川柳的逍遥 人の世の一家言
ありったけの刃並べる続柄 酒井かがり
「龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)の舟」
寛弘5(1008)一条天皇を土御門邸は迎えるにあたり、新造の船を
検分する道長。 中大兄皇子(天智天皇)と共に「乙巳の変」から「大化の改新」に至る
諸改革に携わった中臣鎌足は、その功績を称えられ、天智天皇から藤原 朝臣姓を与えられた。ここに「藤原氏」が誕生した。 藤原道長が生れる200年ほど前のことである。
その後、鎌足の息子・藤原不比等が子どもたちの代に南家・北家・式家・ 京家の四つの家系に分けた。 なかでも、北家は当時、最も勢いがあり代々、摂政や関白をはじめ高位 の官職を独占する家柄である。 袋綴じからゆっくりと南風 くんじろう
藤原氏家系図 紫式部ー藤原道長の出世街道
藤 原 道 長
藤原道長は、康保3年(966)藤原氏北家で摂政・関白を務めた藤原 兼家の五男として生まれた。 幼い頃から豪胆な性格で、判断力にも優れていたが、常に下に見ていた 兄・藤原道隆、藤原道兼に肝試しで勝ったという逸話をのこしている。 そして、何かにつけて道長を助けたのが、姉の詮子(せんし)だった。
詮子は円融天皇の妃になり、のちに一条天皇となる皇子を生む。
道長の父・兼家は、兄の兼通(かねみち)が、関白になっていて関白に
はなれず、兼通が病気で死んだ時にも、関白の座は、従兄弟の頼忠に回
った。 たまりかねた兼家は、色々と手を回して、詮子が生んだ皇子を幼いまま
に一条天皇として即位させ、やっと摂政・関白の座を得て、実権を握る
ことができた。 このお蔭で道長も兄たちとともに朝廷の政治に携わるようになった。
道長21歳のときである。
家系から外れたとこで咲いている 笠嶋恵美子
やがて父が死んで長兄の道隆が関白になる。
道長が高い位につくのは先の遠い話だった。
ところが、正暦6年(995)の感染症 の流行で、貴族数名と兄たちは、
次々に死亡していく。 次はだれが関白になるのだろうか-----?
道隆の嫡男・伊周(これちか)か それとも道長か-----?
運の良さと姉の詮子の後ろ盾もあって、長徳2年(996)に道長は、
「左大臣」に任命された。 一時は、「摂政 ・太政大臣」にもなったが、「関白」は辞退した。 道長の地位は、関白と同じようなものと判断したからである。 また、左大臣は、摂政・関白より位は下だが、政治を操作できる。
ということで道長は、実力の発揮できる左大臣を止めなかった。 関白になった父の兼家でも、右大臣どまり。
まさに道長は、政治の中心に座ったのである。 道長31歳の満願であった。 あと一枚めくればきっと喜望峰 宮井元伸
イケメンで女性にもてた伊周は、光源氏のモデルだった。
登場する人物の個性を表現するうえで、紫式部は主人公の光源氏に あえて様々な人物像を盛り込んだ、伊周はそのうちの1人である。
甥の藤原伊周は、これに焦った。
伊周は、道長の長兄・道隆と才女として知られる高階貴子の嫡男として
生まれ、道長の8歳年下の甥であり、道長最大のライバルであった。
道長の兄であり、伊周の父である道隆は、摂政に就いて38歳で権力を
握ると、女御として一条天皇のもとに入内していた長女の定子(ていし) (伊周の実妹)を強引とはいえ中宮にしている。 のちにも触れるが、定子の教育係が清少納言である。 伊周は、道長と比べて何も劣るところはない。
道長の急激な昇進に焦る伊周は、自分に有利になるように事件を企てた。
「花山院闘乱事件」というものである。
が、道長はすかさず伊周の罪を咎めて、九州の大宰府へ流した。
出し抜いて四月の馬鹿という眺め 岩田多佳子
自分の座る椅子が落着いた道長は、一度は大宰府に追いやった伊周を、
1年後には平安京に戻してやっている。
――相手の力を失わせておいて、あとは自分の味方にしてしまう――
これが道長のやりかたなのだ。
菅原氏や源氏など、他の貴族を凌いだ藤原氏、その藤原氏の中の北家、
同じ北家でも、誰が実力者になるか……。
こうした争いの中で道長は、巧みに政権を握っていった。
知らんけどコンセンサスと言うとんで 飯島章友
道長の姉・詮子が天皇の妃になったように、代々の藤原氏は、皇室と深
い繋がりを結ぶことで、その地位を固めてきた。 道長もまた同じように、まず長女の彰子(しょうし)が12歳になると、
一条天皇の妃にした。 一条天皇には、すでに道隆の長女・定子が妃にいたが、天皇に二人目の
妃を押しつけてしまった。 宮廷に睨みのきく道長ゆえに、できたことである。
のちに、この彰子が生んだ皇子たちが、後一条天皇、後朱雀天皇になる。
すなわち道長は、天皇の祖父となり、天皇と深い繋がりができ、政治の
頂点にたち、その権力は揺るぎないものになった。 偏差値は別格だった人の今 井上恵津子
藤原道長の邸宅の東三条殿 (想像イラスト)
寝殿造邸宅の典型といわれる。
道長の野心は止まらない。
つぎに一条天皇が亡くなり、三条天皇が即位すると、道長は次女・妍子
(けんし)を天皇の妃に推した。 継いで後一条天皇が、即位すると三女・威子(いし)を妃にしてしまう。
さらに、後朱雀天皇が即位すると四女・嬉子(きし)を妃にした。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば」
道長の三女・威子が後一条天皇の后となった日に道長が詠んだ歌である。
<自分には、1つとして叶えられなものはない。満月のようにすべてが
満たされており、この世は自分の為だと思われる>
と、誇らしげに告げたのである。
マカロンな午後を奏でるハーブティー 宮井いずみ
弓 争 い 「episode」 「藤原道長、藤原伊周との弓争い」
道長が20代半ばのある日。
伊周は父の藤原道隆の屋敷で、人を集めて弓を射ていた。
そこへ道隆の弟で伊周の叔父の道長がやって来た。
道長は年齢はうえだが、官位は伊周よりも下である。
そこで2人は「弓争いをする」ことになった。
まず道長が矢を射た。続いて伊周が射た。結果は道長が勝利した。
父・道隆と道隆に仕える人々は2回の延長を申込んだ。
内心穏やかではなかった道長だったが、その提案を受けた。
そもそもは微妙な空気の斜め読み 三好光明
仕切り直しで道長が、小さく呟いた。
「自分の家から帝・后が出るなら、この矢よ、当たれ」
と、言って矢を放つと、その矢は見事真ん中に的中。
次の伊周は、的外れの場所に射て、父・道隆は青くなってしまう。
二矢目に入って道長は、またさっきより大きめに呟いて、
「私が摂政・関白になるはずなら、この矢よ、当たれ」
と、言って矢を放つと、また真ん中に的中した。
道隆は息子・伊周に「これ以上射るな」と止めて場は白けたという。
歴史物語「大鏡」ゟ
さる件で弓道部から狙われる 筒井祥文 万力に挟んで夢を逃がさない 清水すみれ
後宮の中ー寝殿造の内部空間
藤壺の庭に咲く藤を眺めて語り歌う、中宮と女房たち。
寝殿造りの建築は夏向きにできており、風通しがよく開放的である。 気候が温和なため自然とこの調和を大切にして、壁で遮断崇ることが
少なく、間仕切りとして唐紙障子や壁代を使い、風や人目を遮るために
屏風や几帳を立てた。
白木の建物と黒漆塗りの調度、柔和で優美な色調を漂わす大和絵屏風
や几帳。彼女たちの衣服や調度などの装いの総合的な組み合わせを、
装束と呼んだ。
ゆったりと振り子の刻む時にいる 山口美千代 源氏物語の舞台となるのは、およそ千年前の平安京である。 「泣くよウグイス平安京」知られるように794年(延暦13)桓武天皇
により開かれた平安京は、唐の都・長安を手本に、縦横にはしる道路で 碁盤のように区切られていた。 北側中央には、帝の住まい・内裏や政治の中心が置かれた大内裏があり、
南北にはしる朱雀大路をメインストリートに、東側の左京、西側の右京 に分けられている。 なお、左京の北側は、多くの貴人たちの高級邸が並んでいた。
花の下行儀いい葉もご覧あれ 竹内良子
紫式部ー源氏物語の世界へ--① 生活編
「雅と高貴の邸・後宮へ」 帝が日常生活をする建物が清涼殿。
寝室にあたる「夜の御殿」は、その北部分にあり、背後には、七殿五舎
の後宮が広がっている。 後宮の殿舎は、それぞれ壺(中庭)に植えられた庭木に因んで「桐壺」
や「藤壺」などと呼ばれ、そこに住むお妃は「桐壺更衣」「藤壺女御」 と呼び倣わされていた。 殿舎の位置は、主にお妃の身分によって決まり、例えば、桐壺更衣に
与えられたのは、清涼殿から一番遠い淑景舎(しげいさ)である。 風向きを教えてあげるから触れて 真島久美子
几帳や屏風、調度品のおかれる寝殿造りのインテリア
「貴族の邸」
貴族の邸は廊下はもちろん、母屋もすべてフローリングで、固定された
間仕切りが少ないシンプルなもの。 移動可能な几帳や屏風で広い空間を仕切って、机や厨子などを置いて、
ワンルーム感覚でアレンジをした。 慶弔や季節の彩りを表すために、室内を調度で飾ることを当時から、
「しつらい」と呼び、例えば、お産のときには、産室の調度を白一色に 統一したり、来客時には、濡れ縁の簀子が屏風などで仕切って、応接間 に早変わりした。 蓮の露出来損ないの無い丸さ 寺田天海
源氏物語画帖 幻
「格子まいる」
格子は黒塗りの木を縦横に組んで廂(ひさし)の周りに設けた建具で、
朝に掛け金で吊り上げ、夜下ろすことを「格子まいる」といい、朝夕の
女中の仕事だった。 源氏物語の中で六条御息所が、上げられた格子から源氏が見送るシーン
など、格子が効果的に使われている。 振り幅の広い女のヘチマ水 山本早苗
平安貴族の寝具
「質素な平安貴族の寝具」 当時の掛布団には、衾(ふすま)と呼ばれる長方形のものと、襟と袖の
ついた直垂衾(ひたたれふすま)の2種類あった。 しかし、布団は高価な貴重品で、誰もが使えるものではなかった。
それではどうしていたか、その日に身につけていた衣服を脱ぎ、布団代
わりに掛けて寝ていた。 一夜をともにした男女が別れ際に、上に掛けた衣服をまた身にまとって
別れる「後朝の別れ」も、そんな生活習慣から生まれたものだった。 悲しみの分だけ笑顔上手くなる 井口なるあき
藤原道長が33歳~56歳までの間に書いた日記。
具註暦(ぐちゅうれき)という毎日の運勢が書かれた暦の、行間の余白 に日記が書かれている。 「この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」
「宮廷勤めの男たちの朝」
宮廷に勤める男たちの朝は、それはそれは忙しいものだった。
起きると、まず自分の属星(ぞくしょう)の名号を7回唱える。
これは生まれた年と北斗七星の名を結びつけた一種の呪文で、子年生ま
れは貧狼星(とんろうせい)、辰年生まれは廉貞星(れんていせい)と、 いったように定められていた。 その後、鏡を見て人相を占い、その日の運勢を確かめ、歯を磨くなどを
して身だしなみを整え、朝食の前には、昨日の出来事を日記に認めるの も日課だった。 手相みる易者人相悪かった 青木ゆきみ
「運勢の悪い日は物忌みでお休み」
物忌みという言葉は、源氏物語にしばしば登場する。
運勢の悪い日などに「物忌」と書いた札を家の外にかかげ、家に籠って
人との面会を慎む。「忌む」というのは、災いに近づかないようタブー となる行いを慎むこと。 物忌みの日は、官中に出仕せず自宅で過すのだが、年に20~70日も
あったというから、欠勤や逢引きのよい口実に利用されることもあった ようだ。 お仏飯差し上げるにもどっこいしょ 新家完司
牛車に乗って
「外出は牛車に乗って大路小路をゆったりと」 やんごとない貴族たちの場合、自分の足で歩くということは、ほとんど
なく普段の移動には、もっぱら車や輿、馬などを利用した。 なかでも「牛車」は、最もポピュラーな乗り物で、身分や格式に応じた
数多くの種類があった。
牛車への乗り降りは、まず繋いでいる牛を切り離し、後ろから乗って、
前から降りる。
定員は4人で、内側に向かい合って座る、座席配置。
牛を誘導するドライバーの多くは、10代後半の牛飼童と呼ばれる少年
が担った。 ドア閉める音でもベンツだと分かる 髙杉 力
外出する女性
「徒歩の外出はカジュアル・ファッションで」 女のひとり歩きは、危険なこと。
身分の高い女性は牛車で移動したので、徒歩で外出することはほとんど
ない。が、それほど身分の高くない女性は、壺装束を身にまとって出か けた。歩きやすいように髪を小袖に入れ込み、裾が地面にひきずらない ように単衣や袿(うちき)を折りり上げた。 衣をすぼませ、折りはさむことから壺装束といい、肩から掛けた紅絹
(もみ)の帯は懸帯という。 ポケットの多い服着て忘れ物 ふじのひろし
「女房はカラーコーディネーター」
平安貴族の衣服は、重ねた衣の色目の美しさが、その人のセンスや美的
感覚を表した。 襲(かさね)の色目は約200種もあり、季節や場所、 年齢、好みなどから主人の衣服の色を宮仕えの女房たちが、コーディネ ートした。 たとえ一枚の衣であっても、表地と裏地の色彩がその時節にふさわしく
調和していなければならない。色目の知識と色彩のセンスがなければ、
女房の仕事は務まらなかったのだ。
売れるわけ無いからパリコレで着せる 板垣孝志
日本風・鏡
「鏡」 古来より、祭祀の道具として用いられ、帳台の中にかけて魔除けにする
など呪術的な意味合いもあった鏡。
平安時代の鏡は、銀や銅、鉄などの表面を磨いてつくられた。
八角形で、裏面には植物、鳥などの装飾が施され、平安時代の始めまで
は、唐草や鳳凰など中国風デザインが主流だったが、鏡は、身だしなみ
には欠かせない大切な道具として、松や梅、秋草、鶴、千鳥など日本風
の雅な絵柄へと変わった。 使う時は、鷺足の鏡台にかけ、使い終わったら鏡箱に収納した。
鏡からもらう晴れの日くもりの日 堀田英作
道勝法親王百人一首絵入り歌かるた
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
清少納言は、化粧品の鉛の毒に悩まされた一人だった。
40歳を過ぎる頃には、醜い鬼のような顔だったという。
「都で流行りの色白美人」
白粉で顔を塗りたてていた平安美人。
女性が化粧をするようになったのは、この時代からで、それ以前は、
健康的な素肌が美の条件だった。 寝殿造という採光の悪い建物で暮らすようになって、薄暗い中でも輝く
ような白い肌が求められたというわけで、白粉をぬる習慣がはじまった。 しかし、当時の白粉の原料には、鉛や水銀が入っており、肌が化粧焼け
したり、シワが増えたり…。 ひどい時は、その毒性で死ぬこともあったという。
当時は、美しくなるのも命がけ…。
大いなる大根のごときこころざし 佐藤正昭
平安時代のお風呂 「そこはかとない残り香が…」 衣類には香りを含ませ、部屋にも香を焚く貴族たちの暮らし。
入浴の機会が少ない平安時代。
香りがなくてはいられなかったのだろう。
おまけに邸内には、独立したトイレがなく、人々は部屋におまるを置き、
そこで用を足していたから、もとは唐様に倣った香りの文化が、舶来の
香料でオリジナルの香りを調合して、センスをしのばすといった、貴族
たちの嗜みになっていた。 失いたくないもの壊したいもの 下谷憲子
小野小町ー佐竹本三十六歌仙
プレイボーイ在原業平をはじめ、通いつめて命を落した深草少将など、
多くの男性を魅了した絶世の美女・小野小町は、おそらく容貌とともに 美意識に優れたものがあったものと思われる。 「センスくらべ」
平安時代を代表する女性の装束といえば、なんといっても十二単。
多い場合には、20枚も重ねて着ることもあったという。
重さにすると10㌔以上に…しとやかに、ゆったりとした所作に
ならざるを得なかっただろう。 そもそもこの時代に、十二単の文化が花開いたのは、後宮の女性たちが、
ライバルに負けまいと、衣装の美しさを競い合った結果だった。 襲(かさね)の色合わせや模様、生地を季節やしきたりに合わせて選ぶ
センスも、平安美女の条件だった。 まだ誰も見たことのない色で咲く 河村啓子
若紫の髪を削ぐ光源氏 「黒髪を切るとき」
信仰心の篤かった当時の貴族の女性たち。その彼女たちが、
頼みとする夫や愛する子どもと死に別れたとき、重い病気の
回復を祈願するとき、或いは自身が罪悪感に苛まれるとき
など、大切な長い黒髪を切って出家した。切るといっても、
背中のあたりで切り揃えるだけで、渋い色の袿を重ね、
法衣としての袈裟を上から掛けた。
ほらごらんあかんが頭掻いている 太下和子
松椿蒔絵手箱 (国宝)
「くしけずるほどに、より美しい黒髪」
当時、美しい髪を保つためには、洗髪より櫛で髪の汚れを落とすことが
多かったよう。櫛はいくつかの種類があり、ふだん髪をとく櫛には、歯 の粗い「解櫛」、髪にゆする をつけて髪を解く歯の細かい「梳櫛」が あったほか、髪に挿して飾りにする「挿櫛」などが使われた。櫛は象牙、 黄楊、紫檀などで作られ、螺鈿で装飾をした豪華なものも。
櫛は櫛笥(くしげ)に収納し、そこには櫛のほかに鋏や耳かき、髪掻、
櫛払などの身だしなみの道具一式を入れていた。
ときめきを運んでくれたのは光 伴 よしお
源氏物語絵巻東屋一髪を梳く女性
「美しい髪の秘訣」
豊かで長い黒髪を保つには、シャンプーや整髪は欠かせない。 しかし、当時のシャンプーは「ゆする」と呼ばれる米のとぎ汁や、強飯
を蒸した後の湯。養毛に効果があると信じられて、髪につけて梳くのが いつもの手入れだった。なお入浴は、日柄を選んで5日に一度で、軽い 朝食をすませた後のことだったとか。 入浴といっても、浴槽につかるわけではなく、湯浴み程度のものだった
ようだ。 指先の痺れもたまに撫でておく 靏田寿子
長い黒髪の平安女性
「長い黒髪が美女の条件」
当時は、豊かで長い黒髪が「美女」の絶対条件として、貴族の男たちに
持て囃された。
藤原師尹(もろただ)の娘・芳子は、美人の誉れ高い女性で、黒髪の長
さは何と5~6㍍ともいわれ、簀子から牛車に乗ると、黒髪は廊下を越
してなお、母屋の柱に絡んでいたという。 芳子は、村上天皇の女御となって寵愛を受けた。
また『古今和歌集』1100首を暗誦したと伝えられ、まさに才色兼備
のスーパーウーマンだった。
むら雲の嗚呼の部分のうすべにの 宮井いずみ ラの音が続くここでもあそこでも 宮井いずみ
夜の王朝政治
10世紀ころまで政治は、朝に行われていたが、夜の公事が増えてきた
ことと。執政の場が天皇の日常居所が内裏に移ったため、会議も天皇の 生活に合わせて清涼殿や陣座、時には、後宮の殿舎で夜に行われた。 図は、仁寿殿における献詩披講後の宴で松明をかかげるのは近衛の舎人
たち。
まもなくはじまるドラマ「紫式部の光る君へ」の前に、--------紫式部が
生きた時代へ、画像とともにタイムスリップiいたしましょう。 紫式部が生きた時代━
平安時代の貴族たちは、官位があがるたびに給料も上がり、大臣クラス
では、今のお金に換算して年収が1億円ほどもあったという。 有力な貴族たちは大きな邸に住み、豪華な衣服を着、贅沢な食事、また
占いや迷信を信じ、祟りを怖れた。 陣座 座から東へ渡り廊下を行くと紫宸殿につながる。この紫宸殿に近いこと から9世紀半ば以降、陣座は、公暁審議の場となった。 さらに正月の朝賀にはじまり、追儺(ついな)で終わる宴や年中行事は、
46回も行われた。いつ政治をしているのだろうと勘ぐってしまうほど。 また余暇には、恋に風雅にと身をやつした…時代なのであります。 今日もまたあやとりしりとり三輪車 和田洋子
光る君へー王朝貴族のライフスタイル
源氏物語図屏風 断簡
① 平安美人とは 光源氏のハートを射止めた平安美人の多くは、眉毛を抜いて、白粉を塗
りたて、ぽってりした眉を描き、歯にはお歯黒、口元にはぽちっと紅を さし、濡れたような黒髪の持ち主。ほの暗い寝殿造の室内で、ほんのり 浮かび上がり、貴公子の心をぐっと惹きつけて恋を射止める。 恋 の 舞 台
② 雅な恋の舞台 殿方が愛しい姫の寝所に入るまで、長い道のりがある。
文や和歌で心を開かせ、お付きの女房を懐柔して、当時の住宅である 寝殿造りの簀子(すのこ)から廂(ひさし)、そして母屋へと日ごと に近づき、やっとお簾のなかに入ることを許された。 少し時間下さい胸をうずめます 太田のりこ
貴族の食事 考証・樋口清之 ③ てんこ盛りの御馳走に
食膳には、蒸したこわ飯をこんもりと高盛にして、副菜も品数と量がた
っぷり。宴の食事ほどその傾向は強く、おもてなしとして並べられた。 はたして美味しかったのだろうか……少しの疑問も。
興車図考附図 ④ 恋の本気に競い合う車 上流貴族ともなれば、カスタムメイドの牛車を多数持ち、見栄と個性に
拘ったその造りは「動く寝殿造」と評されるほど。 牛車を見れば、その持ち主の身分やセンスが分った。 一つの恋に貴族も物入りで大変だったのである。 錆止めを塗って真面目に生きてます 谷口 義
催馬楽(さいばら) 宴会では杯を片手に詩歌を吟じ、催馬楽(平安時代の宴歌)を歌い踊った。 ⑤ 婿取りの大わらわ
新枕から数えて3日目の夜、将来有望な婿を得た舅は、盛大な宴を開い
て婿のお披露目をする。 妻側の縁者や知人たちと婿とが、一緒に膳を囲み、婿側は、両親は参列 しないが、婿の衣装、結婚費用などすべて、妻の家が用意した。 娘を持つ親は、今も昔も変わらず大変なのだ。 住吉物語絵巻
⑥ 将を射んと欲すれば… 姫君の評判を高めるのも、姫君に届く恋文をまず受け取るのも女房。
恋文の代筆までもした。
男君もお目当ての姫君の女房に贈り物をしたり、かりそめの恋をしかけ たり、恋の行方は女房次第だった。 重力を受け止めきれません右手 森井克子
⑦ 父も歩いた恋の路 まだ明けやらぬころ、愛の余韻あふれる「後朝(きぬぎぬ)の別れ」の
時が訪れる。 男君は家に帰り着き、女君へ恋文を出す風習があった。 そして、その文を、女君の父親が読むこともあった。
やはりこの時代の父親も、娘の恋の行方が気になったのである。 落語家と姫には扇が必需品
⑧ 扇の役目 深窓の姫君は、見知らぬ男性に見られまいと、扇で顔を隠した。
その仕草がまた、男君の心をいっそう惹きつけた。
恥ずかしいやら作戦やらで使う扇は、当時の姫君の必需品だった。 夢のつづき見たくて飛ばすシャボン玉 柴辻踈星
源氏物語絵帖 末摘花
⑨ 垣間見てから------恋心 美しい姫君が住むという噂に惹かれて、姫君の邸を訪れ噂を確かめたい、
またお近づきになりたいと、垣根の間から覗き見する。 そこから恋しい恋しいが始まる。紫式部はそれを「末摘花」と名付けた。 医 心 方 ⑩ 医は仁術 日本最古の医学書に『医心方』という恋の手解きを書いた本がある。
そこには男女どちらかに「苦痛をともなう愛し方は邪」とされ
「し過ぎも しなさ過ぎ」もよくないと説き、さらに、暑い日寒い日、 悪天候の時、酔っている時、満腹の時、喜怒哀楽の激しい時は避けよ、 と書いてある。どの邸にも教本として一冊はあった。 自分でもしている父の悪い癖 広瀬勝博
「花の章ー風雅を楽しむ」
葵の上と光源氏 ① 姫君たちは、花の名にちなんで名づけられた。
桐壺、藤壺、葵の上、夕顔、末摘花、玉鬘--------紫式部の命名した姫君
たちの名には、花の名を冠したものが多い。 紫式部は、花好きだったのだろう。 源氏物語色紙絵 若紫
② 管絃の名手は憧れの的 情趣が細やかで深く、表現力が豊かで、洗練された美意識がそなわり、
おまけに美しい容姿-------それが、王朝人の理想の姿だったという。 芸事を行うのは、いつの世も変わらないもので、琴や笛などの
「管絃の才」に長けている人は、憧れの的だった。 秋澄むや若紫という少女 徳山泰子
源氏物語絵巻 柏木三
③ 季節を装う光の君
光源氏が20歳の春。花の宴に表が白、裏が紅の桜襲(さくらがさね)
の薄手の唐織物を装う源氏はひときわ美しく輝いていた。 それから28年後、源氏が身につけるのは、同じ桜襲でも、色味の薄い 装い。渋くダンディーな貴人の姿だった。 源氏物語画帖 夕顔
④ あるがままの花を愛して
寝殿造りの前栽で四季の草花を楽しんでいる風情が、源氏絵によく描か
れている。平安貴族たちは、自然にあるがままの花、咲くがままの花を 美しいとしていた。 もう一品菜の花添える春うらら 津田照子
雪 月 花
⑤ 日本の美意識 冬の月光に雪が照り映えた風情の中で、この世にいない理想の女性、
藤壺との-------どうしようもない隔たりを感じる源氏の姿を「朝顔」 の帖に見る。 日本人独特の「雪月花」の美意識は、光源氏の時代から広まった。
平安時代の風呂事情 ⑥ 風呂へ行くのは吉日に
王朝貴族の縁起かつぎは、入浴も例外ではない。
源氏物語の少し前に記された「九条流の生活作法の書」に、 入浴は5日に一度、さらに、日を選んで入浴するようにとある。 ほかにも洗髪から爪切りまで。タブーの日があったという。 過ぎた日々時々思う寂しがり 荒井加寿
ボスの物忌みにかこつけて ⑦ ズンドコ貴族 1,帝の御物忌みの夜、男子貴族は内裏につめて宿直がお役目。 その夜、退屈しのぎに「雨夜の品定め」のように女性談議に花を咲かせ たり、女房の部屋を訪れたり……。 物忌みを口実に--------- 2,人によっては年平均80日、ひどい場合は、1年の3分の1があた った。 その期間はひたすら謹慎。しかし、物忌みを口実に欠勤したり、 物忌み札を提げて意にそまぬ相手の訪問を、方違えにことよせて愛人宅 に居座ったり、という人もいた。 ほがらかが一番たとえお通夜でも 青砥たか子 陰陽師の活躍 安倍晴明がいた ⑧ 現代では想像もつかないほど平安時代は、「祟りやタブー」が人々
の生活や意識を縛っていた。物の怪がとり憑き、都での百鬼夜行が信じ られていた時代である。 したがって何事につけ、人々はその吉兆をま ず占い、頼りとしたのが陰陽師だった。 『宇治拾遺物語』
⑨ 宇治拾遺物語 鎌倉前期の説話物語集である。
平安朝の宮廷や貴族に関する説話も多く収められており、編者は不明だ。
が、文体が王朝和文脈であり、貴族階級に属する人がかかわったものと 考えられる。内容は愚かしい人間とそのかもし出す事件を寛容に愛情を もって見守り、軽妙に描出し、健康な「笑」の文学である。 平安時代の面白い人間模様もここから探すことが出来るかもしれない。 ※ 収録されている内容は、大別して次の三種に分けられる。 世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
民間伝承(「雀報恩の事」など)
仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)
彗星の尾からしじまへ散る花弁 くんじろう 葛飾北斎画 富嶽三十六景 凱風快晴 令和六年元旦 江戸の正月 元日の朝はまばらに夜が明ける 江戸川柳
約束をしているわけではないが、今年も正月はやってきた。
だがしかし、何はともあれ、お正月、まずはおめでたい。
男の子は凧揚げ、駒まわし。
女の子は追い羽根で裏長屋にも一陽来復。
昨日の鬼ー借金取りが、おめでとうございますと礼に来る。
年礼をうけて今のは誰だった 江戸川柳
魚河岸の初売りが二日、職人もこの日を仕事始めにした。
昔の働く人は正月は一日だけしか休まない。
勤勉なものである。
初荷、初夢、武士の乗馬初めと初ずくめの二日うちで、
一番威勢がいいのが町火消の出初め、各町の鳶頭が皮羽織、
腹掛け、半纏も新しく、いろは四十八組ずらりと揃う華やかさ、
男を競うはしご乗り。
鳥追い、獅子舞い、猿回し、漫才とお江戸の春の賑やかさ。
ついうかうかと七草が来て、ようやく門松を取り払う。
おぶさった奴が養う猿回し 江戸川柳
十一日が蔵びらき、小正月が十五日。
十六日は丁稚小僧の藪入りの日。
お正月気分は、ここらあたりでおしまい。
あとはまた、稼ぐに追いつく貧乏なしと、それぞれが家業に精を出す
日常になある。
門松は、冥土の旅の一里塚というが、こんな正月をあと何日繰り返す
のかと、ひょいと考えて、貧乏暮らしが嫌になる夜ふけ。 火の用心さっさりましょうー。
生酔は御慶(ぎょけい)にふしをつけて言い 江戸川柳 さよならは空耳だった気もします 美馬りゅうこ
神として描かれた徳川家康画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)
「大阪の陣が終わって……」
「向後、自分の力で戦は起こさせない」
―そう強く思った家康は元号を変えた。
慶長から「元和」-------「元ははじめ。和は平和」。
近隣の外国とは、善隣友好姿勢、政治の模範となる君臣の言行を集めた
中国の本の翻訳命令を出したり、「源氏物語」を公家衆に配ったり…、 子や孫には自分の持っている本を惜しみなく配ったり……。
蟻踏んで悔やみつづける足の裏 森井克子
家康ー神になった家康
「東照社縁起絵巻」巻三第二段
元和2年4月17日、徳川家康75歳で薨去。
遺言により久能山へと埋葬される。 「鷹狩りから発病する」
そんなこんなで、明けて元和2(1616)年の正月21日。
家康は駿府城にほど近い田中へ鷹狩りに出た。 家康は、その日は駿府城に戻らずに、その田中城で、ある人物と夕食を
摂った。丁度、京から当代一の豪商、家康の経済ブレーン、蛸薬師の呉 服商・茶屋四郎次郎清次が来ていた。 朱印船貿易などの秘密の会話を交わしたあと、家康は、茶屋四郎次郎に
「最近上方では、なにか珍しいことはないか」と、訊ねた。
茶屋は 「あります。最近京や大坂では、鯛をカヤの油で揚げて、その上にニラ
を擂りかけたものが流行っており、わたしも頂きましたが、大変よい
風味でした」と、答えた。 折よく榊原清久から能浜の鯛が献上されたので、家康はすぐそのように
調理を命じ食した。 「あれはうまかったが、ちと食いすぎたな」と、
満足気に食後感を述べていたが、その夜から、腹痛に苦しみ、駿府城に 戻って、御殿医の興庵法印(津田秀征)の診察を受けいれ療養に入った。 一旦は容態が落着いたようにみえたが、75歳という年齢の所為もあり、
ぶりかえし再度、苦痛にさいなまれ、順調に回復とはいかなかった。 エンドマークつけて肩の力抜く 吉岡 民
家康の病状は日ごと悪化していく。2月の末頃、本多正純が興庵法印に
調合させた薬を飲むと、家康は、盥を引き寄せると全部吐いてしまった。
そこで家康は、傍に控えていた将軍・秀忠に
「今回は私の死期がすでにやってきており、天が定めた寿命はここで
最期だ。どうして草の根や木の皮でできた薬などで、うまく寿命を
止めておくことなどができようか。従って、最初から薬は飲まずに おこうと思っていたが、無理に勧められるので、できるだけ飲もう としたが、このように無意味だ。もはや薬は飲むまい」 その後、家康は決して薬は飲まず、側におくこともしなかった。
あちこちにある文句言いのスイッチ 中野六助
家康と対座する天海 秀忠とともにその場に控えていた南光坊天海僧正は、発言の許可を得て 「日本でも中国でも、非常に優れた英邁な君主は、あらかじめ、自らの
死期を決定して、自分の死後のことを前々から言い残しておくものです。 わたしも少し前からお側にいて、恐れ多くも、お言葉を承っております。 今回はとても、ご回復されるとも思えません」
と、言うと、将軍はただ涙にくれていた。
4月2、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を呼び、自らの死後の対応
を指示した。 弔問客用に落とし穴を掘る 井上一筒
「観古東錦 将軍家日光御社参之図」 東洲勝月画
江戸時代、歴代将軍は大勢の供ともを引き連れて、日光東照宮に参拝し、 家康の霊廟に詣でた。 日光東照宮の奥宮にある宝塔。 通説では、家康の遺骸はこの中に葬られているとされる。
「家康、久能山に葬ることを遺命する」
4月17日、家康の病状がだんだんと重くなった時に、本多正純を呼び
「将軍家に早く来るように」と、言ったが、「それには及ばない…」と、
すぐに取り消し、さらに続けて 「わたしが死んだ後も、武芸に関しては、少しも忘れてはいけない、と 申し上げよ」 の言葉を最後に、榊原清久の膝を枕に冥府へ旅立っていった。 この清久は、清正の三男で、早くから家康の側近くに仕えて、その寵愛
は浅くなかったという。家康病中も日夜傍で看病し、様々の遺言を聞き 「わたしが死んだならば遺骸は久能山に納めるように。墓はこれこれと
するように、お前は末永くこの地を守って、わたしに生前と変わらず 仕えるように」と、言い置かれた。 この遺言で、榊原清久家は代々「駿州久能山惣御門番」を務めることに
なった。 生きてゆく重さ海月にある重さ 前中知栄
「家康、西国大名を憚り、その像を西向きにせしむる」
さらに家康は、
「東国の方面はおおよそ、譜代の者なので謀反の心があるとは、思われ ない。西国の方は、不安に思うので、わたしの像を西向きに立てて置 くように」と、 言い置き、あの三池の刀も、峰を西にむけて立てて置いたという。 「家康の辞世句」
先に行くあとに残るも同じこと 連れてゆけぬをわかれぞと思う
<先に亡くなるのも、後に亡くなるのも同じことだ。いずれみんな
あの世に行く。だから、私の後を追って死んだりしないように。 ここで一度別れよう>
永遠にさよならでもありがとう 福尾圭司
南光坊天海 金地院崇伝
「神号」
大御所家康を支えたブレーン中のブレーンといえば、金地院崇伝・南光
坊天海・林羅山の3人である。徳川幕府の諸体制は、この3人の頭の中 から生まれたといってもよい。 崇伝は、1608年(慶長13)家康に召し出された。
京都南禅寺の住持で、仏教界のエリートだった。外交文書の他、キリシ タン禁令、公家諸法度、武家諸法度や各寺院法度を起草している。 家康の信頼厚く、権勢を欲しいままにし「黒衣の宰相」と、呼ばれた。
南光坊天海については、家康は、
「残念なのは天海と相知るのがおそすぎることだ」とまで言っている。
宗教界で活躍し、政治の表面には出なかった。
あるとき天海は、家光の前で柿を賜り、食べ終わると種を懐に入れた。
「持ち帰って植えよう」と、いうのだ。家光は、 「僧正のような高齢の人が無益なこと」
と、言ったが、天海は
「一天四海をお治めになるかたは、そのような性急な考えをしてはなり
ません」と言い、数年後実った柿を山盛りにして家光に献じたという。 つまんで引っ張って引っ張ってつまむ 雨森茂樹
家康の死後、問題となったのは「神号」だった。
「明神」号を主張する金地院崇伝と「権現」号を主張する南光坊天海と
の間で激論になったが、秀忠による裁定で「権現」号に落ち着いた。 その後、幕府は朝廷に神号を奏請し、朝廷からは、「東照大権現、日本
大権現、威霊(いれい)大権現、東光大権現」の4つが示され、幕府は、 「東照大権現」を選び、家康の「神号」が決定した。 天海の弟子である胤海が記した書(1789年(寛政元・刊)に天海は、
家康の神号について、
「亡君豊国大明神のちかきためしを覚して…」
と、豊国大明神の悲惨な末路を引き合いに出し、「権現」号を主張した
と解明している。 メトロから炎は降りて来ましたか くんじろう
絢爛豪華な日光東照宮 「家康、もうひとつの遺言」 「わたしが死んだ後、将軍家(秀忠)は必ずわたしの廟所を威儀正しく
建造することだろうが、それは無用のことだ。子孫の末までも初代の 廟所を超えぬようにするためにも、わたしの廟所は簡素にせよ」 と、遺言した。秀忠はこれを聞いて
「先代ご自身にとっては謙譲の美徳であり、この志を受け取るべきだが、
つつましやかすぎるのもいかがか」 と、言い、おおよそ荘厳といえる程度におさえ廟所を完成させたが、
三代将軍・家光は、その遺言を破り1636年、祖父・家康が祀られる
日光東照宮の全面的な改築を命じた。 これにより、社殿の規模は大きくなり、その様式も、穏やかな和様から、
絢爛たる唐様へと変貌した。 凡人が心を乱す遺言書 靏田寿子 |
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茶助
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