- 2012/05/13
- Category : ポエム&川柳
建春門院・滋子
「観音霊験記 西国巡礼十五番・山城京今熊野 後白河」
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「建春門院(平滋子)」
滋子(しげこ)は、堂上平氏・平時信の娘。
清盛の妻・時子や時忠とは、異母兄弟である。
もとは後白河院の姉・上西門院統子に仕える女房で、
小弁と呼ばれていた。
その関係から後白河院の寵愛をうけ、
応保元年(1161)に憲仁親王(高倉天皇)を産んでいる。
(余談だが、のちに時子の娘・徳子が高倉天皇に入内している。
いわゆる、いとこ同士の婚姻が行なわれたことになる)
真珠から神が検出されました 湊 圭史
仁安3年(1168)高倉天皇の即位により、
皇太后に冊立、
嘉応元年(1169)に院号宣下を受け、
女院になっていた。
清盛と同じ平氏とはいっても、
時子や滋子が属した平氏(堂上)は、
武士ではなく、代々摂関家の家司を務める公卿で、
故実に通じた貴族であった。
言の葉にうっすら紅を載せてみる 合田瑠美子
後白河院は、生涯で34回も熊野参詣に行っているが、
建春門院も、それに何度か同道している。
また福原における千僧供養にも、
後白河院は、建春門院を伴っており、
非常に寵愛していたことがわかる。
いつも唯笑って君の傍にいる 森吉留里恵
建春門院については、
藤原定家の姉・健寿御前が記した『たまきはる』に、
何事にも几帳面で、
周囲への細やかな気配りを欠かさないなど、
その聡明な人柄が記されている。
また、建春門院のもとに初めて出仕し、
対面を果たした健寿御前は、
「この世の中には、こんなに美しい人がいるのかと思った」
と記している。
≪また、建春門院は、後白河院が熊野詣でなどで不在のときに、
政務運営に参加していた・・・と推測される≫
声をかけられずに横顔を見つめ 杉本克子
「たまきはる」にも、建春門院が、
「政治において思いのままにならないことは何もなかった」
と記されている。
建春門院が、このような人物であったからこそ、
政治的に対立を深めつつあった清盛と、
後白河との間に立って、両者を仲介する、
役割を果すことができたのであろう。
清盛にとって建春門院は、
後白河院との関係維持のため、
欠かすことのできない、貴重な存在であった。
コーナーキックからお茶室に移る 井上一筒
建春門院が両者の間に立って、
政治的に仲介する役割を果たしていたため、
なんとか、協調関係は維持されていた。
そんな中、安元2年(1176)6月初旬頃から、
建春門院の体調不安が伝えられ、
7月8日、種々の祈祷もむなしく法住寺において没し、
2日後、蓮華王院の東の法華三昧堂に葬られる。
(そのわずか1年後に鹿ヶ谷事件が起こる)
※ 蓮華王院=京都し東山区にあった法住寺殿の一院として、
後鳥羽法皇が造営。俗称ー三十三間堂。
真下から真近で説教白い骨 岩根彰子
本 宮
新 宮
那 智
「熊野詣」
紀伊国の熊野本宮・新宮・那智の三社(熊野三山)への参詣。
極楽往生を願う人々の信仰を集め、
全盛期の院政期~鎌倉初期には、
後白河34回、後鳥羽30回など、
頻繁な御幸があった。
従者も千人に及び、沿道の農民の負担は大きかった。
京都からの道筋の随所に熊野王子が祀られ、
100を超えて超えていたという。
わが首とゆかりの寺の花の首 森中惠美子
「藤原頼長の命運」
院政の続く天皇家の内部抗争と、
時を同じくして、
藤原摂関家でも、家督争いが起きていた。
藤原忠実は、長男の忠通より、
次男の頼長の方を寵愛し、
一度は忠通に家督を継がせて、
近衛天皇在任中に忠通が関白を務めるが、
事ある毎に引退をすすめる。
しかし、忠通は拒否し続け、
とうとう忠実は忠通を勘当して、頼長を内覧にしてしまう。
≪関白の忠通とは別に、内覧もいるという奇妙な事態が発生する≫
氷点下28度のおうどいろ 蟹口和枝
一方、頼長は、せっかくの地位まで昇りながら、
鳥羽上皇の寵臣と喧嘩し、
乱闘騒ぎを起こして、
鳥羽天皇の信頼を失ってしまう。
更に、仁平5年(1155)、近衛の後継者をめぐっては、
兄の忠通が推薦した後白河天皇が即位してしまう。
ときに後白河 二十九歳。
順番にボタンを押して涙橋 森 茂俊
そして、その年の暮、頼長が拠り所としていた、
妹で鳥羽上皇妃の高陽院・泰子が死去してまう。
更に、近衛天皇が死んだのは、
「忠実・頼長親子が呪詛を掛けたからだ」
という噂が流布する。
頼長の命運はまさに、尽きようとしていた・・・。
あとはもう最終改札口ひとり 片岡加代
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