- 2026/08/09
- Category : アルバム(風景)
ニュースー海軍戦闘機搭乗員の戦後
ニュースー・海軍戦闘機搭乗員の戦後
第二航空艦隊司令長官福留繁中将が整列した特攻隊員を前に訓示する。
杉田貞雄はこの中にいた。
太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期
までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、
「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかっ
てゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中
の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのも
この世代だ。
海軍の戦闘機搭乗員は、戦後50年の平成7年に1100名が存命だったのが、そ
れから30年が経った令和7年10月現在、数名の存命が確認できるに過ぎな
い。最前線に投入された戦闘機搭乗員の8割が戦没した苛烈な戦争を生き延び
た彼らは、どのような「戦後」を過ごしたのか…。
「5度の特攻出撃から生還した杉田貞雄一飛曹に聞く」
までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、
「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかっ
てゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中
の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのも
この世代だ。
海軍の戦闘機搭乗員は、戦後50年の平成7年に1100名が存命だったのが、そ
れから30年が経った令和7年10月現在、数名の存命が確認できるに過ぎな
い。最前線に投入された戦闘機搭乗員の8割が戦没した苛烈な戦争を生き延び
た彼らは、どのような「戦後」を過ごしたのか…。
「5度の特攻出撃から生還した杉田貞雄一飛曹に聞く」
『昭和20年、8月15日、玉音放送は、出撃待機中の台湾・宜蘭(ぎらん)基地
で聴きました。雑音が多くてよくは聞き取れませんでしたが、戦争が終わった
ことは理解できた。そのときみんなの表情がね、頬が緩んでピクピクしてるん
ですよ。それを表に出さないように我慢してる姿がね。戦争に負けたのは理屈
では口惜しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。
みんな悔しいフリはしていますよ。「デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ」
「戦闘続行!」なんて、口々に言いながら、頬が緩んでる。
身体がよじれるような、踊り上がりたいような喜びが体の内から湧いてくる。
戦争に負けた悔しさとこれとは、とりあえず別ですよ。人間の生存本能じゃ
ないでしょうかね』と、第二〇五海軍航空隊神風特攻大義隊員だった杉田貞雄
(旧姓・小貫)は語った。
で聴きました。雑音が多くてよくは聞き取れませんでしたが、戦争が終わった
ことは理解できた。そのときみんなの表情がね、頬が緩んでピクピクしてるん
ですよ。それを表に出さないように我慢してる姿がね。戦争に負けたのは理屈
では口惜しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。
みんな悔しいフリはしていますよ。「デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ」
「戦闘続行!」なんて、口々に言いながら、頬が緩んでる。
身体がよじれるような、踊り上がりたいような喜びが体の内から湧いてくる。
戦争に負けた悔しさとこれとは、とりあえず別ですよ。人間の生存本能じゃ
ないでしょうかね』と、第二〇五海軍航空隊神風特攻大義隊員だった杉田貞雄
(旧姓・小貫)は語った。
平成15年のこと。杉田は、爆装特攻機として、部隊で最多となる5度の特攻
出撃をしながら敵艦と遭遇することなく、奇跡的に生還した零戦搭乗員だ。
杉田が特攻隊員になったのは、周囲の同調圧力に負けたからだった。終戦前年
の昭和19年10月末のことである。
の昭和19年10月末のことである。
「諸君は空の神兵である。ただいまより特別攻撃隊員を募集する。我と思わん
者は一歩前へ出よ」
者は一歩前へ出よ」
フィリピン・ルソン島のバラカット基地より250㌔爆弾を搭載して
出撃寸前の敷島隊一番機。手前は関行雄大尉
出撃寸前の敷島隊一番機。手前は関行雄大尉
第二航空艦隊司令長官・福留繁中将の訓示に、一瞬、その場が凍りついた。
フィリピン、クラーク・フィールドのアンヘレス北飛行場。ぎらぎらと太陽が
照りつける草原の滑走路に整列した搭乗員たちは皆、顔は前を向いたまま、目
だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた。そして数秒。沈黙
に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、ぞろぞろと重い一歩
を踏み出した。爆弾を搭載した飛行機による体当り攻撃、すなわち特攻が本格
化しつつあった。18歳の杉田も、雰囲気に引きずられて一歩前に出た。
しまったと思ったが、もう後戻りはできなかった。
フィリピン、クラーク・フィールドのアンヘレス北飛行場。ぎらぎらと太陽が
照りつける草原の滑走路に整列した搭乗員たちは皆、顔は前を向いたまま、目
だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた。そして数秒。沈黙
に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、ぞろぞろと重い一歩
を踏み出した。爆弾を搭載した飛行機による体当り攻撃、すなわち特攻が本格
化しつつあった。18歳の杉田も、雰囲気に引きずられて一歩前に出た。
しまったと思ったが、もう後戻りはできなかった。
「ありがとう、ありがとう。だがこれでは志願者が多すぎて選びようがない。
いずれ選考の上連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」
いずれ選考の上連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」
福留中将の特攻志願の呼びかけに、つい一歩前に出てしまい特攻隊員となった
杉田貞雄飛行兵長
杉田は、大正15年3月23日、宮城県に鉄道員の次男として生まれた。
軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験したが、成績がよかったので、試験官の勧
めで飛行兵志望に切り換える。そして昭和18年6月、18歳で乙種飛行予科
練習生(特)、通称「特乙(とくおつ)」の二期生として、山口県の岩国海軍
航空隊に入隊した。
軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験したが、成績がよかったので、試験官の勧
めで飛行兵志望に切り換える。そして昭和18年6月、18歳で乙種飛行予科
練習生(特)、通称「特乙(とくおつ)」の二期生として、山口県の岩国海軍
航空隊に入隊した。
「特乙」とは、乙種予科練の合格者のなかから生年月日の早い者を選抜、速成
教育を施すために新設されたコースで、杉田も「殴られて体で覚える」すさま
じい詰め込み教育に耐え、海軍に入ってわずか9ヵ月後の昭和19年3月には
零戦搭乗員として実戦部隊に配属される。同年10月には、米軍の大部隊がレ
イテ島に上陸したのを受け、「零戦」で編成された第二二一海軍航空隊(二二
一空の一員として、日米決戦を目前に控えたフィリピンに送り込まれていた。
教育を施すために新設されたコースで、杉田も「殴られて体で覚える」すさま
じい詰め込み教育に耐え、海軍に入ってわずか9ヵ月後の昭和19年3月には
零戦搭乗員として実戦部隊に配属される。同年10月には、米軍の大部隊がレ
イテ島に上陸したのを受け、「零戦」で編成された第二二一海軍航空隊(二二
一空の一員として、日米決戦を目前に控えたフィリピンに送り込まれていた。
『二二一空は制空部隊なので、連日の邀撃戦に参加しましたが、車で言えばま
だ初心者マークをつけているようなもので、一番機から離れないよう飛ぶのが
精いっぱいでした。私の小隊長の石原泉上飛曹が「初心者の君が後ろで引き金
(機銃の発射レバー)を握っていたら俺が危ない。お前は撃たなくていいから、
とにかく離れずについて来い」と注意してくれましたが、編隊からはぐれると
必ずやられますよ。それで機銃も撃たず、尾翼に被弾して還ってきたのが私の
初陣でした。
だ初心者マークをつけているようなもので、一番機から離れないよう飛ぶのが
精いっぱいでした。私の小隊長の石原泉上飛曹が「初心者の君が後ろで引き金
(機銃の発射レバー)を握っていたら俺が危ない。お前は撃たなくていいから、
とにかく離れずについて来い」と注意してくれましたが、編隊からはぐれると
必ずやられますよ。それで機銃も撃たず、尾翼に被弾して還ってきたのが私の
初陣でした。
何度かグラマンF6Fと空戦をやって、最初は体が震えて困りましたが、これが
武者震いか、とやせ我慢しているうちに、だんだん戦場に慣れてきます。
そして、仲間がちらほらやられるようになると、クソ度胸がついてきて、敵愾
心が湧いてくる。俺は負けない、と、いっぱしの戦闘機乗りとしての意識が芽生
えてくるんです』
武者震いか、とやせ我慢しているうちに、だんだん戦場に慣れてきます。
そして、仲間がちらほらやられるようになると、クソ度胸がついてきて、敵愾
心が湧いてくる。俺は負けない、と、いっぱしの戦闘機乗りとしての意識が芽生
えてくるんです』
フィリピン・マニラ上陸
※ (ちょうどその頃、フィリピンでは、味方主力艦隊のレイテ島への突入を
支援するため、米空母の飛行甲板を一時使用不能にする目的で、第一航空艦隊
司令長官・大西瀧治郎中将のもと「特攻作戦」が開始される。そして、その予
想以上の戦果に、当初は、特攻に消極的だった第二航空艦隊も、追随して特攻
作戦に踏み切った)
支援するため、米空母の飛行甲板を一時使用不能にする目的で、第一航空艦隊
司令長官・大西瀧治郎中将のもと「特攻作戦」が開始される。そして、その予
想以上の戦果に、当初は、特攻に消極的だった第二航空艦隊も、追随して特攻
作戦に踏み切った)
三角兵舎
三角兵舎・内部
三角兵舎・内部
福留中将の呼びかけに応じて、全員が志願した形となった二二一空の搭乗員た
ちは、次々と戦闘機の特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)
に転勤していった。
ちは、次々と戦闘機の特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)
に転勤していった。
『ニッパ椰子の葉で囲った粗末な三角兵舎のなかで、みんなでごろごろ待って
いると、夜、暗くなってから要務士がカバンを持ってやってきて「ただいまよ
り二〇一空転勤者を発表する」とやるんですよ。そして名前を呼ばれる。一度
に5人か6人ですけどね、この瞬間の気分は何とも言えません。
いると、夜、暗くなってから要務士がカバンを持ってやってきて「ただいまよ
り二〇一空転勤者を発表する」とやるんですよ。そして名前を呼ばれる。一度
に5人か6人ですけどね、この瞬間の気分は何とも言えません。
名前を呼ばれた者は、飛び上がって喜んでるんだけど、心のなかは逆、泣いて
るんですよね。それで呼ばれなかった者は、ガックリしたような顔をしながら、
腹のなかではホッとしている。明と暗がはっきりと分かれる瞬間でした』
るんですよね。それで呼ばれなかった者は、ガックリしたような顔をしながら、
腹のなかではホッとしている。明と暗がはっきりと分かれる瞬間でした』
そして12月15日。ついに杉田にも、二〇一空への転勤、すなわち特攻隊へ
の編入が言い渡される。
の編入が言い渡される。
『そのとき私は、クラークのアンへレス北飛行場にいました。夜の10時頃、
搭乗員室に要務士がやってきて、私と山脇飛行兵長の二人に転勤が言い渡さ
れた。それで深夜、ライトを消した黒塗りのフォードに乗せられて、マバラ
カット市内にある二〇一空本部へ連れていかれました。
搭乗員室に要務士がやってきて、私と山脇飛行兵長の二人に転勤が言い渡さ
れた。それで深夜、ライトを消した黒塗りのフォードに乗せられて、マバラ
カット市内にある二〇一空本部へ連れていかれました。
二〇一空では、飛行長・中島正中佐が、「よく来てくれた」と迎えてくれ、
従兵が皿に乗せたぼた餅を運んできてくれました。そして、それを食べ終わ
るか食べ終わらないかのときに、飛行長から、「明朝黎明発進」を告げられ
たんです。ドキン!としてぼた餅を喉に詰まらせそうになりましたよ。
こっちはまだ、口がもぐもぐ動いているのに。
従兵が皿に乗せたぼた餅を運んできてくれました。そして、それを食べ終わ
るか食べ終わらないかのときに、飛行長から、「明朝黎明発進」を告げられ
たんです。ドキン!としてぼた餅を喉に詰まらせそうになりましたよ。
こっちはまだ、口がもぐもぐ動いているのに。
そしで、「遺書を書いて用意せよ」と言われるんですが、いきなり遺書を書
けと言われても、いざ明日、死ぬときの心境なんて、すぐには言葉に出てこ
ないし、実感が湧かない。
けと言われても、いざ明日、死ぬときの心境なんて、すぐには言葉に出てこ
ないし、実感が湧かない。
山脇と二人で、「俺は空母をやるぞ。お前は戦艦をやれ、あれは硬くて跳ね
返されるぞ。だから艦橋を狙うんだ。当たった瞬間は痛いだろうな。どこま
で意識があるんだろう」などといろいろ話をしながら、少しうとうととした
らもう朝でした』
返されるぞ。だから艦橋を狙うんだ。当たった瞬間は痛いだろうな。どこま
で意識があるんだろう」などといろいろ話をしながら、少しうとうととした
らもう朝でした』
割り切れない思いを胸に、杉田は、宿舎に用意された藁半紙に、鉛筆で遺書
を書いた。両親、兄弟、親戚、恩師、脳裏に浮かぶ人はたくさんいたが、感謝
の思いを言葉にしようにも、なかなか思うに任せない。結局、杉田の遺書は、
を書いた。両親、兄弟、親戚、恩師、脳裏に浮かぶ人はたくさんいたが、感謝
の思いを言葉にしようにも、なかなか思うに任せない。結局、杉田の遺書は、
〈遺書/大和男の子と生まれ来て/明日は/男子の本懐一機一艦/親に先立つ
不孝お許しください/天皇陛下万歳〉
不孝お許しください/天皇陛下万歳〉
と、ぶっきらぼうなほど短いものとなった。
『天皇陛下万歳っていうのは、まあ当時の決まり言葉ですね。ちょこちょこっ
と書いて最後にそう付け加えれば、なんとなく軍人らしく格好がつく。
まだ18歳ですからね、虚勢ですよ。顔で笑って心で泣いて、という言葉その
ままです。空戦でも死ぬかもしれないが、それは相手を倒すことが目的で戦っ
た結果ですから、特攻で自分から死ぬ覚悟を決めるのとは全く違う。腹のなか
を整理するのが大変でした』
と書いて最後にそう付け加えれば、なんとなく軍人らしく格好がつく。
まだ18歳ですからね、虚勢ですよ。顔で笑って心で泣いて、という言葉その
ままです。空戦でも死ぬかもしれないが、それは相手を倒すことが目的で戦っ
た結果ですから、特攻で自分から死ぬ覚悟を決めるのとは全く違う。腹のなか
を整理するのが大変でした』
12月16日、飛行場に出て、黒板に書かれた当日の搭乗割を見ると、山脇の
名前はあったが、飛行機の準備が間に合わなかったのか、杉田の名前はそこに
なかった。
名前はあったが、飛行機の準備が間に合わなかったのか、杉田の名前はそこに
なかった。
『一瞬、選に漏れた「無念と今日は生き延びた」という本能の喜びが交錯しま
したが、山脇の顔を正視できない思いでした。それでもみんなと一緒に出撃前
の訓示を聞いて、山脇と一緒に指揮所から飛行機の秘匿場所まで1.5キロほど
歩きました。飛行機に乗る間際になって、山脇から、これを家族に届けてくれ、
と遺書と髪の毛と爪の入った小さな紙の包みを渡されました。
山脇が飛行機に乗り込むとき、私は一緒に左主翼の上に乗って、試運転の爆音
のなか、「おい、何か言っておくことないか」と声をかけたんですが、彼は黙
って首を振るばかりでした』
したが、山脇の顔を正視できない思いでした。それでもみんなと一緒に出撃前
の訓示を聞いて、山脇と一緒に指揮所から飛行機の秘匿場所まで1.5キロほど
歩きました。飛行機に乗る間際になって、山脇から、これを家族に届けてくれ、
と遺書と髪の毛と爪の入った小さな紙の包みを渡されました。
山脇が飛行機に乗り込むとき、私は一緒に左主翼の上に乗って、試運転の爆音
のなか、「おい、何か言っておくことないか」と声をかけたんですが、彼は黙
って首を振るばかりでした』
山脇飛長は、この日の出撃からは生還したが、12月29日、第十五金剛隊
の爆装機としてミンドロ島南岸沖の敵輸送船団攻撃にバタンガス基地から出撃、
戦死した。
の爆装機としてミンドロ島南岸沖の敵輸送船団攻撃にバタンガス基地から出撃、
戦死した。
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