- 2026/07/12
- Category : ポエム&川柳
豊臣兄弟ー本能寺の変前夜の信長家臣の序列
番号に表情があるシンフォニー 阪部文子
『大多春永城塀修復の図』
右側の大多春永が織田信長、中央に着座するのが秀吉。
秀吉は小人として信長に奉公していて、清須城の塀修理での功績
により「足軽」という下級武士に取り立てられた。
豊臣兄弟ー本能寺の変前夜の信長家臣の序列
「鳥 取 城 跡」
防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから「日本にかくれなき名山」
と評され、鳥取城を織田信長は「堅固な名城」と讃えた。
鳥取城は、羽柴秀吉の兵糧攻めの舞台になった。
秀吉・秀長兄弟は天正9年(1581)には「鳥取城」を攻略し、翌10年3月には
満を持して、山陽方面から毛利領への本格的な侵攻を開始する。
満を持して、山陽方面から毛利領への本格的な侵攻を開始する。
信長五男で秀吉の養子となっていた秀勝に初陣を飾らせ、備前から備中へ侵攻。
毛利方の拠点である「冠山城」「宮地山城」などを相次いで攻略し、羽柴軍の
威容を見せつけた。5月に入ってからは、清水宗治が籠城する「高松城」の水
攻めを開始する。この年の3月、信長は、甲斐の武田氏を滅ぼしており、この
情報を知った毛利家中は危機感を募らせており、高松城を救援できなければ滅
亡する恐れさえあった。
毛利方の拠点である「冠山城」「宮地山城」などを相次いで攻略し、羽柴軍の
威容を見せつけた。5月に入ってからは、清水宗治が籠城する「高松城」の水
攻めを開始する。この年の3月、信長は、甲斐の武田氏を滅ぼしており、この
情報を知った毛利家中は危機感を募らせており、高松城を救援できなければ滅
亡する恐れさえあった。
幻を打ち消すように鹿おどし 山本昌乃
このため毛利氏は全力を挙げて来援したが、秀吉方の鉄壁な攻囲陣を前に有効
な軍事作戦を展開できなかった。毛利水軍や身内からも離反者が出る始末で、
秀吉単独でも対抗できない状態であり、これに信長が親征すれば武田氏のよう
に滅亡する可能性も高く、秀吉との間で講和が持ち上がっていたようである。
その矢先に、「本能寺の変」の急報がもたらされた。
な軍事作戦を展開できなかった。毛利水軍や身内からも離反者が出る始末で、
秀吉単独でも対抗できない状態であり、これに信長が親征すれば武田氏のよう
に滅亡する可能性も高く、秀吉との間で講和が持ち上がっていたようである。
その矢先に、「本能寺の変」の急報がもたらされた。
秀吉はすぐさま和議を調え、「中国大返し」を決行し、光秀軍を打ち破り弔い
合戦の主力となった。
合戦の主力となった。
追い風に消されたぼくの新記録 山田順啓
「清 須 会 議」
信長が本能寺で倒れた後、織田家の後継者と領地配分を決定するため
清須城で開かれた会議で、秀吉が巧みな根回しによって主導権を握り、
天下人への足がかりを築くこととなった。
「ここで本能寺の変時点での織田家中の序列をみてみよう」
信盛追放後、織田家中で最高位だったのは勝家だろう。
越前・加賀に加え能登越中の大半を支配下に置き、実子権六には、信長の息女
をもらい受けており、一門衆にも列していた。
越前・加賀に加え能登越中の大半を支配下に置き、実子権六には、信長の息女
をもらい受けており、一門衆にも列していた。
秀吉も、信長の実子秀勝を養子としており、一門衆であった。
外様の光秀は、畿内で総奉行的な役割を果たすようになっており、信長の甥の
信重に息女を嫁がせていた。ただ血縁関係からいえば、勝家や秀吉よりも一段
下だった。
信重に息女を嫁がせていた。ただ血縁関係からいえば、勝家や秀吉よりも一段
下だった。
負けたんじゃない譲ってあげただけ 高野末次
武田攻めの論功行賞で、上野一国相当を拝領した滝川一益は、東国から東北に
かけての広大な領域の管轄を任され、織田家中では、最大エリアを担当するま
でに出世していた。整理すると、織田家中では、分限や信長との関係を勘案す
ると、勝家、次いで秀吉・秀長兄弟、そして一益、光秀の順だったろう。
かけての広大な領域の管轄を任され、織田家中では、最大エリアを担当するま
でに出世していた。整理すると、織田家中では、分限や信長との関係を勘案す
ると、勝家、次いで秀吉・秀長兄弟、そして一益、光秀の順だったろう。
こうした織田家中の序列は、「本能寺の変」で一変した。主君信長の敵討ちに
三男信孝を総大将に据えた秀吉・秀長兄弟の武功によって、その地位は逆転し、
秀吉が「清須会議」で主導権を握り、信長の後継者に成長していくことになる。
そのとき徳川家康はなにをしていた。
三男信孝を総大将に据えた秀吉・秀長兄弟の武功によって、その地位は逆転し、
秀吉が「清須会議」で主導権を握り、信長の後継者に成長していくことになる。
そのとき徳川家康はなにをしていた。
ぶらさがると奇跡が見えるナマケモノ 井上恵津子
「徳川家康・武田信玄合戦図」
左に家康、信玄。家康は信玄との合戦に一度も勝てなかった。
「家康の資質」
明治の歴史家・山路愛山は、主著『徳川家康』において家康の最大の資質を
「時勢の推移に適応する順応性」と「偉大なる凡人としての政治的現実主義」
と捉えました。
「時勢の推移に適応する順応性」と「偉大なる凡人としての政治的現実主義」
と捉えました。
『家康は天下人の器ではない?』 「蒲生氏郷の家康評」
氏郷とその重臣との談話より
Q 「太閤亡き後は、関白殿(秀次=秀吉の甥)に皆は従いましょうか」
A 「誰があの愚人に従う者がいようか」と答えた。
Q 「天下の主となる人は誰でしょうか?」。
A 「加賀の又左衛門なり」
加賀の又左衛門とは、前田利家のこと、加賀百万石の祖である。
Q 「又左衛門が天下を得ない場合は、次は誰が天下を得ましょうや」
A 「又左衛門が天下を得ないのならば、我が天下を得る」
Q 「では、東照宮(家康)はどうでしょうか?」
A 「家康は、天下を得べきに非ず。家康は天下人となるような器ではない」
Q 「なぜでしょうか?」
A 「家康は、人に過分に知行を与える器量がないからだ。
利家は人に過分に知行を与える、よって、利家こそ天下を得る」
素面でも小石にこける今の僕 靍田寿子
彼(家康)は、蒲生氏郷より「人に知行を過分に与ふる器量なきが故に天下の
主になり得べきものに非ず、と云はれたり」と記述されている。
主になり得べきものに非ず、と云はれたり」と記述されている。
その上で、次のような逸話を記述しています。さらに愛山は、
「長久手の戦に池田信輝の首級を得たる永井直勝に織田信雄は、五千石を与へ
んと欲したり。されど彼は、家康の家人に左程の賞行ひしこといまだ候はず。
斯くして彼は僅に千石を与へしのみ」と。つまり、秀吉との長久手の合戦(15
84年)の際に武功があった永井直勝に対し、織田信雄(信長次男)は「五千石
を与える」ことを提案。ところが家康は「家康の家臣で、そのような恩賞を与
えたことはない」と言い、僅か千石しか永井に与えなかったという。
んと欲したり。されど彼は、家康の家人に左程の賞行ひしこといまだ候はず。
斯くして彼は僅に千石を与へしのみ」と。つまり、秀吉との長久手の合戦(15
84年)の際に武功があった永井直勝に対し、織田信雄(信長次男)は「五千石
を与える」ことを提案。ところが家康は「家康の家臣で、そのような恩賞を与
えたことはない」と言い、僅か千石しか永井に与えなかったという。
大きい声出しているのは眠いから 前中一晃
こうした逸話を見ていたら、家康は吝嗇なようにも見えるが、愛山は「さにあら
ず」と主張。なぜか。歴史家山路愛山は述べます。
ず」と主張。なぜか。歴史家山路愛山は述べます。
「東軍に加わりたる豊臣氏の諸将に対しては、殆んど賜与に濫なりと云ふべき程
に加封したり。則ち二十万石の清須を領したる福島正則が三十万石を加へて五十
万石の安芸備後両国の主となり、十五万石の吉田(三河)を領したる池田輝政が、
三十七万石を増して五十二万石の播磨を得たるが如き、皆此例なり」と。つまり、
関ヶ原の戦い(1600年)において、東軍(徳川方)に加勢した諸将(福島正則や
池田輝政)を戦後に大幅に加増しているということである。
に加封したり。則ち二十万石の清須を領したる福島正則が三十万石を加へて五十
万石の安芸備後両国の主となり、十五万石の吉田(三河)を領したる池田輝政が、
三十七万石を増して五十二万石の播磨を得たるが如き、皆此例なり」と。つまり、
関ヶ原の戦い(1600年)において、東軍(徳川方)に加勢した諸将(福島正則や
池田輝政)を戦後に大幅に加増しているということである。
「歴史家・山路愛山の著書『徳川家康』ゟ」
僕よりも清らかであるホタルイカ 新家完司
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