- 2026/06/14
- Category : アルバム(風景)
ニュースー「飛鳥・藤原の宮都」世界文化遺産登録へ
ニュースー奈良「飛鳥・藤原の宮都」世界文化遺産登録へ
構成資産の一つ、高松塚古墳の西壁「女子群像」
日本の古代国家誕生の歩みを示す宮殿跡や寺院跡、墳墓で構成される遺跡群
「飛鳥・藤原の宮都」(奈良県橿原市、桜井市、明日香村)が、国連教育・
科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される見通しとなった。
「飛鳥・藤原の宮都」(奈良県橿原市、桜井市、明日香村)が、国連教育・
科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される見通しとなった。
ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)が「登録」を勧告
したと、文化庁が6日発表した。
したと、文化庁が6日発表した。
登録されれば、国内の世界文化遺産は、2024年登録の「佐渡島の金山」に続
き22件目、奈良県内では「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」
紀伊山地の霊場と「参詣道」とあわせて4件目となる。
紀伊山地の霊場と「参詣道」とあわせて4件目となる。
高松塚古墳の東壁「青龍図」
これらは、今からおよそ1400年前の、6世紀の終わりから8世紀の初めの約
100年という短い期間に、日本が、中国や朝鮮半島の国々と、交流を行ない、
100年という短い期間に、日本が、中国や朝鮮半島の国々と、交流を行ない、
政治制度や最先端の建築や土木技術を取り入れるとともに、それまでの文化
と技術とを融合し「宮殿・官衙跡」「仏教寺院跡」「墳墓」の形やそれぞれ
の位置関係を急激に変化させ、律令制度に基づいた日本独自の、天皇を頂点
とした「中央集権国家が誕生」した過程を証明できる唯一の遺産です。
と技術とを融合し「宮殿・官衙跡」「仏教寺院跡」「墳墓」の形やそれぞれ
の位置関係を急激に変化させ、律令制度に基づいた日本独自の、天皇を頂点
とした「中央集権国家が誕生」した過程を証明できる唯一の遺産です。
初代天皇・神武天皇
日本の初代の天皇である神武天皇が、紀元前660年に現在の奈良県橿原宮で
初代天皇に即位した。この伝承をもって、日本の建国と考えられている。
初代天皇に即位した。この伝承をもって、日本の建国と考えられている。
「日本国の誕生」
”あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいまさかりなり”
「あおによし」は「なら」にかかる枕詞。「あおに(青丹)」は染料の原料
となる土で、古くからこの地域の特産だったらしい。奈良が極彩色に彩られ
た建造物で埋め尽くされた様に、ぴったりの表現である。
西暦710年、元明天皇は、都を平城京に遷した。その後、784年に桓武天皇に
よって長岡京への遷都が実施されるまでの70年あまり、奈良は日本の都だっ
よって長岡京への遷都が実施されるまでの70年あまり、奈良は日本の都だっ
た。645年の「乙巳(いつし}の変(大化の改新)」以降には、孝徳天皇が難
波、天智天皇が大津に都を置き、飛鳥の地を離れて、新しい政治拠点としての
都市を造るつもりだった。
波、天智天皇が大津に都を置き、飛鳥の地を離れて、新しい政治拠点としての
都市を造るつもりだった。
だがそれは、理念にとどまり政変が起きたため長続きしなかった。
672年、天武天皇が「壬申の乱」に勝利すると、都は再び、大津から飛鳥へ戻
り元明天皇までの四代の天皇は、この地にとどまった。
り元明天皇までの四代の天皇は、この地にとどまった。
奈良は飛鳥の北に位置する別の盆地であった。当時の宮廷にとっては、かなり
遠方であったこの盆地に都を遷すことによって、元明天皇という女帝を頂点に
戴く政府は、新しい時代の開始を象徴的に宣言したのである。
そう、彼らが治めたのは「日本」という名の国であった。
遠方であったこの盆地に都を遷すことによって、元明天皇という女帝を頂点に
戴く政府は、新しい時代の開始を象徴的に宣言したのである。
そう、彼らが治めたのは「日本」という名の国であった。
指導者は、藤原不比等。彼を中心にして編纂された法典が、702年に刑部親王
の名で公布される。「大宝律令」である。
の名で公布される。「大宝律令」である。
この法典完成に併せて派遣された遣唐使が、初めて「日本」という国号を名乗っ
たのだ。「日本国の誕生宣言」であった。
たのだ。「日本国の誕生宣言」であった。
藤原京・朱雀大路跡
朱 雀 大 路
目抜き通りであった朱雀大路は、道幅が80㍍近くもあったという。
これほど広い道がなぜ必要だったかといえば、儀式のためである。
朱雀大路は、外国の使節にこの道を通らせることは、日本が一人前の文明国
であることを知らせる良い機会だった。
であることを知らせる良い機会だった。
このような平城京の構造は「都とはかくあるべし」というモデルとして続く
「長岡京」や「平安京」にもだいたい踏襲された。
ところが、日本政府が奈良に移転する直前、飛鳥にはすでに巨大な都が存在
していたのである。その都の名は「藤原」という。
中国では、帝王は、国土の中央に都市を建設し、そこに宮殿を設けて全国を統
治するという理念があった。この理念は、新しい国造りを進める周辺国にも影
響を及ぼした。日本の「藤原京」はその好例である。
治するという理念があった。この理念は、新しい国造りを進める周辺国にも影
響を及ぼした。日本の「藤原京」はその好例である。
天武天皇は「壬申の乱」で甥の弘文天皇を打ち破り、近江大津宮から「飛鳥浄
御原宮」(あすかきよみのはらみや)に遷都した。天武天皇はやがて、単なる
御原宮」(あすかきよみのはらみや)に遷都した。天武天皇はやがて、単なる
「宮」ではなく、都市域をかかえた中国風の文明的な「京(みやこ)」の建設
を志す。しかし、彼の代には実現せず、この事業はあとを継いだ妻の持統天皇
のときに本格化する。
を志す。しかし、彼の代には実現せず、この事業はあとを継いだ妻の持統天皇
のときに本格化する。
藤 原 京
「飛鳥・藤原の宮都」
南から見た図。5km四方の京域に十条十坊が敷かれたと言われる。
中央には1km四方の藤原宮。北には耳成山、南西からは緩やかな丘陵が延び
ていた。藤原京はこれまでの飛鳥の都と異なり、日本で初めて条坊が敷かれ、
ていた。藤原京はこれまでの飛鳥の都と異なり、日本で初めて条坊が敷かれ、
官人をはじめ、人々が集住するよう設計された都城である。
後方に見えるのは、大和三山の一つ耳成山(みみなしやま)。
694年、造営事業尚なかばであるにもかかわらず、飛鳥浄御原宮からこの新
しい都への引っ越しが行われた。『日本書紀』ではこれを「荒益京」と表現
しているが、「藤原宮」という呼称にちなんで、現在では「藤原京」と呼ば
れている。
しい都への引っ越しが行われた。『日本書紀』ではこれを「荒益京」と表現
しているが、「藤原宮」という呼称にちなんで、現在では「藤原京」と呼ば
れている。
16年後の710年には、平城遷都となってしまい、かつ藤原京は、その後、都市
として機能していなかったため、その実像は長いこと謎に包まれていた。北に耳成山、西に畝傍山(うねびやま、東に天香久山と場所が大和三山に囲ま
れているため、「京」とはいっても東西1㌔、南北3㌔程度の小規模な都市で、
それゆえ、すぐに大規模な平城京が造営されることになったのだろうと、想定
されてきた。学校の教科書においてもその程度の藤原京認識であった。
れているため、「京」とはいっても東西1㌔、南北3㌔程度の小規模な都市で、
それゆえ、すぐに大規模な平城京が造営されることになったのだろうと、想定
されてきた。学校の教科書においてもその程度の藤原京認識であった。
ところが、1990年代以降の発掘調査によって、町を東西に貫く幹線道路が見つ
かり、どうやら5㌔四方はある巨大な都だったらしいと判ってきた。
その場合、大和三山は、京の外側でなく内側にとりこまれていたことになり、
平坦な場所に都市を築くという常識から外れているが、この常識を七世紀末の
日本政府が持っていたかわからないのだから、あり得ない話ではない。
かり、どうやら5㌔四方はある巨大な都だったらしいと判ってきた。
その場合、大和三山は、京の外側でなく内側にとりこまれていたことになり、
平坦な場所に都市を築くという常識から外れているが、この常識を七世紀末の
日本政府が持っていたかわからないのだから、あり得ない話ではない。
教科書では、平城京に比べて小さな扱いしか受けていないが、今後さらに調査
が進んで実情がわかってくると、今度は私たちの側の「常識を覆す」可能性を
秘めている。もしそうなったら橿原市は「神武天皇の都」という伝説ではなく
「持統天皇の偉大な都」という事実になっているかもしれない。
が進んで実情がわかってくると、今度は私たちの側の「常識を覆す」可能性を
秘めている。もしそうなったら橿原市は「神武天皇の都」という伝説ではなく
「持統天皇の偉大な都」という事実になっているかもしれない。
「飛鳥・藤原の資産」
「飛鳥・藤原」は、飛鳥時代(6世紀末~8世紀初め)に、中国大陸や朝鮮
半島との緊密な交流のもと、日本で初めて中央集権体制が成立した過程を示す
「19件の資産」で構成される。
半島との緊密な交流のもと、日本で初めて中央集権体制が成立した過程を示す
「19件の資産」で構成される。
政治や儀式の場で後代にも影響を与えた「飛鳥宮跡」や中国の都城にならった
藤原京の中心に位置する「藤原宮跡」、極彩色壁画で知られる「高松塚古墳」
や「キトラ古墳」、巨石を用いた石室が見られる「石舞台古墳」など、外来文
化の導入と日本固有の伝統との融合を示す遺跡が含まれる。
藤原京の中心に位置する「藤原宮跡」、極彩色壁画で知られる「高松塚古墳」
や「キトラ古墳」、巨石を用いた石室が見られる「石舞台古墳」など、外来文
化の導入と日本固有の伝統との融合を示す遺跡が含まれる。
主な構成資産と所在地
✦ 19件の資産とは次の通り
① 飛鳥宮跡 ② 飛鳥京跡苑池 ③ 飛鳥水落遺跡
④ 酒船石遺跡 ⑤ 飛鳥寺跡 ⑥ 橘寺跡
⑦ 山田寺跡 ⑧ 川原寺跡 ⑨ 石舞台古墳
⑩ 菖蒲池古墳 ⑪ 牽牛子塚古墳 ⑫ 藤原宮跡
⑬ 大官大寺跡 ⑭ 本薬師寺跡 ⑮ 天武・持統天皇陵
⑯ 中尾山古墳 ⑰ 檜隈寺跡 ⑱ 高松塚古墳
⑲ キトラ古墳
飛鳥宮跡
飛鳥京跡苑池
酒船石遺跡
石舞台古墳
牽牛子塚古墳
藤原宮跡
天武・持統天皇合同陵
キトラ古墳
高松塚古墳
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