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豊臣兄弟ー本能寺の変前夜の信長家臣の序列

番号に表情があるシンフォニー  阪部文子






          『大多春永城塀修復の図』

右側の大多春永が織田信長、中央に着座するのが秀吉。
秀吉は小人として信長に奉公していて、清須城の塀修理での功績
により「足軽」という下級武士に取り立てられた。



豊臣兄弟ー本能寺の変前夜の信長家臣の序列






           「鳥 取 城 跡」

防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから「日本にかくれなき名山」
と評され、鳥取城を織田信長は「堅固な名城」と讃えた。
鳥取城は、羽柴秀吉の兵糧攻めの舞台になった。





秀吉・秀長兄弟は天正9年(1581)には「鳥取城」を攻略し、翌10年3月には
満を持して、山陽方面から毛利領への本格的な侵攻を開始する。
信長五男で秀吉の養子となっていた秀勝に初陣を飾らせ、備前から備中へ侵攻。
毛利方の拠点である「冠山城」「宮地山城」などを相次いで攻略し、羽柴軍の
威容を見せつけた。5月に入ってからは、清水宗治が籠城する「高松城」の水
攻めを開始する。この年の3月、信長は、甲斐の武田氏を滅ぼしており、この
情報を知った毛利家中は危機感を募らせており、高松城を救援できなければ滅
亡する恐れさえあった。




幻を打ち消すように鹿おどし  山本昌乃





このため毛利氏は全力を挙げて来援したが、秀吉方の鉄壁な攻囲陣を前に有効
な軍事作戦を展開できなかった。毛利水軍や身内からも離反者が出る始末で、
秀吉単独でも対抗できない状態であり、これに信長が親征すれば武田氏のよう
に滅亡する可能性も高く、秀吉との間で講和が持ち上がっていたようである。
その矢先に、「本能寺の変」の急報がもたらされた。
秀吉はすぐさま和議を調え、「中国大返し」を決行し、光秀軍を打ち破り弔い
合戦の主力となった。




追い風に消されたぼくの新記録  山田順啓






           「清 須 会 議」

信長が本能寺で倒れた後、織田家の後継者と領地配分を決定するため
清須城で開かれた会議で、秀吉が巧みな根回しによって主導権を握り、
天下人への足がかりを築くこととなった。





「ここで本能寺の変時点での織田家中の序列をみてみよう」
信盛追放後、織田家中で最高位だったのは勝家だろう。
越前・加賀に加え能登越中の大半を支配下に置き、実子権六には、信長の息女
をもらい受けており、一門衆にも列していた。
秀吉も、信長の実子秀勝を養子としており、一門衆であった。
外様の光秀は、畿内で総奉行的な役割を果たすようになっており、信長の甥の
信重に息女を嫁がせていた。ただ血縁関係からいえば、勝家や秀吉よりも一段
下だった。




負けたんじゃない譲ってあげただけ  高野末次





武田攻めの論功行賞で、上野一国相当を拝領した滝川一益は、東国から東北に
かけての広大な領域の管轄を任され、織田家中では、最大エリアを担当するま
でに出世していた。整理すると、織田家中では、分限や信長との関係を勘案す
ると、勝家、次いで秀吉・秀長兄弟、そして一益、光秀の順だったろう。
こうした織田家中の序列は、「本能寺の変」で一変した。主君信長の敵討ちに
三男信孝を総大将に据えた秀吉・秀長兄弟の武功によって、その地位は逆転し、
秀吉が「清須会議」で主導権を握り、信長の後継者に成長していくことになる。
そのとき徳川家康はなにをしていた。




ぶらさがると奇跡が見えるナマケモノ  井上恵津子






       「徳川家康・武田信玄合戦図

左に家康、信玄。家康は信玄との合戦に一度も勝てなかった。
「家康の資質」
明治の歴史家・山路愛山は、主著『徳川家康』において家康の最大の資質を
「時勢の推移に適応する順応性」と「偉大なる凡人としての政治的現実主義」
と捉えました。





『家康は天下人の器ではない?』 「蒲生氏郷の家康評」 
氏郷とその重臣との談話より
 「太閤亡き後は、関白殿(秀次=秀吉の甥)に皆は従いましょうか」
A 「誰があの愚人に従う者がいようか」と答えた。
 「天下の主となる人は誰でしょうか?」。
 「加賀の又左衛門なり」
加賀の又左衛門とは、前田利家のこと、加賀百万石の祖である。
 「又左衛門が天下を得ない場合は、次は誰が天下を得ましょうや」
 「又左衛門が天下を得ないのならば、我が天下を得る」
 「では、東照宮(家康)はどうでしょうか?」
 「家康は、天下を得べきに非ず。家康は天下人となるような器ではない」
 「なぜでしょうか?」
 「家康は、人に過分に知行を与える器量がないからだ。
   利家は人に過分に知行を与える、よって、利家こそ天下を得る」



素面でも小石にこける今の僕  靍田寿子




彼(家康)は、蒲生氏郷より「人に知行を過分に与ふる器量なきが故に天下の
主になり得べきものに非ず、と云はれたり」と記述されている。
その上で、次のような逸話を記述しています。さらに愛山は、
「長久手の戦に池田信輝の首級を得たる永井直勝に織田信雄は、五千石を与へ
んと欲したり。されど彼は、家康の家人に左程の賞行ひしこといまだ候はず。
斯くして彼は僅に千石を与へしのみ」と。つまり、秀吉との長久手の合戦(15
84年)の際に武功があった永井直勝に対し、織田信雄(信長次男)は「五千石
を与える」ことを提案。ところが家康は「家康の家臣で、そのような恩賞を与
えたことはない」と言い、僅か千石しか永井に与えなかったという。




大きい声出しているのは眠いから  前中一晃




こうした逸話を見ていたら、家康は吝嗇なようにも見えるが、愛山「さにあら
ず」と主張。なぜか。歴史家山路愛山は述べます。
「東軍に加わりたる豊臣氏の諸将に対しては、殆んど賜与に濫なりと云ふべき程
に加封したり。則ち二十万石の清須を領したる福島正則が三十万石を加へて五十
万石の安芸備後両国の主となり、十五万石の吉田(三河)を領したる池田輝政が、
三十七万石を増して五十二万石の播磨を得たるが如き、皆此例なり」と。つまり、
関ヶ原の戦い(1600年)において、東軍(徳川方)に加勢した諸将(福島正則
池田輝政)を戦後に大幅に加増しているということである。
               「歴史家・山路愛山の著書『徳川家康』ゟ」




僕よりも清らかであるホタルイカ  新家完司

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ニュースー本能寺直前の秀吉の不可逆的嘘


ニュースー調略を使いこなして敵を欺け


調略(騙し)
調略とは、敵を欺くことで戦国時代の戦術でした。
豊臣秀吉はこの口任せでいくつもの城を落としてきた。
敵の城に忍び込んだ忍者が、ある夜、城の重臣の部屋を訪れました。
「お主、何者だ!」忍者は懐から小判を一枚取り出し、机に置きました。
「ご覧の通り、調略の者でござる。これを差し上げますので、わが殿に味方し
 ていただけませんか」
重臣はしばらく小判を見つめ、ニヤリと笑って言いました。
「はっはっは、よかろう。だが、ここでワシが寝返ったと知れたら命がない。
 どうやって裏切ったとごまかせばいい?」
忍者は答えました。
「簡単でござる。明日の戦の最中、わざと大声で『敵に回ったー!』と叫んで
逃げ出せば、誰も本気で怒りませぬ」
翌日、戦が始まりました。その重臣は最前線に躍り出ると、大声で叫びました。
「えーい、ここまでじゃ! わしは今日から忍びの者の味方じゃーっ!」
それを聞いた総大将が呆れて言いました。
「あいつ、わざわざ『調略された』ことを自分でバラしおって」





 
   「高松城 水攻めの図」 馬上で戦況を見ているのは秀吉。





「毛利攻め」
毛利攻めに向かう秀吉は、信長より付けられた与力の蜂須賀正勝と播磨の国人
黒田孝高に、毛利水軍の乃美宗勝や能島村上武吉をはじめ、中国地方の国人
ら調略にあたらせた。
天正10年5月、秀吉は、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、堤を
築いて足守川の水を流し込んで、水攻めを開始した。備中が秀吉の手に帰すと、
毛利方が擁立する将軍・足利義昭の御座所である鞆(とも)にも危険が及ぶた
め、毛利輝元は叔父の吉川元春小早川隆景を率い、救護に駆けつけた。
鳥取城攻めと異なり、毛利一族が揃って出陣したことを受け、秀吉は、毛利氏
との一大合戦に備え、信長に救援を求めた。信長は四国親政の方針を転換して、
備中に向かうこととし、明智光秀にも援軍を命じている。
秀吉の調略により、毛利方は内部から瓦解する寸前であった。
ところが、6月2日に「本能寺の変」が起こり、織田方が先に崩壊する危険に
陥った。光秀により信長・信忠父子が討たれた、という情報を受け取った秀吉
は毛利方の使僧である安国寺恵瓊と和睦交渉に入った。
恵瓊毛利輝元に交渉の経過を知らせることなく、清水宗治とのみ交渉し和睦
をまとめあげた。4日に宗治の自害を見届けた秀吉は、輝元らの身上を信長
執り成すことを恵瓊に約束し、城を摂取すると撤退を開始する。
そして、大阪にいる織田信孝や丹羽長秀の軍勢と合流し、光秀との決戦に向う。
秀吉・秀長兄弟は単独で、信長にとって最大の敵である将軍・足利義昭および
毛利輝元を追い詰めていた。備中高松城周辺で輝元と信長の直接対決が行われ
れば、毛利氏も武田氏同様の末路を辿ったであろう。
 そして信長の捕虜となった将軍義昭は、将軍を返上させられた可能性が高い。
秀吉・秀長のお膳立ては、そうした次元のものであった。
しかし、それゆえに信長は、本来、長宗我部元親との取次を務め、四国に渡海
すべき光秀を中国戦線に投入し、光秀の面目を潰したことで、その謀反を招い
てしまった。






   秀吉が「本能寺の変」翌日に毛利方重臣を調略した手紙
1582年6月2日、京都で本能寺の変が起き、織田信長が自害しました。
秀吉がその報せを掴んだのは、翌6月3日の夜です。
秀吉は驚愕したものの、即座に以下の隠蔽工作を行いました。





「秀吉の迅速な動き」
① 使者の捕縛
明智光秀が毛利氏へ送った「信長を討ったので挟み撃ちにしよう」という密使
を、秀吉の軍勢が偶然捕らえる。
② 情報統制
そして秀吉は、陣中からの情報漏洩を完全に防ぎ、毛利軍に信長の死が絶対に
伝わらないよう包囲網を固めた。
③ 偽りの強気
和睦を急ぐ信長の死を知った秀吉は、一刻も早く京都へ引き返して明智光秀
討ちたい状況である。しかし、焦りを見せれば、毛利軍に怪しまれてしまう。
そこで秀吉は「あえて強気の姿勢」を演じた。
④ 条件の譲歩
それまで毛利側に厳しく要求していた「領土割譲(五カ国)」の条件を「三カ
国」へと突然緩めた。
⑤ 城主の切腹を急がせる
水攻めで孤立していた備中高松城の城主・清水宗治に対し、「宗治の命ひとつ
で城兵を助ける」と持ちかけ、6月4日に切腹をさせた。
これにより、後戻りできない状況を瞬時に作り上げたのである。






            毛 利 三 兄 弟
左から長男・毛利隆元・次男・吉川元春・三男・小早川隆景


      毛利輝元(隆元の長男)





和睦成立の直後に即撤退6月4日の夕方までに清水宗治の切腹と毛利氏との
和睦(誓紙の交換)を完了させると、秀吉は、毛利軍に気づかれないよう、
その日の夜から不自然なほどの猛スピードで撤退を開始しました。
毛利方が「信長の死」を知ったのは、秀吉が撤退した翌日の6月5日だった。
毛利軍はなぜ追撃しなかったのか
騙されたと知った毛利軍(吉川元春ら)は激怒し、秀吉軍を追撃しようと主張
したが、断念せざるを得ない理由があった。
① 小早川隆景の反対
「一度交わした和睦の誓紙を破るのは武士の恥」とし、また「追撃しても秀吉
の殿(しんがり)部隊に返り討ちに遭う恐れがある」と冷静に判断したこと。
② 秀吉の根回し
秀吉は、撤退ルートの確保や、毛利軍が追撃してきた場合の伏兵・物資の準備
を怠ってはいなかった。その他の毛利攻めにおける「騙し(調略)」備中高松
城の戦い以外でも、秀吉はエグいほどの謀略で、毛利方を切り崩していたので
ある。
(強かな秀吉の罠に嵌らなかった隆景の深慮がよかったのかも知れない)











戦いの前に、秀吉は商人を遣わして鳥取城周辺の米を高値で買い占めていた。
城内が極端な食糧不足(飢餓地獄)に陥ることを分かっておきながら、一見親
切に米を買うふりをして、騙し討ちにする騙しである。。


③ 宇喜多直家の寝返り(1579)
毛利方の主力であった備前の宇喜多直家を、巧妙な調略(裏取引)によって織
田方に寝返らせ、毛利の防衛網を内側から崩壊させた。
 これらの作戦は黒田官兵衛の進言によるもので、結果的に秀吉の毛利攻めは、
相手の裏をかく「騙し方」が功を奏したのである。


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ニュースー詐欺に注意

ニュースー多発する詐欺




                      カ ラ ス と キ ツ ネ





「甘いコトバにご注意を」
「カモ」は、なぜ人を騙す意味でこの言葉が使われるようになったか? 
それは、鴨が「捕まえやすく、美味しい鳥」だったからです。 
昔の人にとって「鴨は、簡単に手に入り、大きな利益が得られる存在だった」
のでした。 このことから「簡単に騙される人」「いいように使える人」から
【カモ】という意味で使われるようになりました。
「サギ」
因幡の白兎…。古くから白兎のことを「サギ」と呼ぶことがあり、ワニを騙して
海を渡ろうとした神話のウサギの行動をさして、「騙す=さぎ」と呼ばれるよう
になったという、一説があります。
「騙すつもりが騙された」
「騙すつもりが騙された」という古典的な小咄があります。
ある男、騙騙されやすい田舎者をカモにして、金品を巻き上げようと企みまし
た。男は道端でわざと高価そうな財布を落とし、物陰から様子を伺います。
案の定、通りかかった田舎者がその財布を拾いました。
男はすかさず駆け寄り、「おいおい、その財布は俺が今落としたものだ。半分
よこせ」と脅します。すると田舎者はニヤリと笑って、返答しました。
「何を言ってるんだい。この財布は空っぽだよ。落とした財布の中身を分ける
なんて話があるかい!」正直者が正直者でないのを騙すのだから簡単なのだ。





  なりすましメールに関する注意喚起




(巧妙化する特殊詐欺やSNS型投資・ロマンス詐欺、ニセ警察官詐欺や還付
金詐欺、なりすまし、などの被害が多発しています。
万が一「怪しい」と思った場合は、お金を支払う前に、警察相談専用電話
日本サイバー犯罪対策センタへ相談することが推奨されています)
現在、最も件数が多い詐欺は、警察官や検察官、役所の職員などを装って、
「あなたの口座が悪用されている」「還付金がある」などと電話をかけ、言
葉巧みに現金をだまし取る「オレオレ型特殊詐欺」「ニセ警察官詐欺や還付
金詐
欺」などです。


「ニセ警察官詐欺」
手口: 警察官や検察官を名乗り「あなたの口座が犯罪に使われている」「逮捕
状が出ている」
などと不安を煽り、現金を振り込ませたり、キャッシュカード
をだまし取ったりします。ビデオ通話で、偽の警察手帳を見せる巧妙な手口も
確認されています。 
「オレオレ詐欺」
手口: 息子や孫などの親族を名乗り「会社の金を使い込んだ」「トラブルでお
金が必要になった」
などと緊急性を装って現金を要求する手口です。 
「預貯金・キャッシュカード詐欺」
銀行協会や百貨店などの職員を名乗り「カードが不正利用されているので交換
が必要」
などと嘘をついて、暗証番号を聞き出し、カードをすり替えて盗み出
します。 
「還付金詐欺」
手口: 市役所や税務署の職員を名乗り「医療費や保険料の払い戻しがある」と、
ATMへ誘導し、携帯電話で指示を出しながら、実際には犯人の口座へ送金させ
る手口です。 
「SNS型投資・ロマンス詐欺」
SNSやマッチングアプリで知り合った相手から、架空の投資話を持ちかけられ
たり、恋愛感情や親近感を利用されて、お金をだまし取られる被害が全世代で急
増しています。 






               壺 算





落語「壺算」
引っ越して来た家にへっついが有り、横に水壺があったが、棚から布袋さんが
落ちて、水壺が割れてしまった。この際だから二荷入りの壺(大きい壺に買い
換えることになったが、兄貴分は買い物が上手いので、一緒に行ってもらうこ
とに、おうこを持って出掛けた。
(「おうこ」=両端に物を吊るして肩に担ぐための「天秤棒」のこと)
『壺算』とは、買い物上手の男が、巧妙な計算トリックを使って、瀬戸物屋の
店主から水壺を安く買い叩く(騙し取る)という滑稽噺です。

二人が瀬戸物町にやって来た。店に入る前に足元を見られないように注意する。
「壺はここにも裏にも並んでいるからご自由にどうぞ」と言われたが、相棒は、
着物の裾を引きずっている。
「どうした?」
「足元見られないように」
「買い物というのは帰ぇってから、あっちの方が良かったというものだから、
 今よーく見ておけ」
「この水壺どう見ても気に入らないよ」
「何処が気に入らないんだ」
「壺というのは、口が開いていて、底が有るから水が溜まるんで、この水瓶は
 口が塞がっていて、底が開いている」
「それは壺が逆さまに置いてあるからだ」
「もしもし、お客さん店先で喧嘩なさらないように」
「頼りない男だから、嫁さんに頼まれてきた。あっさりと値段はいくらだ」
「軒並み同業者で、朝商いのこって、あんさん達のこって、せいぜい勉強して、
 オマケ申して、ドンと張り込んだところが、3円50銭が1文もまかりませ
 ん」
「途中まで負けるのかと思ったぜ。それでは『軒並み同業者で無く、朝商いで
 無くて、あんさん達の事でなく、せいぜい勉強しないで、オマケせんでドン
 と張り込まなかったら』、これはいくらなんだ」
「3円50銭です」
「同じじゃねぇか。50銭は負けなさいよ」
「それは手荒い」
「おうこまで持ってきているんだ。外に頼んで運んでもらったら、余計に金が
 掛かるだろ。そこを考えてみなよ。その上、長屋に帰ったら長屋中に、ここ
 で水壺は、買いなさいと宣伝してやるぜ」
「あんさんは買い物が上手い。では3円で…良いです」
連れに3円出させて、差し担いにして担ぎ出したが、相棒は、二荷入りの壺を
買わなければ嫁さんに怒られるという。
「グルッと回れば二荷入りの壺になる」
と兄貴は言い、先程の店に戻ってきた。






     まんまとおうこで壺を担いで帰る兄貴と相棒





「覚えていてくれたな。2荷入りの壺が欲しかったんだ。良いかい。では2荷
入りの壺を持って帰れるように縄を掛けておいてくれ。ところでいくらだ」
「1かいりの壺が3円50銭で倍の7円になり…あんさんは買い物が上手いな。
6円でようございます」
「分かりやすくてイイ。ところでさっき3円渡したな」
「ここにまだ置いたままになっています」
「で、この1荷入りの壺下取りしてくれるな。いくらで下取りしてくれるな」
番頭一瞬聞き間違えたのかと思って聞き直した。
「だから、この壺をいくらで下取りしてくれるな」
「さ…3円です」
「そこの現金とこの下取りした3円で、持って帰って良いな」
「…もう一度言ってもらえますか」
「ちゃんと聞いてろよ。そこに置いてある3円と、下取りした壺3円で6円だ。
 2荷入りの壺が6円だから持って帰っても良いな。分からんか」
「分かりました。どうぞお持ち帰り下さい」
相棒は分かったので可笑しくてしょうがない。荷を担いでも笑っている。
「逃げるように早く行け」
番頭気が付いたのか呼び戻した。
「どうも、3円しか無いんですが」
「お前、この1荷入りの壺を下取りしてくれるんじゃ無かったのか」
番頭、手元の現金と壺をみて
「1荷入りの壺を入れるのを忘れていました。どうぞお持ち帰り下さい」。
担ぎ出すと番頭、また戻ってくれと呼び戻した。
「どう考えても勘定が足りません」、
「おい、店を出ると、勘定が足らん、金が無いと言うのでは、我々が盗んでいる
 ようなもんだ」
「どうしても勘定が合わないんです」、
「それだったらソロバンを持って来な」、
「持ってきましがどの様に…」
「まず3円支払ったな、それを入れろ。その次に1荷入りの壺の3円を入れて
 みろ。6円になるだろう」
「あとの3円を入れて良いものかどうか」
「引き取るんだろう。だったら入れんかい。見ろ6円になるだろう」
何回やっても6円になるが、銭が足らない。
丁稚に大きいソロバンを持って来させた。大きいソロバンでも答えは同じ。
「6円だろう」
「あんさんが、ゴチャゴチャ言うから分からなくなるんです」
店先で別のお客さんが値段の交渉を始めたが、ゴチャゴチャ言うんだったら
売らない」
と客を追い返した。
「3円と3円で6円のことぐらい分からんのか」
「忠助さんはいないのか。出掛けているのか。一番大変なときに。
忠助さんが一番ソロバンが上手いのに」
まだ大きなソロバンで3+3=6の計算をしている。
「私も長い間商いをしていますけれど、こんなややっこしい壺は初めてです」、
「そうじゃろう。そこがこちらの思う壺だ」。


          カラスとキツネ





「賢いキツネと見栄っ張りのカラスの物語」
美味しそうなチーズを手に入れたカラス。そこへお腹を空かせたキツネがやっ
てきて、甘いコトバでカラスをほめちぎります。
ある日のこと。カラスがおいしそうなチーズの塊を見つけて、ゆっくり食べよ
うと木の枝にとまりました。そこへ一匹のキツネが通りかかりました。
キツネは、カラスのくちばしにあるごちそうを見つけると、お腹が グゥ〜 と
鳴りました。木の上までは手が届かないとわかっていたので、キツネは持ち前の
賢い頭を使って、ある作戦を思いつきました。
キツネは木の上を見上げて、優しく甘い声で話しかけました。
「おはようございます、カラスさん。あなたの羽は、なんてキラキラして美しい
んでしょう!こんなに立派で上品な羽、今まで見たことがありませんよ」
突然ほめられたカラスはびっくりして、少し首をかしげました。
キツネはさらに言葉を続けます。
「その美しい姿と同じくらい、きっと声も素晴らしいのでしょうね。
森の中で一番素敵なあなたのお歌を、どうか私に聞かせてくれませんか?」
それを聞いたカラスは、すっかり得意顔になりました。
自分の素晴らしい歌声を自慢したくてたまりません。カラスが一番の大きな声で
カーッ! と鳴こうとくちばしを開いたその瞬間……。
くわえていたチーズが ポロリ と落ちてしまいました。キツネは地面に落ちる前に、
それを パクリ とくわえ取りました。
イソップの寓話より、言葉の裏にある本当の気持ちに気づくことの大切さを教えて
くれる、古くから伝わるお話しでした。

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ニュースー歴史・日本のナイチンゲール 大関和

ニュースー歴史「看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール・大関和」




    桜井女学校の看護婦生徒とアグネス・ヴェッチ

前列真ん中にアグネス・ヴェッチ、両サイドの右に大関和、左に鈴木雅、
「日本で最初の看護婦を育てあげたのは、スコットランドから来たアグ
ネス・ヴェッチだった」(ドラマではバーンズ)




看護教師バーンズは、厳しい先生だった(エマ・ハワード)





「朝ドラ・【風薫る】が面白い」
生徒たちに「This is not nursing」(こんなのは看護になっていません)を繰
り返し、シーツ交換・掃除・換気とエプロン縫い・洋髪化など、地味な反復だ
けで看護の根幹を叩き込んでいく。生徒たちに陰で「天狗」「ナイチン地獄」
と呼ばれながら、半年後には日本語を披露して生徒を驚かせる。
この強烈なバーンズは、実在の人物をモチーフにしていると考えられる。
モデルはスコットランド・エディンバラ生まれの看護婦・アグネス・ヴェッチ
である。


「人物」
ナイチンゲール方式を学んだ才媛。ヴェッチは、天保13年(1842)、スコット
ランドのエディンバラに生まれた。明治7年(1874)、設立されたばかりの旧エ
ディンバラ王立救貧院病院看護学校に第一期生として入学する。同校はロンド
ンの聖トマス病院に設けられたナイチンゲール看護学校の卒業生によって設立
された、いわばナイチンゲール方式「分校」にあたる。
卒業時のヴェッチの成績証明書に残された評価は飛び抜けて高かった。
「性格は一番優れている。まったく正直、特別に優しく親切である。
彼女は病棟を家庭のようにする技術をもっている」
ヴェッチ自身が、「病棟を家庭のようにする」思想で育ち、その思想を日本に
もち込んだ。『日本医史学雑誌』ゟ
卒業後は、エディンバラ王立救貧院病院、続いてロンドンのセント・メアリー
病院、新エディンバラ王立救貧院病院で勤務。明治14年(1881)に自らの希望
で病院を退職し、宣教医をしていた兄を頼って清朝に渡った。
明治20年(1887)9月、日本政府の招聘を受け「お雇い外国人」として来日。
10月27日から帝国大学医科大学附属第一医院の嘱託として勤務し、看病法
講義と看病術実地練習を担当した。


明治19年(1886)に設立された日本で最初期の看護婦教育機関・桜井女学校付
属看護婦養成所の生徒たち。(看護婦という職業は現在では看護師と呼称され
(大関和・鈴木雅・桜川里以・広瀬梅・小池民・池田子尾の6名が記録に残る)





「ナイチンゲール方式を指導するヴェッチ(バーンズ)先生と生徒たち」
吊り下げ教示板には、
1,空気を正常に保つ 2,病気の予防 3,患者の回復を助けるの文字が見える


「中学受験で有名な女子校のルーツ」
ヴェッチを迎え入れた「桜井女学校附属看護婦養成所」(ドラマでは梅岡女学
校付属看護婦養成所)のモチーフは、明治19年(1886)11月に設置された、
日本で3番目の看護婦養成所である。桜井女学校は、現在、中学受験で「女子
御三家」の一角とされる女子学院の前身のひとつで、明治9年(1876)創立。
ミッションスクールの先駆的存在だった。
明治20年(1887)9月、日本に招かれて訪れ、翌月、帝国大学医科大学第一病
院の看護教師として着任した。1年間、同病院で看護教育に当たる中、当時滞
日していた宣教師のメアリー・トゥルーが創設した桜井女学校からの大関和
(見上愛)鈴木雅らの依託生を同病院の看護婦や副看護婦と合わせて指導し、
看護方法の講義のほか、西洋式の看病術を病院で実地に教授して、日本の看護
の近代化に大きく貢献した。





   休憩室でもバーンズ先生の訓示はあった。(左は松井エイ)



ドラマ・「風薫る」
来日からわずか1年1ヵ月。それがヴェッチが日本の地を踏んでいた全期間だ。
その1年で、彼女は日本最初のトレインド・ナース6人を含む看護婦28人を
育て上げ、ナイチンゲール看護を日本に根づかせた。明治21年(1888)10
月26日の卒業時の集合写真には、中央のヴェッチを挟むように、向かって左
隣に鈴木雅(ドラマでは直美)、右隣に大関和(りん)が並んでいる。
 先んじて明治18年に、高木兼寛が設立した有志共立東京病院看護婦教育所
(現・慈恵看護専門学校)、明治19年に新島襄が同志社で開いた京都看病婦
学校があり、それぞれ、ナイチンゲール方式の教育を受けたアメリカ人看護婦
リード、リチャーズが指導にあたっていた。



看護婦養成所の舎監・松井エイ


「桜井女学校附属看護婦養成所」は3番目の開設だが、教師ヴェッチの赴任は
設立翌年の明治20年(1887)秋。それまでの約1年、英語が堪能だった生徒・
峯尾えい(松井エイ)が臨時教師として、英語のテキストを訳しながら授業を
進めていた。実技に関わる範囲は、お手上げ状態だったというから、ドラマで
生徒たちが翻訳作業に苦戦する設定は実情に近い。





                大 関 和 と 鈴 木 雅




大関和(見上愛)は28歳、鈴木雅(上坂樹里)は29歳。
明治20年1月、洋館の校舎で授業が始まる。教育課程は学課1年・実習1年
の通算2ヶ月。第一期生は8人。最年長は鈴木雅、次いで大関和。雅は夫を病
で亡くした未亡人、和は、黒羽藩家老の家に生まれ離婚を経た身。いずれも子
をかかえての挑戦だった。






        大山捨松と和と雅




 は離婚後、上流階級との交流を経てキリスト教に入信、牧師・植村正久
説得で入学を決意した。海外のトレインド・ナースに関する情報は、大山捨松
ら欧米帰りの女性たちからも得たとされる。ドラマで捨松(多部未華子)が看
護婦に偏見を持っていたりんたちの、背中を押す存在として描かれるのは、こ
うした史実の延長線上にある。

「いきなり英語の教本の翻訳」
ドラマでも描かれたように、教科書はすべて英語の看護書で、和訳しながら学
んでいくのが授業の根幹だった。看護史研究では、明治期の養成所で広く用い
られた教本のひとつとして、米国コネチカット看護学校編・『ハンドブック・
オブ・ナーシング』が知られ、その内容は、ナイチンゲール『看護覚え書』
思想と多くの点で一致する。生徒たちにとって、英語の専門用語を日本語に置
き換える作業は、過酷だったが、それは同時に、ナイチンゲール思想を日本語
の体に通す最初の作業でもあった。





  直美を見守る宣教師メアリー(アニャ・フロリス)

そして秋、ヴェッチが第一医院に着任。マリア・ツルー(宣教師メアリー)が、
桜井の生徒たちを、第一医院で実習させる手配を事前に整えていたためで、
ヴェッチは、桜井と第一医院の両方を担うことになった。





「直美が授業を通訳」
授業はもちろん英語で、最も英語が堪能だった鈴木雅が通訳を務めた。
第一医院に近い駒込西片町(現・東京都文京区西片)の借家を寄宿舎にして、
バーンズと生徒たちの共同生活が始まる。教師と生徒が一つ屋根の下で寝食を
ともにし、家事を分担しながら人格と協調性を育む。これがナイチンゲール方
式の核心であり、バーンズが、寮の家事まで生徒に踏み込んで指導する場面の
根拠でもある。
当時、病院で働いていた「看病婦」の多くは寡婦で、読み書きや算術といった
基礎教育を受けていない人がほとんどだった。日本において「教育を受けた看
護婦」
はまだほぼ存在しなかったのだ。そこに、観察と記録、衛生と環境整備
を看護の柱に据える「ナイチンゲール方式」が持ち込まれた衝撃は、現代の感
覚で測れるものではない。バーンズが繰り返す「This is not nursing」の重さ
は、まずこの落差から発している。

「ヴェッチの姿に明治の皇后のお言葉」
帝国大学医科大学附属病院の外科8号室に、大腿骨膜炎の重患の男児が収容され
た。骨と皮ばかりに痩せ衰え、室内には臭気が立ちこめる。施しようがないよう
に見える病室に、ヴェッチは平然と乗り込んでいった。
佐藤医長の許可を得て、隣の7号室を打ち抜いて看護婦の控え室を作り、徹底的
に清潔法を施す。痩せ衰えた病児を母代わりとなって日夜介抱する看護婦の姿に、
訪問した明治天皇の皇后(昭憲皇太后)も感動を抑えられなかったと、後に『昭
憲皇太后 附女四書』
が伝えている。
「環境を整える」「観察する」。ヴェッチが生徒に体で覚えさせようとしたナイ
チンゲール看護の二本柱を、ヴェッチ自身が現場で実演していたのだ。





    明治天皇皇后(昭憲皇太后)

大関和は、桜井女学校附属看護婦養成所卒業生として、昭憲皇太后に拝謁する
栄誉を受けました。




「大関和は卒業生総代、皇后に拝謁」
10月26日、桜井女学校附属看護婦養成所の卒業式が行われた。
当初の生徒8人のうち2人は退学しており、残る6人が日本初のトレインド・
ナースとなる。大関和は、皇后に看護法研究生総代として拝謁し、卒業後は、
そのまま第一医院の外科の看病婦取締(看護師長)に、鈴木雅は内科の看病婦
取締に就任した。

ヴェッチは雅の卒業証書に「Miss Suzuki has won her task as Interpreter
most officially and I consider her give to fitted to teach a class of nurse.
(鈴木さんは、通訳者としての仕事を完遂した。彼女は、看護教師としても
適している)」と署名入りで書き添えた。卒業時の集合写真でヴェッチが和
と雅を左右に座らせたのは、自らの弟子のなかでも特に優秀で、信頼を置く
二人を傍に置きたかったからだろう。
そして11月、ヴェッチは任期満了で帰国する。なおドラマでは、半年後に
流暢な日本語を披露するが、史実のヴェッチが日本語を話せるようになった
形跡はない。本人なりに勉強し聴き取れる言葉も増えていただろうが、英語
「実演」で看護の本質を伝えて去っていった、というのが実像に近いかも
しれない。

「日本滞在は1年だけだったが……。」
ヴェッチ離日後、和は、第一医院で看病婦の二交代制など待遇改善を求める
建議書を提出するが、医師たちに受け入れられず、第一医院を去る。
その後は新潟・高田の知命堂病院の看護婦長などを経て、東京に戻った。
も明治24年(1891)に第一医院を辞し、慈善看護婦会(後の東京看護婦
会)を創設して、初の派出看護婦会を立ち上げた。
は後に雅から経営を引き継ぎ、明治42年(1909)には、大関看護婦会を設立。
看護婦の質的向上と社会的地位の向上に生涯を捧げた。
日清戦争での日本赤十字社看護婦の活躍、そして、スペイン風邪と関東大震災
の襲来する未曾有の困難な時代を経て、看護婦は「卑しい職業」から「なくて
はならない専門職」
へと、社会の見方を一段ずつ押し上げていく。

「故郷で百歳の長寿を全うしたヴェッチ」
ヴェッチ自身は、離日後も世界各地で活動を続け、晩年に故郷エディンバラに
戻り、昭和17年(1942)に100歳という長寿で世を閉じた。
 バーンズの「あなたたちの手は、家族の数百数千倍の人を助ける手なんです」
というセリフは、ヴェッチが、日本で蒔いた種が、たちの手を経て、確か
に何百、何千の患者の手元に届いたことを思い出させる。
短い滞在が、日本の看護界に大きな足跡を残し得たのは、ヴェッチが教えたのが
看護「技術」ではなく、患者の傍らに居る者としての「在り方」だったからにほ
かならない。

         

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ニュースー「飛鳥・藤原の宮都」世界文化遺産登録へ

ニュース奈良「飛鳥・藤原の宮都」世界文化遺産登録へ




   構成資産の一つ、高松塚古墳の西壁「女子群像」




日本の古代国家誕生の歩みを示す宮殿跡や寺院跡、墳墓で構成される遺跡群
「飛鳥・藤原の宮都」(奈良県橿原市、桜井市、明日香村)が、国連教育・
科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される見通しとなった。
ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)が「登録」を勧告
したと、文化庁が6日発表した。
登録されれば、国内の世界文化遺産は、2024年登録の「佐渡島の金山」に続
き22件目、奈良県内では「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」
紀伊山地の霊場と「参詣道」とあわせて4件目となる。





   高松塚古墳の東壁「青龍図」



これらは、今からおよそ1400年前の、6世紀の終わりから8世紀の初めの約
100年という短い期間に、日本が、中国や朝鮮半島の国々と、交流を行ない、
政治制度や最先端の建築や土木技術を取り入れるとともに、それまでの文化
と技術とを融合し「宮殿・官衙跡」「仏教寺院跡」「墳墓」の形やそれぞれ
の位置関係を急激に変化させ、律令制度に基づいた日本独自の、天皇を頂点
とした「中央集権国家が誕生」した過程を証明できる唯一の遺産です。





           初代天皇・神武天皇
日本の初代の天皇である神武天皇が、紀元前660年に現在の奈良県橿原宮で
初代天皇に即位した。この伝承をもって、日本の建国と考えられている。



「日本国の誕生」
 ”あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいまさかりなり”
「あおによし」「なら」にかかる枕詞。「あおに(青丹)」は染料の原料
となる土で、古くからこの地域の特産だったらしい。奈良が極彩色に彩られ
た建造物で埋め尽くされた様に、ぴったりの表現である。

西暦710年、元明天皇は、都を平城京に遷した。その後、784年に桓武天皇に
よって長岡京への遷都が実施されるまでの70年あまり、奈良は日本の都だっ
た。645年の「乙巳(いつし}の変(大化の改新)」以降には孝徳天皇が難
波、天智天皇大津に都を置き、飛鳥の地を離れて、新しい政治拠点としての
都市を造るつもりだった。
だがそれは、理念にとどまり政変が起きたため長続きしなかった。
672年、天武天皇「壬申の乱」に勝利すると、都は再び、大津から飛鳥へ
元明天皇までの四代の天皇は、この地にとどまった。
奈良は飛鳥の北に位置する別の盆地であった。当時の宮廷にとっては、かなり
遠方であったこの盆地に都を遷すことによって、元明天皇という女帝を頂点に
戴く政府は、新しい時代の開始を象徴的に宣言したのである。
そう、彼らが治めたのは「日本」という名の国であった。
 指導者は、藤原不比等。彼を中心にして編纂された法典が、702年に刑部親王
の名で公布される。「大宝律令」である。
この法典完成に併せて派遣された遣唐使が、初めて「日本」という国号を名乗っ
たのだ。「日本国の誕生宣言」であった。





       藤原京・朱雀大路跡

        朱 雀 大 路




目抜き通りであった朱雀大路は、道幅が80㍍近くもあったという。
これほど広い道がなぜ必要だったかといえば、儀式のためである。
朱雀大路は、外国の使節にこの道を通らせることは、日本が一人前の文明国
であることを知らせる良い機会だった。
このような平城京の構造は「都とはかくあるべし」というモデルとして続く
「長岡京」「平安京」にもだいたい踏襲された。
ところが、日本政府が奈良に移転する直前、飛鳥にはすでに巨大な都が存在
していたのである。その都の名は「藤原」という。




中国では、帝王は、国土の中央に都市を建設し、そこに宮殿を設けて全国を統
治するという理念があった。この理念は、新しい国造りを進める周辺国にも影
響を及ぼした。日本の「藤原京」はその好例である。
天武天皇「壬申の乱」で甥の弘文天皇を打ち破り、近江大津宮から「飛鳥浄
御原宮」(あすかきよみのはらみや)に遷都した。天武天皇はやがて、単なる
「宮」ではなく、都市域をかかえた中国風の文明的な「京(みやこ)」の建設
を志す。しかし、彼の代には実現せず、この事業はあとを継いだ妻の持統天皇
のときに本格化する。





           藤 原 京




「飛鳥・藤原の宮都」
南から見た図。5km四方の京域に十条十坊が敷かれたと言われる。
中央には1km四方の藤原宮。北には耳成山、南西からは緩やかな丘陵が延び
ていた。藤原京はこれまでの飛鳥の都と異なり、日本で初めて条坊が敷かれ、
官人をはじめ、人々が集住するよう設計された都城である。
後方に見えるのは、大和三山の一つ耳成山(みみなしやま)。




694年、造営事業尚なかばであるにもかかわらず、飛鳥浄御原宮からこの新
しい都への引っ越しが行われた。『日本書紀』ではこれを「荒益京」と表現
しているが、「藤原宮」という呼称にちなんで、現在では「藤原京」と呼ば
れている。
16年後の710年には、平城遷都となってしまい、かつ藤原京は、その後、都市
として機能していなかったため、その実像は長いこと謎に包まれていた。
北に耳成山、西に畝傍山(うねびやま、東に天香久山と場所が大和三山に囲ま
れているため、「京」とはいっても東西1㌔、南北3㌔程度の小規模な都市で、
それゆえ、すぐに大規模な平城京が造営されることになったのだろうと、想定
されてきた。学校の教科書においてもその程度の藤原京認識であった。
ところが、1990年代以降の発掘調査によって、町を東西に貫く幹線道路が見つ
かり、どうやら5㌔四方はある巨大な都だったらしいと判ってきた。
その場合、大和三山は、京の外側でなく内側にとりこまれていたことになり、
平坦な場所に都市を築くという常識から外れているが、この常識を七世紀末の
日本政府が持っていたかわからないのだから、あり得ない話ではない。
教科書では、平城京に比べて小さな扱いしか受けていないが、今後さらに調査
が進んで実情がわかってくると、今度は私たちの側の「常識を覆す」可能性を
秘めている。もしそうなったら橿原市は「神武天皇の都」という伝説ではなく
「持統天皇の偉大な都」という事実になっているかもしれない。

「飛鳥・藤原の資産」
 「飛鳥・藤原」は、飛鳥時代(6世紀末~8世紀初め)に、中国大陸や朝鮮
半島との緊密な交流のもと、日本で初めて中央集権体制が成立した過程を示す
「19件の資産」で構成される。
政治や儀式の場で後代にも影響を与えた「飛鳥宮跡」や中国の都城にならった
藤原京の中心に位置する「藤原宮跡」、極彩色壁画で知られる「高松塚古墳」
「キトラ古墳」、巨石を用いた石室が見られる「石舞台古墳」など、外来文
化の導入と日本固有の伝統との融合を示す遺跡が含まれる。





    主な構成資産と所在地


✦ 19件の資産とは次の通り
① 飛鳥宮跡   ② 飛鳥京跡苑池    ③ 飛鳥水落遺跡
④ 酒船石遺跡  ⑤ 飛鳥寺跡      ⑥ 橘寺跡
⑦ 山田寺跡   ⑧ 川原寺跡      ⑨ 石舞台古墳
⑩ 菖蒲池古墳  ⑪ 牽牛子塚古墳    ⑫ 藤原宮跡
⑬ 大官大寺跡  ⑭ 本薬師寺跡     ⑮ 天武・持統天皇陵
⑯ 中尾山古墳  ⑰ 檜隈寺跡      ⑱ 高松塚古墳
⑲ キトラ古墳

     
飛鳥宮跡

飛鳥京跡苑池 
酒船石遺跡
石舞台古墳

牽牛子塚古墳
藤原宮跡

天武・持統天皇合同陵
キトラ古墳
高松塚古墳

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