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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ふるさとは牛の涎と炭俵  井上恵津子






         「鸚鵡返文武二道」 (東京都立図書館蔵本)
松平定信の治世下の倹約ブーム、文武ブームを茶化す。この黄表紙は大いに
評判を呼び正月刊行から3月頃まで出回った。作者春町はこの「鸚鵡返し~」
によって幕府への出頭を命ぜられた。画は北尾政美。



江戸のニュース 
七月二十三日  松平定信が依願退職
老中の松平定信が寛政の改革に失敗、この日、病気を理由に老中補佐役を依願
退職した。この件については様々な推測がばされているが、幕閣の権力闘争に
敗れて罷免されたとの説もある。この見方に関連して、この退職には、大奥も
一役買ったというのである。
贅沢を禁じた定信は、大奥にとって、もともと煙たい存在だった。
定信が相模・伊豆沿岸の巡視中に、大奥が中心となって策略されたことなどが
挙げられている。
定信の自伝『宇下人言』には、退職については触れてはいない。
いずれにしても事実上の首である。
定信への期待が大きかったこともあり、細かすぎる定信に対する庶民の不平不
満は政権発足当時からあった。
それを代表するのが、次の狂歌である。
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶいふて夜も寝られず




大根の尻尾に意見されている  笠嶋恵美子






「文武二道万石通」 (東洋文庫蔵)
寛政の改革下の混乱と田沼一派の失脚劇に取材した黄表紙である。
喜三二は、佐竹藩の思惑もあってか、以後黄表紙に筆を執らなくなる。




「寛政の改革の失敗」
松平定信の寛政の改革は、時代の歯車を大きく元に戻す結果となった.
流通経済が発展し、庶民の生活も幾分かは余裕が出てきて、ささやかな娯楽を
楽しむこともできるようになった時代に、「貴穀賤金」(金よりも米穀を重ん
じるという思想)のもとで、商業活動を抑制して、米中心の社会に戻ることは、
経済活動を沈滞化させ、景気悪化へと導くこととなった。
さらに「祖法」を守るという名目で、鎖国政策を強化し蝦夷地開発も中断。
ついには、異学の禁によって、朱子学以外の学派を抑圧するという政策により、
田沼時代に芽生えた、自由で進歩的な学術・文化活動が、大きく後退すること
にもなった。
将軍の孫として、生まれた時から「お殿様」として育てられ、徳川幕府の正学
である朱子学を徹底的に叩き込まれた定信だからこそ、「祖法」の呪縛から逃
れられず、新しい発想に至ることができなかったのだろう。





帽子から飛び出す鳩も私も  いつ木もも花






   様々な書物を前に内容を吟味する、梅の小紋柄は松平定信




蔦屋重三郎ー定信の政治




田沼意次の失脚後、政権の座に就いた老中・松平定信は、それまで経済を
促進した田沼政権とは一転して、質素倹約を是とした。
武士には学門と武芸を促し、社会の風紀の引き締めを図る。
いわゆる「寛政の改革」である。庶民たちは、まだ経済的に活気のあった田沼
時代を偲び、寛政の改革下の息苦しさに喘いだ。
そんな社会の空気を感じ取った蔦重は、当時の倹約ブームや文武奨励ブームを
茶化して風刺する。





笑わせるギャグタイミングの間を計る  小林妻子






     蔦屋重三郎ー朋誠堂喜三二






時の将軍家斉と老中・松平定信を茶化した朋誠堂喜三二『文武二道万石通』
や寛政の改革を風刺し、恋川春町が文章、北尾政美が挿絵を描いた『鸚鵡返文
武二道』を相次いで出版し、いずれもベストセラーとなった。
その後、唐来参和『天下一面鏡梅鉢』もまた儒教思想を尊重する当時の改革
の風潮をパロディ化したものであったが、これが絶版処分となってしまう。
また、黄表紙の作者は主に武士たちであったが、圧力がかかり、喜三二は絶筆
を余儀なくされた。春町も、幕府の呼び出しを受けるが、病気を理由に応じず、
その後、病死する。





情に脆い芋であっさり煮崩れる  阪部文子





集古十種


              古 宝 物

       相 模 国 鎌 倉 鶴 岡 八 幡 宮 蔵 杏 葉 太 刀

             版 木




綱紀粛正・質素倹約、すなわち出版・風俗・奢侈の厳しい統制によって、江戸
市中は、火の消えたような状況となり、寛政の改革による歪が起っ
ていた。ついには在職六年目で定信は退場する。
退職後の定信は、陸奥白河藩主として藩政にあたり、こののち、中央政界には
復帰しなっかった。
定信は、政治家であると同時に文化人でもあったので『宇下人言』『国本論』
などを著し、古い書画や器物を模写した 『集古十種』も編集している。
定信は文政12 (1829) に没した。享年七十二。
以降、寛政の改革を推進していた松平信明が老中首座となり、将軍家斉の乱脈
政治のもと、世情は華美に流れていくことになる。





パンツを脱いでサルに戻ろう  岡田幸子




       『鸚鵡返文武二道』  (恋川春町著作)
『鸚鵡返〜』自体が「鸚鵡言」のパロディで、文武奨励・質素倹約などと声高
に叫んでも、人々は定信の言ったことをオウムのように真似ているだけ、と、
嘲笑する意図を込めている。 (画は頼朝と重忠)





恋川春町著作の絶版・『鸚鵡返文武二道』あらすじ
醍醐天皇を補佐する菅秀才(かんしゅうさい)は、武士が武芸を疎かにしてい
るため、源義経らを指南役に起用する。醍醐天皇と義経では、生きた時代が異
なり、そうした荒唐無稽の設定が、大衆には面白く受けた。
ところが武士たちは、牛若丸の千人斬りを模倣して、往来の人々に斬りかかっ
たり、乗馬の訓練と称して、遊女や男娼に馬乗りになったりと、悪逆・放蕩の
限りを尽くします。
見かねた秀才は、自著『九官鳥のことば』を教科書にして道徳を学ばせようと
するも、その中にある「天下国家を治めるは凧を上げるようなもの」という記
述を武士たちが勘違いし、正月でもないのに「凧あげ」に精を出す有様—。
(ここでも秀才が、梅鉢紋の装束を身にまとっている。極めつけは
『九官鳥のことば』これは定信選・著の『鸚鵡言』を茶化した題名なのだ)





びしょ濡れになっても別の靴がある  新家完司




重忠が武士を集めて文・武に分けている場面。上座に頼朝、
中央の梅鉢紋の装束が重忠で、定信に見立てている。




『文武二道万石通』あらすじ
時は鎌倉時代初期。世の中が平和になり、武士が戦への備えをおろそかにする
ことを憂慮した源頼朝は、御家人の畠山重忠に武士を「文」「武」に振り分け、
各々精進させよと命じます。
そこで重忠は「文」が得意な者「武」に長けた者に分けようとしました。
ところが、どちらも不得手な「ぬらくら者」が最も多いと判明。
重忠は、再教育を試みますが、ぬらくらは、文を茶道・蹴鞠・俳句、武を将棋・
囲碁・釣りなどの遊びにこじつけ、一向に上達しないというもの。





たこはくらげくらげはたこにあこがれる  藤本秋声





自分が揶揄されているとも知らず、黄表紙「文武二道万石通」
を嬉しそうに読んでいる定信




「べらぼう35話 あらすじちょいかみ」





年が明け、朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通』を読む松平定信
鎌倉時代、源頼朝に請われ、忠臣・畠山重忠が鎌倉武士を、「文に長けた者」、
「武に長けた者」、どちらでもない「ぬらくら」に選り分けるという内容です。
忠臣・重忠の絵には、松平家の家紋(梅鉢)が入り「ぬらくら」は、土山宗次
ら田沼派をモデルにしているようで、定信は感激します。





マイウェイ昭和の靴を履いたまま  津田照子





蔦重大明神がそれがしを励ましてくれているということ!
大明神は、私がぬらくら武士どもを鍛え直し、田沼病に冒された世を見事立て
直すことをお望みだ!はりきる定信は、朱子学者・柴野栗山をブレーンに加え、
徳川家斉に紹介します。
栗山は、家斉の隣りにいる一橋治済から、邪悪な気を感じていました。
 外れた思惑……
『文武二道万石通』は大ヒット。
ただし、思惑は外れます。
皮肉が伝わらず「田沼派=ぬらくら」と捉えられてしまい、歌麿『画本虫撰』
にいたっては、良品にしては安く作られ、金持ち達が定信に感謝する始末。
定信は、将軍が成人するまで代わりに政を行う「将軍補佐」となり、ますます
ヒーロー扱いされていきます。





悪筆も様になってる哲学者  橋倉久美子





      蔦重は作戦会議を開いています。


 伝わらない真意…
蔦重は作戦会議を開いています。
恋川春町は、12月に出した黄表紙のうち、自分の本が一番売れていないといじけ
ています。春町の主君は、定信の改革について
「志は立派だが、はたしてしかと伝わるものなのか、とは思うかのう」
と危ぶんでいます。
主君の読み通り、耕書堂の黄表紙同様に定信の真意は、伝わっていませんでした。
文武に励む侍も飽きてしまい、威張り散らしたり、知ったかぶりをしたり…。





にほんばしからにっぽんばしにお引越し  くんじろう

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説教を暗記するほど聞かされる   菊地政勝





       狂歌五十人一首 (画図北尾政演・剞判関治右衛門刀・刊元蔦屋重三郎)
唐衣橘洲は狂歌の会を立ち上げた人である。



明和の年間、内山賀邸門下の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)や太田南畝
(四方赤良)などを中心として「狂歌の会」が生まれる。
狂歌とは、簡単に言えば「和歌のパロディ」である。
「雅文化」の極みである和歌の形式・手法をなぞりつつ、そこに卑俗な要素を
盛り込むことによって生ずる落差に興ずる戯れである。
この同好の士たちの集まりは、徐々に輪を広げていった。
四方赤良(よものあから)こと太田南畝は社交の巧さ、人心を惹きつける力と
明るい詠みぶりとで、狂歌の中心的存在となる。
南畝は、狂詩や洒落本においても注目を浴びている人間であり、また「会」
いう通人の集いには世間の関心も厚く、この狂歌の会が脚光を浴びて江戸市中
に狂歌人気が沸き起るのにさしたる時間は要しない。
極論すれば、この文芸活動は「会」すなわち、狂歌を出しにして、楽しく集う
ことに本質があった。詠まれた狂歌そのものには第二義的な意義しかない。
極めて自由な発想で、様々な分野の才人が、この世界に取り込まれていくこと
になる。



しゃがれた声で鳴く江戸前の猫  酒井かがり




蔦屋重三郎ー吾妻曲狂歌文庫






  盃の うかむ趣向にまかせたる 狂歌は何の曲水もなし 土山宗次郎

太田南畝のような貧乏御家人が狂歌会を開いたり、吉原で宴会したりできた
のは、旗本の土山宗次郎が、パトロンだったからである。土山は田沼意次
側近として、勘定組頭に抜擢され金回りが良く、その派手な暮らしぶりは、
評判の人だった。



狂歌ブームとともに、それまでのその場限りで詠まれる狂歌を収録した狂歌集
・狂歌本を各版元が出版するようになった。
狂歌集の出版には、やや遅れて参入した蔦重は、自ら「蔦唐丸」という狂名で
狂歌師として「連」に出入りしながら、狂歌集・狂歌本の制作をはじめた。
では、狂歌サロンの面々の狂歌を鑑賞してみましょう。




好奇心まだまだあって途中下車  荒井眞理子





 四方赤良(太田南畝)
 あなうなぎいつくの山のいもとせを  さかれて後のちに身をこかすとは
〔ああ、つらいことだな、鰻は。以前は、どこかの山の芋だったのに、今は
背を裂かれ、そして焼かれて、身を焦がすことになってしまったことよ〕
 (山のいもとせ=以前は妹背と呼び合い、愛し合う仲だったのに)





 朱楽菅江   
紅葉々ハ千しほ百しほしほしみて  からにしきとや人のみるらん
〔=紅葉の葉は(遊女は客を沢山取り)何度も何度も染め釜を潜らせるうちに、
華やかな色になり、世間の人はそれを見て「唐錦」みたいと賞賛している〕





宿屋飯盛 (やどやのめしもり)
 などてかくわかれの足のおもたきや 首ハ自由にふりかへれども
〔後朝(きぬぎぬ)の別れの時の足は、どうしてこのように重たいのだろうか。
首は自由に振り返れるのに〕





馬場金埒(ばばきんらち)
 我心あけてミせたき折々ハ 腹に穴ある島もなつかし
〔疑われて、我が心を開けて見せたい折々は、腹に穴が明いている人間が住む
という島も懐かしい=腹に穴はないので、我が心を見せることはむずかしい〕



物欲は無限長生きしなければ  川端六点




唐衣橘洲(からごろもきつしう)
 世にたつはくるしかりけり腰屏風まがり なりにハ折かゞめども
(=腰は曲がりなりにも、腰屏風のように折り屈めるけれども、年を取った
ことだなあ。夜に立つのが難しくなったことよ





手柄岡持 (てがらのおかもち) (朋誠堂喜三二)
 とし波のよするひたひのしハみより くるゝハいたくをしまれにけり
〔=年を重ねて額の皺が増えるのと、年の暮れるのは惜しまれるが、御歳暮
にものを呉れるのはいたく捨てがたい〕





酒上不埒(さけうえのふらち) (恋川春町)
 もろともにふりぬるものは書出しと くれ行としと我身なりけり
〔=そろって疎ましく嫌いになるものは、請求書の束と迫ってくる年の暮れ
と、また一つ歳をとる我が身〕





尻焼猿人 (しりやけのさるんど)
 御簾ほどになかば霞のかゝる時 さくらや花の王と見ゆらん  
(御簾を通して眺めるように、うっすらと霞〔霞と酒をあたためる湯気)がか
かるとき、桜はまことに美しく、花の王と見えるだろう〕



酒という字が夕暮れにポッと点く  新家完司





鹿都部真顔(しかつべのまがお)
 思ひきや十ふの菅ごも七ふぐり 女にまけてひとりねんとは
〔思っただろうか。あの十符の菅薦(とふのすがこも)の歌を。愛しいお前を
七符に寝かせ、自分は三符に寝ようと思っていたのに、だらしなくも、女との
喧嘩に負けて七ふぐり、まさかひとりで寝ることになろうとは〕





万象亭(まんぞうてい)
 千金の花のうハはとミゆるかな 小粒となりてふれる春雨
〔一分金は千両に比べたらはした金と見えるだろうな〕
 (昔は千両の花代を払えたのが、今は端金しか持ち合わせがなくなり、一分金
「小粒」で買える遊女しか買えなくなった)





山手白人(やまてのしろひと)
 中々になきたまならばとばかりに かけはたらるゝ盆のくりこと
〔いっそのこと、亡霊か精霊になったら、どんなに楽だろうと思う。溜まった
掛金を厳しく取立てられる盆の繰り言〕





平秩東作(へづつとうさく)
 辻番ハ下座のかた手のつくり松 日に十かへりもはひつはハせつ
(辻番は暇な仕事だなあ。せいぜい殿様の登下城の時くらいしか平伏しない
じゃないか。その平伏と平伏の合間には盆栽いじりしかしていない)
(=松は千年に十返り〔千年に十回花が咲く〕と、いわれるが、辻番は日に
十回も平伏することはなく、平伏の仕事の片手間に十返り、松を作っている)




ひだり手は水栽培で育てます  徳長 怜






糟句齋(かすくさいよたん坊)
 うき涙ふるき屏風の蝶つがひ はなればなれになるぞかなしき
〔=憂き涙。二人の仲があたかも岸を離れて漂う泡沫のように、また古屏風
の蝶番が壊れてばらになるように、そんな風に離れ離れになることは悲しい
ことだ〕






玉子香久女(たまごのかくぢよ)
 染るやらちるやら木々ハらちもない いかに葉守の神無月とて
〔染めるやら散るやら木々=思い悩むやら別れるやら女の気心は順序はない。
いかに葉守の神が不在の神無月だからとて。なんとも滅茶苦茶だ〕





算木有政(さんぎありまさ)
 やうやうとたづねあふても後家鞘の ながしミじかしあはぬこい口
〔やっと訪ねあてても、後家鞘の様に長し短しだし、鯉口も合わない〕





腹唐秋人(はらからのあきんど)
 春きてハ野も青土佐のはつかすみ ひとはけひくや山のこし張
〔春が来て野も青々と、青土佐の一刷毛を引いたように美しく色づく。
初霞が山の麓にかゝって、まるで腰ばりのようにみえる〕





浜辺黒人(はまべのくろひと)
 くひたらぬうハさもきかずから(唐)大和 たつたひとつのもちの月影
〔不満足と云う噂は唐大和でも聞いたことがない。すべての人がたったひ
とつの望月の月影を堪能している〕



天国は此処かもしれぬ花の下  柳岡睦子






花道つらね (五代目市川団十郎。号白猿、俳名三升)
たのしみハ春の桜に秋の月 夫婦仲よく三度くふめし
〔=そのまま楽しみは春の桜に秋の月。夫婦仲良く三度食う飯〕





加陪仲塗(かべのなかぬり)
 秋の野になく小男(さを)鹿の角なれば さいになりてもめや恋ぬらん
〔秋の野に分け入り、雌鹿を恋いて鳴くさ牡鹿であるので、その角でつくる賽
(サイコロは、博打打から目を乞われるように、雌鹿を恋い慕うことだろう。





油杜氏祢り方(あぶらのとうじねりかた)
 また若き身をやつしろの紙子には うつて付たる世をしのぶ摺
〔まだ若いから、身をやつし、世を忍ぶには紙子がうってつけだ。
白い紙子には信夫摺りがよくつくから)






門限面倒(もんげんめんどう)
 色香にはあらはれねともなま鯛の ちとござつたとみゆる目のうち
〔=生鯛は時間が経っても皮や色に変化がないものの、腐ったかどうかは目を
見リゃ分る。それと同じで、恋心は外には現れないが、目を見れば分る。
ふたごころがあるようだな〕



限りある命へやりたいこと無限  鈴木いさお





唐来参和(たうらいさんな)
 ない袖のふられぬ身にハゆるせかし 七夕づめの物きぼしでも
〔=ない袖は振れぬ身の私だから許してくれ。お前だけでなく、たとえば
七夕姫が「爪に物きぼしができた」と言ってきても、私にはどうもしてあげ
られないのだ〕





子子孫彦(このこのまごひこ)
 月雪のミたてもあまりしらじらし しらけていはゞこれは卯花
〔=月と雪に見立てるとはあまりに白々しい。白けてこれは卯の花かえ。
卯の花とは憂の花〕




山道高彦(やまみちのたかひこ)
 橋の名の柳がもとにつくだ船 かけて四ツ手をあげ汐の魚
〔=柳橋に着く佃島通いの船に乗り。四ッ手網のように大きく網をはっている
と沢山の男がかかった。芸者が多く住む柳橋である〕






今田部屋住(いまだへやずみ)
 春になりてのこりすくなの塩鮭を 去年のかたみと思ひぬるかな
〔=正月になって残り少なくなった塩鮭の片身を これは去年の形見と思った
ことだなあ)




おもしろい遊びを今日もしませんか   前中知栄
 




飛塵馬蹄(とぶちりのばてい)
 をしなべてやまやまそむる紅葉々の 朱にまじハれば赤松もあり
〔吉原の女すべてが紅葉色の装いだ。紅葉の秋だが、朱に交わったので赤く
なったようだ。その中に私を待っている遊女・赤松もいる〕





頭(つふり)光
 母の乳父のすねこそ恋しけれ  ひとりでくらふ事のならねば
〔=たらちねの母、脛を齧った父が恋しい。親元を離れたら暮らし向きが
容易ではない〕





邊越方人(へこしのかたうど)
 棹姫のお入とミえてむらさきの 霞の幕をはるの山々
〔春の女神とも称される佐保姫が、この奈良の都に入って来られた様子。
薄紫の霞が広がり、山々を包んでいるようだ〕
 


薄氷張ったバケツと泣いていた  山本美枝






紀定丸(きのさだまる) (大田南畝の甥)
 大井川の水よりまさる大晦日 丸はたかでもさすかこされす
〔大晦日に押し掛けてくる掛取りの圧力は、押し寄せてくる大井川の水の勢い
よりも凄まじい。丸裸・文なしになっても、その勢いは止められない。





土師掻安(はじのかきやす)
 時鳥ほとゝぎす一声ないてくれ六ツの かねからかぞへあかすみじか夜
〔=ほととぎす一声鳴いておくれ。暮れ六つの鐘から数えて明け六つまでの
短い一夜の間に〕





倉部行澄(くらべのゆきすみ)
 月日をもふるひつくほど恋しくて とかくはの根のあハぬ身ぞうき
〔=震えつくほどに恋して過ごした頃もあったのに、月日も経てみればとか
く歯の根が合わない身こそ、憂きものだ〕





古瀬勝雄(ふるせのかつを)
 船出せしうれし涙の水まして 明日はねかわん天のかわどめ
〔=船出させ恋人に逢えた。嬉し涙が洪水のように溢れ、明日は川留めになっ
てくれたらいいのに。




ぼうふらが浮いてきたから別れよう  井上恵津子





遊女歌姫(ゆうぢようたひめ)
 ふるかゞみ施主にはつかじかくばかり わかれにつらき鐘としりせば
〔=自分の魂が宿っている古鏡。大切な鏡を手放すことがこんなにつらいと知
っていたなら、私は鏡を寄進しなかったのに。新しい鐘はつらくて撞くこと
も出来ない〕





高利刈主(こうりのかりぬし)
 のぼるまでこぞの空なる鐘つきの 今年へおりる明六つの春
〔日が昇るまでは去年だったが、明六つの鐘が鳴って、新しい年の春になった〕





一富士二鷹(いちふじにたか)
 世のうさをのがれていらん観音の 山のおくなるよし原の里
〔世の憂さや世のしがらみから逃れて人は入るのだろう。浅草観音の山の
奥にある吉原の郭の里へ〕




世もすがらメガネが顔をかけている  通利一遍






銀杏満門(いちようのみつかど)
 よばずともかきねをこして這出る となりや竹の子ぼんなうなる
〔=隣の家から招かれたのではないが、竹の子は、隣を慕って垣根を越して
這い出る。隣は子煩悩なる人だから。





勘定疎人(かんぢやううとんど)
 よしあしの日はともかくもあふ夜半を 六十刻にさだめ置たき
〔=善いも悪いも、ともかく恋人に逢ふ夜は、時間を六刻を倍の六十刻に定め
て置きたいものよ〕
 




多田人成(ただひとなり)
 いひよればひんとはねたるかけ茶碗 つぎめのあわぬ身こそつらけれ
〔=口説いてみれば肘鉄喰らったが、女は茶碗でキズモノ。相手に合わせられ
ない自分がつらい〕





榎雨露住(えのきのうろずみ)
 我恋はお留場にすむ鴨なれや 目に見たばかり指もさゝれず
〔=我が恋は、禁猟区の鴨を相手にしてるようだ。ただ眺めるだけで指も触れ
られない〕




一日の愚痴は三つと決めている  清水すみれ







谷水音(たにのみづおと)
 行としのうしろみするもことハりや この光陰の矢つぎばやには
〔=自分の過ぎ去った歳月をふり返ると、この光陰の矢継早さに、おどろく
ばかり〕





遊女はた巻
 天の戸もしばしなあけそきぬぎぬの このあかつきをとこやみにして
〔=天の岩戸を今しばし開けないで。後朝の別れをしなくてすむように、
ずっと闇にしておいて〕



柳直成(やなぎのすぐなり)
 我恋ハ闇路をたどる火縄にて ふらるゝたびに猶ぞこがるゝ
〔=わが恋は、闇夜をたどる火縄のようだ。火縄を振るとよく燃えるように、
女にふられると、ますます恋の炎が燃え上がる)





豊年雪丸(ほうねんゆきまる
 としの坂のぼる車のわがよはひ 油断をしても跡へもどらず)
〔=年の坂、のぼる車の私の齢は、油断しても決して後へは戻らず。
歳月は人を待たずだ)




全身が砂丘になってくる齢   句ノ一





酒月米人(さかづきのこめんど) 
 鴬の羽風もいとふばかりなり あんじすぎ田の梅の盛は
〔=鴬の羽風にも花が散るのではと、案じ過ぎるくらい案じたものだった。
杉田の梅の盛りは〕





齋藤満永(さいとうみつなが) 
 うわかわの目もとにしほはこほるれと たゝ心中の水くさきかな
〔=うわべは、上瞼の目元に愛嬌があふれているのだが、ただ心の中はよそ
よそしく水くさいことだなあ。





小川町住(をがはまちずみ)
 ふた声ときかでぞ沖をはしり船 なごりをしさの山ほとゝぎす
〔=ほととぎすの声を一度しか聞かないうちに、帰りの猪牙舟は、吉原から
漕ぎ出し、走るように隅田川を下っている。名残惜しいことよ〕





大屋裏住(おほやのうらずみ)
 ともし火にせんと思へはたちまちに たちきえのする窓のあは雪
〔=蛍雪の功の故事にならって、積もった雪を明りにしようと思ったが、
窓辺の雪は、たちまちに消えてしまった〕





問屋酒船(とんやのさけふね)
 聾しひの身もうら山し待宵まつよいの 鐘とわかれの鳥の声には〕
〔=鐘の音を聞きながらいまか、いまかと待っていた。やっと逢えても、
すぐに鳥が鳴き別れの朝がくる。鐘の音も鳥の声も、聞こえない人が羨ま
しい〕




野ざらしの地蔵は修行中だろう   安井貴子 

拍手[3回]

カギ穴を一瞬ウフフが横切った  山本美枝






            「近世職人尽絵詞」


文化3(1806)年、定信『近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえ
ことば)』を製作している。
登場している三人の男子は、大田南畝、朋誠堂喜三二、山東京伝と言われる。
寛政の改革では、要注意人物の扱いを受け、筆を折ったり、処罰されたりし
た三人である。定信隠居して恩讐を越えての作品だが、その心中はなんだっ
たのだろう。




「江戸のニュース」 天明六年八月二十六日

老中の田沼意次は、病気を理由に辞職願を提出した。
そしてこの日、これが即刻受理されて意次は老中を解任された。
意次は、九代家重の小姓として取り立てられ、続く十代家治にも信頼されて
老中にまで登りつめた。その政治力を縦横に発揮してきた意次にしては、何
とも呆気ない解任劇だったといえる。しかし、この解任劇の背景には、田沼
派と反田沼派による激しい暗闘があった。
田沼派は,、意次を頂点とするグループであり、その才で家治の信任を得て、
政策・人事面で大いに権勢を揮っていた。
 それを苦々しく思っていたのが、尾張・水戸といった親藩大名をはじめ、
伝統的な家門を誇る譜代大名たちで、その筆頭はこの前年に準老中ともいう
べき「溜之間詰」となっていた松平定信だった。
この反田沼派は、家治が健在であるうちは動きがとれなかったが、家治が病
に伏すようになると勢いを見せ始めた。そして家治の病状が悪化することに
よって、両派の立ち位置は逆転した。
そして、ここから反田沼派による家治毒殺説も生じている。




笑ったらあかんゴーヤがついてくる  酒井かがり




蔦屋重三郎ー田沼時代の終焉





           「潮干のつと」 喜多川歌麿作 (千葉美術館蔵)

  浅間しや富士より高き米相場 火の降る江戸に砂の降るとは 
「画本虫撰」で手ごたえを感じた蔦重は、その後も多くの狂歌絵本を歌麿に
依頼した。そのひとつ「潮干のつと」(しおひ)は、春の袖ヶ浦で開催され
た狂歌会から誕生した狂歌絵本である。
「浅間しや…」は、天明の大飢饉の際に詠まれた狂歌で、田沼意次の政治を
皮肉った。




水害も旱魃も米の急騰も何もかも、田沼が悪いというのである。
賄賂政治といえば田沼意次の名がトレードマークのようである。
意次は徳川十代将軍家治に仕え、側用人から老中にまで出世し、二十数年間
にわたって権勢をふるった。その間を田沼時代と呼ぶが、当時の評価は低く、
賄賂が横行し、世の中の道徳観が乱れた時代であったという。
そうした混乱を招いた張本人こそ、意次だというのである。
江戸の町に繁栄をもたらした「重症政策」を大歓迎し、ちょっとした蹴つま
づきで「賄賂」に置き換わってしまうのだ。




言い続けた嘘がホントになっていく  日下部敦世





  
     松平定信                田沼意次





「将軍家治の死亡の裏にある疑惑」
盤石と思われた、幕府内の田沼体制だったが、一つの出来事をきっかけに、
あっけなく崩壊してしまう。
8月19日、将軍家治の病状が日を追って悪化していく。
これを心配した意次は、自分が信頼する蘭方医2名を病床に送り込み治療に
専念させようとした。
ところが、翌20日には、御殿医・漢方医らに退けられる。
家治は、8月20日にはすでに亡くなったいたが、これを外部に伏せておく
ために、意次の息のかかった蘭方医を病床から遠ざけたのだ。
そして、将軍危篤と聞いて駆け付けた意次に対して、病床への入室を許さず、
あげくのはてに、上意であるとして意次に「引退願」を強要したのである。
結局意次は、「御上意である」と言われて抗しきれず、天明6年 (1786) 8月
27日、老中を罷免されたのである。




本当を知っているのは私だけ  津田照子




そして、将軍家治の死が公表されたのは、翌月の9月7日だった。
将軍の葬儀がすむと、一橋家から養子に入っていた家斉が、11代将軍とな
る。そして矢継ぎ早に、田安家から白河藩藩主に着任したばかりの松平定信
が老中筆頭となった。そして反田沼派の動きは、迅速であった。
田沼意次は2万石を召し上げられ、意次の活動拠点だった神田橋上屋敷と大
阪蔵屋敷を召し上げられ、さらに翌年10月、意次は蟄居謹慎を命じられ、
相良城とその所領は没収、奥州下村藩1万石に転封を命じられた。
田沼家は意次の孫・意明が家督相続することとなった。なお、下村藩五代藩
主意正のとき、将軍家斉の計らいで、旧領の相良に戻ることができた。
これは将軍就任に協力した意次の名誉回復を将軍家斉が望んだためと言われ
ている。




いつも風が吹いている壺の中  蟹口和枝




「意次失脚を企てたのは誰か」
意次を恨んでいた松平定信が第一にかんがえられる。
「定信は意次を刺し殺したいほど憎んでいたことを、自らを老中に推薦する
将軍に宛てた上奏文」がある。
「…中にも主殿頭心中その意を得ず存じ奉り候に付、刺し殺し申すべくと存じ、
懐剣までこしらへ申し、一両度まかり出候処、とくと考へ候に、私の名は世に
高く成り候へども、右にては天下に対し奉り、却って不忠と存じ奉り候…」
「定信は意次を刺し殺したいほど憎んでいたことを、自らを老中に推薦する
将軍に宛てた上奏文の中で吐露した」




キー捨てる指の先までジェラシー  井上恵津子






   定信若かりし頃、梅鉢紋は久松松平家松平定信の紋である。





定信意次を憎むきっかけとなったのは、まず白河藩への養子縁組問題であ
ろう。定信が16歳の時、奥州白河藩への養子の話が持ちあがった。
田安家には、定信の上に五男の治察がいたが、彼は病弱だったため乗り気で
はなかった。が、一橋治済と田沼意次の強い推しがあって、田安家はしぶし
ぶながら、養子話を受けた。しかし案じた通り、その直後に治察が亡くなっ
てしまった。田安家は、定信の養子解消を願い出た。が、老中意次は、例を
見ないこととして許されなかった。田安家はその後13年間、当主不在の状
態が続いた。田安家の復帰が認められず、将軍になる資格をも絶たれたこと
で、定信は、意次を快く思えなかったことは事実だろう。
そして8代将軍吉宗の孫という確かな血筋を持ちながら、足軽出身の意次が
政治を牛耳っていることも、苛立つ要因になったことも考えられる。




蘊蓄を並べて蕎麦を捏ね始め   萩原鹿声






         古画類聚

定信が編纂したことから、幕府の財政吾改革や政治改革だけでなく、
文化的な側面でも、定信は優れた功績を残している。





「田沼時代が続いていれば」
田沼政治は、これまでの幕政とは異なる、気宇壮大な政策を次々と打ち出し
ていった。ただ国家の富を蓄積するために、貿易や産業を重視する経済思想
や経済政策である重商主義をとったことは、倫理観の転換にもつながり武士
ならず庶民からも、心理的な反発が起った。
天明3年(1783)、浅間山が大噴火して、噴煙による日照不足や長雨で東北地
方が大凶作となる。その最中の翌天明4年、意次の嫡男で若年寄の意知が、
旗本の佐野政言に刺殺される。跡継ぎを失った意次の権力は弱体化するが、
それでも二年間地位を保ち続けた。
ところが、不運は続くもので天明6年、後ろ盾の将軍家治が死去する。
そこで老中を免ぜられ、さらに天明7年(1787)5月に起きた大規模な打ち壊し
だった。大凶作による物価の高騰で大坂の貧民が、米屋や商家を襲撃、さらに
打ち壊しは江戸や長崎など諸都市へ連鎖した。
この混乱の責任を負うかたちで、田沼派は一掃され、松平定信が老中首座にの
ぼり、幕政を掌握した。同年、意次は、2万7千石を没収されて隠居・謹慎を
命じられ、孫の意明に一万石が与えられた。




バネだけになってしまったバネ秤  筒井祥文






         「千鳥和歌」

松平定信の号は楽翁。隠居後は書画や和歌、著書など多く遺した。




ともあれ、5万7千石がわずか1万石になってしまったので、田沼家では家臣
の大量の召し放ちを余儀なくされた。ただ、田沼家に仕えていたということで
「此の浪人ども、他家へ抱える人一向になし、定て難儀に及ばんと思う処に、
主人(意次)より、銘銘に過分に配金して、路頭に立たざる様に労はられける
とぞ」『翁草』)とあるように、
大減俸になったにもかかわらず、意次は家臣たちの行く末を憐れんで、惜しげ
もなく旧臣に私財を分与したのである。
さらに、藩の組織を大幅に改編することになったが、それにあたって意次は、
家老と用人を、家臣たちによる選挙で選ばせている。
そして、天明8年意次は、70歳の生涯を閉じる。
田沼時代は終わりを告げたが、そのまま商業重視政策や対外開放政策を続けて
いたなら、我が国は欧米列強と時を同じくして産業革命を達成し、もっと早く
資本主義国家になっていたかもしれない。




笑い飛ばすことに決めたよホウセンカ  服部文子






        相良城にたつ意次の像





「意次の遺言」 田沼が失脚後、将軍に送った手紙。
「老中職にあるときはひたすら天下のためと、粉骨砕身努めてまいりました。
私が少しも偽りを行わなかったことだけば、伝えたいのです」
将軍のため、幕府のために尽くした人生。最も清廉潔白な男は、彼だったの
かもしれません。定信は、田沼失脚後、老中となり江戸で寛政の改革を実行し
ます。飢饉にそなえ、農業重視の政治で町人文化を取り締まり始めました。
世に言う〔倹約令〕です。
しかし、江戸ではすでに広く貨幣経済が浸透していました。
「なぜわからぬ!全ては、のさばる商人をこらしめ、武士が権威を取り戻すた
めなのに」
定信の政治は、民を苦しませ結局、11代将軍斉昭に失脚させられます。
 タイプの違う二人の改革者。
…ふたりは今の日本をどうみているのでしょうか
                                                                                     『意次と定信    童門冬二ゟ』




江戸か火星か棺の中で思案中  桑名千華子

拍手[2回]

カギ穴を一瞬ウフフが横切った  山本美枝






          「田沼意次の相良資料館」

     ここに来れば田沼意次に会える

「勝手元不如意で、貯えなきは、一朝事ある時役に立たない。
御軍用にさしつかえ武道を失い領地頂戴の身の不面目これに過ぎるものはない」




「江戸のニュース」
天明六年八月二十六日、老中の田沼意次は、病気を理由に辞職願を提出した。
そしてこの日、これが即刻受理されて意次は老中を解任された。
意次は、九代家重の小姓として取り立てられ、続く十代家治にも信頼されて
老中にまで登りつめた。その政治力を縦横に発揮してきた意次にしては、何
とも呆気ない解任劇だったといえる。しかし、この解任劇の背景には、田沼
派と反田沼派による激しい暗闘があった。
田沼派は,、意次を頂点とするグループであり、その才で家治の信任を得て、
政策・人事面で大いに権勢を揮っていた。
 それを苦々しく思っていたのが、尾張・水戸といった親藩大名をはじめ、
伝統的な家門を誇る譜代大名たちで、その筆頭はこの前年に準老中ともいう
べき「溜之間詰」となっていた松平定信だった。
この反田沼派は、家治が健在であるうちは動きがとれなかったが、家治が病
に伏すようになると勢いを見せ始めた。そして家治の病状が悪化することに
よって、両派の立ち位置は逆転した。そして、ここから反田沼派による家治
毒殺説も生じている。





笑ったらあかんゴーヤがついてくる  酒井かがり






   田沼の噂話をする大奥の女中



意次家治の病状がいっこうによくならないのを心配し、途中から奥医師)の
大八木伝庵(おおやぎでんあん)にかえて町医師の若林敬順(けいじゅん)ら
を江戸城中にまねき、家治の治療にあたらせた。
ところが、若林敬順の調製した薬をのみはじめてから、かえって家治の病は悪
くなり、そのまま死をむかえたため、家治は意次に毒殺されたのだという噂が
パッとひろまった。
「ああ、おいたわしや。御上(家治)は、田沼どののさしあげた毒薬のせいで、
お命をちぢめなされた田沼どのは、おそろしいお人よ」
それまで、意次に好意的だった大奥の女中たちまでが、口を揃えて意次を非難
するありさまである




雲を掴む話が集塵車に溢れ  東おさむ




蔦屋重三郎ー田沼の時代の終焉





          「潮干のつと」 喜多川歌麿作
  浅間しや富士より高き米相場 火の降る江戸に砂の降るとは 
「浅間しや…」は、天明の大飢饉の際に詠まれた狂歌で、田沼意次の政治を
皮肉ったものである。





「何もかも田沼が悪い」
水害も旱魃も米の急騰も何もかも、田沼が悪いというのである。
「賄賂政治」といえば、田沼意次の名がトレードマークのようである。
意次は徳川十代将軍家治に仕え、側用人から老中にまで出世し、二十数年間に
わたって権勢をふるった。その間を「田沼時代」と呼ぶが、当時の評価は低く、
賄賂が横行し、世の中の道徳観が乱れた時代であったという。
そうした混乱を招いた張本人こそ、意次だというのである。
江戸の町に繁栄をもたらした「重商政策」を大歓迎し、ちょっとした蹴つまづ
きで「賄賂」に置き換わってしまうのだ。




言い続けた嘘がホントになっていく  日下部敦世




「将軍家治の死亡の裏にある疑惑」
盤石と思われた、幕府内の田沼体制だったが、一つの出来事をきっかけに、
あっけなく崩壊してしまう。
8月19日、将軍家治の病状が日を追って悪化していく。
これを心配した意次は、自分が信頼する蘭方医2名を病床に送り込み治療に
専念させようとした。
ところが、翌20日には、御殿医・漢方医らに退けられる。
家治は、8月20日にはすでに亡くなったいたが、これを外部に伏せておく
ために、意次の息のかかった蘭方医を、病床から遠ざけたのだ。
そして、将軍危篤と聞いて駆け付けた意次に対して、病床への入室を許さず、
あげくのはてに、上意であるとして意次に、「引退願」を強要したのである。
結局意次は、「御上意である」と言われて抗しきれず、天明6年 (1786) 8月
27日、老中を罷免された。




本当を知っているのは私だけ  津田照子






  かつては、人の出入りでにぎやだった意次邸の門前 

大名、旗本、商人たちが意次詣をして金品を届け、忖度を期待した。




そして、将軍家治の死が公表されたのは、翌月の9月7日だった。
将軍の葬儀がすむと、一橋家から養子に入っていた家斉が、11代将軍とな
る。そして矢継ぎ早に、田安家から白河藩藩主に着任したばかりの松平定信
が老中筆頭となった。そして反田沼派の動きは、迅速であった。
田沼意次は2万石を召し上げられ、意次の活動拠点だった神田橋上屋敷と大
阪蔵屋敷を召し上げられ、さらに翌年10月、意次は蟄居謹慎を命じられ、
相良城とその所領は没収、奥州下村藩1万石に転封を命じられた。
田沼家は意次の孫・意明が家督相続することとなった。なお、下村藩五代藩
意正のとき、将軍家斉の計らいで、旧領の相良に戻ることができた。
(これは、将軍就任に協力した意次の名誉回復を、将軍家斉が望んだためと
言われている)





いつも風が吹いている壺の中  蟹口和枝




「意次失脚を企てたのは誰か」
意次を恨んでいた松平定信が第一にかんがえられる。
「定信は、意次を刺し殺したいほど憎んでいたことを、自らを老中に推薦する
将軍に宛てた上奏文」がある。
「…中にも主殿頭心中その意を得ず存じ奉り候に付、刺し殺し申すべくと存じ、
懐剣までこしらへ申し、一両度まかり出候処、とくと考へ候に、私の名は世に
高く成り候へども、右にては天下に対し奉り、却って不忠と存じ奉り候…」



キー捨てる指の先までジェラシー  井上恵津子




定信意次を憎むきっかけとなったのは、まず、白河藩への養子縁組問題であ
ろう。定信が16歳の時、奥州白河藩への養子の話が持ちあがった。
田安家には、定信の上に五男の治察がいたが、彼は病弱だったため乗り気では
なかった。が、一橋治済田沼意次の強い反対があって、田安家はしぶしぶな
がら、養子話を受けた。しかし案じた通り、その直後に治察が亡くなってしま
った。田安家は、定信の養子解消を願い出た。が、老中意次は、例を見ないこ
ととして許さなかった。田安家はその後13年間、当主不在の状態が続いた。
田安家の復帰が認められず、将軍になる資格をも絶たれたことで、定信は意次
を快く思えなかったことは事実だろう。
そして、8代将軍吉宗の孫という確かな血筋を持ちながら、足軽出身の意次が
政治を牛耳っていることも、苛立つ要因になったことも考えられる。




またの名を相対性理論という梯子  通利一遍





「松前屏風」  ニシンを求めて賑わいを見せる松前の漁港

意次は貿易による利益も幕府の財政建直しの財源として重んじ、貿易を広げる
ことには大変熱心だった。




「田沼時代が続いていれば」
田沼政治は、これまでの幕政とは異なる、気宇壮大な政策を次々と打ち出し
ていった。ただ国家の富を蓄積するために、貿易や産業を重視する経済思想
や経済政策である重商主義をとったことは、倫理観の転換にもつながり武士
ならず庶民からも、心理的な反発が起った。
天明3年(1783)、浅間山が大噴火して、噴煙による日照不足や長雨で東北地
方が大凶作となる。その最中の翌天明4年、意次の嫡男で若年寄の意知が、
旗本の佐野政言に刺殺される。跡継ぎを失った意次の権力は弱体化するが、
それでも二年間地位を保ち続けた。
ところが、不運は続くもので天明6年、後ろ盾の将軍家治が死去する。
そこで老中を免ぜられ、さら
に天明7年(1787)5月に起きた大規模な打ち壊しだった。大凶作による物価
の高騰で大坂の貧民が、米屋や商家を襲撃、さらに打ち壊しは江戸や長崎な
ど諸都市へ連鎖した。
この混乱の責任を負うかたちで田沼派は一掃され、松平定信が老中首座にの
ぼり、幕政を掌握した。同年、意次は、2万7千石を没収されて隠居・謹慎
を命じられ、孫の意明に一万石が与えられた。





バネだけになってしまったバネ秤  筒井祥文




ともあれ5万7千石がわずか1万石になってしまったので、田沼家では家臣の
大量の召し放ちを余儀なくされた。ただ田沼家に仕えていたということで、
「此の浪人ども、他家へ抱える人一向になし、定て難儀に及ばんと思う処に、
主人(意次)より銘銘に過分に配金して、路頭に立たざる様に労はられける
とぞ」(『翁草』)とあるように、
大減俸になったにもかかわらず、意次は家臣たちの行く末を憐れんで、惜しげ
もなく旧臣に私財を分与したのである。
さらに、藩の組織を大幅に改編することになったが、それにあたって意次は、
家老と用人を、家臣たちによる選挙で選ばせている。
そして天明8年意次は、70歳の生涯を閉じる。
田沼時代は終わりを告げたが、そのまま商業重視政策や対外開放政策を続け
ていたなら、我が国は欧米列強と時を同じくして産業革命を達成し、もっと
早く資本主義国家になっていたかもしれない。





笑い飛ばすことに決めたよホウセンカ  服部文子






            印旛沼の工事 

大洪水のため完成ま近にして断念した印旛沼の干拓工事。




「意次の遺言」 田沼が失脚後、将軍に送った手紙。
「老中職にあるときはひたすら天下のためと、粉骨砕身努めてまいりました。
私が少しも偽りを行わなかったことだけば、伝えたいのです」
将軍のため、幕府のために尽くした人生。最も清廉潔白な男は、彼だったの
かもしれません。定信田沼失脚後、老中となり江戸で寛政の改革を実行し
ます。飢饉にそなえ、農業重視の政治で町人文化を取り締まり始めました。
世に言う〔倹約令〕です。
しかし、江戸ではすでに広く貨幣経済が浸透していました。
「なぜわからぬ!全ては、のさばる商人をこらしめ、武士が権威を取り戻す
ためなのに」
定信の政治は、民を苦しませ結局、11代将軍斉昭に失脚させられます。
 タイプの違う二人の改革者。
…ふたりは、今の日本をどうみているのでしょうか
                                                                                     『意次と定信    童門冬二ゟ』




江戸か火星か棺の中で思案中  桑名千華子
 










「べらぼう32話 あらすじちょいかみ」 (新之助の儀)




御三家は新たな老中に定信(井上祐貴)を推挙する意見書を出すが、田沼派
水野忠友(小松和重)松平康福(相島一之)は、謹慎を続ける意次(渡
辺謙)の復帰に奔走し、意次は再び登城を許される…。
そんな中蔦重(横浜流星)は、新之助(井之脇海)を訪ねると、救い米が出
たことを知る。蔦重は、意次の対策が功を奏したからだと言うが、長屋の住
民たちから、田沼時代に利を得た自分への怒りや反発の声を、浴びせられて
しまう。




ぶち切れた輪ゴムがあらぬ方へ飛ぶ  両川無限










江戸市中では米の値が跳ね上がり、奉行所には怒れる群衆が押し寄せていた。
そこには新之助長七の姿も。そんな中大坂で打ちこわしが始まったという
報せが入り、事態はさらに緊迫。定信に対し、意次は奥州からの米回送を懇
願するが、定信は、「見返りは不要」と断言。
「米を出すことが、徳川の威信を保つ手段であり、自分の出世と引き換えに
するつもりはない」きっぱり言い放ちました。
重三郎は、読売を使ってお上の策を伝え、混乱を鎮めようとしますが、本屋
仲間からは「お上の広報などやっていられない」と冷たい反応。
それでも重三郎は諦めず、打ち壊しの準備を進める新之助のもとを再び訪れ
ます。
「この布に、思いの丈をぶつけてほしい」と白い木綿を差し出し、重三郎は
「暴れるより何に怒っているかをしっかり伝えましょう」
と訴える。そして
「俺のわがままを一つ、誰も捕まらず死なないこと。それだけが望みです」
と頭を下げました。その真摯な姿に新之助は心を動かされ、重三郎の布に筆
をとります。




「たすけて~」と干ぴょうは叫べない  岩田多佳

拍手[3回]

ボコボコのバケツひしめく日本列島  阪部文子






           「大 洪 水 の 爪 跡」

大水害により停泊していた多くの船が街道まで打ち上げられたほか、流され
た船によって永代橋が破壊され。さらに暴風により築地本願寺の本堂が破壊
されて、江戸の人々は恐怖に怯えた。

天明年間 (1781-89) は、ことに天災が多かった。
 すなわち天明3年には、6月中に大水があり、七月には、信州浅間山の大爆
発、加えて大冷害による東北・関東の大飢饉に発展した。
ついで、天明5年も大雨・冷害による凶作となったが、翌天明6年7月には、
古老の申伝えにもない〟程の大洪水が伊豆から関東にかけて襲った。
                       (「西方村・旧記参」ゟ)



空一枚めくればトラブルの芽  岩田多佳子



 この時の様子は、『武江年表』に
「七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水と成れり…中略…
小塚原は水五尺もあるべし、千住大橋往来留まり掃部宿軒まで水あり、本所
深川は家屋を流す、平井受地辺水一丈三尺(約4㍍)と云う、大川橋両国橋
危うく16日往来留る…中略…関八州近在近国の洪水は、ことに甚しく筆紙
に尽しがたしとぞ、この水久しくたゝへたりしかば、奥羽の船路絶えて、物
価弥猛(驚くほど値上り)しとぞ」とある。
さらに『徳川実紀』の記録には、
「まして郊の外は堤上も七、八尺(2㍍3.40㌢)田圃は一丈四、五尺
(4㍍50㌢)ばかりも水みち、竪川、逆井、葛西、松戸、利根川のあたり、
草加、越谷、粕壁、栗橋の宿駅までも、ただ海のごとく、岡は没して、洲と
なり、瀬は変じて淵となりぬ、この災にかかりて、屋舎・衣食・財用を失な
ひ、親子兄弟ひき別れて、ただ神社仏宇などの少しも高き所をもとめ、辛き
命をたすかり」とある。



筋一本あの世とこの世行き違う  北原照子






         水 没 す る 江 戸  ①




「江戸の空に線状降水帯発生」
「西方村・旧記参」によると、その年は6月から日照りが続き、田畑とも相
応の豊作が予想される天候であった。7月12日は朝からの快晴であったの
で、西方村の人々は豆などの土用干をしていたところ、昼頃から俄かに西北
の空から雷が鳴りだし、大雨が降りだした。
人々は「よいおしめりだ」とこの雨を喜んでいたが、大雨は、翌十三日にな
っても降り止まず、14日、15日、16日と降り続いた。




擦れ違いざま赤い舌が見えた  酒井かがり




 

                               水 没 す る 江 戸 ②




このため耕地は勿論、元荒川も満水となり村々では日夜、水番を立てて警戒
に当った。翌17日も、相変らずの大雨であったので心配していたところ、
綾瀬川の上流上瓦葺村の見沼代用水掛樋(みぬまだいようすいかけおけ)が
押流され、見沼用水の押水が綾瀬川通りをひた押しに下ってきた。
西方村をはじめ八条領村々は、早速、水防人足を西葛西用水東土手に集め、
綾瀬川通りからの押水を防ぐため堤防の盛土作業にとりかかった。
そのうち同日の夜になると、今度は、利根川通りの堤防が、所々で決潰し、
幸手領・庄内領・松伏領・新方領一円が洪水になった。このため元荒川の水
位は、一挙に二尺余も高くなり、たちまち堤防通りを惣越して田畑や屋敷地
に流入した。元荒川の水防につとめていた人々は、「今はかなわぬ切れた切
れた」と叫びながら、水丈(たけ)の深くなった道を家に戻ったが、この時
はすでに家々の床上に水があがり、家財や穀物を片付けるひまもなかった。





大変だ地球の熱が下がらない  赤木克己 




「自然は常に人間の上をゆく」
 西方村の家々では、宝永元年と寛保2年の大出水に鑑み、家の建替時には
それぞれ適当に盛土をして、出水にも心配のないように備えていたが、当年
の出水は、寛保2年の出水より3尺余の高水であったので、ほとんどの家が
水につかったという。このときは西方村のなかでも、大相模の不動尊境内だ
け水があがらなかったので、多くの人馬が不動尊境内に避難した。
しかし、それから約10日間も水が引かなかったので、この間、避難人馬は
境内に閉じ込めとられたままであったという。
 最終的に本所深川周辺でも最大で4.5m程度の水深となり、初日だけでも
3641人が船などで救出されたという記録が残る。




それ以後の人魚は縄梯子を確保  山口ろっぱ




「その後」
 天明3年と天明5年の大凶作に続き、当年の大出水で米価がいちじるしく
高騰したため、困窮者が続出した。ことに大水後の暮から翌年春にかけては、
江戸市中の米価は金1両につき一斗八升まで暴騰したため、多数の餓死者が
続出したといわれる。
このため天明7年5月を頂点に、京都・大坂・江戸をはじめ全国各地の都市
では、困窮者による打毀し騒動が激発した。この全国的な飢饉現象も天明7
年の暮には収まり、米価も金1両につき八斗位までに復した。






        洪水が呼んだ天明の大飢饉




夜明け前江戸の尻尾が疼きだす  蟹口和枝





蔦屋重三郎ー天明の大水害・わが名は天





夏の盛りを迎えた天明6年7月、湿気を帯びた風が江戸中を吹き抜けていた。
人々は「今日は降るぞ」と口々に話ながら、屋根の補修を急いでいた。
この年の夏は、例年よりも蒸し暑く雨の気配が続いていたが、この日は特に
異様な空気がただよっていた。
午後になるとついに天が裂けるような轟音とともに大雨が降り始めた。
雨脚は次第に激しさを増し、軒先から流れる水は小川のように江戸中を駆け
抜けた江戸の民衆には知る由もないことだが、この大雨は、3年前の浅間山
大噴火による影響だった。




ピチャピチャと雨を踏むのは刺客とな  通利一遍




噴火によって吾妻川には、大量の火山灰や土砂が堆積しており、今回の豪雨
によって利根川へと流れ込んだのだ。
川の流れは、濁流となり川床の上昇を招いた。
利根川沿いの村々では、住民たちが恐怖に怯えていた。
そしてついに起きてしまった。利根川は羽根野あたりで堤防を越え濁流とな
って周囲の田畑や家屋を飲み込んでいった。
栗橋宿の南側は瞬く間に海のような景色へと変わり、大量の船や家屋が濁流
に流されていった。




サイコロを何度振ってもゼロが出る  三ツ木もも花






                  利 根 川 の 氾 濫




利根川の氾濫は江戸市中にも深刻な影響を与えた。
日本橋から数えて七番目の宿場である、栗橋宿から南へ広がった濁流は江戸
市内へと流れ込み市中を混乱に陥れた。
町奉行所では、評定が開かれていた。
利根川から流れ込んだ水が日本橋まで迫っている。
このままでは江戸全体が水没するおそれがある。
「それぞれ町々にて速やかに非難を始められよ!それと食料や衣類の確保も
急ぐように! 心得違いなきよう速やかに行動するべし」
江戸庶民らは奉行所の指示に従い非難を進めた。
しかし、水害によって多くの物資が失われており、混乱は収まる気配を見せ
なかった。
「母ちゃん 水がもう腰まで来てるよ!」と叫ぶ子供。
「大丈夫だよ 手を放すんじゃないよ」と応える母親。
その光景は、江戸中で繰り広げらていた。
濁流によって運ばれた土砂や瓦礫は、江戸中に退席し、湿気と泥臭さが立ち
込める中、人々は、食べ物や寝床を求めて奔走し始めたいた。
日が暮れる頃には、川の水があふれ始めていた。




ケセラセラに包むふわふわの梯子  森田律子






    大奥で田沼意次の悪評を流布する奥女中




「べらぼう31話 ちょうかみ」 (わが名は天)




「米一粒涙で濡らし炊く日々も 笑い忘れぬ江戸の心よ」
その頃、耕書堂の中では、番頭たちが荷物を二階へ運び込んでいた。
「早く!版木が濡れるぞ!」
重三郎(横浜流星)の声が響く中、若い番頭たちは汗だくになりながら作業
を続けている。外では川の水が溢れ日本橋に流れ込み始めたという。
「旦那様!水がここまで来てます!」
田畑の作物は芽吹く間もなく枯れ収穫は激減。
人々は、この未曽有の危機を「天明の飢饉」と呼び
恐れと絶望の中で日々を過ごしていた…。





隅田川の下半身は江戸だろう  徳山泰子





夏の終わりを迎えた江戸の空はどこか寂し気な秋の兆しが漂い始めていた。




深川の長屋では、蔦重が米を抱えながら小田新之助(井之脇海)を訪ねていた。
新之助の妻・ふく(小野花梨:)が、産んだばかりの赤ん坊「とよ坊」のために
赤子用の着物も担いでいる。
「新之助さん ふくさんこれを受け取ってくれ」
「米と着物だ、とよ坊が健やかにそだつようにねがっているんでさ」
「蔦重…いつもすまぬ かたじけない」
そのとき長屋の外から元気な声が聞こえてきた。
「おい 新之助いるか」
現われたのは大工の長七(甲斐翔真)だった。
長七は新之助の友人であり短気だが正義感あふれる男だ。
「どうしたんだ長七」
「最近、江戸市中では、米不足がひどく、米を奪おうとする打ち壊しもおきて
いる。俺たちもなんとかしなきゃならねえとおもっているんだ。新之助お前
も一緒にやらねえか」
蔦重はその言葉に耳を傾けながら、静かにうなずいた。




折々に万葉仮名になる梯子  くんじろう






   田沼意次と三浦庄司 政局は暗澹として




一方、老中・田沼意次の屋敷では、諸藩からの報告を携えた側近の三浦庄司
(原田泰造)が、意次に対座していた。
「田沼様 東北では冷害による凶作が深刻化しており、このままでは民衆の
生活がさらに困窮する恐れがあります」
「冷害か 今年の春先から天候が不順だとは聞いていたが、やはり予想以上
に影響が大きいようだな」
三浦はさらに続けた。
「それだけではございません。諸藩が江戸への廻米を優先するあまり地元の
民衆が十分な米を手に入れることができず、不満が高まっております。
そのため一部では、米の買い占めを行う者も現われ米価が急騰しております」





雨あがりお地蔵さんは苔まみれ  藤本鈴菜




「米の買い占め…!それは江戸だけでなく、国中に混乱が広がるのも時間の
問題ではないか」
意次は深い溜息をつき、手元の地図に視線をおとした。
「まずは買い占めを防ぐため、国中に向けて、厳格な禁止令を発する必要が
あるだろう。また諸藩には廻米の際、道中での米の売買を禁じるように指示
せねばならぬな」
三浦はさらに
「加えて江戸に入る米の量を確保するために、諸藩との協議を進めるべきか
と存じます。特に供給量が多い藩には、江戸への廻米量を増やすよう要請し
てはいかがでしょうか」
意次はしばらく考えこみ
「しかし、それだけでは根本的な解決にはならぬ」
民衆の不満を抑えるためには、彼らに直接的な支援を行う策もかんがえねば
ならぬな」




あっぱれを泥沼から引っぱりあげる  山本美枝






    我の名は天せあると治済を見据える家治




    「わが名は天」




江戸城では、家治(眞島秀和)が病床にあった。
将軍家治の病状は、日に日に悪化、重篤な状態に陥り、一橋治済(生田斗真)
甲斐翔真(相島一之)ら寝所には家臣たちが集まり、緊張感が漂っていた。
家治は枕元に集まる家臣たちを見渡す。
家治の顔は、病に蝕まれ顔色は蒼白だが、その目にはまだ将軍としての威厳
が宿っている。家治は視線は若き徳川家斉(城桧吏)に向ける。
14歳の少年である次期将軍・家斉は不安そうな表情で言葉を待っていた。
「家斉 お前がこれからこの国を背負うのだ。若きお前にはまだ多くを学ぶ
べきことがある。しかし心ある者を見極め、その力を借りることを忘れるで
ない。田沼意次のような正直な者を重用せよ。それこそが国を守るみちであ
るぞ」
家斉は緊張した面持ちで深く頷く。
その姿を見て家治は、満足気に微笑むが、次の瞬間家治は床から力なく這い
出た。家臣たちはそれを支えようとするが家治は、それを制するかのように
手を振る。そのまま治済を見据え
「よいか天は見ておる。天の名を騙る驕りを許さぬ。これより余も天の一部
となる」 と声を絞った。




スポイドでほんの一滴の皮肉  筒井祥文

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