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川柳的逍遥 人の世の一家言
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さよならは空耳だった気もします  美馬りゅうこ






      神として描かれた徳川家康画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)





「大阪の陣が終わって……」
「向後、自分の力で戦は起こさせない」
―そう強く思った家康は元号を変えた。
慶長から「元和」-------「元ははじめ。和は平和」
近隣の外国とは、善隣友好姿勢、政治の模範となる君臣の言行を集めた
中国の本の翻訳命令を出したり、「源氏物語」を公家衆に配ったり…、
子や孫には自分の持っている本を惜しみなく配ったり……。





蟻踏んで悔やみつづける足の裏  森井克子





家康ー神になった家康




         「東照社縁起絵巻」巻三第二段 

元和2年4月17日、徳川家康75歳で薨去。
遺言により久能山へと埋葬される。





「鷹狩りから発病する」
そんなこんなで、明けて元和2(1616)年の正月21日。
家康は駿府城にほど近い田中へ鷹狩りに出た。
家康は、その日は駿府城に戻らずに、その田中城で、ある人物と夕食を
摂った。丁度、京から当代一の豪商、家康の経済ブレーン、蛸薬師の呉
服商・茶屋四郎次郎清次が来ていた。
朱印船貿易などの秘密の会話を交わしたあと、家康は、茶屋四郎次郎
「最近上方では、なにか珍しいことはないか」と、訊ねた。
茶屋は
「あります。最近京や大坂では、鯛をカヤの油で揚げて、その上にニラ
 を擂りかけたものが流行っており、わたしも頂きましたが、大変よい
 風味でした」と、答えた。
折よく榊原清久から能浜の鯛が献上されたので、家康はすぐそのように
調理を命じ食した。
「あれはうまかったが、ちと食いすぎたな」と、
満足気に食後感を述べていたが、その夜から、腹痛に苦しみ、駿府城に
戻って、御殿医の興庵法印(津田秀征)の診察を受けいれ療養に入った。
一旦は容態が落着いたようにみえたが、75歳という年齢の所為もあり、
ぶりかえし再度、苦痛にさいなまれ、順調に回復とはいかなかった。





エンドマークつけて肩の力抜く  吉岡 民





家康の病状は日ごと悪化していく。2月の末頃、本多正純が興庵法印に
調合させた薬を飲むと、家康は、盥を引き寄せると全部吐いてしまった。
そこで家康は、傍に控えていた将軍・秀忠
「今回は私の死期がすでにやってきており、天が定めた寿命はここで
 最期だ。どうして草の根や木の皮でできた薬などで、うまく寿命を
 止めておくことなどができようか。従って、最初から薬は飲まずに
 おこうと思っていたが、無理に勧められるので、できるだけ飲もう
 としたが、このように無意味だ。もはや薬は飲むまい」
その後、家康は決して薬は飲まず、側におくこともしなかった。





あちこちにある文句言いのスイッチ  中野六助






 家康と対座する天海





秀忠とともにその場に控えていた南光坊天海僧正は、発言の許可を得て
「日本でも中国でも、非常に優れた英邁な君主は、あらかじめ、自らの
死期を決定して、自分の死後のことを前々から言い残しておくものです。
わたしも少し前からお側にいて、恐れ多くも、お言葉を承っております。
今回はとても、ご回復されるとも思えません」
と、言うと、将軍はただ涙にくれていた。
4月2、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を呼び、自らの死後の対応
を指示した。





弔問客用に落とし穴を掘る  井上一筒





       「観古東錦 将軍家日光御社参之図」 東洲勝月画

江戸時代、歴代将軍は大勢の供ともを引き連れて、日光東照宮に参拝し、
家康の霊廟に詣でた。


日光東照宮の奥宮にある宝塔。
通説では、家康の遺骸はこの中に葬られているとされる。





「家康、久能山に葬ることを遺命する」
4月17日、家康の病状がだんだんと重くなった時に、本多正純を呼び
「将軍家に早く来るように」と、言ったが、「それには及ばない…」と、 
すぐに取り消し、さらに続けて
「わたしが死んだ後も、武芸に関しては、少しも忘れてはいけない、と
 申し上げよ」
の言葉を最後に、榊原清久の膝を枕に冥府へ旅立っていった。
この清久は、清正の三男で、早くから家康の側近くに仕えて、その寵愛
は浅くなかったという。家康病中も日夜傍で看病し、様々の遺言を聞き
「わたしが死んだならば遺骸は久能山に納めるように。墓はこれこれと
 するように、お前は末永くこの地を守って、わたしに生前と変わらず
 仕えるように」と、言い置かれた。
この遺言で、榊原清久家は代々「駿州久能山惣御門番」を務めることに
なった。





生きてゆく重さ海月にある重さ  前中知栄





「家康、西国大名を憚り、その像を西向きにせしむる」
さらに家康は、
「東国の方面はおおよそ、譜代の者なので謀反の心があるとは、思われ
 ない。西国の方は、不安に思うので、わたしの像を西向きに立てて置
 くように」と、
言い置き、あの三池の刀も、峰を西にむけて立てて置いたという。
「家康の辞世句」
先に行くあとに残るも同じこと 連れてゆけぬをわかれぞと思う
<先に亡くなるのも、後に亡くなるのも同じことだ。いずれみんな
 あの世に行く。だから、私の後を追って死んだりしないように。
 ここで一度別れよう>





永遠にさよならでもありがとう  福尾圭司





      南光坊天海           金地院崇伝





「神号」
大御所家康を支えたブレーン中のブレーンといえば、金地院崇伝・南光
坊天海・林羅山の3人である。徳川幕府の諸体制は、この3人の頭の中
から生まれたといってもよい。
崇伝は、1608年(慶長13)家康に召し出された。
京都南禅寺の住持で、仏教界のエリートだった。外交文書の他、キリシ
タン禁令、公家諸法度、武家諸法度や各寺院法度を起草している。
家康の信頼厚く、権勢を欲しいままにし「黒衣の宰相」と、呼ばれた。
南光坊天海については、家康は、
「残念なのは天海と相知るのがおそすぎることだ」とまで言っている。
宗教界で活躍し、政治の表面には出なかった。
あるとき天海は、家光の前で柿を賜り、食べ終わると種を懐に入れた。
「持ち帰って植えよう」と、いうのだ。家光は、
「僧正のような高齢の人が無益なこと」
と、言ったが、天海は
「一天四海をお治めになるかたは、そのような性急な考えをしてはなり
 ません」と言い、数年後実った柿を山盛りにして家光に献じたという。





つまんで引っ張って引っ張ってつまむ  雨森茂樹





家康の死後、問題となったのは「神号」だった。
「明神」号を主張する金地院崇伝「権現」号を主張する南光坊天海
の間で激論になったが、秀忠による裁定で「権現」号に落ち着いた。
その後、幕府は朝廷に神号を奏請し、朝廷からは、「東照大権現、日本
大権現、威霊(いれい)大権現、東光大権現」の4つが示され、幕府は、
「東照大権現」を選び、家康の「神号」が決定した。
天海の弟子である胤海が記した書(1789年(寛政元・刊)に天海は、
家康の神号について、
「亡君豊国大明神のちかきためしを覚して…」
と、豊国大明神の悲惨な末路を引き合いに出し、「権現」号を主張した
と解明している。





メトロから炎は降りて来ましたか  くんじろう






           絢爛豪華な日光東照宮





「家康、もうひとつの遺言」
「わたしが死んだ後、将軍家(秀忠)は必ずわたしの廟所を威儀正しく
 建造することだろうが、それは無用のことだ。子孫の末までも初代の
 廟所を超えぬようにするためにも、わたしの廟所は簡素にせよ」
と、遺言した。秀忠はこれを聞いて
「先代ご自身にとっては謙譲の美徳であり、この志を受け取るべきだが、
 つつましやかすぎるのもいかがか」
と、言い、おおよそ荘厳といえる程度におさえ廟所を完成させたが、
三代将軍・家光は、その遺言を破り1636年、祖父・家康が祀られる
日光東照宮の全面的な改築を命じた。
これにより、社殿の規模は大きくなり、その様式も、穏やかな和様から、
絢爛たる唐様へと変貌した。





凡人が心を乱す遺言書  靏田寿子

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