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ニュースー特攻隊員の言伝



       「 知 覧 特 別 攻 撃 隊 」





ニュースー特攻隊員の遺書・遺詠・日記・手紙より




「諸君は空の神兵である。ただいまより特別攻撃隊員を募集する。
我と思わん者は一歩前へ出よ」
第二航空艦隊司令長官・福留繁中将の訓示に、一瞬、その場が凍りついた。
そして数秒。沈黙に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、
ぞろぞろと重い一歩を踏み出した。
爆弾を搭載した飛行機による体当り攻撃、即ち特攻が本格化しつつあった。
「ありがとう ありがとう。だがこれでは志願者が多すぎて選びようがない。
いずれ選考の上、連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」


生きるのは良いものと気づく三日前


第二次世界大戦末期の沖縄戦において、知覧から出撃した陸軍特別攻撃隊隊員
が、出撃命令を受けたのちに、出撃直前の前日から当日朝にかけて家族へ当て
て記した「遺書、随筆、遺詠、辞世、日記、手紙、葉書」などの手記より。
特攻隊員が、知覧の三角兵舎や飛行場内で、死期が迫る中、どのような心境に
あったかを慮るとき、胸をつきあげてくるものがある。





        出 撃 前 の 特 攻 隊 員





「特攻隊員の遺詠」
万歳がこの世の声のだしおさめ
未だ生きて いるかと友が 訪れる
あと三日酔うて泣くのも笑うのも

真夜中に遺書を書いてる友の背
特攻へ新聞記者の美辞麗句
特攻隊神よ神よとおだてられ
明日死ぬと覚悟の上で飯を食い
今日もまた全機還らず月が冴え
あの野郎征きやがったと目に涙

機上にて涙の顔で笑ってる
還らぬと知りつつも待つ夕べかな
勝敗はわれらの知ったことでなし




        「特 攻 隊 員 の 遺 筆」





山田勇大尉(大尉は戦死後の階級)日記
 『出撃の日を迎えた』  昭和20年12月4日、
昭和二十年
三月廿六日 二十三日附 秘命令にテ待望の大命降下血湧き肉躍る必
      ず成功を期す
二十七日  四ケ月振にて單発機に搭乗感じを忘れて居たので困った。
二十八日  小隊教練
三十日   拾時師団長閣下以下師団全員に見送られて勇躍出発。
      感激の一瞬 四機を残して八機士気旺盛。
      相模に不時着天龍にて補給加古川に一泊。
      夜懐しの父母と三名枕を並べし一の床に休む。
      思ひ出のそして最后の一夜あり、安心しきった爲か安らかに眠る
三十一日  天候不良 長機故障の為め出発延期、父母と半日飛行場にありて
      話す話しは山程あれど、語る事出来ず、又余り話す要なし。
      特攻隊に行く事は知って居る事と思ふ。
      自分の飛行振りを見て安心した事と思ふ。
      雨降って今日一日を生き延びる
       拾時師団長閣下以下師団全員に見送られて、16515大阪行
      の列車にて帰る母は、自分の出発を見りたかったらしいが、家で
      子供が出来る事だし、随分心残りの事と思ふ。
      列車の出る瞬間の母の姿から、しっかりやっておくれ、ただそれ
      だけの言葉がしっかりと、胸に脳裡に刻みつけられた。
四月一日  芦屋に着 旅館宿泊3泊。
      特攻隊給与でばんとしてゐたが食べられず、めんちょうの為なり
五日    愈々進発命令来る。
      八、三五全機離陸。
      知覧に前進、一泊軍司令官閣下の激励の訓示あり。
      概着部隊は一機又一機進発す。
      吾々の命も明日一日なり。
     〔あられふる やだまのふすま  かいくぐり 進む若鷲 大君のため〕
      何も云ひ残すことはなし 心残りなし。
      唯大君の御為に喜んで悠久の大儀に生きん。
      七生報国  米英撃滅に邁進せむ。
     〔大君の み為に死ねと云ひし 母強し 吾れ必ずや 一艦轟沈せむ〕
六日夕刻  二十三歳の若輩にして三千名を屠る。
      必中 轟沈 第六十八振部隊。
     
   「出発時刻ニ全機故障、止ムナク出発ハ明日トナル整備不良ノ為ナリ、
    明日はドンナ事ガアッテモ、出発セザルベカラズ、菊水第一号ニハ
    参加シナケレバナラヌ」
      轟沈  第六十八振部隊
      轟沈  七生報国。




    穴澤利夫大尉


穴澤利夫大尉手紙 「穴澤利夫大尉は昭和20年4月12日に特攻戦死」
 『穴澤利夫大尉が婚約者にあてた最後の手紙』
二人で力を合わせて努めてきたが、終に実を結ばずに終わった。
希望を持ち乍らも、心の人隅であんなにも恐れていた ”時期を失する”といふう
ことが実現して了ったのである。去月十日、楽しみの日を胸に描き乍ら、池袋
の駅で別れてあったのだが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く状況は急転した。
発信は当分禁止された。転々と処を変へつつ多忙の毎日を送った。

そして今、晴れの出撃の日迎へ変えたのである。
便りを書きたい、書くことはうんとある。
然し、そのどれもが今までのあなたの厚情に、お礼をいふ言葉以外の何物でも
ないことを知る。あなたの御両親様、兄様、姉様、(手紙二ページ目へ)
妹様、弟様、みんないい人でした。
至らぬ自分にかけて下さったご親切、全く月並みのお礼の言葉では済み切れぬ
けれど「ありがたふ御座いました」と最後の純一なる心底から言っておきます。
今は徒に過去における長い交際のあとを辿りたくない。
問題は今後にあるのだから、常に正しい判断を、あなたの頭脳は与へて進ませ
てことを信ずる。然し、それとは別個に婚約をしてあった男性として、散って
行く男子として、女性であるあなたに少し言って征き度い。
「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない」
「徒に過去の小義に拘るなかれ、あなたは過去に生きるのではない」
「勇気を持って過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」
「あなたは今後の一時一時に現実のの中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には、
 もう存在しない」
自分勝手な、一方的な言葉ではつもりである。
今後は明るく朗らかに。 自分に負けずに、朗らかに笑って征く。
                              利夫
 智恵子様
松原徳雄少尉遺筆
 〔一枚目〕
オ父上  御身体大切ニ
母上  今一度お顔を見タイ ト 思ヒマスガ合へば
返ヘッテ悪イト思ヒ候ハ
  必ず敵空母ヲ 轟沈致シマス
 〔二枚目〕
一、此ノ航空セーターは 出発ノ前日迄 着タルモノナリ
一、手袋ハ 飛行機ニ乗ル時ニ 使用スルモノデス
  此れは飛行機ニ乗ル時 キズヲシタ時使用スルモノデス
 明日十二時迄最后ノ離陸ヲシマス
 

上成義徳少尉遺詠
 『出撃前夜』 昭和20年4月22日
「意気軒昂」
” 君が為め 雄々しく散らん 櫻花 ”
       第八十振部隊  上成曹長






   『英画』 「雲流るる果てに」
原作は、海軍飛行専修予備学生として出撃して亡くなった青年たちの遺稿集
『雲流るる果てに』戦没飛行予備学生の手記である。


「あらすじ」
 昭和二十年春、本土南端の特攻隊基地では、空襲を受けて秋田は戦死し、
深見は負傷した。松井は町の芸者富代を愛し、深見は女教師瀬川を想っている。
秋田の妻・町子は夫の死も知らず、基地を訪れ、位牌の前に泣き崩れた。
雨続きの一日、笠原が戦艦大和の撃沈を報じたが、軍人精神の権化を自負する
大滝は、頭からそれを否定した。
雨が上り出撃の時は来た。松井は富代に別れ、深見に戦争のない国で待ってる
よ、と言残して飛立ったまま再び帰らなかった。

深見は、瀬川と夕闇の道を歩いている時、片田飛行長に見つけられ散々に殴ら
れた。基地では、激しい訓練がつづけられ、山本は乗機が空中分解をおこして
死んだ。彼を葬むる煙を見つめながら、深見は、大滝に「特攻隊の非人間性」
をしみじみと語るのだった。その大滝を父母が訪れるという便りがあった。
然しその喜びも空しく、大滝等は出撃の時を迎え、負傷のいえない深見も、
「君らと一緒に死ぬ」と、共に空中へ舞上った。
大滝の両親が駆けつけた時、すでに機影は、遠く白雲の流れる果てに飛び去っ
ていた。

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豊臣兄弟ー本能寺の変・予兆と理由



                     「明智光秀の首実検に立ち会う秀吉(中央)」




豊臣兄弟ー本能寺の変・予兆、理由





「ドラマ検証」
豊臣兄弟では、天正10年(1582)の「本能寺の変」を予感させるくらい織田信長
(小栗旬)明智光秀(要潤)への信頼感が薄い。第15回「姉川大合戦」で光
秀は、ようやく信長の家臣になったのだから、仕方ないのだろうか。
岐阜城での評定で、信長は重臣たちに、
「今日より明智十兵衛光秀が、わが家臣として加わることとなった」と紹介し、
光秀は「これよりは殿のため身を賭して励みます」と答えた。なにしろ、家臣
になったというのも、第14回「絶体絶命」で、それまで仕えていた足利義昭
(尾上右近)から「光秀、そなたが信長のものになれ。家臣となり、織田の動
きをわしに知らせるのじゃ」と指示されてのことなのだから、信頼されるほう
がおかしいかもしれない。
第16回の「覚悟の比叡山」では。光秀信長から「延暦寺に書状を送り、従わ
ないときは女、子供だろうと皆殺しにしろ」と命じられ、それを実行に移す。
その残虐な振る舞いに義昭が激怒すると、光秀は「信長に疑われているからそ
うするしかなかった」と呟いた。だが、結論を先にいえば、この時点で信長が、
光秀を疑っていたとは思えない。それどころか、他の重臣たちがうらやむほど
の信頼を勝ち得ていたようにみえる。
そして第27回の「本能寺の変」。安土城で信長家康(松下洸平)を接待中に
出されていた食事に毒が盛られていたことから、信長は客人をもてなす役割の
光秀に話を聞くも、「わかりませぬ」と言う。すると信長は、光秀が誰かを庇
っていると思い逆上。平手打ちをした後、「答えよ !」と何度も蹴る殴るの暴
行を加えたうえで最後には跳び蹴りをかまして、光秀は壁に叩きつけられた。
信長は切れると自制の効かない性格で、誰も止められない暴走の虎となった。




           燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年作)


「織田信長の絶頂だった「馬揃え」で起きた“変事”」

天正9年(1581)2月28日、織田信長は京都で大規模な「馬揃え」を催した。
「馬揃え」とは、名馬や精鋭部隊を集めての一種の軍事パレードで、イエズス
会宣教師のルイス・フロイスによれば、参加者は13万人を超え、20万人もの群
衆が集まったという。
武将たちは可能なかぎり華やかに着飾って参加するように命じられていた。
そこで、たとえばキリシタン大名たちは、ロザリオや大きな十字架、西洋風の
マント、十字架がついた馬覆い、金の房がつきローマ字が染め抜かれた真っ赤
な旗、といったいでたちを競い合った。
 信長はというと、金紗という唐織物を身に着け、後ろに花を挿した帽子をか
ぶり、紅梅に白の模様の華麗な小袖をまとい、イエズス会の巡察師アレッサン
ドロ・ヴァリニャーノから贈られた黄金の装飾がほどこされた真っ赤な椅子に
座った。




 イエズス会の軍事パレードに参加した信長





「本能寺の変の原因」
…その武将とは四国の覇者、長宗我部元親(磯部寛之)だった。そして、四国
を制覇した折には、土佐のうまい魚を馳走すると小一郎に約束する。この時点で、
元親は四国を平定することに意欲満々だ。
ところが、少しすると織田信長明智光秀を呼んで、「元親による四国平定を認
めない」と言い渡す。光秀は大いに困惑するが、信長は光秀にこう伝えた。
「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」
「変事の予兆」
馬揃えから1年3カ月後の天正10年(1582)6月2日に起きた「本能寺の変」
原因としては、現在、この「四国説」がもっとも有力視されているのである。
信長の見事なまでの手のひら返し。
長宗我部元親は、この馬揃えに5年余りさかのぼる天正3年(1575)9月、四万
十川の戦いで土佐一条氏を破り、土佐一国を完全に統一していた。次はいよいよ
四国全土の攻略だったが、そこで元親に手を差し伸べたのが信長だった。





                               本 能 寺 の 変 の 死 闘





それは信長一流の戦略にもとづいていた。そのころ信長は、大坂本願寺と戦って
いたが、阿波の三好氏が物資を搬入するなど、本願寺を後方支援することに手を
焼いていた。そこで元親を助け、三好氏を討伐させようと考えたのである。
天正6年(1578)10月には、元親が四国全土を攻略することを容認し、その嫡男
「信」の1文字をあたえて信親と名乗らせた。
このとき元親の取次を務めたのが明智光秀だった。元親の事績を記した『元親紀』
によれば元親の妻は、光秀の重臣として知られる斎藤利三の義理の妹だったため、
光秀が取次に選ばれたのだという。
以後、光秀は一貫して元親の取次を務めたが、天正8年(1580)閏3月、信長が
10年も争ってきた本願寺との和睦が成立し、同年8月には宗主の顕如が大坂から
退却した。そうなると、四国全土を制覇しようという元親は一転して、信長には、
危険な存在になってしまった。
「間に挟まれた明智光秀の苦悩」
信長元親を危険視するようになった理由は、もう一つあった。
「豊臣兄弟!」でも描かれているように、羽柴秀吉は、播磨(兵庫県南西部)を、
弟の秀長は、但馬(兵庫県北部)を平定し、さらに淡路島も制圧して、播磨灘の
制海権を獲得した。その過程で秀吉は、三好家も調略して服属させていた。そう
なると信長にとって、もはや長宗我部氏の力を借りる必要はまったくなかった。
そこで信長は、天正9年(1581)9月頃、光秀を通じて元親に、支配地域は土佐
のほかに、阿波の南半分だけで我慢するように伝えている
だが、いまさらそんなことをいわれて、元親が納得するはずもない。
3年前に四国全土を攻略していいといわれ、まさに実行中なのだ。
抵抗したが信長にとっては、自分の決定に従わないことほどけしからぬことはない。





左   15代将軍・足利義昭。
右・土佐を拠点に四国を支配していた長宗我部元親は信長と対立していた。




最終的に信長は、元親の敵で、少し前まで信長の敵でもあった三好康長に、阿波
一国を統治させることに決める。そして、天正10年(1582)1月、光秀に命じて
元親に、当初、打診した阿波の南半分もあきらめ「領国は土佐一国」とするよう
に伝えさせた。信長と元親のあいだに立って、苦慮したのは光秀だった。信長の
道理に合わない要求を、次から次へと元親に伝えさせられ、しかも、元親からは
色よい返事がもらえない。とくに「領国は土佐一国」と伝えてからは、返事自体
をもらえなくなってしまった。
だが光秀も放置はできない。元親が納得しなければ、自分の身が危うくなりかね
ないからである。光秀は元親に、信長の命令に従わなければ長宗我部家が滅亡さ
せられる、と伝えて必死の説得を試みた。
ところが、こうして説得している最中に、信長は元親征伐を兼ねた四国への出兵
を決定してしまう。さすがに光秀は、立場がなくなったことだろう。
四国出兵の総大将は、信長の三男の信孝で、出兵が予定されていた日は6月3日。
すなわち、「本能寺の変」の翌日だった。元親の取次として立場を失った光秀が、
このままでは自分および明智家にも、どんな処分が下されるかわからないと悲観
しても不思議はない。その挙句、四国出兵の前日に信長と信忠父子を襲った、と
いうのが「四国説」である。



           「饗 応 役  解 任 事 件」
本能寺の変の決め手になったか、家康饗応役に信長が激怒。




「本能寺の変の黒幕」 
京都本能寺に滞在中の織田信長を襲撃したのは誰かという黒幕説も飛び交い、
「秀吉」「家康」「朝廷」「足利義昭」など複数の候補が的にされた。

1. 秀吉黒幕説
本能寺の変が起きた際、秀吉は毛利氏との戦い(備中高松城の戦い)の最中で
あったにもかかわらず、いち早く信長の死を察知して和睦を結び、驚異的な速
さで京都へ引き返して光秀を討ち果たした。あまりにも手際が良すぎたため、
「裏で光秀を唆したのではないか」と疑われた。 

2. 家康黒幕説「饗応役解任事件」
 信長の同盟者であった家康だが、以前に信長の命令で妻と長男を自害させられ
ており、強い恨みを持っていたとされ、光秀と裏で共謀し、信長を討たせたと
する説。変の直後に堺に滞在していた家康が、わずかな供を連れて命からがら三
河へ逃げ帰った「伊賀越え」も暗殺計画が漏れるのを恐れたためだと解釈される。 
3. 朝廷黒幕説
織田信長は朝廷の権威を脅し、神格化や天皇の地位をも凌ぐような独裁的な振る
舞いを見せていたため、朝廷(正親町天皇近衛前久ら)が危機感を抱き、光秀
に排除を命じたという説。 
4. 将軍義昭黒幕説
足利義昭本人および、義昭を支援していた毛利氏側の記録。





             中央に光秀の首




「光秀本能寺急襲成功から自らの死まで」
6月2日   本能寺の変。明智光秀が本能寺と二条新御所を急襲し、
       信長・信忠父子を自害に追い込む。
6月3日    夜~翌朝の間に本能寺の変報届く。
       信長の死をしらず安国寺恵瓊と停戦交渉開始。
6月4日         信長の死を秘して毛利輝元と和議。高松城主清水宗治切腹
          夕刻、毛利方に本能寺の変報が届く。
6月5日         高松退陣、備前野殿を経て沼城へ
6月6日         中国大返しを開始。実際は、秀吉先陣が姫路城に到着。
6月7日         沼城-姫路城間70km、全行程200km中92km踏破。     
          朝廷が勅使吉田兼見を安土に送り、光秀の勝利を祝賀
6月8日         光秀坂本城に帰還。秀吉大行軍の情報を得る。
6月9日         姫路城を出発。
          姫路城-明石間35km、全行程200km中127 km踏破。
          高山右近より光秀の動向を確認。足利義昭、自らの京都
          入りを吉川元春父子・小早川隆景に命令。
6月10日       兵庫に到着。明石-兵庫間18km。全行程200km中145 km踏破。
          筒井順慶の出陣を促すため洞ヶ峠に滞陣。
6月11日        尼崎に到着。兵庫-尼崎間26km。全行程200km中171km踏破
6月12日       富田に到着。尼崎-富田間23km。全行程200km中194km踏破。
6月13日       山崎に到着。富田-山崎間6km、全行程200km踏破。
        「中国大返し」を完了。織田信孝と対面。
          光秀軍と山崎で決戦して勝利。光秀は勝竜寺城より坂本城
          へ退却中、「落ち武者狩り」に遭い小栗栖で死去する。
6月14日       秀吉、三井寺在陣中に光秀の死を知る。
          堀秀政隊、明智秀満軍を撃破。坂本城落城する。
光秀たった13日間の命であった。

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豊臣兄弟ー本能寺の変前夜の信長家臣の序列

番号に表情があるシンフォニー  阪部文子






          『大多春永城塀修復の図』

右側の大多春永が織田信長、中央に着座するのが秀吉。
秀吉は小人として信長に奉公していて、清須城の塀修理での功績
により「足軽」という下級武士に取り立てられた。



豊臣兄弟ー本能寺の変前夜の信長家臣の序列






           「鳥 取 城 跡」

防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから「日本にかくれなき名山」
と評され、鳥取城を織田信長は「堅固な名城」と讃えた。
鳥取城は、羽柴秀吉の兵糧攻めの舞台になった。





秀吉・秀長兄弟は天正9年(1581)には「鳥取城」を攻略し、翌10年3月には
満を持して、山陽方面から毛利領への本格的な侵攻を開始する。
信長五男で秀吉の養子となっていた秀勝に初陣を飾らせ、備前から備中へ侵攻。
毛利方の拠点である「冠山城」「宮地山城」などを相次いで攻略し、羽柴軍の
威容を見せつけた。5月に入ってからは、清水宗治が籠城する「高松城」の水
攻めを開始する。この年の3月、信長は、甲斐の武田氏を滅ぼしており、この
情報を知った毛利家中は危機感を募らせており、高松城を救援できなければ滅
亡する恐れさえあった。




幻を打ち消すように鹿おどし  山本昌乃





このため毛利氏は全力を挙げて来援したが、秀吉方の鉄壁な攻囲陣を前に有効
な軍事作戦を展開できなかった。毛利水軍や身内からも離反者が出る始末で、
秀吉単独でも対抗できない状態であり、これに信長が親征すれば武田氏のよう
に滅亡する可能性も高く、秀吉との間で講和が持ち上がっていたようである。
その矢先に、「本能寺の変」の急報がもたらされた。
秀吉はすぐさま和議を調え、「中国大返し」を決行し、光秀軍を打ち破り弔い
合戦の主力となった。




追い風に消されたぼくの新記録  山田順啓






           「清 須 会 議」

信長が本能寺で倒れた後、織田家の後継者と領地配分を決定するため
清須城で開かれた会議で、秀吉が巧みな根回しによって主導権を握り、
天下人への足がかりを築くこととなった。





「ここで本能寺の変時点での織田家中の序列をみてみよう」
信盛追放後、織田家中で最高位だったのは勝家だろう。
越前・加賀に加え能登越中の大半を支配下に置き、実子権六には、信長の息女
をもらい受けており、一門衆にも列していた。
秀吉も、信長の実子秀勝を養子としており、一門衆であった。
外様の光秀は、畿内で総奉行的な役割を果たすようになっており、信長の甥の
信重に息女を嫁がせていた。ただ血縁関係からいえば、勝家や秀吉よりも一段
下だった。




負けたんじゃない譲ってあげただけ  高野末次





武田攻めの論功行賞で、上野一国相当を拝領した滝川一益は、東国から東北に
かけての広大な領域の管轄を任され、織田家中では、最大エリアを担当するま
でに出世していた。整理すると、織田家中では、分限や信長との関係を勘案す
ると、勝家、次いで秀吉・秀長兄弟、そして一益、光秀の順だったろう。
こうした織田家中の序列は、「本能寺の変」で一変した。主君信長の敵討ちに
三男信孝を総大将に据えた秀吉・秀長兄弟の武功によって、その地位は逆転し、
秀吉が「清須会議」で主導権を握り、信長の後継者に成長していくことになる。
そのとき徳川家康はなにをしていた。




ぶらさがると奇跡が見えるナマケモノ  井上恵津子






       「徳川家康・武田信玄合戦図

左に家康、信玄。家康は信玄との合戦に一度も勝てなかった。
「家康の資質」
明治の歴史家・山路愛山は、主著『徳川家康』において家康の最大の資質を
「時勢の推移に適応する順応性」と「偉大なる凡人としての政治的現実主義」
と捉えました。





『家康は天下人の器ではない?』 「蒲生氏郷の家康評」 
氏郷とその重臣との談話より
 「太閤亡き後は、関白殿(秀次=秀吉の甥)に皆は従いましょうか」
A 「誰があの愚人に従う者がいようか」と答えた。
 「天下の主となる人は誰でしょうか?」。
 「加賀の又左衛門なり」
加賀の又左衛門とは、前田利家のこと、加賀百万石の祖である。
 「又左衛門が天下を得ない場合は、次は誰が天下を得ましょうや」
 「又左衛門が天下を得ないのならば、我が天下を得る」
 「では、東照宮(家康)はどうでしょうか?」
 「家康は、天下を得べきに非ず。家康は天下人となるような器ではない」
 「なぜでしょうか?」
 「家康は、人に過分に知行を与える器量がないからだ。
   利家は人に過分に知行を与える、よって、利家こそ天下を得る」



素面でも小石にこける今の僕  靍田寿子




彼(家康)は、蒲生氏郷より「人に知行を過分に与ふる器量なきが故に天下の
主になり得べきものに非ず、と云はれたり」と記述されている。
その上で、次のような逸話を記述しています。さらに愛山は、
「長久手の戦に池田信輝の首級を得たる永井直勝に織田信雄は、五千石を与へ
んと欲したり。されど彼は、家康の家人に左程の賞行ひしこといまだ候はず。
斯くして彼は僅に千石を与へしのみ」と。つまり、秀吉との長久手の合戦(15
84年)の際に武功があった永井直勝に対し、織田信雄(信長次男)は「五千石
を与える」ことを提案。ところが家康は「家康の家臣で、そのような恩賞を与
えたことはない」と言い、僅か千石しか永井に与えなかったという。




大きい声出しているのは眠いから  前中一晃




こうした逸話を見ていたら、家康は吝嗇なようにも見えるが、愛山「さにあら
ず」と主張。なぜか。歴史家山路愛山は述べます。
「東軍に加わりたる豊臣氏の諸将に対しては、殆んど賜与に濫なりと云ふべき程
に加封したり。則ち二十万石の清須を領したる福島正則が三十万石を加へて五十
万石の安芸備後両国の主となり、十五万石の吉田(三河)を領したる池田輝政が、
三十七万石を増して五十二万石の播磨を得たるが如き、皆此例なり」と。つまり、
関ヶ原の戦い(1600年)において、東軍(徳川方)に加勢した諸将(福島正則
池田輝政)を戦後に大幅に加増しているということである。
               「歴史家・山路愛山の著書『徳川家康』ゟ」




僕よりも清らかであるホタルイカ  新家完司

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ニュースー本能寺直前の秀吉の不可逆的嘘


ニュースー調略を使いこなして敵を欺け


調略(騙し)
調略とは、敵を欺くことで戦国時代の戦術でした。
豊臣秀吉はこの口任せでいくつもの城を落としてきた。
敵の城に忍び込んだ忍者が、ある夜、城の重臣の部屋を訪れました。
「お主、何者だ!」忍者は懐から小判を一枚取り出し、机に置きました。
「ご覧の通り、調略の者でござる。これを差し上げますので、わが殿に味方し
 ていただけませんか」
重臣はしばらく小判を見つめ、ニヤリと笑って言いました。
「はっはっは、よかろう。だが、ここでワシが寝返ったと知れたら命がない。
 どうやって裏切ったとごまかせばいい?」
忍者は答えました。
「簡単でござる。明日の戦の最中、わざと大声で『敵に回ったー!』と叫んで
逃げ出せば、誰も本気で怒りませぬ」
翌日、戦が始まりました。その重臣は最前線に躍り出ると、大声で叫びました。
「えーい、ここまでじゃ! わしは今日から忍びの者の味方じゃーっ!」
それを聞いた総大将が呆れて言いました。
「あいつ、わざわざ『調略された』ことを自分でバラしおって」





 
   「高松城 水攻めの図」 馬上で戦況を見ているのは秀吉。





「毛利攻め」
毛利攻めに向かう秀吉は、信長より付けられた与力の蜂須賀正勝と播磨の国人
黒田孝高に、毛利水軍の乃美宗勝や能島村上武吉をはじめ、中国地方の国人
ら調略にあたらせた。
天正10年5月、秀吉は、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、堤を
築いて足守川の水を流し込んで、水攻めを開始した。備中が秀吉の手に帰すと、
毛利方が擁立する将軍・足利義昭の御座所である鞆(とも)にも危険が及ぶた
め、毛利輝元は叔父の吉川元春小早川隆景を率い、救護に駆けつけた。
鳥取城攻めと異なり、毛利一族が揃って出陣したことを受け、秀吉は、毛利氏
との一大合戦に備え、信長に救援を求めた。信長は四国親政の方針を転換して、
備中に向かうこととし、明智光秀にも援軍を命じている。
秀吉の調略により、毛利方は内部から瓦解する寸前であった。
ところが、6月2日に「本能寺の変」が起こり、織田方が先に崩壊する危険に
陥った。光秀により信長・信忠父子が討たれた、という情報を受け取った秀吉
は毛利方の使僧である安国寺恵瓊と和睦交渉に入った。
恵瓊毛利輝元に交渉の経過を知らせることなく、清水宗治とのみ交渉し和睦
をまとめあげた。4日に宗治の自害を見届けた秀吉は、輝元らの身上を信長
執り成すことを恵瓊に約束し、城を摂取すると撤退を開始する。
そして、大阪にいる織田信孝や丹羽長秀の軍勢と合流し、光秀との決戦に向う。
秀吉・秀長兄弟は単独で、信長にとって最大の敵である将軍・足利義昭および
毛利輝元を追い詰めていた。備中高松城周辺で輝元と信長の直接対決が行われ
れば、毛利氏も武田氏同様の末路を辿ったであろう。
 そして信長の捕虜となった将軍義昭は、将軍を返上させられた可能性が高い。
秀吉・秀長のお膳立ては、そうした次元のものであった。
しかし、それゆえに信長は、本来、長宗我部元親との取次を務め、四国に渡海
すべき光秀を中国戦線に投入し、光秀の面目を潰したことで、その謀反を招い
てしまった。






   秀吉が「本能寺の変」翌日に毛利方重臣を調略した手紙
1582年6月2日、京都で本能寺の変が起き、織田信長が自害しました。
秀吉がその報せを掴んだのは、翌6月3日の夜です。
秀吉は驚愕したものの、即座に以下の隠蔽工作を行いました。





「秀吉の迅速な動き」
① 使者の捕縛
明智光秀が毛利氏へ送った「信長を討ったので挟み撃ちにしよう」という密使
を、秀吉の軍勢が偶然捕らえる。
② 情報統制
そして秀吉は、陣中からの情報漏洩を完全に防ぎ、毛利軍に信長の死が絶対に
伝わらないよう包囲網を固めた。
③ 偽りの強気
和睦を急ぐ信長の死を知った秀吉は、一刻も早く京都へ引き返して明智光秀
討ちたい状況である。しかし、焦りを見せれば、毛利軍に怪しまれてしまう。
そこで秀吉は「あえて強気の姿勢」を演じた。
④ 条件の譲歩
それまで毛利側に厳しく要求していた「領土割譲(五カ国)」の条件を「三カ
国」へと突然緩めた。
⑤ 城主の切腹を急がせる
水攻めで孤立していた備中高松城の城主・清水宗治に対し、「宗治の命ひとつ
で城兵を助ける」と持ちかけ、6月4日に切腹をさせた。
これにより、後戻りできない状況を瞬時に作り上げたのである。






            毛 利 三 兄 弟
左から長男・毛利隆元・次男・吉川元春・三男・小早川隆景


      毛利輝元(隆元の長男)





和睦成立の直後に即撤退6月4日の夕方までに清水宗治の切腹と毛利氏との
和睦(誓紙の交換)を完了させると、秀吉は、毛利軍に気づかれないよう、
その日の夜から不自然なほどの猛スピードで撤退を開始しました。
毛利方が「信長の死」を知ったのは、秀吉が撤退した翌日の6月5日だった。
毛利軍はなぜ追撃しなかったのか
騙されたと知った毛利軍(吉川元春ら)は激怒し、秀吉軍を追撃しようと主張
したが、断念せざるを得ない理由があった。
① 小早川隆景の反対
「一度交わした和睦の誓紙を破るのは武士の恥」とし、また「追撃しても秀吉
の殿(しんがり)部隊に返り討ちに遭う恐れがある」と冷静に判断したこと。
② 秀吉の根回し
秀吉は、撤退ルートの確保や、毛利軍が追撃してきた場合の伏兵・物資の準備
を怠ってはいなかった。その他の毛利攻めにおける「騙し(調略)」備中高松
城の戦い以外でも、秀吉はエグいほどの謀略で、毛利方を切り崩していたので
ある。
(強かな秀吉の罠に嵌らなかった隆景の深慮がよかったのかも知れない)











戦いの前に、秀吉は商人を遣わして鳥取城周辺の米を高値で買い占めていた。
城内が極端な食糧不足(飢餓地獄)に陥ることを分かっておきながら、一見親
切に米を買うふりをして、騙し討ちにする騙しである。。


③ 宇喜多直家の寝返り(1579)
毛利方の主力であった備前の宇喜多直家を、巧妙な調略(裏取引)によって織
田方に寝返らせ、毛利の防衛網を内側から崩壊させた。
 これらの作戦は黒田官兵衛の進言によるもので、結果的に秀吉の毛利攻めは、
相手の裏をかく「騙し方」が功を奏したのである。


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ニュースー詐欺に注意

ニュースー多発する詐欺




                      カ ラ ス と キ ツ ネ





「甘いコトバにご注意を」
「カモ」は、なぜ人を騙す意味でこの言葉が使われるようになったか? 
それは、鴨が「捕まえやすく、美味しい鳥」だったからです。 
昔の人にとって「鴨は、簡単に手に入り、大きな利益が得られる存在だった」
のでした。 このことから「簡単に騙される人」「いいように使える人」から
【カモ】という意味で使われるようになりました。
「サギ」
因幡の白兎…。古くから白兎のことを「サギ」と呼ぶことがあり、ワニを騙して
海を渡ろうとした神話のウサギの行動をさして、「騙す=さぎ」と呼ばれるよう
になったという、一説があります。
「騙すつもりが騙された」
「騙すつもりが騙された」という古典的な小咄があります。
ある男、騙騙されやすい田舎者をカモにして、金品を巻き上げようと企みまし
た。男は道端でわざと高価そうな財布を落とし、物陰から様子を伺います。
案の定、通りかかった田舎者がその財布を拾いました。
男はすかさず駆け寄り、「おいおい、その財布は俺が今落としたものだ。半分
よこせ」と脅します。すると田舎者はニヤリと笑って、返答しました。
「何を言ってるんだい。この財布は空っぽだよ。落とした財布の中身を分ける
なんて話があるかい!」正直者が正直者でないのを騙すのだから簡単なのだ。





  なりすましメールに関する注意喚起




(巧妙化する特殊詐欺やSNS型投資・ロマンス詐欺、ニセ警察官詐欺や還付
金詐欺、なりすまし、などの被害が多発しています。
万が一「怪しい」と思った場合は、お金を支払う前に、警察相談専用電話
日本サイバー犯罪対策センタへ相談することが推奨されています)
現在、最も件数が多い詐欺は、警察官や検察官、役所の職員などを装って、
「あなたの口座が悪用されている」「還付金がある」などと電話をかけ、言
葉巧みに現金をだまし取る「オレオレ型特殊詐欺」「ニセ警察官詐欺や還付
金詐
欺」などです。


「ニセ警察官詐欺」
手口: 警察官や検察官を名乗り「あなたの口座が犯罪に使われている」「逮捕
状が出ている」
などと不安を煽り、現金を振り込ませたり、キャッシュカード
をだまし取ったりします。ビデオ通話で、偽の警察手帳を見せる巧妙な手口も
確認されています。 
「オレオレ詐欺」
手口: 息子や孫などの親族を名乗り「会社の金を使い込んだ」「トラブルでお
金が必要になった」
などと緊急性を装って現金を要求する手口です。 
「預貯金・キャッシュカード詐欺」
銀行協会や百貨店などの職員を名乗り「カードが不正利用されているので交換
が必要」
などと嘘をついて、暗証番号を聞き出し、カードをすり替えて盗み出
します。 
「還付金詐欺」
手口: 市役所や税務署の職員を名乗り「医療費や保険料の払い戻しがある」と、
ATMへ誘導し、携帯電話で指示を出しながら、実際には犯人の口座へ送金させ
る手口です。 
「SNS型投資・ロマンス詐欺」
SNSやマッチングアプリで知り合った相手から、架空の投資話を持ちかけられ
たり、恋愛感情や親近感を利用されて、お金をだまし取られる被害が全世代で急
増しています。 






               壺 算





落語「壺算」
引っ越して来た家にへっついが有り、横に水壺があったが、棚から布袋さんが
落ちて、水壺が割れてしまった。この際だから二荷入りの壺(大きい壺に買い
換えることになったが、兄貴分は買い物が上手いので、一緒に行ってもらうこ
とに、おうこを持って出掛けた。
(「おうこ」=両端に物を吊るして肩に担ぐための「天秤棒」のこと)
『壺算』とは、買い物上手の男が、巧妙な計算トリックを使って、瀬戸物屋の
店主から水壺を安く買い叩く(騙し取る)という滑稽噺です。

二人が瀬戸物町にやって来た。店に入る前に足元を見られないように注意する。
「壺はここにも裏にも並んでいるからご自由にどうぞ」と言われたが、相棒は、
着物の裾を引きずっている。
「どうした?」
「足元見られないように」
「買い物というのは帰ぇってから、あっちの方が良かったというものだから、
 今よーく見ておけ」
「この水壺どう見ても気に入らないよ」
「何処が気に入らないんだ」
「壺というのは、口が開いていて、底が有るから水が溜まるんで、この水瓶は
 口が塞がっていて、底が開いている」
「それは壺が逆さまに置いてあるからだ」
「もしもし、お客さん店先で喧嘩なさらないように」
「頼りない男だから、嫁さんに頼まれてきた。あっさりと値段はいくらだ」
「軒並み同業者で、朝商いのこって、あんさん達のこって、せいぜい勉強して、
 オマケ申して、ドンと張り込んだところが、3円50銭が1文もまかりませ
 ん」
「途中まで負けるのかと思ったぜ。それでは『軒並み同業者で無く、朝商いで
 無くて、あんさん達の事でなく、せいぜい勉強しないで、オマケせんでドン
 と張り込まなかったら』、これはいくらなんだ」
「3円50銭です」
「同じじゃねぇか。50銭は負けなさいよ」
「それは手荒い」
「おうこまで持ってきているんだ。外に頼んで運んでもらったら、余計に金が
 掛かるだろ。そこを考えてみなよ。その上、長屋に帰ったら長屋中に、ここ
 で水壺は、買いなさいと宣伝してやるぜ」
「あんさんは買い物が上手い。では3円で…良いです」
連れに3円出させて、差し担いにして担ぎ出したが、相棒は、二荷入りの壺を
買わなければ嫁さんに怒られるという。
「グルッと回れば二荷入りの壺になる」
と兄貴は言い、先程の店に戻ってきた。






     まんまとおうこで壺を担いで帰る兄貴と相棒





「覚えていてくれたな。2荷入りの壺が欲しかったんだ。良いかい。では2荷
入りの壺を持って帰れるように縄を掛けておいてくれ。ところでいくらだ」
「1かいりの壺が3円50銭で倍の7円になり…あんさんは買い物が上手いな。
6円でようございます」
「分かりやすくてイイ。ところでさっき3円渡したな」
「ここにまだ置いたままになっています」
「で、この1荷入りの壺下取りしてくれるな。いくらで下取りしてくれるな」
番頭一瞬聞き間違えたのかと思って聞き直した。
「だから、この壺をいくらで下取りしてくれるな」
「さ…3円です」
「そこの現金とこの下取りした3円で、持って帰って良いな」
「…もう一度言ってもらえますか」
「ちゃんと聞いてろよ。そこに置いてある3円と、下取りした壺3円で6円だ。
 2荷入りの壺が6円だから持って帰っても良いな。分からんか」
「分かりました。どうぞお持ち帰り下さい」
相棒は分かったので可笑しくてしょうがない。荷を担いでも笑っている。
「逃げるように早く行け」
番頭気が付いたのか呼び戻した。
「どうも、3円しか無いんですが」
「お前、この1荷入りの壺を下取りしてくれるんじゃ無かったのか」
番頭、手元の現金と壺をみて
「1荷入りの壺を入れるのを忘れていました。どうぞお持ち帰り下さい」。
担ぎ出すと番頭、また戻ってくれと呼び戻した。
「どう考えても勘定が足りません」、
「おい、店を出ると、勘定が足らん、金が無いと言うのでは、我々が盗んでいる
 ようなもんだ」
「どうしても勘定が合わないんです」、
「それだったらソロバンを持って来な」、
「持ってきましがどの様に…」
「まず3円支払ったな、それを入れろ。その次に1荷入りの壺の3円を入れて
 みろ。6円になるだろう」
「あとの3円を入れて良いものかどうか」
「引き取るんだろう。だったら入れんかい。見ろ6円になるだろう」
何回やっても6円になるが、銭が足らない。
丁稚に大きいソロバンを持って来させた。大きいソロバンでも答えは同じ。
「6円だろう」
「あんさんが、ゴチャゴチャ言うから分からなくなるんです」
店先で別のお客さんが値段の交渉を始めたが、ゴチャゴチャ言うんだったら
売らない」
と客を追い返した。
「3円と3円で6円のことぐらい分からんのか」
「忠助さんはいないのか。出掛けているのか。一番大変なときに。
忠助さんが一番ソロバンが上手いのに」
まだ大きなソロバンで3+3=6の計算をしている。
「私も長い間商いをしていますけれど、こんなややっこしい壺は初めてです」、
「そうじゃろう。そこがこちらの思う壺だ」。


          カラスとキツネ





「賢いキツネと見栄っ張りのカラスの物語」
美味しそうなチーズを手に入れたカラス。そこへお腹を空かせたキツネがやっ
てきて、甘いコトバでカラスをほめちぎります。
ある日のこと。カラスがおいしそうなチーズの塊を見つけて、ゆっくり食べよ
うと木の枝にとまりました。そこへ一匹のキツネが通りかかりました。
キツネは、カラスのくちばしにあるごちそうを見つけると、お腹が グゥ〜 と
鳴りました。木の上までは手が届かないとわかっていたので、キツネは持ち前の
賢い頭を使って、ある作戦を思いつきました。
キツネは木の上を見上げて、優しく甘い声で話しかけました。
「おはようございます、カラスさん。あなたの羽は、なんてキラキラして美しい
んでしょう!こんなに立派で上品な羽、今まで見たことがありませんよ」
突然ほめられたカラスはびっくりして、少し首をかしげました。
キツネはさらに言葉を続けます。
「その美しい姿と同じくらい、きっと声も素晴らしいのでしょうね。
森の中で一番素敵なあなたのお歌を、どうか私に聞かせてくれませんか?」
それを聞いたカラスは、すっかり得意顔になりました。
自分の素晴らしい歌声を自慢したくてたまりません。カラスが一番の大きな声で
カーッ! と鳴こうとくちばしを開いたその瞬間……。
くわえていたチーズが ポロリ と落ちてしまいました。キツネは地面に落ちる前に、
それを パクリ とくわえ取りました。
イソップの寓話より、言葉の裏にある本当の気持ちに気づくことの大切さを教えて
くれる、古くから伝わるお話しでした。

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