ドミノ倒しは罪ですよ風の神 奥山晴生
伊藤博文
伊藤博文は周防国の貧しい農家に生まれる。
9歳の時に家族とともに萩に移り、17歳で松下村塾に入門。
松陰の推薦を受け、山縣有朋らと京都へ情勢視察に赴いたのを機に、
「尊皇攘夷」の必要性を痛感。
文久2年、玄瑞らと、公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策。
品川御殿山の「英国公使館焼き討ち事件」に参加。
ロンドン留学後は開国、富国強兵論者に転じ、「武力倒幕運動」に参加。
大久保利通の死後、内務卿を継ぎ、政府の中心的位置を確保。
明治18年、内閣制度を創設し初代・内閣総理大臣に就任。
大日本帝国憲法の制定を指導。
枢密院議長、貴族院議長、内閣総理大臣、初代韓国統監等を歴任。
伊藤は国際協調派ともいえる考えの持ち主で、
韓国併合には反対の立場だったが、明治42年ハルビン駅頭で、
韓国の独立運動家・安重根により暗殺される。
明治天皇の信任は厚く、明治期を通じて元老中第一の実力者として、
内外政策に大きな影響力を行使した。
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「それからの長州」
明冶4年7月14日、「廃藩置県」が行なわれた。
文字通り藩をなくし、新たに3府302県を設置。
知藩事となっていた旧藩主たちは、東京に移住させられ、
各県には中央政府から県令が送り込まれた。
こうして新しい官制を確立していくと、
維新の原動力となった長州と薩摩に土佐、肥前を加えた4藩の出身者が、
参議や各省の卿(大臣)や大輔(次官)を独占した。
その後、岩倉具視を特命全権大使とした岩倉使節団が欧米を
歴訪している間、国内では「征韓論」の嵐が吹き荒れた。
それにより、土佐や肥前の出身者の多くが政府中枢から離脱し、
下野してしまう。
その結果、薩長派閥と言われる権力構造が出来上がっていくのである。
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井上 馨
井上馨は桂小五郎や高杉晋作らとともに「尊皇攘夷運動」で活躍。
維新後は参与、大蔵大輔、参議兼工部卿、外務卿などを歴任する。
第一次伊藤内閣では外相就任。不平等条約改正に奔走する。
派閥政治はしばしば、情に流されてしまうことがある。
それだけでなく、さまざまな癒着構造を生み出してしまい勝ちだ。
その一方で政治家と官僚、さらには軍部にいたるまで、
円滑な人間関係を構築することができるという利点もある。
実際、一刻も早く国力を増強したかった当時の日本にとっては、
物事がスムーズに運ぶことは、得難いことであった。
だが議会政治を目指す勢力にとっては、
藩閥政治は許しがたいことなので、その専横をおおいに攻撃。
そうした状況においても、「国会開設や憲法の発布」など、
近代国家としての体裁を整えていったのである。
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山縣有朋
奇兵隊を組織した高杉晋作は身分に関係なく有望な人材を登用。
足軽以下と低い身分の生まれだった山縣有朋などが、
立身出世するきっかけを与えた。
山縣自身は、久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入門。
在塾期間こそ短いが松陰から薫陶を受け、生涯にわたって深く畏敬した。
明治末期に伊藤が暗殺されると、山縣は大きな発言力を持つ元老として、
政界に君臨。首相選定の主導権をも握る。
大正初期には陸軍や政界の黒幕となり、「日本軍閥の祖」の異名をとった。
死後、昭和天皇は軍人の一面において山縣を高く評価した。
そして藩閥政治を最も利用したのが、長州出身の山縣有朋であった。
山縣は政界のみならず、官僚や軍部においても、
自らが領袖となる強大な長州閥.を築きあげた。
しかも長きに渡って影響力を発揮し続けたため
山縣閥とも呼ばれた。
同じ長州出身者で、初代・内閣総理大臣を務めた
伊藤博文は、
こうした藩出身者にこだわるちころはなかったと言われている。
そして山縣が築いた長州閥は
桂太郎に引き継がれて行く。
桂が大きく出世する要因になったのは、
彼の叔父である
中谷正亮が吉田松陰の友人であり、
なおかつ、松下村塾を支援してくれたことも大きな理由となった。
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桂太郎
桂太郎は松陰が刑死したとき、13歳だったが、
叔父の中谷正亮が松下村塾のスポンサーだったことから、
「至誠」の精神は、十分学んで育った。
戊辰戦争に従軍後、明冶3年にドイツ留学。
帰国後、山縣有朋の下で「兵制、陸軍官制の改革」に従事。
第三次伊藤内閣で陸相となる。
日英同盟、日露戦争などを首相として主導した。
桂太郎は、明冶34年に総理大臣となった際、
閣僚の多くを山縣閥の人脈で埋めた。
そのため世間からは冷ややかな目で見られたが、
伊藤博文、山縣有朋、井上馨といった長州の元勲たちに支えられ、
日露戦争という未曾有の国難をよく乗り切ることが出来た。
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寺内 正毅
寺内 正毅は明治元年、御楯隊隊士として戊辰戦争に従軍し、
箱館五稜郭まで転戦。
明冶4年、山田顕義の推薦によって陸軍少尉に任官。
その後、西南戦争・田原坂の戦いで右手の自由をなくす。
フランス留学後、陸軍士官学校長に就任、初代教育総督などを歴任。
第一次、第二次桂、第一次・西園寺内閣で陸相。
大正5年に首相に就任する。
長州維新後の山口県出身の総理大臣は、
2015年12月現在で、他府県を圧倒する9人である。
2位は東京の5人、それに引きかえ、旧薩摩藩であった鹿児島県は3人。
一説によれば長州人は金と権力、
薩摩は女性と酒が好き という性質が影響しているという。
藩閥の影響が残っていた戦前は、長州閥から5人の首相が誕生している。
そして薩長の藩閥は、
総理大臣のポストだけに止まっているものではなかった。
その周囲を固める閣僚クラスの政治家も、薩長出身が多い。
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乃木希典
乃木希典は松陰の叔父・玉木文之進に学ぶ。
明冶4年、陸軍少佐に任官。萩の乱、西南戦争に従軍する。
日清戦争では、歩兵第一旅団長として旅順を占領。
日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略を指揮し、多大な被害を生む。
明治天皇に殉死する。
政治の世界と並んで薩長藩閥が顕著であったのが、
陸海軍のトップである。
とくに明治から昭和にかけて、日本陸軍幹部は長州人によって
形成されていた。
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この頃に陸軍の実権を握っていた山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、
田中義一らはみな長州出身者であった。
実力がなくてもこの系列であれば、約束されていたようなものであった。
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児玉源太郎
児玉源太郎は戊辰戦争に参加した後、陸軍へ入る。
佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に従軍。
日露戦争では満州軍総参謀長として活躍し、
大山巌満州軍総司令官をよく補佐した。
薩摩閥が強かった海軍がいち早く能力主義、合理主義を取り入れ、
人材も広く求めたのに対し、
長州閥の陸軍では精神主義と規律主義、
さらには形式主義をもって、その特徴としていた。
長州陸軍の代表する人物といえば、乃木希典が挙げられる。
そして規律主義・形式主義は、山縣有朋、寺内正毅だ。
こうした特色は、太平洋戦争に敗北し、陸海軍が解体されるまで続いた。
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山田顕義(あきよし)
山田顕義は松下村塾に学び、尊皇攘夷運動に奔走。
維新後は兵部大丞に就任。 佐賀の乱、西南戦争に従軍。
伊藤内閣では司法相に就任し、
黒田清隆、山縣有朋、松方正義内閣でも留任。
日本法律学校設立に関与。
戦後になって、総理大臣を務めた岸信介の曽祖父、佐藤信寛は、
松陰に「兵要録」を授けた人物。
佐藤栄作は岸の実弟である。
歴代の総理大臣の中で、最長の連続期間を誇っている。
そして現総理である安倍晋三にとって、
岸は母方の祖父、佐藤は大叔父である。
そして安倍首相は松陰の
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」
を座右の銘にしている。
綴じ紐に結を委ねているページ 上田 仁
因みに長州・薩摩の歴代首相をあげてみると次のようになる。
「長州」
伊藤博文 初・5・7・10
山縣有朋 3・9
桂太郎 11・13・15
寺内正毅 18
田中義一 26
岸信介 56・57
佐藤栄作 61・62・63
菅直人 94
安倍晋三 90・96・97
「薩摩」
黒田清隆 2
松方正義 4・6
山本権兵衛 16・22
「肥前」
大隈重信 8・17
肥前の大隈重信が8代、12代の二回、
西園寺公望が12代14代の2回、間にはさまっているものの、
ほぼ18代まで、長州・薩摩が交合に総理大臣を務めている。
スイッチを押すと電池がハイという 筒井祥文
その他の長州閥
品川弥二郎
松下村塾で学ぶ。文久2年イギリス公使館焼討事件に参加。
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整部隊参謀を務める。
明冶3年欧州に留学し、帰国後、内務内書記官、内務少輔、
農商務大輔などを歴任する。
三浦梧楼
藩校・明倫館に学ぶ。奇兵隊へ入隊し第二次長州征伐、
戊辰戦争で活躍。維新後は兵部権大丞、東京鎮台司令官、
広島鎮台司令官を歴任。明冶21年、学習院長に就任。
佐久間 左馬太
奇兵隊に入隊し、大村益次郎の下で西洋兵学を学ぶ。
明冶5年陸軍に入って大尉に任官。
佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争に参加。
日清戦争では威海衛を攻略し、占領地総督を務めた。
雑魚盛って今日一日の笑いとす 河村啓子[2回]
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