メビウスがほどけぬ おとこ対おんな 美馬りゅうこ
群馬県の富岡製紙場
明治3年、政府は外貨を獲得するために主要な輸出品目を決めた。
その中でも重要視したのが生糸であった。
政府は洋式器械製糸法の導入と、大規模な官営工場の建設に踏み切った。
「命の糸」
三隅村における農耕の生活にピリオドを打って
楫取素彦は、
明治5年に現在の小田原辺りを含む、足柄県の下級官吏として赴任。
間もなく参事に昇進し、それから2年後かっての石高に換算すれば、
足柄県の3倍にあたる熊谷県の権令
(副知事)の辞令を受け取り、
明治9年に県令
(知事)になっている。
そして同年に熊谷県は群馬県となり、素彦は初代の群馬県令となる。
明治9年といえば、不平士族などの反乱が治まらず、
まだまだ混乱していた時期であり、
故郷萩でも「萩の乱」が起きている。
(世間が落ち着きを取り戻したのは、明治10年西南戦争が終結した時。
西郷隆盛が明治政府に不満を持つ士族たちとともに西南戦争だが、
西郷が彼らを引き受ける事で、世の中に収まりがついたとも言われる)
なにはともあれ、楫取はそれから、約8年の間、
群馬県令として教育の充実と産業発展に尽くした。
カーテンヲ開けるコトカラ始めよう 山口美代子
日本初官営の器械製糸工場
日本の近代産業遺産としては初の世界遺産にもなった富岡製紙場は、
明治5年に開設した日本初の官営の器械製糸工場で、
農家の家内工業として、細々となされていた製紙業を
機械化することで大規模生産を可能にする画期的なものであった。
楫取は品質のよい上州生糸の振興に心血を注ぎ、輸出にも尽力する。
ここで作られた生糸は、欧米にむけて盛んに輸出され、
また、絹織物の先進地フランスのリヨンにも輸出されるようになる。
それにはもちろん、素彦の働きがなくては語られるものでなく、
輸出販路をアメリカに広げるために、
富岡製紙場に倣って作られた水沼製紙場の社長・
星野長太郎が
弟の
新井領一郎をアメリカに派遣するときには援助している。
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エドウィン・O.・ライシャワーと ハル・ライシャワー
素彦の妻・
寿も2年前に長門三隅村から関東に移り、夫を助けた。
新井が渡米するとき寿は兄・
松陰の形見の短刀を手渡して、
「兄の魂のこもった短刀をアメリカへ持っていって欲しい」
と、依頼したエピソードが残っている。
(ハル・ライシャワーの著書・『絹と武士』に載るエピソード)
寿は、海外を夢見ながら果たせなかった松陰の夢を、
果たして欲しい、と思ったのだろう。
明治9年、アメリカに渡った新井は、アメリカ市場の開拓に成功。
質のいい生糸と日本の伝統ある商法で信用され、
生糸の直接輸出を可能にしたのである。
【余談】
新井の長女は、明治の元勲・松形正義の長男に嫁ぎ、
その娘である孫・ハルは、後に、
駐日大使となったエドウィン・ライシャワーと結婚をしている。
ようそんな便利な人をみつけたね 雨森茂喜
そんな夫を支える寿は、一方で熱心に浄土真宗を信仰し、
上州へ教えを広めようと努め、信徒拡大に成功した。
しかし病で手足に障害が出て、寝起きもままならなくなってしまう。
中風症という病気である。
中風症とは、脳出血をきっかけに半身不随になったり、
手足に痺れや麻痺を引き起こす病気である。
素彦は妻の治療に手を尽くすが快方に向かわず、
寿を東京の
久米次郎夫婦の家に移して、治療を続けた。
この時、姉を案じて駆けつけたのが
美和である。
かっての息子・久米次郎の家で姉の看病にあたり、
時に前橋の素彦のもとに赴いて、姉の代わりに身の回りの世話をした。
どのページ開けても雪は舞っていた 大田扶美代
杉 民冶
松陰の2歳上の兄。明治維新期には代官として各地で任に当たり、
その優れた手腕から「民治」の名を藩主から受ける。
山代では水路造成・田畑開拓により人々の暮らしに貢献している。
寿子はいつの頃から身体を悪くしていったのだろうか。
素彦が杉家の長男・
民冶に宛てた手紙・
「楫取書簡」に、
妻・寿の健康状態を気遣う文書が見られる。
(明治3年10月)
「妻は、例の胸痛で養生しています」
楫取が山口藩権大参事に就任し、藩主の代理として東奔西走。
(明治4年4月)
「今、いつものように具合が悪いのです」
藩主・敬親死去し廃藩置県が断行されると、三隅村に隠棲。
(明治7年7月)
「二ヶ月前から阿久(寿)は胸の痛みで苦しみ、
一時は激痛に苦しみました」
熊谷県権令に就任。
流水に空が一枚浮いている 嶋沢喜八郎
(明治9年6月)
「阿久は春以来、病気で衰弱しています」
美和が姉の看病と家事手伝いのため通いはじめる。
「阿三和さんの上京はいつでもよろしいので…」
「阿三和さんが6月に入って、いらっしゃるのをお待ちしています」
「阿三和さんには、6月中には是非、
お出でくださるようにお願い申し上げます」
「今日頃、阿三和も東京より見舞いに来ます」
以来、頻繁に美和の名前が登場しているので、楫取は美和を頼り、
その来訪を心待ちしていた様子が伺い知れる。
そして、「阿三和殿、当地、滞留中」とあり、
いよいよ美和は泊り込んで、看病や家事万端を引き受けている。
くちびるを読み愛を確かめている 前中知栄
寿
明治14年1月、寿は、自分の死期が近いことを悟ってか、
夫の素彦に妹の文と同居したい旨を書簡で伝えている。
内容は、
「阿三和殿は小生引請、前橋にて阿寿看護人、
或は小生宅女幹事と被成候は、双方共、仕合せならん」
(阿三和さんは、私が引き取り、前橋で寿の看護人、
または私の家の女幹事(まとめ役)になってくだされば、
お互いに幸せになるでしょう) と言うのである。
互いというのは、おそらく、素彦と美和を指している。
この文で寿の本心を悟るのは難しいが、
夫を心配し
「妹と一緒に暮らしたら」という意志は伝わってくる。
私が死ねば、一緒になれと、二人の再婚を許しているようである。
遺言はホクロの裏に書いてある 井上一筒[7回]