- 2026/07/05
- Category : ポエム&川柳
ニュースー本能寺直前の秀吉の不可逆的嘘
ニュースー調略を使いこなして敵を欺け
調略(騙し)
調略とは、敵を欺くことで戦国時代の戦術でした。
豊臣秀吉はこの口任せでいくつもの城を落としてきた。
敵の城に忍び込んだ忍者が、ある夜、城の重臣の部屋を訪れました。
「お主、何者だ!」忍者は懐から小判を一枚取り出し、机に置きました。
「ご覧の通り、調略の者でござる。これを差し上げますので、わが殿に味方し
ていただけませんか」
重臣はしばらく小判を見つめ、ニヤリと笑って言いました。
「はっはっは、よかろう。だが、ここでワシが寝返ったと知れたら命がない。
ていただけませんか」
重臣はしばらく小判を見つめ、ニヤリと笑って言いました。
「はっはっは、よかろう。だが、ここでワシが寝返ったと知れたら命がない。
どうやって裏切ったとごまかせばいい?」
忍者は答えました。
忍者は答えました。
「簡単でござる。明日の戦の最中、わざと大声で『敵に回ったー!』と叫んで
逃げ出せば、誰も本気で怒りませぬ」
翌日、戦が始まりました。その重臣は最前線に躍り出ると、大声で叫びました。
翌日、戦が始まりました。その重臣は最前線に躍り出ると、大声で叫びました。
「えーい、ここまでじゃ! わしは今日から忍びの者の味方じゃーっ!」
それを聞いた総大将が呆れて言いました。
「あいつ、わざわざ『調略された』ことを自分でバラしおって」
「高松城 水攻めの図」 馬上で戦況を見ているのは秀吉。
「高松城 水攻めの図」 馬上で戦況を見ているのは秀吉。
「毛利攻め」
毛利攻めに向かう秀吉は、信長より付けられた与力の蜂須賀正勝と播磨の国人
の黒田孝高に、毛利水軍の乃美宗勝や能島村上武吉をはじめ、中国地方の国人
ら調略にあたらせた。
の黒田孝高に、毛利水軍の乃美宗勝や能島村上武吉をはじめ、中国地方の国人
ら調略にあたらせた。
天正10年5月、秀吉は、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、堤を
築いて足守川の水を流し込んで、水攻めを開始した。備中が秀吉の手に帰すと、
毛利方が擁立する将軍・足利義昭の御座所である鞆(とも)にも危険が及ぶた
め、毛利輝元は叔父の吉川元春と小早川隆景を率い、救護に駆けつけた。
築いて足守川の水を流し込んで、水攻めを開始した。備中が秀吉の手に帰すと、
毛利方が擁立する将軍・足利義昭の御座所である鞆(とも)にも危険が及ぶた
め、毛利輝元は叔父の吉川元春と小早川隆景を率い、救護に駆けつけた。
鳥取城攻めと異なり、毛利一族が揃って出陣したことを受け、秀吉は、毛利氏
との一大合戦に備え、信長に救援を求めた。信長は四国親政の方針を転換して、
備中に向かうこととし、明智光秀にも援軍を命じている。
秀吉の調略により、毛利方は内部から瓦解する寸前であった。
との一大合戦に備え、信長に救援を求めた。信長は四国親政の方針を転換して、
備中に向かうこととし、明智光秀にも援軍を命じている。
秀吉の調略により、毛利方は内部から瓦解する寸前であった。
ところが、6月2日に「本能寺の変」が起こり、織田方が先に崩壊する危険に
陥った。光秀により信長・信忠父子が討たれた、という情報を受け取った秀吉
は毛利方の使僧である安国寺恵瓊と和睦交渉に入った。
陥った。光秀により信長・信忠父子が討たれた、という情報を受け取った秀吉
は毛利方の使僧である安国寺恵瓊と和睦交渉に入った。
恵瓊は毛利輝元に交渉の経過を知らせることなく、清水宗治とのみ交渉し和睦
をまとめあげた。4日に宗治の自害を見届けた秀吉は、輝元らの身上を信長に
執り成すことを恵瓊に約束し、城を摂取すると撤退を開始する。
そして、大阪にいる織田信孝や丹羽長秀の軍勢と合流し、光秀との決戦に向う。
をまとめあげた。4日に宗治の自害を見届けた秀吉は、輝元らの身上を信長に
執り成すことを恵瓊に約束し、城を摂取すると撤退を開始する。
そして、大阪にいる織田信孝や丹羽長秀の軍勢と合流し、光秀との決戦に向う。
秀吉・秀長兄弟は単独で、信長にとって最大の敵である将軍・足利義昭および
毛利輝元を追い詰めていた。備中高松城周辺で輝元と信長の直接対決が行われ
れば、毛利氏も武田氏同様の末路を辿ったであろう。
毛利輝元を追い詰めていた。備中高松城周辺で輝元と信長の直接対決が行われ
れば、毛利氏も武田氏同様の末路を辿ったであろう。
そして信長の捕虜となった将軍義昭は、将軍を返上させられた可能性が高い。
秀吉・秀長のお膳立ては、そうした次元のものであった。
秀吉・秀長のお膳立ては、そうした次元のものであった。
しかし、それゆえに信長は、本来、長宗我部元親との取次を務め、四国に渡海
すべき光秀を中国戦線に投入し、光秀の面目を潰したことで、その謀反を招い
てしまった。
秀吉が「本能寺の変」翌日に毛利方重臣を調略した手紙
すべき光秀を中国戦線に投入し、光秀の面目を潰したことで、その謀反を招い
てしまった。
秀吉が「本能寺の変」翌日に毛利方重臣を調略した手紙
1582年6月2日、京都で本能寺の変が起き、織田信長が自害しました。
秀吉がその報せを掴んだのは、翌6月3日の夜です。
秀吉は驚愕したものの、即座に以下の隠蔽工作を行いました。
「秀吉の迅速な動き」
① 使者の捕縛
明智光秀が毛利氏へ送った「信長を討ったので挟み撃ちにしよう」という密使
を、秀吉の軍勢が偶然捕らえる。
を、秀吉の軍勢が偶然捕らえる。
② 情報統制
そして秀吉は、陣中からの情報漏洩を完全に防ぎ、毛利軍に信長の死が絶対に
伝わらないよう包囲網を固めた。
伝わらないよう包囲網を固めた。
③ 偽りの強気
和睦を急ぐ信長の死を知った秀吉は、一刻も早く京都へ引き返して明智光秀を
討ちたい状況である。しかし、焦りを見せれば、毛利軍に怪しまれてしまう。
そこで秀吉は「あえて強気の姿勢」を演じた。
討ちたい状況である。しかし、焦りを見せれば、毛利軍に怪しまれてしまう。
そこで秀吉は「あえて強気の姿勢」を演じた。
④ 条件の譲歩
それまで毛利側に厳しく要求していた「領土割譲(五カ国)」の条件を「三カ
国」へと突然緩めた。
国」へと突然緩めた。
⑤ 城主の切腹を急がせる
水攻めで孤立していた備中高松城の城主・清水宗治に対し、「宗治の命ひとつ
で城兵を助ける」と持ちかけ、6月4日に切腹をさせた。
で城兵を助ける」と持ちかけ、6月4日に切腹をさせた。
これにより、後戻りできない状況を瞬時に作り上げたのである。
毛 利 三 兄 弟
左から長男・毛利隆元・次男・吉川元春・三男・小早川隆景
毛利輝元(隆元の長男)
和睦成立の直後に即撤退6月4日の夕方までに清水宗治の切腹と毛利氏との
和睦(誓紙の交換)を完了させると、秀吉は、毛利軍に気づかれないよう、
その日の夜から不自然なほどの猛スピードで撤退を開始しました。
毛利方が「信長の死」を知ったのは、秀吉が撤退した翌日の6月5日だった。
毛利軍はなぜ追撃しなかったのか
和睦(誓紙の交換)を完了させると、秀吉は、毛利軍に気づかれないよう、
その日の夜から不自然なほどの猛スピードで撤退を開始しました。
毛利方が「信長の死」を知ったのは、秀吉が撤退した翌日の6月5日だった。
毛利軍はなぜ追撃しなかったのか
騙されたと知った毛利軍(吉川元春ら)は激怒し、秀吉軍を追撃しようと主張
したが、断念せざるを得ない理由があった。
したが、断念せざるを得ない理由があった。
① 小早川隆景の反対
「一度交わした和睦の誓紙を破るのは武士の恥」とし、また「追撃しても秀吉
の殿(しんがり)部隊に返り討ちに遭う恐れがある」と冷静に判断したこと。
の殿(しんがり)部隊に返り討ちに遭う恐れがある」と冷静に判断したこと。
② 秀吉の根回し
秀吉は、撤退ルートの確保や、毛利軍が追撃してきた場合の伏兵・物資の準備
を怠ってはいなかった。その他の毛利攻めにおける「騙し(調略)」備中高松
城の戦い以外でも、秀吉はエグいほどの謀略で、毛利方を切り崩していたので
ある。
(強かな秀吉の罠に嵌らなかった隆景の深慮がよかったのかも知れない)
を怠ってはいなかった。その他の毛利攻めにおける「騙し(調略)」備中高松
城の戦い以外でも、秀吉はエグいほどの謀略で、毛利方を切り崩していたので
ある。
(強かな秀吉の罠に嵌らなかった隆景の深慮がよかったのかも知れない)
戦いの前に、秀吉は商人を遣わして鳥取城周辺の米を高値で買い占めていた。
城内が極端な食糧不足(飢餓地獄)に陥ることを分かっておきながら、一見親
切に米を買うふりをして、騙し討ちにする騙しである。。
③ 宇喜多直家の寝返り(1579)
毛利方の主力であった備前の宇喜多直家を、巧妙な調略(裏取引)によって織
田方に寝返らせ、毛利の防衛網を内側から崩壊させた。
田方に寝返らせ、毛利の防衛網を内側から崩壊させた。
これらの作戦は黒田官兵衛の進言によるもので、結果的に秀吉の毛利攻めは、
相手の裏をかく「騙し方」が功を奏したのである。
相手の裏をかく「騙し方」が功を奏したのである。
PR




