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川柳的逍遥 人の世の一家言
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春の海は地図食いちぎる未曾有とや  岡本久栄



「戦国大名」

戦国時代は、下の者が上の者を倒してのしあがる「下克上」の時代だった。

「戦国大名」とは、この下克上の風潮のなか、

実力で領国を支配した武将たちのことである。

彼らはどのような経緯で、歴史の表舞台に躍り出てきたのだろうか。

まずそれには「守護大名」という存在が大きく関っている。

守護大名はもともと幕府から地方に派遣された軍事指揮官・行政官だった。

鎌倉時代は「守護」という職名で治安維持を主な任務としていたが、

室町時代に入ると、荘園から税金を徴収する権利や、

土地管理の権限が加わり守護の権限が拡大する。

やがて力をつけた守護は、自らの地盤を領国として守護大名となった。

一生を線路の砂利で終えるのか  嶋沢喜八郎

しかし「応仁の乱」を境に幕府(室町)の権威が失墜すると、

幕府を後ろ盾に勢力を保っていた守護大名の権威も低下。

代わりに力をつけたのが「守護代」「国人領主」である。

守護代とは、守護大名を補佐する在地のぶしのこと。

国人領主は、守護代より格下の在地豪族である。

いずれもその土地の有力者で幕府の領国支配がうまく機能していた頃は、

守護大名が彼らを従わせることで土地を支配していた。

しかし、その主従関係も幕府の権威があってこそ。

肝心の応仁の乱で幕府は不毛な戦いを続けたうえ、

権威も力も落とした。


とはいえ、下克上で頭角を現した大名は、支配の正統性を保証する

「守護」という地位を得るために将軍を利用した。

凋落していたとはいえ、将軍はなお、守護の地位を与え朝廷から

下賜される官位などを仲介してくれる権威だったからである。

将軍も朝廷も、その代償として財政支援を受けた。

なあ背骨そろそろ土へ帰ろうか  清水すみれ

やがて守護代や国人領主たちは、幕府に愛想を尽かし、

まして幕府を後ろ盾にした守護大名は、彼らにとって、

もはや金と人を浪費するただの厄介者にすぎない存在となった。

こうして地方では、守護大名とその家臣である守護代・国人らが戦いを

繰り広げ、ほとんどの戦いで守護大名側が敗れてしまった。

守護大名のなかで生き残ったのは、真田家が対抗した甲斐の武田氏、

武田氏は甲斐一国を支配する存在に成長し、

信濃・上野にも勢力を伸ばして有力な「戦国大名」となった。

越後の上杉氏(長尾家)の出自は守護代だが、

守護代が弱体化し断絶したため守護に取って代わり、

越後の「戦国大名」となった。

そののち関東管領・上杉家と養子縁組を結んで上杉家を継ぎ、

関東一円に影響力をもつほどになった。

一瞥でこいつに勝てると思われる  小林満寿夫

相模の北条氏は、もとは駿河の守護・今川氏の一門だったが、

関東に勢力を伸ばして、関東最大の「戦国大名」となった。

尾張の織田氏は守護代だった同族を滅ぼし、守護も追放して尾張を統一。

最強の「戦国大名」となった。

戦国大名の出自を概観すると、

豊後の大友氏、周防長門の大内氏、薩摩の島津氏、駿河の今川氏

近江の六角氏、常陸の佐竹氏などが、守護大名から戦国大名へ

安芸の毛利氏、三河の松平氏(徳川氏)、肥前の龍造寺氏、相模の北条氏

阿波の三好氏、土佐の長宗我部氏、備前の宇喜多氏、北近江の浅井氏

陸奥の伊達氏などが、国人領主、豪族から戦国大名へ。

言うとくけど私はロボットと違うぇ  赤松螢子



「最初の戦国大名」

血で血を洗う戦国時代は、一人の老人パワーによって幕を開けた。

下克上の時代の侍は、とにかく勝たなければならなかった。

彼らは勝利を得るためには、

ルール違反の戦争をすることも厭わなかった。


そんな「仁義なき戦い」を最初に実行した人物は、

「最初の戦国大名」と呼ばれる北条早雲である。

備中の出とも伊勢の出ともいわれる早雲は、

今川義忠の側室となった妹を頼って、

駿河に下向したのをきっかけに
今川家に仕えのちに独立。

徒手空拳といっていい状態から、戦国大名にのしあがった。

森を煮る春日大社はかつお味  井上一筒

鎌倉の古賀(茨城)の古河公方と伊豆の堀越公方の争い、

また上杉氏の分裂などで、関東の形成は混沌状態に陥る。

そこにつけこんで兵を挙げたのが早雲である。

すでに60歳の老齢だったが、伊豆の混乱に乗じて堀越公方を滅ぼすと、

さらに小田原城主をだまし討ちにして小田原城を奪った。

早雲は戦略家でもあった。

彼ら一門は武士業界では新参者だったため、関東支配に際して、

苗字を「伊勢」から「(後)北条」と改めている。

むろん鎌倉幕府の執権だった北条氏を意識してのことで、

関東人の感情に配慮したわけだ。

伊豆・相模を平定後、上杉勢力を駆逐した早雲は、

嫡男・氏綱に家督を譲って引退したが、その時すでに87歳だった。

ここから氏政・氏直へと繋がって行く。

這うことを恥じずに生きる春の蛇  平井美智子

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薬指の力を抜いて並びなさい  酒井かがり



「真田信繁の正・側室と子ども」

真田信繁には、5人の正・「側室が5人」がおり、分かっているだけでも、

「4男8女」をもうけている。

信繁が最初に娶った妻は家臣の堀田興重の妹・とも(ドラマでは梅)である。
    おきく
長女阿菊(すえとも)を産んでいる。

ともは九度山には行かず、娘・すえは興重の養女となって、

信濃小県郡長窪の問屋・石合道定に嫁いだ。

長女だったこともあり、信繁はすえを気遣い、道定からの書状に、

「道定のこと心にかなわぬ者でも、御見捨てなきようにお願い致します」

と返答をしている。

駅の数かぞえて右手右手首  蟹口和枝
                        うねめ
真田一代に命を託した高梨内記は娘・采女(ドラマではきり)が信繁と結婚し、

真田、高梨の血の絆が一層深まることを強く望んでいた。

家臣と主君の家同士での結婚は、当時から見れば主従関係をより強め、

政略結婚とまでは言わないまでも、非常に重要な意味を持っていた。

しかし身分の違いから、正室での結婚は難しかったため、

采女は真田家の世話役である奉公人として、信繁の世話を甲斐甲斐しく、

やりこなし頑張った成果もあって、2番目の側室となる。

そして次女を産んでいる。


「采女」とは、宮中に仕えた女子を指す役職(職業)名であり、

高梨の娘が采女の経験があった為、こう呼ばれるようになったとされる。

この市は母ともに、信繁に従い九度山に行くも病死している。

さざなみへの憧れ沼だった頃  山本早苗


  隆清院

豊臣の人質として上洛したのちに信繁が「正室」に迎えたのは、

秀吉の家臣・大谷吉継の養女・安岐姫(竹林院)である。

信繁との間には、大坂の陣で自刃する長男大助(幸昌)次男守信
    おうめ
三女阿梅四女あぐり六女菖蒲七女かねを産んでいる。

次男・守信については、大坂夏の陣の時は、齢4歳。

信繁は道明寺の戦いで伊達政宗と干戈を交え、

勇猛な家老の嫡男・片倉重綱の戦いぶりに感銘を受け、

三女の阿梅、六女の菖蒲ともども、生命を託した。

重綱は後藤基次を討ち取り「鬼の小十郎」と称された勇将である。

阿梅らには真田十勇士のモデルの一人・穴山小助の娘も同行したという。

子面が届いた雨が降ってきた  くんじろう

正宗は秀吉には二度、家康にも反抗した反骨の武将。

頼まれれば拒まぬと信繁が読んでのこと。

正宗も勇士の子を蔑ろにはせず、重綱に匿わせた。

幕府がこれを掴み詰問すると、重綱は真田信尹の子に政信がいるという

偽系図をつくって提出し、守信には、片倉姓を名乗らせて命を守った。

三女・阿梅は片倉に託された12歳で、

白石に赴いた元和6年(1620)に
重綱の側室となり、その6年後、

正室の針生氏の死去にともない、
後室として正室の座についている。

鍵穴がゆるんで春を狂わせる  笠嶋恵美子

慶長5年(1600年)、竹林院は「関ヶ原の戦い」で父と夫が西軍につき、

彼女は義父・昌幸の正室・と共に実父の吉継に保護されていた。

戦後は信繁に随行して九度山に幽閉される。

九度山での生活は厳しかったらしく、

伝承では彼女自ら上田地方の紬技術を応用した真田紐を考案したとされ、

家臣たちに行商させて、生計を支えていた。

プロットはサバの味噌煮ということで 山口ろっぱ

四女あぐりは大坂の役後、五女の夫である滝川一積の養女になる。
                          がもうよしさと
その後、会津国会津藩重臣で三春城主・蒲生郷喜に嫁ぐ。

養父である滝川一積は、幕府から信繁の子どもを隠匿したことを、

責められ除封される。

その後、郷喜は寛永12年(1635)に亡くなったとされる。

おーいと呼んで独りだったと気付く 一階八斗醁


  隆清院

秀吉による苛烈をきわめた「秀次一族粛清事件」で、

全員斬首されたはずの秀次の子ども二人が生き残っている。

そのうちの一人が、信繁の3人目の側室になる豊臣秀次の次女・隆清院

隆清院と信繁は九度山でめぐり合い、間に二人の子供が生まれている。

一人は出羽亀田藩士になりなる信繁三男三好幸信

もう一人は、信繁五女お田

慶長19(1614)年10月、信繁が嫡男・大助らと大坂城に入城した際、

隆清院も娘のお田と共に大坂城に随行している。

大阪冬の陣が終わってもしばらくの間二人は、大坂城で過ごしたが、

翌年の3月、大坂城を出、秀吉の実姉・瑞龍院が住む京都嵯峨野で

隆清院にとっては義母にあたる秀次の母親・とも(日秀)と暮らす。

この時、隆清院は2人目の子供である幸信を身籠もっていた。

4月大坂夏の陣がはじまり、5月信繁討ち死。 同月、豊臣氏は滅亡。

切ないを方程式で解いてみる  佐藤美はる

徳川方による豊臣の残党狩りがはじまると、隆清院とお田の2人は

瑞龍寺をでて、
転々と居場所を変え、二手に別れて逃亡を続けたが、

お田は捕らえられる。


このことを知った信繁の兄・真田信之が必死の助命嘆願をする。

その甲斐あって、
お田は江戸城大奥に仕えることとなる。

お田はまだ15,6歳の少女だったが、信繁の娘として気高く、

気品を備えていたという。

一方、隆清院は梅小路氏の姉のもとで匿われていたが、

追跡の手が厳しく、米屋次郎兵衛という町屋に住まいを変え、

そこで左馬之助(幸信)を産み育てたと伝わる。

世渡りのうまい女の帯の位置  上田 仁


  真田幸昌

「信繁長男・真田幸昌大助」
母・竹林院。
九度山で生まれる。慶長19年父とともに大坂城に入り、
同年大坂の陣では真田丸に攻め寄せた幕府軍に突撃をかけたと伝わる。
翌年夏の陣が起こると5月7日天王寺・岡山の戦いで父の前陣を務めた。
その後、父から秀頼の側を固めよと命じられ城内に戻り、
翌日、淀殿母子
に殉死。

「信繁二男・真田大八」(片倉守信)
母・竹林院。
子どものときに京で石投げ合戦の石に当たって亡くなったと伝わる。だが
実はこれはカムフラージュで彼は生きており、大坂の陣後に豊臣方関係
者のへの追求を逃れて仙台に赴き姉の阿梅の保護を受け、片倉守信と
名乗って伊達家から360石を賜ったという。

この指止まれ西方浄土ゆきですよ  田口和代

「信繁三男・三好幸
母・隆清院。
父・信繁戦死の二ヵ月後に京で生まれた。大八守信の京での死亡伝承と
いい、信繁の妻子は大坂の陣が始まると京に非難していたのだろう。のち
三好の名字を名乗って左次郎と称し、つづいて同腹のお田の夫・出羽亀田
藩主・岩城宣隆(のぶたか)の家臣となって380石を与えられ三好左馬之助
幸信と称した。

「信繁六女・菖蒲」 仙台藩士・片倉定広の正室に。母・竹林院。

「信繁七女・かね」 犬山城主・石川貞清の正室に。母・竹林院。

「信繁八女・名は不詳」母は九度山の村育ちで信繁と結ばれたとされる。

石庭にぽつんと蟻の古戦場  墨作二郎

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枝分かれしたとき人間になった  井上一筒



「温厚篤実ー上杉景勝」

弘治元年(1555)、越後坂戸城主・長尾政景の次男として生まれる。

母は上杉輝虎(謙信)の実姉・仙桃院

輝虎の甥に当たる。


長兄が早世したので世子となるが、永禄7年(1564)父の死により、

9歳で春日山城に入って叔父・謙信の養子となる。

謙信没後、天正6年(1578)「御館の乱」で、

もう一人の謙信の養子・上杉景虎を滅ぼし、上杉家の家督を相続。

謙信の急死については、父・政景による暗殺説がまことしやかに流布し、

また、景勝による暗殺説も存在する。

ありったけの角にぶつかり別の顔  三村一子

景勝の人となりとして次のようなことが伝わる。

「家臣達も景勝の声を丸一日聞かないようなことがあった」

景勝が秀吉に招かれて上洛するとき、数百の供を連れ行軍。

家臣には景勝の意思が行き届き、道中は一切無駄口を叩かず

粛然として、人馬の歩む音がするだけだったという。

「右腕の直江兼続が、いつも景勝の意思を代弁していた」

「家臣の前で笑顔を見せたのはただ一度だけ」

「女嫌いであった」

大黒柱はもうパロディーになりました 美馬りゅうこ


川中島合戦の図

上杉氏が真田氏と遭遇するのは、川中島4郡をめぐっての抗争からだが、

天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、織田軍に攻められ国内でも
しばたしげいえ
新発田重家の反乱にあったが、「本能寺の変」によって危機を脱した。

このころから真田氏とは直接的な関係が生じる。

織田氏旧領の国盗り合戦ともいう、いわゆる「天正壬午の乱」以後、

真田昌幸が巧みな動きを見せる。

はじめ上杉氏、次いで北条氏、さらに徳川氏に従属して、

生き残りを策したのである。

うすいなと思ううどんのかまぼこを  徳永政二

翌11年4月、昌幸は徳川家康の支持を背景に千曲川沿いの尼ヶ淵に、

「上田城」の築城をはじめた。

これが景勝を刺激した。

景勝は上杉方への攻勢だとみてとり、

川中島4郡の国衆の軍勢を集結させ
築城を妨害しようとしている。

しかし、徳川方が羽柴秀吉との対抗上、北条氏政と結ぶと昌幸に

西上野・沼田領を割譲するように迫った。

昌幸は「これは家康殿より与えられたものではなく、

我らが手柄によって取った沼田である」と主命を突っぱね家康と断交した。

百日紅の頭ごなしが嫌でした  杉浦多津子   

かといって単独では徳川・北条同盟に対決できない。

昌幸は一転して、それまで敵対していた景勝を頼ることにした。

景勝にしてみれば、信州進出ではたびたび苦杯を舐めさせられた

昌幸は
何とも小癪で目障りな存在だったが、服属してくれれば、逆に、

上杉方の勢力が小県まで伸び、徳川方に突きつけた匕首となると考えた。

このとき、温厚篤実な景勝は、

本領安堵のほか、佐久郡や甲州の一部を新知として与え、


さらに徳川や北条が攻めてきたら、

上田だけでなく沼田・吾妻まで援軍を送ると約束している。

鳩尾で軋む半分ほどの罪  上田 仁


  上杉景勝

天正13年8月、家康が大軍を上田に派遣する。

第一次上田合戦である。

昌幸は景勝に援軍を要請するとともに、信繁を人質として景勝に送った。

景勝は5千人近い援軍を上田周辺に派遣して約束を守った。

第一次上田合戦は景勝の支援があってはじめて勝利したものだった。

景勝は人質となった信繁主従を厚遇した。

第一次上田合戦のとき、北条方が矢沢頼綱の守る沼田城を攻めたとき、

景勝は信繁の軍代とされる矢沢頼幸に父・頼綱の加勢に向かわせている。

ここに景勝の真田氏への温情が感じられる。

首までにしとく情けに沈むのは  清水すみれ

また一方では、織田政権において台頭した羽柴秀吉と好を通じ、

「賤ヶ岳の戦い」(天正11年)では、柴田方・佐々成政と戦い、

「小牧・長久手の戦い」(天正12年)「富山の役」(天正13年)でも、

秀吉に味方している。

天正14年には、招聘を受け上洛して秀吉と会見し、

より親密に命脈を保ち、
秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、

天正15年になると、長年目の上の瘤であった新発田重家を討ち、

再び、「越後統一」を果たす。

雲形定規春の隙間を塗り潰す  古田祐子

  
  上杉景勝        徳川家康

天正18年、前田利家真田昌幸らとともに小田原征伐に出兵し、

上野・武蔵の北条方諸城を攻略。

慶長2年(1597)6月、豊臣家5大老の一人小早川隆景が家督を

小早川秀秋に譲り隠居したため、五大老に景勝が任命される。

秀吉が死去すると5大老の1人・家康は政権をわがもののように扱い、

豊臣派の大名の振るい落としを図りだす。

この風潮の中、石田光成と好を通じていた景勝は、家康と敵対する。

慶長5年(1600)、景勝が会津で城の補修や新しい城の建設に乗り出すと、

家康は「謀反の疑いあり、上洛してその理由を説明せよ」

と景勝に迫った。 
が景勝はこれを拒否。

補助輪の急ブレーキに邪魔される  雨森茂樹

これに激怒した家康は、上杉家討伐の軍を起こして会津をめざした。

しかし、石田三成が反家康派の大名と旗揚げした事を知り、

直ちに進軍を中止して、三成らとの戦いのため軍を引いた。

引いて行く家康軍への追撃を主張する武将に対して景勝は、

「今回の事は家康が仕掛けて来た事であり、

  家康が引いた以上は、こちらも引き返すのが道理である。

  それを破れば先代の教えを否定する事になる」

と主張し、追撃を許さなかったと言われている。

景勝のこの言葉に「義に厚い上杉家の気質」と今も語り継がれている。

元和9年(1623)3月20日 景勝、米沢城で死去。 享年69。

私が寄り添う幹にサロンパス  中村幸彦

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草食の背骨を辛子和えにする  上嶋幸雀



「阿茶局」

阿茶局は弘治元年2月13日(1555)甲府で生まれる。

父は武田家の家臣・飯田直正。名は須和

須和は19歳のときに今川家家臣・神尾忠重に嫁ぎ2男をもうけたが、

23歳のときに夫と死別。

武田氏滅亡の天正10年に家康は2度、甲州に侵攻しており、

夫が戦死して後家となっていた彼女が、家康が黒駒を通過した際、

何ごとか訴えたのがきっかけとなり、

そのまま家康のもとに留めおかれて


側室・阿茶となったというのである。

阿茶25歳、家康38歳である。

後ろ向きの日々に終止符を打とう  樋口りゑ


  阿茶局

家康はよほど阿茶が気にいったらしく、

たびたび戦場にまで同行させているが、


それは彼女が単なる美貌のみの女でなく、

才知豊かな女人と知れたからである。

が、小牧・長久手の合戦の際、戦場で流産する不幸に見舞われて、

以来終生、懐胎することはなかった。

それでも美人で聡明な阿茶が、当時、

すでに数人いた家康の側室の中でも、
とりわけ家康の寵愛を受けたのは、

優れた政治的資質を持っていたからで、


次第に秘書的な役割を果たすようになる。

少し冷たい素質があって青い薔薇  本多洋子

慶長18年(1613)頃から隠密御用を務めたり、

大坂の陣の引き金になった「方広寺鐘銘事件」の陳謝のために、

大坂方から来た豊臣秀頼の使者たちを駿府で迎え、

応接したのもこの阿茶局であった。

「大坂冬の陣」には和睦の使者をつとめている。

それは慶長19年(1614)12月18日、

交渉は徳川軍の京極忠高の陣で行われた。

徳川軍からの使者は、本多正純・阿茶局

豊臣軍からの使者は、淀君の妹・常高院である。

豊臣方の使者が女性であったことが阿茶局が選ばれた要因でもあった。

団栗がコロンと落ちただけのこと  合田瑠美子

その日は話し合いだけで終わったが、翌19日には和議が纏まる。

盛りこまれた内容は次の通り。

 1:大坂城は本丸以外を破壊する。

 2:大野治長と織田有楽斎の二人は息子を人質として差し出す。

 3:豊臣軍の譜代・浪人問わず処罰しない。

というものであった。

阿茶局は淀殿から、この誓紙を受け取ってきている。

見た目では分からぬ人のうらおもて  大海幸生



阿茶局を信頼し愛した家康は、次のような遺言を書き遺している。

「自分が死んでも他の側室のように剃髪して尼になるな」

そのため、家康死後も阿茶局は仏門には入らず、

江戸城竹橋門内の屋敷に住み、生活費として300石を与えられ、

2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に仕えた。

ことに生母のいない秀忠にとっては事実上の生母として頼りにされた。

秀忠の5女・和子御水尾天皇の中宮として入内する際には、

母親代わりとして始終付き添い従一位に叙任、神尾一位殿と通称された。

又、寛永9年の家光の上洛にも供奉している。

秀忠の死後は、落飾して雲光院と称し寛永14年正月、83歳で没した。

ほら流れ星おねがいごとはつたえてよ  田口和代



「本多正信」

本多正信、初めは鷹匠として家康の側近くに仕えた。

次第にその才が認められ家康に重用されるようになる。

しかし永禄6年(1563)に起こった三河一向一揆において、

一揆勢の武将として家康と敵対。

それが鎮圧されると徳川家を出奔し,

一時は大和の松永久秀の元に仕えた。

その後、久秀の元を去り諸国を放浪。

この間はどこで何をしていたかは不明。

帰参した時期についても諸説あるが、

遅くても「本能寺の変」の前には正式に徳川家に帰参している。

春だ春だと跳んだ蛙は肉離れ  大海幸生

その本能寺の変では、家康の「伊賀越え」に従っていたという説もある。

家康が小田原征伐後に関東に移封されると、

相模国玉縄1万石の領主となった。

そして慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、正信の本領が発揮される。

ここから「関が原の戦い」が起こるまで、

徳川家が仕掛けた様々な謀略は、その多くが正信によるものであった。

武田旧領をめぐっては、諸大名の駆け引きが活発になると、

真田家ら国衆たちの取り込みに腐心。

昌幸に翻弄される家康に卓抜した策を授け、甲斐・信濃の統治を助けた。

その後も徳川中枢を担い続ける。

家康との信頼関係は、

後年、「君臣の間、相遇ふこと水魚の如し」と言われた。

瓶の底叩いて過去をうやむやに  下林正夫

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水ゴクリ危ない啖呵きりに行く  美馬りゅうこ


   真田昌幸

「油断がならない者」

混乱の中で、沼田城や岩櫃城を滝川から取り戻した真田昌幸は、

以後、自分自身を取り巻く情勢を的確に読み、

大大名を手玉にとって独立大名の地位へと躍進する。

この混乱を振り返ってみると、まず煮え湯を飲まされたのが北条であった。

信長横死後、北信濃を窺う上杉に従属した昌幸は、

7月中旬に
北条の大軍が信濃に侵攻してくると、

上杉から離れて北条に従う。


とりあえず醤油をかけて様子見る  竹内ゆみこ

しかし、昌幸は次の一手をすかさず打つ。

北条が上杉に挑まず、徳川と対峙すべく南に転進すると、

昌幸は上杉への備えを主張して信州小県に残留。

一見、北条の後顧の憂いを除く提案である。

しかし、昌幸の思惑は別にあった。

すなわち昌幸は独立に向けて自然な形で北条と距離を置いたのである。

そして北条と徳川が対峙すると徳川家康は、

昌幸の存在を奇貨として陣営に
誘い、昌幸はこれを受けて

北条から徳川へと鞍替えして、
北条の兵站を遮断する。

両面のテープもいつか風化する  高島啓子


  天正壬午の乱 (六文銭に対し北条の大軍の幟がはためく)

北条氏直にすれば見事に昌幸に急所を衝かれた格好で、

結果、形勢不利となり信濃からの撤退を余儀なくされた。

天正壬午の乱のキャスティングボートは、

正に真田が握っていたのである。


巧みに真田を取り込んだと思われた家康ですら、

実は掌の上で転がされているに過ぎなかった。

まず昌幸は家康に越後の上杉の脅威を訴え、

徳川の前面支援を受けて尼ヶ淵に築いた新城が上田城であった。

後に二度も徳川撃退の舞台となる上田城を昌幸は実は、

家康を利用して築いていたのだ。

手首から先は鴎になりたがる  八上桐子

ところが問題が起きる。

家康は北条との和睦の際、真田の沼田城の引渡しを勝手に約束していた。

しかし昌幸は断固としてこれを拒否。

家康は自分に従わぬ昌幸を亡き者にすべく信濃の国衆・室賀正武を使って

暗殺を試みるが、事前に計画を察知した昌幸は逆に室賀を討ち取った。

家康と断交間近と読んだ昌幸が新たな帰属先に選んだのが、

これまで対立を重ねてきた上杉景勝であった。

この時、真田が上杉と結びつくために差し出した人質が信繁である。

あの「うん」がこんな結果になるなんて 佐藤美はる



話は天正14年へととぶが、信濃の小さな大名に過ぎない真田氏が

東国で角逐する徳川・北条・上杉といった大大名を振り回していることを

秀吉もよく承知しており、天下統一のため、東国の支配秩序確立のために、

大大名優先の策をとった。

その一環として、家康と昌幸との懸案になっていた沼田・吾妻領問題で、

家康に味方し、真田氏討伐さえ許可するとともに、

真田氏の後ろ盾になっている景勝にも、

真田方の肩入れしないように牽制した。
     ひょうりひきょう
それが『表裏比興の者』という有名な文言である。

人だから人を欺くこともある  大海幸生

「真田事…表裏比興の者に候間、成敗を加えらるべき旨、仰せ出され候」

と昌幸名指しで非難し、成敗を加えてもよいと伝えている。

「表裏比興」とは裏表があって卑怯であり、信用できない人物という意味。

まさに悪名といってよいが、逆にいえば、

昌幸の油断ならぬ器量を秀吉が認めていたともいえる。

実際、家康の真田氏成敗は実施されず、

むしろ、真田氏を家康の与力大名に組み入れることで決着したのである。

有様もあらざるものも現世  山口ろっぱ

その後、北条と真田との沼田領分割問題でも、

秀吉は北条に有利な裁定を下したが、北条がその裁定に従わず、

真田方の名胡桃を奪ったため、一転して北条氏が成敗されることになった。

秀吉は一方の当事者である真田を前田利家、上杉景勝の北陸勢に

組み入れ、上州口からの侵攻にあたらせた。

秀吉の目指す東国平定で、真田はあくまで副次的な存在でしかなかったが、

徳川・上杉・北条といった大大名を服属させるうえで、

道具にも阻害物にもなった厄介な存在であった。

修正へ吹きこぼれるを待っている  山本早苗

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