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川柳的逍遥 人の世の一家言
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参宮街道、坂内川にかかる橋。伊勢神宮方面に向かう人はこの橋を渡って松坂の町に入った。渡る手前が西町。森壺仙の住んだ町。渡ったところが本町。





さっぱりと掃除をさせて首をとり  柳6

あくる日は夜討ちも知らず煤をとり  柳6





『世間胸算用』(井原西鶴)にも「毎年煤払いは極月十三日に定めて」とある
ように12月13日は、江戸城内をはじめとして、あらゆる民家にいたるまで
煤払いをした。そこで、翌14日に吉良邸へ討ち入った赤穂浪士を詠んだのが
右の二句だった。現在では、回向院の南、4,5分の距離にあたる東京墨田区
両国3丁目に、旧吉良邸の一部が本所松坂町公園として保存されている。
吉良上野介存命時代には、邸地は旧本所松坂町1,2丁目のうち二千五百余坪
にわたり建坪は八百四十六坪とぃう豪華さであったという。





本所へ隠居をせぬと難しい  柳18





という句もあるように吉良上野介が我が子綱憲(つなのり)の養家先である米
沢十五万石の上杉家に引き取られることなく、鍜治橋御門内から移住してきた
ところでもあった。公園は白のなまこ壁、長屋門造りで、中へ入ると周囲の壁
には当時の吉良邸の図、四十七士が新大橋を渡って上野屋敷へ行く図など、討
ち入りから引き揚げるまでまでを描いた絵巻がある。
左の隅には、もと屋敷の中庭にあったという「吉良首洗い井戸」が復元され、
これももと邸内なあったという松阪稲荷も見られる。





目印は殿が額へ付けて置き  (安元・宮)





浅野内匠頭が、松の廊下で刃傷した際につけた額の古傷が、動かぬ証拠となり、
ついに赤穂浪士の討つところとなった。
「四十七士」
四十七人の者ども、敵師直(上野介)尋ぬれ(捜す)ども知れぬ故、みなみな
ここで切腹せんと思い定める。
大高源五すすみ出、
「すこしの心あてがござる。しばし(切腹は)とどまり給え」と言い、やがて
炭部屋へ行き、鑓おっとりのべ、
「もろのう、もろのう」と言えば、隅の方で「どうれ」
他家を訪問した際の「物申う」と「もろのう」をかけた地口で、高師直、すな
わち上野介を表した落ちだが、緊迫した場面だけに馬鹿馬鹿しくおかしい。



江戸川柳(柳多留)と江戸の旅をする





「日本橋」
江戸の盛り場・日本橋エリアは今の中央通り。橋の先には高札場、船着場、
薪を積み上げた荷揚場がある。びっしりと人で埋まった日本橋は全長28間
(約51m)幅4間2尺(約8m)
「日本橋魚市}
「一日千両の金が動く魚市。左端に算盤を手にした男と客、平目や鯛、鮪
らしい巨魚を運ぶ二人、蛸を掲げた人、競り人、あちこちの棒手振などで
大騒ぎ。





1,五番目は同じ作でも江戸産まれ


柳多留のトップを飾る句。前句(題)は「にぎやかなことにぎやかなこと」
で、まさに謎解きが必要な句。選者(点者)の柄井川柳も最初は句意がが
分からなかったとされている。





「常楽院」
挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。
石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。
阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。


江戸の民間では春秋の彼岸に、六阿弥陀詣でが盛んに行われるようになった。
行儀菩薩が刻んだ同木の六体の阿弥陀仏のうち、五体はすべて江戸の郊外に
あるが、五番目の阿弥陀仏だけは盛り場の上野広小路にあった常楽院に奉祀
されていたから、これだけは生粋の江戸産まれでいってよいだろう、という
意。六阿弥陀の一番は、北区豊島の西福寺、二番足立区江北の恵明寺、三番
北区西ヶ原の無量寺、四番北区田畑の与楽寺、五番が常楽院、六番江東区常
光寺で、一巡り七里半(約30㌔)というから老人や女性にはかなりの強行軍
であった。


2,かみなりをまねて腹がけやっとさせ


3,故郷へ廻る六部は気のよわり


鼠色の木綿の衣服に、同色の手甲・脚絆をつけ、鉦をたたきながら門付けを
する。仏像を入れた厨子を背負うのが一般的である。
訳=何らかの事情で一念発起し、諸国の霊場を巡る六十六部が、急にふる里
へ足が向くというのは、体調の悪さもあろうが、それよりも信心の気力が衰
えたことが一番の原因であろう。



4,伴頭は内の羽白をしめたがり


伴頭=番頭。羽白=羽に白斑がある鴨の一種、主人の娘の比喩。
訳=番頭は色と欲を両方かけて、ここの娘を何とかものにしたいものだと思
っている。しめるは鴨の縁語で、せしめる、の意となる。

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    十返舎一九「東海道中膝栗毛』

「江戸から大阪への旅」
江戸時代の人は大変な健脚で、一日におよそ30㎞から40㎞を歩いた、と
いわれています。江戸・日本橋ー大阪高麗橋間の距離は546㎞ですから、
川止めがなければ14日から18日前後で辿りつけtらことになります。
十返舎一九「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんが江戸から四日市
に出るまで12日かけています。寄り道せずに大阪まで行ったとすれば、や
はり16日ほどになるでしょうか。
現代では海外で正月を過ごす人が多いのですが、江戸時代は正月のお伊勢参
が庶民の最大のイベントでした。街道整備と「おかげ参り」ブームにより
老若男女が「抜け参り」で無計画に旅立ち、全国から人々が伊勢に殺到しま
した。とはいえ、食費、宿泊費、交通費、遊興費、お土産代など、お伊勢参
りには、なにかとお金がかかりました。仮に1 日1 万円としても2カ月で6
0万円が必要。この額は当時の庶民にとって相当な負担。そこで村ごとに伊
勢講という団体をつくり、みんなで積み立てたお金で、年ごとに籤で選ばれ
た人が代表者が参拝にいくという方法がとられました。そして指名を受けた
代表者は、村のみんなの分もお祓いを受け、お土産を、土産話とともに村へ
と戻ったのです。
                           了 味 茶 助






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          参宮街道、坂内川にかかる橋
伊勢神宮方面に向かう人はこの橋を渡って松坂の町に入った。渡る手前が西町。
森壺仙の住んだ町。吉良邸を目指す四十七士が渡った橋である。




さっぱりと掃除をさせて首をとり  柳6
あくる日は夜討ちも知らず煤をとり  柳6





『世間胸算用』(井原西鶴)にも「毎年煤払いは極月十三日に定めて」とある
ように12月13日は、江戸城内をはじめとして、あらゆる民家にいたるまで
煤払いをした。そこで、翌14日に吉良邸へ討ち入った赤穂浪士を詠んだのが
右の二句だった。現在では、回向院の南、4,5分の距離にあたる東京墨田区
両国3丁目に、旧吉良邸の一部が本所松坂町公園として保存されている。
吉良上野介存命時代には、邸地は旧本所松坂町1,2丁目のうち二千五百余坪
にわたり建坪は八百四十六坪とぃう豪華さであったという。





本所へ隠居をせぬと難しい  柳18





という句もあるように吉良上野介が我が子綱憲(つなのり)の養家先である米
沢十五万石の上杉家に引き取られることなく、鍜治橋御門内から移住してきた
ところでもあった。公園は白のなまこ壁、長屋門造りで、中へ入ると周囲の壁
には当時の吉良邸の図、四十七士が新大橋を渡って上野屋敷へ行く図など、討
ち入りから引き揚げるまでまでを描いた絵巻がある。
左の隅には、もと屋敷の中庭にあったという「吉良首洗い井戸」が復元され、
これももと邸内なあったという松阪稲荷も見られる。





目印は殿が額へ付けて置き  (安元・宮)





浅野内匠頭が、松の廊下で刃傷した際につけた額の古傷が、動かぬ証拠となり、
ついに赤穂浪士の討つところとなった。
「四十七士」
四十七人の者ども、敵師直(上野介)尋ぬれ(捜す)ども知れぬ故、みなみな
ここで切腹せんと思い定める。
大高源五すすみ出、
「すこしの心あてがござる。しばし(切腹は)とどまり給え」と言い、やがて
炭部屋へ行き、鑓おっとりのべ、
「もろのう、もろのう」と言えば、隅の方で「どうれ」
他家を訪問した際の「物申う」「もろのう」をかけた地口で、高師直、すな
わち上野介を表した落ちだが、緊迫した場面だけに馬鹿馬鹿しくおかしい。




柳多留と江戸の旅をするー1






          「日本橋」
江戸の盛り場・日本橋エリアは今の中央通り。橋の先には高札場、船着場、
薪を積み上げた荷揚場がある。びっしりと人で埋まった日本橋は全長28間
(約51m)幅4間2尺(約8m)
       「日本橋魚市」
「一日千両の金が動く魚市。」左端に算盤を手にした男と客、平目や鯛、鮪
らしい巨魚を運ぶ二人、蛸を掲げた人、競り人、あちこちの棒手振などで
大騒ぎ。





1,五番目は同じ作でも江戸産まれ





柳多留のトップを飾る句。前句(題)は「にぎやかなことにぎやかなこと」
で、まさに謎解きが必要な句。選者(点者)の柄井川柳も最初は句意がが
分からなかったとされている。




       「常楽院」

この挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。
石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。
阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。





江戸の民間では春秋の彼岸に、六阿弥陀詣でが盛んに行われるようになった。
行儀菩薩が刻んだ同木の六体の阿弥陀仏のうち、五体はすべて江戸の郊外に
あるが、五番目の阿弥陀仏だけは盛り場の上野広小路にあった常楽院に奉祀
されていたから、これだけは生粋の江戸産まれでいってよいだろう、という
意。六阿弥陀の一番は、北区豊島の西福寺、二番足立区江北の恵明寺、三番
北区西ヶ原の無量寺、四番北区田畑の与楽寺、五番が常楽院、六番江東区
光寺で、一巡り七里半(約30㌔)というから老人や女性にはかなりの強行軍
であった。





2,かみなりをまねて腹がけやっとさせ





3,故郷へ廻る六部は気のよわり






       「絵本御伽品鏡」 六部巡礼図

鼠色の木綿の衣服に、同色の手甲・脚絆をつけ、鉦をたたきながら門付けを
する。仏像を入れた厨子を背負うのが一般的である。





訳=何らかの事情で一念発起し、諸国の霊場を巡る六十六部が、急にふる里
へ足が向くというのは、体調の悪さもあろうが、それよりも信心の気力が衰
えたことが一番の原因であろう。





4,伴頭は内の羽白をしめたがり





伴頭=番頭。羽白=羽に白斑がある鴨の一種、主人の娘の比喩。
訳=番頭は色と欲を両方かけて、ここの娘を何とかものにしたいものだと思
っている。しめるは鴨の縁語で、せしめる、の意となる。

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下っ腹からカゲロウが這い上がる  井上一筒





                  「フジ百景暁の不二」 通信総合博物館蔵




「継飛脚」
継飛脚の人足は、各宿駅に詰めており夜間の関所の通過など特権も与えられて
いた。
元禄十四年(1701)三月十四日、赤穂藩主の浅野内匠長矩が高家筆頭の吉良上野
に対して、刃傷に及ぶことから始まるお馴染みの赤穂事件だが、この史実に
まつわる興味深いエピソードがある。
事件を伝える江戸屋敷からの最初の書状が十九日の早朝、赤穂藩の筆頭家老で
ある大石内蔵助に届く前に、城下ではすでにこの事件の噂が広まっていたとと
いうのだ。




空だって飛べる黄色いスニーカー  居谷真理子




江戸時代の情報伝達制度として、もっとも発達したものは「飛脚」である。
その始まりは、徳川幕府が各地へ公用文書を伝達するために制度化した継飛脚
といわれる。江戸を中心として整備した五街道の宿に、それぞれ脚夫を置き、
リレーさせることで時間の短縮を図った。諸大名もこれに倣って、国元と江戸
大阪を結ぶ大名飛脚を整備した。特に尾張藩や紀州藩の大藩は、七里(28㌔)
ごとに飛脚小屋を作り、専従のものを置き、国元との連絡を密にとっていた。




悲しみも笑いもはかる時計です  木戸利枝





  
          情報ネットワーク 「旗振り通信」
旗振り通信ー望遠鏡で遠方の旗振りの通信を読んだ




この制度は、民間にも広く普及していく。
江戸の定飛脚や大阪の三度飛脚などの町飛脚は特に有名だが、全国に飛脚問屋
が張り巡らされ、通信網が整備されていった。
現存している定飛脚の史料によると、江戸~大阪間で掛かった日数は通常、四
~十二日だったが、金に糸目を付けなければ、最短二日半でついたという。




手荷物は預けた兎跳びで行く  森井克子






          赤穂へ赤穂へと飛び飛脚




赤穂事件では、藩の存亡にかかわる重要な書状だったため、飛脚には運ばせず
江戸詰めの藩士が駕籠を乗り継ぐことで書状を届けた。円滑乗り換えるために、
駕籠より前に先触れと呼ばれる手配を飛脚で出す。その飛脚により、駕籠より
先行して噂が広まっていったという訳だ。
人の噂の早さはいつの時代も変わらないといったところだろうか。




衰えていく足腰が愛おしい        新家完司

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口約束は忘れたふりがちょうどよい   青砥たかこ






京都/天橋立の智恩寺に奉納されている赤穂事件を題材にした最古の絵馬




江戸の師走に起こった大事件ー吉良邸討ち入り





「赤穂義士真観」 長安雅山著 赤穂市立博物館蔵
殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた場面。
内匠頭の後ろからあわてた様子で駆け寄るのは梶川与惣兵衛。




江戸のニュース  元禄十四年三月十四日
赤穂藩藩主浅野内匠頭が江戸城中松の廊下において吉良上野介へ刃傷に及ぶ。
この日の朝「御使の刻限」(勅使登城の時間)が早くなったと聞き、(梶川)
は高家肝煎の吉良上野介義央を探して奔走する。やっと見つけた吉良と立話
をしている時に吉良の背後から「この間の遺恨覚えたるか」と言って斬りつ
けたのが勅使饗応役の浅野内匠頭長矩だった。「この間の遺恨」とはなにか
浅野は取り押さえられた後、大声で「上野介のことはこの間から遺恨があっ
たから今日討ち果たしてやったのだ」と何度も叫んでいた。ともあれ浅野は
本気で怒っていた。(梶川与惣兵衛談)
内匠頭は当日の夕方、殿中刃傷という大罪により即日切腹、赤穂藩は取り潰
し(改易)となった。田村邸での切腹にあたっては、側近の家臣に宛てて「
「この段兼ねて知らせ申すべく候へども今日やむを得ざること候ゆえ知らせ
申さず」との言付けを番人に託している。




かげろうがゆびのまたからたちのぼる  笠島恵美子





                          堀部安兵衛高田の馬場の決闘





江戸のニュース  元禄七年二月十一日
赤穂事件の伏線となった高田馬場の決闘
赤穂事件の伏線の一つとなる事件が、この日に起きた。
中山安兵衛が叔父の伊予西条藩士菅野六郎佐衛門へ助太刀、江戸牛込高田
馬場で村上庄左衛門らを倒した。村上側は助っ人を含めて八人、菅野側は
助っ人を含めて四人である。発端は口論だったようだが、真相は講談など
にある仇討ではなく果し合いであり、また安兵衛が倒したのは三人で十八
人斬りではない。安兵衛はこれで一躍有名にばって、赤穂藩士堀部弥兵衛
の養子となり、四十七士の一員として討ち入りに参加、切腹した。(享年
三十三)安兵衛の諱は武経。越後新発田藩士の父親が病死したために浪人
となって江戸へ下り、直新影流の堀内源左衛門の道場に入門、剣の修行を
して師範代を務めるほどの腕前であったという。同門の菅野六郎左衛門と
叔父・甥の契りを結んでいたことから、義に殉ずる覚悟の助っ人である。
安兵衛は、赤穂藩に馬廻二百石として召し抱えられた。これには家老の大
石内蔵助の推挙があったという。馬廻は戦場では主君を警護する親衛隊で
あり、家臣の中では上級職である。ちなみに養父弥兵衛は隠居して隠居料
五十石取となった。その後、安兵衛は江戸留守居役となり鉄砲洲にある江
戸藩邸にあったが、事件発生当初から吉良邸討入を主張、御家再興をを目
指す内蔵助の説得に努めた。




血しぶきを上げて心臓走ってゆく  森 茂俊






             杉野十平次の蕎麦屋     (尾形月耕画)
格子の向こうには俵を突き上げる玄蕃とおぼしき人物が描かれている。





「江戸集結」
さてお家断絶から討ち入りまで家臣団は一丸ではなかった。とりわけ弟大
学による浅野家再興を第一に考える大石良雄らと、江戸在住で仇討決行を
急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。ここで重要な役割を果た
したのが吉田忠左衛門だ。吉田は堀部らに自重を求めるため大石の意を受
けひと足先の元禄十五年三月には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に
身を寄せた。ここには前年十一月に大石が最初に江戸入りした大石が時も
投宿している。吉田は七月に新麹町六丁目に転居し、ここが続々と江戸入
りする同志のとりあえずの落ち着き先となる。




くたくたになるまで愚痴を聞いてやる  清水すみれ




大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央の在宅
情報である。やがてお茶会が催される日には本所の屋敷に戻ってくること
がわかる。
お茶会の宗匠は山田宗徧で、吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は小笠原長重(老中・岩槻藩主)に仕えていて、この小笠原家と吉良
家も礼法をつかさどる家同士で交流があった。宗徧には中嶋五郎作という
町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎(荷田春満)という国学者が
住んでおり、羽倉は和歌の添削で吉良家に出入りしたいた。
こうした吉良人脈に、大石三平と大高源五という浅野人脈が繋がってくる。
大石三平は大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流が
あった。また大高源五は宗徧の弟子になっていた。




迷わせてください気泡入りガラス  酒井かがり




最初のお茶会の情報は十二月五日だったが、これは将軍の柳沢邸御成りに
重なって直前に中止される。しかし次の情報はすぐ来た。十四日の昼、大
石三平が羽倉の手紙に「彼の方の儀は十四日の様にちらと承り候」とあっ
たことを伝える。また大高源五も吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの
情報をもたらす。大石良雄は二つの情報から判断して十四日夜の討ち入り
を決断した。





           吉 良 邸 討 ち 入 り





江戸のニュース 元禄十五年十二月十四日
赤穂浪士の討ち入り

旧家老で四十四歳の大石内蔵助良雄の指揮のもと、七十六歳の堀部弥兵衛金丸
から十五歳の大石主税良金までの四十七人の旧赤穂藩出身の浪士は、この日の
夜から翌十五日の早晩にかけて本所松坂町の吉良邸に表門・裏門の二手に分か
れて討ち入り、吉良義央(よしなか)の首を取り、当主左兵衛義周(よしちか)
に傷を負わせ、吉良家家臣十六人を斬り殺し、二十人に手傷を負わせた。一方
浪士側には一人の死者も出さなかった。火消装束に出で立ちは、二十年前の寛
文十二年 (1672) に起きた浄瑠璃坂の敵討ちを見習ったものという。
 主君浅野長矩(ながのり)の恨みを晴らした一行は、徒歩で品川の泉岳寺を
目指した。途中で吉田忠衛門と富森助右衛門の二人を大目付千石伯耆守久尚の
屋敷に派遣し、「浅野内匠家来口上」を持参させた。一行は泉岳寺に到着する
と長矩の墓前に義央の首を供え、討ち入りの報告と焼香をすませた。大目付か
ら報告を受けた幕閣は、上杉家に討ちを出すことを禁止するとともに、泉岳寺
に待機していた浪士四十六人(泉岳寺に向かう途中に姿を消した吉田忠左衛門
の足軽寺坂吉右衛門については逃亡説と使者説とがある)を肥後熊本藩細川家
と伊予松山藩松平家と長門長府藩主毛利家と三河岡崎藩水野家の四家に分けて
預けた。






   引き上げ途中、両国橋東詰で足止めをくらう46人の義士





土足で入る他人の夢の中  蟹口和枝




討ち入りは成功した。吉良邸を出た四十六人は無縁寺(回向院)に入ることも、
船に乗ることも断られ、武装したまましばらく両国橋東詰に屯する。
このとき彼らが最も警戒したのは上杉家による反撃だった。ところが上杉軍は
来なかった。





蛞蝓がのぼって濡れている梯子  くんじろう




後にお預けとなった細川家から出した大石の書状(細川広沢宛)がある。
そこで大石は、半弓など大勢の相手をする武器を用意したのに無益になったの
はおかしい、と書いた後、「覚悟したほどには濡れぬ時雨かな」という句を詠
んでいる。生死を賭けた大仕事を時雨に喩える。大石の器の大きさを表したも
のである。書状の日付が二月二日、切腹二日前であること考え合わせると、そ
の思いは深い。




七色を掴んでからの筆選び  近藤真奈





           「赤 穂 浪 士 の 切 腹」




江戸のニュース 元禄十六年二月四日
赤穂浪士の切腹。
細川家下屋敷(大石良雄ら十七人)・松平家中屋敷(大石主税ら十人)・
毛利家上屋敷(岡嶋八十右衛門ら十人)・水野家中屋敷(間重治郎ら九人)
に預けられた赤穂浪士の処分については、この日正式に四大名家へ切腹の
命が伝えられ、午後に目付と使番の二人が検使として派遣された。大石ら
四十六人の浪士の切腹は午後四時頃から六時頃の間に執行され、遺骸は泉
岳寺に埋葬された。一方、、切腹の命が四大名家に伝えられた頃、大目付
千石久尚から吉良義周へ吉良家改易と義周の隠居が伝達された。
浪士への処分は、幕閣内でも意見が割れていた。識者の意見も二分した。
朱子学者の室鳩巣は、「武士道の精華である」と賛美し、大学頭林信篤も
『復讐論』を著して義士を評価した。古学派の伊藤東涯、水戸学の三宅観
欄なども同意見であった。一方、柳沢吉保のブレーンでもあった古学派の
荻生徂徠は、この事件は仇討事件ではなく、主君の恥をそそぐものであっ
ても私の考えでしたことであり、大義名分からいえば不義であると述べた。
徂徠の弟子の太宰春台や山崎闇斎門下の佐藤直方などは浪士らの就職運動
だと論じている。将軍綱吉や柳沢ら幕閣首脳部は、喧嘩両成敗の論理も戦
国時代の遺風であり、平時の幕藩体制下には古い考えであるとみなし、徒
党を組んだ復讐を否定する法治主義の立場から切腹と結論付けたのである。




さびしいと感じてしまう哲学書  靍田寿子

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