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川柳的逍遥 人の世の一家言
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時化になりそうあの日の音がする  桑原すず代


南瞻部洲大日本国正統図 (伝香寺旧蔵、唐招提寺所蔵)

戦国時代の弘治3年(1557)に描かれたとされる。
日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。
この図又は同一スタイルの地図が江戸時代の行基図の基本となる。
また、この時代には屏風絵の背景などにも「行基図」が採用された。

【戦国豆辞典】-「絵図」

地図は行政や軍事の要であり、国情や内容によっては秘密事項となる。

領土をめぐる抗争が続いたドラマの時代、

戦いには自国と自国に接する他国の正確な地図が欠かせなかった。

地図には、忍びなどが集めた情報をもとに、

領土の境界や河川、道、大まかながら高さも示された山などが描かれた。

当時は「行基図」を除き日本全体を表す全国図が描かれる事はなかった。

時々はふて寝するぜんまい仕掛  山本早苗


    行 基

行基図とは諸国を俵型に表して大まかに描いた絵画的な地図である。

公的な日本全図については、大化2年(646)や天平10年(738)などに

国郡図の作成を命じた記録があるが、いずれも地図は現存しない。

ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、

江戸時代中期に長久保赤水伊能忠敬が現われる以前の日本地図は、

基本的には、この行基図を元にしていたとされている。

行基の名称は、行基が基本を作ったという説がある。

日本全図は豊臣秀吉が、天下統一を果たしたことによって

作成されることになった。

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日本全図は、全国支配のための基礎資料である。

秀吉は、朝廷に献上するという名目で全国の大名に「御前帳」

「郡絵図」を作成させたが、残念ながらこのときの地図は残っていない。

徳川家康は、秀吉の方針を受け継ぎ、諸大名に「国絵図」を提出させた。

その国絵図は実測によるものではなかったが、

方位、地形、道、集落、
寺社などが、

当時としてはかなり正確に描かれていた。


※ 【御前帳】 天皇・将軍などの手元に掌握された帳簿で、
後北条氏の所領役帳なども御前帳と呼ばれた。
豊臣秀吉の「検地帳」も一つで朝鮮出兵の軍役負担の基礎帳簿となった。

※ 【国絵図】 国郡単位の絵図で、国・郡・村の名称や石高を記載。
山や川を骨格として、道路や航路など交通関係の記載のほか、
記号化された村や町、寺社なども書かれた。(郷帳とセットで作成)

未来図は黒一色で事足りる  井丸昌紀 

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