忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1114] [1113] [1112] [1111] [1110] [1109] [1108] [1107] [1106] [1105] [1104]
結局はサイコロ振って決めました  合田留美子






『ウィリアム・アダムス─日本での最初のイギリス人』
日文研所蔵洋書 (ウイリアムダルトン・ダルトンの挿絵)




1600年(慶長5)3月、豊後国の海岸にオランダ船籍のリーフデ号
が漂着した。救出されたイギリス人・航海士・ウイリアム・アダムス、
オランダ人の貿易家・ヤン・ヨーステンが、大坂で家康に謁見している。
家康は、2人に江戸に住居を与え、外交問題の相談役にした。
ウイリアム・アダムスは、三浦按針という日本名をもち、地理学や造船
学を日本人に教えた。家康に重用され、日本橋の屋敷のほか、横須賀に
も250石の領地を与えられている。帰国の許可が出たが、日本の土に
なることを選び、1620年(元和6)に平戸で死んだ。
ヤン・ヨーステンは、江戸に住みながら、東南アジア各地での貿易活動
を行い、その往復の途次、船が難破して溺死した。
(東京駅の周りに残る「八重洲」の地名は、彼の名に由来する)




異邦人の瞳でふるさとへ帰る  吉川幸子






  オランダ共和国の商船・リーフデ号
船名の「リーフデ」はオランダ語で「愛」を意味する。
元はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した
「Erasmus(エラスムス号)」という船名であった。


リーフデ号の船尾飾り、エラスムスの木像
エラスムスはオランダが生んだルネサンス最大の人文主義者。





オランダ東洋遠征艦隊の一隻「リーフデ号」が豊後沿岸に漂着したのは、
西暦1600年3月16日、関ケ原の戦い前夜であった。
ウイリアム・アダムスヤン・ヨーステンは強く帰国を願ったが、2人
家康に請われて日本に残り、世界情勢や科学技術を教えた。外交顧問
として重用されたアダムスは青い目の日本人・三浦按針の名で生涯を終
えることになる。





涙一滴ホットミルクが溢れだす  大内セツ子




家康ー1600~1604年(慶長5~9)






         アリの巣そっくりの坑内




「大江戸ゴールドラッシュ」

佐渡金山では、坑道を掘って金鉱石を採取していたが、採掘、運搬、排
水、通風などはすべて人によるものであった。金鉱脈に沿ってまるで蟻
のように延びた坑道のなかで、魚油を使った明かりをたよりに作業が行
われた。なにしろ地面の下での作業で、昼も夜も関係がないから採掘は
24時間の交代制だった。







   「佐渡では小判の鋳造もおこなわれた」

小判は江戸と大坂の金座で鋳造された。金座は、勘定奉行の管理統括の
もとに後藤庄三郎初代とする後藤家が請け負っていた。この後藤の手代
が1617年(元和3)に佐渡に渡り、佐渡小判が鋳造されるようになった。




「家康が貯め込んだ幕府の資産」
1601年(慶長6)佐渡の相川で金鉱が発見され、採掘がはじまった。
佐渡では坑道掘りによる採掘が、同時に、選鉱、精錬、鋳造までの一貫
した生産体制がとられたので、これらにかかわる職人、管理する役人、
生活物資を売買する商人などが島外からやってきた。
鉱山町ができて人口は、一気にふくらみ、島は金景気にわくことになる。
江戸幕府は佐渡を天領すなわち直轄地とし、佐渡奉行をおいて統括した。
その後も伊豆の大仁金山などが発見され、大判小判を派手に使いまくっ
た秀吉とは対照的に、家康は、地味な生活で質素倹約に徹し、非常用の
備蓄を怠らなかった。コツコツと貯め込んだ金銀は、記録にあるだけで
も江戸城に400万両、駿河に約200万両、合わせて600万両。
一両を現在の価格に換算すると2兆1000億円に及ぶ。
これが徳川幕府260年の財政を支える礎となった。



金塊は重いし傘は小さいし  森田律子





            改易・転封





「関ケ原ー戦後処理」
1602年ー04年、幕府の最初の大仕事は大名の整理統制、つまりは
リストラだった。次から次へと改易や領地替えなどの処分を断行した。
なかでも標的にされたのが外様大名とくに豊臣恩顧の大名である。
関ヶ原の功など関係がないのだ。
福島正則は無断で城を修理した罪に問われ、加藤清正の子・忠広も謀反
の罪で改易になった。
一門・譜代といっても容赦なかった。
家康の4子の松平忠吉、5子の武田信吉、譜代の平岩親吉大久保忠佐、
本田忠刻、鳥居忠恒などは、跡継ぎがなくて廃絶された。家康の6子、
松平忠輝はその驕慢な性格ゆえに改易され、孫の松平忠直も乱行を理由
に改易された。





喋るのも泣くのも笑うのも薬  平尾正人





西軍の総大将となった毛利輝元は周防二か国に削減。旧領120万石の
うち、36万石だけが残された。
宇喜多は57万石没収。上杉は120万石のうち、米沢30万石のみ。
その他、ことごとく領地は没収された。
こうして西軍に属した大名のうち廃絶が87家、没収所領は414万石。
それに毛利上杉らの削減所領分221万石を足すと640万石に達した。
豊臣家は所領没収の対象外だったはずだが、いざ戦後処理が終わると、
200万石ほどあったはずの所領が65万石になっていた。
これは、直轄領の明示がない領地が多かったために削減されてしまった
わけで、事実上の処分に等しい。結局、摂津、河内、和泉の三か国分、
65万石に削減となった。





山門をくぐれば秋の風に会う  森 茂俊










「征夷大将軍への道」
関ケ原の戦いに勝利した時点で家康は、実質的な諸大名の支配権を手に
入れた。しかし、名目上は豊臣家の筆頭大老のままである。
この主従関係を覆すには、家康が「征夷大将軍」になるしかない。
征夷大将軍とは、もとは平安時代に蝦夷を征伐するために職だったが、
源氏が平家を滅ぼして以来、武門の最高権力者の職名になっていた。
ただし、この職を得るには「諸大名を統制する実力があり、源氏の家系
であり、朝廷から官位をもらっている」という3つの条件を満たすこと
が必要であった。(秀吉がこの職を渇望したが叶わなかったのは、源姓
ではなかったためである)
そして家康は、「諸大名の統制」に関し問題を一つ残していた。
家康が、島津義久・忠恒父子か義弘本人に上京・謝罪するよう、求めて
いたが、なかなか実現していなかったことである。




過去形で語るカーブミラーのゆがみ  山崎夫三子










「島津家 vs 家康」
1602年(慶長7)3月、島津義久は、従兄弟忠長を上京させ、本田
政信宛、義久・忠恒連名の「起請文」を提出したので家康も「起請文」
を送り、薩摩・大隅・日向諸県(あがた)の本領を安堵、忠恒相続を承
認した。やがて12月末、上京した島津忠恒は、家康と面会。和解して
帰途に着いた。
紆余曲折の末、本領安堵された島津忠恒が家康に謁し、兵は出さぬまで
も豊臣氏と親しく、徳川牽制の役をした佐竹義宜・秋田実季を大幅厳封
移封して、関ヶ原の戦後処理の終わった。











梱包のすきまを埋める紙おむつ     下谷憲子





「家康征夷大将軍になる」
そして、1603年1月21日、内裏の勅使より内意を受けた後、
2月12日、伏見城を会場として、徳川家康の「将軍宣下の式典」
執り行われることになった。
衣冠束帯に威儀を正した勅使が「家康を征夷大将軍になす」と宣旨を
伝えた後、源氏長者、淳和・奬学院別当への補任、牛車、兵仗許可、
右大臣転任の宣旨が渡された。
かくして家康は、その地位に相応しい権力を得ることになった。
足利幕府の崩壊以後、絶えて久しい征夷大将軍に就任である。
家康は、名実ともに天下人となり、江戸に幕府を開くことになる。



わがままはゆるしまへんと血糖値  古崎徳造

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開