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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一筆箋添えて今日の蟠り  北原照子



「富岡製糸工場閉鎖の危機を救った楫取素彦」
明治3年、政府は外貨を獲得するため主要な輸出品目を定めた。
その中でも重要視したのが生糸であった。
政府は洋式器械製糸法の導入と、大規模な官営工場の建設に踏み切った。
これが今や世界遺産の富岡製糸工場である。

だが経営はうまく行かず
明治13年に早くも払い下げの対象となる。
そして「請願人がいなければ閉鎖」という方針が打ち出された。
しかし手を挙げる企業は無く、閉鎖が決定する。
だが群馬県令だった楫取素彦が、
「政府が富岡製糸場を廃止すれば世界各国からあざけられるだろう」
と、製糸場
存続の「請願書」を政府に提出。
これが認められ、存続したのである。

右肩にブレぬ私を乗せておく  徳山泰子

  
「日本の近代化に大きく寄与した富岡製糸場」
かつて工女たちが300人並び、一斉に作業をしていたという。

「富岡製糸場・女工の日記」

富岡製糸場が操業を開始したのは明治5年(1872)。

富岡製糸場はフランス人技師・ポール・ブリュナの設計・指導のもと

近代化が悲願だった日本が国の威信をかけて建設した

最先端の国営の近代製糸工場である。

横浜のフランス商館勤務だったブリュナは武州、上州、信州で

実地調査を行い、養蚕が盛んで、水や石炭が確保できる現在の

群馬県富岡市を建設地に選び設計した。

物差しのしあわせ 風を測るとき  清水すみれ


   新工場操業時風景

フランス式の労働環境を取り入れた富岡製糸場は、

女性が働く環境としてとても先進的であった。

製糸場は少なくとも民営化される前までは、

職場として最良の労働環境が保たれていた。

労働時間は一日8時間未満、日曜日は休みで、

夏休み冬休みも10日ずつ、給料も実力次第で恵まれていた。

当時の女工たちが目指したのは「一等工女」で、

給与も服装も特別待遇で、浮世絵に描かれるほどの憧れの存在であった。

きな臭い風が北から南から  合田瑠美子

ところが。当初は、富岡製糸場も「西洋人に生き血を吸われる」

と、恐れられ、募集しても女工が集まらなかったという。

技術指導の為に来ていたフランス人技師が飲んでいた赤ワインを、

「生き血」と見間違えたという、嘘のような真の噂が流れたためである。
             おだか
やがて初代工場長・尾高ゆう(14歳)が第一号の工女として働き始めると

生き血の噂は消え、廃藩置県で地位を失った旧士族の娘たちや

戸長の娘などをはじめとして、農工商の身分に関係なく、

全国から多くの十代の若い少女たちが集まり始める。

完成後は全国から約400人の女性工員が集まり、

いわゆる「富岡乙女」と呼ばれる優秀な娘さんたちが、ここで働いた。
                               よこた・えい
明治6年(1843)、長野県からやってきた女工・横田英(15歳)が、

「富岡手記」に当時の生活を克明に綴っている。

馬車になったのはエエとこの南瓜  杉浦多津子


   横田 英

日記「出立」

私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして横田数馬と申しました。

明治6年頃は、松代の 区長を致して居りました。

それで信州新聞にも出て居りました通り、

信州は養蚕が最も盛んな国 であるから、

「一区に付き何人(たしか1区に付き16人)13歳より25歳までの女子を

   富岡 製糸場へ出すべし」

と申す県庁からの達しがありましたが、

人身御供にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。

父も心配致しまして、段々人民にすすめますが何の効もありません。

やはり血をとられるの油を搾られるのと大評判になりまして、中には、

「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」

と申すようになりました。

娘とはいえままならぬ周波数  下谷憲子

それで父も決心致 しまして、私を出すことに致しました。

さてこのようになりますと,

可笑しいもので良いことばかり私の耳に入ります。

あちらへ行 けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、

それはそれはよいこと尽し、

私は一人喜び 勇んで日々用意を致して居りますと、

さあこのようになりますと不思議なもので、

私の親類の人、または友達、
それを聞伝えて、

我 も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。


後から追々願書が出ましたが、満員で下げられ ました。

(いよいよ)明治6年2月26日、一行16名、

松代町を出立することになりまして、父兄も付添として参りました。

旅費は富岡で渡りましたように覚えます。

付添の人々は皆自費であります。

煮詰まった話へ蓋をとる役目  山本早苗

 
  岡谷工場内の選繭作業の様子

日記「富岡到着」

七十五間、二階建て、煉瓦造りの西側の繭置場に 

一行が副取締の前田万寿子に連れられ、場内の様子を見ました。

私共一同は、この繰場の有様を一目見ました時の驚きは、

とても筆にも言葉にも尽されません。

 第一に、目に付きましたは、糸とり台でありました。

台から柄杓、匙、朝顔二個(繭入れ、湯こぼし のこと)皆真鍮、

それが一点の曇りもなく金色目を射るばかり。

第二が、車、ねずみ色に塗り上げ たる鉄、

木と申す物は糸枠、大枠、その大枠と大枠の間の板。

第三が、西洋人男女の廻り居ること。

第四が、日本人男女見廻り居ること。

第五が、工女が行儀正しく、

一人も脇目もせず業に就き居ることでありました。

一同は夢の如くに思いまして、何となく恐ろしいようにも感じました。

薄荷酒と探偵小説そして黒皮の手帳  山口ろっぱ

途中に昼休み、休憩を計三回入れて午後4時30分まで。

工場に入った女工たちは当初は下積み作業(見習い)から始め、

技量によって「三等工女」、「二等工女」、「一等工女」

と等級が認定されるシステムであった。

赤いたすきと高草履が許され、街なかでも憧れの存在だったという。

全体の3%程度しか「一等工女」にはなれなかったと言うから、

「一等工女」(一日で生糸四束を取れる)は女工たちの憧れであった。

ずらした視線の先に本音がぶらさがる 寺島洋子

  
    就業前の体操風景

日記「一等工女」

さて私共一行は、皆一心に勉強して居りました。

中に病気等で折々休む人もありましたが、

まず 打揃うて精を出して居ります。

何を申しましても国元へ製糸工場が立ちますことに、

なって居りますから、その目的なしに居る人々とは違います。

その内に一等工女になる人があると大評判があ りまして、

西洋人が手帖を持って中廻りの書生や工女と色々話して居ますから、

中々心配でなり ません。その内に、

ある夜取締の鈴木さんへ呼出されまして段々中付けられます。


私共は実に心配で立ったり居たり致して居りますと、

その内に呼出されました。

「横田英 一等工女 申付候事」

と申されました時は、嬉しさが込上げまして涙がこぼれました。

珠玉のページにはわたくしのルージュ  田口和代

一行15人(その以前、坂西たき子は病気で帰国致されました)の内、

たしか13人まで申付け られたように覚えます。

呼出しの遅れました人は泣出しまして、

「依怙贔屓だの顔の美しい人 を一等にするのだ」

のとさんざん申して、後から呼出しが来て申付けられました時は、

先に申付け られた人々で大いじめ大笑い、

しかし一同天にも昇る如く喜びました。

残った人は皆年の少い人で、中には、

未だ糸揚げをして居た人もありました。


そんな事言うたかなあに手を添える  森田律子

 
  繭倉庫前に集まった工女

日記月給

月給は、一等一円七十五銭、二等一円五十銭、 三等一円、

中廻り、一円でありました。(等外=見習いは、年収9円)、

一等工女になりますと、その頃は百五十釜でありまして、

正門から西は残らず一等台になりました。

私は西の二切目の北側に番が極まりまして、参って見ますと、

私の左釜が前に申述べまし た

静岡県の今井おけいさんでありましたから、


私の喜びは一通りではありません。

また今井さん も非常に喜んで下さいました。

その日から出るも帰るも手を引合いまして、

姉妹も及ばぬほど睦 しく致して居りました。

給料は月割りで支給。 

別に作業服代として、夏冬5円支給される。


明治8年には4段階から8段階に変更され年功序列ではなく能率給。

当時の1円は今の2万円位に相当する。
当時の小学校の教員や警察官の初任給が
月に8~9円だったからこれは、破格の待遇である。
さらに寮費や食費は製糸場支給で丸々自分の収入になった。

掛け算の六の段から不整脈  高島啓子

 
若き女工たちの青春の日々

労働時間は1日約8時間で、

週休1日のほか夏冬に各10日間の休暇があり、

食費や寮費などは、製糸場が負担していた。

工女たちは馴染みの呉服店に出かけては、

月払いで着物を買い、
休日にはおしゃれをして出かけた。

富岡製糸場の工女たちは士族の娘が多く余裕があったこともあるのか

よく働き休日も楽しむ青春の時間を楽しんでいたようだ。

しかし官営模範工場は、富岡製糸場の労働条件の良さが

象徴するように、民営工場よりも給料や待遇が良かったために、

次第に財政を圧迫するようになって来る。

高額な給与がネックで創業3年目にポール・ブリュナを解雇。

(再契約はなく明治9年に帰国)

当初は官営で超ホワイトな企業運営のため、

女工たちは準公務員あつかい。

そんな学園天国だったため経営は悪化。

8年後には事実上の経営破綻となって、売りに出されることとなる。

小さい秋がわたしの側に立っていた  嶋沢喜八郎

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棒になるならひとこと言ってほしかった 竹内ゆみこ

 
「銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重画)

明治政府の中枢を担った長州藩は国会開設の立役者・伊藤博文
国民皆兵制度推進の山県有朋、条約改正に取組んだ井上馨などを輩出。
ここでは、群馬県令・楫取素彦美和が再婚するまでの時代を中心に
中央の経済や金融の改革、地方の社会・産業・文化の変容などを視る。

「動く明治新時代」 

近代化の進む日本において、地方では藩に代わる府・県のまとまりが

人々の間に根付き、新しい文化が生まれ、前代の地場産業の多くが、

さまざまな形で継承された。

「土地改革」については、旧藩主の土地所有権を排除し、

全国的な土地調査を行なうなど、

イギリスやフランスの市民革命時の先を行く先駆的なものであった。

国家財政を確保するための土地改革の中心は「地租改正」だが、

それと裏腹の形で「秩禄処分」が強引に行われた。

地租とは、土地に対する課税で土地所有の一元化と、

土地の面積や収穫量、種や肥料代などの生産費の把握が前提となる。

肯定も否定もしない別れ道  皆本 雅


「地租改正測量図」

地租改正では、全国で課税の基礎となる土地の測量が行なわれた。

「地租改正」は全国の土地すべてを調査し、地価を決め、

地価の100分の3を地租として、金納を義務づけるものだった。

地租は、将来100分の1に削減すると約束された。

しかし、地租改正が負担の軽減にならないばかりか、

増税につながる場合の多いことを知った農民の反発は激しく、

全国に一揆が広がった。

そこで政府は、明治10年1月に減租の詔書を発して、

地租を地価の100分の3から100分の2・5に減らし、

土地にかかる地方税も、

地租の3分の1から5分に1に減らすこととした。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

 
「三重県下頑民暴動の事件」(大蘇芳年画)

明治9年12月に三重県全域と周辺地域に広がった農民一揆は、
処刑者が5万人を超える大規模なものとなった。
金納ではなく米による納付を求める陳情が受け入れられなかったため、
蜂起した農民が市庁舎や学校、地租改正関係者の自宅などを打ち壊した。

減租の財政的裏づけとして、

この時期、秩禄処分のめどがたったという事情がある。

秩禄とは華族(旧公家や旧藩主)や士族に与えられた「家禄」などである。

家禄の支給が政府の収入の3分の1に達して財政を圧迫していたため、

明治政府は、金禄公債を発行して、

支給期限を定めるという形でそれを削減。

このとき、「華族」に与えられた特権が「士族」にはなく、

金禄公債すら手放さざるをえないものも出た。

やがて、「萩の乱」のほかに、「神風連の乱」、「秋月の乱」、

「西南戦争」など、全国で士族の反乱が勃発した。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

「写真(絵)で視る明治の風景」

 

  「函館の新聞縦覧所」

慶応3年(1867)に最初の「縦覧所」が設置され、明治3年頃から普及。
江戸時代以来、明治初期に至っても、
一般の庶民は居住地域外の情報に触れることは少なかった。
しかし他の地域への感心は高く、明治に入って発行が始まった新聞は
多くの地方で歓迎された。
配達網が未整備だった当初は、地方の書店などに新聞縦覧所が設置され、
人々は複数の新聞をよむことができた。

押入れのかわりに心に箱一つ  山口美千代

 
「東本願寺北海道開拓錦絵」
                       おさるべつ
明治3年7月~明治4年10月にかけて東本願寺一行は尾去別を起点に
洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸を結ぶルートの道路建設を開始した。
長さは約100km、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。

明治政府は、琉球王国を沖縄県として日本に取り込み、
ロシアとの間で千島・サハリン(樺太)交換条約を結んで千島を獲得した。
また小笠原諸島を領有下に置くなど、日本の領土国境の画定を進めた。
「蝦夷」と呼ばれた北方の地は「北海道」と改称され、
千島とともに大量の開拓民が送り込まれた。
新天地とされた北海道には、厳しい環境のなか、
多くの開拓民が家族を連れ、技術や敬虔を携えて渡った。
厳寒と荒野はあまたの夢を破り、成功を阻んだが、
開拓の国策に協力し、教団の結束のもとに、
門徒の新しい暮らしを模索した東本願寺のような例もあった。

パロディとして晴天に裏がえる  河村啓子

 
「特命全権大使米欧回覧実記」

明治4年11月から6月9日にかけて、岩倉具視を特命全権大使とする
岩倉遣欧使節団が、不平等条約の改正への予備交渉と
欧米文物の視察などを目的として欧米を歴訪した。
写真は、訪問先のブロードウエイの挿絵と報告書(5冊2110ページ)。

お話は聞いてみたけどプリンぺラン  井上一筒
 
 
  「東京裁判所庁舎」

明治5年4月司法卿・江藤新平は行政権と司法権の分離を主張。
各府県の持っていた司法権を司法省の管轄に移し、司法裁判所、
府県裁判所、などの5種の裁判所を設置した。

気休めに窓など描いておきましょう  清水すみれ
 
  
 「明治11年第三十八国立銀行発行の五円紙幣」

国立銀行は、東京の第一国立銀行から京都の第百五十三国立銀行まで、
全国で153行が設立された。
資本金の8割を利付公債証書で政府に供託することで、
それと同額の銀行券(紙幣)の発行が認められた。
国立銀行紙幣は当初アメリカで印刷されたが、明治10年の一円紙幣から
日本の大蔵省紙幣局で製造されるようになった。


遺言は凛々しい文語体にする  新家完司

 
  「サケの人工孵化場」

幕末に諸藩が力を入れた産業の中には、明治に入って、
それぞれの地域で継承されていったものもある。
例えば、家禄を失った士族の生活のために、
魚の養殖場の拡充や整備が行なわれるなどした。

にっこりと笑うことから始めよう  こうだひでお

 
「大日本帝国国会議事堂真景」

明治23年11月に竣工した最初の国会議事堂。
財政難と2年弱という時間的制約のため、
洋風木造2階建ての仮建築だった。
しかし、この建物は2ヶ月後の24年1月、漏電により出火、全焼した。

前頭前野が見てるオーシャンビュー  森田律子

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君に恋する為に生まれてきたのです  森田律子


富岡製糸場の生糸商標

「楫取寿の死」

「子どもを育てるのは母親、まず母親が学ぶことこそが大事」

かって兄・松陰は、よくそう言っていた。

女たちのための学校を作ろう、兄の志を引き継いだ美和の夢が、

学びの場にする空き家を見つけたことで一歩、現実に近づいた。

その矢先、司法省で働き始めた久米次郎から、

美和宛の手紙が届いた。

「母(寿)の気持ちが分かるなら、今すぐ家を出ていってほしい」

と強い語調で書いてある。

一体どういうことなのか、美和は一度東京に行ってみようと考えた。

美和は義兄の楫取素彦に、「寿の見舞いに東京に行きたい」

というと、

素彦は「寿も喜ぶだろう」と快く美和を送り出してくれた。

筆順のどこかが違う正義感  筒井祥文


   久米次郎

東京の寿の住む家の前で、仕事から帰ってきた久米次郎と対面すると、

露骨に顔をしかめ、

「帰ってください。どれだけ 母を苦しめるつもりですか」

と棘のある言葉がかえってくる。

美和は当惑するしかなかった。

「久米次郎、美和が来とるんですか」

2人の会話が耳に届いたのだろう、

奥の部屋から寿が声をかけてくる。

奥へ通された美和が、久しぶりに見る姉は一回り小さくなっていた。

遠目には釣り合い取れていた夫婦  柴本ばっは

「何故、楫取のそばを離れてここに来たのか」

と、寿は問うが、美和には答えられない。

「私の送った手紙のことでしょう」

憮然と久米次郎は言う。

「父上のおそばにおられるべきは母上です。

   この人がおるから、母上はもう自分は無用だなどと…」

美和がいるから安心だと言いながら、

寿が寂しく微笑むのが、久米次郎にはたまらなかったのだ。

木綿語で話して肩凝りを治す  清水すみれ


   杉 民冶

事情をしった寿は、久米次郎を席から外させ、美和に言う。

「夫の世話ができない自分の身が情けなく、

   ふと口をついて出てしまった」

のだと。

「でも、羨む気持ちは気持ちもないと言えば嘘になります」

夫は自分に優しくしてくれるが、

心配な事や辛い胸の内は打ち明けてくれない。

けれど、美和には違う。

美和になら話せる。

「やから、焼けるくらい感謝しておるんです」

「義兄上は、姉上を誰よりも大事に思うておられます。

   それは、そばにおる私がいちばんよう分かっとります」

その後、美和は少しの間、折角来たのだからと、

寿の世話をするため東京に留まることにした。

生きているリズムで溜まるゴミの山  竹内いそこ


 新井領一郎

このころ(明治9年)新井領一郎の営業努力により、

外国人外商を経由せずに、日本人が初めて生糸の直輸出を実現した。

こうした生糸の仕事が忙しくなった中、

美和は群馬と前橋を何度か行き来することになる。

当時の「楫取書簡」を紐解くと、

「今般阿三和氏(美和)帰県」 (明治8年10月19日)

明治11年頃になると、

「今日頃、阿三和も東京より見舞いにきます」

「阿三和も、多分 今月中には帰寧できることになりました」

という不思議な記述も見られる。

帰寧とは、嫁いだ娘が初めて里帰りするという意味で、

楫取は途中から美和の名も呼び捨てになり、

美和に対する意識が変わってきたのだろうか。

さらに明治14年1月6日の記述では、

「阿三和さんは、私が引き取り、前橋で寿の看護人、

   または私の家の女幹事になってくだされば、

   お互いに幸せになるでしょう」

と、楫取の美和への意識は,妻のような扱いに飛躍している。

すりこぎに君は命と彫っている  田口和代


楫取が民治に宛てた手紙

年が明けて14年1月、寿の病状は手の施しようがなく、

長男の篤太郎も萩から妻を連れ、寿の枕元にいた。

そして明治14年1月30日、薬石効なく、寿は43歳で他界する。

楫取の悲しみは深く、

妻が手を通した衣類を洗うことすら忍びないと、

涙する日々を送ったという。

楫取は義兄・民治(梅太郎)に宛て手紙で心情を次のように吐露している。

「なかんづく臨終まで御着用候衣類、襟垢など付き候分、

   入梅にも至り候時はかびに成り候ゆえ、

   洗濯仕らずては年置きも相成らず。

   これを洗ひ候ては誠に惜しく、兎角涙の種にござ候」

(臨終の時に寿が来ていた着物には襟垢(えりあか)がついていて、
 梅の季節になる頃には、かびになるでしょうが、
    洗濯しないと置いておけない。

    でも、洗ってしまうのは非常に惜しく、涙の種になっております

髭剃ってさてこれからの置き所  山本早苗

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枯れてなおバラは掟の棘をもつ  佐藤美はる


  新双六淑女鑑 (小林清親画)   (拡大してご覧ください)

明治女性の「幸福な」一生をゲーム感覚で学ぶすごろく。
「夫定」のコマ(右)には必ず止まらなければならず、
夫婦円満で進むと「淑女」の上がりにたどり着くが、
道を踏み謝ると「娼妓」や「老朽」に落ちてしまう。

「家庭の確立」

明治期は「家庭」という単位が確立した時代である。

江戸時代は親族を含めた大家族や村民たちの互助で成り立つ、

「村落共同体」が社会と個人を支えていた。

近代国家である明治新政府は、

個人の権利や私的所有を前提としたが、実際の法制度の中では、

家が個人を直接管理することは難しく、

家庭が最小単位となった。

脚注は入れぬ想像に任せる  竹内ゆみこ

家庭という単位が確立すると、家庭内の役割も分化。

「父は外で働き、母は内で子育てをする。

   母親になることが女性の幸せ」

という考えが一般に広がった。

江戸時代までは、子どもの養育は大家族が皆で担っていたが、

明治になると子育てと基礎教育は家庭の役割、

もっぱらそれは、女性の仕事となった。

呪文唱えて金縛りにしてしまう  高島啓子

こうした家庭の確立と男女の役割分化制度的に定めたのが、

明治31年(1898)制定の民法の於て規定された「家制度」である。

この民法は夫が戸主となる、妻は夫と同居する、

妻の財産は夫が管理するなどを規定。

夫婦同姓の義務化も「家庭」強化の象徴となった。

離婚も妻から申し出るのは困難だった。

協議離婚は認められていたが、妻の姦通は離婚理由になる一方、

夫は姦淫罪によえる有罪で無い限り、

妻から離婚を訴えられないなど、不平等な制度だったのだ。

吊り橋が壊死そんなことだってある  高柳閑雲

この時代の女子教育は、

家庭を守る「良妻賢母」の育成が主であった。

作家で歌人の樋口一葉には、高等科で主席になりながらも、

「女子に長く学問をさせては、将来のためによくない」

という母の意見で退学し、

家事見習いや針仕事をしていたというエピソードもある。

女子の高等教育は不要どころか悪影響があるという意識が、

当時は一般的だったようだ。

交差点に棒をおいてはいけません  山口ろっぱ


  女礼式の図

右側で書道、左側で茶道の指導が行なわれている。
中央に立つのは教室を見張る教師。
女礼式とは女性が身につけるべき礼儀作法や習い事のこと。
明治中期から後期にかけて女礼式を描いた錦絵や双六が
啓蒙のため、
数多く制作された。

明治中期ころの女子中等教育は、

ごくわずかな師範学校やキリスト教系女学校を除くと、

ほとんどが夫人のたしなみや実技を教える家塾のような学校。

教わることも、ふすまの開け閉めや着物の着付けに始まり、

裁縫、書、琴、茶道、華道などが中心だった。

そうした状況下で、女児教育の普及に尽力した

楫取素彦美和の取り組みは先駆的だったといえる。

多くの一般女性が、

家庭での「役割分化」や「良妻賢母」の呪縛から

解放されるのは、戦後まで待たなければならないのである。

シンプルに生きると決めてから長い  佐藤美はる



「女子教育の事情」

女性たちが教育を受ける学校として明治初年には、

東京の跡見学校など、20校余りが開校し、

女子教育が行なわれるようになった。

こうした学校では現在の学校で学習するような地理や歴史、

英語などもあったが、

良家のお嬢様であればあるほど習字や裁縫、手芸など

従来から女性のたしなみとされる学科の成績が良かった。

こうしたお嬢様は卒業までに、

結婚が決まらないのは恥とされる傾向が強く、

お嬢様の結婚が本人の意志とは関係ないところで決められるのは、

江戸時代と変わりがなかった。

水が氷になるのを許すべきなのか  福尾圭司

では東京のお嬢様学校ではなく、一般庶民はどうかというと、

農家にとって子供は大切な労働力であったため、

子どもを学校にやる親は少なかった。

学校も初期のころは、

江戸時代の看板を付け替えたようなものだったこともあって、

親も子には学問よりも裁縫など実生活で役に立つ技術を

身につけさせたがっていた。

指六本あったらピアノ習うのに  杉山ひさゆき

女の子には女性の教員が教育に当たるべきという要望が強く、

女子教員の育成が急務となった。

当時、女性の職業は限られており、

教師はその代表的なものであったが、

働く女性は結婚できない、経済的に恵まれないなど、

常に「負のイメージ」が付きまとった。

また江戸時代には場合によっては、

女性にも財産相続が認められていたが、

前述のように、明治31年に民法における「家長制」が確立すると、

財産のすべてを実質上長男が相続することとなった。

明治の女性は、見方によっては、

それまでの時代よりも、社会進出を阻まれ、

「男性の付属品であることが求められるようになった」

といえるだろう。

こっち向く不幸とあっち向く幸と  清水すみれ

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向こう岸に渡してくれる太い腕  三村一子


 上毛かるた 「け」

「楫取の政治」

産業とインフラ整備に力を注いだのが群馬の県令・楫取素彦である。

熊谷県時代を含めると、楫取は群馬県令を約十年つとめた。

在任中は、「握り飯草履履き」で県内を隈無く視察し、

県民と困難をともにして、本県の基礎をつくった。

楫取は、県政の治術は産業と教育と心得て、この分野に力を注いだ。

蚕種・養蚕・製糸・織物の各熟練者を歴訪し、研究を奨励。

勧業は交通・治水などインフラ整備にも及んだ。

邪魔だから顔はおととい捨てました  清水すみれ

明治13年(1880)、日本鉄道株式会社が上野―高崎を結ぶ中山道線の

鉄道敷設計画を発表すると、

前橋までの延伸を下村善太郎とともに、井上勝鉄道局長に嘆願した。

井上局長は二人の至誠に感動し、二人も大株主になることを約束して、

明治17年5月高崎、7月前橋間がそれぞれ開業した。

これによって、それまで利根川の水運に頼っていた県内産の

生糸や織物などの輸送を、鉄道で横浜港まで運ぶことが可能となった。

近代社会において、

インフラの整備なしに産業の発展があり得ないことを、

楫取はよく心得ていた。

夕焼けの行方は父が知っている  中野六助


  上毛かるた 「い」

楫取は群馬県を日本一の蚕糸県に育て上げるとともに、

その技術を全国に広め、群馬県の知名度(ブランド力)を上げようとした。

つまり、群馬県で優れた技術を改良・発明させる。

その結果、群馬県の産業が発展する。

さらに、その技術を全国に伝えることで、

群馬県の名声があがるとともに、日本の国益になる。

楫取は前田正名のような国家的な使命感を以て県政を進めた。

これが、楫取政治の要諦であった。

がまん強くて屋根に抜擢されたとか  オカダキキ


  上毛かるた 「ろ」

「船津伝次平」

日本敗戦の翌々年の昭和22年12月、
国は荒れ果て、人々が悲嘆に暮れているとき群馬の浦野匡彦氏が、
「このように暗く、すさんだ世の中で育つ子どもたちに何か与えたい。
    明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか」
と考え出来上がったのが上毛かるたである。
上毛とは群馬県の古称上毛かるたは44枚からなり、
群馬県の土地・人・出来事を読んでいる
「ろ」のかるたでは、船津伝次平がでてくる。
   でんじへい
船津伝次平を内務卿・大久保利通に推薦したのも楫取であった。

老農・船津伝次平は、天保3年(1832)10月、勢多郡原之郷に生まれる。

幼名市蔵。  (勢多郡原之郷は現在の富士見村にあたる。)

市蔵は隣村の村塾において手習、素読を学ぶ。

又18歳で、最上流の和算を学び、関流の和算の免許皆伝を受けた。

安政4年(1857)家督を継ぎ、伝次平を襲名。

維新後養蚕業の振興につとめ、明治元年(1868)前橋藩から原之郷ほか

35カ村の大総代を任された。

健さんは死に欣也は犬になった  奥山晴生


  上毛かるた 「は」

伝次平が生まれた船津家には、

「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」

という家訓があり、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、

明治8年、熊谷権令・揖取素彦から農事に精通する者として、

内務卿・大久保利通に推挙される。

からまって虹まで届く豆の蔓  本多洋子


 上毛かるた 「に」

伝次平と会った大久保内務卿は、

すっかり彼にほれ込み農民としてただ一人、

伝次平46歳のとき、東京駒場農学校の教師に採用される。

駒場農学校では、西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ

混同農法を生み出し、さらに、その後、農事試験場技師に就任し、

全国を駆け巡りながら新しい農法の普及につとめ、

「日本三老農の最高峰」と称されるに至る。

伝次平は中央に出ると、品川弥二郎(農商務大臣などを歴任)と行動を共にする。

奇しくも品川は吉田松陰の門下生(松下村塾生)であった。

伝次平の農事改良の精神や技術が、

群馬県ばかりでなく我が国の農業の近代化に多大な貢献をした。

身に余る依頼へ足の裏凍る  青砥たかこ

ところが明治中頃、農商務大臣・井上馨が外国を視察して帰り、

欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、

新式の大農機具を盛んにアメリカから輸入し、

それを、まず、駒場農学校で実用するように命じた。

しかし伝次平は、

「日本は、耕地が少ないうえ、

   山国で高いところから低いところまであり、

   しかも気候の変化も激しいという、

   欧米とは違った土地と気候である。

   だから日本の農業は、大農法に向いていない。

   狭い土地をていねいに耕し、多くの収穫を上げていくのが、

   日本の農業である」

と反論している。

反論をいれたポストが燃えている  岡田幸子


富士見村原之郷にある船津伝次平の墓(県指定史跡)

その後、伝次平は、駒場農学校に辞表を出して去り、

著書・『稲作小言』で大農論者に反対を訴え続け、

それを八八調の文章にしてチョボクレ節で歌って広めた。

明治31年(1898)6月15日、郷里にて死去。

享年66歳。

墓で遭い甘味処でまた遇うた  井上一筒

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