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川柳的逍遥 人の世の一家言
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手相は凶だが足相は大吉  雨森茂喜


楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記

「楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記」は、昭和の初めころ、

村田清風の孫・村田峰次郎という歴史家が書いた。

伝記の中に「耕堂」の名の由来があり、文章はそこから始まる。

「君は当時、思ふ所ありて世厄を遁れ、

   帰農を以て楽みとする情意なれば、

   嘗て耕堂または不如帰耕堂などの雅号も、
     ここ
   爰に到り始めて実現さるることとなれり」 

伊之助は一時期すべての職から離れ、農業に勤しんだことがある。

その中から、伊之助と龍馬の出合いを紹介したい。

髪切った帰りに茅の輪またくぐる  前中知栄

一時、幕府への忠誠を誓う保守派が長州藩内で台頭したとき、

その反対勢力だった小田村伊之助は野山獄に入れられていた。

しかし、高杉晋作の功山寺挙兵の勝利によって、

藩政府の政治方針が、一新されたことをきっかけに、釈放された。

獄を出た後は、三条実美ら五卿を訪ね、塩間鉄造の名で

太宰府に滞在していた折、そこで偶々、

薩長を結びつけることを画策していた

土佐脱藩浪士・坂本龍馬と出会ったという訳である。

時々は真空パックの空を出す  山口美千代


  坂本龍馬

「龍馬と逢う」


幕末維新期に於ける伊之助(楫取素彦)の最大の功績は、

九州の太宰府で坂本龍馬と会見し、

「薩長同盟」のきっかけをつくったことと言われる。

村田峰次郎が名文で次のように書いている。

「君の筑前に入るや、途次偶々たまたま土州藩阪本龍馬に逢ふ。

   潜に国事を談し、互に時事の得失を説く。

   阪本口を極めて討幕の期熟するを言ひ、

   速に長薩の連合策を遂行せんことを切論し、

   暗に西郷吉之助の同意ある趣を語り、
     じか     せいちく
   併せて自家に胸中の成竹を開展したり。

   君深く阪本の誠意を諒とし、馬関に帰るや、俄に桂小五郎を訪ひ、
    せつ
   窃に阪本の連合説を勧む」

 成竹=あらかじめ成功する目途のあること。

開けゴマ一気に喋り出す禁句  百々寿子

  桂小五郎
しゅこう
「桂、之を首肯せり。
                                                                                                   ぐうきょ
   その後、阪本馬関に来たり、特に桂の寓居を叩き、
  かって
   曾て君に伝へし所の連合説 詳論せり。

   それよりして連合策の主張交渉は、次第に歩を進め、

   大成の良結果を覩るに至れり。

   その他日の成功とする所は、

   当初、君か斡旋の労に起因せるものならんか。

いやしく
   苟も連合の議を記せんとするに於て、

   君の功決して 逸すへからすと信す」


 首肯=うなずくこと。

あさっての話 眉間で割るリンゴ  佐藤正昭

「そこからの小五郎」

「おれは ぶっ壊すのは大の得意だが、

 作り上げるのは大の苦手とするところだ。

 作るのは 桂しかなかろう」

そう言い放ったのは、高杉晋作である。

そこで、京都から離れ、団子屋をやっていた桂小五郎を、

亡命先の但馬出石から呼び戻して、

この男に、藩政のすべてをまかせた。

”蛤御門の変”で長州がたたかれた後、

長州の残兵を探しに行った戦場の、京都から逃れ、

但馬で骨休めしていた小五郎にとっては、損な役回りである。

しかし、藩命とあればやむを得ない。

慶応元年(1865)4月下旬、高杉の一報で、小五郎は萩に戻った。

唐突を燻製にしているところです  山口ろっぱ

薩摩の方でも、

「おれは古い家を壊すのは おおいに得意とするところだ。

 しかし、新しい家となれば、大変苦手である。

 それは、大久保が適任と考えている」

そう語るのは西郷隆盛である。

高杉の言葉と、内容はまったく同じだ。

まさに「薩長同盟」また「維新」は、役割分担で実現した。

長州に戻った小五郎は「政事堂用掛及び国政方用談役心得」

に任命され、紆余曲折をしながらも、

慶応2年1月の同盟成立まで、精力的に動いた。

龍馬との会見は次の通り。

5月01日 龍馬 下関・綿屋弥兵衛の宿で桂小五郎との会見を望む。
5月06日 小五郎、白石正一郎邸にて龍馬、土方楠左衛門と会談。
5月07日 小五郎、坂本龍馬、土方楠左衛門と会談。
5月08日 小五郎、坂本龍馬、土方楠左衛門と会談。

龍馬は小五郎を説得するのに三日要している。
そして、やがて西郷との会見の運びとなる。


わたくしののほほんへまさかのうねり  山本昌乃

     
   五十鈴御殿          銀 姫


五十鈴御殿は、
萩から山口に移ってきた毛利元徳の正室・安子が
居館としたもので、
美和は約5年間、この御殿で奥女中として安子に
奉公した。


【豆辞典】「守り役(教育係)」とは。

伊之助が大宰府に赴いていたころ、

毛利元徳の正室・安子銀姫)に仕えていた美和は、

漢籍(中国の書籍)の素養などを認められて、

嫡男・興丸の教育係に抜擢された。

大名の継嗣のそばには、

その地位にふさわしい見識や素養を身につけるため、

優れた教育係が置かれることが多かった。
もとすけ
織田信長平手政秀武田信玄板垣信方毛利隆元国司元相

などがよく知られている。

女性では徳川3代将軍・家光春日局

13代将軍・家定正室・篤姫幾島

伊達政宗の守役・片倉喜多などが名高い。

このように見ていくと、

美和がどれだけ教養豊かな女性であったかが分かる。

螺旋階段ようやく当たり出す朝陽  古田祐子

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鉄板の厚さで勝負しています  前中知栄


  明倫館の模型 (山口市博物館)

「毛利藩の教育」

萩の藩校・「明倫館」は、上士にのみ登校が許された学校で、

極めて優秀であった。

その為、身分の低い藩士達も縁故を伝って入学し、学問を修めた。

毛利13代藩主・敬親はことのほか教育、人材育成に熱心で、

享保3年(1718)に5代藩主・吉元が萩城三の丸に開設した藩校を、

全体規模を拡大して、城下の中心地へ移転させた。

幕末の数多い優秀な人材は、

敬親の「教育方針」のたまものなのだ。

明倫館に関わりのある著名人をあげると、
吉田松陰、小田村伊之助、玉木文之進、椋梨藤太、周布政之助、
高杉晋作、桂小五郎、長井雅楽、井上聞多、大村益次郎など。

タクトからペールカラーの音符たち  矢沢和女


    有備館  (国指定史跡)

有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもの。
北半分を剣術場、南半分を槍術場とした。
また、ほかの藩から剣や槍の修業に来た人たちとの試合場にも
使われ討慕運動に活躍した土佐の坂本龍馬が、
萩を訪れれた文久2年に 、剣術の試合をしたといわれている。

敬親が立ち上げた当時の明倫館の規模は、約1万5千坪の敷地内に、

聖廟(宣聖殿)を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として、

学問習得のための建物、

それも漢学中心の初等・高等の教育施設が、配置され、

東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、

後方には水練池、北方には、約3千坪の練兵場が設けられた。

因みに、1万5千坪は、甲子園球場4個分にあたる。

竹に節私に意地があるように  八田灯子          


    明 倫 館

「敬親が殊に重要視した明倫館教材の①-詩経」

【天が陰雨の天気とならぬ内に、鳥が彼の桑の根の皮をはぎ取って 

   己の巣のまどを手堅くまといからめて

   雨が降っても降りこまぬように備えて

   不測の患を予防するということがある。

   君子即ち人の上に立つ人が もし,

   国を治めてまさかの時に禍をうけぬ予備をなさんとならば,

   学問をすることで、人材を造るより上策はなきはずである】

人の世に明かりが灯る人の手で  前田楓花

【人材を作ることを楽しんで子弟を教え、

   取りしまりを簡易にして人民を悦ばすれば、

   即ち 民の父母たる徳あるものであるということがある。

   而して「左伝」には学ぶということは、

   草木で申せば 植えて培養する仕方に当る。

   もし、学ばなかったらば、草木が養われずして衰えるがように

   人材が出来ぬものであるということがある。

   今 君公が国家を治めらるるに学事を上策として、

   子弟の学問を励まして 学校をたてたまい、

   之に教育を施して 人材の衰えぬようにせらるるのであるから、

   民の父母たる徳は 誠に大なるものである】

(『左氏伝』(さしでん)孔子の編纂と伝えられる歴史書)

点を打ついつか線にも絵にもなる  勝又恭子


「嘉永重建碑の削り取られた部分」

【明倫館のいたずら】

堀内から江向に移された時、明倫館の開校を記念してたてられた

「嘉永重建碑」と呼ばれる石碑がある。

この嘉永重建碑を見ると、

左から四行目のまん中あたりの文字が、三字ほどが削られている。

削られた文字は、「幕命而」

もとは、「幕命を崇奉して、国家の蕃屏たる所以なり」で、

意味は「幕府の命令をよくきいて国を守る」 とあったところ。

蕃塀とは、「不浄除け」の不浄なものを遮断する意味から「楯」と訳す。

立ち位置が微妙コウモリの保身  竹内いそこ


歴代毛利の藩主たち

「その謎の解明」

関が原から三年後の慶長8年(1603)に

徳川家康は江戸に全国の大名を統括する幕府を開いた。

そして慶長20年には「大坂の陣」によって豊臣家を滅ぼし、

名実ともに「天下人の座」についた。

毛利ほか諸大名は徳川家から

「領地(藩)を預かる」という形となり、幕藩体制が始まった。

毛利元就の次男・吉川広家の嘆願により、

お家の存続を許された毛利家は、その後、本拠地・長門と一字から

「長州藩」と通称されることになる。

しかし、元就以来から守り抜いてきた120万石を、

周防・長門37万石に減らされた恨みは、

江戸時代を通じ、歴々と長州・毛利家に根付くことになる。

13代藩主・敬親もまた表向き「幕府恭順」と言いながら、

内心では「倒幕」への気持ちは、抱いていたのである。

同時に、長州の藩士の心も、

「幕命而」を削ったところにあったということだろう。

酸欠なんです赤いクレヨン下さいな 山口ろっぱ


  昌平坂学問所

 【豆知識】「藩校」

藩校は江戸時代、藩が主に家臣の師弟を教育するために設立した。

就学が義務とされるのは、家臣の長男のほか、

藩によっては、藩士全体にも及び修学期間は、

一般に7歳から20歳位まで。

今で言えば、幼稚園から短大まで一つの学舎で学ぶことになる。

授業は「儒学」が中心で、

中国の「四書五経」の素読や「習字」を学ぶほか、

「歴史・礼式、詩文の創作、算術」など幅広い教科が行われた。

文武両道を目指して、「槍術術,柔術、剣術、馬術」などの

実技や兵書の講義などもあった。

江戸の後期にもなると、

藩によっては、「医学・洋学・西洋砲術」なども加えられ、

300あった藩のうち、220余りに藩校が開設されている。

「幕末に名をはせた藩校に長州藩の明倫館、水戸藩の弘道館、

会津藩の日新館、薩摩藩の造士館、江戸幕府は昌平坂学問所

などがあり、そこからは多くの人材が育っていった」

先生と呼ぶと振り向く二三人  美馬りゅうこ

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ウラとオモテを入れ替えただけの空  井上一筒



「もう一人の伊之助」

元治元年、「禁門の変」によって長州藩が京都から追われ、

長州藩の内部で幕府に対する恭順派と、

幕府の過ちを正すという正義派の内部対立で、

恭順派が長州藩の政権を握ると幕府に対して、

反抗しようとする正義派への徹底した弾圧、粛清が為された。

実は小田村伊之助の兄・松島剛蔵も捕われて斬首に処されている。

伊之助にも嫌疑が及び、入牢という状況になり、

伊之助はこれに先立つ形で、

「自分が多分入牢すると、死ぬかもしれない」 ということで、
                 もうしのこしそうろうことのは
妻・寿子に後事を託す遺言・「申残候言の葉」を残している。

難破船に乗った理由なんてない  和田洋子

そこには、死を目前にした心境ではなく、

非常に細かいことを書いている。

「これから自分の家は貧しくなるけれども、

   子供たちは裕福な家のことをうらむことがないようにせよ」

過去を振り返れば、

松陰の本家の杉家も、小田村家も、それほど高級な家柄ではない、

武士の清貧ということ、

まさに、そういう形で家政を切り盛りをしてきた。

 寿が楫取に嫁いだ時には、まだきちんとした一軒家も構えていない。

 「結婚したときには、煮炊きする道具もなく、

   蟻が餌を一つ一つ運んでくるように、自分たち二人は、

   家財を集めてきて、暮らしてきた」

そうした家財への配慮のことまで書いている。

リンゴの唄に救ってほしい昨日今日  石神孔雀

そして、入牢に際、妻・寿子に残した一編の詩には。

「勤倹十年家政、裁縫紡績幾営為、糟糠未報阿卿徳、

 又向獄中賦別離」

意味は、「勤倹すること十年、家政に労す」とあり、

苦しい中を自分たちは、十年間も何とかやってきたのではないか

という思いが「家政を労すること十年」という語句に示されている。

多分、この詩句を受け取った寿には、

伊之助の言う行間の心は、理解していたのであろう。

まず、「今までの十年は、こうだったな」 

と伊之助はは思いい起こしているのだ。

いつも通りに豆腐屋さんの水の音  墨作二郎
                    ほと
その次の語句が、「裁縫紡績、幾んど営為す」

主婦としての当然の仕事をきちんと、

全部あますことなくやってくれた という思いがあって、

家政のうち裁縫紡績を例えて挙げている。

第三句目は、境地が少し変わり、起承転結の「転」に入る。
 そうこう  そなた
「糟糠末だ阿卿の徳に報いざるに」

(思えばお前に何も恩返しすることができなかった)

(阿卿とは、「卿」は六朝のころから、夫が妻に対する呼びかけ

「おまえ」とか「そなた」になる。

「阿」は、相手を慈しむ接頭語)

伊之助が妻に対する思い、「そなた」と妻を愛しむ思いで、

呼び掛けている。

「糟糠」というのは、非常に貧しいときの状態。

これを見る限り、伊之助は家を思い、妻を愛し、

子には優しい普通の人だったようだ。

後ろにもテトラポットな父がいる  山本早苗


   延寿王院

その後、高杉晋作らの働きで藩是の変更に成功し、

野山獄に投ぜられてから、

約半年後の慶応元年(1865)に、伊之助は出獄を許される。

出獄するとまもなく、藩主・毛利敬親から呼ばれ、密命を受ける。

そして、その年の5月には、伊之助は、

塩間鉄造と名乗り、大宰府にいた。

幕末、公武合体派による政変で都落ちした

尊王攘夷派の公爵七人のうち五人が、

太宰府天満宮の延寿王院で約3年間の幽閉生活を送っていた。

この福岡藩の世話で大宰府に滞在している五卿に会うために、

危険を冒して大宰府に赴いたのである。

カーテンを洗い半年巻き戻す  竹井紫乙

五卿(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修)

に会い、長州藩の立場を説明し、

倒幕を他藩に呼びかける協力を要請するために、

伊之助は動いていたのである。

しかし、五卿は時勢を全く分かっていない。

一応の理解は得たものの、伊之助の期待から遠いものだった。

この頃の大宰府は、西郷隆盛・土方久元、桂小五郎、中岡慎太郎、

坂本龍馬など多くの維新の志士たちが訪れるなど、

さながら、反幕府運動の拠点になっていた。

そんな大宰府で気落ちしていた伊之助は、

「薩長連合」の架け橋となる重大な人物と出会うことになる……。
                              「楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記より」

白っとしてる中へ歩幅が進まない  森 廣子

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傍目には面白すぎる三つ巴  菱木 誠


晋作が妻・雅子に送った手紙 拡大してご覧下さい)

武士の妻は町人や百姓の妻とは違うということを忘れぬ事」などと、
書かれている。筆まめな晋作は、雅子や愛妾以外にも同志たちに
数多くの手紙を送って自らの思いを伝えた。 (萩博物館蔵)

「晋作と2人の女性」

高杉晋作には妻・雅子と下関の芸妓・おうのという女性がいた。

雅子は、弘化2年(1845)、長州藩・井上平右衛門の次女に生れた。

「萩城下一の美人」と謳われ、早くから縁談が殺到したといわれる。

そこで絞り込んだ三件の書状をクジにし、

雅子が選び取った一つの中に書かれていたのが、

「高杉晋作」の名前で、安政7年(1860)1月に祝言をあげた。

晋作は自筆の履歴の中で、

「父母の命により、井上家の娘を娶る」

と書く以外に、結婚について何も語らず、関心は薄かったらしい。

時に雅子16歳、晋作22歳。

美しいため息になる非常口  赤松ますみ


  高杉雅子

雅子は晋作の愛妾おうのと交友関係を持ち、
晋作の死後も交流を続けていたといわれる。

しかし、「三国一の花婿を引き当てた」 と祝福された雅子の

晋作との結婚生活は短いものだった。

晋作は結婚1年後に、藩士としての出仕をスタート。

このままいけば、美男美女の若夫婦として、

つつましく生活を送っていけるはずだった。

”西に行く西行、東に行く東行”        

だが時代は、晋作を放っておかない。

薫風の真っ只中を瞬間移動  板野美子

晋作は結婚2年後に、藩命を受けて上海を視察し、

その後は、国事に東奔西走し、萩の家に長くいることがなく、

一緒に暮らしたのは、つめて、約1年半という短さであり、

舅らと離れて住んだのは、文久3年(1863)4月、

晋作が萩郊外に隠棲していた2ヶ月ほどであった。

ただ、翌年には後継ぎとなる長男・梅之進(東一)も誕生し、

雅子は武家の嫁の役目を一つ果たしたと思っただろう。

ほんのりと空気のように坐ってる  谷口 義

雅子は不在の夫とは、頻繁に手紙のやりとりをした。

晋作からの手紙は、ほとんど武士の妻たる心構えに終始し、

雅子に教養を積むように求めていたが、

晋作は時に長文になる雅子の手紙が届くのを、

楽しみにしていたという。

「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、

「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」

「曽我物語やいろは文庫などを読んで、

   心を磨くことを心がけること」

「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」

「武士の妻」としての心得が綴られている。

私の言葉で綴る恋の文  永井玲子



晋作が描いたと言われる”おうの”の後姿 (右下に東行のサインが見える)      

また晋作は、美人の妻がいるにもかかわらず、

洒落者で遊郭好きの男である。

元治2年(1865)に、藩内クーデターを起こして、

俗論党を打倒した際には、芸者たちに三味線を弾かせながら、

藩庁に入城するほど、彼は花街を愛した。

そして晋作といえば、芸妓・おうのとの愛が有名である。

正妻の家には、帰らなかった晋作だが、

おうのといると、心が安らいだようで、

時間の許す限り、近くにおいたという。

【晋作は優しい夫で、妻・雅子は一度も叱られたことがなかった、
  というが、
やがて、夫に愛妾・おうのがいることを知った雅子は、
  腹立ちのあまり、慶応2年2月、義母と息子と一緒に、
  夫が同棲中の下関へ一時、引っ越すこともした】

笑顔の裏も笑顔だなんていい人ね  八田灯子


  おうの

高杉晋作は藩命で下関の白石正一郎邸で「奇兵隊」を組織し幹部を
引き連れ、
堺屋で宴会を開いていた、その席でおうのと出会った。


晋作がおうのと出合ったのは、下関の茶屋。

そこでは、おうのは「糸」と名乗っていた。

晋作が24歳、おうの20歳のときであった。。

伊藤俊輔らは、おうのを見て、

「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と…」

と不思議がったという。

だが、晋作にとって、とても大人しく優しい性格で、

おうのの、このぽけっとした天然の部分に、

日ごろ荒みがちだった晋作は癒されていた。

トンボの眼 360度 空色  本多洋子

筆まめな晋作は、雅子以外、おうのにも同志たちにも、

数多くの手紙を送って、自らの思いを伝えている。

慶応2年4月5日付、愛人・おうのへの手紙には

「人に馬鹿にされないように」

「写真を送るので受け取るように」 と綴られている。

こうした手紙から、晋作の本性をうかがい知ることができる。

雅子宛の手紙は漢字が多く、愛人・おうの宛の手紙は、

平仮名が多く、晋作の心遣いが伝わると同時に、手紙を読む限り、

放蕩のはねっかえりの晋作はどこにも見られないのである。

芋焼酎バカラで飲むと美味になる  新川弘子


     晋作墓所

晋作の遺骸は遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。
奥が東行庵 (近くに、おうの・(谷梅處尼)が眠る)

小倉戦争後、肺結核になった晋作の体調は悪化する。

馬関新地の庄屋林算九郎邸の離れで療養する。

おのうは晋作の恩人・野村望東尼の援助を得て、

ひたすら晋作の看病に努めた。

望東尼は、晋作の正妻の雅子が訪れる日に、

雅子とおうのの緩衝役を買って出た人でもある。

しかし、晋作は志半ばで慶応3年(1867)4月13日、

29歳で亡くなってしまう。

晋作は死の間際、「吉田へ・・・」 と、うわごとを言ったという。

奇兵隊の本拠地・吉田郷のことと皆が思い、

遺体は、吉田の清水山に葬られた。

雅子と晋作は7年、そして、おうのと晋作は出会いから4年、

短い愛の終焉であった。

解剖のときも麻酔をたのみます  井上一筒

維新後、亡き夫・晋作の名声が高まってくると、

雅子は一人息子の教育のため、

東京に出て粛々と暮らし、息子・東一を育てあげた。

大正2年、雅子は外交官などを努めた息子を先に亡くす

悲しみにも遭ったが、孫への血脈は受け継がれ、

大正11年1月9日、78歳で死去。

"文見てもよまれぬ文字はおほけれど なおなつかしき君の面影"

これは雅子が37歳の時に詠んだ歌である。

このころには、彼女を困らせた晋作との思い出も

愛おしいものとなっていたのに違いない。

ふたりして上げた花火をどうしよう  森口かなえ


   梅処尼
                            たにばいしょう
一方、おうのは晋作の死後、剃髪(明治14年)梅處梅処尼)と名乗り、

明治42年8月7日 、67歳でこの世を去るまで、42年間、

「東行庵」と名付けた庵で、生涯、晋作の菩提を弔った。

「谷」の姓は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、

晋作の死後、梅処尼に引き継がれた

雅子とおうの、同じ男を愛した女同士で気の合うところが、

あったのだろう。

どちらかが欠けるまでその付き合いは続いた。

カンツォーネおとなの恋をしています 美馬りゅうこ

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依頼人はタンポポ引受人は風  徳山泰子


高杉晋作による藩政奪還の戦い(大田絵堂の戦い)

当初は傍観していた諸隊だったが、高杉が挙兵すると次第に合流。
藩政府側は毛利宣次郎を諸隊鎮静手当総奉行とし、追討隊を進発させた。
年が明け慶応元年1月14日正午ころ、大田絵堂において、
藩政府軍と
正義党とが激突。 政府軍優勢の中で大激戦となるも、
遊撃軍30余名が東側の小中山から、また、奇兵隊が大木津口より
政府軍の側面をつき、10日間の激戦の末、正義党が勝利をおさめた。

先生が見つけなければただの石  河村啓子




「高杉晋作 蜂起する」

禁門の変の際、天王山に追いつめられた宇都宮の広田精一は、

切腹直前、晋作宛てに1通の手紙(遺書)を書いている。

この一通の手紙が高杉晋作を「功山寺決起」へと動かした。

「……今度の義挙大敗……河野(久坂玄瑞)牛敷(寺島忠三郎)

   入江(九一)来翁(来島又兵衛)討死。

   所詮尊兄(高杉)一人、何卒割拠を御主張になられ、

   四君の任を一身に担当になられ候程の御尽力、伏して望み候。

   中略…昨日の戦争、平日操練の形に振り回し候者一人もこれ無く、

   会(津)の兵法に及ばざる事遠し、

   これらの弊、急速御一洗、号令を厳にし、

 兵士を精選する事御担当、

   兎角何事も御一身に任ぜられ候よう、伏して望み候」  

散り際の啖呵は砂利を吐いてから  小林すみえ      



遡ること5年前の安政6年11月、師の松陰が処刑された1月後、

高杉は藩重役の周布政之助への手紙に

「我が師・松陰の首、ついに幕吏の手に掛け候の由。

…中略…仇を報い候らわで安心仕らず候」 

と記している。

広田の手紙は、晋作のこうした厭悪の思いにさらに火を点けた。

「久坂や入江、そして己の志を自分に(晋作)に託して自刃した。

  師の仇敵を抱える幕府は、

  かけがえのない盟友たちの仇敵ともなった。


  もはや我らの手で切り 拓くしかない」

倒幕を終点地と定めながら、当面は内乱を鎮めること。

かくして高杉は、「功山寺決起」に踏み切ったのである。

 迷いなく大きなつづら金の斧  岡谷 樹

 
       赤根武人罪状一件
                  

功山寺挙兵を受けて、椋梨の下、藩政府は19日になって、

急進派幹部7人を斬首し、さらに追討隊を組織した。

これにより赤根武人による「融和策」は瓦解。

武装解除を通達された諸隊は、高杉らと合流することになった。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

とは、伊藤俊輔が高杉を評して言った言葉である。

まさに電光の如く、伊崎の藩庁出張所を制圧。

すぐに近傍の寺に屯営を構えて、三田尻に停泊中の藩艦を奪取。

やがて、高杉の元に奇兵隊や急進派も参集。

彼らは「正義派」と称され、

「俗論派」主導の藩政府への抵抗勢力となった。

いい奴を送る煙たいのが残る  藤井孝作


山口の湯田温泉に「松田やホテル」に残されている檄文

晋作は、決起に際して示した「檄文」で、

藩政を私物化する「姦吏」「御国家の御恥辱」とまで糾弾し、

そして翌元治2年1月5日より、

5度に亘り両勢力による内訌戦を展開。

民意も得た高杉らの軍は勇戦し、

やがて藩政から幕府恭順勢力を払拭した。

この決起と戦闘には、俊輔や山県狂介ら旧松下村塾の少壮も、

果敢に加わり、師・松陰の評価の通りの働きを果たしている。

「松陰の人物評」 (『己未文稿』)
【太郎(原田)・松介(松山)の才、直八(時山)、
  小助(山県狂介)の氣、 傅之輔(伊藤俊輔)の勇敢にして事に当る、
  仙吉(岡仙吉)の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。
  然れども、大識見大才氣の如き、恐らくは亦ここに在らず。
  天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ

さらに他日の書簡でも伊藤については、

「周旋力」を高く評価している。

亡師の洞察に応えるかのように、彼らは以降も邁進した。

放電をしなさい灰になりますよ  森田律子

 
   伊藤俊輔

長州藩内が内戦のような状態に陥っていた12月27日、

幕府軍は長州から撤兵している。

明けて元治2年1月6日、諸隊は絵堂の藩政府を攻撃。

以後10日間にわたる武力衝突となる。

高杉らの軍は優勢だったが、勝利を得るまでには至らなかった。

こうした膠着状態が収束したのは、「中立派」の家臣団が結束、

諸隊とともに「保守派」を攻撃し、内乱の終結を図った。

これらの動きから、

藩主の毛利敬親は椋梨らを罷免することにした。

こうして再び、藩の中枢から保守派が一掃され、
                                                      さねおみ
2月には、高杉、広沢真臣、前原一誠らによる政権が擁立された。

だが以前のような過激な攘夷運動を目的とせず、

力を蓄えられるまでは,幕府や諸外国に対し、

「武備恭順」を藩是とした。

想定外をテロテロ嗤うイカフライ  山口ろっぱ

この事態を受けて、危機感を抱いたのが幕府である。

彼らは再度の「長州征伐」を視野にいれ、

慶応元年(1865)5月には将軍・徳川家茂が大坂に入った。

さきの己未文稿で松陰は、門下双璧とされる高杉と久坂を
      がぎょ
「人の駕馭を受けざる(恣意のままに動かされぬ)高等の人物なり」

と絶賛。

高杉晋作は、もはや幕府に対して、些かも信頼を置かずに、

自分たちの手で新たな日本を切り拓こうとの決意を固める。

裏切らぬものの一つとしてバナナ  中野六助

「松陰から高杉晋作へ壮行の辞」(安政5年7月)

『僕はかって同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。
  その後、高杉晋作を同志として得た。
  晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。
  しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。
  そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。

  そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、
  晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、
  皆もそれを認めるようになった。
  玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、
  晋作を推すようになった。

  晋作も率直に玄瑞の才は、当世に比べるものがないと言い始め、
  二人はお互いに学びあうようになった。
  僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、
  晋作の識は気から発したものである。
  二人がお互いに学びあうようになれば、
   僕はもう何も心配することはない
と思ったが、

  今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行ていくならば、

  できないことはない。
  晋作よ、世に才のある人は多い。
  しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはいけない』

見つけてください私は此処にいるのです 春野ゆうこ

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