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川柳的逍遥 人の世の一家言
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揺れる灯は終着駅か狐火か  新家完司                    

       
      涙袖帖     久坂が文(美和)に出した手紙                                  
「再婚」

明治14年1月30日の朝、

中風、今で言う脳血管障害に胸膜炎を併発して、

楫取の妻・寿は帰らぬ人となりました。

その死に様は、口を漱いで清め、髪に櫛を入れて整えて、

居合わせた親族や親しい人、看護してくださった肉親に、

それぞれ厚く礼を述べて、傍らの人に助けられて、

起き上がって、座って、合掌して、声を出して念仏を唱えながら、

往生を遂げた、といいます。 

凛としたという表現を超えた人の最期だったと聞きます。
                       (楫取子孫の談より)
泣くよりもはしゃいで見せるのが哀し  竹内いそこ

楫取素彦寿が前橋に住むようになってからは、

美和は寿の看病や公務で忙しい楫取家の家政のために、

たびたび滞在していた。

素彦が亡き妻と自分を支えてくれた美和に、

「側にいて欲しい」

と願うようになったのは、いつごろからだろうか。

素彦からの求婚に美和は迷う。

「女は夫に生涯貞節をもって仕えなければならない」とした

兄・松陰の言葉と亡夫・玄瑞の面影が幾度となく甦ったはずである。

まなうらに揺れる生家の秋桜  徳山泰子

 
  美和の母・瀧

そんな美和の背中を押したのは、母のであった。

美和は「貞女二夫にまみえず」と松陰の言葉を守り、断りつづけた。

だが母は、一生懸命に説いた。

「再婚は亡くなった夫の久坂や兄の松陰、姉の寿の願いであろう」

と、それから暫くして、美和からの素彦への返事は、

「玄瑞との思い出の手紙を持参して嫁ぐことを許してくれるならば」

であった。

美和には老いた母を安心させたい気持ちもあったのだろう。

寿の死から2年余り後の明治16年、2人は再婚した。

素彦55歳、美和41歳。

切ないを方程式で解いてみる  佐藤美はる

 
  楫取素彦と美和


楫取は寿を偲んで菩提を篤く弔い、

また美和も、ずっと玄瑞からの手紙を大事にしていた。

亡くした連れ合いを思う相手の気持ちを、

お互いが理解しての再婚であった。

楫取は美和が大切にする玄瑞からの手紙21通を家の宝とし、

巻物にして『涙袖帖』と名付け、子々孫々に伝えることにした。

夫婦仲は睦まじく、明治30年には夫婦ともに

明治天皇の第10女・貞宮の養育に携わったこともあった。

晩年は小田村氏ゆかりの三田尻(防府)で穏やかに暮らし、

大正の世を迎えている。

掴めそうで掴めない君とジュンサイ  田口和代

 
    東京日本橋

話は変わります。

「楫取が歴史上の人物になれなかった理由」

山口県に行ったら今でも、「松陰先生」と呼ばねば、

叱られてしまうほど、吉田松陰は県民に崇敬されている。

「明治維新」という、日本革命の原点だからなのだろう。

また久坂玄瑞高杉晋作木戸孝允も同じように慕われ知名度が高い。

それに対して、早世した彼らのあとを継いだ楫取素彦は、

今回のドラマを見るまで、ほとんど知る人のない存在であった。

しかし、数々の楫取の果たしてきた業績を振り返り、

玄瑞や晋作や木戸らと比較しても、

何の遜色のない実績を残している楫取である。

にも関わらず、歴史の隅に埋もれてしまったのは、何故なのだろう。

ままならぬ世に栗の毬持ち歩く  佐藤正昭 

それは、おそらく、戦後の歴史家たちが、階級闘争史観で

日本史を描いてきたことに起因する。

彼らに言わせれば明治の日本は天皇絶対主義政権で、

封建制を半分のこしたままの社会であった。

つまり、階級闘争を経ないまま、不十分な革命であり、

暗黒の「明治憲法下の国家体制」だったと、

マルクスの唯物論的歴史学をもって分析した結果である。

『歴史は概して、力のある少数者が動かしてきた。

   戦争とか平和とか、人類に大きな影響を及ぼす事件は、

   最終的には、少数の関係者の決定や不決定で起こることが多い』
                                                                                          (マルクス)

大局的に「明治維新」であり「明冶新政府」なのであり、

「中央」なのである。

そして、それを決定づけた「主役は、誰か」なのである。

戒律の深さへ人間が沈む  平山繁夫

 
   板垣退助遭難の図

板垣退助は、遊説中に刺客に襲われたとき、

「板垣死すとも自由は死せず」と名言を吐いたが、
単に負傷しただけで命に別状はなかった。

例えば、ラストサムライが消えた西南戦争の歴史を描くに当って、

言論による「自由民権運動」を高く評価するように……。

楫取の活躍は、闇に葬られたのである。

何故ならば、県令として赴任した楫取は、職務上、

自由民権運動の抑圧者という立場に立つことになった。

楫取自身も、群馬県令当時起きた「群馬事件」で、

自由党と対立している。

こういう流れの中で、

群馬県を「養蚕県」にしたとか、「教育県」にしたとか、

という功績があっても、埋没してしまったのである。

とくに、当時の群馬県は、

政府の言うことを聞かず、知育・徳育の普及も十分ではなく、

風紀上の問題もある「難治県」といわれていたことは、

以前に述べたた通りである。

混沌の世界ひじきのもどし汁  藤本鈴菜

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帽子屋で丸い頭を買ってきた  月波与生

  
「赤門白粉」・「二八水」広告に使用された萬龍の肖像写真

長瀬商店の化粧水「二八水」、無鉛白粉「赤門白粉」の広告として、
「赤門白粉にて化粧せし美容」「二八水を愛用せらるる美人」
  キャッチコピーとともに誌面を飾った。

  
「クラブ洗粉」の広告の萬龍

「クラブ洗粉」は大阪の化粧品会社、中山太陽堂(現在のクラブコスメチック)
   の大ヒット商品で、現在も販売が続けられている。


「明治女性のファッションー①」

江戸時代の古い文化や習慣を一新し、

近代化を果たすために明治新政府が進めた「文明開化」

人々の生活や街並みの中に、

徐々に西洋文化が取り入れられていった。

庶民の西洋化は外見や服装にも表れ、

男性は髷をおろして「ざんぎり頭」となり、

洋装の制服などが広まっていく。

しかし女性はと言うと、

着物に日本髪という江戸時代の姿のままだった。

洋装は高価なうえ、それを着るような機会がなかったのだ。

黄色づくイチョウに呼吸法を聞く  佐藤正昭

  
  山階宮常子の洋装

パフスリープの昼間用アールヌーヴォードレスに手袋、扇を持つ、
中礼服のローブデコルテ。

そんな中、当時の外務大臣であった井上馨は明治16年(1883)

西欧諸国の貴賓との交流の場として洋風レンガ造りの鹿鳴館を建設。

夜ごと、舞踏会や音楽会が繰り広げられた。

鹿鳴館の夜会は西洋にならい夫婦で招待され、

洋装が必須だったことから女性のファッションが着目され始め、

鹿鳴館のスタイルのドレスが誕生した。
                    かなえ        えいさく
この鹿鳴館時代、軍医の渡辺鼎と記者の石川暎作が、

「婦人束髪会」(明治18年)を発足させ、

日本髪は不経済、不衛生、不便、として西洋風の束髪を推奨した。

今までの履歴はみじん切りにする   高島啓子

  
    芸妓の洋装姿

芸妓の絵葉書はプロマイドのような存在で飛ぶように売れ全国に流行。
アールヌーヴォードレス・真珠や鎖のネックレス、
大きな飾り帽子で着飾る。


明治19年、皇后が洋装を取り入れたことで

女性の宮廷礼服にローブなどの洋装を採用、

それに準ずるものとして、ビジティングドレス(和服でいう訪問着)が、

皇室や華族に用いられるようになる。

上流階級にとっては、社交術の一環でもあった。

同年、東京女子師範学校が制服に洋装を採用した。

その後、欧化政策の失敗、日清戦争ころの国粋主義の台頭で、

「洋服廃止論」などが唱えられ、一時、和装へと戻った。

とは言っても、洋装するのは上流階級や美を磨く芸妓が中心であった。

こうした流れのなかで庶民にも洋装が少しずつ取り入れられるが、

ドレス類はほぼ輸入品であり、

上流階級にとっても高級品だったようだ。

俯瞰図であなた追っている頭  杉浦多津子

  
『俳優楽屋の俤ー中村福助』(明冶21年、豊原国周画)

福助は当時人気絶頂の女形。
天覧歌舞伎には各国高官を招き伝統芸を披露する意図や、
鹿鳴館時代の欧化政策批判に対抗する意図もあったという。
当日の出し物は「勧進帳」などであった。


女性の洋装化を語る上で美容業界の発展も見逃せない。

明治20年、井上馨外務大臣宅で「天覧歌舞伎」が催された。

その際、義経役の中村福助の足が極度に震え、

鉛白粉の毒が影響しているといわれた。

これを受けて、各化粧品会社が無鉛白粉の開発に乗り出す。

そして、明治33年ころ、無鉛白粉は長谷部仲彦によって開発され、

明治37年、無鉛の御園白粉が伊藤胡蝶園から本格的に売出された。

しかし、それでも、のり、のび、付きの三拍子揃った鉛白粉を

使用するものは後を絶たず、

昭和8年に完全に製造販売が禁止されるまで愛用された。

晴れおんなモードに髪を染めてます  美馬りゅうこ

  
「マダム・サダヤッコ」と呼ばれた川上貞奴(フランスの雑誌・「フェミナ」より)

1900年のパリ万博ほか多数の公演で大評判となった貞奴は、
多くの欧米の雑誌に取り上げられた。

白粉は当然のように白色が使われていたが、

同じ頃から白以外の色白粉が話題となった。

女優の河上貞奴『西洋化粧談』などで、海外公演の体験を踏まえて、

西洋化粧のよい点として、肌に合った色の白粉を紹介している。

こうした影響もあって肉色、黄色、肌色白粉が国産されはじめた。

これを契機として日本女性は、

「白い白粉でなくてもよいのだ、肌色に近い白粉を塗ってよいのだ」

という意識を持つようになった。

「白粉は白」という固定観念から解放されるまで、

自分の肌色を自覚するまで、

文明開化から約40年の月日を要している。

貞明皇后のこれがつけ黒子  井上一筒

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一筆箋添えて今日の蟠り  北原照子



「富岡製糸工場閉鎖の危機を救った楫取素彦」
明治3年、政府は外貨を獲得するため主要な輸出品目を定めた。
その中でも重要視したのが生糸であった。
政府は洋式器械製糸法の導入と、大規模な官営工場の建設に踏み切った。
これが今や世界遺産の富岡製糸工場である。

だが経営はうまく行かず
明治13年に早くも払い下げの対象となる。
そして「請願人がいなければ閉鎖」という方針が打ち出された。
しかし手を挙げる企業は無く、閉鎖が決定する。
だが群馬県令だった楫取素彦が、
「政府が富岡製糸場を廃止すれば世界各国からあざけられるだろう」
と、製糸場
存続の「請願書」を政府に提出。
これが認められ、存続したのである。

右肩にブレぬ私を乗せておく  徳山泰子

  
「日本の近代化に大きく寄与した富岡製糸場」
かつて工女たちが300人並び、一斉に作業をしていたという。

「富岡製糸場・女工の日記」

富岡製糸場が操業を開始したのは明治5年(1872)。

富岡製糸場はフランス人技師・ポール・ブリュナの設計・指導のもと

近代化が悲願だった日本が国の威信をかけて建設した

最先端の国営の近代製糸工場である。

横浜のフランス商館勤務だったブリュナは武州、上州、信州で

実地調査を行い、養蚕が盛んで、水や石炭が確保できる現在の

群馬県富岡市を建設地に選び設計した。

物差しのしあわせ 風を測るとき  清水すみれ


   新工場操業時風景

フランス式の労働環境を取り入れた富岡製糸場は、

女性が働く環境としてとても先進的であった。

製糸場は少なくとも民営化される前までは、

職場として最良の労働環境が保たれていた。

労働時間は一日8時間未満、日曜日は休みで、

夏休み冬休みも10日ずつ、給料も実力次第で恵まれていた。

当時の女工たちが目指したのは「一等工女」で、

給与も服装も特別待遇で、浮世絵に描かれるほどの憧れの存在であった。

きな臭い風が北から南から  合田瑠美子

ところが。当初は、富岡製糸場も「西洋人に生き血を吸われる」

と、恐れられ、募集しても女工が集まらなかったという。

技術指導の為に来ていたフランス人技師が飲んでいた赤ワインを、

「生き血」と見間違えたという、嘘のような真の噂が流れたためである。
             おだか
やがて初代工場長・尾高ゆう(14歳)が第一号の工女として働き始めると

生き血の噂は消え、廃藩置県で地位を失った旧士族の娘たちや

戸長の娘などをはじめとして、農工商の身分に関係なく、

全国から多くの十代の若い少女たちが集まり始める。

完成後は全国から約400人の女性工員が集まり、

いわゆる「富岡乙女」と呼ばれる優秀な娘さんたちが、ここで働いた。
                               よこた・えい
明治6年(1843)、長野県からやってきた女工・横田英(15歳)が、

「富岡手記」に当時の生活を克明に綴っている。

馬車になったのはエエとこの南瓜  杉浦多津子


   横田 英

日記「出立」

私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして横田数馬と申しました。

明治6年頃は、松代の 区長を致して居りました。

それで信州新聞にも出て居りました通り、

信州は養蚕が最も盛んな国 であるから、

「一区に付き何人(たしか1区に付き16人)13歳より25歳までの女子を

   富岡 製糸場へ出すべし」

と申す県庁からの達しがありましたが、

人身御供にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。

父も心配致しまして、段々人民にすすめますが何の効もありません。

やはり血をとられるの油を搾られるのと大評判になりまして、中には、

「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」

と申すようになりました。

娘とはいえままならぬ周波数  下谷憲子

それで父も決心致 しまして、私を出すことに致しました。

さてこのようになりますと,

可笑しいもので良いことばかり私の耳に入ります。

あちらへ行 けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、

それはそれはよいこと尽し、

私は一人喜び 勇んで日々用意を致して居りますと、

さあこのようになりますと不思議なもので、

私の親類の人、または友達、
それを聞伝えて、

我 も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。


後から追々願書が出ましたが、満員で下げられ ました。

(いよいよ)明治6年2月26日、一行16名、

松代町を出立することになりまして、父兄も付添として参りました。

旅費は富岡で渡りましたように覚えます。

付添の人々は皆自費であります。

煮詰まった話へ蓋をとる役目  山本早苗

 
  岡谷工場内の選繭作業の様子

日記「富岡到着」

七十五間、二階建て、煉瓦造りの西側の繭置場に 

一行が副取締の前田万寿子に連れられ、場内の様子を見ました。

私共一同は、この繰場の有様を一目見ました時の驚きは、

とても筆にも言葉にも尽されません。

 第一に、目に付きましたは、糸とり台でありました。

台から柄杓、匙、朝顔二個(繭入れ、湯こぼし のこと)皆真鍮、

それが一点の曇りもなく金色目を射るばかり。

第二が、車、ねずみ色に塗り上げ たる鉄、

木と申す物は糸枠、大枠、その大枠と大枠の間の板。

第三が、西洋人男女の廻り居ること。

第四が、日本人男女見廻り居ること。

第五が、工女が行儀正しく、

一人も脇目もせず業に就き居ることでありました。

一同は夢の如くに思いまして、何となく恐ろしいようにも感じました。

薄荷酒と探偵小説そして黒皮の手帳  山口ろっぱ

途中に昼休み、休憩を計三回入れて午後4時30分まで。

工場に入った女工たちは当初は下積み作業(見習い)から始め、

技量によって「三等工女」、「二等工女」、「一等工女」

と等級が認定されるシステムであった。

赤いたすきと高草履が許され、街なかでも憧れの存在だったという。

全体の3%程度しか「一等工女」にはなれなかったと言うから、

「一等工女」(一日で生糸四束を取れる)は女工たちの憧れであった。

ずらした視線の先に本音がぶらさがる 寺島洋子

  
    就業前の体操風景

日記「一等工女」

さて私共一行は、皆一心に勉強して居りました。

中に病気等で折々休む人もありましたが、

まず 打揃うて精を出して居ります。

何を申しましても国元へ製糸工場が立ちますことに、

なって居りますから、その目的なしに居る人々とは違います。

その内に一等工女になる人があると大評判があ りまして、

西洋人が手帖を持って中廻りの書生や工女と色々話して居ますから、

中々心配でなり ません。その内に、

ある夜取締の鈴木さんへ呼出されまして段々中付けられます。


私共は実に心配で立ったり居たり致して居りますと、

その内に呼出されました。

「横田英 一等工女 申付候事」

と申されました時は、嬉しさが込上げまして涙がこぼれました。

珠玉のページにはわたくしのルージュ  田口和代

一行15人(その以前、坂西たき子は病気で帰国致されました)の内、

たしか13人まで申付け られたように覚えます。

呼出しの遅れました人は泣出しまして、

「依怙贔屓だの顔の美しい人 を一等にするのだ」

のとさんざん申して、後から呼出しが来て申付けられました時は、

先に申付け られた人々で大いじめ大笑い、

しかし一同天にも昇る如く喜びました。

残った人は皆年の少い人で、中には、

未だ糸揚げをして居た人もありました。


そんな事言うたかなあに手を添える  森田律子

 
  繭倉庫前に集まった工女

日記月給

月給は、一等一円七十五銭、二等一円五十銭、 三等一円、

中廻り、一円でありました。(等外=見習いは、年収9円)、

一等工女になりますと、その頃は百五十釜でありまして、

正門から西は残らず一等台になりました。

私は西の二切目の北側に番が極まりまして、参って見ますと、

私の左釜が前に申述べまし た

静岡県の今井おけいさんでありましたから、


私の喜びは一通りではありません。

また今井さん も非常に喜んで下さいました。

その日から出るも帰るも手を引合いまして、

姉妹も及ばぬほど睦 しく致して居りました。

給料は月割りで支給。 

別に作業服代として、夏冬5円支給される。


明治8年には4段階から8段階に変更され年功序列ではなく能率給。

当時の1円は今の2万円位に相当する。
当時の小学校の教員や警察官の初任給が
月に8~9円だったからこれは、破格の待遇である。
さらに寮費や食費は製糸場支給で丸々自分の収入になった。

掛け算の六の段から不整脈  高島啓子

 
若き女工たちの青春の日々

労働時間は1日約8時間で、

週休1日のほか夏冬に各10日間の休暇があり、

食費や寮費などは、製糸場が負担していた。

工女たちは馴染みの呉服店に出かけては、

月払いで着物を買い、
休日にはおしゃれをして出かけた。

富岡製糸場の工女たちは士族の娘が多く余裕があったこともあるのか

よく働き休日も楽しむ青春の時間を楽しんでいたようだ。

しかし官営模範工場は、富岡製糸場の労働条件の良さが

象徴するように、民営工場よりも給料や待遇が良かったために、

次第に財政を圧迫するようになって来る。

高額な給与がネックで創業3年目にポール・ブリュナを解雇。

(再契約はなく明治9年に帰国)

当初は官営で超ホワイトな企業運営のため、

女工たちは準公務員あつかい。

そんな学園天国だったため経営は悪化。

8年後には事実上の経営破綻となって、売りに出されることとなる。

小さい秋がわたしの側に立っていた  嶋沢喜八郎

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棒になるならひとこと言ってほしかった 竹内ゆみこ

 
「銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重画)

明治政府の中枢を担った長州藩は国会開設の立役者・伊藤博文
国民皆兵制度推進の山県有朋、条約改正に取組んだ井上馨などを輩出。
ここでは、群馬県令・楫取素彦美和が再婚するまでの時代を中心に
中央の経済や金融の改革、地方の社会・産業・文化の変容などを視る。

「動く明治新時代」 

近代化の進む日本において、地方では藩に代わる府・県のまとまりが

人々の間に根付き、新しい文化が生まれ、前代の地場産業の多くが、

さまざまな形で継承された。

「土地改革」については、旧藩主の土地所有権を排除し、

全国的な土地調査を行なうなど、

イギリスやフランスの市民革命時の先を行く先駆的なものであった。

国家財政を確保するための土地改革の中心は「地租改正」だが、

それと裏腹の形で「秩禄処分」が強引に行われた。

地租とは、土地に対する課税で土地所有の一元化と、

土地の面積や収穫量、種や肥料代などの生産費の把握が前提となる。

肯定も否定もしない別れ道  皆本 雅


「地租改正測量図」

地租改正では、全国で課税の基礎となる土地の測量が行なわれた。

「地租改正」は全国の土地すべてを調査し、地価を決め、

地価の100分の3を地租として、金納を義務づけるものだった。

地租は、将来100分の1に削減すると約束された。

しかし、地租改正が負担の軽減にならないばかりか、

増税につながる場合の多いことを知った農民の反発は激しく、

全国に一揆が広がった。

そこで政府は、明治10年1月に減租の詔書を発して、

地租を地価の100分の3から100分の2・5に減らし、

土地にかかる地方税も、

地租の3分の1から5分に1に減らすこととした。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

 
「三重県下頑民暴動の事件」(大蘇芳年画)

明治9年12月に三重県全域と周辺地域に広がった農民一揆は、
処刑者が5万人を超える大規模なものとなった。
金納ではなく米による納付を求める陳情が受け入れられなかったため、
蜂起した農民が市庁舎や学校、地租改正関係者の自宅などを打ち壊した。

減租の財政的裏づけとして、

この時期、秩禄処分のめどがたったという事情がある。

秩禄とは華族(旧公家や旧藩主)や士族に与えられた「家禄」などである。

家禄の支給が政府の収入の3分の1に達して財政を圧迫していたため、

明治政府は、金禄公債を発行して、

支給期限を定めるという形でそれを削減。

このとき、「華族」に与えられた特権が「士族」にはなく、

金禄公債すら手放さざるをえないものも出た。

やがて、「萩の乱」のほかに、「神風連の乱」、「秋月の乱」、

「西南戦争」など、全国で士族の反乱が勃発した。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

「写真(絵)で視る明治の風景」

 

  「函館の新聞縦覧所」

慶応3年(1867)に最初の「縦覧所」が設置され、明治3年頃から普及。
江戸時代以来、明治初期に至っても、
一般の庶民は居住地域外の情報に触れることは少なかった。
しかし他の地域への感心は高く、明治に入って発行が始まった新聞は
多くの地方で歓迎された。
配達網が未整備だった当初は、地方の書店などに新聞縦覧所が設置され、
人々は複数の新聞をよむことができた。

押入れのかわりに心に箱一つ  山口美千代

 
「東本願寺北海道開拓錦絵」
                       おさるべつ
明治3年7月~明治4年10月にかけて東本願寺一行は尾去別を起点に
洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸を結ぶルートの道路建設を開始した。
長さは約100km、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。

明治政府は、琉球王国を沖縄県として日本に取り込み、
ロシアとの間で千島・サハリン(樺太)交換条約を結んで千島を獲得した。
また小笠原諸島を領有下に置くなど、日本の領土国境の画定を進めた。
「蝦夷」と呼ばれた北方の地は「北海道」と改称され、
千島とともに大量の開拓民が送り込まれた。
新天地とされた北海道には、厳しい環境のなか、
多くの開拓民が家族を連れ、技術や敬虔を携えて渡った。
厳寒と荒野はあまたの夢を破り、成功を阻んだが、
開拓の国策に協力し、教団の結束のもとに、
門徒の新しい暮らしを模索した東本願寺のような例もあった。

パロディとして晴天に裏がえる  河村啓子

 
「特命全権大使米欧回覧実記」

明治4年11月から6月9日にかけて、岩倉具視を特命全権大使とする
岩倉遣欧使節団が、不平等条約の改正への予備交渉と
欧米文物の視察などを目的として欧米を歴訪した。
写真は、訪問先のブロードウエイの挿絵と報告書(5冊2110ページ)。

お話は聞いてみたけどプリンぺラン  井上一筒
 
 
  「東京裁判所庁舎」

明治5年4月司法卿・江藤新平は行政権と司法権の分離を主張。
各府県の持っていた司法権を司法省の管轄に移し、司法裁判所、
府県裁判所、などの5種の裁判所を設置した。

気休めに窓など描いておきましょう  清水すみれ
 
  
 「明治11年第三十八国立銀行発行の五円紙幣」

国立銀行は、東京の第一国立銀行から京都の第百五十三国立銀行まで、
全国で153行が設立された。
資本金の8割を利付公債証書で政府に供託することで、
それと同額の銀行券(紙幣)の発行が認められた。
国立銀行紙幣は当初アメリカで印刷されたが、明治10年の一円紙幣から
日本の大蔵省紙幣局で製造されるようになった。


遺言は凛々しい文語体にする  新家完司

 
  「サケの人工孵化場」

幕末に諸藩が力を入れた産業の中には、明治に入って、
それぞれの地域で継承されていったものもある。
例えば、家禄を失った士族の生活のために、
魚の養殖場の拡充や整備が行なわれるなどした。

にっこりと笑うことから始めよう  こうだひでお

 
「大日本帝国国会議事堂真景」

明治23年11月に竣工した最初の国会議事堂。
財政難と2年弱という時間的制約のため、
洋風木造2階建ての仮建築だった。
しかし、この建物は2ヶ月後の24年1月、漏電により出火、全焼した。

前頭前野が見てるオーシャンビュー  森田律子

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君に恋する為に生まれてきたのです  森田律子


富岡製糸場の生糸商標

「楫取寿の死」

「子どもを育てるのは母親、まず母親が学ぶことこそが大事」

かって兄・松陰は、よくそう言っていた。

女たちのための学校を作ろう、兄の志を引き継いだ美和の夢が、

学びの場にする空き家を見つけたことで一歩、現実に近づいた。

その矢先、司法省で働き始めた久米次郎から、

美和宛の手紙が届いた。

「母(寿)の気持ちが分かるなら、今すぐ家を出ていってほしい」

と強い語調で書いてある。

一体どういうことなのか、美和は一度東京に行ってみようと考えた。

美和は義兄の楫取素彦に、「寿の見舞いに東京に行きたい」

というと、

素彦は「寿も喜ぶだろう」と快く美和を送り出してくれた。

筆順のどこかが違う正義感  筒井祥文


   久米次郎

東京の寿の住む家の前で、仕事から帰ってきた久米次郎と対面すると、

露骨に顔をしかめ、

「帰ってください。どれだけ 母を苦しめるつもりですか」

と棘のある言葉がかえってくる。

美和は当惑するしかなかった。

「久米次郎、美和が来とるんですか」

2人の会話が耳に届いたのだろう、

奥の部屋から寿が声をかけてくる。

奥へ通された美和が、久しぶりに見る姉は一回り小さくなっていた。

遠目には釣り合い取れていた夫婦  柴本ばっは

「何故、楫取のそばを離れてここに来たのか」

と、寿は問うが、美和には答えられない。

「私の送った手紙のことでしょう」

憮然と久米次郎は言う。

「父上のおそばにおられるべきは母上です。

   この人がおるから、母上はもう自分は無用だなどと…」

美和がいるから安心だと言いながら、

寿が寂しく微笑むのが、久米次郎にはたまらなかったのだ。

木綿語で話して肩凝りを治す  清水すみれ


   杉 民冶

事情をしった寿は、久米次郎を席から外させ、美和に言う。

「夫の世話ができない自分の身が情けなく、

   ふと口をついて出てしまった」

のだと。

「でも、羨む気持ちは気持ちもないと言えば嘘になります」

夫は自分に優しくしてくれるが、

心配な事や辛い胸の内は打ち明けてくれない。

けれど、美和には違う。

美和になら話せる。

「やから、焼けるくらい感謝しておるんです」

「義兄上は、姉上を誰よりも大事に思うておられます。

   それは、そばにおる私がいちばんよう分かっとります」

その後、美和は少しの間、折角来たのだからと、

寿の世話をするため東京に留まることにした。

生きているリズムで溜まるゴミの山  竹内いそこ


 新井領一郎

このころ(明治9年)新井領一郎の営業努力により、

外国人外商を経由せずに、日本人が初めて生糸の直輸出を実現した。

こうした生糸の仕事が忙しくなった中、

美和は群馬と前橋を何度か行き来することになる。

当時の「楫取書簡」を紐解くと、

「今般阿三和氏(美和)帰県」 (明治8年10月19日)

明治11年頃になると、

「今日頃、阿三和も東京より見舞いにきます」

「阿三和も、多分 今月中には帰寧できることになりました」

という不思議な記述も見られる。

帰寧とは、嫁いだ娘が初めて里帰りするという意味で、

楫取は途中から美和の名も呼び捨てになり、

美和に対する意識が変わってきたのだろうか。

さらに明治14年1月6日の記述では、

「阿三和さんは、私が引き取り、前橋で寿の看護人、

   または私の家の女幹事になってくだされば、

   お互いに幸せになるでしょう」

と、楫取の美和への意識は,妻のような扱いに飛躍している。

すりこぎに君は命と彫っている  田口和代


楫取が民治に宛てた手紙

年が明けて14年1月、寿の病状は手の施しようがなく、

長男の篤太郎も萩から妻を連れ、寿の枕元にいた。

そして明治14年1月30日、薬石効なく、寿は43歳で他界する。

楫取の悲しみは深く、

妻が手を通した衣類を洗うことすら忍びないと、

涙する日々を送ったという。

楫取は義兄・民治(梅太郎)に宛て手紙で心情を次のように吐露している。

「なかんづく臨終まで御着用候衣類、襟垢など付き候分、

   入梅にも至り候時はかびに成り候ゆえ、

   洗濯仕らずては年置きも相成らず。

   これを洗ひ候ては誠に惜しく、兎角涙の種にござ候」

(臨終の時に寿が来ていた着物には襟垢(えりあか)がついていて、
 梅の季節になる頃には、かびになるでしょうが、
    洗濯しないと置いておけない。

    でも、洗ってしまうのは非常に惜しく、涙の種になっております

髭剃ってさてこれからの置き所  山本早苗

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