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川柳的逍遥 人の世の一家言
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揺れる灯は終着駅か狐火か  新家完司                    

       
      涙袖帖     久坂が文(美和)に出した手紙                                  
「再婚」

明治14年1月30日の朝、

中風、今で言う脳血管障害に胸膜炎を併発して、

楫取の妻・寿は帰らぬ人となりました。

その死に様は、口を漱いで清め、髪に櫛を入れて整えて、

居合わせた親族や親しい人、看護してくださった肉親に、

それぞれ厚く礼を述べて、傍らの人に助けられて、

起き上がって、座って、合掌して、声を出して念仏を唱えながら、

往生を遂げた、といいます。 

凛としたという表現を超えた人の最期だったと聞きます。
                       (楫取子孫の談より)
泣くよりもはしゃいで見せるのが哀し  竹内いそこ

楫取素彦寿が前橋に住むようになってからは、

美和は寿の看病や公務で忙しい楫取家の家政のために、

たびたび滞在していた。

素彦が亡き妻と自分を支えてくれた美和に、

「側にいて欲しい」

と願うようになったのは、いつごろからだろうか。

素彦からの求婚に美和は迷う。

「女は夫に生涯貞節をもって仕えなければならない」とした

兄・松陰の言葉と亡夫・玄瑞の面影が幾度となく甦ったはずである。

まなうらに揺れる生家の秋桜  徳山泰子

 
  美和の母・瀧

そんな美和の背中を押したのは、母のであった。

美和は「貞女二夫にまみえず」と松陰の言葉を守り、断りつづけた。

だが母は、一生懸命に説いた。

「再婚は亡くなった夫の久坂や兄の松陰、姉の寿の願いであろう」

と、それから暫くして、美和からの素彦への返事は、

「玄瑞との思い出の手紙を持参して嫁ぐことを許してくれるならば」

であった。

美和には老いた母を安心させたい気持ちもあったのだろう。

寿の死から2年余り後の明治16年、2人は再婚した。

素彦55歳、美和41歳。

切ないを方程式で解いてみる  佐藤美はる

 
  楫取素彦と美和


楫取は寿を偲んで菩提を篤く弔い、

また美和も、ずっと玄瑞からの手紙を大事にしていた。

亡くした連れ合いを思う相手の気持ちを、

お互いが理解しての再婚であった。

楫取は美和が大切にする玄瑞からの手紙21通を家の宝とし、

巻物にして『涙袖帖』と名付け、子々孫々に伝えることにした。

夫婦仲は睦まじく、明治30年には夫婦ともに

明治天皇の第10女・貞宮の養育に携わったこともあった。

晩年は小田村氏ゆかりの三田尻(防府)で穏やかに暮らし、

大正の世を迎えている。

掴めそうで掴めない君とジュンサイ  田口和代

 
    東京日本橋

話は変わります。

「楫取が歴史上の人物になれなかった理由」

山口県に行ったら今でも、「松陰先生」と呼ばねば、

叱られてしまうほど、吉田松陰は県民に崇敬されている。

「明治維新」という、日本革命の原点だからなのだろう。

また久坂玄瑞高杉晋作木戸孝允も同じように慕われ知名度が高い。

それに対して、早世した彼らのあとを継いだ楫取素彦は、

今回のドラマを見るまで、ほとんど知る人のない存在であった。

しかし、数々の楫取の果たしてきた業績を振り返り、

玄瑞や晋作や木戸らと比較しても、

何の遜色のない実績を残している楫取である。

にも関わらず、歴史の隅に埋もれてしまったのは、何故なのだろう。

ままならぬ世に栗の毬持ち歩く  佐藤正昭 

それは、おそらく、戦後の歴史家たちが、階級闘争史観で

日本史を描いてきたことに起因する。

彼らに言わせれば明治の日本は天皇絶対主義政権で、

封建制を半分のこしたままの社会であった。

つまり、階級闘争を経ないまま、不十分な革命であり、

暗黒の「明治憲法下の国家体制」だったと、

マルクスの唯物論的歴史学をもって分析した結果である。

『歴史は概して、力のある少数者が動かしてきた。

   戦争とか平和とか、人類に大きな影響を及ぼす事件は、

   最終的には、少数の関係者の決定や不決定で起こることが多い』
                                                                                          (マルクス)

大局的に「明治維新」であり「明冶新政府」なのであり、

「中央」なのである。

そして、それを決定づけた「主役は、誰か」なのである。

戒律の深さへ人間が沈む  平山繁夫

 
   板垣退助遭難の図

板垣退助は、遊説中に刺客に襲われたとき、

「板垣死すとも自由は死せず」と名言を吐いたが、
単に負傷しただけで命に別状はなかった。

例えば、ラストサムライが消えた西南戦争の歴史を描くに当って、

言論による「自由民権運動」を高く評価するように……。

楫取の活躍は、闇に葬られたのである。

何故ならば、県令として赴任した楫取は、職務上、

自由民権運動の抑圧者という立場に立つことになった。

楫取自身も、群馬県令当時起きた「群馬事件」で、

自由党と対立している。

こういう流れの中で、

群馬県を「養蚕県」にしたとか、「教育県」にしたとか、

という功績があっても、埋没してしまったのである。

とくに、当時の群馬県は、

政府の言うことを聞かず、知育・徳育の普及も十分ではなく、

風紀上の問題もある「難治県」といわれていたことは、

以前に述べたた通りである。

混沌の世界ひじきのもどし汁  藤本鈴菜

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