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川柳的逍遥 人の世の一家言
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棒になるならひとこと言ってほしかった 竹内ゆみこ

 
「銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重画)

明治政府の中枢を担った長州藩は国会開設の立役者・伊藤博文
国民皆兵制度推進の山県有朋、条約改正に取組んだ井上馨などを輩出。
ここでは、群馬県令・楫取素彦美和が再婚するまでの時代を中心に
中央の経済や金融の改革、地方の社会・産業・文化の変容などを視る。

「動く明治新時代」 

近代化の進む日本において、地方では藩に代わる府・県のまとまりが

人々の間に根付き、新しい文化が生まれ、前代の地場産業の多くが、

さまざまな形で継承された。

「土地改革」については、旧藩主の土地所有権を排除し、

全国的な土地調査を行なうなど、

イギリスやフランスの市民革命時の先を行く先駆的なものであった。

国家財政を確保するための土地改革の中心は「地租改正」だが、

それと裏腹の形で「秩禄処分」が強引に行われた。

地租とは、土地に対する課税で土地所有の一元化と、

土地の面積や収穫量、種や肥料代などの生産費の把握が前提となる。

肯定も否定もしない別れ道  皆本 雅


「地租改正測量図」

地租改正では、全国で課税の基礎となる土地の測量が行なわれた。

「地租改正」は全国の土地すべてを調査し、地価を決め、

地価の100分の3を地租として、金納を義務づけるものだった。

地租は、将来100分の1に削減すると約束された。

しかし、地租改正が負担の軽減にならないばかりか、

増税につながる場合の多いことを知った農民の反発は激しく、

全国に一揆が広がった。

そこで政府は、明治10年1月に減租の詔書を発して、

地租を地価の100分の3から100分の2・5に減らし、

土地にかかる地方税も、

地租の3分の1から5分に1に減らすこととした。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

 
「三重県下頑民暴動の事件」(大蘇芳年画)

明治9年12月に三重県全域と周辺地域に広がった農民一揆は、
処刑者が5万人を超える大規模なものとなった。
金納ではなく米による納付を求める陳情が受け入れられなかったため、
蜂起した農民が市庁舎や学校、地租改正関係者の自宅などを打ち壊した。

減租の財政的裏づけとして、

この時期、秩禄処分のめどがたったという事情がある。

秩禄とは華族(旧公家や旧藩主)や士族に与えられた「家禄」などである。

家禄の支給が政府の収入の3分の1に達して財政を圧迫していたため、

明治政府は、金禄公債を発行して、

支給期限を定めるという形でそれを削減。

このとき、「華族」に与えられた特権が「士族」にはなく、

金禄公債すら手放さざるをえないものも出た。

やがて、「萩の乱」のほかに、「神風連の乱」、「秋月の乱」、

「西南戦争」など、全国で士族の反乱が勃発した。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

「写真(絵)で視る明治の風景」

 

  「函館の新聞縦覧所」

慶応3年(1867)に最初の「縦覧所」が設置され、明治3年頃から普及。
江戸時代以来、明治初期に至っても、
一般の庶民は居住地域外の情報に触れることは少なかった。
しかし他の地域への感心は高く、明治に入って発行が始まった新聞は
多くの地方で歓迎された。
配達網が未整備だった当初は、地方の書店などに新聞縦覧所が設置され、
人々は複数の新聞をよむことができた。

押入れのかわりに心に箱一つ  山口美千代

 
「東本願寺北海道開拓錦絵」
                       おさるべつ
明治3年7月~明治4年10月にかけて東本願寺一行は尾去別を起点に
洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸を結ぶルートの道路建設を開始した。
長さは約100km、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。

明治政府は、琉球王国を沖縄県として日本に取り込み、
ロシアとの間で千島・サハリン(樺太)交換条約を結んで千島を獲得した。
また小笠原諸島を領有下に置くなど、日本の領土国境の画定を進めた。
「蝦夷」と呼ばれた北方の地は「北海道」と改称され、
千島とともに大量の開拓民が送り込まれた。
新天地とされた北海道には、厳しい環境のなか、
多くの開拓民が家族を連れ、技術や敬虔を携えて渡った。
厳寒と荒野はあまたの夢を破り、成功を阻んだが、
開拓の国策に協力し、教団の結束のもとに、
門徒の新しい暮らしを模索した東本願寺のような例もあった。

パロディとして晴天に裏がえる  河村啓子

 
「特命全権大使米欧回覧実記」

明治4年11月から6月9日にかけて、岩倉具視を特命全権大使とする
岩倉遣欧使節団が、不平等条約の改正への予備交渉と
欧米文物の視察などを目的として欧米を歴訪した。
写真は、訪問先のブロードウエイの挿絵と報告書(5冊2110ページ)。

お話は聞いてみたけどプリンぺラン  井上一筒
 
 
  「東京裁判所庁舎」

明治5年4月司法卿・江藤新平は行政権と司法権の分離を主張。
各府県の持っていた司法権を司法省の管轄に移し、司法裁判所、
府県裁判所、などの5種の裁判所を設置した。

気休めに窓など描いておきましょう  清水すみれ
 
  
 「明治11年第三十八国立銀行発行の五円紙幣」

国立銀行は、東京の第一国立銀行から京都の第百五十三国立銀行まで、
全国で153行が設立された。
資本金の8割を利付公債証書で政府に供託することで、
それと同額の銀行券(紙幣)の発行が認められた。
国立銀行紙幣は当初アメリカで印刷されたが、明治10年の一円紙幣から
日本の大蔵省紙幣局で製造されるようになった。


遺言は凛々しい文語体にする  新家完司

 
  「サケの人工孵化場」

幕末に諸藩が力を入れた産業の中には、明治に入って、
それぞれの地域で継承されていったものもある。
例えば、家禄を失った士族の生活のために、
魚の養殖場の拡充や整備が行なわれるなどした。

にっこりと笑うことから始めよう  こうだひでお

 
「大日本帝国国会議事堂真景」

明治23年11月に竣工した最初の国会議事堂。
財政難と2年弱という時間的制約のため、
洋風木造2階建ての仮建築だった。
しかし、この建物は2ヶ月後の24年1月、漏電により出火、全焼した。

前頭前野が見てるオーシャンビュー  森田律子

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