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川柳的逍遥 人の世の一家言
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じいちゃんの影 東塔の相輪に  井上一筒


  武田信玄

「真田家の流れ」

真田氏の祖・滋野一族。
                      しげの
真田氏は上田盆地一帯を支配した滋野党の一員だった。

滋野党は平安時代前期に清和天皇の皇子・貞秀親王が、

海野平に土着した子孫だという。〔『真武内伝』『長国寺記』〕
                  つねかげ       じょうがん
一方真田家の家譜では、滋野恒蔭という人物が貞観10年(866)
ねず
滋野に土着したともいい、その後海野氏、望月氏、禰津氏に分かれる。

真田氏はこのうち海野氏の庶流で、鎌倉時代にはすでに一家を建て、

応永7年(1400)「大塔合戦」に参陣したことが知られている。

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海野平合戦に敗北。箕輪城主・長野業政のもとに身を寄せる。

天文10年(1541)5月、甲斐の武田信虎が、

信濃の村上義清、諏訪頼重と連合して海野平に攻め込んだ。

海野平は一日で制圧され、真田郷を領した真田幸隆は、

3月11日、宗家の海野棟綱らとともに上野国へ逃亡する。

天文10年、幸隆、武田氏に臣従。

だが、天文12~18年初頭の間に信虎の子・信玄に召し出され、

信濃先方衆として土豪たちの調略に従事。 (天文16年昌幸誕生)

天文17年2月、上田原の戦いで信玄が、村上義清に敗北。

天文19年、幸隆、信玄より

「村上氏を攻略すれば小県郡諏訪形など、1000貫文を与える」

旨の書状を受ける。 

10月、信玄が再び義清に敗れる。 (砥石崩れ)


天文20年5月、幸隆、村上氏の砥石城を攻め取る。

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つづいて、上野先方衆となり武田家の西上野の攻略に貢献。

信玄は外様の信濃国衆ながら真田父子(幸隆・幸隆の長男信綱、二男昌輝、三男昌幸)

をすこぶる厚遇した。


それは、村上義清や上杉謙信との戦いをはじめ、

信州平定過程での貢献を高く評価したからである。

信玄の晩年に成立したという武田家に残る書上には、

信綱200騎、昌輝は50騎を率いて、

信濃先方衆の筆頭に
位置づけられていた。〔武田法性院信玄公御代惣人数之事〕

兄弟合わせて250騎という軍団は、武田家臣でも一門衆や

有力譜代衆と同等かそれ以上である。

ねじ山がこわれて台風が生まれ  前中知栄


  真田昌幸

天文22年8月、三男・昌幸が、人質として武田家へ送られる。

昌幸は真田氏服属の証として、7歳で信玄の人質となった。

はじめ奥近習衆だったが、信玄は昌幸の明敏を見抜いて、

跡が絶えた甲斐の名族、武藤家の家督を継がせ、

武藤喜兵衛と名乗らせた。

その後、信玄は昌幸を奉行人に抜擢し、龍朱印状の奉者として、

大名武田家の行政の一翼を担わせている。

軍事面においても、先の書上では昌幸は足軽大将として、

騎馬30騎、足軽30人を預けられている。

(永禄10年(1567)信繁誕生)

剪定の枝は希望に満ちていた  安土理恵

元亀元年(1570)、信隆は隠居し嫡男・信綱に家督を譲る。

信玄の昌幸への信任を示した逸話として知られるのは、

元亀元年9月、信玄が伊豆韮山で北条軍と対陣したときのことである。

信玄が北条方と決戦する決意を示すと、重臣の馬場信春が、

「敵の様子や地形をご存じなくてはいかがなものか」

と疑問を呈すると、信玄は、

「安心せよ。わしの両眼のような者を遣わそう」 と答えた。
                                    そねまさただ
諸将が誰だろうと不審に思っていると、そのうち昌幸と曽根昌世

物見から帰ってきて、信玄に敵情を報告した。

信玄が懇切に指導しているのを見て、諸将が、

「彼らは弓矢巧者になるだろう」 と羨んだという。

目の上の瘤はやんわり咬んでおく  本多洋子

昌幸、養子に入っていた武藤家から真田家に服し、家督相続。

信玄は、親子二代にわたって真田氏を厚遇し、

とくに昌幸を我が子のように教え諭した。

天正3年(1575)、その謝恩に応えるかのように、

信綱、昌輝は「長篠の戦い」で壮烈な最期を遂げている。

兄2人が戦死すると、昌幸が真田家を継ぐ。

天正8年、昌幸、名胡桃城、小川城調略、沼田城無血開城に成功。

武力による攻撃もあれば、調略による無血の勝利もあり、

昌幸の戦い方は、父・幸隆の遺産であり、信玄の遺産であった。

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  武田勝頼

武田氏滅亡。 

天正10年、織田信長、徳川家康連合軍が三方から、

さらに、北条氏直も武田領に侵攻した。

信玄の嫡男・武田勝頼は3月11日、天目山麓の田野で自害する。

その後、昌幸は織田氏に臣従したが、

直後の6月2日に織田信長が本能寺にて、

急死するという事態が発生、旧武田領は無主の地として、

徳川氏、上杉氏、後北条氏の草刈り場と化した。
    じんご
「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱の中、昌幸は北条氏直に属し、

家康から勧誘されて徳川氏に寝返るなど、昌幸は生き残りを模索。

戦国時代における真田家のクライマックスの幕が開く。
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