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川柳的逍遥 人の世の一家言
今と過去やさしく包むかたくり粉 上坊幹子
「大田春長公乃受命真柴久吉出陣の図」 (国立国会図書館) 豊臣兄弟ー秀吉・秀長兄弟の出世スピード
織 田 家 合 戦 陣 図
織田信長の重臣といえば、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川 一益、佐久間信盛を思い浮かべる。このほかにも有力な家臣はたくさんいたが、 信長の「天下統一」過程で、追放の憂き目に遭ったり、あえなく討死したりし て歴史の表舞台から消えていった者も少なくない。 信長の家臣として究極の地位である「方面軍司令官」に抜擢されたのは、信長 の実子を除けば、わずか数人である。 最終段階では、光秀を含めると秀吉、勝家、一益の四人にすぎない。なかでも 秀吉の出世の速さは、その出自の低さから推測すると驚くべきものであった。 とろみが強すぎて口笛が吹けない 酒井かがり
柴田勝家 「上洛戦段階の最上位九人」 信長は足掛け7年をかけて美濃を平定し、永禄11年(1568)9月、将軍候補の
足利義昭を奉じて上洛した。『信長記』には8人の大将の武功が記されており、
秀吉もこの中に入っている。上洛戦で大将の一人に抜擢されていることから推 測すれば、これ以前に織田家中で確固たる地位にのし上がっていたことが分る。 信長軍は、4万とも6万ともいわれる大軍を動員して近江を進軍し、敵対した
六角氏を鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、蹴散らした。 秀吉は佐久間信盛、羽柴長秀、浅井信広の4人で、六角氏の支城である箕作城
(みつくりじょう)を、一気呵成に攻略し、この勢いに恐れをなした六角承禎 (じょうてい)は戦わずして本城の観音寺城から夜中に逃亡した。 この4人に対し三好方の拠点の勝竜寺城を攻撃したのは、柴田勝家、蜂屋頼隆、
森可成、坂井政尚の4人である。以上の8人に滝川一益を加えた9人が、織田 家の武将として最上位に位置していたと思われる。 線で囲った私を出られない 日下部敦也
森 可成 「朝倉・浅井攻略の段階では」 永禄13年(1570)4月、信長は越前の朝倉義景を討伐すべく大軍を率いて出陣
したものの、妹(お市)婿の浅井長政に離反されたために帰陣。 秀吉も従軍していたが、攻略した金ヶ崎城で朝倉軍の反撃を食い止め、信長の
帰陣を安全ならしめた。秀吉の武功・「金ヶ崎の退き口」である。 その後、信長は本拠の岐阜と京都との通路を確保するため、江南に諸将を配置。
永原城には、佐久間信盛、長光寺城には柴田勝家、安土城には中川重政、また 宇佐山城には、森可成を配置して朝倉・浅井連合軍や六角氏に備えた。 秀吉も江北で最前線の城砦を任され、すでに3千人もの軍勢を差配できるまで
に成長していた。 そしてこの年の6月、織田家は「姉川の戦い」で朝倉・浅井の連合軍を破り、
浅井氏の居城である小谷城攻囲戦が始まる。この主力を務めたのが秀吉である。 秀吉はそれまでの功績が認められ、浅井氏の旧領を拝領し、一国一城の主に匹
敵する城持ち大名となった。 一方、実弟の秀長(小一郎)は、秀吉の家来ではなく直臣(主君の直接支配下
にある家臣)だったようだが、このころから信頼できる史料に登場する。 スゴイッと言われて凄くなってきた 下谷憲子
佐久間信盛 将軍義昭と信長に両属するかたちで存在感を増しつつあった明智光秀は、元亀
2年(1571)の比叡山焼き討ち後には、義昭を離れて信長の直臣に転じ、坂本城 を築城して近江滋賀郡の支配を開始するなど、外様ながら地位を高めていた。 天正2年(1574)7月、秀長は、「第三次長島一向一揆」攻めに従軍したことが
『信長記』確認できる。秀吉の武将として派遣されたといわれるが、秀吉の家 臣だったという思い込みによる推測に過ぎず、信長の直臣として参陣したもの で、秀吉とは別行動で武功を挙げた。秀吉は、同3年の越前一向一揆討伐戦で は明智光秀らとも協力して一揆勢を討ち取っている。 柴田勝家は、大国越前の支配を任され、不破光治、佐々成政、前田利家、金森
長近、原政茂らの「越前衆」を与力に加え、大きく分限を拡大した。 線上にカミツキガメと黒兎 大葉美千代
丹羽長秀 浅井の旧領を拝領して一躍出世していた秀吉だったが、先輩格の勝家には改め
て水をあけられるかたちになった。光秀は、越前平定後は主に丹波国の侵攻戦 に従事したが、苦戦を続ける。一益は、北伊勢に所領を持ちつつ、遊撃軍的に 出陣していたが、分限はまだ小さかった。 天正5年(1577)8月、信長は、上杉謙信の北陸からの南下に備え、越前を領国
としている柴田勝家を総大将に据え、越前衆のほか、一益、秀吉、丹波長秀ら 織田家中の錚錚たる武将を派遣して迎撃させた。 なごませて下さる言葉「さすがだね」 新家完司
滝川一益 この時点では、勝家が総大将を務めており、前線に近いということもあるが、
勝家の方が秀吉らよりも格上だった。 もっとも秀吉は、理由は不明ながら無断帰陣して信長から責を受けた。
信長の逆鱗に触れた秀吉は、信貴山城に籠城して信長に反旗を翻した松永久
秀父子討伐戦に従軍し、信長嫡男の信忠指揮の下、信貴山城を攻略した。 これと相前後して、秀吉は、信長から中国方面への出陣を命じられていたが、
おそらくこの機会に、秀長を与力に配されたと思われ、兄弟は一致協力して 対毛利戦線へ向かった。これが秀吉に幸運をもたらし、織田家中でも屈指の 軍団を形成することにつながった。 失言と言っているいるけど本音です 高橋太一郎
坂井政尚 豊臣兄弟は播磨へ出陣し、国中から人質を徴し、さらに但馬へ侵攻して岩瀬城、
竹田城を相次いで攻略した。秀長は、竹田城を増強して城代として守備するな ど対毛利戦は順風満帆の滑りだしとなった。 しかし天正6年(1578)早々、秀吉からの援軍にも頼りながら、天正8年(1580)
1月、別所が拠る三木城を開城させた。その間、但馬方面は主に秀長が平定戦
を進めた。三木城攻略の次の標的は、山陰方面の鳥取城。三木城攻めでの経験 を活かし、秀吉は付城群を構築して完全包囲し、徹底した兵糧攻めを仕掛けた。 事前に城下から兵糧米を買い占めていたともいわれる。秀吉軍は、この両城の 城攻めで大きなノウハウを得て、その後の飛躍に結びつけた。 跳ねるという字はほんとうに跳ねている 三宅保州
羽柴秀吉 天正8年には佐久間信盛、が追放されており、分限としては勝家と秀吉・秀長
兄弟が拮抗していた。 信盛を追放した時の折檻状に家中での武功について信長の評価が記されている。 要約すると「丹波国での働きは天下の面目をほどこした。次に秀吉の数か国で
の働きは比類がない」。 池田恒興は、分限が小さいが花熊城を攻略し、これまた天下の覚えを取った。
勝家は、これらの武功を聞いて、越前一国を支配していながら、武功を挙げない
ようでは世間の評判に関わると思い、加賀一国を平定した。 土壇場に強い人ですシクラメン 曾根田夢
「和漢百物語 小田春永(織田信長)」 月岡芳年 「信長の家臣を評価する指標として引用される文言である」
一般的には光秀の名前が最初に出てくることから光秀の武功が第一とする見方が
多い。しかし、国の大小はあるものの、丹波一国の平定と数か国での活躍を比較 すれば、おのずと秀吉の武功が第一である。 光秀と秀吉の順番を入れ替え、分限の小さい恒興の活躍をその後ろに置き、さら
に翻って勝家の武功を誉めそやしているのである。 要するに、この時点での織田家中の武勲では、秀吉・秀長兄弟が最高位であった。
兄弟は、江北に加え、播磨・但馬の二か国、因幡・伯耆の一部、与力各の宇喜多 氏を加えると備前、美作にまたがる国々を影響下においていた。 ライバルの勝家は、本国の越前に加え、加賀を手始めに能登、越中への侵攻を本
格化させつつあった。 さすがだね泣かせておいて笑わせる 徳永政二 PR 追伸に添付しておく流れ星 みつ木もも花
「本 能 寺 の 変」 天正10年(1582)6月2日、午前4時。明智光秀率いる1万3千人の軍勢は
本能寺を完全に包囲した。対する信長勢は、150~160人ほど。兵力の 差は歴然。奇襲の約4時間後、光秀による史上最後の下剋上は、信長の自害 によって幕を閉じた。 豊臣兄弟ー「信長・秀吉・家康のそれぞれの城」
「信長の場合」
永禄11年(1568)10月、信長は足利義昭とともに上洛し、室町幕府を再興、
天下静謐をすすめる。そして翌永禄12年に義昭のため京都に城をつくった。 「武家の城」ともよばれた義昭御所である。
「西方石蔵」は、高さ四間一尺(約8㍍)(『言継卿記』山科言継の日記ゟ)
同じく「言継卿記」3月7日の条には「内の磊」(いしくら)とみえ、石垣を
そなえた城が京都にあらわれたとある。さらに元亀元年(1570)の条に、西南角 には「坤角(ひつじおさる)」「三重櫓」とあり三階建ての高層建築物であり、 天主も備えたものだった。 武家の城が永禄12年4月に完成すると、信長は「妙覚寺」に移る。
信長は、永禄11年の上洛以降、京都に長期に滞在することもなかった。
すなわち信長は、京都に自らの拠点をおく意思はなかったということである。
ただ信長が京都に城を持たなかったことが、本能寺で明智光秀の謀反をたやすく
成功さたことになったのは疑う余地はない。 人生の旅路の果てのケアハウス 原 洋志
「秀吉の場合」
妙顕寺は、二条室町の妙覚寺と規模が同じで、その西側にあたる二条西洞院に
位置していたから、秀吉は妙覚寺を意識したものだろう。 秀吉は、その妙顕寺を城地としたうえで「外城の堀」を掘るなど大普請をほど
こし信長が築いた「武家の城」と同様の二重構造の城にした。 その上天守も築いた。そしてこの城は「二条の屋敷」とよばれる。 のちに徳川家康が築く「二条城」より先に秀吉の「二条城」が存在した。
秀吉が京都に城を構えたのは、本能寺の変という教訓や信長のような教諭人で
なかったため、京都との距離感を意識する必要がなかった。 もっとも、秀吉は、この「二条城」を拠点としていたのかといえば、そうでは
なかった。(秀吉が在京していないときは家臣の前田玄以の宿舎としていた) この時期の秀吉の拠点といえば、天正11年以降「大坂城」であった。
山門の仁王真っ赤な仁王立ち 中川喜代子
西本願寺の飛雲閣 聚楽第から移築されたものと伝わる。 「聚楽築城」
天正15年(1587)9月、秀吉は「聚楽御移徒」(じゅらくおわたしまし)を
築城する。この城造りは、1年以上の時間がかけられたと同時に、「聚楽」は 「歓楽の集まり」という呼び名、つまり「楽園」という呼び名もつけられた。 秀吉は「二条城」で一度として正月を迎えたことがない。 縄張をほどこすにあたっても「武家の城」や「二条城」が立地していた洛中で はおのずと碁盤の目状の条坊に規制を受けざるを得ず、不自由さを感じたため だろう。ただし正月を迎えるようになったとはいえ、それは移徒した年の天正 16年の正月からではなく、それから2年もたった天正18年正月からであっ た。その目的は、前年5月に誕生した若公(つるまつ)を京都に迎えることに あったものと思われれる。 このようにして、秀吉は、京都において信長のおこなってきた城づくりを継承
しつつも、それを乗り越えるかたちで「聚楽」を築城し、そこに後継者である 若公とともに拠点を移すことで、信長政権を名実ともに過去のものとすること に成功したのである。 正解がこんな近くにあったとは 通利一遍
家康が建てた二条城が描かれた洛中洛外図 (勝興寺蔵)
二条城と徳川家の歴史上の大きな関わり。
慶長16年(1611)、家康と豊臣秀頼の間で開かれた)「二条城会見」。 慶應3年(1867)15代将軍・慶喜が「大政奉還」の意思を表明した。 徳川幕府の始まりも終焉もこの二条城であった。 遠侍 三の間 《竹林群虎図》
二の丸御殿最大の建物。来殿者が最初に立ち入るこれらの部屋は、襖や壁
の絵から「虎の間」とも呼ばれる。獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の
権力の大きさを実感させたことだろう。
『唐獅子図屏風』 狩野永徳
黒 書 院 「家康の場合」
慶長8年(1603)、徳川家康は、かつての聚楽第の南に京都御所の守護と将軍上
洛時の宿泊所のために「二条城」を築いた。寛永3年には、御水尾天皇行幸に あたり、城を現在の規模に拡張し天守閣や本丸御殿などを造営、二の丸御殿は 徳川家の御用絵師・狩野派一門によって華やかな障壁画に彩られた。 能や和歌の会を盛大に催し、もてなした5日間、絢爛豪華な城に天皇を迎える
ことで、朝廷を敬いながら、政の外におき、徳川の権威を世に知らしめた。 しかし、約260年後の慶應3年(1867)、15代将軍・慶喜が二の丸御殿にて
「大政奉還」の意思を表明。始まりも終焉もこの二条城であった。
古時計メトロノームにして眠る 井上恵津子 おい不死身右が二重になってるで 酒井かがり
『瓢軍談五十四場 第九此下宗吉郎再び須股の砦を築く』 (国立国会図書館) 「豊臣兄弟」ー長浜城
長浜城再現ー長浜城歴史館へ 天正元年(1573)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から
浅井氏の領地を拝領した際に、当時今浜と呼ばれていた地を「長浜」と改め、
城とを築きました。長浜城は、秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下
町経営の基礎を醸成した所でもある。
「長浜城下町の復元図」
秀吉治世下の地図で上部に長浜城が見える、町割りは古代律令制のなごり、
湖は琵琶湖。
浅井長政ー肖像画 長浜城に入った小一郎は二の丸御殿に上がった。
真新しい御殿の中を案内され、謁見の間に通された。
上段の間には、すでに秀吉の姿があった。
白の羽織に鼠色の袴を合わせ、満面の笑みを浮かべている。
「よう来た小一郎。どうじゃ、この城は」
子どものように声を弾ませる秀吉に、小一郎は柔らかく応じる。
「よき城かと」
「じゃろ」
小一郎は人払いをした。家臣たちはおろか、刀持ちまで下がったのを受け、
中段の間の真ん中に座ると、真新しい畳に手をつく。
「改めて兄上、この度は祝着至極にて。ときに兄上、お伺いしたいことが
ございます」 「なんじゃ」
「兄上はなぜ、小谷城を用いられなかったのですか。この城の普請にはかなり
の銭を使っております。当家の銭を預かる者として、兄上の御存念をお伺いし たく」 他人とは比べない日の運の良さ 上西延子
「なら、小一郎、お前が当ててみい」
頓狂な声を上げた小一郎をよそに、秀吉はにんまりと笑った。
秀吉には子どもめいたところがある。小一郎はしばし考え、答えた。
「小谷城の守りに、疑問を抱かれたからでは」
小谷城を落とした立役者ゆえに、城の弱点、今後の普請のしにくさに気付いた
のではないか、というのが小一郎の考えだった。特に京極丸の脆さは如何とも し難い。秀吉は笑みを浮かべたまま何もいわない。 促されているような心地に襲われ、小一郎は別の見方を披露する。
「琵琶湖の押さえを欲されたのですか」
古来、琵琶湖は海上運搬が盛んだった。近江を抑えるにあたり、琵琶湖に睨み
を利かせることには、軍事のみならず、経済上の意味があった。 止まらない独白 発火するルンバ 宮井いずみ
秀吉はなおも曰くありげに笑みを浮かべている。
小一郎は別の考えを口にした。
「では単純に、山城を嫌われたのですか」
山城は堅牢だ。その分、普段の生活や、政には向かず、城下町を築きづらい
欠点がある。平城は山城とは利点欠点が逆転しているものの、長浜城のよう に水を引き込めば、その弱点を補える。
が秀吉はなにも言わない。何かを待っているようだった。
まさか、小一郎は言った。
「お市様をお迎えするために新たな城を築いた、などとは申しますまいな」
こめかみのあたりに浮いているけれど みつ木もも花
かつての夫の居城である小谷城に、お市を迎えるなどという不調法はしたく
ない、という気遣いなのでは、というのが小一郎の謂いだった。 お市の方は助け出され、今は静かに暮らしている。風向きが変われば、誰かの
妻に「下賜」されることもありうる。その日のための皮算用なのだとしたら。 すると秀吉はしとねから立ち上がり、縁側へと向かった。
庇から差し込む光が、秀吉の身体を溶かす。
「切れ者だのう、小一郎は、一を聞いて十を知る男じゃ。しかしお前は、小さ
くまとまっとるでよ」 「どういうことですか」
「どうして、わしの狙いが一つだと思うんじゃ」
小一郎は息を呑んだ。
両方に耳があるのに聞きのがす 藤井美沙子
お市の方 理由を一つに絞り込む必要などない。小谷城は防御上の脆弱さや、琵琶湖の押さ
えとならない点、城下町の広げづらさ、お市の方を迎える際の不都合など、問題 が山積みしている。 むしろ、小谷城の種々の問題を克服する形で、長浜城は構築されている。 秀吉は振り返りもせず、言った。
「そもそもこの城は、次に向かうための布石じゃ。わしはもっと大きくなる。
小一郎、お前の働きに期待しとりで」 兄には一生敵わないかもかもしれない。
小一郎はこの瞬間にそう悟り、秀吉に深く平伏した。 畳についた指は、いくら力を込めても震えが止まらなかった。 きびなごの目玉をすべて取り除く きゅういち 融通のきかぬぶっきらぼうな石 山本早苗
姉川合戦図屏風 (福井県立歴史博物館蔵)
「『日本戦史』(旧陸軍参謀本部編纂)によれば、浅井軍8千人、朝倉軍1万 人で、対する織田軍2万3千人、徳川軍6千人で、午前5時に始まり午後2時
に終わったとされています」と説明版の解説。 「豊臣兄弟」ー姉川の大合戦
天正元年(1573)8月、上洛した信長は、畿内周辺の大名に参集を命じた。
しかし、これに従わない者がいた。越前を本拠とする浅井氏である。
信長は大軍を擁し、朝倉を攻めた。朝倉はなすすべなしかと思われたが、
大きな波乱が起こる。織田と同盟を結んでいた近江の浅井が、敵方の朝倉に 寝返り信長を挟撃したのである。俗にいう「金ヶ崎の戦い」である。 この窮地から辛くも脱した信長(小栗旬)は、浅井・朝倉に反撃しようと足
利義昭(尾上右近)や徳川家康(松下洸平)に援軍を要請。しかし、2人は 内心信長の失脚を願い、動きが鈍い。 少しずつウソが上手になりました 太田ちかよし 一方、木下小一郎(仲野太賀)と木下藤吉郎(池松壮亮)は市(宮崎あおい)
を逃がすための時を稼ぎたいが、市の想いは浅井長政(中島歩)とともにあり、 策は実を結ばない。その中、信長は北近江へ進軍を開始。姉川を挟んで対峙し、 ついに両軍は、対決の時を迎えつつあった。 元亀元年(1570)6月19日には、浅井氏の居城、小谷城の近くにある虎御前
に砦を築き、近隣の横山城を結ぶ巨大な要害を備えた。 信長は対立姿勢を取る三好三人衆への牽制、本願寺や六角氏との和睦にあたり、
自身を取り囲んでいた包囲網の解体に動いた。 直線の一番端にあるけじめ 寺川弘一
しかし、元亀4年2月、京にいた足利義昭が反信長の兵を挙げた。信長との不 仲に加え、武田信玄が徳川家康を破ったとの報せをうけてのものだった。 ところが、信玄はその直後に急死、結局この挙兵は失敗に終わる。
そうして畿内の地ならしを終えた信長は、朝廷に働きかけ天正に改元させると、
棚上げしていた「浅井・朝倉攻め」に乗り出した。 まず、虎御前山砦に本陣を置いた。すると朝倉勢が小谷城の救援に現れた。
手ぐすね引いて待ち構えていた信長は、朝倉に攻撃を開始、撤退する朝倉を
「刀根坂」の戦いで破ると、その勢いを駆って本領の越前まで攻め上がり、 ついに朝倉を滅ぼした。そうして後顧の憂いを断った信長は、総仕上げであ
る小谷城総攻撃を決めた。 鉛筆で書いた戦争なら消せる 高橋謡々
「姉川の戦い」以降、秀吉軍は横山城に詰め、浅井氏の抑えに当たっていた。
大過なくこなしてはいるが、信長は「大過なく」ほどの働きで家臣の功を認め
る主君ではない。秀吉は小谷城の方角に目をむけ、ぼやくように言う。 「大功が要るのう。でないとお市様は貰えんわ」
信長の妹で、浅井長政の妻に収まっているお市のことである。
常日頃、秀吉は、お市の方への思慕を口にする。
城持ちの夢と並べて軽くいうから、誰も本気とは受け取っていない。 しかし小一郎は、お市の方を語る際、秀吉の口吻に湿り気めいたものが混じっ ているのに気付いている。 カミソリが無ければ髭は引っこ抜く 清水すみれ
小 谷 城 説 明 図
「兄上、無礼ですぞ」
「ここだけの話じゃ、気にするでにゃあ~わ。とにかく、明日の総攻めでは、
何が何でも目立たないといかん。で、じゃ。わが弟よ、ちょっと相談に乗って くれい」 秀吉は置楯で作った卓に、一枚の巻紙を広げた。小谷城の普請図だった。
小谷城は「つ」の字型をした山の尾根に築かれた山城である。
大手道から本丸、中丸、京極丸、小丸が連結し頂上の大城城と接続されている。
それ以上喋るとみじん切りの刑 岡内知香
一方、もう一方の尾根には山崎丸、福寿丸といった曲輪があり、やはり大嶽城
に繋がっている。大手道から攻め上がるにも、数々の小さな曲輪が連結してい るため、敵方の抵抗が予想される。 「山崎丸や福寿丸を経由し、大嶽城を先に奪うのが常道でしょう」
小一郎が述べると、秀吉が首を振った。
「それじゃ目立たん。わしが考えたのはこうじゃ」
秀吉は扇の先で京極丸を指した。
垣を登ってここを奪う。そうすりゃ、敵の連係を絶てる。目立つで」
「そのためには、多くの血を流すことになりますぞ」
「その方が目立つじゃろ」
何がおかしいのか、秀吉はくつくつと笑った。
グーの手をほどいてドングリの秘密 前中知栄
小一郎の反対をよそに、この策は実行された。
最初から、小一郎の考えを聞く気など秀吉にはなかったらしく、その日の夕方
までには用意が調った。夜襲の形で実行されたこの攻撃は、拍子抜けするほど に旨くはまり、ほとんど犠牲もなく成功した。 この戦功を賞され、秀吉は浅井旧領の一部を拝領するに至ったのだった。 正解は一つだけだと譲らない 津田照子 不器用が一生かけて紡ぐ詩 合田留美子
小谷城攻めの合間ー秀長-伊勢長島へ出陣する 「大河ドラマ豊臣兄弟が面白いわけー」
秀吉秀長兄弟が、信頼できる史料に登場した時の名字は木下だが、もともと
名字を持っていたのか、何かの由来をもとに、木下を名乗りはじめたのかは
分からない。寧々(秀吉の妻 浜辺美波)の命名説もある。
中村出身なので、中村藤吉郎と称したというが、これまた信頼できる史料で
は確認できない。ともかく秀吉・秀長兄弟の出自は、不明であり、武士身分
だったか、百姓をしていたのか、また非農業民だったのかすら分からない。
若い頃に、尾張国を出た秀吉が舞い戻ってきて出世し、百姓をしていた弟・
秀長を自分の家来としたという通説もやはり根拠に乏しい。
秀長は名乗る前の名は「長秀」であり、「長」の字は、秀吉の主君でもある
織田信長からの偏諱(へんき)と思われ、信長の書状や「信長記」から三十
四歳の頃、信長の直臣になったものと推測される。
花占いに最後を託すことにする 竹内ゆみこ
信長の草履を懐に温める足軽時代の藤吉郎 『太閤記』(小瀬甫庵)ゟ
秀吉は永禄元年(1558)、二十二歳の時に信長に奉公人として仕えたという。
父・妙雲院殿(弥右衛門、出家して築阿弥)は、元は清須織田家に仕えた
在村被官であったとみられるが、秀吉が七歳の時に死去していた。
そのため秀吉は、十歳から二十歳の時に諸国に放浪したという。
信長に仕えたあと、二十九歳で足軽という下級兵士になり、次いで所領を
与えられて、直臣になり、さらに侍大将という有力家臣へと矢継ぎ早に出
世したとされる。そして永禄八年(1565)には、美濃の領主の調略を担う有
力家臣までになっている。
秀長は、四歳年長の兄秀吉が、生地の尾張愛知郡中中村を出て行ったあと、
妙雲院殿の百姓家を継いだ。そうしたなか、信長(小栗旬)の有力家臣に
なっていた秀吉から誘われて、村を出て信長の家臣になったと推測される。
ともに百姓であった両者は、信長に仕えその家臣になったことで、その後
に政治的に台頭していく出発点を確保したのである。
満たすより零さぬことを覚えた日 稲葉良岩
豊臣兄弟ー秀長の妻女
小一郎と直は喧嘩もあり仲もよかった 小一郎(秀長)の幼なじみであり、恋人という尾張国中村の土豪の娘・直 (白石聖)の乙女チックな存在は、「直ちゃんロス」の現象も引き起こし
たほどドラマ上の設定で創作のサービスシナリオであろうか。
直の死後、美濃斎藤氏の家臣であった西美濃三人衆の一人・安藤守就(田
中哲司)の娘・慶(吉岡里帆)との縁談が調う。父・守就は、もともと美
濃国の斎藤氏の家臣、西美濃三人衆と呼ばれる有力者の一人だったが、永
禄十年(1567)もともと不仲な龍興を娘婿でもある竹中半兵衛(菅田将暉)
と謀反を計り、織田家に身を寄せ、その家臣として、美濃国北方城を本拠と
した人物である。 おさまってしまうあなたのぬくもりに 高橋レニ
慶(慈雲院)
「秀長の正室」
正室の名前は不明だが、秀長生前中は「大納言殿御上」「大納言殿
御内」などと尊称されている。秀長没後には「慈雲院」と呼ばれた。
秀長は天正十三年(1585)に和泉の国、紀伊国に加え、大和国も拝領
して大和入りする。秀長が大和国を領国としたことで、大和に残る
寺社の史料に慈雲院のことが記載されている。
翌天正十四年五月、大和に来た秀長の母・大政所と共に、慈雲院は
春日大社へと参詣した。この年の九月、慈雲院は総勢「百四、五十
人」の行列で春日大社に参詣している(『多聞院日記』)。この後、
天正十八年に至るまで、慈雲院は大政所と共に度々春日大社に詣で
ており、姑の大政所とは仲がよかったと思われ、大政所が郡山を訪
問した時には、一緒に能を鑑賞したりしている。
置かれた場所で器量よしになる翼 瀬戸れい子
慶と父・安藤守就(田中哲司)
秀長の正妻・慈雲院は秀長没後も郡山に残り、養子秀保(関白豊臣
秀次の次弟)の後見を務めたようである。薬師寺、新薬師寺、春日
社などに参詣したり、また横浜一庵を奉行として戒壇院の再興にも
力を尽くした。
秀保没後は郡山を離れ、京都に暮らした。『大和国著聞記』による
と大和国で約二千石を領知しており、生活に困ることはなかった。
慶長十三年(1608)には、高台院とともに、尾張国の津島神社の堀田
馬大夫の檀那として音信し、同十五年にも祈祷を依頼している。
どなたとも喋らず十日目が過ぎる 清水すみれ 大和大納言秀長 「秀長の側室」
秀長に何人の側室がいたかは不明だが、少なくとも大和大納言時代
には少なくとも一人の側室が確認できる。
大和の国衆秋篠氏の息女とされ、「摂取院」「光秀尼」「興秀尼」
「興俊比丘尼」などといわれる女性である。「お藤さん」とも呼ば
れている。法華寺の比丘尼だったが、秀長の側室になったという。
秀長没後に比丘尼となったという史料もあり、こちらが自然である。
秀長との間に生まれた息女は、小早川秀秋の妻室となり、のち毛利
輝元の養子秀元に妻稼したと思われる。
通説では、秀秋の妻室は、毛利輝元の養女とされているが、その前
に秀長の息女と婚姻していた。(『豊臣秀長』ゟ)
文禄三年(1594)三月三日の祝言には、実母として摂取院も臨席して
いる。摂取院は元和八年(1622)十二月八日七十一歳で没。
逆算すると天文二十一年(1552)生まれとなり、秀長が大和入りした
時には三十四歳だったことになる。
指切りは隣の指に内緒です 黒田るみ子 「撮影真っ最中、慶の初登場シーンから」
今回、小一郎の正妻として生涯をともに歩み、やがて藤吉郎の妻・寧々
(浜辺美波)とともに豊臣兄弟を支える存在となる慶が初登場。
しかし、セリフもなく、どこか含みのある表情を浮かべて独特な雰囲気
を放っていたことから、S N S 上では「正妻きたー!」「笑顔がなくて
も美しい」「ミステリアス」「想像と全然違った」「意味深すぎる」
「異様な存在感がある」「一体何者?」「お堂で何してたんだろう」
「謎だらけ」などの声が上がった。
また4月5日に放送の第13話のサブタイトルが「疑惑の花嫁」だった
ことにも注目が集まり「疑惑?怖いなぁ…」「気になりすぎる」
「1週間待てない」「面白くなってきたー!!」といった声も上がり、
今後の展開に期待が高まっている。
身の丈の暮らしに咲いた花の数 津田照子
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