川柳的逍遥 人の世の一家言
オーイ空五度ほど温度下げて呉れ 石田すがこ
後鳥羽院宸翰御手印置文 乱世に翻弄されながらも歌を詠みつづけた生涯の、終焉の時に 忠臣への深い感謝の念を遺した絶筆 「尼将軍」 摂津国長江倉橋の地頭問題を巡って朝廷と幕府が対立する中、九条道家
の子でわずか2歳の三寅(のちの頼経)が4代将軍として鎌倉に迎え入 れられた。後鳥羽上皇の「摂関家の子なら許可する」という言葉を受け た義時の迅速な対応だった。 三寅は、頼朝の妹のひ孫あたり、父の道家は、親幕府派の九条兼実の孫
でもある。親戚関係は充たしている。 (藤原兼子は実朝の後継者について折衝し、自分が養育した後鳥羽上皇 の息子・頼仁親王を次期将軍にと画策したが、実現しなかった) そして63歳になった政子は、この幼い将軍に代わって政治を執り行う
ようになりそれよえ「尼将軍」と呼ばれた。 少年の手のひらにある花の種 通利一遍 よちよち歩きの幼児と老婆の組合せでは、「将軍の権威」もへったくれ もありはしない。 そこでまず後鳥羽上皇は、寵愛している伊賀局の所領問題を持ちだして ゆさぶりをかけた。 「伊賀局の所領の地頭をやめさせよ」
というゴリ押しを仕掛けてきたのである。
これは朝廷側の常套手段である。
何かと文句をつけて地頭をやめさせようとすることは、これまでも何度 かあった。「また上皇さまはわがままを…」 と、苦虫を噛みながら将軍尼は、後鳥羽の申入れを拒否した。
手拍子もいつか他人とずれてくる 前中一晃
「鎌倉殿の13人」 承久の乱ー② 永井路子ナンバー1論から
後鳥羽上皇にとっての悲願は、鎌倉幕府を打倒することであった。
将軍継嗣が不在する鎌倉は、後鳥羽の眼から見れば、
―鎌倉打倒はいまこそ好機!ーであった。 以後、後鳥羽と鎌倉の間に激しい応酬が続く。
たかが幼児と老婆の寄合所帯と思っていた後鳥羽は、その手強さから、
まざまざと義時の存在を感じとる。
「うぬ、きゃつめだな、張本人は」
ー上皇の命令にも従わないということは謀叛人にも等しいー、
と、勝手に拡大解釈して、後鳥羽は、はっきりと義時に狙いを定める。 翻訳は出来ないウボボイのこころ 合田瑠美子
「義時を討て!」
在京の鎌倉武士にもこう命令する。
それどころか鎌倉の武士にまで密使を飛ばす。
巧妙にも幕府打倒の本心には触れず、 <義時を討てば、莫大な褒美を与える> と、そそのかしたのだ。 <憎いのは義時ひとりだ。幕府を問題にしているのじゃない>
という態度をとり続けた。
こうして鎌倉武士を内部分裂させ同士討ちをさせようという魂胆である。
捨てる場所なくて怒りを持ち歩く 石橋芳山
たしかにこれは作戦としては上策である。 数百年来、その手に握り続けた官職をちらつかせ、恩賞で釣ろうという のも朝廷ならではの甘い罠だ。 かつて義経さえまんまとこれにひっかかっている。 鎌倉武士は、<きっとこれによろめく>、と後鳥羽は踏んだのだ。
今や義時は標的となった。
「ナンバー2面をしているが、ごまかされはせぬぞ!」
「義時、さあ勝負だ!」 後鳥羽は、そう叫んでいる。
自信あればこんなに威張らない 中岡千代美
義時にとっては、「実朝暗殺事件」にまさるピンチである。
<もしかここで御家人たちが、恩賞に釣られ、総崩れになったら>
ーそれを食いとめる力は、さすがに義時も、持ちあわせてはいないはず
だった。が、その生涯の危機にぶちあたると、立往生すると思いのほか、 義時は、ここで後鳥羽にまさる巧妙な手を打つ。 ナンバー2であることをいいことに、ナンバー1代行である政子のロで、 たくみに問題をすりかえさせてしまうのだ。 <義時は別に何も悪いことはしていない。これは不当ないいがかりだ。
上皇の狙いはほかにある。上皇は幕府を潰したいのだ!> 奈落からヌッ親鸞のふからはぎ くんじろう
それから政子は、故将軍・頼朝の業績を長々と述べたてる。
「頼朝公が旗揚げをされる前のそなたたちはどうだったか。
大番という都の警護役に駆りだされて、三年間もただ働き、
まるで都の貴族には、番犬同様の扱いをうけていたじゃないか。 それが大番の期間も短縮され、やっと、人間らしい権利が認められた のは誰のおかげか。 みんな故将軍家のおかげではないか。 そのお計らいでそなたたちの所領も増え、生活も豊かになった。
その恩を忘れる者はよもあるまい。
いや、それでも不服だという者は、この場で鎌倉幕府を見限って都へ
行くがよい・・・そんな恩知らずは相手にしない。 さあ、どちらへつくか、この場で返答するがいい」
塩加減より難しい褒め加減 宇都宮かずこ
後鳥羽の「義時打倒」の声は完全に無視されてしまっている。
すりかえはみごとに成功したのだ。
頼朝のことを持ちだされては、東国武士は反対の言葉を失うのである。 本質的なことを問題にすれば、たしかに政子の言い分は正しい。
後鳥羽の本心を見破っているし、事態把握も正鵠を射ている。
が、より現実的な闘争のテクニックとしてみれば、
これほど厚顔な問題のすりかえはないであろう。 そしてこれがうまく成功したのは、後鳥羽に名指された義時が、
ナンバー2だったという、たった一つの理由による。
勾玉の穴から見える向う岸 笠島恵美子
もし義時が、ナンバー1 であったとしたらー、 どうしても自己弁護になってしまう。 またいくら理屈が通っていても、 「俺のために戦ってくれ」
というわけだから、いまひとつ説得力に欠ける。
が、政子なら、
<義時のために戦えといっているんじゃない。
幕府の浮沈にかかわる、ことだから、幕府のために戦うべきなのだ> ぬけぬけとそういうことができる。
そしてもっと踏みこんでいえば、
この政子の「大演説」を用意したのは、義時だったかもしれないのだ。 もちろん幕府の知恵袋である大江広元もあずかって、力があったとは 思うのだが、根本にあるのは、「ナンバー1の政子とナンバー2の義 時の連携プレー」であろう。 政子は義時と合議の上で「宣戦の詔勅」を読んだのである。
生きていていい作品に仕上げる絵 梶原邦夫 PR |
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