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川柳的逍遥 人の世の一家言
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さよならは空耳だった気もします  美馬りゅうこ


高杉雅子刀自 今年七十二歳

「高杉晋作の妻・雅子の回想」

(高杉東行夫人政子刀自住い、飯倉五丁日六十番地の邸にて)
三月十七日午前十時。  
夜来の陰雨名残なく霽れて、

近頃にない暖かい朝日が庭の回り椽にさしていた。
りんどうの紅い蕾が、ポツポツと立つ水気の間に浮かんで見えた。

さすがに女性ばかりの宿に音ずれる春は、繊やかであった。
八畳の客間の椽に雅子刀自は、毛布を布いて、
はなやかなめりんすの座蒲団をしつらえて、其上に坐られた。
そうして静かに東行先生が閉門されておられた時の話を始められた。

其人を見れば、其容秀麗、其気生々、目もはっきりしていらるれば、
耳も達者である。
襖を隔てて其の声のみを聞いていれば、
若き娘のささやきを聞く様な、力がこもっていた。

感動も歎きも点の一つから  杉山太郎


晋作自画自賛像

「回想」〔晋作終焉の偏〕

私は高杉と一所にいましたのは、

ほんのわずかの間で其間東行はいつも外にばかり出ていました上に、

亡くなりましたのが、

未だニ十九というほんの書生の時でございましたから、

私は何んにも東行に就て御話する記憶がございません。

其の内、馬関で東行が病気にかかりまして、

大ぶひどいという知らせが参りましたので、

私は両親とー緒に馬関に参りました。

東行は馬関の新地の林屋という家の奥の座敷に寝ていました、

林屋と申しますのは、唯今でいえば、

新地の村長さんとでも申します家でございました。

東行の病気は唯今の肺炎とでも申す様な病気でございまして、

私共が参りました時は、

もう大ぶ悪くなった時で、沢山吐血をいたしました。

揺れながら女の顔で立っている  谷口 義

御飯もおもゆ位しかいただけませんので、

もうすっかり弱ってしまっていました。

井上(馨)さんや福田(侠平)さん等がよく御尋ね下さって、

御話をして下さいました。

東行は白分の体は悪くなるし、

それにひき代え世間は愈々騒々しくなるので、

日に日に昂奮するばかりでいつもいらいらしていました。

井上さんや福田さんに向っていつも

『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。

   しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』

と言い続けて亡くなりました。

いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。

『しっかりやって呉れろ』

というのが遺言といえば遺言でございましょう。

いい人の明るい棘を持てあます  丸山 進



野村望東尼さんは、一所に林屋に来て下さいまして、

東行が亡くなるまで、

それはそれは一通りならぬ御世話をして下さいました。

それで東行が亡くなりましてから東行のかたみの品を

望東さんへ御贈りいたしました。

それは何んでございましたかもう忘れましたが、

何んでも東行の衣類であったかと思います。

その時、望東さんは三田尻におられましたが、

その地から大へん御叮寧な御礼状を頂きました。

その手紙は今に私の文箱に保存しています。

雨だれをゆっくり聴きながら土に  下谷憲子


晋作の句に望東が書き足した歌

「おもしろき こともなき世を おもしろく」  東行 
「すみなしものは 心なりけり」        望東

望東さんは、御存じの通り大へん御手のいい方で、

御らんの通り此の手紙なども却々達筆でございます。

歌も大へん御上手であり其の外、生花縫取り等も却々御上手で

何んでもよく出来た方でございました。

東行が亡くなりました時に、歌を書いた短冊を下さって、

これを是非、東行の柩の中に入れて一所に葬って呉れろ

と頼まれましたが、

これはとうとう私が手ばなし兼て、今に保存いたしています。

その歌は

"おくつきのもとにわがみはとどまれど わかれていぬる君をしぞおもふ"
                           〔望 東〕
お歌も却々よく出来ていますが、

この歌を拝見しますと昔のことが昨日のように思われます。

菜の花の畑に置いてきた時間  立蔵信子

東行は平生天満宮様と観世音様を大へん信仰していましたから、

望東さんが東行の生前に観音経を写して下さいましたことがあります。

それは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』 というので、

二寸に四寸位の薄葉紙に書かれたもので三十六枚あるのを

綴ったものであります。

その裏に

"ふでのうみすずりの海もちかなから えもふみなれぬ鳥のあとこれ"  
                          〔望 東〕
と書き添えてあります。

望東さんのやさしい心掛けが、

この歌の中にも見えている様に思われます。

その裏に東行がいたずら書をしています。

こころ空しく風の音水の音  牧野芳光

それは何んのつもりでございますか、何から見たのですか、

次の様な歌を書いています。

〔尾張美濃の国境にて、人をやく烟を見て〕
                                  美濃      尾張
”あれを見よ我もあの身に成海坂 明日ともしれぬ身のをわりかな”
                       〔詠み人知らず〕
其れを聞いて 倚人

"あすあすと思ふ心はあだ桜 よひに嵐のふかん物かや"
                                                                              〔倚人〕
又前の人

"あすあすと兼て心に思へ共 昨日明日とは思はざりけり"
                        〔詠み人知らず〕
と書いています。

何か自分で思いついて書きつけて置いたものでありましょうが、

今日になって見ますれば、

何となく白分の事を白然に知っていた事のように思われます。

あの人が好きで嫌いで春嵐  吉松澄子



東行が亡くなりました後に、

望東さんが此の経文のことを思い出されまして、

次のようなお歌を下さいました。

"のりのみち君先かくるふみとしも しらでかたみにやりしかなしさ"
                                                                                        〔望東〕
望東さんはお歌がお上手でいらっしゃいましたから、

お歌を拝見していると、

何となく昔にさそわれて行くような心地がいたします。

これは東行に関したものではございませぬが、

望東さんのお短冊を東行が持っていましたのに

"さわがしき世にもならはで秋の野の 花のすがたはみなのどかなり"   
                                                                                          〔望東〕
というのがございます。

三角へゼムピン四角へフラフープ  和田洋子

東行が持っていました短冊の中に、

あなたのお国の平野国臣先生のがございます。

それはこれでございます。

"玉敷のたいらの宮路たえまなくみつぎのくるまはこぶよもかな"
                                                                                          〔国臣〕
下田歌子さんが

先年東行の十七年祭の折に書いて下さいました短冊は、

天の橋立の杉板でございますが、お歌は

"国の為つくすしるしは顕はれていさほくちせぬ谷のあや杉"

東行が剃髪いたしました折の歌に

"西へ行く人をしたひて東行く  わがこころをば神やしるらん "
                               〔東行〕
というのがございますが、

偶然にも父が西行法師を詠じました歌がございます。

それは

"世をうしとすてしうちにもすてやらぬ しきたつ沢の秋の言の葉 "
                               〔丹治〕
と申すのでございます。

喜怒哀楽使い果たして点になる  古田祐子

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振り向けば我が道にあるオウンゴール  前中知栄


洋式の軍装で身を包み、野営用のテントの前に並ぶ幕府側の兵士たち。
洋服に刀を落とし差しにしている姿に、軍制改革の過渡期を感じる。

「幕府は何故、長州に敗れたか」

高杉晋作ら急進派が再び藩の実権を握ったことで、長州は、

以前にも増して幕府との対決姿勢を鮮明に表すようになってきた。

慶応2年(1866)1月の歴史的な「雪解け」により、

薩摩との同盟が締結されたことも、長州の自信となった。

この同盟の効果はすぐに現れた。

長州軍には薩摩藩を通じての武器購入ルートが確立。

喉から手が出るほど欲しかった新式の銃と蒸気船を、

薩摩名義で亀山社中が購入。

それを伊藤俊輔井上聞多が長崎で受け取っている。

ハミングのリズムでオムレツが割れる  荻野浩子


   ミニエー銃

同時に新しく購入した前装式ライフル歩兵銃は、

それまでの汎用銃ゲベールに対し、

飛距離と命中精度、それに連射能力が向上させもので、

長州の軍事力に大きく貢献することとなる。

それまでの汎用銃ゲベールは300歩の距離での命中率が、

8パーセントだったのに対し、

ミニエーは、44パーセントもの高率を持ち、

距離800歩での命中率は27パーセントを保っていたという。

シーソーの寝返りを見た昼下がり  筒井祥文

こうした事態を把握せぬまま、幕府は、

再び征討軍を編成することを決め諸藩に通達した。

薩摩はもちろん、幕府からの出戦要請を拒絶している。

これは「薩長同盟」による規定路線であったが、

幕府にとっては、頼みとしていた薩摩の出兵拒否に困惑する。

だが長州をこのままに放置できないので、薩摩抜きで軍を編成した。

それでも約15万もの兵力を集めたのである。

これに対して、長州はわずか3500人程度であった。

この兵力差から幕府軍は、

それほど苦労もなく勝利できると確信していた。

占いのつぼにすとんと落ちている  前田芙巳代


   幕府側兵士
幕府軍の進軍を描いたもの。
兵士の服装や装備は昔ながらのもの。

幕府軍の中核である、いわゆる旗本軍は潤沢な武備で参軍したが、

その中には旧態依然の武装で、

戦国期さながらの甲胄や火縄銃を装備した藩兵もあった。

さらに動員された諸藩の兵たちは、

この戦いは自分たちの利害とはまったく関係ないものと

考えていたため、兵士の士気は甚だ低かった。

人体模型 人民服がよく似合う  くんじろう

一方、寡兵であるが長州軍は、

大村益次郎により軍制も西洋式に改革されている。

しかも大村は、

四方から押し寄せる大軍の攻撃に備えるには、従来の武士だけでなく、

農民、町人階級から組織される市民軍の確立が急務と考えた。

その給与を藩が負担し、

併せて兵士として基本的訓練を行なわなければならないと訴えた。

こうしてそれまでは有志によって構成されていた諸隊を整理統合し、

藩の統制下に組み入れた。

異議のある人は放物線上に  井上一筒


   大村益次郎

慶応2年(1866)6月7日、幕府は第二次長州征伐の号令をかける。

束西南北の四方から、長州藩に順次来襲、随所で激戦が展開された。

大村益次郎が実践の指揮を執った石州口では、

最新の武器と巧妙な用兵術を縦横に活用。

それは無駄な攻撃を避け、

相手が自滅に陥ったところを攻撃するという合理的なもので、

旧態依然とした戦術に捉われた幕府側を悉く撃破した。

そして6月16日、長州軍圧勝で終わる。

大村は中立的な立場をとっていた津和野藩領内を通過して 

浜田まで進出。

7月18日には浜田城を陥落さっせたうえ、石見銀山を占領した。

ナメタラアキマヘンという涙跡  森田律子


 四境戦争石碑

他の戦線もミニエー銃などを駆使する長州軍の前に圧倒されていく。

幕府にとっては予想外の苦戦が続く中、さらなる不幸に見舞われる。

長州征伐のために大坂までやって来ていた将軍・家茂が病に倒れ、
         こうきょ
7月20日に薨去したのである。

そして、8月1日に小倉城が陥落すると、

徳川慶喜はこの戦いにおける勝利を断念。

それまで伏せていた将軍・家茂の死を公表するとともに、

勝海舟を派遣して講和を結んだ。

こうして幕府連合軍はさしたる成果を見ることなく、長州から撤退。

長州征伐が失敗に終わったことは、

幕府がすでに張子の虎になったことを知らしめた。

教えます正しい闇の迷い方  酒井かがり

この戦いののち、政局は反幕府派が主導してゆく。

慶応3年1867)10月には、大政奉還

同年12月には、王政復古のクーデターが起こり、新政府が樹立。

そして、翌慶応4年には、戊辰戦争が開戦。

「新政府軍」が「旧幕府軍」と戦った。

もちろん新政府軍の中心は、長州であり、

松陰の感化を受けた者たちが躍進していった。

そして日本は「維新」を迎えるのである。

最強のいい人になり甦る  富山やよい


    東行庵


「高杉晋作-臨終」

第二次長州征伐後、高杉晋作は、肺結核が重篤化してしまい、

慶応2年(1866)10月下旬、下関桜山に小屋(山荘)を新築し、

病療養のため、愛人・おうのを連れて移り住んだ。

墓前の落ち葉でも掃き清めながら、

残された日々を送ろうと考えたのだった。

奇兵隊が建立した招魂場を臨むこの小庵を、

晋作は「東行庵」と名づけ、
                     もんしつしょ
また、南部町の寓居と同じく「捫蝨処」とも呼んだ。

捫蝨とは、シラミを潰すという意味。

オカリナの空を小さくふくらます  八上桐子



気分のいい日には、師・松陰の墓前で、酒を飲んでいたともいう。

二人が出合ったころの思い出語りをしたのだろう。

師から受け継いだ志が遂げられる日が近いことの報告もした。

そして前線からは、次々と長州軍勝利の知らせがもたらされる。

晋作は喜びを噛みしめながらも、

すでに自分の肉体が動かない現実に、

一抹の寂しさを感じ、次のような歌を作っている。

「人は人吾は吾なり山の奥に 棲みてこそ知れ世の浮沈」

惰性で書いた正方形は丸くなる  森 廣子


     おうの

晋作の病状は12月に、一時小康状態を得たが、

年を越してからはもう床を離れることができなくなっていた。

「余り病の烈しければ」 と但し書きをつけて、

「死んだなら釈迦と孔子に追ひついて 道の奥義を尋ねんとこそ思へ」

などと道化ているが、

野村望東尼から無理矢理に頼みこまれ看病を手伝っていたおうのは、

その頃の晋作の様子を次のように語っている。

「もう旦那は、寝がへりさへ御大儀なやうな御様子になりまして、

   顔は透き通るやうにつやつやと、病熱の所為で、

   パッと頬紅がさして居りまするのが、

   此の世から仏様のやうに思はれます」

と、死期の近いことは誰の目にも歴然としていた。

望東尼とおうのは、蔭では泣き暮らしていたという。

先に逝くつもり我儘いうつもり  一戸涼子

やがて、晋作はおうのがつくる芋粥も受けつけなくなる。

晋作重体の報せは藩庁にも届き、藩主から薬料3両が下賜された。
                 さんくろう
その後、晋作は新地の林算九郎方の離れに移される。

晩年、竹の絵を描くことを好んだ晋作はその部屋を、
           りょくいんどう
竹の意味を表す「緑筠堂」と名づけている。

3月の下旬には萩から父親の小忠太、妻の雅子が、

長男を連れて駆けつけると、おうのは晋作から遠ざけられてしまう。

野村望東尼は臨終まで足しげく看病に通い続けた。

多くの知友や家族が見守るなか、

苦しい息の下から紙と筆を所望した晋作が、

"おもしろきこともなき世におもしろく"

と書いたところで力つきたのを、晋作の枕元にいた望東尼がうけて

"すみ(住み)なすものは心なりけり"

と下の句をつけてみせると、

「おもしろいのう」と静かに微笑んだという。

巻き貝の奥からもれるピアノソロ  本多洋子


  野村望東尼

「おもしろきこともなき世におもしろく」

この晋作の楽天的とも前向きともとれる歌は、

晋作の本心である不満と希望の相反する二つの意味を含む。

61歳の望東尼は、彼のその心情を理解し、

「心掛け次第だよ」と、優しく諭した下句でもあった。

慶応3年4月、大政奉還を知らず、

騎兵隊の活躍した戊辰戦争を知らず

師や盟友らと同様、手の届くところにあった「維新」を見ることなく、

下関新地の林算九郎邸で晋作は逝った。 

享年29歳。

晋作は亡くなる直前、見舞いに来ていた同志・井上聞多福田侠平に、

「ここまでやったから、これからが大事じゃ。

   しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」

と繰り返し、繰り返し言ったという。

これが晋作の「遺言」の言葉になった。

死ぬ真似の練習そのまま寝てしまう  東おさむ

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あすという泥鰌のいない安木節  奥山晴生


   四境戦争絵図  (山口県立博物館蔵)

「四境戦争」

幕府による第二次長州征伐は、慶応2年(1866)6月、

大島口、芸州口、石州口、小倉口に幕府軍の侵攻して開戦した。

この四つの国境が戦場となったため、

長州ではこれを[四境戦争]と呼ぶ。

四境戦争に至る経緯は、元治元年の「禁門の変」によって、

長州藩が朝敵となったことに始まる。

第一次長州出兵は、長州藩が幕府に恭順の姿勢を示したことで、

回避されたが、その後、長州藩内で、

高杉晋作の挙兵による内乱が勃発。

この内乱鎮静後に、長州は恭順の姿勢を示しながら、

軍事力強化をすすめる[武備恭順]に方針を転換した。

このような長州藩の動きに対し、慶応元年(1865)4月19日、

長州藩への再出兵が決定されたのである。

相乗りが下手な男の一人ゴマ  百々寿子


  長州征伐(龍馬絵)

幕府は、慶応元年11月、各藩に長州藩再出兵の動員を命じた。

出兵命令段階では、大島ではなく、山口方面に進軍できる上関に、

四国諸藩を配置していた。

海を隔てて大島と隣り合わせの松山藩、宇和島藩・徳島藩・

今治藩などに出兵を命じたが、実際に大島まで進軍したのは、

松山藩だけであった。

今治藩は、一番手を任されたが、

「多くの藩が出兵していないのは、

   天下の人心が一致しているとは言えない」

として大島までは進軍せず。

また宇和島藩は、英国公使パークスの来藩などを理由に出兵を拒否。

四境戦争では、幕府の出兵命令に従わない藩も多くみられた。

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子


   浦 靫負

慶応2年1月幕府は、長州藩に領土10万石削減などの処分を決定し、

2月から3ヶ月、長州藩へ処分を受け入れさせる交渉が、

広島で行われた。 しかし、長州藩は処分を受け入れず、

ついに6月7日、幕府軍艦の上関砲撃によって、

四境戦争の幕が下ろされた。
       うらゆきえ        あずき
長州藩元家老・浦靫負が給領のある阿月に隠居していた折に見た、

6月7日の様子を次のように日記に記している。

『四ツ時分(午前10時頃)蒸気船が上関の横島近辺から白浜を砲発した。

四・五発のうち一発は、千葉岳に撃ち込まれ、ニ発は海中に落ちた。

それより、蒸気船は大波に出て、大島郡安下庄あたりで

四・五発の砲声があった』

この日記は、蒸気船一艘が安下庄の沖合から四発砲撃し、

そのうちニ発が、竜崎の海中に落ちたとの

大島郡代官所からの報告とも合致する。

まず走れ結果あとからついてくる  有田晴子


   幕府の砲弾跡 (威力の小ささが歴然)

この蒸気船は幕府の軍艦・長崎丸で、

この後、宮崎から来た幕府の軍艦が久賀村沖の前島に碇泊。

10日の段階では、第ニ奇兵隊の林半七

「今日にも合戦になると考えていたが五艘の軍艦は二艘になっており、

    正午になっても何も起こる様子がない」

と報告しているように、しばらく軍艦からの攻撃はなかった。
                                しき
ところが、翌11日、幕府の軍艦が久賀へ向けて頻りに発砲をはじめ、

幕府兵が400人ほど上陸して久賀を占拠。

また松山軍も6月8日、大島に進軍し、

11日には、安下庄に陣所を構えた。

長州藩側は、大島郡代官・斉藤市郎兵衛の率いる隊などが応戦したが、
    とおざき
11日に遠崎へ退去し、大島は幕府軍と松山軍に占拠された状態になった。

交点にタムシチンキを塗っておく  井上一筒

藩政府は、6月7日以降の戦況報告を受けて、
                                     こうぶたい
10日付で第二奇兵隊と長州若手家臣団で組織された浩武隊に、

大島に進軍することを命じ、また、
   へいいんまる
同時に丙寅丸にも大島行きを命じ、高杉晋作に乗船を命じている。

丙寅丸とは、慶応2年5月、高杉が独断でグラバー商会から

購入したアームストロング砲を搭載した94トンの蒸気船である。

海軍総督を命じられていた高杉は、丙寅丸に乗り大島口に向かった。

12日、丙寅丸は、午後2時頃に遠崎に着岸し、

深夜零時から前島に碇泊している幕府軍艦に数十発砲撃を加えた。
               
この後、小倉口に向かった高杉晋作は、
いっちゅうまる
乙丑丸を率いる坂本龍馬とともに小倉藩と戦うことになる。

大島口では、高杉の夜襲攻撃を足がかりとして、

15日には、第二奇兵隊や浩武隊が大島に上陸し、

幕府軍・松山軍との戦闘が開始された。

奥の手が頼りないので七味唐辛子  山口ろっぱ

[第二奇兵隊大島郡合戦日記]には、

16日の松山藩との戦いが次のように記されている。
                                くすい
「幕府軍に占拠されている久賀を攻め入ろうと垢水峠を

   登ったところ、
安下庄に駐屯している松山軍が三手に分かれ、

   一手は石観音清水峠、一手は源明峠、一手は笛吹より、

   百人押し寄せて来たので、石観音清水峠の南側を浩武隊、

   第二奇兵隊は頂上において戦いはじめ、

   九ツ時(正午頃)より激しく戦い、山上一円の煙となった。

   八ツ時(14時頃)になって曇り、小雨が降り出し、

   山上は霧のため下から上は見えなくなり、

  長州軍が下の松山軍に向かって小銃を雨の如く撃ちたてた。

  松山軍は敗走し、手負や死人が多く出た。

  晩になって戦いは止んだが、長州軍は陣太鼓を打ち、
                          ときのこえ
  山よりは、鯨波声をあげて松山軍を追い下した。

  松山軍は浜辺まで撤退して、

  暮六ツ(18時頃)までにはすべての松山軍の船が安下庄から出帆した」

このような激戦のなかで撤退した松山軍は、

「未だ四国の諸家出勢もこれなく、孤軍にて敵地数日の働き、

   彼是兵力も相労し候」 

と、四国諸藩の出兵がなく、

松山一藩での戦闘が限界に達したと記録している。

無力だと思う波打ち際にいる  立蔵信子


 大村益次郎
エドアルドキョッソーが死後に関係者の説明で描いた。

「残る三境の戦況」


長州の戦略は、日本海側の石州口と門司の小倉口二方面に絞っていた。

いかにして、相手の士気をくじくか、そこが長州の狙い目だった。

石州口の攻防は、浜田藩にある。
          たけあきら
浜田藩主・松平武聰は、水戸藩主・徳川斉昭の十男で、

一橋慶喜は異母兄である。

この戦争は、将軍後見職・慶喜の提言によるところが大きかった。

そのため、浜田藩を叩くことは、

慶喜ひいては、将軍の面子をつぶす効果があったということだった。

そこで長州は、この方面の司令官に、大村益次郎をあてた。

大村は、長州一藩のみならず、日本第一の西洋軍学者である。

大村は、明倫館兵学寮総官・教授として、

奇兵隊を最新軍制によって徹底的に鍛えあげていた。

天気予報の夏を何度も確かめる  墨作二郎
                 かずさ                  まさあり
石州口の幕府総大将は、上総飯野藩二万石の藩主・保科正益だった。
                      
大村は、突如として奇襲にでる。

いそぎ、津和野から益田へ軍をうごかす。

幕府軍の陣容が整わないうちに、浜田藩兵を狙ったのだ。

浜田藩兵は、旧式の軍備だった。

銃は、火縄やゲーベル銃。

しかも、鎧兜である。動きも重い、あっという間に、

幕府軍は蹴散らされ保科正益や松平武聰は戦線を離脱する。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子     


  小倉合戦の図

小倉口では、緒戦こそ長州藩が優勢に勝ち進んだが、

水上戦の底力は幕府側にあった。

ただ陸上の実戦では、長州が幕府軍を圧倒した。

しかし、初戦から四十日目の赤坂口では、長州は敗北を喫する。

熊本藩兵が出てきたからだ。

熊本藩では、洋式銃砲に洋式兵法で長州・奇兵隊に対峙した。

こうなると、軍備と兵力では、力の差は歴然だった。

メルアドのドットが風に流される  加藤ゆみ子
                          えんせん
ところが、どういう訳か、熊本藩には厭戦気分が充満していた。

勝っても得なことは、ひとつも無い。

しかも、長州に対し取り立てて恨みがあるわけではない。

幕府軍総督・小笠原長行に、赤坂口・守備交代を申し出る。

しかし総督が「そうかいいよ」と言うわけがない。

熊本藩は総督の返事がどう返ってくるか承知の上のこと、

そのまま戦線から撤退してしまった。

こうなると、小笠原長行に策はなかった。

しかも、そこに将軍・徳川家茂死去の報が入る。

最期に小笠原長行が取った行動は、軍艦・富士丸にひとり乗りこみ、

小倉口から遁走することであった。。

B面はこうもりとして闇の中  高島啓子


   小倉合戦ー2
小倉城に向かって砲撃をする長州軍

戦さの勝敗は決したようにみえたなか、小倉藩は最後の粘りをみせた。

みずから小倉城に火を放つと、山岳地帯に陣をとったのだ。

ゲリラ戦への作戦変更である。

戦は、一進一退となった。

結局、薩摩藩と佐賀藩の仲裁のもと、和睦となる。

ここでようやく半年間つづいた小倉口の戦いは終結する。

ちなみに、この講和の三ヵ月後、

この戦いを陣頭指揮した高杉晋作は、急逝する。

享年、29歳。早すぎる天才の死だった。

砂塵にすみれサムライの弔歌かな  増田えんじぇる 

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皿鉢料理龍馬の気概てんこもり  田口和代


倒幕のために結ばれた薩長同盟の主要メンバーの集合写真。
右から、大久保利通、大木喬任、島津忠義、二人おいて伊藤博文。

「薩長同盟」

禁門の変の後に実施された「第一次長州征伐」では、

戦になる前に長州側が降伏した。

幕府軍が長州に対して、徹底した強硬策に出なかったのは、

薩摩の西郷隆盛勝海舟から、

公武合体策の限界と幕府の内情を聞かされていたからである。

当時の薩摩は琉球の密貿易や、

薩英戦争後のイギリスとのつながりにより財政が潤っていた。

これは疲弊していた幕府からすると、脅威そのものである。

どのスイッチ押したか火山動き出す  竹内いそこ


長州征伐に向かう幕府軍

そこで幕府は長州征伐という名目で薩摩に長州を攻めさせ、

力を削ごうと考えたのである。

薩摩からすれば、長州と戦争をすれば多くの犠牲や軍費が生じて、

国力が衰えるのは目に見えている。

さらに長州が討伐された後、

次には薩摩が標的にされるかも知れない。

だが幕命に逆らえば、謀反の疑いをかけられるし、

薩摩単独で幕府を倒すだけの力はない。

水母から習う生きかた躱しかた  佐藤美はる

一方の長州は「8月18日の政変」さらには「禁門の変」以来、

朝敵とされてしまい、武器の購入を禁止されてしまった。

こうした状況で攻め込まれてしまえば、

ひとたまりもないことは火を見るより明らかだ。

薩摩は無駄な戦争には参加したくない。

そして、倒幕運動の表に立つ気はないが、

西郷はあまり、幕府側に肩入れしても将来はないことを見越していた。

長州はともかく、武器が欲しい。

しかも藩の方針は「攘夷から倒幕へ」と変わってきた。

じつは両者の思惑は一致していたのである。

俎板のくぼみに理由を詰めておく  笠嶋恵美子



だが、長州からすれば薩摩は恨み骨髄の相手。

この長州征伐にしても幕府軍の中核に薩摩がいたことも分かっている。

戦わずして停戦となっても、

恨みこそ残るものの、恩など微塵も感じられない。

このように激しく対立する薩長両藩を接近させたのが、

土佐脱藩浪士の坂本龍馬中岡慎太郎である。

将来を見据えた二人は、

大藩で実行力がある薩長が手を結ぶことが、

新しい政治体制を確立するために不可欠だと考えた。

誰もが不可能だと考えていた「薩長同盟」を実現させたのは、

龍馬が考えた奇策であった。

人生は転んだあとがおもしろい  青砥たかこ

それは武器が買えない長州藩に代わり、

龍馬が経営している亀山社中が薩摩名義で武器を購入する。

そして米が不足していた薩摩藩へは、長州から米を購入する、

と言うものだ。

どちらの藩にとってもメリットのある策であるが、

当初はお互いに面子を重んじるばかりで、話が頓挫しそうにもなった。

すり鉢の底で談合繰り返す  和田洋子



だが龍馬と中岡による和解工作が功を奏し、

慶応2年(1866)1月21日、京都の薩摩藩邸において、

薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の会談が実現。

ここで交わされた密約は、

「長州藩の状況が悪くなっても、薩摩藩はこれを助ける」

というもので、倒幕行動を起こすことではない。

ただこれ以降、

薩摩は幕府による第二次長州征伐への出兵を拒否するなど、

薩長は連携を強めていった。
                         
歳月は正直傷は癒えてきた  上野多恵子


    同盟文    (拡大してご覧下さい)

「薩長同盟の内容」

同盟の内容は次のようなものになっていた。

再び長州征伐となった際は、

薩摩が長州に対し物心両面の援助を約束

戦争が始まった場合、

薩摩は京、大坂に出兵して幕府に圧力を加える

そして戦争の帰趨如何に関わらず、

長州の政治的復権のために、薩摩は朝廷工作を行う

さらに薩摩が畿内に出兵して圧力を加えても、

幕府や会津藩などが強硬姿勢を貫く場合、

薩摩は幕府との決戦に及ぶ、ということも表明している。

指切りをしたので多分大丈夫  原 洋志

1.戦と相成候時は、直様二千余の兵を急速差登し、
       只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、
       京坂両所相固め候事


2.戦自然も我勝利と相成候気鋒相見候とも、
       其節朝廷へ申上、きっ度尽力之次第有之候との事

3.万一戦敗色に相成候とも、
      一年や半年に決て壊滅致候と申事は無之事に付、
      其間には、必尽力之次第きっ度有之候との事

4.是なりにて幕府東帰せし時はきっ度朝廷へ申上、
       直様寃罪は従朝廷御免に相成候都合にきっ度尽力の事

5.兵士をも上国の上、橋、会、桑等も如只今次第にて、
       勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義に抗し、
       周旋尽力の道を相遮り候時は、終に及決戦候外無之との事

6.寃罪も御免之上は、双方誠心を以て相合、
       皇国之御為に砕身尽力仕候事は不及申、
       いづれの道にしても、今日より双方皇国之御為、
       皇威相輝き御回復に立ち至り候を目途に
       誠心を尽して尽力可致との事。

結んでひらいて結んだとこで終ろうね  安土理恵

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練っているうちに鮮度が落ちてくる 青砥たかこ



    天狗党

「薩摩藩の変心」

「蛤御門の変」の直後、長州はイギリスやフランスなど、

四国艦隊との戦争にも惨敗し、いよいよ攘夷が困難であると思い知る。

倒幕に根強く反対していた上層部も、

高杉晋作伊藤俊輔らの軍事クーデターにあって 

淘汰され長州の藩論は、武力藩論にまとまった。

こうして長州の藩論が武力倒幕一本でまとまるなか、

新たに倒幕へと傾き始めた勢力があった。

薩摩藩である。 かねてから薩摩藩は、

「公武合体派」として会津藩らと長州排斥の前線にいたが、

禁門の変以降は、次第に幕府と一線を画す態度を見せるようになる。

何故と言うてもこの世はこんなものらしい 加納美津子

何故、薩摩が幕府に敵対する態度をとるようになったのか。

ひとつは、西郷隆盛は、幕臣の勝海舟らから、

「幕府には時局をまとめる力がまったくない」

ことを聞かされていた事。

西郷は幕府の弱体化を知り、

ひそかに倒幕へ帆の向きを変えるのである。

もうひとつは元治元年(1864)12月、水戸の天狗党の結末である。

幕府による天狗党に対する残酷な大量処刑が、

薩摩をして幕府から離れるきっかけともなった。

中流を震撼させる世の乱れ  清水久美子


   大久保利通

天狗党始末ー降伏した天狗党の一行は,まず敦賀の寺に収容され,

その後,肥料用のにしんを入れておく蔵に移された。

火の気もふとんもないうす暗い蔵の中では,

厳しい寒さと粗末な食事が原因で,20数人が病死していった。
                            たぬまおきたか
間もなく,幕府の田沼意次の孫・若年寄の田沼意尊による

取り調べが行われ,天狗党一行に対する刑が決められた。

死罪…352人 ・ 島流し…137人 ・ 水戸藩渡し…130人。

あの安政の大獄でも,死罪となったのはわずか8人だけである。

雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪 
                         
武田耕雲斎〕

かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき 
                         
藤田小四郎〕


この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の大久保利通は,

「このむごい行為は,

   幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」

と日記に記している。

これが薩摩が幕府を見限った瞬間である。

この世では歩けぬ草履履かされる  利光ナヲ子


  幕末の江戸城

さらに幕府は、助命した天狗党員の一部を薩摩へ流刑とすることを、

計画したが、西郷は幕府への書状を起草し、

「道理において出来かね申し候」 と謝絶。

彼らは、次第に幕府への信頼を薄めていったのだ。

こうした薩摩の微妙な変化は、

やがて長州藩への強力な後方支援として結実する。

うっすらの虹です夢の途中です  太下和子


   西郷隆盛

ただし、薩摩藩のトップは、

幕藩体制の遵守を掲げていた島津久光である。

家臣にすべてを任せていた長州藩の藩主・毛利敬親と違い、

久光が倒幕行動を許すとは考えられない。

そこで西郷は盟友の大久保利通と協力して、

久光に相談せずに武力倒幕の道を模索することになった。

すると、倒幕という方針で共通する両藩を結びつけようとする

人物が現れた。

土佐の脱藩浪士である坂本龍馬中岡慎太郎である。

しかし、長州と薩摩は犬猿の仲。

とくに長州は「蛤御門の変」で薩摩に苦い屈辱を味合わされている。

その折、幕府の征討軍参謀として公務を担っていたのが薩摩藩の

西郷隆盛だった。

尻尾だけ踊り狂っている舞曲   皆本 雅

この深いしこりがあって両藩はなかなか歩み寄ろうとせず、

龍馬の仲介役は難航した。

そこで龍馬は一計を案じる。

長州は武器の不足に悩み、

薩摩は天災による米不足に頭を悩ませている。

龍馬は、薩摩藩が武器弾薬を買い付けて長州に渡し、

長州はその見返りに米を渡す、

という両藩が抱えている問題点を表出し、

両藩の目の向きを、経済面へ変えさせることを提案したのである。

龍馬のこの狙いは的中、長州と薩摩は経済同盟という形で手を結んだ。

慶応2年(1866)1月22日、「薩長同盟」の成立である。

まだ噛んでいる夕飯のモンゴイカ  井上一筒


武田耕雲斎のその時

「天狗党の乱」
元治元年3月27日、尊皇攘夷の総本山とも言えた
水戸藩の過激派が、筑波山挙兵を決行。
彼らは天狗党と呼ばれていた。
中核を成していたのは、桜田門外の変を起こした連中と同じく、
より過激な行動を起こす一派であった。
天狗党の要求は、横浜鎖港が一向に実行されないことに憤り、
即時鎖港を幕府に要求することであった。
しかし、7月には追討軍が組織されたため、西へ向かって進撃、
だが12月11日、越前敦賀で加賀藩に投降し、乱は終結する。

土壇場で言い訳しない喉ぼとけ  美馬りゅうこ

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