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川柳的逍遥 人の世の一家言
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芒野とねずみの肝とアンチモン  井上一筒

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  悪源太義平

源氏の棟梁・源義朝の長男。

15歳のとき義平は、大蔵合戦で武名をあげ、


「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる

(クリックすると画面は大きくなります)

「大蔵合戦」

久寿2年(1155年)、義平は父・義朝が叔父・義賢と対立した際に、

義賢の居館・武蔵国の「大蔵館」を急襲し、

義賢や義賢の舅・
秩父重隆を討ちとった事件。

このとき、2歳だった源義賢の子・
駒王丸は、斎藤実盛の計らいで、

信濃国の中原兼遠のもとに逃がれた。

この駒王丸が、後の
木曾義仲である。

義仲は命の恩人である実盛と、「大蔵合戦」から28年後の、

「篠原の戦い」において首実検の場で、

悲劇的な対面(再会)をしている。

首筋に歯型くっきり虫しぐれ  増田えんじぇる

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「主流派対反主流派」

保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が崩御した。

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院は、

後白河天皇守仁親王・関白・藤原忠通を中心に、

鳥羽院旧臣や後白河天皇近臣を束ねて、

派閥の解体を防ぐ一方で、

鳥羽院・美福門院の意向を受けた武家・

平清盛・源義朝・足利義康・源頼政・源重成・

平実俊・関信兼、
などに参集を命じた。

ひとりづつ味方につけていく粘り  立蔵信子

一方、反主流派は、

崇徳天皇・左大臣・藤原頼長を中心に、

彼らの側近や摂関家に仕える、

源為義平忠正、大和源氏の宇野親治といった、

京の武者や、為義が呼び寄せた家人に限られていた。

河内源氏には、為義が頼賢を嫡子に選んだことで、

長子義朝とのあいだに軋轢があり、

鳥羽院は、そこにつけ込んで、

義朝を、院政派(主流派)に引き入れた。

擬態して別の世界で生きてみる  三村一子

両者の衝突は、久寿2年に大蔵館にいた源義賢を、

悪源太義平が急襲して討ち取った、

「大蔵合戦」となってあらわれた。

南関東を勢力圏に収めつつあった義朝の離反は、

大きな痛手であった。

最初から知っていたんだこの痛さ  安土理恵

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平忠盛の後家・池禅尼は、

崇徳院の乳母であったが、

美福門院の勝利を確信し、息子・頼盛に対して、

「清盛とともに天皇方に参ずるよう」 命じた。

家族同様の乳母子にまで離反された崇徳上皇は、

予想外の事態に驚き、

白河北殿に移って、武士を参集させようとしたが、

美福門院はいち早く、

検非違使を京の入口に派遣して、道を封鎖した。

思ったとおり怒ってる泣いている  奥山晴生

7月6日、宇野親冶の子は、

白河北殿に向かおうとしたが、

法住寺付近で平基盛と合戦となり、討ち取られた。

美福門院の手際のよさは、

鳥羽院が最期を意識し始めたころから、

崇徳上皇一派を、武力で制圧する、

意図を持っていたと思われる。

正面の顔がやっぱり阿修羅像  小林満寿夫

7月10日、両派の軍勢は鴨川を挟んで対峙した。

一触即発の情勢に、京の町に緊張が走る。

上皇側は白河北殿、天皇側は高松殿を拠点とした。

そして、7月11日未明に合戦は始まった。

青空へバケツ一杯汲みに行く  和田洋子

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美福門院は、藤原信西源義朝が、

先制攻撃を主張したので、

御所の警固は、官人に委せ、

武家は、新院御所攻撃に向かわせた。

合戦にいたる政治的な駆け引きは、

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院が主導してきたが、

いざ合戦になると、

後白河天皇の乳母夫・藤原信西の手に移っていった。

丁寧に畳まれている蚊帳の外  笠嶋恵美子

崇徳院側では源為義が、

「白河北殿を守り切れないことはないが、

  万一の時には南都に移り、

  源家の家人を集めて、京に攻め込むのがよい」


と主張した。

この会議が続いてるところで、

物見に出していた武者所の官人から、

敵が動いたと報告が入った。

空き缶がころげ出てくる左耳  岩田多佳子

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平家の微妙な立場を反映して、

鳥羽院の容態が悪化したとき、

御所を守るために召集された武士の中に、

清盛の姿はなかった。

鳥羽の恩顧に報いるか、

崇徳との縁故を優先するのか、

自身の決断が、一門の運命を左右するということを、

清盛自身は痛切に感じていた。

断捨離とニアミスをした薬指  和田洋子

もともと後白河天皇は、皇子の二条が即位するまでの、

「中継ぎ」として擁立された。

ただし、中継ぎとはいえ、天皇である以上、

朝廷の頂点に君臨する絶対的な権威、

であることにかわりはない。

後白河の兄である崇徳に院政を行なう資格はなく、

崇徳方につくことは『賊軍』への転落を意味する。

風の要素たるべく不定愁訴  山口ろっぱ

清盛は悩み抜いた。

そして、清盛が結論を出したのは、

鳥羽の死から三日後の、7月5日だった。

京随一の勢力を誇る清盛が、

どちら側につくか、その戦力の差をもって、

戦いの帰趨は、始まる前から、決していた。

足首を19センチ開放す  小嶋くまひこ

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