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川柳的逍遥 人の世の一家言
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昭と和の間にそっと一呼吸  上田和宏





         画像は明治中期んも大相撲の様子
審判は四本柱の内側に座している。


昭和の真ん中は栃若時代、名人と謳われた「二人の呼出し」がいた。
一人は、名門・出羽海部屋所属の伝説的な呼出しは「太郎」である。
11歳で入門し、バチさばきと美声で観客を魅了した名人芸の持ち主で、
角界初の「生存者叙勲」を受けた功労者であり。衆議院の議事進行係が、
通称「呼び出し太郎」と呼ばれるほどに名を馳せた。
そして太郎から少し遅れて、破格の美声の持ち主といわれ登場したのが
「小鉄」である。伊勢ケ浜部屋所属、明治31年相撲界に入った。
小鉄が呼び上げのために土俵に上がると、あの騒々しい場内が、その声
を聞き漏らすまいと館内が静まり返ったという。
加えて、その太鼓は不世出とされた。あれほどのバチさばきは二度と聴
けまいといわれる。昭和44年には、角界初の生存者叙勲に輝いた。
それを祝してドイツ文学者が川柳に残している。



しょうゆ樽叩いてもらう勲六等  高橋義孝






              呼 出 し 小 鉄





宵越しの金を持たない太郎は、借金の形に商売道具の太鼓を質に入れた
ことがある。代わりに空のしょうゆ樽をたたいたのだが、その腕前ゆえ、
しばらく周囲に気づかれなかったという。
現在、呼出の名前は番付に載っている。この原点は太郎の力である。
昭和24年、太郎が「名前を載せてほいい」と協会に願い出て受けいれ
られたのだ。しかし太郎が定年になると、また番付から消された。
これは平成6年に復活した。
現実に、呼出は名前が載って当然の、実に多岐にわたる仕事をしている。
行司と同様に、呼出なしでは大相撲は成立しない。


さくらさくらさくらは平仮名が似合う  雨森茂樹






       式守伊之助と呼出・弥吉


大相撲ー呼出し



さて相撲は「呼び出し」から始まる。長く相撲を愛している方ならどなた
もご存じの、しつこくて申し訳ないが、あの栃若時代に部類の美声の持ち主
「呼出小鉄がいた。館内に響き渡る透き通った声に、観客は咳一つしない
その緊張感の中で、両力士は、土俵に上がるのだった。
これから対戦する両者の胸中を、観客は瞠目するのである。
小鉄の声は、それほどの価値を持っていた。
おそらく小鉄に呼び上げられたいと、多くの力士は稽古に励んだことだろう。
なぜなら名匠と称されてから彼は、横綱・大関しか呼出さなかったのだから。



守ります自分のペース頑なに  前中一晃





    呼出・利樹之丞





半世紀以上経た今、小鉄のごとく透る声の呼び出しさんが現れた。
利樹之丞さんである。高砂部屋所属の52歳、昭和64年に初土俵を踏む。
小鉄のような高音域の「呼び上げ」で取り組みを盛り上げている。
現在幕内格で年功序列の世界であり、小鉄になれるかは未知数だが、よく
よく、精進してそうなってほしい。相撲が力士だけのものではないことを、
知らしめてほしいものである。
呼出しの仕事で一番楽しいことはと聞かれた利樹之丞さん。
「やはり呼び上げですね。呼出しの一番の見せ場です。これから取り組む
力士には、声で力をつけて、また会場を盛り上げることができる、そんな
呼び上げを心掛けています」と答えた。



僥倖をハシビロコウは待っている  岸井ふさゑ


 



       百周年記念行事
この日、奏名(ふしょう)役を幸司と利樹之丞が務めた



「呼出しの歴史」
呼出しは、奈良・平安時代のころには存在していたと言われている。
記紀神話の力比べから、技芸による年占儀式へ、そして宮中行事「相撲節
会」
にあるともされる。とすると千三百年の歴史を持つことになる。
「奈良から平安時代にかけての相撲節会の役職であった「奏名(ふしょう)」
は、相撲人の名を呼んでいたようで、それが呼出しのはじまりとも言われて

いますね」と、利樹之丞さんが教えてくれた。
「百周年場所において奏名」=相撲人の名を読み上げる、現在の呼出し役。
この日は幸司と利樹之丞が務めた。
相撲長(すまいのおさ)=相撲節会で相撲人を世話する役割。
この日は童相撲の子供たちを先導しました。富士夫啓輔が務めました。




両の手ですくいきれない恩がある   蒼井 環



「さらに利樹之丞さん」
「江戸のころは、取り組みを裁く行司に対して呼び上げを行う「前行司」
という職がありました。ほかにも、四股名を呼び上げる人を、「ふれ」、
「名乗り上げ」
とする記述があり、それが呼出しだった
と言われています。江戸は寛政(1789~1801)年間に作られた番付には、
呼出しの名前が載っています。それから載ったり載らなかったりで、昭和
24年に呼出しの太郎さんが、理事長に提言して10年ほど記載されてい
ました。そして平成6(1994)年からは、番付表への記載が復活。
今も昔も同じでしょうが、自分の名前が番付に載っているのは励みになり
ます」。




憧れとためらい二つとも絵馬に  靍田寿子






                                       「勧 進 大 相 撲 繁 栄 之 図」

土俵の上ではまさに取り組みの真っ最中。行事や審判員、呼出の姿もあり、
土俵の下には、東西それぞれに力士が控えている.


「勧進相撲 行司と呼出」
因みに江戸相撲独特の縦番付が発行されたのは、寛永前の宝暦時代(1751
~1764年)。この頃からは、今につながる江戸相撲の制度や組織が整いは
じめた。また、錦絵にも描かれている勧進大相撲ですが、「行司」はもち
ろん「呼出し」の姿も見ることができます。幕末のころの錦絵には、裁着
袴(たっつけはかま)姿で描かれていて、今の装束とほぼ変わりません。



時の熟成だ苦言も干し柿も  三好光明



「呼出しの三大仕事」






    呼出し邦夫

十両呼び出し。高砂部屋所属。伸びのあるその声はオペラ歌手のようと評され
「邦オペラ」の愛称を持つ



① 「聞き比べが楽しい呼び上げ」
呼出しといえば、イメージするのが呼び上げです。
土俵上で白扇を広げて、次の取り組みの四股名を呼び上げる。
奇数日は東方から、偶数日は西方の力士から呼び上げる。
序の口から幕内までは、四股名は一度だけ呼び上げる「一声」で十両最後の
取り組みや三役以上の場合は、二回呼び上げる「二声」で、節回しや声の強
弱などは、それぞれのスタイルで。



今ここで大きな声を出さないと  津田照子






土俵は場所が始まる6日前から3日間の時間をかけて作られています。
土俵は機械などは一切使用されず、人の手によって作られておりまず
6.7mの正方形の中に高さ60cmになるように土を盛っていきます。

その上で小タコ、大タコ、タタキといった道具を使って人の手で土を固め
ていきます。土が固まったら、ロープを使って直径4.55mの円を作成し、
俵を埋める穴を掘っていきます。そして掘った穴に俵を埋め、最後に水を
撒きコテを使って土俵をならしていきます

ビール瓶も土俵作りに重要な役割を担っている。



② 「すべて手仕事、職人技の土俵築」
「土俵築」とは、土俵作りのこと。本場所や巡業の土俵から相撲部屋の稽古
土俵まで、土俵づくりは、呼出しの重要な役割。ちなみに国技館での土俵築
は、場所前3日間をかけて呼出し全員で行う。
まずは土台を残して20㎝ほど削り、新たな土を入れて打ち返す。
「タコ」という道具で押して土を固め、「タタキ」と呼ばれる道具で表面を
水平に。また俵を土俵に埋め込む作業では、その俵作りに欠かせないのが、
ビール瓶でビールの大瓶を使って、きれいに形を整えて、土俵に埋め込んで
いく。仕上げまで、なんとすべて手仕事なのだ。
すばらしい取り組みは、呼出しが手掛ける土俵があってこそ。土俵の土は、
埼玉で採れる「荒木田」だ。


引っ張ってくれた両手の温かさ  石塚芳華






  江戸時代の触れ太鼓の様子。「江戸両国回向院大相撲之図・太鼓」



 「相撲情緒を演出する太鼓」
相撲情緒に欠かせない櫓太鼓の音。これも呼出しの仕事である。
場所前日に叩かれる「寄せ太鼓」に始まり、場所中は櫓の上で毎日朝8時
すぎから「一番太鼓」を、弓取り式が終わると同時に「跳ね太鼓」を叩く。
跳ね太鼓は、「来場の感謝と明日の来場への願いを込めている」
(千秋楽や一日限りの巡業では叩かない)
また場所前日は、人々に相撲が始まることを知らせて回る「触れ太鼓」
呼出しが数名一組となり、相撲部屋や贔屓筋を回る。
太鼓を叩き、初日の顔触れ(取り組み)を呼出しならではの節回しで披露
する。国技館での場所開催時には、両国駅周辺の店はもちろん、日本橋の
老舗などでも、触れ太鼓チームに出くわすことも多々あるはずだ。



冬ぐもり蜜柑甘い日酸っぱい日  小川佳恵



「呼出しは縁の下の力持ち」
呼び出しは、取組前に「◯◯〜」と力士を独特な節回しで呼び上げるだけで
なく、懸賞金がかかっている取組で、企業名が入った「懸賞旗」を持って、
土俵を回り、行司に懸賞金を受け渡す役目も担っている。
また毎日の取組の合間に土俵の掃除や整備、塩の用意、土俵のメンテナンス
を行う。取組前に力士にタオル・汗拭き用の紙や布を渡すのも呼出しの仕事。
十両以上の土俵にて、制限時間いっぱいになった際に、水桶の横に座ってい
る呼出しが力士へ差し出す。
力士はタオルで体を拭いた後、綺麗に畳み呼出しに返すのが力士の礼儀です。




よく動く眼球が壁に掛けてある  宮井元伸


呼び出しの階級は、9つに分かれており、基本的には、勤続年数に基づく
年功序列の仕組みです。見習い期間を含めると、呼出しとしてのキャリア
は約3年間の養成期間から始まります。その後、経験を積みながら各階級
へと昇格していきますが、その昇格には特定の条件が定められています。





「階級と給与」
呼出にも行司や力士と同様に階級(序ノ口~最高位の立呼出まで)があり、
経験年数や実力によって役割の重要度が変わります。
その給与は、「基本給」「手当」の2つから成り立っています。
基本給は階級によって決まりますが、手当は個人の能力や勤務態度に応じ
て変動。階級が上がるにつれて、基本給だけでなく手当の額も増えていく。
このように、呼び出しは、土俵上の進行を支える重要な役割を担っており、
階級が上がるにつれて任される業務や責任も増し、それに伴い給料も上が
っていきます。



海老が二匹のった隣りの素うどん  通利一遍




階級        本棒(月給) 手当(月)
三役呼出し以上   360,000~400,000円未満
幕内呼出し   200,000~360,000円未満
十枚目呼出し   100,000~200,000円未満
幕下呼出し   42,000~100,000円未満
三段目呼出し   29,000~70,000円未満
序二段呼出し   20,000~29,000円未満
序の口呼出し以下  14,000~20,000円未満 
 
立呼出しになると、年収1,300万〜1,500万円に達するとされる。
また諸手当本場所ごとの手当や装束の補助、旅費などが別途支給されます。

青が青でありますように百年後  高橋レナ

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入念の仕切らち(埒)なや負相撲    瓢亭





           谷風梶之助 VS 小野川喜三郎  行司・木村庄之輔

行司が「かまえてッ」と何度言えども腰を下ろさない力士がいる。
駆け引きだろうが、見ている側がイライラさせられる。




大相撲ー行司の仕事






          式 守 伊 之 助




相撲の行司には、立行司(木村庄之助・式守伊之助)を筆頭に三役格、
幕内格、十両格、幕下格三段目格、序二段格、序ノ口格という八つの
格(階級)があり、昇進するにつれて裁く取組の番付や収入も変わる。
最高位の立行司は、上記の2名で、軍配の房の色や装束、履物(草履
や短刀の有無)なども階級によって異なります。




秋場所や霧の中なる幟数  山田土偶






裃の正装で土俵にあがる行司。足や身体に目をやる行司は大変なのだ。



呼び出しのあと土俵に、行司・東力士・西力士が揃い、仕切りに入ると,
「見おうてッ」と、行司が最初に発声する。立ち合いの動作に入る時は、
土俵に両手を下ろせという意味で「手を下ろしてッ」両力士の呼吸が合
わないと「まだまだッ」。制限時間がくると、「時間です」と告げた後、
「待ったなしッ」とかける。行司が軍配を正面に向けると、「はっきよ
いっ」「残ったッ」で対戦がはじまる。
これは「発気揚々」から来ているという。
「残ったッ 残ったッ」「相手はまだ土俵内に止まっている」と教え
ているのである。長い相撲になると、土俵下の時計係審判委員が、行司
「水入り」の合図を送る。




ポプラ葉の柄相撲からして弱い奴







歴史上最も長い水入り角力・(二子岳(左)-三重ノ海戦)
昭和49年秋場所11日目、10分を超える死闘の末、11年ぶりの引き分け
となった。





それを受け、行司は勝負を中断させる。力士は土俵下でまわしを締めな
おしたりして、小休止。再び土俵に上がると中断前と同じ形に組む。
これも行司の仕事で、止めた時の形を寸分違わず覚えておき、再現する
そして、審判委員と力士に異論がないかを確認した後「いいか、いいか」
と、掛け声を発する。「いい」となれば、行司は両力士のまわしを同時
にパンッと叩く。勝負再開となる。




勝角力風情なるかな乱れ髪  暁台





        行司泣かせの一番




現実には、咄嗟には判断しにくい勝負や、どちらが先に落ちたか分から
ない勝負も多い。ビデオ判定で勝っていたと思う力士の足が出ていたり
もする。
さらに相撲には『死に体』という判定が難しい体勢がある。
「死に体」について、相撲大辞典には次のように書かれている。
【体の重心を失ったり復元力がなくなって、逆転は不可能である」又は、
「それ以上相撲は取れない」と判断される体勢に陥ったときをいう。
(つまり、体が後方へ三百六十度傾き、爪先が上を向いてしまったよう
な状態)】
『生き体』がまた行司泣かせである。例えば、うっちゃりの技などで同
体で土俵を割った場合など。それでも行司は咄嗟の判断で軍配を上げな
ければならない。




一波乱相撲秋場所上位陣  良一





       勝負審判の配置図




行司の判定が、おかしいと疑念があったとき土俵下の勝負審判委員から
「もの言い」がつく。審判委員は土俵に上がり、「ただ今の勝負」につ
いて協議を行う。ビデオ再生の映像も参考にして「軍配通り」「行司差
し違え」または両者同体とみて「取り直し」が決まる。
このとき、行司は協議に参加できるが、最終判定は審判委員の権限で。
審判委員がつけた最終判定に。行司も力士も一切、口ははさめない。
「差し違え」「行司黒星」とも呼ばれ、行司にとっては屈辱である。
立行司が腰に短刀を差しているのは、差し違えたら腹を切るの覚悟を
意味している。実際には腹は切らないが、直ちに理事長に進退を伺う。
短刀は立行司しか持たないが、それだけ重い責任を背負っているのだ。




鳥渡る角力巡業待つ浦を  杉本  寛





       呼出をする行司




「こんなこともしている行司の仕事」




 十両や幕内の土俵入りの際、その番付の最下位から上位までを
淀みなく呼び上げ、出身地や所属部屋を紹介アナウンスする。
(テレビでは午後3時半頃に幕内力士が順に土俵に上がっていくと
ころやアナウンスする行司の声を聴くことができます)
ではどこに放送席があるのか?土俵下升席最前列にモニターと放送
機器があり、そこでアナウンスをしている。
② 「ただ今の決まり手は寄り切り…」など、取組の決まり手や、
勝負結果の記録 そしてその決まり手と勝負結果を記録する。







 「明日の対戦力士の名を相撲字で筆で書いた半紙(顔触れ)
を行司は、土俵中央に立ち「憚りながら明日の取組をご披露つか
まつります」と口上を述べる。
④ この「顔触れ」「毎場所の番付、を書く仕事。これは独特
の、「相撲字」という書体で書かなければならない。相撲字は字
に隙間を作らず、白いところをできるだけなくした書体で書く。
これは隙間がないほど客が入るようにという縁起が込められている
(行司は入門と同時に、相撲字をみっちりと練習させられる)
 行司や床山は、相撲部屋に所属している。地方巡業へ出る際には
親方と一緒に一足早く巡業先へ向かい、旅館や交通の手配をおこなう。
 土俵祭りの祭主、本場所の安全を祈願し、神事を執り行う。




校庭の土俵均され秋の雲  康子





 こんな水を差す一番もあった。よくみてもらいたい。
水入り前と水入り後で足の位置の違いがあった。




「行司の給料」
相撲の行司の給料は、階級(番付)によって決まります。
序ノ口格で月1.5万円〜2万円程度から始まり、最高位の立行司で
は、月40〜50万円、年収1千3百万〜1千五百万円に達すると
言われています。
下位の行司は、本給に加えて手当が支給され、高位になるほど本給
の割合が増え、地位に応じた月給が保証されますが、最高位以外は
力士に比べると待遇は低い傾向にあります

「階級別の給与目安(月額)」
序ノ口格  1万5千円~2万円未満
序二段格  2万円~2万9千円未満
三段目格  2万9千円~4万2千円未満
幕下格   4万2千円~10万円未満
十両格   10万円~20万円未満(家庭を持つ行司は月約20万円)
幕内格   20万円~36万円未満
三役格:     36万円~40万円未満
立行司   40万円~50万円未満(年収換算で1300万~1500万円)




うす闇き角力太鼓や角田川  一茶

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子を抱いて総身のすくむ相撲取り





          釈迦ヶ嶽雲右衛門の桁外れの手形


生まれたての赤ちゃんなんてすぐに壊れてしまいそうで抱くのが
恐い。病院から帰ってきたばかりの赤ん坊が、あまりにも小さく、
あまりにも壊れそうで、どうしていいかわからず、しばらくじっ
と見つめていたものだ。




大相撲ー巨漢列伝、大きな相撲取りの中でも大きな相撲取り





   等身大掛け軸 釈迦ヶ嶽雲右衛門 & 生月鯨太左衛門


「江戸時代」
 江戸時代の巨人と言えば、まず、明和7年(1770)に江戸に登場
した釈迦ヶ嶽雲右衛門である。身長7尺1寸6分(約217㎝)。
実際に土俵で相撲を取り、それなりの勝ち星を挙げているので大
きくて強い力士であった。その後、釈迦ヶ嶽雲右衛門級の巨人では
文政年間(1818年頃)に肥後熊本から大空武左衛門が現れた。





      大空武左衛門



大空は身長7尺5寸(227㎝)体重35貫500(約133㎏)という
体格で牛を跨いで通ったという伝説で「牛跨ぎ」というあだ名で呼
ばれた。錦絵にも描かれ江戸っ子の興味を煽ったが、しょせん相撲
を取る覚悟も力もなく、熊本藩候の遊び道具のようにあちこちに連
れ回され注目されることに終始して土俵に立つことは無かった。
(大空武左衛門肖像画 (クリーブランド美術館蔵)
渡邊崋山が等身大の肖像画を描いている。
その模写は早稲田大学図書館に所蔵されている。)




   柱絵 釈迦ヶ嶽 磯田湖龍斎画 (等身大の絵で228㌢)



釈迦ヶ嶽二階から目へ差し薬





       龍門好五郎




文政11年(1828)10月場所の番付に登場するのは伊予(愛媛県)
の出身・龍門好五郎。錦絵に描かれた時のサイズは身長7尺4寸分
(約225.7㎝)45貫(約168.7㎏)とある。
大坂相撲に登場して土俵入を行ったり相撲を取ったりしたようだ。
その評判を聞いて江戸の土俵に立たせようとしたが、実際には江戸
には来ず、大坂で亡くなってしまったらしい。
江戸の人々には錦絵だけの幻の巨人となってしまった。
ただ手形が残されており実在の巨人であったことは間違いない。




嬉しやと再び覚めて一眠り  徳川家康





    生月鯨太左衛門




西張出前頭に古今随一の巨人生月鯨太左衛門が登場する。
『武江年表』には、「弘化元年(天保15)4月5日「肥前平戸産
大男生月鯨太左衛門といへる相撲取来る。身の丈七尺五寸、重さ
三十六貫、掌一尺八寸、今年十八歳、十八人力と云ふ」とある。
最初は相撲は取らず土俵入のみ行い、少しずつ慣らしてから余興
のように相撲も取るようになった。弘化3年(1846)11月場所、
幕尻で5日間だけ相撲を取って、幕下力士のみを相手に3勝2敗
の成績を挙げている。またそれに先立つ弘化2年大坂で行われた
興行で、10日目千秋楽に生月の五人抜きを行った。
その姿を描いた錦絵が残っているが、名もない下位の力士5人を
相手に相撲を取る姿が描かれている。





      五人を相手にする生月鯨太左衛門


「エピソード」
江戸に来て色気づいたか、両国広小路の水茶屋の娘に懸想したが
桁外れの体格ゆえひじ鉄砲を喰らった。それが悔しいと同じ両国
の見世物小屋に出ていた一寸玉之助という小人の女性を女房にし
たという話がある。しかし、嘉永4年(1851)わずか24歳で病
没。生月鯨太左衛門は、よほど江戸で評判になったようで沢山の
浮世絵が描かれている。




春場所や相撲の熱気桜咲く





       高見山大五郎




史上初の外国出身の力士として活躍し外人力士の門戸を開けた。
身長192㌢体重205㌔でその巨体と愛嬌のあるキャラクター
で親しまれ、現役時代は、「ジェシー」の愛称で呼ばれた。
外国人として幕内優勝をも達成し関脇まで昇りつめた。




相撲番組力士の名や梅雨明け




昭和・平成を代表する主な巨漢力士





左から、大関常陸岩、 新海、 横綱常ノ花、 出羽ケ嶽 
     張出大関大ノ里、 和歌島、 関脇玉錦




「昭和時代」
出羽ヶ嶽文治郎。身長205㌢、体重も200を超えた伝説的な
巨人。関脇昇進後は、大関昇進を期待されたが、足腰の負傷など
で平幕どころか三段目まで降格となる。小さな対戦相手に土俵に
転がされる姿は同情にも嘲笑の的にもなり、悲惨だった。
当時の実況アナウンサーは「大男、総身に知恵が回りかね。ただ
いま出羽ヶ嶽登場」と実況し「名調子」ともてはやされていた。
今では完全アウトなエピソードが残る。




相撲の街両国の夜蛍飛ぶ






  大内山平吉の張り手一発で吹っ飛ぶ相手力士




大内山平吉。身長190㌢以上、四股名の「大内山」は、当時の
皇居を意味していたため、不敬罪にあたるため戦時中は本名の大
内で相撲を取った。戦後になって不敬罪が廃止されたこともあり、
昭和23年5月場所で十両昇進を果たすと念願の「大内山」を名
乗った。その後も25年1月場所で新入幕に。昭和30年3月場
所では横綱千代の山と対戦惜しくも負けるが待望の大関位をお獲
得した。ちなみに昭和天皇は、大内山の四股名を意識されていた
らしく戦後の力士の中では大内山がお気に入りだったと言われる。





引組んで猶分別や角力取  太祇






       小錦八十吉




「平成時代」
小錦八十吉。現役時代は「ダンプトラック」の異名を持ち、当時
の歴代最高体重287㌔を記録。外国出身力士の大型化のパイオ
ニア。平成30年んには体重292.6㌔を記録し、大相撲史上
最も重い力士となった。山本山龍太が日本人力士として265㌔
という最大級の体重を記録したが、小錦には届いていない。





好調は躰に任せとる相撲  良一





         曙太郎




曙太郎。外国出身初の横綱。身長203㌢、体重230㌔。曙の横
綱土俵入りは「四股の足がほとんど上がらず、この点で貴乃花と
比べて見劣りがする」などと何でもイチャモンをつけたがる人が
いたが、「四股は古来足を高く上げるものではなく、むしろ足を
高く上げ、土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとする」
とする従来の概念から一件落着となったエピソードが残る。
曙の礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」
評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける
第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆、力
士からの評価はとても高かった。
「礼儀正しさに感激しました。帰り際にもドアの前できちんとお
辞儀をし、いつも曙の悪口を言ってる私自身が恥ずかしくなる程
でした」内館牧子さんも賞賛の意を述べている。




四つに組んで贔屓の多き角力かな  子規

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蒼天に髻とけし相撲かな  石鼎





             横 綱 授 与 の 図 勝川春英



「相撲の起源」
相撲の起源はハッキリしない。『古事記』にも記述があり奈良時代にも「相
撲節会」があることから、古来の儀式の要素を有した伝統競技とも言われて
いるが鎌倉・室町時代の頃は「武家相撲」で、武術のひとつだった。
それが江戸時代になると「勧進相撲」となった。勧進とは寺社を建立したり
構内を修復するための資金集めのことで、江戸では、貞享元年(1684)に深川
八幡境内で寺社で興行が行われるようになった。
今日、大相撲の番付「蒙御免」とあるのは、寺社奉行の御免(許し)を蒙
った(受けた)の意の名残りだ。






                           江 戸 相 撲 番 付 表




おもしろきこともなき世をおもしろく  晋作




当時の人々は、江戸時代を代表する文化の一つとして大相撲を楽しみました。
このブームを牽引したのが、寛政元年(1789)にはじめて横綱土俵入り
披露した谷風梶之助小野川善三郎、そして彗星の如く江戸の相撲に登場した
雷伝為右衛門です。そして寛政3年には「上覧相撲」が催されました。




宮相撲廃れ鎮守の宮荒ぶ  秋山英身




大相撲ー横綱を追いかける




 
         谷風梶之助 VS 小野川喜三郎


「江戸のニュース」
寛政3年6月11日、将軍家斉がこの日相撲を上覧した。
上覧相撲は、江戸城吹上苑の庭で行われた。雷伝為右衛門も登場し参加力士
は百六十六名、最後の谷風小野川の大関同士の取組では、小野川が「待っ
た」をかけた吉田追風ので、小野川の「気合負け」谷風の「気合勝ち」、と
して行事の吉田追風は谷風に軍配をあげた。
寛政の改革の方針である「尚武」に叶うということもあって、相撲が歌舞伎
や遊郭と並んで、江戸の三代娯楽となったのは寛政期であり、谷風、小野川
らの名力士が現れた。仙台藩お抱え力士の二代目・谷風梶之助(四十歳、百
八十九㌢ 百六十一㌔)と、久留米藩お抱え力士の小野川喜三郎(三十二歳 
百七十八㌢ 百三十五㌔)が、相撲の司・吉田追風から横綱の伝を免許され、
注連縄を腰に富岡八幡宮の土俵上で四股を踏み、土俵入りを見せた。
(このころ、城や屋敷を建てる際の地鎮祭に、強豪力士などが注連縄をまと
い四股を踏んで、地鎮することが慣わしとなっていたが、これを吉田司家が
相撲興行の上で利あるものとして儀式として採りいれたもの。従ってこの時
点の「横綱」は、単に注連縄を意味し、土俵入りの際の免許の呼称(尊称)
に過ぎなかった)。




月のみか雨に相撲もなかりけり  松尾芭蕉






        谷風64連勝のかかった小野川との闘い




「江戸のニュース」
二月の浅草八幡場所の七日目、小野川喜三郎に土をつけられ、六十四連勝の
記録は消えた。
大相撲の黄金期は、この頃より少しあとの寛政年間(1789-1801)だが、のちに
その主役を担う谷風梶之助が、六十三連勝するという前代未聞の大記録を更
新中で、無敵だったのがこの年。これを阻む力士は一人もいないと思われて
いた。大相撲が大人気となる中、谷風の六十三連勝に土がつく。
この取組み以降、実力力士である谷風の前に人気力士の小野川が立ちはだかる
構図が出来上がり、大相撲は一気に黄金期に向かうことになった。
両者の江戸場所での対戦成績は、谷風の六勝三敗・二預かり・二引き分け・三
無勝負だった。谷風の終身成績は二百五十四勝十敗・十四預かり・二引き分け
五無勝負。全盛期の身長は六尺三寸(187㌢)体重43貫(161・2㌔)と伝え
られている。この谷風と小野川は、のちの寛政元年(1789)11月の深川場所で、
ともに横綱となった。この頃の大関は看板(飾り)で関脇の両者の強さが無類
ということで、一気に二人が横綱になってのだが、順序としたは小野川の横綱
免許が12月なので、現在では谷風が横綱第一号とされる。




土俵入りまけるけしきが見へぬなり 




安永7年(1778)頃から、それまでの8日興行から10日興行(雨天・寺社の行
事がある日を除く)が行われることとなり、そこに一人のスーパースターが現
れたというわけ。谷風梶之助である。体重43貫の堂々たる体躯で、この年3
月の深川場所から、以後4年負け知らずの63連勝を記録し、のち、寛政元年
(1789)、大関よりも強い「横綱の位に初めて就いた大力士だ」。この初代横綱
の登場で相撲人気は大沸騰した。




月のみか雨に相撲もなかりけり  松尾芭蕉




「安政期の横綱と平成期の横綱 比較」






      谷 風 梶 之 助  
188㎝ 160㎏       勝川春英画
     小 野 川 喜 三 郎   
178㎝ 135㎏   勝川春英画
        雷 伝 為 右 衛 門  
197㎝ 170㎏      勝川春亭画  
豊昇龍  188㌢  150㌔
大の里  192㌢  188㌔
琴櫻   189㌢  178㌔
安青錦  182㌢  140㌔
照ノ富士 192㌢  176㌔
白鵬   192㌢  155㌔
大鵬   187㌢  153㌔
千代の富士 183㌢  123㌔
    204㌢  232㌔
武蔵丸  191㌢  223㌔


絵に描かれた谷風、小野川、そして雷電、という3人の力士の活躍によって、
天明~寛政期(1781~1800)にかけて江戸の大相撲は黄金期を迎えた。




寒取や土俵箒の掃き応へ  龍雨






      江戸払いか旅立ちか




「江戸のニュース」

力士の雷伝為右衛門が江戸払いに。
人気力士として知られた雷伝為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県
東御市)出身で、身長が六尺五寸(197㌢)体重が四十五貫(169㌔)もある
巨漢だったと言われている。
江戸の浦風林右衛門の門下で、寛政二年に関脇に付け出され、同八年大関
に昇進して十六年務めた。この間、三十二場所中、二百五十四勝で、負けた
のはわずか十回(勝率九割六分二厘)という驚異的な記録を残す。
文化八年(1811)、四十四歳で引退して、松江藩の相撲頭取に任じられている。
しかしこの年、大火で焼失した江戸赤坂の報土寺に寄付した鐘に、大量の金
を鋳込み「天下無双の雷伝」と彫り込んだことが、幕府上層部の不興を買っ
てしまう。その結果、江戸払いに処せられ、鐘も取り壊された。さらに文政
二年(1819)には、松江藩の財政難のために、相撲頭取を解任される。
晩年は妻八重の出身地下総国臼井(千葉県佐倉市)で過ごし、文政八年二月
二十一日、五十八歳で他界した。



雷電がつなをはなして雲を行く

雷電はその強さから「雷」に例えられその横綱級の風格と強大さを表現した。





          [相 撲 取 組 之 図]  勝川春章画



「優勝経験のない横綱」
● 大錦卯一郎(第28代横綱)
横綱・大関に歯が立たず、連勝記録も少ないことから「歴代最弱横綱」と呼
ばれた。
● 男女ノ川登三(第34代横綱)
巨漢で人気があったが、引退後の晩年「下足番」をしていたという逸話が有
名で、その没落ぶりが「最弱横綱」のイメージと結びついたものとされる。
しかし「最強横綱双葉山」を「俺が強くしてやったんだ」と負け惜しみとも
とれる面白い発言を残している
● 安藝ノ海節男(第37代横綱)
1939年に双葉山の連勝を70で止めた「世紀の一番」で有名。小柄ながら
速攻相撲で活躍し、戦前・戦中の大相撲を支えた。横綱在籍時1勝あげている。
● 前田山英五郎(第39代横綱)
前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き横綱に「粗暴の振る舞いこれあ
りし、時には自責仕る可く候」とのこと。在籍2年の5月場所、力道山に勝利
しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・休業・廃業帰京した。
● 吉葉山潤之輔(第43代横綱)
新横綱になってから急性腎臓炎・糖尿病により初日から全休。その後も左右両
足の捻挫、銃弾貫通による後遺症と足首に残ったままの銃弾の影響で思うよう
に白星を稼げず、横綱時代では一度も賜杯を抱くことが出来ず「悲劇の横綱」
とも言われた。歌舞伎俳優の御面相もあって人気はあったが。
●  双羽黒光司(第60代横綱)
優勝決定戦までの取組は数度あったが、そこで勝てず、優勝が一度も無いまま
横綱に昇進したことから「千代の富士の一人横綱状態を解消するための仮免横
綱」と呼ばれる。ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に
入った女将を突き飛ばすなど素行に問題があり、トラブルも多かった。そして
北尾以降横審は「横綱の品格」を問うようになった。
● 三代・若乃花勝(第66代横綱)
史上初の兄弟横綱として期待されたが、約5年間の大関在位時で多くの怪我に
苦しみ、「不知火型」のジンクス通りに「短命横綱で終わるのではないか」と
懸念されて的中。横綱在位は11場所だった。
● 稀勢の里寛(72代横綱)
二場所連続優勝で昇進したものの、横綱昇進直後に大怪我を負い、その後は
休場と不振が続き「史上最弱横綱」と評された。が、その真摯な姿は多くの
ファンに愛された。



入念の仕切らち(埒)なや負相撲    瓢亭






     照ノ富士 対  朝日富士




「ひとこと苦言」
「照ノ富士関は とにかく重い。白鵬関より一回り大きく見える」
照ノ富士との勝負のことを語った朝日山に、北の富士コラムゟ は厳しい。
右の相四つというのが、朝乃山にとって不幸なことではあるが、伸び盛りの
大関が、序二段まで番付を落とし、ようやく関脇まで戻ってきた照ノ富士に、
手も足も出させてもらえないとは、合口が悪いではすまないだろう。
体力も若さもすべての面で恵まれている朝乃山が、なぜ照ノ富士に勝てない
のか。もし、相撲界に七不思議があるならば、一番の謎であろう。
もし、私が原因を挙げるとしたら、一番に精神力の違いだろう。
一度地獄を見ている苦労人と、大した壁に当たることなく、大関に昇進した
両者では、天と地ほどの違いがある。
昔は、若い力士に「ちゃんこの味がしみていない」と言ったものだが、まさ
に朝乃山は、土俵の塩の苦さも、ちゃんこの味も足りていない。
(令和8年初場所は、9勝と頑張りましたがまだまだですな)




幾秋ヲ負ケテ老イヌル角力カナ  子規





           雨天休みの力士の景色





力士の酒盛りと聞けば料理や酒が山のように並んでいるかとイメージするが
、この図には料理が火鉢の上と横にある程度で、むしろ質素な印象を受ける。
当時はこの程度のものであったのではないかという推測も立つが、雨天時の
興行は中止だったため、この図は雨天時の関取たちの素顔と過ごし方の様子
が描かれたものではないだろうか。



「最後に小咄をひとつ〔久造さんの試し酒〕」
五升(計算は簡単で一升瓶5本のことです)の酒が飲めるか勝負することに
なった久造さん。
「ちょっと考えさせてくれ」と外へ出て行き、しばらくして戻ってくると
「やらせてもらうべえ」と言って飲み始めると、あれよあれよという間に
五升の酒を飲み干してしまう。
びっくりした主人が「久造さん、あんたさっきちょっと考えさせてくれと
言って外へ出ていったが、あの時、いくらでも酒が飲めるまじないか何か
してきたんじゃないか?それを教えてくれ」と聞くと久造さんは、
「いやあ何でもねえ何でもねえ、おら五升なんて酒飲んだことがねえから、
飲めるかどうか表の酒屋で試しに五升飲んできた」


「令和の酒豪」 episode
元横綱白鵬は焼酎60本を一晩で飲み干した記録を持つが、その上がいた。
白鵬が「自分より酒が強いと思った人はいるんですよ」と言う。
「X・JAPANのYOSHIKIさん…あのスリムな体のどこに入るのか驚いた」
と教えてくれた。




投られて酒債飛散る門角力  亀公

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むかし聞け秩父殿さへ相撲とり  松尾芭蕉






                                             江戸両国回向院大相撲





1.「〔すもう〕の語源」
「相撲」とは、争う、抗うといった格闘そのものを表す動詞である「すまふ」
の連用形「すまひ」が名詞化したものが語源です。
そのため古くは「すまひ」であり、中世後期には音が共通するために「相舞」
「素舞」とも表記されました。
一方、現在の「相撲」は、力くらべや格闘を意味した漢語で、この意味を採
って「すまひ」の読みを充てたものです。また同様に「すもう」と読まれる
「角力」「角觝」は、力くらべ、力芸・技芸を競うことを指して格闘全般に
用いられた言葉でした。




うつくしき秋を名乘るや角力取  正岡子規





相撲の歴史~柳多留





          野見宿禰と當麻 欠速対戦の図





「二千年前の天覧勝負」
西暦23年。弥生時代が終わって古墳時代に入り始めた頃で、邪馬台国が成立し、
卑弥呼の時代へと続く、原始・古代の過渡期にあたる。
日本書紀」(720 年)に書かれている垂仁天皇7年7月7日に出雲の野見宿禰
(のみのすくね)と近江の當麻蹶速(たいまのけはや)「天覧勝負」の伝説が
あります。野見宿禰は、相手の脚を蹴り倒し、ついには命を奪ってしまったと
いいます。この荒々しい一戦が、記録に残る「最初の相撲対決といわれます」。
「バキッ!」という骨の砕ける音とともに、日本のスポーツ史に残る最初の
勝者が決まったのです。




年若く前歯折りたる角力哉   其村





          「相撲節会(すまいのせちえ)」



「相撲節会」とは、奈良平安時代にかけて行われた天皇が宮中で相撲を観覧
する朝廷の年中行事です。
天平6年(734)、聖武天皇が勅命を出し、。全国から相撲人を募り、宿禰・
蹶速の故事にちなんで、7月7日の「七夕祭り」の余興として観覧したのが、
史上で二度目の天覧相撲です。
この頃から「相撲節会」は、宮中行事として定着し、その後、源氏や平氏の
台頭で、政権が武士の手に渡ったことから、高倉天皇の承安4年(1174)を
最後に廃絶されます。
相撲節会は、現在と違い土俵はなく、行司もいませんでした。
勝負は相撲場の地面に相手を投げ倒すか、手や膝ひざをつかせることによっ
て決まります。又それ以前には、殴る、突く、蹴るという業がありましたが、
(まるでキックボクシングですね)
相撲節会では一斉に禁止され、現在の大相撲の原型となりました。




五月雨は露か涙か不如帰   我が名をあげよ雲の上まで 義輝.




奈良・平安時代は神事、鎌倉・室町時代は武士の鍛錬として盛んになります。
貴族たちが見守る中、各地から集められた強者たちが対決したのです。
「あれは強いぞ!東国から来た力士だ」「いや西の者の方が技が冴えている」
と、観衆たちは、好き勝手な言葉で囃子立てました。
(安元2年(1176)12月、伊豆天城山の柏峠での狩猟の際に、河津三郎祐泰
(かわづさぶろうすけやす)と俣野五郎景久(またのごろうかげひさ)が相撲
を取ったときの河津の決まり手が「河津掛け」として今に伝わります。




脇向けて不二を見る也勝相撲  高井几董(きとう)





        河 津 か け

「富嶽百景(葛飾北斎)」赤澤の不二での河津三郎祐安(河津祐泰、右)
による俣野五郎國久(俣野景久、左)への河津掛けの技が描かれる。




鎌倉時代に入ると、武士の世となり「相撲は武芸」の一つとして重視される
ようになります。源頼朝は、家来たちに相撲を奨励し戦いの訓練としました。
「敵を投げ倒す技こそ、戦場で役立つ」と考えたのです。
土俵の上で鍛えられた技は、戦場で命を守る武器となりました。
「足取りをもっと素早く!相手の動きを読め!」と指南役の武士が叫びます。
若侍たちは汗を流しながら、相撲の技を磨いていきました。
彼らにとって、相撲は単なる遊びではなく、真剣な生死を分ける訓練だったの
です。




負まじき角力を寝ものがたり哉  与謝蕪村






                            織 田 信 長 上 覧 相 撲 催 す




室町・戦国時代に入ると、乱世にもかかわらず、織田信長は元亀元年(1570)
から天正9年(1581)までの間に、たびたび大規模な上覧相撲を催しています。
戦国武将らは、各地から力士を集めて、勝ち抜いた者を家臣として召し抱える
こともありました。



りゝしさは四つに組んだる角力哉  正岡子規




江戸時代なると、武芸という意味は消え、飢饉で苦しむ民衆を救うために始
まった「興行相撲」が、国技としての地位を確立していきます。
「皆の衆、今宵の相撲興行は、天下一の強者たちによる対決じゃ」
木遣り唄が流れる中、江戸の町に高々と掲げられた看板が人々を誘います。
これが、享保年間(1716-1736)に始まる「勧進相撲」です
江戸も末期になると谷風、小野川、雷電らが登場、また相撲や力士を題材に
した錦絵の流行、将軍の上覧相撲などにより、相撲は黄金時代を迎え、歌舞
伎と並ぶ、庶民の娯楽へと確立されていきました。
(現在の大相撲のように、プロの力士たちによって行われ、それをお金を払
って観る、人々の娯楽の対象として興行が成り立つようになったのは、この
江戸時代に入ってからのことでした。




憎からぬたかぶり顔の相撲かな  飯田蛇笏





                              ペリー来る 瓦版に描かれた力士(横浜開港資料館蔵)

力士たちの最初の仕事は幕府からの贈り物米200俵(5斗俵)を船に積み込む
作業でした。1俵は約80㎏であるが、力士たちはそれを2俵3俵と担いで
運びました。幕内の巨人力士白真弓は、一度に8俵を運んでアメリカ人の度肝
を抜いたと伝わります。それが終わると、仮御殿の幕内で土俵入と稽古相撲を
観覧させたといいます。






  170cm150kgでアンコ型ながら力持ちの小柳常吉




ここでepisodeを二つ ①「ペリー提督も驚いた」
幕末、ペリー一行に相撲を見せると、力士が米俵を軽々と運び、大関・小柳常
吉がアメリカ人水兵3人を投げ飛ばし、一行は驚嘆したとされます。
相撲に「馬力」という隠語がある一方、酒豪伝説には「イイトコ」(ほら話)
を駆使して場を楽しんだといいます。




 酒豪揃いの力士たちの中でも雷伝為右衛門は破格の酒豪だった。


episode② 「酒豪伝説(イイトコ)のひとつとして」
雷電為右衛門は「中国一の酒豪の珍先生」という学者と一斗ずつ飲みくらべを
しました。珍先生は一斗を飲み干したところで、倒れてしまい、雷電は学者を
かついで、高下駄姿で宿まで運んでやったそうです。さらに雷電は宿で一斗飲
を飲み、爪楊枝をくわえて、悠然と自宅へ帰っていったといいます。





         『陣幕久五郎横綱土俵入り図』  (歌川国輝)




受けながら風の押す手を柳かな    陣幕久五郎




明治時代~大正へ、明治時代に入ると、力士たちはそれまで大名に抱えられ
ていましたが、廃藩置県によりその庇護を失い、自立をしなければいけなく
なるなど、相撲興行は衰退してしまいます。
その相撲界も、明治17年(1884)の明治天皇の芝延遼館(えんりょうかん)
における天覧相撲や、常陸山谷右衛門と好敵手の梅ヶ谷藤太郎の出現により、
再び黄金期を迎えます。
(明治42年(1909)6月には両国回向院境内の一角に相撲常設館が完成し
「国技館」と命名されました)。
本場所の最優秀成績者に新聞社から写真額が贈られ、館内に掲額して個人優
勝を表彰するようになったのもこの頃です。
大正時代になると、不況や、関東大震災で国技館が炎上したこと等を要因とし
て、場所ごとに入場者は減少し、相撲界に大きな影響を与えます。




相撲部屋の稽古に響く木枯らし






昭和の力士100人 (表紙・双葉山から二代若乃花まで)




昭和~戦後では、相撲興行の不振が続きますが、興行日数15日制や、土俵の
大きさの拡大、制限時間制等々、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもあり、
栃錦vs若乃花、大鵬vs柏戸などの好敵手や双葉山北の湖千代の富士等の活躍
により再び人気をとり戻します。また興行日数15日制や、土俵の大きさの拡大、
制限時間制などなど、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもありました。




相撲茶屋ちゃんこの香り春の風




            屋 形 と 土 俵



「蘊蓄」
昭和5年3月場所まで、土俵上に座っていた勝負審判は、土俵下に移り、
5人制とした。また方屋柱に塩桶をくくりつけた。
さらに、昭和6年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし径4.55m
(15尺)の一重土俵に変更された。
俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、この時
より俵の外側に撒かれる様になったものである。 
 なぜ13尺(3m94㎝)土俵から15尺(4.55m)土俵になったかは、
当時の文献には全く書かれていない。男女ノ川、天竜、武蔵山、出羽ヶ嶽
ど180㎝を優に超える大型力士が増え、あまり早く勝負が決まらないよう
にして、少しでも相撲を面白く見せるためであったという。
 



大関ト大関ト組ム角力カナ  正岡子規






     二千年の歴史を誇る大相撲

令和の横綱・大関 琴櫻・豊昇龍・大の里・安青錦




戦後〜昭和では、 T V 等の普及で国民的人気を博します。
栃若時代(栃錦/若乃花)柏鵬時代(大鵬/柏戸)、北玉時代(北の富士/玉の海)、
輪湖時代(輪島/北の湖)など名勝負が続きました。
平成では、若貴ブームが、そして小錦、曙、武蔵丸らハワイ出身力士らの対決
も人気を後押しました。コロナでは相撲は一時無観客で行われましたが、白鵬
が人気低迷期を支え、史上最多優勝記録を樹立。モンゴル勢が席巻し、相撲は
「今や世界的なスポーツに」
令和新星の登場)になると大の里など新世代の力士が最速で横綱昇進し、
8年の初場所で安青錦が驚異の快進撃で新たな人気を牽引。力士の体格やプレー
スタイルも多様化し相撲はいよいよ盛り上がっています。




初場所や髪まだ伸びぬ勝角力  水原秋櫻子

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