川柳的逍遥 人の世の一家言
空き缶のところどころに負傷兵 峯島 妙
三成の頭蓋骨から復元した顔 と 遺骨を分析して描かれた肖像画
骨格が語る石田三成の性格 1907年(明治40)京都の大徳寺三玄院で、石田三成の墓地が改葬
され、三成のものとみられる発掘されて話題になった。 京都大学解剖学の足立文太郎教授が、その頭蓋骨から三成の顔を復元し
ようと試みた。当時は、頭蓋骨からもとの顔を復元するなど例がなく、 注目されたが、残念ながら展覧会に出品されたまま行方不明になってし まった。 当時の記録によると、三成の骨格は、ちょっと見ただけでは男か女かは
っきりしないほど華奢で生前には腺病質(神経過敏で身体が弱い体質) だったと推定される。 顔は当時としては細面で、ひどく反っ歯であった。
その点を除けば、鼻筋の通った繊細で知的な顔立ちで、かなり現代人に 近い形質だったといえる。 なお、改葬のときに骨といっしょに一本の小柄が出てきた。
打ち首になった人を埋葬するとき、胴と首とをつなぐのに使われたもの
で、三成が打ち首にあったことが実証された。 遺影写真あなたと出会う前の顔 月波与生
家康ー関ケ原合戦・屏風図で見る+合戦のあれやこれ
関ケ原合戦図屏風 (狩野梅春→翫月亭峨山 関ケ原町歴民族資料館蔵)
画面全体に関ヶ原の主戦場が広がり、上部に西軍諸隊、下部に東軍諸隊
を配し、右から左へ戦いの推移を表している。 午前8時にはじまった戦闘は西軍優位のうちに推移した。
三成は何度か「勝てる!」と思ったに違いない。
しかし、正午にいたって小早川秀秋の軍が動いた。
奮戦中の大谷吉継勢に襲いかかったのである。
小早川の裏切りで、遂に西軍の一角が崩れた。(6扇)
午後1時を過ぎる頃には、小西行長、宇喜多秀家ら西軍の有力部隊が、
次々に逃走をはじめる。(4・5扇) 毛利・島津は最後まで動かなかった。三成は敗北を悟った。
投げ返す言葉探しに匙を投げ 靏田寿子
第 一 扇 ① 三つ葉葵の陣幕が徳川家康の本陣。家康が最初に陣を構えた桃配山
だろう。ちょうど「伍」の指物をつけた使番が戦況を報告している。 周囲を固めているのは家康の旗本諸将。
本陣上部を進軍しているのは、細川隊などの東軍右翼。
仏壇の隣で汗をかくテレビ 河村啓子
第 二 扇
② 下から上に向かって突進している赤の軍旗が「赤備え」の井伊直政 隊、「本」と三つ団子の旗は本多忠勝隊。 陣幕上に日輪金扇は家康の大馬印。その上は、首注文を書きつける 武将たち。 その上には石田三成の前衛・島左近を攻撃する黒田長政隊で、豪傑・
後藤又兵衛も描かれている。
島左近は、小山の上から長政の鉄砲隊に狙撃され、部下に担がれて
戦線を離散中。
さよならと言える余力は持っている 平井美智子
第 三 扇
③ 中央部の落馬した武者は、合戦終盤に、島津隊を追撃中に撃たれて 負傷した本多忠勝。 上部の小西行長、三成の陣は東軍の猛攻にさらされ劣勢にある。
地獄ですからすっぽんぽんでいいのです 大島都嗣子
第 四 扇
④ 中央で戦っているのは、宇喜多秀家隊と福島正則隊。
二度三度と押しつ押されつの激戦を繰返した模様を描いている。 笹の指物をつけ、馬から降りて戦況を見ているのが、可児才蔵。
落とした首は17,いずれの口にも、笹を含ませたという。
その左に大野治長がいる。のちの「大坂の陣」では豊臣側についた
武将だが、「関ケ原」では東軍に参加した。 上部は勝敗が決まり、敵中突破で戦線を離脱しようとしている島津
隊。先頭に鉄砲隊を配置している。 一番後ろに写るだーれも知らない人 蟹口和枝
第 五 扇
⑤ 手前は藤川を渡る藤堂高虎と山内一豊隊。 上部の陣所では、敗戦を悟った大谷吉継が、敵の首を前に悄然と肩
を落とす。 十字架がこんな近くに見えている 市井美春
第 六 扇
⑥ 小早川秀秋の裏切り後のシーン。脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠ら 東軍に寝返った吉継の軍を襲っている。 その戦いを小山の端で見ているのは、「秀秋の裏切り」命令を拒み、
戦闘に加わらなかった小早川の侍大将松野主馬。 後ろから押してやりたいカタツムリ 辻部さと子
小早川秀秋 (高台寺蔵・京都博物館寄託)
小早川秀秋は秀吉夫人・寧々の甥にあたる。
思慮の浅い、あまり出来のよくない甥っ子だった。
毛利懐柔策の一環として、毛利の重臣・小早川家と養子縁組をさせられ
たので、思いもかけず名家・小早川家の当主となった。 秀秋は三成を嫌って家康に近づく。
家康は「小僧」と馬鹿にしながらも、小早川家の動員力は、馬鹿にでき
ないことを知っていた。 一方、石田三成が秀秋の鼻先にぶら下げたニンジンは「関白」であった。
秀頼が15歳になるまで関白の地位が約束されたのである。 ところが叔母の寧々は、家康側につくよう強く進言した。
関ケ原――踏ん切りのつかぬまま秀秋は、松尾山の上から戦況を見守る
ことになった。 眼下では大谷吉継が鬼神と思うばかりの働き。
どうやら西軍有利のうちに推移しているらしい。
びり乍ら今も懸命走ってる 津田照子
小早川秀秋 突撃
その時、しびれを切らした家康が、秀秋勢に向かって脅しの鉄砲を撃ち 込ませた。その鉄砲の音に尻を叩かれるように、 「われらが敵は大谷刑部(吉継)ぞ!」
秀秋はとうとう、采配を大きく振った。
関ケ原に参陣した最大級の兵力1万6千が動き、大谷吉継の部隊目がけ
て殺到した。 勝利が東軍に傾いたのはこのときである。 秀秋が陣を構えた松尾山は、6扇左下に、吉継の隊はその上部にある。
小早川秀秋は関ケ原の戦いの功によって、宇喜多秀家の旧領・備前岡山
51万石を得た。 しかし、西軍を裏切ったという負い目があったのだろうか、関ケ原から わずか2年後の1602年(慶長7)、狂を発して死んだという。 フラスコに罪を8割 水2割 みつ木もも花
石 田 三 成
「三成が見せた生への執着」 関ヶ原の戦いに敗れ、死罪を言い渡された三成は、京の支柱を引き回さ
れる。檻になっている輿に乗せられ、六条河原の刑場へと向かった。 途中で喉が渇いた三成は、搬送役に「湯がほしい」と頼む。 護送役が「湯はないが柿ならある」と柿を差し出したところ、三成は、
「柿は腹をこわす」と言って食べなかった。 それを聞いた人が、「これから死刑になる人間が腹のことを心配しても
しょうがないではないか」と嘲ると、三成は 「一世のことは小智ではわからない。今の今、何が起こるか、天のみが 知っている。だから死刑を目前にしても身体に気をつかうのだ」と、 答えたという。 懸命に生きよと先祖から叱咤 柴辻踈星
石田三成は関ケ原の敗戦の結果がはっきりすると、伊吹山に逃げ草津の
駅に出たが、運命が尽きるところで丁度、腹の病を患いだして仕方なく、
身をきこりの姿に変えて、みすぼらしい衣を着、腰に鎌を挟んで隠れて
いるところを捕まった。この様子に御前に参上している者たちは、 「このような人の道にそむく悪質な行為を企てる者が、死から逃れよう
とするとは情けないことだ」
と、口々に言うので家康は、 「そもそも人は生き抜いてこそ、何事も成し遂げるのである。
大望を思い立つ身には、一日の命も大事である。
未練というのではない。早く衣類を与え、食事なども食べられるように
して与えよ。もし病気ならば、医者にも診せて、十分な力添えをして、
すべてに不自由がないように取りはからえ」
と、仰られた。(家康公伝)
この後三成は、9月28日に市中引き回しのうえ10月1日、京都六条
河原で斬首される。享年41歳。
敗者ゆえの運命を回避することはできなかった。
ジョーカーのように扱われている黒 下谷憲子
可 児 才 蔵
「笹の才蔵」 可児才蔵という初老の浪人がいた。
福島正則の隊に陣借りして関ケ原に臨み20の首級を得た。家康の首実検 にはそのうち3つを持参した。 「残りの首には笹の葉をかませておきました。お確かめください」
調べてみると果たして才蔵のいう通りだった。
家康は、この才蔵の働きが気に入って「笹の才蔵」の名と兜を一つ与えた という。才蔵は福島家に500石で召し抱えられ、待望の仕官が叶ったが、 主家改易の数年前に60歳で死去する。
(可児才蔵の奮闘は、屏風絵・4扇の右中段にみられる) つるかめつるかめ今日も酒二升 宮井いずみ
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