- 2016/06/29
- Category : ポエム&川柳
朝鮮出兵
名護屋城図屏風 (拡大してご覧下さい)
5層7階の天守閣とともに、周囲には130カ所余りの陣屋が築かれ、
巨大軍事都市が形成された。
「東槎録」(とうさろく)
1596年に明国使節とともに来日した朝鮮国使節・朴弘長の日誌。
名護屋城が7層(実際は5層7階)の天守閣だったことや、
城下町の繁栄の様子を書き留めている
文字瓦
名護屋城跡から出土した「天正十八年銘文字瓦」
火遊びで生命線が砕け散る 上田 仁
「朝鮮出兵」
天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉は、
翌19年に朝鮮出兵を決意し、
全国の武将たちに新たな戦の準備を整えるよう命じた。
一方、出兵するための軍事拠点となる城の築城にも着手し、
肥前国名護屋の東松浦半島の波戸岬に、「名護屋城」が築かれた。
城は全国各地の諸大名の割普請によって築城が進められ、
わずか3ヶ月で完成させたという。
秀吉が名護屋城に居住したのは、凡そ1年半程だったと言われているが、
全国の諸大名も集結したこの時期の名護屋城は、
まさに日本の政治経済の中枢になっていたともいわれる。
城の周辺には大名や家臣だけでなく、商売を営む者や
様々な生活に必要なサービスを提供する人たちが集まり、
ピーク時には20万人以上の人々で大変な賑わいだったという。
5階から入道雲に触れます 井上一筒
朝鮮出兵の絵
「文禄・慶長の役」
文禄元年(1592)4月、15万を超える軍勢が対馬海峡を渡り、
朝鮮半島に上陸した。
秀吉の朝鮮侵略の開始であり、「文禄の役」の始まりである。
このあと一度引きあげて再び慶長2年(1597)に再征しており、
これを「慶長の役」とよんでいる。
2度にわたる侵略によって、朝鮮は大きな被害を受けた。
秀吉による大陸侵略は、「名誉欲にかられた秀吉の愚挙」とか、
「思い上がりが生んだ無謀な戦い」と言われることが多いが、
秀吉は、なぜこの時期、朝鮮への侵略戦争をはじめたのか。
大きく振り被った次の音 蟹口和枝
これにはいろいろな説が語られる。
① 秀吉が朝鮮出兵を言い始めた一番早い文献は、
秀吉が関白に任官した2ヶ月後の(天正13年9月13日付)秀吉文書である。
そこに、
「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候 心に候か」
とある。分かりやすく言えば、秀吉は、
「関白として、日本全体の統一支配だけでなく、唐国までも、
そのようにせよと命令された」と解釈をしたのである。
夢を見てばかり掛け算してばかり 竹内ゆみこ
② 秀吉の朝鮮出兵の理由を江戸時代の儒学者・林羅山は、
「愛児鶴松が死に、その悲しみからのがれるために、決意した」
と言っているが、先述の通り、秀吉が朝鮮侵略の意図を口にしているのは、
鶴松の死よりもはるか以前、天正13年のことだから、
この林羅山の考え方は成り立たない。
眼鏡のせいだろう小さな勘違い 山本昌乃
③ 秀吉がポルトガルの侵略と対決するため、
日本統一を国際的環境のもとで推し進める必要があり、
秀吉自身、せまい日本の支配者としてのみ振舞うことが、
許されなくなったというもの。
声高に正義と胡散臭い顔 猫田千恵子
④ 秀吉の頭に、そろそろ、日本統一後のことがちらつきはじめた。
封建的主従制を保つ手段として、「御恩と奉公」の関係がある。
「諸大名たちは、恩賞をもらえるから自分についてきているのだ」
という、認識を秀吉は、もっていたはずである。
その裏返しとして、
「与える恩賞がなくなったとき果たして彼らは自分についてくるだろうか」
という不安をもった。
それゆえ秀吉は、九州征伐・関東征伐・奥羽征伐が、終わったあとも、
さらに、明にまで攻めていくことも、構想していたものと思われる。
終章は神に逆らうかも知れぬ 太田扶美代
⑤ ほかには、秀吉が、天正18年に秀吉が朝鮮国王に伝えた言葉。
「予の願いは他に無く、只、佳名を三国に顕すのみ」 に見るように、
秀吉の名誉心、功名心、野望が侵略戦争を招いたという人もいる。
また、秀吉が朝鮮出兵の前に、明への陸路ルートにある朝鮮に対して、
服属と明出兵の先導をつとめることを要求した。
が、「朝鮮はこれを拒否した」というのも、理由のひとつにある。
いかなごとクロスワードを埋めている 赤松ますみ
何はともあれ、「天下を統一した」とはいっても、
世の中には、戦国の風潮、「下克上の時代」を知る者が、
多数生き残っている。
秀吉の心配の種は尽きなかったのである。
なお、秀吉自身は、慶長の役の最中、慶長3年(1598)8月18日、
に没している。
秀吉死後、秀頼が相続するが豊臣政権は急速に瓦解していく。
朝鮮出兵が、豊臣政権の屋台骨をガタガタにしていたからである。
浮雲ごときに憧れてしまった 雨森茂樹
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