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川柳的逍遥 人の世の一家言
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みみずくに宵の眼薬差してやれ  井上一筒

「楫取素彦の足跡」



【厩橋招魂祠記】

東照宮の境内に立つ。
西南の役」の群馬県戦没者慰霊のため、明冶12年に建立された。
碑に刻まれた文章を撰したのが、楫取素彦である。

紙魚の領域に遺言を残すなかれ  山口ろっぱ



【群馬県令 楫取君功徳の碑】

明冶25年建立の、前群馬県令・楫取素彦の功績を称える碑。
碑の隣には寄付者の名を連ねた碑も立つ。
善政を行なった楫取は前橋の人々から愛され、
退任して前橋を去る際には、
数千人の県民が沿道に足を運び、
別れを惜しんだという。

楫取素彦碑の北隣に「楫取君功徳碑賛助人名」
の碑が建立されている

見て欲しいわたしはここで咲いてます  嶋沢喜八郎



【臨江閣 本館】

楫取素彦が群馬県令時代に提言し、下村善太郎初代前橋市長ら
多くの地元有志や企業の寄付を得て、明冶17年に竣工した「迎賓館」。
このあと素彦は妻の美和とともに東京に転居している。
明冶26年、明治天皇の行幸の際に行在所として使用されるなど、
おおくの皇族が滞在している。
二階の奥座敷が御座所の跡。

主要部分は創建当時の面影を残しており、県指定の重要文化財

幻が消えていくのは中二階  山本昌乃



【臨江閣 別館】

明冶43年、前橋市で開催された「一府十四県連合共進会」に先立ち
建設された「貴賓館」
一階には西洋室一室のほか、日本間が七室ある。
二階には舞台を備えた150畳もの広さの大広間がある。

誘われて裏は花色木綿です  酒井かがり



【臨江閣 茶室 (畊堂庵〔こうどうあん〕
群馬県政に対して協力を惜しまなかった前橋の人々に感激した
楫取素彦
県庁職員と費用を出し合って建築した。
楫取の最期の置き土産である。
京都の茶室大工・今井源兵衛を前橋まで呼んで建築にあたり、
明冶17年末、臨江閣竣工の二ヶ月後に完成した。
京間四畳半、本勝手、下座に床の間を持つ形式で、
「わびに徹した茶室」として評価されている。

苦い茶が立ち上がるのを仰ぎ視る  佐藤正昭



【上野三碑(高崎市)】

楫取素彦は、古墳など史跡の保護に尽力した。
その代表例が、7世紀から8世紀にかけて建てられたとされる
三つの石碑「上野三碑」の保護である。
「多胡(たご)碑」「山上(やまのうえ)碑」「金井沢碑」の三つの総称で、
それぞれ半径5㌔以内に所在する。

雁首を並べてトーテムポールかな  本多洋子



【山上碑】

山上碑は飛鳥時代の天武10年(681)に母のことを思い、
僧になった息子がたてた。。
日本語の語順で漢字を並べた日本最古の石碑。

ワタクシが他動詞の裏であった頃  岩根彰子



【多胡碑】
                  わどう
多胡碑は、奈良時代初めの和銅4年(711)に上野国の14番目の郡として、
多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた。
また、18世紀以来、中国の「書」の手本となった。

弾んでるうちは石だと気付かない  森田律子



【金井沢碑】
                   じんき         みやけし
金井沢碑は、奈良時代前半の神亀3年(726)に三家氏を名乗る豪族が、
先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑
この地での仏教の広がりを刻んである。

ポン菓子のポンで小石が出ましたが  くんじろう

三碑総括】

三碑に刻まれた内容は、中国を起源とする政治制度、漢字文化、
インドを起源とする仏教が、
ユーラシア東端の地である日本に到達しただけでなく、
さらに遠く離れた
東部の上野国に多数の渡来人の移動とともに伝来し、

地元の人々に受容され、広まっていったことを証明している。

ただ立っていたのに蹴飛ばされる石  森茂俊



【高山社跡(藤岡市)

世界遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の一つ。
高山長五郎は「養蚕改良高山社」の創始者であり、高山社は長五郎の生家。
この地で、養蚕法「清温育」の研究と社員への指導を行なった。
楫取素彦は長五郎の高山組結社の願いを容れている。

愛から愛 花から花が生まれます  津田照子



【田島弥平旧宅(伊勢崎市)

高山社と同じく「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つ。
田島弥平は、近代養蚕法「清涼育」を大成した人物で、
楫取素彦は田島の蚕種のイタリア直輸出に協力し、
イタリア行きの際には送別会も催した。
 火を使って室内を温め、蚕の成長を早めた「温暖育」に対し、
弥平が確立した「清涼育」は、
できるだけ自然の状態で育てるため
丈夫な蚕が育つとされた。
換気用のやぐらを載せた建築様式は、

近代養蚕農家の原型として全国に広まった。

知恵の輪がやっとキャラメル状になる  山本早苗



【桐生明治館(桐生市)】

もともとは「群馬県衛生所併設医学校」として、
明冶11年、楫取素彦が県令を務めていた県庁前に建てられた。
和風建築に、洋風装飾を施した擬洋風建築で、
のちに女学校に転用され、相生村役場として移築された。

柚子を添えるとイケメンになるサンマ



【群馬県庁 昭和庁舎】

楫取素彦県令時代、群馬県庁が高崎から前橋城跡に移されて以来、
この場所で県政が営まれてきた。
昭和3年に建設された昭和庁舎は、
80年以上の永きにわたり
県民に親しまれてきた。

昭和初期の典型的な洋風建築物で当時としては、
関東近県で最も先進的な建築技術を駆使した建造物である。

呆然を残して今日の海青い  徳山泰子

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