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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ありったけの刃並べる続柄  酒井かがり






「龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)の舟」
寛弘5(1008)一条天皇を土御門邸は迎えるにあたり、新造の船を
検分する道長。


中大兄皇子(天智天皇)と共に「乙巳の変」から「大化の改新」に至る
諸改革に携わった中臣鎌足は、その功績を称えられ、天智天皇から藤原
朝臣姓を与えられた。ここに「藤原氏」が誕生した。
藤原道長が生れる200年ほど前のことである。
その後、鎌足の息子・藤原不比等が子どもたちの代に南家・北家・式家・
京家の四つの家系に分けた。
なかでも、北家は当時、最も勢いがあり代々、摂政や関白をはじめ高位
の官職を独占する家柄である。



袋綴じからゆっくりと南風  くんじろう






           藤原氏家系図




紫式部ー藤原道長の出世街道





          藤 原 道 長





 藤原道長は、康保3年(966)藤原氏北家で摂政・関白を務めた藤原
兼家の五男として生まれた。
幼い頃から豪胆な性格で、判断力にも優れていたが、常に下に見ていた
兄・藤原道隆、藤原道兼に肝試しで勝ったという逸話をのこしている。
そして、何かにつけて道長を助けたのが、姉の詮子(せんし)だった。
詮子は円融天皇の妃になり、のちに一条天皇となる皇子を生む。
道長の父・兼家は、兄の兼通(かねみち)が、関白になっていて関白に
はなれず、兼通が病気で死んだ時にも、関白の座は、従兄弟の頼忠に回
った。
たまりかねた兼家は、色々と手を回して、詮子が生んだ皇子を幼いまま
に一条天皇として即位させ、やっと摂政・関白の座を得て、実権を握る
ことができた。
このお蔭で道長も兄たちとともに朝廷の政治に携わるようになった。
道長21歳のときである。



家系から外れたとこで咲いている  笠嶋恵美子



やがて父が死んで長兄の道隆が関白になる。
道長が高い位につくのは先の遠い話だった。
ところが、正暦6年(995)の感染症 の流行で、貴族数名と兄たちは、
次々に死亡していく。
次はだれが関白になるのだろうか-----?
道隆の嫡男・伊周(これちか)か それとも道長か-----?
運の良さと姉の詮子の後ろ盾もあって、長徳2年(996)に道長は、
「左大臣」に任命された。
一時は、「摂政 ・太政大臣」にもなったが、「関白」は辞退した。
道長の地位は、関白と同じようなものと判断したからである。
また、左大臣は、摂政・関白より位は下だが、政治を操作できる。
ということで道長は、実力の発揮できる左大臣を止めなかった。
関白になった父の兼家でも、右大臣どまり。
まさに道長は、政治の中心に座ったのである。
道長31歳の満願であった。



あと一枚めくればきっと喜望峰  宮井元伸





イケメンで女性にもてた伊周は、光源氏のモデルだった。

登場する人物の個性を表現するうえで、紫式部は主人公の光源氏に
あえて様々な人物像を盛り込んだ、伊周はそのうちの1人である。



甥の藤原伊周は、これに焦った。
伊周は、道長の長兄・道隆と才女として知られる高階貴子の嫡男として
生まれ、道長の8歳年下の甥であり、道長最大のライバルであった。
道長の兄であり、伊周の父である道隆は、摂政に就いて38歳で権力を
握ると、女御として一条天皇のもとに入内していた長女の定子(ていし)
(伊周の実妹)を強引とはいえ中宮にしている。
のちにも触れるが、定子の教育係が清少納言である。
伊周は、道長と比べて何も劣るところはない。
道長の急激な昇進に焦る伊周は、自分に有利になるように事件を企てた。
「花山院闘乱事件」というものである。
が、道長はすかさず伊周の罪を咎めて、九州の大宰府へ流した。



出し抜いて四月の馬鹿という眺め  岩田多佳子



自分の座る椅子が落着いた道長は、一度は大宰府に追いやった伊周を、
1年後には平安京に戻してやっている。
――相手の力を失わせておいて、あとは自分の味方にしてしまう――      
これが道長のやりかたなのだ。
菅原氏源氏など、他の貴族を凌いだ藤原氏、その藤原氏の中の北家、
同じ北家でも、誰が実力者になるか……。
こうした争いの中で道長は、巧みに政権を握っていった。



知らんけどコンセンサスと言うとんで  飯島章友



道長の姉・詮子が天皇の妃になったように、代々の藤原氏は、皇室と深
い繋がりを結ぶことで、その地位を固めてきた。
道長もまた同じように、まず長女の彰子(しょうし)が12歳になると、
一条天皇の妃にした。
一条天皇には、すでに道隆の長女・定子が妃にいたが、天皇に二人目の
妃を押しつけてしまった。
宮廷に睨みのきく道長ゆえに、できたことである。
のちに、この彰子が生んだ皇子たちが、後一条天皇、後朱雀天皇になる。
すなわち道長は、天皇の祖父となり、天皇と深い繋がりができ、政治の
頂点にたち、その権力は揺るぎないものになった。



偏差値は別格だった人の今  井上恵津子





       藤原道長の邸宅の東三条殿 (想像イラスト)
寝殿造邸宅の典型といわれる。



道長の野心は止まらない。
つぎに一条天皇が亡くなり、三条天皇が即位すると、道長は次女・妍子
(けんし)を天皇の妃に推した。
継いで後一条天皇が、即位すると三女・威子(いし)を妃にしてしまう。
さらに、後朱雀天皇が即位すると四女・嬉子(きし)を妃にした。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば」
道長の三女・威子が後一条天皇の后となった日に道長が詠んだ歌である。
<自分には、1つとして叶えられなものはない。満月のようにすべてが
満たされており、この世は自分の為だと思われる>
と、誇らしげに告げたのである。



マカロンな午後を奏でるハーブティー  宮井いずみ






            弓 争 い




「episode」 「藤原道長、藤原伊周との弓争い」
道長が20代半ばのある日。
伊周は父の藤原道隆の屋敷で、人を集めて弓を射ていた。
そこへ道隆の弟で伊周の叔父の道長がやって来た。
道長は年齢はうえだが、官位は伊周よりも下である。
そこで2人は「弓争いをする」ことになった。
まず道長が矢を射た。続いて伊周が射た。結果は道長が勝利した。
父・道隆と道隆に仕える人々は2回の延長を申込んだ。
内心穏やかではなかった道長だったが、その提案を受けた。



そもそもは微妙な空気の斜め読み  三好光明



仕切り直しで道長が、小さく呟いた。
「自分の家から帝・后が出るなら、この矢よ、当たれ」
と、言って矢を放つと、その矢は見事真ん中に的中。
次の伊周は、的外れの場所に射て、父・道隆は青くなってしまう。
二矢目に入って道長は、またさっきより大きめに呟いて
「私が摂政・関白になるはずなら、この矢よ、当たれ」
と、言って矢を放つと、また真ん中に的中した。
道隆は息子・伊周に「これ以上射るな」と止めて場は白けたという。
               歴史物語「大鏡」ゟ



さる件で弓道部から狙われる  筒井祥文

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