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川柳的逍遥 人の世の一家言
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唐突に咲いて散るのも唐突に  雨森茂樹


 豊臣秀次像、(高厳一華賛・京都地蔵院所蔵)

「人面獣心」

淀殿が第二子・(秀頼)を産んだことで、関白秀次太閤秀吉の関係は、

きわめて微妙なものとなった。

文禄2年(1593)9月20日、秀吉は新たに築いた伏見城へ移り、

10月1日、拾と秀次の娘との婚約を、秀次側に申し入れた。

翌年の正月には、諸大名を動員し、伏見城の外郭内に、

それぞれ屋敷を営むように命じた。

秀吉の拾への溺愛により、豊臣家中の空気は、少しづつ変わっていく。

秀次も、不穏な空気を察知したのか、近習に

「関白を返上した方がいいのではないか」と漏らしている。

それに対して、近習のものは、

「気にしなくてもいいのではないか」と答えた。

それが秀次の悲劇の始まりだった。


企みを図りかねてる風の向き  太田芙美代

そして、秀吉は、秀次との折り合いを何とかつけようと、

努力をする一方で、
秀次との対決に備える根回しに、

京都で有名大名の邸宅を盛んに訪問し、


加えて、御所で能を上演するなど、朝廷との交流も積極的に行い、

また諸大名に、伏見に屋敷を建てさせたりした。

そのころから、秀次の生活は乱れ始めた。

政は放ったらかしで、狩りに熱中し、酒びたりになった。

そんなとき、秀次に謀叛の疑いが起こった。

石田三成は、「謀叛の企てなどはない」という誓紙を書かせたが、

それですべてが、終わったわけではなかった。

開幕ベルだったのか河馬のしゃっくり  森田律子

当時の状況を、ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスは、

「拾の誕生で、秀吉との関係は『破壊』された。

  なお秀吉は、(秀次に対して)関白の座を拾に譲るよう,画策し始め、

城内に於いてだけでなく、城外でも『今に関白殿が太閤様に殺される』

という噂は、日一日と弘まるばかりであった」と伝えている。

文禄4年7月8日、秀次は秀吉に直接の弁解も出来ないまま、

高野山に追放され、前田玄以をして朝廷に、「関白の追放」を奏上し、

15日には、福島正則を高野山に派遣して、「切腹」を命じた。

フロイスの言う、その噂は、まさに現実のものとなったのである。

不機嫌か蛍光灯は点滅す  嶋澤喜八郎


山本主殿(右下)山田三十郎(左上)不破万作(左下)雀部重政(中央)

多くの小姓衆は秀次から名のある刀を下賜されると、次々と腹を斬った。

山本主殿助、山田三十郎、不破万作の3名は秀次が介錯した。

虎岩玄隆は自ら腹を切り、5番目に秀次は雀部重政の介錯により、

切腹して果てた。享年28。辞世は、

「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」

はらわたは拾った夢の滓ばかり  有田一央

 
         秀次自刃の間 (高野山金剛峯寺にある柳の間)


秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。

しかし、秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。

8月2日早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ。

さらに3メートルほどの塚を築いて、秀次の首が西向きに据えられた。

その秀次の首が見下ろす前で、まず公達子どもたち)が処刑された。

最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって

北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。

結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名が斬首された。

子どもの遺体の上に、その母らの遺体が無造作に折り重なるように

一つの穴に投じられた。

(秀次の遺児の中では、後に真田信繁の側室・隆清院となるお菊は、
 後藤興義に預けられて助かり、同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も
 難を逃れた、と言い伝えられている)

カジキマグロの嘴は仕込み杖  井上一筒

秀次の一族を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれ、

「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれる首塚が造られた。

首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られた。

客観的に見た太閤と関白との確執の原因を、フロイスは三つ挙げている。

「第一の理由は、秀吉は秀次に天下を譲り渡したものの

実権を渡す気は無く、
支配権を巡る争いがあったこと。 

第二の理由は、
秀次が再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかったこと。

日本を領すれば事足りると考える秀次との意見の相違があったこと。

第三の理由としては、実子・秀頼の誕生を挙げ、

秀吉は秀頼を秀次の婿養子とするという妥協策を発表したものの、

その本意は、秀次に関白の地位を諦めさせることにあった」としている。

ただ嫌い他に理由はありません  山本早苗


 秀次と連座者の墓所  (慈舟山瑞泉寺)

フロイスの分析の通り、秀吉が我が子を可愛く思う余りに、

秀頼の誕生によって、甥の秀次が疎ましくなったが、

関白職を明け渡すことに
応じなかったため、

口実を設けてこれを除いたという説に加えて、

                     ざんげん
淀君の介入を示唆する「石田三成讒言説」と合わさったものとがある。

この他には、秀次は朝鮮出兵や築城普請などで、

莫大な赤字を抱えた諸大名に対して、聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを

行っていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説がある。

この借財で特に毛利輝元に対して、秀次はかなりの額を貸し付けており、

秀次と秀吉の関係悪化を見て、輝元は秀次派として処分されるのを恐れ

自衛のために秀次からの借金の誓書を「謀反の誓約書」として偽って、

秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説もある。

雑巾を絞りつづけてきた指だ  高橋謡々

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