- 2026/08/02
- Category : アルバム(風景)
ニュースー戦争で得たものは
ニュースー「戦争で得たものは憲法だけ」城山三郎
城山三郎さんは、特攻隊から無事帰還したひとりです。
城山さんは、海軍特別幹部練習生として、特攻隊である伏龍部隊に配属になり
訓練中に終戦を迎えた。これについて城山さんは「日本は明治維新と敗戦の2
度、上の世代が飛んで、すっかりいなくなったからね。それが良かったのかも
しれないねぇ」と語っている。
訓練中に終戦を迎えた。これについて城山さんは「日本は明治維新と敗戦の2
度、上の世代が飛んで、すっかりいなくなったからね。それが良かったのかも
しれないねぇ」と語っている。
遺書や手紙を遺し飛び立っていく特攻機
「神風特攻隊」は、太平洋戦争末期の昭和19年10月に旧日本海軍が編成した、
航空機による体当たり攻撃部隊です。爆弾を積んだ戦闘機で、アメリカ軍艦船
へ直接突入する戦法がとられ、多くの若者が命を落としました。
戦 艦 武 蔵
負けるつもりはない武蔵。帰ってくるつもりの武蔵だったが。
しかしレイテ沖で執拗な米空軍に沈没を余儀なくされた。
航空機による体当たり攻撃部隊です。爆弾を積んだ戦闘機で、アメリカ軍艦船
へ直接突入する戦法がとられ、多くの若者が命を落としました。
戦 艦 武 蔵
負けるつもりはない武蔵。帰ってくるつもりの武蔵だったが。
しかしレイテ沖で執拗な米空軍に沈没を余儀なくされた。
「神風特攻隊・創設の背景」
初期の戦果戦局が著しく悪化した1944年、フィリピン周辺の戦い(レイテ沖
海戦など)において、当時の第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の発案に
より編成されました。
海戦など)において、当時の第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の発案に
より編成されました。
制空権を奪われ、正規の航空戦力で、劣勢を覆すことが困難な中、爆弾を搭載
した「零戦」などで敵艦に体当たりする戦法が「必中必殺」の攻撃として採用
されました。
唯一 米艦に命中したゼロ戦闘機
神風は怖いとアメリカ兵も驚いた
した「零戦」などで敵艦に体当たりする戦法が「必中必殺」の攻撃として採用
されました。
唯一 米艦に命中したゼロ戦闘機
神風は怖いとアメリカ兵も驚いた
初期の攻撃では、護衛空母を撃沈するなど、一定の戦果を挙げたものの、のち
にアメリカ軍が対空防御を強化したことで、成功率は低下しました。
にアメリカ軍が対空防御を強化したことで、成功率は低下しました。
沖縄戦での激化1945年3月以降の沖縄戦では、南九州や台湾などの基地から、
陸海軍合わせて数千機の航空機が、「特攻作戦」に出撃しました。
この作戦は「菊水作戦」と名付けられ、多くの連合軍艦船に甚大な被害を与え
ましたが、日本側も4,000機以上の機体と、多くの搭乗員を失う結果となりま
した。
ましたが、日本側も4,000機以上の機体と、多くの搭乗員を失う結果となりま
した。
隊員たちの背景と遺書特攻隊員の多くは、20歳前後の若者であり、学徒出
陣で召集された大学生や、飛行予科練習生(予科練)などの若年搭乗員が多数
を占めました。彼らが残した「遺書や手紙には、死の恐怖に直面しながらも」、
家族や祖国を想う心情が綴られており、現代でも様々なメディアや書籍でその
記録が語り継がれています
陣で召集された大学生や、飛行予科練習生(予科練)などの若年搭乗員が多数
を占めました。彼らが残した「遺書や手紙には、死の恐怖に直面しながらも」、
家族や祖国を想う心情が綴られており、現代でも様々なメディアや書籍でその
記録が語り継がれています
特 攻 隊 員 の 遺 書
「特攻隊員の出撃前の遺書」
中上敬一少尉遺書
昭和20年4月16日に特攻戦死した中上少尉の遺書である。
便箋四枚からなり、家族への他の手紙や絶筆などと冊子状にして綴られて保管
されてきたものである。「四月十五日の夜」と記載があることから、出撃前夜
に記されたことがわかる。
されてきたものである。「四月十五日の夜」と記載があることから、出撃前夜
に記されたことがわかる。
” 身はたとへ南西の空にくちくとも 永久に生きなん我が櫻 ”
神州神ながらの国 日ノ本 断じて勝たん
我らが特攻隊 隼は今も尚南の雲に消えて往く。
父様、御婆様、母亡き子の敬一を良く之迄仕立ててくれました。
厚く御礼申し上げます。
敬一の心は 徹忠 の二字であります。
敬一より
父上様 四月十五日の夜
松原徳雄少尉遺筆
昭和20年4月16日に特攻戦死。
「明日最後の離陸」
「明日十二時迄に最后の離陸をします」という文言から、出撃前日に記された
ことがわかる。
ことがわかる。
網代一大尉遺書
昭和20年4月28日に特攻戦死。
「愈々出発です」という文言や四月二十八日の日付から、出撃当日に記された
ことがわかる。
ことがわかる。
袴田治夫少尉絶筆
「もう出発」 昭和20年5月4日に特攻戦死。
既に我が愛機ハ…中略…爆音ヲ立テテヲリマス。イマ 飛行機翼ノ上デ走リ書
キシテオリマス。「モウ出発デアリマス」という文言から、飛び立つ直前まで
知覧飛行場で記されたことがわかる。
キシテオリマス。「モウ出発デアリマス」という文言から、飛び立つ直前まで
知覧飛行場で記されたことがわかる。
水川豊少尉絶筆
「只今より出発」 昭和20年5月11日に特攻戦死。
「只今より出発致します」という文言と5月10日の日付から、出撃前日に小月
飛行場にて記されたことがわかる。
飛行場にて記されたことがわかる。
服部武雄少尉遺書
「明朝出撃」 昭和20年5月25日に特攻戦死。
出撃前夜という文言から、出撃前日に知覧において記されたと推測。
日付の記載がないため、前線基地である知覧飛行場へ赴く際に、その前夜に記さ
れた可能性も残るが「出撃」という文言を、最終離陸の意味に解釈した。
れた可能性も残るが「出撃」という文言を、最終離陸の意味に解釈した。
太田巌軍曹絶筆
「出撃直前」 「昭和20年5月26日」
「出撃時刻デス征キマス」「出発直前デアリマス故充分書ク事出来マセン」
「只今ヨリ征キマス」という文言と、5月26日の日付から知覧飛行場から出撃直前
に記されたことがわかる。
寄 せ 書 き ①
に記されたことがわかる。
寄 せ 書 き ①
美野輝雄少尉絶筆
「出撃は後時間の問題」 昭和20年5月25日特攻戦死。
大岩泰雄大尉遺書
「明朝出撃の予定」 昭和20年5月28日に特攻戦死。
宮井政信少尉遺書
「攻撃命令も今日か明日」 昭和20年5月28日に特攻戦死。
生駒寛彦大尉遺書
「明日征きます」 昭和20年6月6日に特攻戦死。
深田末義少尉遺書
「出撃前夜に」 昭和20年6月3日に特攻戦死。
「明日は愈々晴れの出撃なり」「明日の特攻勇士はとても朗らかな
り」「レコードをかけたり唄を歌ったりしております」の記述は、出撃前夜の
様子を伝える。
様子を伝える。
中嶋璋夫少尉遺書
「任務に赴く前夜」 昭和20年6月6日に特攻戦死。
「大命を拝シ任務ニ赴ク前夜一筆父母ニ記ス」
寄 せ 書 き ②
寄 せ 書 き ②
「特攻隊員の遺詠-②」
沈んでいる友母死せる便りあり
明日の空案じて夜の窓を閉め
明日の晩化けて出るぞと友脅し
神様と思えば可笑しこの寝顔
人形に 彼女に云えぬ 事を云い
真夜中に遺書を書いてる友の背
殺生は嫌じゃと虱助けやり
体当たりさぞ痛かろうと友は征き
これでこうぶつかるのだと友話し
アメリカと戦う奴がジャズを聞き
夕食は貴様にやると友は征き
俺の顔青い色かと友が聞き
必勝論必負論と手を握り
父母恋し彼女恋しと雲に告げ
神様が野糞したり屁をしたり
不精者死に際までも垢だらけ
今日もまた全機還らず月が冴え
あの野郎征きやがったと目に涙
機上にて涙の顔で笑ってる
還らぬと知りつつも待つ夕べかな
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