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川柳的逍遥 人の世の一家言
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黄昏の風船ガムはぶどう味  宮井いずみ





              小牧・長久手合戦屏風   (水野年方)
山手に陣を張る家康vs平地に陣を張る家康




「天下分け目の戦い」といえば「関ヶ原の合戦」が通り相場だが、江戸
後期の学者・頼山陽の評価は違うようだ。
『公(家康)の天下を取る。大坂にあらずして関ケ原にあり、関ケ原に
 あらずして小牧にあり』と、『日本外史』で頼山陽は述べている。
――家康の天下は、関ケ原の戦いではなく、小牧長久手の合戦によって
  決まった――と言っているのである。
この戦いは、信長亡き後に出遅れた家康が、「われこそここにあり」と、
ライバル秀吉に、敢て喧嘩を売ったデモンストレーション行動であった。
秀吉勢10万に対して、家康勢は1万6千。
しかし家康は、北条や伊達と同盟を結び、四国の長曾我部や根来・雑賀
衆を味方にして強気であった。実際、局地戦では家康側が勝利しており、
秀吉は数で勝りながら、とうとう家康を破れなかった。
つまり、この戦いによって家康は、自分の存在を天下に知らしめること
に成功したのである。


ここにいる私の前に立たないで  日下部敦世




       タヌキ顔の顔 
         vs

       サル顔の秀吉




家康ー天下の分け目となった小牧・長久手の戦



家康の本音―本能寺の変以降、織田家の決める「清須会議」からも排除
されてしまうなど、秀吉にずっと先を越されっぱなし家康、すべてが秀
吉の思惑通りに動いていくのを、家康は苦々しく思っていたに違いない。
浜松城・本丸北富士見櫓――酒井忠次、石川数正、本田正信ら家康の重
臣が眉根を吊り上げ、厳しい表情の家康を囲み会談をしている。
家康 「秀吉め!1年前までは織田殿の家臣の1人にすぎなかったに…
    今では、すっかり天下人気取りじゃ!」
忠次 「それにしても秀吉の勢いはすさまじいものがござる…。我らが
    甲斐と信濃を制し、ようやく五ヵ国を手中にしたと言うに…」
数正 「今、秀吉が領する国は、なんと三十ヵ国じゃ!」
正信 「もはや西は完全に秀吉に握られてしもうた」



食べてから気付いてしまう誤配送    宮井元伸



家康 「西のことなどどうでもよいわ‼ 東じゃ ‼」
3人 「……⁉」
家康 「わしの目標は東国の覇王となることじゃ ‼」
3人 「……⁉」
家康 「じゃが わからぬのは、どうして秀吉がこうも短期間に勢力を
    伸ばし得たかじゃ…秀吉に織田殿と同じような力量があるとは
    わしには思えぬ!」
家康はこの時点で、政治のダイナミズムをよく理解できていなかった。
家康 「まるでわしが一歩進む間に秀吉は、十歩も進むような気がする!
    わからぬ…」
忠次 「しかし殿! 秀吉の勢いを指を咥えて見ておるわけにはまいり
    ませぬぞ!」
数正 「左様!西を制した秀吉は必ずや、東にも手を伸ばすはず!なん
    としてもここらで秀吉の出鼻を挫かねば!」



間違いを探して膝の曲げ伸ばし  森田律子




       徳川16神将掛軸ゟ (山道翁雲岳)




家康の本音――。
秀吉信長の長男・信忠の子である三法師を推す中、家康は3男の信男
が、家督を継ぐのが筋だと考えていた。
勝家側から「味方につくよう」に働きかけがあったとき、「反秀吉」
いう点で一致しながら、結局、勝家に乗らなかったのは、一つにこの後
継問題があったのである。
また秀吉と勝家が争って互いに消耗することは、「自分にとってプラス」
だという計算もあったのだろう。
自らの力を温存しっつ、家康は、「賤ケ岳の合戦」に対しては、静観を
決め込んだ。
  

のどちんこに隠す三日分のガム  井上一筒



家康 「わかっておる!じゃが戦には大義名分がいるぞ」
正信 「それはなんとでもなりましょう。ひとつ織田信雄どのを焚き付    
    けてみてはいかがかと…」
家康 「ようし、ならば信雄を煽り、織田家再興の名目で秀吉としょう。
家康 「信雄……あのうすらバカを…か?!」
正信 「信雄殿は 武将としては凡庸とは申せ、とにもかくにも信長公
    の二男…本来なら秀吉の上に立ってしかるべきなのに…秀吉に    
    家臣扱いされ、憤っておるとの事でございます」
家康 「…なるほどのぅ!それは面白いかもしれぬ……」
3人 「……」
家康 「織田家再興の名目で秀吉と一戦交えるか! 直接の戦なら負けは
    せぬぞ ‼」
正信 「殿 今こそ…!」
家康 「秀吉なにするものぞじゃ!
    わしらの目標は、この城から見ゆる日本一の富士じゃからのぉ」
と、唇を一文字に引き結ぶ家康であった。




水団をかきまぜている目玉  笠嶋恵美子





山手の本陣から秀吉軍を見下ろす家康




「タヌキ親父の狸ぶり――賤ケ岳の戦い」
秀吉と仲良いふりをするタヌキ家康は最初から秀吉有利と読んでおり、
賤ケ岳の勝敗がつく直前に「私はあなたの勝利を願っています」といっ
た白々しい内容の手紙を秀吉に送っている。
家康は、戦況や秀吉の動きを細かく把握していたのだ。
そして、天正11年4月、勝家お市の方と自害し、秀吉大勝利の報が
もたらされると、家康は、その祝いの品として天下の名品「初花肩衝」
を贈っている。茶の湯好きな秀吉は大喜びし、家康が秀吉と勝家両方に
距離を置いていたことは、これによってチャラになる。
こうして表面上は、秀吉と友好的な振りを装いながら、一方で北条氏直
に娘の督姫を嫁がせ、関東を統べる北条氏との同盟を結ぶなど、家康の
「タヌキ親父」ぶりはさすがである。



白菜のやや媚びを売るかたち  蟹口和枝



「賤ケ岳の合戦が終わって――約1年後」
1584年(天正12)3月、秀吉打倒を信雄に焚きつけた家康は信雄
とともに秀吉と戦うべく浜松城を出陣した。「小牧長久手の戦」である。
その報を受けた秀吉は、
「なにっ⁉ 家康が信雄と組んで兵を挙げたじゃと! 家康めはわしが
九州平定を進めるに目の上のたんこぶ  ‼ むしろ戦は望むところじゃ ‼ 
天下人たるわしの力をとことん見せてくれるは  ‼」
と、いきまき10万の大軍を率い、濃尾平野へと向かい犬山城へ入った。



トナラーがハシビロコウの顔で来る  小池正博




 本多忠勝に思い切り暴れてこいと発破をかける家康




一方、家康は犬山城近くの小牧山城に先着していた。
家康 「物見の報告では秀吉の兵は10万ときくが…なるほど犬山一帯
    は兵の海…秀吉は是が非でも決着をつける気じゃな!」
忠次 「こちらが1万6千でござるから ざっと5~6倍」
数正 「なんのっ! 戦は数だけで決まるものではないわ!」
家康 「この戦は秀吉に一泡吹かしさえすれば それでいいのじゃ」
忠次、数正唖然の表情をみせる。
家康 「勇みすぎず、じっくり構えておれば、必ずむこうがてを出して
    くる…そこを叩けば…」
忠次、数正唖然!
家康 「まっ、この戦は負けなければよい…」
それからおよそ10日間…両者の睨み合いが続いた。
そして焦れたように秀吉は動いた。
天下人の矜持が、是が非でも家康を屈服させようとしたのである。
1584年(天正12)4月6日の深夜、徳川勢の大半が小牧山に集結し、
守りが手薄となっている家康の本国・三河に1万6千余りの別動隊を攻
め込ませようとの作戦であった。



迷ったら音符になって突き進む   北山まみどり





          本多忠勝軍功図
加藤清正(みぎ)と槍を交える忠勝



「秀吉vs 家康   唯一の直接対決ー小牧長久手の合戦」
家康秀吉が満を持して激突した「小牧長久手の合戦」は、智将同士の
名勝負だといわれている。しかし、長久手の戦い以外にほとんど合戦ら
しい合戦は行われていない。
山に陣を張った家康は山に、平地に陣を張った秀吉は平地にと、それぞ
れ自分の土俵に相手を誘い込もうと、10日以上も延々知恵比べ・我慢
比べを展開したに過ぎなかった。いやそれどころか、何とか相手を怒ら
せようと、あの手この手、まるで子どもの喧嘩のような、挑発行為を行
ったりしている。



伸び切った生命線があくびする  田中 薫



秀吉家康に一戦交えようという内容の手紙を送ると、家康はその返事
をわざと部下に書かせて送り返す。
これは格下の者に対する扱いで、つまり、秀吉をおちょくったわけだ。
怒った秀吉は、敵陣近くまで迫り、尻を向け叩きながら大声で、家康を
侮辱する言葉を発した。家康もムキになり、2騎の武将を秀吉の前で走
らせ、相手は手も足も出せない「臆病者!」だとからかう。
天下の智将どころか、子どもでもやらないような低レベルなやり口だが、
もちろん、こんな下らない駆け引きばかりだったわけではなく……、
戦国らしい武勇の士の逸話も生まれている。



プロペラをつけたら笑ってくれますか  酒井かがり









「その逸話のひとつ」
家康の忠臣・本多忠勝は、主の進退の時間稼ぎに、わずか5千の兵を率
いて出陣した。3万8千の秀吉軍に対して、小川を隔てて並走してみせ
た忠勝は、さらに馬を川に乗り入れ、悠然とその口を洗ったという。
士卒がはやって鉄砲で撃とうとすると、秀吉は、
「あのような者は生かしておくものぞ」と言って止めた。
その武勇を愛するとともに「人たらし」の秀吉は、いつの日か忠勝を自
陣に招きたいと考えていたのだ。



スイッチを切りなさいよと茜雲  新家完司

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藻になった屍が絡む高瀬舟  くんじろう




               新 撰 太 閤 記  
左から佐久間盛政・柴田勝家・羽柴秀吉
 (柔能勢剛)
秀吉は勝家に何を言い寄っているのか…!盛政の顔が怖い。




秀吉が惜しんだ猛将の潔くも意外な死に様

賤ケ岳の敗将・佐久間盛政は、秀吉の軍勢に守られながら、槙島へと向
かった。その身を縛る縄はなく、乗り物に乗せられ、優雅ともいえなく
もない道中である。さらに、槙島到着後には、秀吉の腹心・蜂須賀正勝
(小六)の来訪を受け、
「これからは勝家の代りに、この秀吉を慕ってほしい。近々空いた国が
   あれば、それを貴君に進ぜる」
というメッセージ迄受け取っている。
(実際、秀吉は、盛政に肥後を与えようとしていたともいう)
 一代で成り上がった秀吉には、いわゆる譜代の家臣がおらず、有能な
武将は喉から手が出るほど欲しかった、というお家の事情は確かにある。
とはいえ、一回刃を交えただけでここまで思わせたのだから、尋常では
ない。 (槙島=京都府宇治)




海の絵はどこを切っても濡れている  村山浩吉





佐久間盛政は討死を覚悟し、鉄棒ひっさげて単騎、敵陣の中に駆け込む。
そして、秀吉の馬印に近づき、馬上の秀吉に襲い掛かろうとするが……、





秀吉は「尾籠なり下郎め」と一喝してかっと目を見開いた。
その眼光の鋭さにたじろいだ盛政は、無念ながら退散する。



家康
ー鬼武者・佐久間盛政



佐久間氏は、鎌倉幕府の創設者である源頼朝の有力御家人・三浦義明
末裔である。尾張国御器所(ごきしょ)を本拠に勢力を伸ばした佐久間
一族は、12代盛通の息子たちの時代に、織田家に仕えるようになった。
4人の兄弟のうち3男・朝信の子が、信長の重臣でありながら石田本願
寺攻めの不手際を責められて追放された信盛であり、4男・朝次の孫が
盛政だ。 (御器所=名古屋市昭和)



風を切る肩に一片のはなびら  下谷憲子



1568年(永禄11)9月、のちに室町15代将軍となる足利義昭とと
もに、織田信長が上洛をする。このとき、15歳の盛政は初陣を飾るが、
一方で従軍していた父・盛次が、行軍途中の戦いで命を落すという不運
に見舞われた。父の死により盛政は、信長の重臣・信盛が率いる佐久間
一族を離れ、母の実家の多大な影響を受けて育つことになる。
母・末森殿の兄が柴田勝家であり、実子のない勝家は盛政を可愛がった。
以後、盛政の人生は、常に勝家とともに推移していく。



がむしゃらにおのが運命切り開く  都 武志



特に盛政が活躍したのは、一向一揆との戦いにおいてであった。
信長もそれを認めていたようで、一揆を制圧した勝家に、越前を与え、
北陸方面の最高指揮官に任命した上で、
「盛政を加賀方面討伐の大将に任じ、これを制圧したらすべて盛政に
 与える」よう勝家に命じたという。
1576年(天正4)盛政弱冠23歳のときのことである。



存在を点で表し無限大  日下部敦世




              絵 本 太 閤 記 卷 4




1579年(天正7)、京で行われる正親町天皇の観兵式「大馬揃え」
に臨むため、柴田勝家はじめ織田諸将が上洛した。
しかし、北陸防備が手薄になることを恐れた勝家は、盛政を留守番とし
て尾山城(のちの金沢城)に残す。 すると案の定、一向一揆が蜂起、
鳥越・二曲両城を奪取してしまった。
これを撃滅すべく馳せ参じた盛政は、槍を大車輪のごとく振り回す勇猛
ぶりで、たちまち、2つの城を奪い返し、一向宗門徒から「鬼玄蕃」
恐れられた、という。



貸金庫に入れる二つ目の命  合田瑠美子



賤ケ岳での不覚
本能寺の変に信長が倒れたという一報が勝家のもとにもたらされた時、
盛政は、「すぐさま京へ攻め上りましょう」と、進言した。しかし、
慎重派の勝家は、北陸情勢が予断を許さないことを理由に、これを退け
ている。結果、
勝家は、信長没後の織田家中で「秀吉に後れをとる」ことになり、挽回
するためには、もう秀吉を倒すしかない。
こうして北陸から勝家が南下し、秀吉がこれを迎え撃つという直接対決
は回避できない状況になった。
秀吉は勝家を阻むため、余呉周辺に着々と砦を築いていった。



意地という厄介者を飼っている  通 一遍




しかし、盛政には勝算があった。
秀吉軍の主力1万5千が岐阜の織田信孝を討つため余呉を離れるという
情報を入手しており、この間に砦の普請の中途で、兵員も少ない賤ケ岳
砦と大岩山砦を落とせば、勝家方にとって有利になるという判断をした
のだ。 盛政はまず、3砦の真ん中に位置する大岩山砦を攻めようと、
勝家に進言した。ところが勝家は難色を示す。
歴戦の将は、敵陣の奥深く攻め入ることの危険性を熟知していたのだ。
最終的には、盛政の策をいれたものの、大岩山陥落後はただちに帰還す
ることを条件とした。



岐阜までの逆に走っている時間  宮井いずみ



勇躍、大岩田砦に向かった盛政は、豪傑として知られる中川清秀が守る
この砦を難なく落とした。その戦いぶりは「合戦の申し子」盛政の面目
躍如であったという。
だが勝家の待つ玄蕃尾城には、戻らなかった。
勝家から何度も督促があったが、「将兵を休ませるため」などと称して
兵を引かない。盛政は、秀吉が岐阜で戦っているものと信じ込んでおり、
周囲の砦を砦を次々と落とすつもりでいたのである。



腹心の友森の中から出てこない  靏田寿子




捕縛の盛政に「仲良くやろう」と声をかける秀吉。




しかし、秀吉は戻ってきた。大垣で「盛政、大岩山砦襲撃」の報を受け
た秀吉は、本能寺の変後の「中国大返し」同様の素早さで余呉に戻って
きたのだ。 勝家が危惧した通り、敵中に孤立した盛政軍は、敵に推し
包まれ潰滅した――。
賤ケ岳の合戦後、捕縛され「まな板の鯉」となったとき盛政は、秀吉の
「これからは勝家の代りに、この秀吉を慕ってほしい」という申し出に
「お申し出は嬉しいが、命長らえてお会いすることがあれば、きっと
 あなたを討つでしょう。是非とも死罪をお申しつけください」
と、答えたという。



ボタンひとつ間違え武士を降りる  酒井かがり



この潔さに感嘆した秀吉は、生粋の武士である盛政に対して、これ以上
の勧誘は無駄であろうと判断し、切腹を申しつける。
しかし盛政は、「武士の情け」である切腹を拒み、あくまでも処刑され
ることを望んだ。
自己の判断ミスから、勝家を死に追いやったという悔悟の念から敢えて
「敗者らしい」死に様を選んだのかもしれない。
秀吉の最後の厚意として贈られた派手な小袖に身を包んだ盛政は、6尺
の長身に縄をかけられ、車に載せられて、京都市中を引き回された。
1583年(天正11)5月12日、槙島にて斬首。
享年30歳、勇士として恥ずべきところのない最後であった。



誰もいなくなるあさってのニュース  森田律子




宣教師のルイスフロイスが「安土城に比肩する壮大な城」と、
いった北ノ庄城のものと伝わる鬼瓦。


       北ノ庄城




episode・「不幸続きで改名された北ノ庄城」

越前一向一揆の鎮圧に功があったとして、信長勝家に越前8郡 49万
石を与えた。その後8年もかけて建設されたのが北ノ庄城で、城下の
規模は、信長の居城・安土城にも匹敵したともいわれている。
勝家を祀る柴田神社に、城の天主閣と本丸があったといわれるが、
城跡に福井城が築城されってしまったので、正確な位置関係はわかっ
ていない。
ところで、勝家が悲運の死を遂げて北ノ庄城が落城した後、この城の
城主となった者には不運がつきまとった。

徳川家康の2男である結城秀康は将軍になれなかったし、秀康の長男・
松平忠直は、不行跡で配流の憂き目に遭う。
北ノ庄には、「勝家の怨念」が籠っていると噂された。
そこで不吉な「北ノ庄」から、幸運をもたらすという意味の「福居」
(ふくい)に改名したのが、秀康の2男松平忠昌。
現在の「福井」となるのは、江戸前期、元禄の頃である。



真夜中のコンセントから細い声  富山やよい

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喉元を過ぎれば明日のカレンダー  細見さちこ




         賤ヶ岳合戦図屏風  右隻
大岩山・岩崎山の攻防と佐久間勢の撤退、秀吉軍の追撃の模様を描く。
(中央部分に「七本槍」の戦いの様子も描かれている)
実際の激しい戦闘を忠実に描いたというより7人の目覚ましい働きぶり
を象徴的・伝説的に描き出したもの。


織田信長の天下統一の夢への野望は、「本能寺の変」によって、その命
とともに炎に焼かれてしまった…信長の跡を継ぐのは誰なのか?
変直後、いち早く謀反人・明智光秀を討ち取った羽柴秀吉は、事実上、
信長の天下統一の継承者として名乗りをあげることとなった。
しかし、信長の3男・信孝や信長の家臣の中でも、屈指の実力をもつ
田勝家らは、秀吉の政策に不満を募らせ、次第に対立を深めていく。
天下人への野望をさらける秀吉の運命の瞬間に立ち塞がるのは、
秀吉の若武者・7人であった。




 『賤ケ岳山頂から柴田軍の砦を見下ろす七本槍』 (歌川豊宣画) 
中央・秀吉 手前右・福島正則 手前左・片桐且元 左奥・加藤清正
福島正則後右から加藤嘉明 脇坂安治 平野長泰 木の横・糟屋武則


鉛筆の重い日もある句読点  荒井加寿


家康ー賤ケ岳七本槍



      福島正則
尾張の桶屋を父に、秀吉の伯母を母に持つ正則は、秀吉にとっては従兄
弟にあたる。そうした血縁の近さもあってか、天正6年以来、秀吉に近
く仕え、早くからその能力を認められていた。
賤ケ岳の合戦で拝郷五左衛門を討ち取ったのは正則だという説もあり、
恩賞は「七本槍」の中でも随一の5千石だった。
そのことが加藤清正らの不満を生んだともいわれている。
(天正6年=1578年)


秀吉子飼いの若武者たちのデビュー戦
1583年(天正11)3月には、秀吉勝家の両軍が、北近江で対陣、
同時に岐阜で信孝が挙兵という形で対立は戦いへと発展する。
秀吉は信孝を討つため、4月16日に大垣城へ入るが、その隙をついて
勝家は、北近江に残る秀吉の留守部隊に襲いかかった。
引き返すべく秀吉が大垣を発ったのは、4月20日午後4時頃、ひたすら
駆けて、夜には余呉付近にまで全部隊を集結させる。
大岩山砦で秀吉軍を待ち受けていたのは、勝家の甥・佐久間盛政である。


再起する朝の光を身に受けて    興津幸代



       加藤清正
秀吉と同郷出身の清正は、9歳の頃から秀吉の台所方に仕えた。
秀吉のもとで元服した後は、虎之助清正と名乗り「虎、虎」と秀吉夫妻
に可愛がられた。清正の母は、秀吉の母・大政所と従姉妹同士、即ち、
秀吉と清正は又従兄弟の関係でもあった。
賤ケ岳では敵将・山路将監と槍同士の一騎打ちを演じ、見事その首を討
ち取る。一説には、拝郷五左衛門の鉄砲頭の首だったともあるが、いず
れにしろ、誠実で忠誠心の厚い臣下だった。

佐久間盛政隊は、秀吉軍のあまりの勢いに一旦は退くものの、21日未明
撤退しながら、鉄砲隊で待ち伏せるという逆襲をかけ、激しく抵抗した。
折よく柴田勝政(盛政の弟)隊の援護も得られ、盛政の兵はほとんど無
傷で権現坂辺りまで撤退することができた。
しかしその間、秀吉の舞台もさらに人数を増し、賤ケ岳に
その兵力を集中させていた。そして21日朝、盛政の部隊に合流しようと
動いた盛政隊めがけ、秀吉の号令一下、賤ケ岳山頂から精鋭たちが駈け
下りていく。
その隊列の中に、福島正則、加藤清正、片桐勝元、脇坂安治、糟屋武則、
加藤嘉明、らの姿があった。
後世「賤ケ岳七本槍」と語り継がれる若者たちである。


天空と綱引きをする凧の糸  大森昭恵



      片桐且元
浅井長政の重臣であった直盛(且元)の父・直貞は、姉川の合戦後信長
に寝返って秀吉の配下となっている。従って且元も弟の貞隆とともに、
幼少の頃より秀吉に仕えることになった。
賤ケ岳の合戦では、敵将・拝郷五左衛門を討ち取ったといわれる。
秀頼付きの家臣を監察する役目を仰せつかる。


賤ケ岳七本槍の戦いぶり
隊列を乱して敗走する勝政の兵に、激しく襲いかかる秀吉軍の兵たち。
なかでもめざましい働きをみせたのが、秀吉子飼いの若き武士たちで
あった。
一方、盛政、勝政両隊にも、勇名を馳せる武将は多い。
信長配下随一といわれた拝郷五左衛門や剛力の誉れ高い山路将監、宿屋
七左衛門らは、単身敵方に乗り込み、夥しい数の秀吉軍の兵を槍で突き
斬り殺していった。


弱点があって人間らしくなる    大高正和




   糟屋武則(かすやたけのり)
播磨三木城の別所長治に属していたが、天正6年頃から秀吉の小姓とし
て仕え始めたといわれる。後に、その三木城は、秀吉によって攻められ
落城。賤ケ岳では、秀吉の弟・秀長の近習である桜井佐吉が、宿屋七左
衛門の槍に追い詰められていたところを、武則が脇から突きかかって、
宿屋を討ち取った。その槍さばきは電光の閃きのようだったという。


しかし、「七本槍」に取り囲まれるうちに彼らの勢いも失せ、1人また
1人とその命を断たれていくのだった。隊長の勝政自身、戦闘のさなか
無念の討死をしている。戦場となった余呉湖畔には兵たちの死体が溢れ
彼らの流す血によって湖面が赤く染められたという。
敗色濃厚となるも、盛政は、諦めることなく部隊を立て直して反撃に出
ようとしていた。
しかし、援護を期待していた前田利家隊の突然の撤退によって盛政隊は
壊滅、勝家本隊も、やがて窮地に追い込まれることになる。


ふるさとがだんだん点になっていく 小出順子



       脇坂安治
近江国の生まれ、永禄12年の丹波黒井城攻めが初陣で、最初は信長
仕えたが、のちに秀吉配下となり、三木城攻め、賤ケ岳と戦功を重ねた。
秀吉に仕えたいあまり命令に背いて伺候したため、何度も秀吉の叱責を
受けたが、結局、その志と熱意が受け入れられて信頼を勝ち取ることが
できたという。武功だけでなく和漢の学門に通じ、和歌をも嗜む意外な
一面を持っていた。 (永禄12年=1569年)


柴田勝家は、やむなく北ノ庄城へと敗走し、数日後には妻・お市の方
ともに自害して果てた。
ここに、賤ケ岳の合戦での秀吉の圧勝と天下人としての運命が決定的と
なる。その勝機をもたらしたのが「七本槍」のめざましい働きであった。


戦争が終わる大きな穴あけて  板垣孝志



      加藤嘉明
13歳の頃から秀吉の養子・秀勝に仕えた嘉明は、秀吉の播磨出兵に際
し、秀勝の許可なく秀吉軍に参加する。このため、秀吉の正室・おね
不満を買うが、秀吉は義昭の志をくみ、そのまま直属の軍に加えた。
以来、秀吉のあるところには必ず加藤義昭の姿があり、常に冷静に次々
と武勲を立てたという。


賤ケ岳での武勲を受けて、秀吉からは手柄の大きい者たちへ「一番槍」
と、称える感状と格別の恩賞が与えられた。
福島正則には、5千石、他の6名には、それぞれ3千石である。
それ以外に秀吉の弟・秀長の家臣であった桜井佐吉と秀吉の養子である
秀勝の家臣、石川兵助にも、恩賞を与えられたが、この2名は、秀吉の
直臣でなかったため後世「七本槍」には数えられなかった。


モニターの癖に暑いとか言うな  森 茂俊



      平野長泰
長泰秀吉に仕えたのは、天正7年21歳の年からというから、賤ケ岳
の合戦の時には24歳であった。その出自や具体的な働きについては、
明らかではないが、数々の戦功によってのちには豊臣姓を賜り、遠江守
にまで任じられた。 (天正7年=1579年)


「賤ケ岳七本槍」と、呼ばれた男たちはいずれも、若くして秀吉の配下
に入り、20代という充実した時代に、賤ケ岳の合戦に参戦して存分の
働きを見せた。
幼少の頃から小姓として仕えた者、秀吉と血縁関係にある者、強い志を
貫いて仕え、秀吉の信頼を勝ち得た者など、「馬廻」と呼ばれ、親衛隊
のような役割を担った近習たちは、主人と個人的に強く結びついた特別
な家臣だった。
この戦いの後も秀吉は、彼らを優遇して生涯そばに置き、ともに戦い続
けた。
天下人を目指して猛進する秀吉にとって、賤ケ岳の合戦を勝利に導いて
くれた子飼いの若者たちこそが、かけがえのない腹心の部下だったので
ある。


過去形で語るカーブミラーのゆがみ  山崎夫三子

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孤独の深さ分かち合うはぐれ雲  靏田寿子









「切腹」
家康の嫡男・岡崎三郎信康は、母である築山御前ともども武田家との内
通を疑われて、死へ追いやられるという悲しい運命を辿った。
自分と同盟を結んだ家康に、信長が2人の殺害を命じたとされる。
そして1579年9月15日、家康は、服部半蔵天方山城守に信康の
介錯をするよう命じた。
服部半蔵と天方山城守は、「信康の助命」を願ったが、最後は、家康の
胸中を慮り信康の待つ二俣城へ出向いた。
二人が到着して間もなく、殿中の一室で、屏風に囲まれ白装束の裃姿で
信康は、三方に乗せられた短刀に手にとり、死を前にして静かに構えて
いた。信康の覚悟は決まっていた。








半蔵信康の斜め立つと、信康は一息に短刀を腹に刺した。
半蔵は「殿!御免!」と、声を振り絞り上段に構えた。
だが、その太刀を振り下ろすことができない。
腹を切り、苦しむ信康を前に、泣き崩れる半蔵……。
やむなく、天方山城守が半蔵に代わり介錯を実行した。

逃げるのがとっても下手な蚯蚓です  大葉美千代


家康ーゆかりの女性の墓と信康の墓




           華 陽 院
華陽院は家康の祖母・源応尼の墓所。

元の名は知源院といい、家康の生涯に最も影響を与えた人である。
家康が祖母である源応尼の50回忌の法要をした際、その法名から華陽
と改めたという。
源応尼(於富の方)は、人質時代の家康を世話した母方の祖母。
浜松で訃報を聞き、三河松を墓所に植えることを頼み、その冥福を
祈ったという。



       市 姫 の 墓
源応尼の墓と並んで家康の娘・市姫や側室・お久の方の墓がある。
市姫は、1610年(慶長15)に亡くなった家康の娘。


切り抜いた満月すらも愛される  前中知栄



          貞 松 山 蓮永寺  (仁王門)
        養珠院 (お万の方)の供養塔
 1569年(永禄12)兵火に罹り伽藍を焼失して荒廃し、1615年
(元和元)に敬虔な日蓮宗の信者であった家康の側室・養珠院の発願に
より再興された。駿河城を守る鬼門として、駿河沓谷へ移転し蓮永寺と
改称された。


養珠院(お万の方)
伊豆で成長したお万は1596(慶長元)家康に見初められ側室となる。
そして1602年(慶長7)年3月に長福丸(徳川頼宣)を、さらに、
翌年8月に鶴千代(徳川頼房)を生んだ。
長福丸は、1603年(慶長8)に、水戸20万石が与えられ、
鶴千代は、1609年(慶長11)に、下総下妻10万石が与えられた。
その後長福丸は駿河・遠江50万石に、鶴千代は、水戸25万石に移封
された。ともに慶長14年のことである。


ばあちゃんの昔話を聞く子猫  加藤 胖




           瑞 龍 寺
瑞龍寺は、駿河七ヶ寺の1つとして格式が高く、家康が駿府城に在城の
時は、時折七ヶ寺の住職を集め法門を聞いたとされる。
門柱の右には泰雲山 左には瑞龍寺とある。
瑞龍寺に秀吉の妹・旭姫の墓がある。

          旭 姫 の 墓




秀吉の妹・旭姫は、臨済宗に帰依していた事から、菩提は京都の東福寺
の塔頭南明院に法名「南明院殿光室宗王大禅尼」として葬られている。
それとは別に領内にも、旭姫を供養する寺院が求められ、家康が法名
「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」に因み、寺号を瑞龍寺に改称し境内に
供養塔を建立した。
秀吉は家康との縁組を進める為、すでに別家に嫁いでいた妹・旭姫を
強制的に離婚させ、家康の正室として徳川家に嫁がせた。
しかし、2年後、1588年(天正16)に生母・大政所の病気介護と
いう理由を付け別居、以後、京都の聚楽第で生活をはじめた。
1590年(天正18)旭姫は享年48歳で死去する。


横になる茶柱いつも見捨てられ  ふじのひろし




          宝 台 院 の 墓
家康の側室・お愛の方(西郷の局)の菩提寺。
2代将軍・秀忠が、この地に大伽藍を建て大法要を営み、寺名も金米山
法台院龍泉寺となった。


西郷の局は、27歳より家康に仕え、浜松城にあり、「三方ヶ原の戦い」
「設楽原の戦い」「小牧長久手の戦い」など、家康が最も苦難にあった
時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠
の妻だった人。また、二代将軍・秀忠、尾張の松平忠吉の生母でもある。


よく笑う風が私の一張羅  田辺与志魚





   江浄寺・岡崎三郎信康の墓
家康の嫡子・岡崎三郎信康の遺髪を祀る御廟所がある。
江浄寺は江尻宿の中心にある寺であり、東海道を往来する大名たちは、
行列を止め、必ずこの御廟に参ったという。
遺髪のこと――信康の切腹に立ち会った家臣・平岩親吉が持っていた
遺髪を、久能城の城主・榊原清政が譲り受け、当初、勝沢山・江浄寺
に祀られたが、江戸時代に江尻宿の開宿とともに、墓所をつくり祀ら
れたものである。

信康は、家康の嫡子として、家康がまだ元康松平と名乗っていた今川氏
の人質時代の1559年(永禄2)に駿府で生まれた。
家康亡き後、徳川幕府・2代将軍を継承する資格ある人物である。
母は元康の正室で、今川義元の姪である築山殿
もともと、徳川という姓は、将軍家と御三家のみしか名乗ることが許さ
れなかったので、正確には松平信康と称される。
さらに9歳にして、岡崎城の城主となったので岡崎三郎信康と呼ばれた。
しかし、1560年(永禄3)の今川・徳川先鋒軍 VS 織田軍の「桶狭
間の戦い」において、今川義元が討ち死にすると、家康は、13年間の
人質生活にピリオドをうち、駿府から領地の三河に戻った。
その後、家康は織田信長と清洲同盟を結んだため、信康は一転して今川
氏側の捕虜となる。だが、その後の捕虜交換により岡崎城に帰った。


片方の耳を隠して生きている   目黒友遊




        松 平 信 康




1567年(永禄10)、家康は磐田城の築城に失敗したため、信長から
改易を指示されると、信康に信長の娘・徳姫を迎える政略結婚により、
織田家と姻戚関係を結んだ。その際、信康の「信」は信長から「康」
家康から一字を授かった。
その後、信康と築山殿武田勝頼と内通しているという嫌疑がかけられ、
また信康の武勇とその有能な資質をおそれた信長の命により、天正7年
幽閉されていた遠州・二俣城で21歳という若さで切腹した。

才気溢れる釘は斜めに打っておく  高浜広川

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飛ぶ準備完了あとは風になる  上坊幹子




          豪傑奇術競 (長谷川小信画)
伊賀は忍者の郷、野盗も物の怪も棲んでいる。



その日は突然やってっきた。
このとき徳川家康は、長年の同盟関係の労をねぎらう信長の招待を受け、
安土城でもてなしを受けたあと、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊
直政ら家康の四天王のほか石川数正・服部半蔵、穴山梅雪らとともに、
堺見物をし、京都にいる信長にお礼のあいさつに向かう途中だった。
河内の飯盛山の麓まで来たところで、「本能寺の変」茶屋四郎の早便
でもたらされた。



鉛筆の重い日もある句読点  荒井加寿



四郎 「本日未明、信長公がが宿泊されている本能寺が武装した軍団に
    襲撃されました」
数正 「……京の周辺は織田の領内、敵対する勢力は存在しない筈だぞ、
    一体誰が」
康政 「襲撃した軍勢が掲げていた紋様は、桔梗紋。織田家で桔梗紋を
    掲げているのは、明智光秀しかおりません」
四郎 「手前は商人ですので辛くも京を抜け出せましたが、洛中は明智
    の兵で満ち溢れております」
数正 「ここから30㌔と離れていない、ここにいては危ないな」
 供の総勢は猛者揃いの34名だ。「京へ行き信長の弔い合戦をすべし」
という意見も出たが、武装もしていない平伏の格好である。
軍を率いる明智に対抗するには、あまりにも無謀すぎる。



斬り捨てた昨日が風に戻される  小林すみえ



忠勝 「……殿!! どういたしましょうか?」
家康は家臣の意見をききながら沈黙を通していた。が、
家康 「儂はこれより知恩院に入り、上総之助殿の後を追う」
家康の言葉を聞いて家臣は耳を疑った。
あまりの衝撃に、錯乱したのか、発狂したのか、と本気で思った者も少
なくなかった。
忠勝 「殿、殿は、何度こうした難儀を乗り越えられてきましたか!」
勝ち目のない状況に一時、家康は知恩院で自刃することを決意するが、
本多忠勝の説得により、三河岡崎城への帰城を決意する。
そこで家康の一行は、伊賀を越え、伊勢の海から船で三河に渡る最短の
経路を選択した。
堺から南山城へ出て、近江の信楽から伊賀丸柱を経て、鈴鹿の山を越え、
伊勢国へのルートだ。



そうねえと話半分聞いてない  曾根田 夢




家康公伊賀越えの道の出発点とした四条畷神社
家康一行は、茶屋四郎の信長自刃の報に接した飯盛山西麓の四条畷神社
からスタートした。



家康ー伊賀越え




「伊賀越えの厳しさ、むずかしさ」
それでも危険にはかわりない。
未知の土地に何が待っているのかわからないのだ。
当時、伊賀には「総国一揆」といわれる自治組織が存在していた。
一揆の勢力範囲は、伊賀の国を超えるほどだという。
本能寺の変の1年前、信長は、この伊賀惣国一揆を徹底的に攻撃し殲滅
させている。「天正伊賀の乱」といわれる。
本能寺の変が起きたときも、伊賀国では、大規模な一揆が起きていたと
されており、伊賀はまさに危険区域だった。
そんな背景を踏まえての「大脱出劇」であった。




草いきれ生きる権利を主張する  靏田寿子




         草内の渡し立札




「よくぞ御無事で! あの伊賀を越えられてお戻りになられたとは」
この祝福のコトバから「神君伊賀越え」の見出しが生れた。
この感動の言葉からも察せられるように、ともかく武者と言えど、少人
数で伊賀の山を越えることは、危険きわまりないことなのだ。
地侍や土民の一揆の恐れがあり、家康の巻き添えは御免と家康一行から
少し離れ別行動をとった穴山梅雪は、草内の渡しあたりで、土民の一揆
に襲われ落命している。
家康の一行も、途中、地侍や土民に襲われたともある。



韋駄天の友が一番先に逝く  八木幸彦




家康「伊賀越え」について石川忠総(ただふさ)の『石川忠総留書』
の記述が最も信憑性が高いとされている。
石川忠総(ただふさ)は、家康の堺見物に同行していた家康の堺に同行
していた大久保忠隣の長男であり、石川数正の従兄弟・石川康通とは、
親戚筋にあたる。つまり『石川忠総留書』は、現地に行った者からの聞
き取り情報なのである。
そして、その記録には、伊賀越えのルートが記されている。
6月2日 堺―南山城路―山城国宇治田原山口館(泊)13里
6月3日 山口館―南近江路―近江国甲賀郡信楽小川館(泊)6里
6月4日 小川館―北伊賀路―伊勢国長太―舟(泊)17里
6月5日 舟―三河国大浜―三河岡崎城着




切り取り線は常に正しい位置にある  寺川弘一




       伊賀越えールート




家康一行は、道に詳しい長谷川秀一の案内で、山城から近江の甲賀伊賀
を通り、白子浜から伊勢湾を横切り、常滑へ船で渡る最短ルート、後世
<神君伊賀越え>と呼ばれるルートを選択する。
(長谷川秀一=信長の側近で奉公職や検使などを務めた。
家康一行が、信長の本拠地安土を訪れた時。秀一は、接待を命じられ、
上方見物の案内も務めた。しかし、堺滞在中に、信長が本能寺で襲われ
たため、家康らと伊賀越えで熱田まで同一行動をとることになった)




忠義に厚い武士だった服部半蔵




道中には、家康の命を狙う百姓一揆や落武者狩りなどの危険があったが、
同行していた家康の家臣・服部半蔵の父・保長は伊賀出身だった。
そこで半蔵は、父の故郷の土豪や忍のもとに出向いて協力を求め、
2百人を動員して家康を守護させ、険しい間道を通って無事伊勢へ到達
させたといわれる。




武士としても有能だった茶屋四郎



また豪商・茶屋四郎『茶屋由緒紀』によると、茶屋四郎が先回りして
未然に落ち武者狩りを防ぐため、要所要所で金銭をばらまき、通行の安
全を確保し。金には弱い地元の者が道案内をしたという。
これはイエズス会宣教師の記録にも出てくるため、事実の可能性が高い。
どちらにせよ、家康は様々な助けを経て、岡崎城に達したとされている。




四捨五入何も無かったことにする  津田照子



道中の日程は次の通り。
6月2日のうちに家康は、山城国宇治田原に入った。
堺から13里(52㌔)、この地で山口光弘の馳走を受けて一泊。
3日は、近江国甲賀郡信楽の小川村の多羅尾光俊の城館に泊まり、
翌4日には、多羅尾の案内でいよいよ伊賀を通過した。
そして丸柱から石川、河合などを経て伊勢へ入り、関、亀山を経由して
白子から船で三河へ…この危険な道のりを、先々で信長派の城主や土地
に詳しい案内者の協力を得て、3日間の決死の逃避行のあと、無事三河
にある岡崎城に帰城した。



頬杖のはるかに八月の鯨  小川佳恵



「追記 ①」 <事実のあかし>
『乙夜之書物』関屋政春氏は白子の商人・角屋七郎の知人を取材して
「角屋は白子で家康に船を提供して、褒美に舟役の免許をもらった」
記している。
『徳川実紀』にも「家康は角屋七郎次郎の船に乗った」とあり、角屋が
用意した船に乗って、白子から常滑に渡り、陸路で知多半島を横断して
再び船で大浜に着いた」という史実がのこる。




ひょっとしてわたし淀川の牛蛙  井上恵津子



「追記 ②」 <あとのまつり>

伊賀を抜けた6月4日、家康信長の武将である蒲生賢秀・氏郷父子に
「信長の長年の恩が忘れがたいので、是非とも光秀を成敗するつもりだ」
と弔い合戦の決意を述べている。
実際、家康は領内に大規模な動員をかけた。
ただ雨など天候悪化などにより、家康が出立したのは三河に着いてから
10日も経った6月14日になった。
ところが、この前日、「山崎の合戦」で秀吉明智軍を撃破していた。



合掌の中で心を問い直す  柴辻踈星



「追記 ③」 <褒められて…>

伊賀越えの功績が評価され、服部半蔵は、遠江国に8千石を賜った。
さらに、家康を守護した伊賀者は、徳川家の家臣となり、半蔵が与力・
同心である彼らを統轄することになり、伊賀同心たちは四谷に屋敷を
与えられたという。
茶屋四郎もまた、その功績により家康の御用商人として取り立てられ、
徳川家の呉服御用を一任されることになった。
さらに、江戸城下に屋敷を拝領。朝廷や天下人・秀吉との橋渡し役を
担い自由な出入りを許された。



薬だな故郷の大地そして風  堂上泰女



「<家康どうする>でこんな役で出ています」




   
 茶屋四郎次郎     中村勘九郎




「追記 ④」  <困ったときに現れる京の豪商>

茶屋四郎次郎 
ちっぽけな三河の田舎大名・家康に財を預け、出世を見込んで大博打を
打った商魂たくましい陽気な男。
数々のピンチを救い、家康のサクセストーリーとともに国づくりを支え、
日本一への豪商へとのしあがる。



「追記 ⑤」 <風見鶏の元祖>





   




穴山梅雪
武田一門・穴山家の当主。信玄からの信頼厚く、抜群の知略を生かし、
外交戦略のエキスパートとして活躍。武田軍の駿河侵攻においては、
先兵として今川家の切り崩しを行った。
寝返りの巧みな梅雪はのち、裏切り者や卑怯者と武田家中で罵られる。
信長に黄金2千枚、家康に2人の美女を献上して信長陣営に仲間入り。
武田勝頼を滅ぼす道案内までした。勝頼は穴山梅雪の手引きもあって、
信長にに滅ぼされた。

『どうする家康』では、田辺誠一さんが演じる穴山信君
信君の死を見た家康は、木津川の河原で追腹を遂げようとするが、
本多忠勝が「追腹するほどのことではない。ここから宇治・信楽を経て
伊勢に出て、船で三河に帰ろう」と提案し、伊賀越えが始まった。
草内の渡しの位置は不明だが、木津川は飯盛山と宇治田原の間を流れて
いるから、通説のルートとは矛盾はない。



包装紙折り目正しく戻せない  ふじのひろし

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