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川柳的逍遥 人の世の一家言
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かさぶたの下仄かに煮えることがある  たむらあきこ

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    保元合戦図屏風

画面左に「白河北殿」、右側に攻め寄せる「源義朝軍」を描く。

右面・後方でひときわ立派な黒馬に乗り、戦況を見守るのが
義朝

門脇では、弟の
為朝が強弓を引いて応戦する。

門内で騎馬の一団を率いるのは、二人の父親・
為義である。

殿内には、不安そうに戦況を見守る公卿が描かれている。

左上・高欄から身を乗り出しているのは、
藤原頼長だろうか。

(画面上でクリックすると画像が大きくなります)

おいでおいでと四面体のキツネ  山口ろっぱ

c5d2a675.jpeg   


「開戦秒読み」

藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

人々は、「新院方」「鳥羽方」に競って参集しはじめ、

そうした異様な雰囲気が、盛り上がるなかで、

鳥羽の死が、伝えられたのだった。

何色に咲くのか知らぬ種をまく  杉本克子

その夜から、早くも、「新院謀叛!」

という噂が市中を駆けめぐった。

新院方(崇徳方)では、

不穏な情勢下での警護の強化という名目で、

武家に召集をかけ、

柳ノ水の御所には、源氏、平家の武将たちが、

続々と集まり始めていた。

市中を駆ける兵馬は、

いっそう、人々の不安と興奮を煽った。


右向け右の列の怖さを忘れない  森 廣子

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一方、鳥羽の亡骸を守る側は、後白河がいることから、

「内裏方」(鳥羽・美福門院方)と呼ばれ、

得子と入道・信西、忠通らが、新院方の動きに呼応して、

こちらも武家に召集をかけ始めた。

信西は鳥羽の第一の寵臣と、誰もが認めてきた人物で、


下級の公家では、

「うだつが上がらない」 と出家して、

院政体制に食い込んできた辣腕の政治家だった。


眼の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし

当時の武家は、公家階級に比べると、

格段にその地位が低かった。

内裏や御所の警備にあたり、

地方の反乱鎮圧に向かう、

武力行使の専門集団という程度の、存在でしかなく、


摂関政治のころは、

指令を発する藤原氏を主筋と仰いできた。


粘るとはこうして今日も生きること  河村啓子

だが、院政時代になって、

少しづつ意識も変わりはじめ、

しだいに"自我"が芽生えてきた時期にあたる。

こうした情勢下で、摂関家が親子二つに割れ、

鳥羽の死とともに、

それぞれが、武家に召集をかけ始めたのである。

そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子


新院方には、源氏の頭領・為義頼賢(よりかた)

頼仲、為朝など、息子たちを引き連れて参集した。

平家からも、清盛の叔父の忠正

一族の長盛、康弘などの武将が、

手勢を率いて駆けつけた。


てのひらの感情線を握りしめ  谷口 義

一方の内裏方には、為義の嫡男・義朝が駆けつけた。

愛人の常盤が、亡き近衛帝の中宮に仕えていたためで、

源氏一党の落胆は大きかった。

が、為義は源氏嫡流に代々伝わる鎧を届けて、

別れを告げた。


さよならさよなら流れて行くのだね  安土理恵

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60余年前に白河が院政を始めるまでは、

長いこと、摂関政治が行なわれてきた。

つまり、摂政・関白を出す藤原家が、

天皇を補佐するという名目で、政権を握ってきたわけで、

それを天皇家に取り戻そうというのが、

白河が院政を始めた理由だった。


忠実頼長には、新院方について、

重仁とともに、再び

「摂関政治を復活させたい」 という思惑もあった。


どぶ板の含み笑いを聞き流す  井上一筒

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