”を落とすようにし
てください」と。




都市伝説ー長命寺の井戸
姿見の井戸は、境内の左奥の木陰にある。
そのモデルとなった井戸寺は1300年以上の歴史を誇る。




「覗いて分かる自分の寿命の残り」
江戸時代から「東の高野山」として信仰を集めてきた長命寺。
その境内にあるのが「姿見の井戸」だ。この井戸には「覗き込んで水面に自分
の顔がハッキリと映れば長生きできる。しかし、歪んで映ったら厄災が降りか
かる」という都市伝説がある。
最近では、それに追加する話として「ある大学生がふざけて石を投げ入れたと
ころ、井戸水に映った自分の顔が歪んだ。しばらくするとその学生は交通事故
で亡くなった」という逸話まで出てきている。
長命寺の井戸は、四国四十八ヶ所霊場のひとつ井戸寺の面影の” 井戸 ”がモデル。
井戸は、弘法大使・空海が掘ったといわれ『姿見の井戸』と同じ伝説が残って
いる。『残りの寿命が分かる井戸』の伝説が昔から伝わっているのは本当のこと
だが、大学生の話しは、作り話っぽい。

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都市伝説を検証する

都市伝説検証する





         「東 都 三 ツ 股 の 図」




天保2年(1831)に歌川国芳が、隅田川と小名木川が交わる中州から対岸
方向(深川)を見て、手前には、川岸に置かれた船の底を、2人の船大工が、
防腐処理のため火で炙っている様子が描写され、背後には川を隔てて「佃島」
の町並みや「永代橋」小名木川河口にかかる「萬年橋」が見え、一見すると、
江戸の水辺を描いた日常の風景である。
ただこの中に目につくのが「東京スカイツリー」にそっくりな塔が描かれてい
ることだ。国芳は180年も前に、スカイツリーの建設を予言していたのだろ
うか。歴史研究家・能城秀喜さんは「木の積み方から見て、”井戸掘り櫓” では
ないか」と予測する。
「国芳はほかにも、同じ櫓を描いていて、形も似ています。ちなみにその左隣
に描かれている少し低い塔は、火の見櫓であるといわれています」
しかし、井戸掘り櫓にしては、あまりにも高さが際立っているという指摘もあり、
真実は不透明のまま。
「伝説の発端」
江戸時代にこれほどの高さを有する建造物は、少なくとも町中には、ほぼ存在
しないことから、歌川国芳が未来を予言し、東京スカイツリーを描いたのでは
ないかと囁かれるようになった。
当時の火の見櫓は、高さが最大で約10m。1841年(天保12年)に出された「菓
子話船橋」
(江戸の菓子屋[船橋屋]の主人が菓子の作り方を記した本)のなか
にも、三ツ股付近にそびえる火の見櫓の絵が描かれている。
 もし火の見櫓のすぐ傍に、謎の塔が立っていたとすれば、高さは20m程度で十
分。さらに、当時、町なかに建てる塔で相応の高さを有するのは「井戸掘り用の
櫓」
くらいしか存在しない。つまり「東都三股の図」に描かれているのは東京ス
カイツリーではなく、たんなる櫓に過ぎなかったということになる。
「あらためて実際の絵を見てみると、川幅も広めに描かれ、遠近感がダイナミッ
クに演出されていることが分かります。浮世絵は写実よりも印象を重視するのが
醍醐味。歌川国芳の遊び心やサービス精神が、没後150年以上を経て、再び日の
目を見ることになったというのが真相か」





役者の似顔絵御法度の時世だから落書きにしてみました。
バンクシーよりも180年早く「落書き」を残した国芳である。






         『相 馬 の 古 内 裏』





原作(山東京伝『善知安方忠義伝』では数百の骸骨と戦うと
ところを、国芳は一体の巨大なものに変えた。さらに三枚続は
一片でも成立するよう描くのが慣例のところを、画面いっぱい
に骸骨を描き込んだ。そこが国芳の画法である。また、骸骨の
描写は学術的にもかなり正確になされていることから、国芳は
西洋の解剖学に関する書物を参考にしたものと考えられている。




「遅咲きの奇才・歌川国芳」
画才を認められた歌川国芳は、15歳で歌川豊国への弟子入りが認められ、若く
して絵画の道を歩みはじめました。
ところが、国芳の絵はまったく世間に認められません。絵は売れず、師匠に月
謝を払うこともできない。兄弟子の家に居候して日銭を稼ぎながら腕を磨くと
いう、長い下積み時代を過ごすことに…。
 国芳が日の目を見るのは、30歳を過ぎてからでした。
歴史上の武将・伝説の英雄や、その合戦の様子を描いた「武者絵」に活路を見
出して、中国の小説・『奇譚水滸伝』を題材に「通俗水滸伝豪傑百八人之一個
[壱人(いちにん)]」を描くと大ヒットを得ました。
躍動感あふれる自由な筆致と、カラフルな色彩が江戸っ子の心を鷲づかみにし、
ようやく画家としての第一歩を踏み出したのです。
そしてその奇才ぶりが発揮され、民衆を喜ばせました。




高さではこんな絵も描いています

歌川国芳ー奇才絵師の魔力 大阪中の島美術館

図では大判の紙を縦に三枚つなげて塔の高さを表現。
塔の上下で、にらみ合う二人の視線に合わせて塔の上部は仰ぎ見るように、
下部は見下ろすように描き、迫真の空間を作り出している。
屋根から突き出た相輪にわずかな雪を残すなど、雪景色を細部まで丁寧に
描き、臨場感を持たせている。








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詐欺とは書かない職歴

ニュースー警報レベル3・サギとカモ






  サギが狙っているとも知らずのんびりと泳ぐカモ




「甘いコトバにご注意を」
「カモ」とは、なぜ人を騙す意味でこの言葉が使われるようになったか? 
それは、「鴨が捕まえやすく、美味しい鳥」だったからです。 
昔の人にとって「鴨は、簡単に手に入り、大きな利益が得られる存在だった」
のでした。 このことから、
「簡単に騙される人」→「いいように使える人」→【カモ】という意味
で使われるようになったのです。





       因 幡 の 白 兎

古くから「白兎」のことを「サギ」と呼ぶことがあり、ワニを騙して海を渡ろ
うとした神話のウサギの行動にちなんで、「騙す=さぎ」と呼ばれるようにな
ったという、神話があります。
 『隠岐の島にいた兎は気多に渡りたいと思い立ち、海の和邇(ワニ)を欺く
ことを思いつきました。兎はワニを呼ぶと「私とあなたたちの一族ではどちら
の数が多いか比べてみよう。同属のものを集めて、島から気多の前まで並んで
伏せておくれ。私がその上を踏みながら数えていくから」と誘いました。
兎は集まったワニたちの背を渡って気多へ向かい、渡りきる直前に「お前たち
は私に騙されたんだ」と言い放ちました。すると最後のワニがたちまち兎を捕
え、衣(体毛)をすっかり剥ぎ取ってしまいました。
それで泣いていたところに、八十神たちが通りかかって嘘を教えたので、兎の
身はさらに傷つき苦しんでいたのでした。





   騙すつもりが騙された



詐欺を題材にした「騙すつもりが騙された」という古典的な小咄があります。
『ある男騙されやすい田舎者をカモにして、金品を巻き上げようと企みます。
男は道端でわざと高価そうな財布を落とし、物陰から様子を伺います。
案の定、通りかかった田舎者がその財布を拾いました。
男はすかさず駆け寄り「おいおい、その財布は俺が今落としたものだ。
半分よこせ」と脅します。すると田舎者はニヤリと笑って、返答しました。
「何を言ってるんだい。この財布は空っぽだよ。落とした財布の中身を分け
るなんて話があるかい!?」
正直者を正直者でないのが騙すのだから簡単なのだ。






        詐欺師を振り回すテクニック



壺算に見る値切りと交渉の美学
引っ越して来た家にへっついが有り、横に水壺があったが、棚から布袋さんが
落ちて、水壺が割れてしまった。この際だから二荷入りの壺(大きい壺に買い
換えることになったが、兄貴は買い物が上手いので、一緒に行ってもらうこと
に、おうこを持って出掛けた。
(「おうこ」=両端に物を吊るして肩に担ぐための「天秤棒」のこと)





     壺が割れて買い替えることになった





落語「壺算」 
 壺算
は、買い物上手の男が巧妙な計算トリックを使って、瀬戸物屋の店主
から水壺を安く買い叩く(騙し取る)という滑稽噺です
 瀬戸物町にやって来た。店に入る前に足元を見られないように注意した。
「壺はここにも裏にも、並んでいるからご自由にどうぞ」と言われたが相棒は、
着物の裾を引きずっている。
「どうした?」
「足元見られないように」
「買い物というのは帰ってから、あっちの方が良かったというものだから、
 今よく見ておけ」、
「この水壺どう見ても気に入らないよ」、
「何処が気に入らないんだ」、
「壺というのは、口が開いていて、底が有るから水が溜まるんで、この水瓶は
 口が塞がっていて、底が開いている」
「それは壺が逆さまに置いてあるからだ」
「もしもし、お客さん店先で喧嘩なさらないように」
「頼りない男だから、嫁さんに頼まれてきた。あっさりと値段はいくらだ」
「軒並み同業者で、朝商いのこって、あんさん達のこって、せいぜい勉強
 して、オマケ申して、ドンと張り込んだところが、3円50銭が1文も
 まかりません」
「途中まで負けるのかと思った。それでは『軒並み同業者で無く、朝商いで
 無くて、あんさん達の事でなく、せいぜい勉強しないで、オマケせんで、
 ドンと張り込まなかったら』、これはいくらなんだ」
「3円50銭です」、
「同じじゃないか。50銭は負けなさい」、
「それは手荒い」
「おうこまで持ってきているんだ。外に頼んで運んでもらったら、余計に金
 が掛かるだろ。そこを考えてみなさい。その上、長屋に帰ったら長屋中に
 ここで水壺は買いなさいと宣伝するよ」
「あんさんは買い物が上手い。3円で良いです」
 連れに3円出させて、差し担いにして担ぎ出したが、相棒は、二荷入りの
 壺を買わなければ嫁さんに怒られるという。
「グルッと回れば二荷入りの壺になる」
と言い、先程の店に戻ってきた。





  おかしいな? 可笑しくないか? けどおかしいな





「覚えていてくれたな。2荷入りの壺が欲しかったんだ。良いかい。
 では、2かいりの壺を持って帰れるように、縄を掛けておいてくれ。
 ところでいくらだ」
「1かいりの壺が3円50銭で倍の7円に…、あんさんは買い物が上手いな。
 6円でようございます」
「分かりやすくてイイ。ところでさっき3円渡したな」
「ここにまだ置いたままになっています」
「で、この1かいりの壺下取りしてくれるな。いくらで下取りしてくれるな」
番頭一瞬聞き間違えたのかと思って聞き直した。
「だから、この壺をいくらで下取りしてくれるな」
「…3円です」
「そこの現金とこの下取りした3円で、持って帰って良いな」
「…もう一度言ってもらえますか」
「ちゃんと聞いてろよ。そこに置いてある3円と、下取りした壺3円で6円だ。
2かいりの壺が6円だから、持って帰っても良いな。分からんか」
「分かりました。どうぞお持ち帰り下さい」
相棒は分かったので可笑しくてしょうがない。荷を担いでも笑っている。
「逃げるように早く行け」
番頭気が付いたのか呼び戻した。
「どうも、3円しか無いんですが」
「お前、この1かいりの壺を下取りしてくれるんじゃ無かったのか」
現金と壺を見比べて
「1かいりの壺を入れるのを忘れていました。どうぞお持ち帰り下さい」。





枂捋とは、皮を剥いたり、手でものを摘み取ったりすること





担ぎ出すと番頭、また戻ってくれと呼び戻した。
「どう考えても勘定が足りません」、
「おい、店を出ると、勘定が足らん、金が無いと言うのでは、我々が盗んでいる
ようなもんだ」、
「どうしても勘定が合わないんです」、
「それだったらソロバンを持って来な」、
「持ってきましがどの様に…」
「まず3円支払ったな、それを入れろ。次に1荷入りの壺の3円を入れてみろ。
6円になるだろう」
「あとの3円を入れて良いものかどうか」
「引き取るんだろう。だったら入れんかい。見ろ6円になるだろう」
何回やっても6円になるが、銭が足らない。
丁稚に大きいソロバンを持って来させた。大きいソロバンでも答えは同じ。
「6円だろう」
「あんさんがゴチャゴチャ言うから、分からなくなるんです」
店先で別のお客さんが値段の交渉を始めたが、ゴチャゴチャ言うんだ
ったら売らない、と客を追い返した。
「3円と3円で6円のことぐらい分からんのか」
「忠助さんはいないのか。出掛けているのか。一番大変なときに。
忠助さんが一番ソロバンが上手いのに」
まだ大きなソロバンで3+3=6の計算をしている。
「私も長い間商いをしていますけれど、こんなややっこしい壺は初めてです」
「そうじゃろう。そこがこちらの思う壺だ」。





     カラスとキツネどちらが賢い





「賢いキツネと見栄っ張りのカラスの物語」 イソップ寓話ゟ
美味しそうなチーズを手に入れたカラス。そこへお腹を空かせたキツネがやっ
てきて、甘いコトバでカラスをほめちぎります。
『ある日のこと。カラスがおいしそうなチーズの塊を見つけて、ゆっくり食べ
ようと木の枝にとまりました。そこへ一匹のキツネが通りかかりました。
キツネは、カラスのくちばしにあるごちそうを見つけると、おなかが グゥ〜 と
鳴りました。木の上までは手が届かないとわかっていたので、キツネは持ち前
の賢い頭を使って、ある作戦を思いつきました。
キツネは木の上を見上げて、優しく甘い声で話しかけました。
「おはようございます、カラスさん。あなたの羽は、なんてキラキラして美し
いんでしょう!こんなに立派で上品な羽、今まで見たことがありませんよ」
突然ほめられたカラスはびっくりして、少し首をかしげました。
キツネはさらに言葉を続けます。
「その美しい姿と同じくらい、きっと声も素晴らしいのでしょうね。
森の中で一番素敵なあなたのお歌を、どうか私に聞かせてくれませんか?」
それを聞いたカラスは、すっかり得意顔になりました。自分の素晴らしい歌声
を自慢したくてたまりません。カラスが一番の大きな声で カーッ! と鳴こう
とくちばしを開いたその瞬間……。
くわえていたチーズが ポロリ と落ちてしまいました。
キツネは地面に落ちる前に、それを パクリ とくわえ取りました
 
                            
          詐欺を笑っている場合ではありません!  
                           

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ニュースー海軍戦闘機搭乗員の戦後

ニュースー海軍戦闘機搭乗員の戦後






第二航空艦隊司令長官福留繁中将が整列した特攻隊員を前に訓示する。
杉田貞雄はこの中にいた。




 太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期
までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、
「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかっ
てゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中
の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのも
この世代だ。
海軍の戦闘機搭乗員は、戦後50年の平成7年に1100名が存命だったのが、そ
れから30年が経った令和7年10月現在、数名の存命が確認できるに過ぎな
い。最前線に投入された戦闘機搭乗員の8割が戦没した苛烈な戦争を生き延び
た彼らは、どのような「戦後」を過ごしたのか…。





「5度の特攻出撃から生還した杉田貞雄一飛曹に聞く」
『昭和20年、8月15日、玉音放送は、出撃待機中の台湾・宜蘭(ぎらん)基地
で聴きました。雑音が多くてよくは聞き取れませんでしたが、戦争が終わった
ことは理解できた。そのときみんなの表情がね、頬が緩んでピクピクしてるん
ですよ。それを表に出さないように我慢してる姿がね。戦争に負けたのは理屈
では口惜しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。
みんな悔しいフリはしていますよ。「デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ」
「戦闘続行!」なんて、口々に言いながら、頬が緩んでる。
身体がよじれるような、踊り上がりたいような喜びが体の内から湧いてくる。
戦争に負けた悔しさとこれとは、とりあえず別ですよ。人間の生存本能じゃ
ないでしょうかね』と、第二〇五海軍航空隊神風特攻大義隊員だった杉田貞雄
(旧姓・小貫)は語った。

平成15年のこと。杉田は、爆装特攻機として、部隊で最多となる5度の特攻
出撃をしながら敵艦と遭遇することなく、奇跡的に生還した零戦搭乗員だ。
杉田が特攻隊員になったのは、周囲の同調圧力に負けたからだった。終戦前年
の昭和19年10月末のことである。
「諸君は空の神兵である。ただいまより特別攻撃隊員を募集する。我と思わん
者は一歩前へ出よ」






フィリピン・ルソン島のバラカット基地より250㌔爆弾を搭載して
出撃寸前の敷島隊一番機。手前は関行雄大尉





 第二航空艦隊司令長官・福留繁中将の訓示に、一瞬、その場が凍りついた。
フィリピン、クラーク・フィールドのアンヘレス北飛行場。ぎらぎらと太陽が
照りつける草原の滑走路に整列した搭乗員たちは皆、顔は前を向いたまま、目
だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた。そして数秒。沈黙
に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、ぞろぞろと重い一歩
を踏み出した。爆弾を搭載した飛行機による体当り攻撃、すなわち特攻が本格
化しつつあった。18歳の杉田も、雰囲気に引きずられて一歩前に出た。
しまったと思ったが、もう後戻りはできなかった。
「ありがとう、ありがとう。だがこれでは志願者が多すぎて選びようがない。
いずれ選考の上連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」





福留中将の特攻志願の呼びかけに、つい一歩前に出てしまい特攻隊員となった
杉田貞雄飛行兵長





杉田は、大正15年3月23日、宮城県に鉄道員の次男として生まれた。
軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験したが、成績がよかったので、試験官の勧
めで飛行兵志望に切り換える。そして昭和18年6月、18歳で乙種飛行予科
練習生(特)、通称「特乙(とくおつ)」の二期生として、山口県の岩国海軍
航空隊に入隊した。


「特乙」とは、乙種予科練の合格者のなかから生年月日の早い者を選抜、速成
教育を施すために新設されたコースで、杉田も「殴られて体で覚える」すさま
じい詰め込み教育に耐え、海軍に入ってわずか9ヵ月後の昭和19年3月には
零戦搭乗員として実戦部隊に配属される。同年10月には、米軍の大部隊がレ
イテ島に上陸したのを受け、「零戦」で編成された第二二一海軍航空隊(二二
一空の一員として、日米決戦を目前に控えたフィリピンに送り込まれていた。


『二二一空は制空部隊なので、連日の邀撃戦に参加しましたが、車で言えばま
だ初心者マークをつけているようなもので、一番機から離れないよう飛ぶのが
精いっぱいでした。私の小隊長の石原泉上飛曹が「初心者の君が後ろで引き金
(機銃の発射レバー)を握っていたら俺が危ない。お前は撃たなくていいから、
とにかく離れずについて来い」と注意してくれましたが、編隊からはぐれると
必ずやられますよ。それで機銃も撃たず、尾翼に被弾して還ってきたのが私の
初陣でした。
何度かグラマンF6Fと空戦をやって、最初は体が震えて困りましたが、これが
武者震いか、とやせ我慢しているうちに、だんだん戦場に慣れてきます。
そして、仲間がちらほらやられるようになると、クソ度胸がついてきて、敵愾
心が湧いてくる。俺は負けない、と、いっぱしの戦闘機乗りとしての意識が芽生
えてくるんです』






           フィリピン・マニラ上陸

※ (ちょうどその頃、フィリピンでは、味方主力艦隊のレイテ島への突入を
支援するため、米空母の飛行甲板を一時使用不能にする目的で、第一航空艦隊
司令長官・大西瀧治郎中将のもと「特攻作戦」が開始される。そして、その予
想以上の戦果に、当初は、特攻に消極的だった第二航空艦隊も、追随して特攻
作戦に踏み切った)





三角兵舎

三角兵舎・内部




福留中将の呼びかけに応じて、全員が志願した形となった二二一空の搭乗員た
ちは、次々と戦闘機の特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)
に転勤していった。
『ニッパ椰子の葉で囲った粗末な三角兵舎のなかで、みんなでごろごろ待って
いると、夜、暗くなってから要務士がカバンを持ってやってきて「ただいまよ
り二〇一空転勤者を発表する」とやるんですよ。そして名前を呼ばれる。一度
に5人か6人ですけどね、この瞬間の気分は何とも言えません。
名前を呼ばれた者は、飛び上がって喜んでるんだけど、心のなかは逆、泣いて
るんですよね。それで呼ばれなかった者は、ガックリしたような顔をしながら、
腹のなかではホッとしている。明と暗がはっきりと分かれる瞬間でした』
そして12月15日。ついに杉田にも、二〇一空への転勤、すなわち特攻隊へ
の編入が言い渡される。
『そのとき私は、クラークのアンへレス北飛行場にいました。夜の10時頃、
搭乗員室に要務士がやってきて、私と山脇飛行兵長の二人に転勤が言い渡さ
れた。それで深夜、ライトを消した黒塗りのフォードに乗せられて、マバラ
カット市内にある二〇一空本部へ連れていかれました。
二〇一空では、飛行長・中島正中佐が、「よく来てくれた」と迎えてくれ、
従兵が皿に乗せたぼた餅を運んできてくれました。そして、それを食べ終わ
るか食べ終わらないかのときに、飛行長から、「明朝黎明発進」を告げられ
たんです。ドキン!としてぼた餅を喉に詰まらせそうになりましたよ。
こっちはまだ、口がもぐもぐ動いているのに。
そしで、「遺書を書いて用意せよ」と言われるんですが、いきなり遺書を書
けと言われても、いざ明日、死ぬときの心境なんて、すぐには言葉に出てこ
ないし、実感が湧かない。
山脇と二人で、「俺は空母をやるぞ。お前は戦艦をやれ、あれは硬くて跳ね
返されるぞ。だから艦橋を狙うんだ。当たった瞬間は痛いだろうな。どこま
で意識があるんだろう」などといろいろ話をしながら、少しうとうととした
らもう朝でした』
割り切れない思いを胸に、杉田は、宿舎に用意された藁半紙に、鉛筆で遺書
を書いた。両親、兄弟、親戚、恩師、脳裏に浮かぶ人はたくさんいたが、感謝
の思いを言葉にしようにも、なかなか思うに任せない。結局、杉田の遺書は、
〈遺書/大和男の子と生まれ来て/明日は/男子の本懐一機一艦/親に先立つ
不孝お許しください/天皇陛下万歳〉
と、ぶっきらぼうなほど短いものとなった。
『天皇陛下万歳っていうのは、まあ当時の決まり言葉ですね。ちょこちょこっ
と書いて最後にそう付け加えれば、なんとなく軍人らしく格好がつく。
まだ18歳ですからね、虚勢ですよ。顔で笑って心で泣いて、という言葉その
ままです。空戦でも死ぬかもしれないが、それは相手を倒すことが目的で戦っ
た結果ですから、特攻で自分から死ぬ覚悟を決めるのとは全く違う。腹のなか
を整理するのが大変でした』
12月16日、飛行場に出て、黒板に書かれた当日の搭乗割を見ると、山脇の
名前はあったが、飛行機の準備が間に合わなかったのか、杉田の名前はそこに
なかった。
『一瞬、選に漏れた「無念と今日は生き延びた」という本能の喜びが交錯しま
したが、山脇の顔を正視できない思いでした。それでもみんなと一緒に出撃前
の訓示を聞いて、山脇と一緒に指揮所から飛行機の秘匿場所まで1.5キロほど
歩きました。飛行機に乗る間際になって、山脇から、これを家族に届けてくれ、
と遺書と髪の毛と爪の入った小さな紙の包みを渡されました。
山脇が飛行機に乗り込むとき、私は一緒に左主翼の上に乗って、試運転の爆音
のなか、「おい、何か言っておくことないか」と声をかけたんですが、彼は黙
って首を振るばかりでした』
 山脇飛長は、この日の出撃からは生還したが、12月29日、第十五金剛隊
の爆装機としてミンドロ島南岸沖の敵輸送船団攻撃にバタンガス基地から出撃、
戦死した。

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ニュースー戦争で得たものは

ニュースー「戦争で得たものは憲法だけ」城山三郎



城山三郎さんは、特攻隊から無事帰還したひとりです。
城山さんは、海軍特別幹部練習生として、特攻隊である伏龍部隊に配属になり
訓練中に終戦を迎えた。これについて城山さんは「日本は明治維新と敗戦の2
度、上の世代が飛んで、すっかりいなくなったからね。それが良かったのかも
しれないねぇ」と語っている。






                  遺書や手紙を遺し飛び立っていく特攻機




 「神風特攻隊」は、太平洋戦争末期の昭和19年10月に旧日本海軍が編成した、
航空機による体当たり攻撃部隊です。爆弾を積んだ戦闘機で、アメリカ軍艦船
へ直接突入する戦法がとられ、多くの若者が命を落としました。






                                                戦 艦 武 蔵
負けるつもりはない武蔵。帰ってくるつもりの武蔵だったが。
しかしレイテ沖で執拗な米空軍に沈没を余儀なくされた。




 「神風特攻隊・創設の背景」
 初期の戦果戦局が著しく悪化した1944年、フィリピン周辺の戦い(レイテ沖
海戦など)において、当時の第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の発案に
より編成されました。
制空権を奪われ、正規の航空戦力で、劣勢を覆すことが困難な中、爆弾を搭載
した「零戦」などで敵艦に体当たりする戦法が「必中必殺」の攻撃として採用
されました。






         唯一 米艦に命中したゼロ戦闘機

        神風は怖いとアメリカ兵も驚いた




初期の攻撃では、護衛空母を撃沈するなど、一定の戦果を挙げたものの、のち
にアメリカ軍が対空防御を強化したことで、成功率は低下しました。
 沖縄戦での激化1945年3月以降の沖縄戦では、南九州や台湾などの基地から、
陸海軍合わせて数千機の航空機が、「特攻作戦」に出撃しました。
この作戦は「菊水作戦」と名付けられ、多くの連合軍艦船に甚大な被害を与え
ましたが、日本側も4,000機以上の機体と、多くの搭乗員を失う結果となりま
した。
 隊員たちの背景と遺書特攻隊員の多くは、20歳前後の若者であり、学徒出
陣で召集された大学生や、飛行予科練習生(予科練)などの若年搭乗員が多数
を占めました。彼らが残した「遺書や手紙には、死の恐怖に直面しながらも」、
家族や祖国を想う心情が綴られており、現代でも様々なメディアや書籍でその
記録が語り継がれています






         特 攻 隊 員 の 遺 書




「特攻隊員の出撃前の遺書」


中上敬一少尉遺書
 昭和20年4月16日に特攻戦死した中上少尉の遺書である。
便箋四枚からなり、家族への他の手紙や絶筆などと冊子状にして綴られて保管
されてきたものである。「四月十五日の夜」と記載があることから、出撃前夜
に記されたことがわかる。
” 身はたとへ南西の空にくちくとも 永久に生きなん我が櫻 ”
神州神ながらの国 日ノ本 断じて勝たん
我らが特攻隊 隼は今も尚南の雲に消えて往く。
父様、御婆様、母亡き子の敬一を良く之迄仕立ててくれました。
厚く御礼申し上げます。
敬一の心は 徹忠 の二字であります。
                     敬一より
  父上様     四月十五日の夜

松原徳雄少尉遺筆 
昭和20年4月16日に特攻戦死。
「明日最後の離陸」 
「明日十二時迄に最后の離陸をします」という文言から、出撃前日に記された
ことがわかる。

網代一大尉遺書 
昭和20年4月28日に特攻戦死。
「愈々出発です」という文言や四月二十八日の日付から、出撃当日に記された
ことがわかる。

袴田治夫少尉絶筆 
「もう出発」 昭和20年5月4日に特攻戦死。
既に我が愛機ハ…中略…爆音ヲ立テテヲリマス。イマ 飛行機翼ノ上デ走リ書
キシテオリマス。「モウ出発デアリマス」という文言から、飛び立つ直前まで
知覧飛行場で記されたことがわかる。

水川豊少尉絶筆 
「只今より出発」 昭和20年5月11日に特攻戦死。
「只今より出発致します」という文言と5月10日の日付から、出撃前日に小月
飛行場にて記されたことがわかる。

服部武雄少尉遺書
「明朝出撃」  昭和20年5月25日に特攻戦死。
出撃前夜という文言から、出撃前日に知覧において記されたと推測。
日付の記載がないため、前線基地である知覧飛行場へ赴く際に、その前夜に記さ
れた可能性も残るが「出撃」という文言を、最終離陸の意味に解釈した。

太田巌軍曹絶筆 
「出撃直前」 「昭和20年5月26日」
「出撃時刻デス征キマス」「出発直前デアリマス故充分書ク事出来マセン」
「只今ヨリ征キマス」という文言と、5月26日の日付から知覧飛行場から出撃直前
に記されたことがわかる。






        寄 せ 書 き ①




美野輝雄少尉絶筆
「出撃は後時間の問題」 昭和20年5月25日特攻戦死。

大岩泰雄大尉遺書  
「明朝出撃の予定」 昭和20年5月28日に特攻戦死。

宮井政信少尉遺書 
「攻撃命令も今日か明日」 昭和20年5月28日に特攻戦死。

生駒寛彦大尉遺書
「明日征きます」 昭和20年6月6日に特攻戦死。

深田末義少尉遺書
「出撃前夜に」 昭和20年6月3日に特攻戦死。
「明日は愈々晴れの出撃なり」「明日の特攻勇士はとても朗らかな
り」「レコードをかけたり唄を歌ったりしております」の記述は、出撃前夜の
様子を伝える。

中嶋璋夫少尉遺書
「任務に赴く前夜」 昭和20年6月6日に特攻戦死。
「大命を拝シ任務ニ赴ク前夜一筆父母ニ記ス」






          寄 せ 書 き ②
 



「特攻隊員の遺詠-②」
沈んでいる友母死せる便りあり
明日の空案じて夜の窓を閉め
明日の晩化けて出るぞと友脅し
神様と思えば可笑しこの寝顔
人形に 彼女に云えぬ 事を云い
真夜中に遺書を書いてる友の背
殺生は嫌じゃと虱助けやり
体当たりさぞ痛かろうと友は征き
これでこうぶつかるのだと友話し
アメリカと戦う奴がジャズを聞き
夕食は貴様にやると友は征き
俺の顔青い色かと友が聞き
必勝論必負論と手を握り
父母恋し彼女恋しと雲に告げ
神様が野糞したり屁をしたり
不精者死に際までも垢だらけ
今日もまた全機還らず月が冴え
あの野郎征きやがったと目に涙
機上にて涙の顔で笑ってる
還らぬと知りつつも待つ夕べかな

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