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川柳的逍遥 人の世の一家言
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化石をほぐすとこぼれ出すロマン  和田洋子



「木戸松子」 (天保14年(1843)~明治19年(1886))

〔一途に尽くして諜報活動した美貌の芸妓〕

明治維新の立て役者・木戸孝允の妻・松子は、

若狭国小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛の二女。

母は小浜藩医・細川益庵の娘で、4男3女があったが、

父が上役の罷免に連座して閉門とされたのち、出奔したため、

母の実家で妹とともに幼少期を過ごした。

その後、父が京都にいることがわかり、再開して4人で暮らすが、
               しょだいぶ
父の病で松子は九条家諸大夫難波恒次郎の養女とされた。

引き算を重ねこころを無に保つ  高浜広川

そして恒次郎の妻が幾松を名乗った三本木の元芸妓であったこから、

舞妓に出て、14歳で二代目幾松を襲名する。

やがて三本木の名妓となった幾松は、

長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)と出会うこととなるが、

幾松を身請け(落籍)せるおり、桂はずいぶんお金を使い、

伊藤俊輔(博文)に周旋させたとの話がある。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子



幾松は芸妓を続けながら、桂のために外交や密談の場となる宴席で、

情報収集に務める。

さらに元治元年(1864)7月の禁門の変後、探索から逃れるため、

三条大橋の下に避難した禁門の変の戦災者たちに紛れて

潜伏する桂に、幾松が握り飯を運ぶ話は有名だ。

彼女は、桂がいかなる状態になろうと献身的に庇護しつくすのである。

禁門の変後、桂が但馬国出石へ潜伏したときは、

幾松も対馬の同志にかくまわれる。

そして下関へ向うが、桂が出石にいることを知って再開を果たした。

幾松はこのおり、情報伝達の役目も担った。

平穏はいつまで菊を根分けする  高島啓子



維新の世となる、木戸は功労者の一人となった。

その木戸の正式な妻となった幾松は、松子と改名した。

そして明治2年、東京に転居する。

かって京都の名妓であった松子は美しいだけでなく、頭もよく、

心配りのできた女性で明治政府の参議となった夫をよく支えた。

また松子はもともと丈夫でなかった孝允の体調管理にも心を砕いたが、

明治10年5月、天皇に供奉して京都にいた孝允の病が再発する。

松子は看病に駆けつけるが、夫を看取ることとなり、

剃髪し翠香院と号した。

そして京都に移り住み、夫の墓守をして、44歳で病没した。

かけられた声は天啓かもしれぬ  竹内いそこ



「江良加代」 (文久2年(1862)~大正5年(1916))

〔数々の志士をとりこにした祇園一の美妓〕
                   かちょうのみや
加代は文久2年3月、京都・華頂宮家に仕える江良千尋の娘として、

祇園社のそばに生まれた。

父の千尋は、大和大路四条に道場を構え子弟に武道を教授していた。

加代は家柄ゆえか、気品に富む美貌を持ち、

また家が花街に近かったことで、

その世界に親しみ、歌舞にも優れていたという。

維新後母によって舞妓とされた加代は、

牡丹や百合の花の妍を奪うほどと評され、

祇園井筒屋の名妓・加代の名は、たちまち京洛に広まったのである。

いい線行っているなどと他人のいいかげん
                  青砥たかこ


加代にご執心となった男たちは数多いというが、
                    さいおんじきんもち
その中に、後の首相になった西園寺公望がいる。

公望は加代を正妻にしたいと、東京へ連れて行ったという。が、

西園寺家には代々正妻を迎えないとする家訓があった。

西園寺家は琵琶の宗家の家柄で、

琵琶の本尊・弁財天の嫉妬を恐れたからであった。

美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子



加代は公望と破局したが、

豪華な着物、調度品や莫大な手切れ金とともに京都へ戻ってきた。

昭和13年のことという。

これを加代が13歳、公望26歳の時とする話もあるが、

それなら明治7,8年の頃の出来事になる。

しかし、公望は明治3年12月から同13年10月まで、

フランスに留学しているので、洋行後のことになるだろう。

美しい嘘だな永久保存する  山本昌乃

また、やはり初代首相の伊藤博文がぞっこんになり、

加代を妾にしたという話もある。

加代はそれ以前に木戸孝允と深い仲になり、

木戸夫人になれると思っていたが、木戸は明治10年病死してしまう。

木戸に代わってお金を出したのが伊藤博文だった。

加代は伊藤の金で奥女中風の衣装に、

当時は珍しかった洋犬を引いて練り歩いた、が、

2人の仲は3年もたなかったという。

人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ



加代が伊藤博文に三行半を突きつけたのは、金の問題があったらしい。

加代は豪商・三井源右衛門に身請けされたのだ。

加代は源右衛門の妾といっても正妻と変わらぬ扱いで、

加代もまた貞淑に源右衛門に仕え、4男2女を産み、

幸せに暮らしたという。

大正5年1月に病没。三井家の墓所に葬られた。

歌舞伎役者の5代目・中村歌右衛門は、

「子どもの時に見た京都のお加代という芸者さんほど、

  美人だなぁと思った人はございません」

と語り遺している。

ワコールを外すとわたしクラゲです  美馬りゅうこ



「山川捨松」 (安政7年(1860)~大正8年(1919)

〔留学を経て仇敵に嫁いだ鹿鳴館の貴婦人〕

見合い結婚やいいなづけの存在が一般的だった時代、

周囲の反対を押し切って恋愛結婚をした人物に、

会津藩出身の山川捨松がいる。

会津戦争時は9歳、籠城戦では弾薬運びをした。

幼名は咲子であるが、岩倉使節団に随行して渡米、

このアメリカ留学時に捨松(捨てたつもりで待つ)と改名。

宣教師・レオナルド・ベーコン夫妻のもとで勉学に励んだ。

同時期に兄・健次郎もエール大学に留学中であった。

ヴァッサー大学に進学すると

「日本に対する英国の外交対策」と題し英語で講演。

卒業後は、看護学を学んだ。

何よりもまずあ行からリアリズム  柴田園江



明治15年、津田梅子と11年間のアメリカ留学から帰国した捨松は、

1年早く帰国していた永井繁子の結婚式で陸軍大臣・大山巌と出会い、

恋に落ちる。

2人は言葉の訛りが強く初めは会話にならなかったが、

英語で話すとすぐに打ち解けたという。

交際3カ月で結婚を約束した2人だったが、

巌の出身地は戊辰戦争で会津と敵対した薩摩藩。

当然、捨松の家族や周囲の友人は猛反対した。

しかし捨松の決意は固く、周囲を説得し、

鹿鳴館で盛大な結婚披露宴を開いたのである。

コバンザメそんな生き方だってある  竹内ゆみこ

こうして大山の後妻につくと3人の子宝に恵まれ、

前妻の子も含め6人の子を育て上げた。

継母が継子を虐める徳富蘆花『不如帰』のモデルであると

中傷される時期もあったが、優しい良妻賢母であった。

鹿鳴館では西洋式の礼儀作法を教え、

催されたバザーの収益金で看護婦学校を設立。

また篤志看護婦人会を発足させ、社会福祉事業に邁進した。

晩年は、梅子の津田英学塾を支援していたが、中途に死去する。

生きている過去をベタベタ貼り付けて  米山明日歌

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まんじゅしゃげ 端はあの世かあなたかな  河村啓子


               留魂録

「留魂録」は、それを読んだ長州藩志士達のバイブルとなり、

松陰の死自体とともに明治維新へと突き進む原動力の一つとなった。

「高杉晋作への手紙」

松陰が留魂録を綴る前に、「男子の死ぬべきところはどこか?」

 との、高杉晋作の問いに獄中の松陰は、次のように答えた。

「死は好むべきものでもなく、また憎むべきものでもありません。

 世の中には生きながら心の死んでいる者もいれば、

 その身は滅んでも魂の生き続ける者もいます。

 死んで己の志が永遠になるのなら、いつ死んだって構わないし、

 生きて果たせる大事があるのならいつまでも生きたらいいのです。

 人間というのは、生死にこだわらず、

   為すべきことを為すという心構えが大切なのです

この首があるなら終の仕事する  福尾圭司



"身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも  留置まし大和魂"
                       
「留魂録」は、この松陰辞世の句から始まる。
留魂録は吉田松陰が処刑二日前に書き起こし、
前日夕刻に書き終えたとされる(松陰の)死生観である。

『留魂録』ー〔第七章〕

私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。

また、死を求めたこともない。

ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。

7月9日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。

ところが、その後の9月5日、10月5日の二度の取調べが、

寛容なものだったために欺かれ、

ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。

これは、私が命を惜しんだのではない。

生き残った蝉はいないか見て回る  新家完司

しかるに6月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、

7月9日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、

日本の為に私が為さねばならないことをがある と悟り、

ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。

私が死罪とならない限り、

この心にわき立つ気概は、決してなくなることはないだろう。

しかし、16日に行われた調書の読み聞かせで、

裁きを担当する三奉行がどうあっても、

私を処刑にせんとしていることがはっきりし、

生を願う気持ちはをなくなった。

私がこういう気持になれたのも、平素の『学問の力』であろう。

こめかみのあたりで冬を受けとめる  笠嶋恵美子

   (画面をクリックしてご覧ください)

「留魂録」ー〔第八章〕

今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、

春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。

つまり農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、

秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。

秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、

酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。

この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者が、

いるというのを聞いた事がない。

晴れたら夢を曇れば愛を贈ります  板野美子

私は三十歳で生を終わろうとしている。

未だ一つも事を成し遂げることなく、

このままで死ぬというのは、

これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、

実をつけなかったことに似ているから、

惜しむべきことなのかもしれない。

だが、私自身について考えれば、

やはり花咲き実りを迎えた時なのであろう。

なぜなら、人の寿命には定まりがない。

農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

いつか死ぬけれど今日ではありません  笠原道子

人間にもそれに相応しい「春夏秋冬がある」と言えるだろう。

十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。

二十歳には自ずから二十歳の四季が、

三十歳には自ずから三十歳の四季が、

五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、

夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

百歳をもって長いというのは、

霊椿を蝉にしようとするような事で、

いずれも天寿に達することにはならない。

あちこちに自分の傘が置いてある  吉井はつえ

私は三十歳、四季はすでに備わっており、

花を咲かせ、実をつけているはずである。

それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは、

私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、

それを受け継いでやろうという人がいるなら、

それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、

収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

落ちてゆく雫わたしのかたちして  八上桐子



〔かきつけが終わった後にー5首〕

心なることの種々かき置ぬ 思ひ残せることなかりけり

呼びだしの声まつ外に 今の世に待つべき事のなかりけるかな

討れたる吾をあわれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払へよ 

愚かなる吾をも友とめづ人は  わがとも友とめでよ人々 
           えびす   はら
七たびも生きかえりつつ夷をぞ  攘はんこころ吾忘れめや

                                                    十月二十六日黄昏に書く 二十一回猛士

(もう思い残すことはなにもない 役人の呼び出しの声を待つほかに、
  今の世の中に待つべきことはない 
  処刑される私を哀れと思う人は、
  天皇を崇めて外国人を追い払ってほしい。

  愚かな私を友としてくれる人は、諸君で結束してほしい 
  7回生き返ろうとも外国を追い払うという心は、私は決して忘れない)

松陰もやはり人間であった。
5首の句から、松陰の今世への未練が伝わってくる。
そして10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処される。
享年30

追伸に雨と寒さがはみ出して  墨作二郎



「古川薫氏 評」
「過去、私は吉田松陰の評伝も書いてきたが、
多面的で巨きなこの人物の全体像を浮かびあがらせるのは、
いかようにしても私ごときには至難の業である。
むしろ、『留魂録』の原文をじっくり読むことが、
松陰理解への早道であるかもしれない。
歴史を動かした大文章に凝縮されたひとつの人間像をとらえるのに、
その五千字が短すぎるということはないだろう」

言い足りぬくらいで終わることにする  小出順子

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定年を待っていたのは庭の草  ふじのひろし


  製紙場の女工たち

「女の職場」


明治政府は富国政策の一環として産業への洋式技術の導入を急いだ。

その中で生糸は、日本の主力輸出産業として貴重な存在となったが、

品質水準や生産性に問題があった。

政府は生糸の品質を高め、生産性を向上させるため、

明治5年、群馬県の富岡に「官営製紙場」を開設した。

楫取素彦は絹産業全体の支援のため、

「人材教育」とともに金融や鉄道などの「基盤整備」に力を注いだ。

絹産業が重視される中、富岡製紙場は技術習得を目的とする

模範工場としても位置づけられていた。

たがやして耕して打つ感嘆符  森吉留里恵



富岡製紙場には全国各地の士族の娘たちが、

「工女」として集められた。

製紙場の工女は、一日7時間半労働が基本とされ、

休日は毎週日曜日や年末年始など年間76日が定められた。

給料は月給制で、決められ技術が上がると階級が上がる。

フランスより輸入した器械と、外人技師仕込みの技術を

習得した工女たちのおかげで、生糸の大量生産と品質向上が実現。

「生糸」は明治時代の輸出品1位を誇った。

さらに工女たちは、全国の民間工場へ指導者として赴き、

技術を広めた。

修練へ衿を正して一歩二歩  伊東志乃

工女をはじめ、明治時代になってから新しく生まれた

「女性の職業」は多い。

「女は家に入るべきだ」という考えは強くあったが、

文明開化が始まった明治10年ころから、

徐々に女性の自立、社会的地位の向上を訴える声が生まれていく。

明治18年に創刊された女性向けの雑誌の一つ、

『女学雑誌』では、発刊の趣旨として、
             いかん
「国内婦人の地位如何を見れバ、

       以って其国文明の高下をさとるべしと云えり」

と述べている。

多目的トイレの目的その一  雨森茂喜


神田中猿学町の跡見学校校舎正面 

東京神田に日本初の女学校として開校。
生徒は4,5歳から17、8歳の上流名門の子女で、開校当初の科目は、
国語、漢籍、算術、習字、裁縫、挿花、点茶、絵画、琴であった。

明治30年代に入ると、

女子のための高等教育機関がいくつも設置され、

女性自身が「自分らしい生き方」を模索し始める。

看護婦、医師、教師、女優など新しい女性の職業が次々と誕生した。

例えば、朝ドラでおなじみの広岡浅子、女優第一号・川上貞奴

日本女子教育の先駆者・津田梅子、日本初の女性産科医・楠本いね

日本初の公許女医・荻野吟子、日本初の女性医学博士・保井コノ

などが有り余る才能を発揮し始める。

穴をあければ少し明るくなるだろう 橋倉久美子



「広岡浅子」 〔女実業家のさきがけ〕

嘉永2年(1849)~大正7年(1919)

朝ドラ「あさが来た」で多くの人の知るところとなった広岡浅子

女性ながら炭鉱事業に乗り出したのをはじめ、加島銀行の設立、

大同生命保険の創業など、次々と事業を開拓したことから、

「一代の女傑」と呼ばれた。

幼いころに自身が女性だからという理由で、

満足な教育を受けられなかった経験から、

成瀬仁蔵とともに日本女子大学校(現日本女子大学)の創立に尽力。

多忙な中でも、筆を執り、雑誌や新聞に論説を多数寄稿、

廃娼運動も盛んに行なうなど、女性への啓発と地位向上に努める。

また御殿場の別荘では、

将来有望な女性を集めて夏期勉強会を開き、

市川房枝(政治家)村岡花子(翻訳家)らに大きな影響を与えた。

穴から出て第二ボタンが咲きました  柴本ばっは



「河上貞奴」 〔日本の女優第一号〕

明治4年(1871)昭和21年(1946)

伊藤博文に贔屓にされた、人気芸者だった河上貞奴は、

夫の河上音二郎とともに、アメリカの興行に赴いた際、

代役として出演し日本人女性として、初めて女優デビューを果たす。

パリ万博でも人気を博し、「マダム貞奴」と称され、

国際的な女優として地位を築くが、

女性が人前に顔や体をさらすことは、

はしたないと考えられていた。日本では、

「卑しき稼業」として強い批判を受けた。

貞奴は女優を育成するための育成機関として、

「帝国女優養成所」を開設し、

男しか舞台に立てない伝統芸能に一石を投じ、

女性を表舞台へと導いた。

新難波駅でまつ毛を巻き直す  井上一筒



「津田梅子」 〔日本女子教育の先駆者〕

元治元年(1864)~昭和5年(1929)

満6歳でアメリカ留学した津田梅子は、

最も多感な時期に西洋風の生活、価値観の中で育った。

11年後に帰国すると、

男性に従属する「日本女性の社会的地位の低さ」に愕然とし、

女性への高等教育が急務と考える。

「少人数教育・英語教育・高い専門性と幅広い教養の習得」

を提げて、明治33年「女子英学塾」を設立。

女子の学校としての初めて、

「英語科教員無試験検定取扱許可」を受けるなど、

女性の職業的自立を促した。

卒業生の中には「男女平等条約批准」「男女雇用機会均等法」

設立などに尽力した者もいる。

心配ないと振られた方の意地  竹内いそこ

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ほど遠いところに靴を脱いできた  筒井祥文


   士族の反乱

「前原一誠の決意」

中央集権国家を建設する為に、

明治政府が維新の功労者である士族を切り捨てるのは、

歴史の皮肉な必然であった。

まず明治4年、「廃藩置県」が断行され、士族はよりどころを失い、
                   (一時金)
明治9年には、代々の禄も「金禄公債」と引換えに打ち切られた。

金禄だけで生活できる者はまれで、

多くの士族は資金を元手に商売を始めるが、

俗に士族の商法と嘲笑されたように大半は失敗した。

また、四民平等となり名字帯刀の特権が失せ、

「徴兵制度」の施工で戦士の価値も焼失。

帯刀を禁じる「廃刀令」が追い討ちをかけた。

ストローの向こうで木々が枯れていく 湊 圭司

このように士族は、政府によって経済的困窮に追い込まれ、

その誇りもいたく傷つけられた。

300万士族の怒りは、いつ爆発してもおかしくなかった。

明治7年2月、ついに、

佐賀県において大規模な不平士族の乱が勃発する。

首魁は参議で司法卿をつとめた江藤新平であった。

内務卿・大久保利通は鎮台兵を大量に投入してこれを完全に鎮圧、

捕らえた江藤をみせしめとして、晒し首にした。

辛いことあったんでしょう土瓶口  岩根彰子

その後も「士族の乱」は続発するが、

いずれも政府軍の前にあっけなく破れた。

この頃、すでに徴兵制度が確立され、近代軍備も整い

不平士族は政府の脅威の対象ではなくなりつつあった。

むしろ、政府としては、残る不平分子を挑発し、

暴発したところを徹底的に潰しておきたかった。

ぶつかった物が纏わり付いてくる  みつ木もも花


宇竜港で捕縛される前原一誠

「前原一誠」


前原一誠は文久2年(1862)、萩藩を脱藩し、

上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが失敗に終わる。

その後も倒幕活動に尽力。

戊辰戦争では、長岡城攻略や会津戦線で武功を挙げた。

新政府に於いて参議を務め大村益次郎の後任で兵部大輔も兼ねた。

しかし、大村の方針であった徴兵制に反対し、木戸孝允と対立。

やがて、徴兵制を支持する山県有朋に政界を追われ、

明治8年、故郷の萩へ帰郷する。

青黴になって疼痛を途中下車  山口ろっぱ

政府の参議まで務めた前原が萩に帰ると、

地元の不平士族が待ちかまえていたように、

前原に政府への不満と生活の窮状を訴えてくる。

木戸は、前原が不穏な動きの渦中に巻き込まれることを憂慮し、

同年の春、朝旨を拝いで上京を促した。

6月、前原は萩を発って東上したが、

元老院議官への推任を辞退して、8月には再び萩へ戻る。

そこでは故郷の仲間たちが、

「かつて共に戦った上司の者たちは、

   元勲になって豪華な邸宅に住み、贅沢な暮らしをしている。

   こんなことのために、自分たちは命をかけて戦ってきたのか!」

と前にも増して憤り、叫んでいる。

難民の群れを戦火が急き立てる  菱木 誠

そして明治9年8月、思い込めば一直線の前原は、

同士の幹部と密議し、熊本の敬神党、福岡の秋月党と東西呼応して、

挙兵することに決した。

敬神党は10月24日、秋月党は26日をもって蜂起、

前原らも明倫館に会して「殉国軍」を結成し、27日に決起した。

この日は奇しくも、松陰が処刑されてから、

18回目の命日であった。

挙兵の名義とするところは、上京して天皇に諫奏し、

「君側の奸」を除くというものであった。

戦いは、11月6日の政府軍の総攻撃で、殉国軍は壊滅、

2日ばかりで事件は落着した。

何だって?柩がゴトゴト揺れたって?  山本美枝

萩での戦闘に敗れた前原は、上京して挙兵の真意を天皇に訴えようと、

同志の奥平謙輔・横山俊彦・山田頴太郎らとともに萩・江崎港から

船に乗るが、暴風のため宇龍港に避難中に捕縛される。

前原らは萩に送り返され、前原ら8名は斬首の刑に処された。

その時の介錯人を務めたのは、

松陰の妹であり、寿と美和の姉・千代であった という。

明治9年12月3日、享年43才。

「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。

   人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」

これが前原が最期に残した言葉である。

そして辞世は、

これまではいかい御苦労からだどの よびだしの声まつむしや秋の風

わたくしを残さず焼いてくれますか  皆本 雅



「玉木文之進と乃木希典」

玉木文之進「自己の教育責任を一死以ってこれを償ふ」

と言い、門下生である前原一誠らが起こした「萩の乱」

責任をとって自刃した。
                       まさよし
乃木家から玉木家に迎えた養子・正誼も萩の乱で命を落としている。

正誼の兄は、第三軍司令官・陸軍大将として、

日露戦争で旅順攻撃を指揮した乃木希典である。

乃木は赤穂浪士割腹の屋敷に生まれ、その忠臣の影響を受けて育ち。

乃木も青年期には、

正誼と一緒に松陰の伯父・玉木文之進から教えを受けた。

その感化により勤皇の志が厚かった。

水が氷になるのを許すべきなのか  福尾圭司

乃木は、「吉田松陰先生の薫化」という文章のなかで、

「私は直接松陰先生より、ご教授を受けたことはなく、

   また御面会する機会も得られなかったため、

   先生のご行動その他においては、

   あまり多く語るべきことを持たないが、

  その教訓、その感化は、間接とはいえ深く私の骨髄に浸潤して、

  幼少よりこの年に至るまで、在住坐臥、

  常に先生の教訓に背かないようしている」

欲望に逆らいながら生きている  松岡ふみお

「私の受けた先生の薫化は、皆間接的であるが、

   玉木先生と玉木先生のご夫人から、

   一挙一動に至るまで松陰先生を模範として、訓戒されたので、

   実に忘れられないものがたくさんある。

   なかでも、松陰先生は非常に勤勉家であったそうで、

   玉木先生は常に“寅次郎の半分勉強すれば大丈夫だ”と言っていた」

  などと寄稿している。

我を捨てて足の形になった靴  橋倉久美子

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ひたすらに画面繰ってる蜘蛛がいて  徳山泰子


  明治の群馬県庁

「楫取素彦の業績」

明治9年に熊谷県は、群馬県と埼玉県に分かれ、

楫取素彦は群馬県の県令(知事)となった。

群馬県が「難治」であったのは、気性が荒く反骨的であるという

上州人の気風にも原因があった。

長州の幕末の志士から東国の県令に転身した楫取は、

群馬県政という困難な仕事に際し、

松陰から託された「至誠」の精神で臨んだ。

※当時の熊谷は群馬県のほぼ全域と埼玉県の大半に及ぶ広い県であった。

松陰から「正直すぎて困る」と言われたこともあった楫取だが、

その「至誠」は上州人に受け入れられた。

人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子



楫取が県政の柱としたのは、「産業と教育」だった。

この二つの柱を群馬一県にとどまらず全国に広めようとした。
         さんし
群馬で育てた蚕糸産業と群馬で人材が国家の役に立って欲しい

という使命感を抱いていたのだ。

この国家をよくしたいという使命感は、

かって松下村塾で松陰らと培ってきたものである。

長州からはるか離れた群馬の地で、

楫取は、若き日に見た夢を着実に実現させていったのだ。

産業では蚕種・養蚕・製紙・織物と其々の熟練者の研究を奨励して、

「群馬県を日本一の蚕糸県に育てた」。

やわらかな指が開いていく未来  田村ひろ子


   森山芳平

その過程で楫取と関わった上州人が2人いる。

森山芳平新井領一郎である。

明治16年、アムステルダム万国博覧会で、

県内の桐生織物が一等賞金牌を受賞した。

この世界的評価を受けたのが森山芳平で、

森山は楫取が明治9年に開校した群馬県医学校聴講生として

理化学を学び、それを近代染色術に活かした人物だ。

森山は自分の工場で新技術を、

全国から訪れる門下生に惜しげもなく教えた。

その結果、福井、山県、埼玉、福島で輸出羽二重の生産が

盛んとなり、福井は群馬を凌ぐほどになった。

お人好しとも言える話だが、

これは群馬の技術を広め、名声を上げようとした

楫取の施政方針の影響である。

裸木の鋭く潔い線よ  新家完司

       
星野長太郎と新井領一郎                 渡米先の新井(中央)


もう一人は貿易に関わる人物である。

明治7年に水沼製紙場を設立した星野長太郎の弟・新井領一郎は、

兄と楫取の支援を受けて、生糸の直輸出のため渡米を計画した。

外国商人に奪われていた利益を日本にもたらそうとしたのである。

新井が渡航前に楫取のもとを訪れた際、

楫取の妻・寿は、「松陰の鎮魂のため」と形見の短刀を贈った。

松陰が果たせなかった渡米という夢は、盟友・楫取と妹・寿を介し、

「松陰の魂」が込められた短刀を携えた新井によって実現された。

その日ならずっとにじんでおりました  竹内ゆみこ



  下村善太郎像

前橋初代市長・下村善太郎は、江戸時代末から明治にかけての生糸商人。
廃藩置県後、県庁が高崎に決定した時、仲間の生糸商とともに、
巨額の私財を投じて、前橋への県庁誘致を実現させた。
また、前橋本町大火災での義援活動、教育、産業、交通、防災など
都市基盤つくりに私財を投じている。

産業奨励と並んで楫取県政の柱となっていた教育について。

長州の藩校・明倫館、松陰の松下村塾で教育者として過ごし、

幕末・明治の重要人物たちを育ててきた楫取は、

政治家になってからも教育に熱心であった。

気性が荒く、反骨の気風がある上州人を説得するとともに、

商人など地元の有力者に寄付を募り、教育の必要性を訴えた。

楫取は、県庁に各地から役人が訪れると、

まず教育のことを問うたと言われる。

蝸牛到達点は動かない  寺川弘一

自分でも握り飯、草履履きで県内を回り、

学校の行事に積極的に参加して訓話を行い、

求められると揮毫をした。

楫取の熱心な教育行政のおかげで、

群馬県の就学率は50パーセント、

全国平均の38パーセントをはるかに上回っている。

また楫取が県職員に命じて編纂させた偉人の小伝集『終身説約』は、

全国に普及した。

「群馬県百年史 上巻」に楫取の業績について次のような記述がある。

『楫取の熊谷県時代は、現在の群馬県政の基盤が、

   この時、築かれたと言って良いほど重要な仕事が

   矢継ぎ早に行なわれた。

   師範学校の設立、地租改正、県機構の整備、大小区集会の開催、

   産業、教育、土木、衛生・その他革新的な新事業が施工された。

   楫取素彦は人格識見学識高く、

   歴代群馬県知事中随一と言われる人である』

存在を点で表し無限大  日下部敦世

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