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川柳的逍遥 人の世の一家言
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めそめそ生きてもサバサバ生きても一生 通 一辺  (拡大してご覧下さい)
茶臼山本陣が描かれている絵図のなかで最も有名な『大坂冬の陣図屏風』

右端の望楼のある建物が本陣中央の曲輪内の高まりに家康の居所。
その左、一段下がったところに描かれているのが中央の曲輪の平坦部。
その左側、画面の端に少しだけ見えている水色の部分が、西側の曲輪との
間の堀の一部だと考えられる。中央の曲輪の平坦部から家康の居所に
向かって坂を登っていく武士が描かれている。
坂の上には簡素な門が造られ、門の左右は塀か土塁ではないかと思われる。
門の中には、刎ねられた首が置かれており、
この屏風は下絵なので、その姿は描かれていないが完成した屏風には、
家康が首実検をしている様子が描かれているといわれている。

「江戸川柳ー真田幸村」

城を埋められては城では戦えず、豊臣方は大坂城から遠く離れ、

個々の軍団ごとに野戦の陣を布きました。

各軍団へ連絡役を務めた武将が薄田隼人

「遊軍」と言うは薄田隼人也

― 遊軍は戦列外にあって時機を見て敵を攻撃する遊撃軍。

夏の陣は戦う前から勝負が決まっていたので、任務が遊びに見えた皮肉。

それでも茶臼山に陣を構えた、

幸村は生きる気でない紋所

― 真田氏の紋所は六文銭。

三途の川の渡し賃が六文とされていることから、
生きる気でない。

その覚悟で戦い戦果を挙げ、

敵が粉になる茶臼山御陣

― 粉と茶臼が縁語。

なお茶臼山は冬の陣では、徳川家康が本陣を構えた所。

豊臣方の陣は次々に落とされていき、幸村は秀頼が城から出て戦うよう使者

を何度も送りましたが、淀君「敵に首を取られるのは嫌じゃ」と拒みました。

やがて城に火の手が上がるのを見た幸村は、

「もはやこれまで」と敵陣に突っ込み華々しく討ち死に。

銭の遣いよう大坂知らぬ也

銭がなくなって大坂しまい也

惜しい銭無駄に遣って落城し

―銭は幸村。一句目は商売上手な大坂人を皮肉って、

淀君と秀頼は燃えさかる蔵のなかで自害。

威容を誇った天守閣は、豊臣の重臣が爆薬を仕掛けてすっ飛ばし、

豊臣氏はここに滅びました。

擦り切れた尻尾を見せてくれないか  森田律子


「鹿角・六連銭紋旗指物」(個人蔵)
縦180㌢  横36・5㌢
六連銭は三途の川の渡し賃を表し、信濃の豪族、海野氏の家紋でもあり
真田家は海野氏の出と称していて、同じく六連銭を家紋としていまる。

並べると石は兵士の貌をする  奥山晴生

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