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川柳的逍遥 人の世の一家言
子を抱いて総身のすくむ相撲取り
釈迦ヶ嶽雲右衛門の桁外れの手形
生まれたての赤ちゃんなんてすぐに壊れてしまいそうで抱くのが
恐い。病院から帰ってきたばかりの赤ん坊が、あまりにも小さく、
あまりにも壊れそうで、どうしていいかわからず、しばらくじっ
と見つめていたものだ。
大相撲ー巨漢列伝、大きな相撲取りの中でも大きな相撲取り
等身大掛け軸 釈迦ヶ嶽雲右衛門 & 生月鯨太左衛門
「江戸時代」
江戸時代の巨人と言えば、まず、明和7年(1770)に江戸に登場
した釈迦ヶ嶽雲右衛門である。身長7尺1寸6分(約217㎝)。
実際に土俵で相撲を取り、それなりの勝ち星を挙げているので大
きくて強い力士であった。その後、釈迦ヶ嶽雲右衛門級の巨人では
文政年間(1818年頃)に肥後熊本から大空武左衛門が現れた。
大空武左衛門 大空は身長7尺5寸(227㎝)体重35貫500(約133㎏)という
体格で牛を跨いで通ったという伝説で「牛跨ぎ」というあだ名で呼
ばれた。錦絵にも描かれ江戸っ子の興味を煽ったが、しょせん相撲
を取る覚悟も力もなく、熊本藩候の遊び道具のようにあちこちに連
れ回され注目されることに終始して土俵に立つことは無かった。
(大空武左衛門肖像画 (クリーブランド美術館蔵)
渡邊崋山が等身大の肖像画を描いている。
その模写は早稲田大学図書館に所蔵されている。)
釈迦ヶ嶽二階から目へ差し薬 龍門好五郎
文政11年(1828)10月場所の番付に登場するのは伊予(愛媛県)
の出身・龍門好五郎。錦絵に描かれた時のサイズは身長7尺4寸分
(約225.7㎝)45貫(約168.7㎏)とある。
大坂相撲に登場して土俵入を行ったり相撲を取ったりしたようだ。
その評判を聞いて江戸の土俵に立たせようとしたが、実際には江戸
には来ず、大坂で亡くなってしまったらしい。
江戸の人々には錦絵だけの幻の巨人となってしまった。
ただ手形が残されており実在の巨人であったことは間違いない。
嬉しやと再び覚めて一眠り 徳川家康
生月鯨太左衛門
西張出前頭に古今随一の巨人生月鯨太左衛門が登場する。
『武江年表』には、「弘化元年(天保15)4月5日「肥前平戸産
大男生月鯨太左衛門といへる相撲取来る。身の丈七尺五寸、重さ
三十六貫、掌一尺八寸、今年十八歳、十八人力と云ふ」とある。
最初は相撲は取らず土俵入のみ行い、少しずつ慣らしてから余興
のように相撲も取るようになった。弘化3年(1846)11月場所、
幕尻で5日間だけ相撲を取って、幕下力士のみを相手に3勝2敗
の成績を挙げている。またそれに先立つ弘化2年大坂で行われた
興行で、10日目千秋楽に生月の五人抜きを行った。
その姿を描いた錦絵が残っているが、名もない下位の力士5人を
相手に相撲を取る姿が描かれている。
五人を相手にする生月鯨太左衛門
「エピソード」
江戸に来て色気づいたか、両国広小路の水茶屋の娘に懸想したが
桁外れの体格ゆえひじ鉄砲を喰らった。それが悔しいと同じ両国
の見世物小屋に出ていた一寸玉之助という小人の女性を女房にし
たという話がある。しかし、嘉永4年(1851)わずか24歳で病
没。生月鯨太左衛門は、よほど江戸で評判になったようで沢山の
浮世絵が描かれている。
春場所や相撲の熱気桜咲く
高見山大五郎
史上初の外国出身の力士として活躍し外人力士の門戸を開けた。
身長192㌢体重205㌔でその巨体と愛嬌のあるキャラクター
で親しまれ、現役時代は、「ジェシー」の愛称で呼ばれた。
外国人として幕内優勝をも達成し関脇まで昇りつめた。
相撲番組力士の名や梅雨明け
昭和・平成を代表する主な巨漢力士
左から、大関常陸岩、 新海、 横綱常ノ花、 出羽ケ嶽
張出大関大ノ里、 和歌島、 関脇玉錦
「昭和時代」
出羽ヶ嶽文治郎。身長205㌢、体重も200を超えた伝説的な
巨人。関脇昇進後は、大関昇進を期待されたが、足腰の負傷など
で平幕どころか三段目まで降格となる。小さな対戦相手に土俵に
転がされる姿は同情にも嘲笑の的にもなり、悲惨だった。
当時の実況アナウンサーは「大男、総身に知恵が回りかね。ただ
いま出羽ヶ嶽登場」と実況し「名調子」ともてはやされていた。
今では完全アウトなエピソードが残る。
相撲の街両国の夜蛍飛ぶ
大内山平吉の張り手一発で吹っ飛ぶ相手力士 大内山平吉。身長190㌢以上、四股名の「大内山」は、当時の
皇居を意味していたため、不敬罪にあたるため戦時中は本名の大
内で相撲を取った。戦後になって不敬罪が廃止されたこともあり、
昭和23年5月場所で十両昇進を果たすと念願の「大内山」を名
乗った。その後も25年1月場所で新入幕に。昭和30年3月場
所では横綱千代の山と対戦惜しくも負けるが待望の大関位をお獲
得した。ちなみに昭和天皇は、大内山の四股名を意識されていた
らしく戦後の力士の中では大内山がお気に入りだったと言われる。
引組んで猶分別や角力取 太祇
小錦八十吉 「平成時代」
小錦八十吉。現役時代は「ダンプトラック」の異名を持ち、当時
の歴代最高体重287㌔を記録。外国出身力士の大型化のパイオ
ニア。平成30年んには体重292.6㌔を記録し、大相撲史上
最も重い力士となった。山本山龍太が日本人力士として265㌔
という最大級の体重を記録したが、小錦には届いていない。
好調は躰に任せとる相撲 良一
曙太郎
曙太郎。外国出身初の横綱。身長203㌢、体重230㌔。曙の横
綱土俵入りは「四股の足がほとんど上がらず、この点で貴乃花と
比べて見劣りがする」などと何でもイチャモンをつけたがる人が
いたが、「四股は古来足を高く上げるものではなく、むしろ足を
高く上げ、土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとする」
とする従来の概念から一件落着となったエピソードが残る。
曙の礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と
評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける
第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆、力
士からの評価はとても高かった。
「礼儀正しさに感激しました。帰り際にもドアの前できちんとお
辞儀をし、いつも曙の悪口を言ってる私自身が恥ずかしくなる程
でした」と内館牧子さんも賞賛の意を述べている。
四つに組んで贔屓の多き角力かな 子規 PR 蒼天に髻とけし相撲かな 石鼎
横 綱 授 与 の 図 勝川春英
「相撲の起源」
相撲の起源はハッキリしない。『古事記』にも記述があり奈良時代にも「相
撲節会」があることから、古来の儀式の要素を有した伝統競技とも言われて
いるが鎌倉・室町時代の頃は「武家相撲」で、武術のひとつだった。
それが江戸時代になると「勧進相撲」となった。勧進とは寺社を建立したり
構内を修復するための資金集めのことで、江戸では、貞享元年(1684)に深川
八幡境内で寺社で興行が行われるようになった。
今日、大相撲の番付に「蒙御免」とあるのは、寺社奉行の御免(許し)を蒙
った(受けた)の意の名残りだ。
江 戸 相 撲 番 付 表 おもしろきこともなき世をおもしろく 晋作
当時の人々は、江戸時代を代表する文化の一つとして大相撲を楽しみました。
このブームを牽引したのが、寛政元年(1789)にはじめて横綱土俵入りを
披露した谷風梶之助と小野川善三郎、そして彗星の如く江戸の相撲に登場した
雷伝為右衛門です。そして寛政3年には「上覧相撲」が催されました。
宮相撲廃れ鎮守の宮荒ぶ 秋山英身
大相撲ー横綱を追いかける
谷風梶之助 VS 小野川喜三郎
「江戸のニュース」
寛政3年6月11日、将軍家斉がこの日相撲を上覧した。
上覧相撲は、江戸城吹上苑の庭で行われた。雷伝為右衛門も登場し参加力士
は百六十六名、最後の谷風と小野川の大関同士の取組では、小野川が「待っ
た」をかけた吉田追風ので、小野川の「気合負け」谷風の「気合勝ち」、と
して行事の吉田追風は谷風に軍配をあげた。
寛政の改革の方針である「尚武」に叶うということもあって、相撲が歌舞伎
や遊郭と並んで、江戸の三代娯楽となったのは寛政期であり、谷風、小野川
らの名力士が現れた。仙台藩お抱え力士の二代目・谷風梶之助(四十歳、百
八十九㌢ 百六十一㌔)と、久留米藩お抱え力士の小野川喜三郎(三十二歳
百七十八㌢ 百三十五㌔)が、相撲の司・吉田追風から横綱の伝を免許され、
注連縄を腰に富岡八幡宮の土俵上で四股を踏み、土俵入りを見せた。
(このころ、城や屋敷を建てる際の地鎮祭に、強豪力士などが注連縄をまと
い四股を踏んで、地鎮することが慣わしとなっていたが、これを吉田司家が
相撲興行の上で利あるものとして儀式として採りいれたもの。従ってこの時
点の「横綱」は、単に注連縄を意味し、土俵入りの際の免許の呼称(尊称)
に過ぎなかった)。
月のみか雨に相撲もなかりけり 松尾芭蕉
谷風64連勝のかかった小野川との闘い 「江戸のニュース」
二月の浅草八幡場所の七日目、小野川喜三郎に土をつけられ、六十四連勝の
記録は消えた。
大相撲の黄金期は、この頃より少しあとの寛政年間(1789-1801)だが、のちに
その主役を担う谷風梶之助が、六十三連勝するという前代未聞の大記録を更
新中で、無敵だったのがこの年。これを阻む力士は一人もいないと思われて
いた。大相撲が大人気となる中、谷風の六十三連勝に土がつく。
この取組み以降、実力力士である谷風の前に人気力士の小野川が立ちはだかる
構図が出来上がり、大相撲は一気に黄金期に向かうことになった。
両者の江戸場所での対戦成績は、谷風の六勝三敗・二預かり・二引き分け・三
無勝負だった。谷風の終身成績は二百五十四勝十敗・十四預かり・二引き分け
五無勝負。全盛期の身長は六尺三寸(187㌢)体重43貫(161・2㌔)と伝え
られている。この谷風と小野川は、のちの寛政元年(1789)11月の深川場所で、
ともに横綱となった。この頃の大関は看板(飾り)で関脇の両者の強さが無類
ということで、一気に二人が横綱になってのだが、順序としたは小野川の横綱
免許が12月なので、現在では谷風が横綱第一号とされる。
土俵入りまけるけしきが見へぬなり
安永7年(1778)頃から、それまでの8日興行から10日興行(雨天・寺社の行
事がある日を除く)が行われることとなり、そこに一人のスーパースターが現
れたというわけ。谷風梶之助である。体重43貫の堂々たる体躯で、この年3
月の深川場所から、以後4年負け知らずの63連勝を記録し、のち、寛政元年
(1789)、大関よりも強い「横綱の位に初めて就いた大力士だ」。この初代横綱
の登場で相撲人気は大沸騰した。
月のみか雨に相撲もなかりけり 松尾芭蕉
「安政期の横綱と平成期の横綱 比較」
谷 風 梶 之 助
188㎝ 160㎏ 勝川春英画 小 野 川 喜 三 郎
178㎝ 135㎏ 勝川春英画 雷 伝 為 右 衛 門
197㎝ 170㎏ 勝川春亭画 豊昇龍 188㌢ 150㌔
大の里 192㌢ 188㌔
琴櫻 189㌢ 178㌔
安青錦 182㌢ 140㌔
照ノ富士 192㌢ 176㌔
白鵬 192㌢ 155㌔
大鵬 187㌢ 153㌔
千代の富士 183㌢ 123㌔
曙 204㌢ 232㌔
武蔵丸 191㌢ 223㌔
絵に描かれた谷風、小野川、そして雷電、という3人の力士の活躍によって、
天明~寛政期(1781~1800)にかけて江戸の大相撲は黄金期を迎えた。
寒取や土俵箒の掃き応へ 龍雨
江戸払いか旅立ちか 「江戸のニュース」
力士の雷伝為右衛門が江戸払いに。
人気力士として知られた雷伝為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県
東御市)出身で、身長が六尺五寸(197㌢)体重が四十五貫(169㌔)もある
巨漢だったと言われている。
江戸の浦風林右衛門の門下で、寛政二年に関脇に付け出され、同八年大関
に昇進して十六年務めた。この間、三十二場所中、二百五十四勝で、負けた
のはわずか十回(勝率九割六分二厘)という驚異的な記録を残す。
文化八年(1811)、四十四歳で引退して、松江藩の相撲頭取に任じられている。
しかしこの年、大火で焼失した江戸赤坂の報土寺に寄付した鐘に、大量の金
を鋳込み「天下無双の雷伝」と彫り込んだことが、幕府上層部の不興を買っ
てしまう。その結果、江戸払いに処せられ、鐘も取り壊された。さらに文政
二年(1819)には、松江藩の財政難のために、相撲頭取を解任される。
晩年は妻八重の出身地下総国臼井(千葉県佐倉市)で過ごし、文政八年二月
二十一日、五十八歳で他界した。
雷電がつなをはなして雲を行く
雷電はその強さから「雷」に例えられその横綱級の風格と強大さを表現した。
[相 撲 取 組 之 図] 勝川春章画
「優勝経験のない横綱」
● 大錦卯一郎(第28代横綱)
横綱・大関に歯が立たず、連勝記録も少ないことから「歴代最弱横綱」と呼
ばれた。
● 男女ノ川登三(第34代横綱)
巨漢で人気があったが、引退後の晩年「下足番」をしていたという逸話が有
名で、その没落ぶりが「最弱横綱」のイメージと結びついたものとされる。
しかし「最強横綱双葉山」を「俺が強くしてやったんだ」と負け惜しみとも
とれる面白い発言を残している
● 安藝ノ海節男(第37代横綱)
1939年に双葉山の連勝を70で止めた「世紀の一番」で有名。小柄ながら
速攻相撲で活躍し、戦前・戦中の大相撲を支えた。横綱在籍時1勝あげている。
● 前田山英五郎(第39代横綱)
前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き横綱に「粗暴の振る舞いこれあ
りし、時には自責仕る可く候」とのこと。在籍2年の5月場所、力道山に勝利
しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・休業・廃業帰京した。
● 吉葉山潤之輔(第43代横綱)
新横綱になってから急性腎臓炎・糖尿病により初日から全休。その後も左右両
足の捻挫、銃弾貫通による後遺症と足首に残ったままの銃弾の影響で思うよう
に白星を稼げず、横綱時代では一度も賜杯を抱くことが出来ず「悲劇の横綱」
とも言われた。歌舞伎俳優の御面相もあって人気はあったが。
● 双羽黒光司(第60代横綱)
優勝決定戦までの取組は数度あったが、そこで勝てず、優勝が一度も無いまま
横綱に昇進したことから「千代の富士の一人横綱状態を解消するための仮免横
綱」と呼ばれる。ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に
入った女将を突き飛ばすなど素行に問題があり、トラブルも多かった。そして
北尾以降横審は「横綱の品格」を問うようになった。
● 三代・若乃花勝(第66代横綱)
史上初の兄弟横綱として期待されたが、約5年間の大関在位時で多くの怪我に
苦しみ、「不知火型」のジンクス通りに「短命横綱で終わるのではないか」と
懸念されて的中。横綱在位は11場所だった。
● 稀勢の里寛(72代横綱)
二場所連続優勝で昇進したものの、横綱昇進直後に大怪我を負い、その後は
休場と不振が続き「史上最弱横綱」と評された。が、その真摯な姿は多くの
ファンに愛された。
入念の仕切らち(埒)なや負相撲 瓢亭
照ノ富士 対 朝日富士 「ひとこと苦言」
「照ノ富士関は とにかく重い。白鵬関より一回り大きく見える」
と照ノ富士との勝負のことを語った朝日山に、北の富士コラムゟ は厳しい。
右の相四つというのが、朝乃山にとって不幸なことではあるが、伸び盛りの
大関が、序二段まで番付を落とし、ようやく関脇まで戻ってきた照ノ富士に、
手も足も出させてもらえないとは、合口が悪いではすまないだろう。
体力も若さもすべての面で恵まれている朝乃山が、なぜ照ノ富士に勝てない
のか。もし、相撲界に七不思議があるならば、一番の謎であろう。
もし、私が原因を挙げるとしたら、一番に精神力の違いだろう。
一度地獄を見ている苦労人と、大した壁に当たることなく、大関に昇進した
両者では、天と地ほどの違いがある。
昔は、若い力士に「ちゃんこの味がしみていない」と言ったものだが、まさ
に朝乃山は、土俵の塩の苦さも、ちゃんこの味も足りていない。
(令和8年初場所は、9勝と頑張りましたがまだまだですな)
幾秋ヲ負ケテ老イヌル角力カナ 子規
雨天休みの力士の景色 力士の酒盛りと聞けば料理や酒が山のように並んでいるかとイメージするが 、この図には料理が火鉢の上と横にある程度で、むしろ質素な印象を受ける。
当時はこの程度のものであったのではないかという推測も立つが、雨天時の
興行は中止だったため、この図は雨天時の関取たちの素顔と過ごし方の様子
が描かれたものではないだろうか。
「最後に小咄をひとつ〔久造さんの試し酒〕」
五升(計算は簡単で一升瓶5本のことです)の酒が飲めるか勝負することに
なった久造さん。
「ちょっと考えさせてくれ」と外へ出て行き、しばらくして戻ってくると
「やらせてもらうべえ」と言って飲み始めると、あれよあれよという間に
五升の酒を飲み干してしまう。
びっくりした主人が「久造さん、あんたさっきちょっと考えさせてくれと
言って外へ出ていったが、あの時、いくらでも酒が飲めるまじないか何か
してきたんじゃないか?それを教えてくれ」と聞くと久造さんは、
「いやあ何でもねえ何でもねえ、おら五升なんて酒飲んだことがねえから、
飲めるかどうか表の酒屋で試しに五升飲んできた」
「令和の酒豪」 episode 元横綱白鵬は焼酎60本を一晩で飲み干した記録を持つが、その上がいた。
白鵬が「自分より酒が強いと思った人はいるんですよ」と言う。
「X・JAPANのYOSHIKIさん…あのスリムな体のどこに入るのか驚いた」
と教えてくれた。 投られて酒債飛散る門角力 亀公 むかし聞け秩父殿さへ相撲とり 松尾芭蕉
江戸両国回向院大相撲 1.「〔すもう〕の語源」
「相撲」とは、争う、抗うといった格闘そのものを表す動詞である「すまふ」
の連用形「すまひ」が名詞化したものが語源です。
そのため古くは「すまひ」であり、中世後期には音が共通するために「相舞」
や「素舞」とも表記されました。 一方、現在の「相撲」は、力くらべや格闘を意味した漢語で、この意味を採
って「すまひ」の読みを充てたものです。また同様に「すもう」と読まれる
「角力」「角觝」は、力くらべ、力芸・技芸を競うことを指して格闘全般に
用いられた言葉でした。
うつくしき秋を名乘るや角力取 正岡子規
相撲の歴史~柳多留
野見宿禰と當麻 欠速対戦の図
「二千年前の天覧勝負」 西暦23年。弥生時代が終わって古墳時代に入り始めた頃で、邪馬台国が成立し、
卑弥呼の時代へと続く、原始・古代の過渡期にあたる。
「日本書紀」(720 年)に書かれている垂仁天皇7年7月7日に出雲の野見宿禰
(のみのすくね)と近江の當麻蹶速(たいまのけはや)「天覧勝負」の伝説が
あります。野見宿禰は、相手の脚を蹴り倒し、ついには命を奪ってしまったと
いいます。この荒々しい一戦が、記録に残る「最初の相撲対決といわれます」。
「バキッ!」という骨の砕ける音とともに、日本のスポーツ史に残る最初の
勝者が決まったのです。
年若く前歯折りたる角力哉 其村
「相撲節会(すまいのせちえ)」
「相撲節会」とは、奈良平安時代にかけて行われた天皇が宮中で相撲を観覧
する朝廷の年中行事です。 天平6年(734)、聖武天皇が勅命を出し、。全国から相撲人を募り、宿禰・
蹶速の故事にちなんで、7月7日の「七夕祭り」の余興として観覧したのが、
史上で二度目の天覧相撲です。
この頃から「相撲節会」は、宮中行事として定着し、その後、源氏や平氏の
台頭で、政権が武士の手に渡ったことから、高倉天皇の承安4年(1174)を
最後に廃絶されます。
相撲節会は、現在と違い土俵はなく、行司もいませんでした。
勝負は相撲場の地面に相手を投げ倒すか、手や膝ひざをつかせることによっ て決まります。又それ以前には、殴る、突く、蹴るという業がありましたが、 (まるでキックボクシングですね) 相撲節会では一斉に禁止され、現在の大相撲の原型となりました。 五月雨は露か涙か不如帰 我が名をあげよ雲の上まで 義輝.
奈良・平安時代は神事、鎌倉・室町時代は武士の鍛錬として盛んになります。
貴族たちが見守る中、各地から集められた強者たちが対決したのです。
「あれは強いぞ!東国から来た力士だ」「いや西の者の方が技が冴えている」
と、観衆たちは、好き勝手な言葉で囃子立てました。
(安元2年(1176)12月、伊豆天城山の柏峠での狩猟の際に、河津三郎祐泰
(かわづさぶろうすけやす)と俣野五郎景久(またのごろうかげひさ)が相撲
を取ったときの河津の決まり手が「河津掛け」として今に伝わります。
脇向けて不二を見る也勝相撲 高井几董(きとう)
河 津 か け
「富嶽百景(葛飾北斎)」赤澤の不二での河津三郎祐安(河津祐泰、右)
による俣野五郎國久(俣野景久、左)への河津掛けの技が描かれる。 鎌倉時代に入ると、武士の世となり「相撲は武芸」の一つとして重視される
ようになります。源頼朝は、家来たちに相撲を奨励し戦いの訓練としました。 「敵を投げ倒す技こそ、戦場で役立つ」と考えたのです。
土俵の上で鍛えられた技は、戦場で命を守る武器となりました。
「足取りをもっと素早く!相手の動きを読め!」と指南役の武士が叫びます。
若侍たちは汗を流しながら、相撲の技を磨いていきました。
彼らにとって、相撲は単なる遊びではなく、真剣な生死を分ける訓練だったの
です。
負まじき角力を寝ものがたり哉 与謝蕪村
織 田 信 長 上 覧 相 撲 催 す 室町・戦国時代に入ると、乱世にもかかわらず、織田信長は元亀元年(1570)
から天正9年(1581)までの間に、たびたび大規模な上覧相撲を催しています。 戦国武将らは、各地から力士を集めて、勝ち抜いた者を家臣として召し抱える
こともありました。
りゝしさは四つに組んだる角力哉 正岡子規
江戸時代なると、武芸という意味は消え、飢饉で苦しむ民衆を救うために始
まった「興行相撲」が、国技としての地位を確立していきます。
「皆の衆、今宵の相撲興行は、天下一の強者たちによる対決じゃ」
木遣り唄が流れる中、江戸の町に高々と掲げられた看板が人々を誘います。 これが、享保年間(1716-1736)に始まる「勧進相撲」です
江戸も末期になると谷風、小野川、雷電らが登場、また相撲や力士を題材に
した錦絵の流行、将軍の上覧相撲などにより、相撲は黄金時代を迎え、歌舞
伎と並ぶ、庶民の娯楽へと確立されていきました。
(現在の大相撲のように、プロの力士たちによって行われ、それをお金を払
って観る、人々の娯楽の対象として興行が成り立つようになったのは、この
江戸時代に入ってからのことでした。
憎からぬたかぶり顔の相撲かな 飯田蛇笏
ペリー来る 瓦版に描かれた力士(横浜開港資料館蔵)
力士たちの最初の仕事は幕府からの贈り物米200俵(5斗俵)を船に積み込む
作業でした。1俵は約80㎏であるが、力士たちはそれを2俵3俵と担いで
運びました。幕内の巨人力士白真弓は、一度に8俵を運んでアメリカ人の度肝 を抜いたと伝わります。それが終わると、仮御殿の幕内で土俵入と稽古相撲を 観覧させたといいます。 170cm150kgでアンコ型ながら力持ちの小柳常吉 ここでepisodeを二つ ①「ペリー提督も驚いた」
幕末、ペリー一行に相撲を見せると、力士が米俵を軽々と運び、大関・小柳常
吉がアメリカ人水兵3人を投げ飛ばし、一行は驚嘆したとされます。
相撲に「馬力」という隠語がある一方、酒豪伝説には「イイトコ」(ほら話)
を駆使して場を楽しんだといいます。
酒豪揃いの力士たちの中でも雷伝為右衛門は破格の酒豪だった。 episode② 「酒豪伝説(イイトコ)のひとつとして」
雷電為右衛門は「中国一の酒豪の珍先生」という学者と一斗ずつ飲みくらべを
しました。珍先生は一斗を飲み干したところで、倒れてしまい、雷電は学者を
かついで、高下駄姿で宿まで運んでやったそうです。さらに雷電は宿で一斗飲
を飲み、爪楊枝をくわえて、悠然と自宅へ帰っていったといいます。
『陣幕久五郎横綱土俵入り図』 (歌川国輝)
受けながら風の押す手を柳かな 陣幕久五郎
明治時代~大正へ、明治時代に入ると、力士たちはそれまで大名に抱えられ
ていましたが、廃藩置県によりその庇護を失い、自立をしなければいけなく なるなど、相撲興行は衰退してしまいます。 その相撲界も、明治17年(1884)の明治天皇の芝延遼館(えんりょうかん)
における天覧相撲や、常陸山谷右衛門と好敵手の梅ヶ谷藤太郎の出現により、
再び黄金期を迎えます。
(明治42年(1909)6月には両国回向院境内の一角に相撲常設館が完成し 「国技館」と命名されました)。 本場所の最優秀成績者に新聞社から写真額が贈られ、館内に掲額して個人優
勝を表彰するようになったのもこの頃です。
大正時代になると、不況や、関東大震災で国技館が炎上したこと等を要因とし
て、場所ごとに入場者は減少し、相撲界に大きな影響を与えます。
相撲部屋の稽古に響く木枯らし
昭和の力士100人 (表紙・双葉山から二代若乃花まで) 昭和~戦後では、相撲興行の不振が続きますが、興行日数15日制や、土俵の
大きさの拡大、制限時間制等々、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもあり、 栃錦vs若乃花、大鵬vs柏戸などの好敵手や双葉山や北の湖、千代の富士等の活躍 により再び人気をとり戻します。また興行日数15日制や、土俵の大きさの拡大、 制限時間制などなど、現在へ続く制度が整えられ始めた時期でもありました。 相撲茶屋ちゃんこの香り春の風
屋 形 と 土 俵 「蘊蓄」
昭和5年3月場所まで、土俵上に座っていた勝負審判は、土俵下に移り、
5人制とした。また方屋柱に塩桶をくくりつけた。
さらに、昭和6年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし径4.55m
(15尺)の一重土俵に変更された。
俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、この時
より俵の外側に撒かれる様になったものである。
なぜ13尺(3m94㎝)土俵から15尺(4.55m)土俵になったかは、
当時の文献には全く書かれていない。男女ノ川、天竜、武蔵山、出羽ヶ嶽な
ど180㎝を優に超える大型力士が増え、あまり早く勝負が決まらないよう
にして、少しでも相撲を面白く見せるためであったという。
大関ト大関ト組ム角力カナ 正岡子規
二千年の歴史を誇る大相撲 令和の横綱・大関 琴櫻・豊昇龍・大の里・安青錦 戦後〜昭和では、 T V 等の普及で国民的人気を博します。
栃若時代(栃錦/若乃花)柏鵬時代(大鵬/柏戸)、北玉時代(北の富士/玉の海)、
輪湖時代(輪島/北の湖)など名勝負が続きました。
平成では、若貴ブームが、そして小錦、曙、武蔵丸らハワイ出身力士らの対決
も人気を後押しました。コロナでは相撲は一時無観客で行われましたが、白鵬
が人気低迷期を支え、史上最多優勝記録を樹立。モンゴル勢が席巻し、相撲は
「今や世界的なスポーツに」
令和(新星の登場)になると大の里など新世代の力士が最速で横綱昇進し、
8年の初場所で安青錦が驚異の快進撃で新たな人気を牽引。力士の体格やプレー スタイルも多様化し相撲はいよいよ盛り上がっています。 初場所や髪まだ伸びぬ勝角力 水原秋櫻子 関とりの乳のあたりに人だかり 柳多留
『大相撲関取御江戸両国橋通行の図』(三代歌川豊国画)
殿さまのふんどしでとるいい角力 柳多留
越ノ戸浜之助の化粧まわし
藩揃いの化粧まわしが広く親しまれていた 江戸の上位力士は大名家に抱えられた。抱えられた力士は、藩ゆかりの
土俵入りを披露した。たとえば、小結・越ノ戸は松江藩や盛岡藩に抱えられて
おり瓢箪を意匠とした松江藩のもので、藩揃いの化粧まわしが広く親しまれて
いたことがうかがえる。
雷伝為右衛門の化粧まわし
ちなみに雷電は、初土俵からの引退まで、松江藩の力士として、活躍し通算2 54勝10敗(勝率9割6分2厘)という驚異的な記録を残し、史上最強の力
士と称されています。
川柳・俳句と相撲と太鼓と
うす闇き相撲太鼓や角田川 小林一茶
句は一茶が文化10年(1812)に詠んだ。
大相撲は太鼓の音にはじまり、太鼓の音で終了する。
興行のたびに建てられる櫓は、大相撲がはじまることを知らせてくれる。
広重『名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋』
元禄元年(1688)以降、晴天8日間を常とした江戸相撲は、安永7年に10日
間となる。その背景には、相撲人気の高まりがありました。
そして。相撲興行の時期には、「相撲櫓」が仮設されました。
広重『名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋』の左端に櫓が描かれています。
櫓には、興行中晴天が続くことを願って、竹竿の先に麻の出弊だしっぺいが
吊るされました。「櫓太鼓」は、早朝4時頃、関取の場所入りの時、打ち出
し後の3回叩かれ、相撲の季節の風物詩となりました。 現在の相撲界では、三種類の太鼓が大切な役割を担っています。
朝8時から9時迄打たれるのが「寄席太鼓」。 客を送り出しながら打たれるのが「跳ね太鼓」。
呼び出しが太鼓を担ぎ、打ちながら街を巡回する「触れ太鼓」です。
一嵐吹きすさびたる相撲かな 松瀬青々
「寄せ太鼓」
本場所の一日は、寄せ太鼓ではじまります。
「いよいよ始まるよー。お客さん寄っといで寄っといで」と、その名の通り
客を寄せる太鼓である。バチさばきも「集客」の意味を込め外から内に向か
うように打つ。
(寄せ太鼓は「一番太鼓」といわれ、夜明け前に打っていました。そして関
取が場所入りする頃に打たれていたのが「二番太鼓」。)
バチ捌きは、羽織袴で大銀杏の関取衆が場所入りする様子を表現していたと
いいます。
気折れ顔にく/\しさの相撲かな 飯田蛇笏 それはどんなバチ捌きだったのか…、それは昭和初期に廃止されました。
どうして廃止されたのかというと
夜明け前の一番太鼓は、安眠妨害だとクレームがついたためでした。
結局、協会は「一番太鼓」の時間を、夜明け前から朝8時半に繰り下げるこ
とにしたのですこれが現在の「寄せ太鼓」です。そして2番太鼓は廃止して、
夕刻の「跳ね太鼓」と二回だけにしたのです。
玉錦塩を掴んで雪のように 野田別天樓
「国技館の櫓」
二回の太鼓の総称を「櫓太鼓」といいます。
国技館の櫓は、高さ約16m。その天辺に2・1平方メートルの狭い空間が
あり。呼出しはそこに座り、太鼓を打ちます。国技館の櫓は、常設だから
エレベーターがついています。が、地方場所は、その都度、櫓を組むため、
呼出しは、直角に近い梯子を昇り下りしているようです。
相撲甚句江戸の粋なり月見酒
「跳ね太鼓」
打ち出し後の夕刻に打たれる「跳ね太鼓」。
客をスムーズに外に出す役割もあり、寄せ太鼓とは逆にバチを内から外へと
散らすように打つ。その音が「テンテンバラバラ」と聞こえ、客の散って行
く様子を表現しているといわれています。
この跳ね太鼓には、さらにもう一つの役割があり「明日も見に来てね!」と
またの来場を願っているのです。
合弟子は佐渡へかへりし角力かな 久保田万太郎
「触れ太鼓」
「土俵祭り」は、初日前日に行われる。神事終了後、東花道から呼出しが出
てきます。二人は太鼓を肩に担ぎ、一人はその太鼓を打ち、もう一人が太鼓
の胴を打つ。こういう太鼓が二基出てきて、神事が終わって神が宿る土俵下
を三周します。三周したのち、二基ともそのまま街に出ていくのです。
そして太鼓を打ち「大の里にはァ高安じゃぞえェ」と贔屓の店々に触れ歩く
と、店内の大人たちが、蕩けるような表情で聞きながら。
「ああ明日から相撲だ!」と血が湧きたってくるといいます。
いくたびも押し戻されて相撲かな 正岡子規
「対相撲・プレッシャーバトル川柳」
春なれや名もなき山の朝霞 稲妻雷五郎
文政12年に7代横綱免許を受けた稲妻雷五郎は、
多くの歌を詠んだ風流人として知られます。ほかに、 「青柳の風にたおれぬちからかな」など。 横綱不在が30年近くなり、相撲人気にも陰りが見えてきた文政の後半。
抜群の強さで頭角を現してきたのが小柳と稲妻であった。すでに三役力士と して十分な実績を残した小柳は、文政10年に阿武松緑之助と名を改め実力 大関として活躍しました。一方、稲妻雷五郎は、阿武松より若く文政7年に 入幕してからは滅多に負けることなく阿武松に対抗し、一気に大関に上り詰 めました。両者の対戦は、人気を呼び相撲人気挽回の切り札として久しぶり に大いに盛り上げました。 「令和の力士たちも負けてはおりません」
春場所前夜鯛の握りを十五皿 湘南乃海桃太郎 「春場所の前に、みんなでげん担ぎで回転寿司に行って、縁起がいい鯛を食
べて。十五皿は『15勝する』という気持ちで、あとは回転寿司らしさを出し
たかったので十五貫ではなく"十五皿"としました」と湘南乃海。
プレバト夏井先生の寸評
「春場所前夜"とやったら字余りになるんですが、この"前夜"が大事なんですね。
春場所への意気込み、げん担ぎの思いがよく出ています。俳人になったほうが いいくらい」と絶賛され、才能アリを獲得した超有望力士は…俳人になるか! 赤貝や 父のアガリの 緑濃し 御嶽海久司 「昨年、父が亡くなったんですけれども、その父とよく回転寿司に行ったんです。
父は貝が好きで、それを食べてアガリを飲んでいて。その風景を思い出して詠み ました」と御嶽海。 思い出のこもった一句だが、高度なテクニックも忍ばせた。 夏井先生の寸評 「これはよく考えた句でしたね。頭に春の季語"赤貝"、これを詠嘆したあとに父が 出てきますから、お父様の好物に違いないとみんな想像し始めます。そして最後に アガリの描写です。”緑濃し"で香りも一緒に上がってくる。"赤貝"と"アガリ"の韻、 "赤"と"緑"の色彩のさりげない対比させていますね。 相当俳句をやっていらっしゃるんじゃないかな、と。それぐらいの出来ですよ」と こちらも高評価。 ざんばら髪の新弟子の背や朝の梅 輝大士
「春場所は新弟子が一番多い時期なので。ざんばら髪の新弟子の背中を見て、
自分も梅の咲く時期の初心を思い出すんですよ」とは輝大士。 休場明けの春や大関突き落とす 千代丸一樹
「春場所は"荒れる春場所"と言われていて、自分も横綱や大関を倒して、
懸賞金をいっぱいもらって、いっぱい遊びたいなと思って…」と千代丸。 一年を二十日で暮らすよい男
「勧進大相撲土俵入りの図」 (国立国会図書館蔵)
三階席まで男たちがびっしりの相撲小屋の様子。
様々な技が生まれたことで人気が高まった。桟敷席は、茶屋を通さなければ
買えない特等席で、土間のほうが値段は安かった。
「江戸の三男」という言葉がある。与力・力士に火消の頭が江戸の花形、とい うものだ。一年を二十日で暮らすよい男と詠われた。力士がなぜ年間二十日間 の実働で1年間を暮らせる好漢と、羨まれたか彼らが活躍する「勧進相撲」が 春と冬の年二回、晴天十日間の開催とされたからだ。
本所回向院が主な会場で、見物客は未明から回向院を目指す。
「東都名所回向院境内全図」 (東京都立中央図書蔵)
巨大な葦簀張りの相撲小屋が立つ回向院の境内へ相撲ファンが向かう。
堺町ずかずか通る相撲好き と柳多留にあるように、江戸の相撲好きたちは、日本橋から両国橋を渡って、
隅田川の東岸の回向院に向かうのだが相撲を観る前から興奮して、日本橋界隈
にあった芝居小屋には目もくれず、鼻息荒くずかずかと歩く。
そんな連中だから、力士の勝敗をめぐって興奮の頂点に達し、あちこちで掴み
合いの喧嘩をはじめるほどだった。
最近の大相撲は、大の里関のような新星横綱の活躍や豊昇龍関、安青錦関・
義ノ富士ら新人スター人気、そしてSNSとの相性の良さから若年層にも浸透し、
懸賞本数が過去最高を更新するなど、非常に人気が高まっています。
特に、力士の魅力(イケメン力士)と現代の動画コンテンツへの適応が、
幅広い層への支持拡大に繋がっていますさらに昔からのファン層に加えて、
砂かぶりに座る若い世代や女性層にも人気が広がり、
横綱、三役、と幕内力士の実力が拮抗する中、その人気は非常に活況を呈し
ています。
12代横綱・陣幕久五郎の土俵入り
土俵外に座す太刀持ちは今と変わらない。 土俵入りまけるけしきが見へぬなり 両国橋を渡る相撲取り 「川柳と行く大相撲の裏話」 エピソード-①
日本語で喋る方が楽という安青錦 「外人力士はどうして日本語がうまいのか」
新入門時のウクライナからきた安青錦 〔24時間日本語漬け〕
相撲部屋は理想的な日本語道場でもある。
辞書は使わない。その代わり、番付表やカラオケなどを教材に、24時間
日本語漬けの生活になる。ちゃんこの味とともに、日本語も体に染みこませ、
番付を上げていく。番付が上がっていくと、後援会など外部の人との接触も
多くなったり、インタビューに答えたりする機会も多くなり、さらに日本語
が上達していくのである。
砂付けて男を磨く相撲取り 〔まるで軍隊〕
相撲界は、「親方、女将さん、兄弟子、部屋のすべてが日本人という環境で
共同生活をするので「日本語がわからない」では通用しない世界だ。
ほとんどの相撲部屋は、起床から就寝までタイムスケジュールはきっちりと
決まっている。朝の土俵の準備、食事の準備、稽古場の掃除など、相撲のト
レーニング以外にも弟子たちはやることがたくさんあり、礼儀にも厳しい世
界だから、自然と美しい日本語が身につく。
うけながら風の押手を柳かな
〔ジョークも勉強のうち〕
外国出身力士は、相撲部屋で生活することにより日本語漬けの環境になり、
同部屋の力士や師匠・部屋付き親方・おかみさんなど、部屋関係者は勿論、、
部屋の支援者、いわゆるタニマチと呼ばれる人々とも日本語で会話すること
により上達する。日本語の取材をそつなくこなした曙への一撃。
入門間もない曙は,兄弟子から「電話で『もしもし』と言われたら「カメよ」
って答えろ」と教わり,おかみさんに気づかれるまで受話器に「カメよ」と
繰り返したそうだ。
合弟子は佐渡へかへりし角力かな 久保田万太郎 厳しい稽古と不慣れな環境に負けた仲間が相撲部屋を去っていく哀愁を詠う。 〔旭天鵬(現・友綱親方)の回顧録〕
モンゴル人最初の親方となった元関脇・旭天鵬も、入門当時のこを
「言葉がわからないことが一番のストレスだった”と振り返る。
「日本語勉強しましたよ。しなきゃならなかったからね。
選択の余地なしって感じでした。どんな場面にも必要不可欠なものでしたし…」
しかし,旭天鵬は、ひとりではなかった。兄弟子,おかみさん,髷結い職人の
床山といった人々から後援会,近所の商店の人々に至るまで、あらゆる周囲の
人たちが,彼の日本語学習が成功するよう支え助けてくれた。
「昇進すればするほど,日本語上達の機会も多くなります。
番付けが上がると,上の人たちとの付き合いも増えるし,スピーチする機会も
出てきますからね」。
今や、自由自在に日本語を操る旭天鵬は,同部屋の同郷出身力士の旭鷲山とも
日本語で会話をする。旭鷲山は笑って言った。
「モンゴル語を話すのは,誰かの悪口を言う時だけですね」と。 痩せ蛙まけるな一茶これにあり 小林一茶
「痩せ蛙」を相撲に見立てて、力強く応援している一茶である。
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