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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ここですよここがあなたの降りる駅  田村ひろ子

     圧切長谷部」

圧切は「へしきり」と読む。

振りがながないと読めない圧切が製作されたのは、

南北朝期といわれている。

この作者である長谷部国重は、山城国(京都)の刀工として、

建武期(1334~36)を中心に活躍した。

国重はもともと大和の生れであったが、のちに相模へと移り、

長谷川鍛冶で修業を積んだという。

何人を殺め名刀たりうるや  今江やすより

「圧切の銘の由来」

『信長公の御時、クワンナイという茶坊主を手打ちにしようとした。

しかし、クワンナイは台所へ逃げ込み、膳棚の下へ屈みこんでしまった。

刀を振り上げることが難しかったので、刀を指で押さえこむと、

ほとんど手に感触がないまま「膳棚と観内」を切り落とすことができた。

そこで圧切と名付けた』  〔黒田家御重宝故実〕
              かんない
(ある日、茶坊主の観内という者が、信長に敵対することがあった。

そこで信長は観内を手討ちにしようとしたが、

観内は膳棚(食器棚)の下へ隠れたのである。

そこで、信長は観内を「圧切」にした)

諦めるひと埋めるひと通りがかるひと  酒井かがり

「命の使いみち」

官兵衛は軍事力という現実をもって説得を重ね、

ようやく小寺政職の代理となって上洛した。

信長に拝謁を乞うためで、取り次いでくれたのは猿のような小男だった。

羽柴秀吉である。

信長は官兵衛を気に入り、名刀「圧切」を下賜すると同時に

「中国侵攻の折には手を貸してもらいたい」

というようなことを言った。

官兵衛は、これで主家を存続させられると安堵した。

競争の最たるものは生きること  三宅保州

そして、天正5年(1577)官兵衛が織田家のために働く時が来た。
 あ が
「英賀の戦い」である。

すでに毛利家に敵対することを鮮明にしていた官兵衛は、

播磨灘に臨む英賀(姫路)の地で、

5千の兵力をもって押し寄せてきた毛利家の
うらむねかつ
浦宗勝をわずか10分の1の兵力で撃退し、

十分に織田家の最前線を守り抜いたのである。

変な欲死線を越えて抜け落ちる  ふじのひろし

この武功に信長は政職に感状を送ると同時に、

荒木村重にも書状を送っている。

その書状では、小寺氏の武功を称えるのに加えて、

官兵衛にも同趣旨のことを申し聞かせることを村重に命じているのである。

それを受けて村重は、自分に送られた信長の書状を添えて、

官兵衛の軍功を称えた。

これは何を示しているのだろう。

もし官兵衛の配下にあるならば、小寺氏を通じてというのが筋である。

逆に信長からみて、官兵衛は陪臣(家臣の家臣)に当るので、

そうした措置すら行う必要がなかったのかもしれない。

当主の小寺氏が行えばよい。

いわゆる官兵衛を信長は小寺氏に並ぶ「一武将」と見ていたことになる。

逮捕状無しであんたを逮捕する  井上一筒

 
   浦 宗勝

「英賀の戦い」

信長方についた小寺家を討つため、

毛利輝元は家臣・浦宗勝に姫路城への攻撃を命じた。

宗勝は小早川隆景の水軍を代表する名将で、毛利軍を支えた人物。

その宗勝を大将とした毛利水軍5千が、

姫路城の南西約7kmに位置する英賀港に上陸してきた。

対して自由に動かせた軍勢が5百人にすぎなかった官兵衛は、

寡兵の自分たちが勝つためには、

敵の兵が船旅で疲れているのを冷静に見抜き

陣を整える前に奇襲攻撃を仕掛けたのである。

伝えなさい一切ことば使わずに  八上桐子

それだけでなく官兵衛は、近在の農民たちを集めて、

大量の旗指物を持たせ、後方の茂みに伏せさせた。

まだ布陣の整っていない毛利軍は官兵衛の奇襲によって混乱するが、

宗勝は敵が少数なのを知って、

すぐに陣を立て直し反撃に打って出ようとした時、

茂みに隠れていた農民たちが、いっせいに声をあげながら、

旗指物を掲げたのである。

「まさか援軍が!」と勘違いした毛利軍は同様して総崩れ。

さすがの宗勝も一度崩れた軍勢を立て直すことは難しく、

敗走を余儀なくされた。

逃げる毛利軍は官兵衛軍に追撃され、

壊滅的な被害を受けて自領に逃げ帰ったのである。

鉤裂きはあなたが逃げた跡ですね  米山明日歌

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ブレーキがうまく使えるようになる  竹内ゆみこ            

         
      織田信長                 毛利輝元

「織田か毛利か」

官兵衛が家督を相続したころ、

戦国乱世はいよいよ、最終局面に向かって大きなうねりを見せてきた。

尾張の小勢力に過ぎなかった織田信長が勃興してきて、

着々とその版図を広げつつあったのである。

官兵衛が家督を継いだ翌年の永禄11年(1568)

信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を15代将軍とした。

やがて近江の浅井長政や越前の朝倉義景を打ち負かした信長は、

畿内で地歩を固めただけでなく、西方へと触手を伸ばしつつあった。

だが西には安芸国に本拠を置き、

中国地方全般に勢力を伸ばしていた毛利家がいる。

まぶしさに慣れればただの向こう岸  田村ひろ子



播磨国の小領主たちは生き残りをかけ、

どちらに味方するのかが大きなが大きな問題となっていた。

天正3年(1575)5月、信長と徳川家康の連合軍は、

東国の雄と称されていた武田勝頼の軍を三河国長篠で打ち破った。

こうした情報に触れ6月、小寺政職は御着城に重臣一同を集め、

小寺家に関する対策会議を開いた。

左京進をはじめ多くの家臣大半の意見は、

「これまでの交誼もあるので、律義な毛利家に従うのが得策」

というものであった。

そのなかで、「織田家の味方に付くべし」 

と、堂々たる意見を述べたのが官兵衛であった。

大は小を兼ねない器の美学  下谷憲子



「まず、毛利について申し述べます。

毛利は確かに大国にございますが、先君元就公の遺言に従い、

自国の領土を守るのみで天下を取る気概がありませぬ。

しかも家督を継いだは、まだ若い輝元殿。

采配も振るえぬ若輩者を大将にいただいて、果たして、

あの織田に勝てるとお思いか」

「一方、織田信長は堂々と天下布武を掲げておりまする。

『国を治むる者は義立てば、すなわち王なり』(荀子)

織田は大義を持って、兵を進めているからこそ、

わずか尾張半国から身を起こし、今川義元、浅井、朝倉を滅ぼし、

さらに武田も打ち破ることができたのでござる」

マフラーのように大蛇を巻きつける  青砥たかこ

「その勢いは大河の如く留まるところを知りませぬ。

  さらに織田の強みは大義だけではござらぬ。 

  なによりそのまつりごと。

  国を強くするには、民を強くせねばなりませぬ。

  織田は楽市・楽座、関所を廃するなど新たな試みを次々と取り入れ、

  その領内は繁栄を極めておりまする。

  人びとがおのずと集い、財も集まる。

  家中においては、門地門閥によらず取り立てるゆえ、

  才覚あるものが揃い、万全の構え。

  武勇智謀ともに備わった織田信長こそ、

  天下人となるに相違ありませぬ」

薬師如来の駆け出しそうな裾捌き  岩根彰子

強大な武田軍を破ったばかりということもあり、この意見は重みがあった。

毛利派の重臣たちも納得せざるを得なかったため、

織田家に味方することに決まる。

さっそく、岐阜城にいる信長のもとへ、

味方になる意思を伝えに使者を送ることになった。

そこで、

政職は官兵衛に小寺の姓を授け、派遣したのである。

あしのうらかゆくてかゆくて笑ってる  三輪幸子

岐阜城にて、まず秀吉に謁見すると、中国方面の攻略法を開陳した。

この時が官兵衛と秀吉との運命の出会いである。

その後、無事に信長との対面を果たすことが出来た官兵衛は信長の前で、

「中国地方を切り従えるためには、織田家の中からよい大将を派遣するべき」

と主張、そして小寺家が道案内を務めると約束をした。

官兵衛は中国方面の政情に精通していたからだ。

この官兵衛の策を聞いた信長は、官兵衛を気に入り、

秀吉を播磨攻略に差し向けることを決め、

官兵衛にその支援を命じたのである。

同時に官兵衛の立ち振舞い、見識の深さに感心した信長は、

愛刀の「圧切長谷部」を下賜している。

関門を無事にくぐった顔である  徳山泰子

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明日という「きっと」昨日という多分  河村啓子             



「井上九朗右衛門之房」

天文23年(1554)~寛永11年(1634)

黒田24騎の中の8虎のひとり。

生れは信濃国高井郡井上が発祥地で、九朗衛門は姫路の海辺松原。

黒田職隆に小姓として仕えたが、職隆は

「役に立つ者であるから重臣として扱うように」

という事で職隆の隠居後も官兵衛長政忠之の黒田家四代に仕え、

栗山四郎母里太兵衛の間で次席家老に遇されている。

にんべんを繕いコスモス揺れている  嶋澤喜八郎

背も低く力も劣り、戦の経験はなかった。

しかし知恵者で、官兵衛が有岡城に幽閉された際、

商人の姿で牢に近づき様子を窺った。
 
朝鮮の役では指揮官も務めたが、

非力な彼は陰口を叩かれることもあった。

しかし慶長5年(1600)9月13日の「石垣原合戦」で果敢に戦い、

面目躍如の働きをした。
 
筑前入国後は、黒崎城代となり二万石を拝領した。

後には徳川家康も九朗衛門の人柄に惚れ、

長男の井上庸名を五千石の旗本に抜擢した。

陽が落ちて人間臭き人を待つ  森中惠美子 

九朗衛門の晩年、「石垣原合戦」大友義統の大将・吉弘嘉兵衛

馬上での一騎打ちをしている。

九朗衛門はその1対1の勝負に勝利した。

母里太兵衛とは、不仲であったが、

この時ばかりは、母里が絶賛したと伝えられている。

九朗衛門が敵将の首を取ったことを契機に大友義統が降伏、

黒田方の陣に下り、石垣原合戦が終了するこの日の9月15日、

この流れのまま「関ヶ原合戦」が行われ、東軍が勝利している。

器ではないがいずれはしてみせる  磯部義雄



「福岡藩黒田氏の御家騒動」

元和9年(1623)福岡藩藩主となった黒田家四代目・忠之は、

孝高、長政の代からの譜代の功臣を退け、

自分にとって扱いやすい倉八十太夫らの側近を重用し、

その上、

軍船の建造,足軽隊の増強など、幕令をはばからぬ行為を繰り返した。

栗山利安の嫡子・大膳は、これを度々諌めたが,

忠之はかえって大膳を亡きものにと謀った。

そして寛永9年(1632)、大膳は豊後府内藩主・竹中采女正と共に

江戸に上り,忠之に謀反の心あるの旨を幕府に訴えた。

この時、九郎右衛門は黒田八虎の一人黒田一成とともに、

藩の側に立ち、府の評定で大膳と相対した。

トトロとすれ違う暗渠の中ほど  井上一筒

忠之には領地没収の沙汰が一度出たが、祖父の代からの実績を鑑みて、

没収の件は情状酌量の採決があって差し戻されたとう。

九郎右衛門は黒田家を守ったが、井上家は大膳と縁戚関係にあったため、

藩主・忠之は、井上家を黒田家から追放してしまう。

追放された井上家は、九郎右衛門の孫の代で無子断絶となり、

井上の血は途絶えた。

尚、九郎右衛門は黒田騒動の2年後寛永11年10月22日に病没する。

切り取り線までは澱んでいたのです   たむらあきこ

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血液型が変わってしまうほどに飲む  森中惠美子



「母里太兵衛友信」

母里太兵衛は、播磨国妻鹿の国人・曽我一信の次男として生れる。

幼名は万助。 黒田官兵衛とは、又従兄弟にあたる。

一信は播磨国・小寺氏に仕え、黒田職隆の与力的な立場にあった。

そのため太兵衛も永禄12年(1569)

職隆の子官兵衛に出仕するようになる。

もともと母里家は、尼子氏の末裔で妻鹿城の城主として数代続いた家系。

職隆は尼子氏末裔の母里家に従兄弟の小兵衛を養子として送り込んだが、

その一族24人が、「青山・土器山の戦い」で討ち死にしたため、

母里家が絶えるのを惜しみ、

官兵衛が次男である太兵衛に母里家の名跡を継がせた。

官兵衛とは又従兄弟にあたる。

体重計で人の器は計れまい  笹倉良一



       起請文

官兵衛が有岡城に幽閉された際、家臣一同が団結を示すために、

官兵衛の妻・光の方に差し出した。

官兵衛が有岡城に幽閉された際、栗山利安、井上之房らとともに

商人姿で牢獄に接近、

主君・官兵衛に情報を伝え励ましたエピソードは有名だ。

また、利安らとともに「起請文」に名を連ね、

このような危機に家臣が一致団結することを誓った。

あまりの無鉄砲な性格に憂慮した官兵衛は、

彼の分別つかない行動を抑えようと、

栗山利安と義兄弟の契りを結ばせたほどだ。

あきらめた頃にきっとが浮いてくる  山本昌乃           



「黒田二十四騎」の中でも特に重用された黒田八虎」の一人でもある、

太兵衛の勇猛さは魅力的で、秀吉が、

「直参の家来にしたい」 と官兵衛に申し入れたほどだ。

官兵衛は断ったが、「朝鮮の役」への出陣では、

秀吉から抜身の槍15本を拝領した。

その気性にふさわしく、中国攻めでは常に先手に回った。
                うるつ
九州討伐では、宇留津城攻めで一番に城中に乗り入れて大暴れし、

高い功績を挙げた。 豊前入国後は6千石を拝領。

黒田家の家老に就任した。

長政の命で宇都宮鎮房の出城・赤旗城の攻防に加わり宇佐郡の鎮圧、
           しょくさん
文禄の役・稷山の戦いでも活躍した。

瓶詰めにされて目鼻というきっと  山本早苗



『太兵衛と日本一の名槍・『日本号』のエピソード」

太兵衛は長政の使者として、秀吉の重臣・福島正則の屋敷へ行った。

ちょうどその時、福島家は酒宴の真っ最中だった。

そこで正則が太兵衛に強引に酒をすすめたのだが、

太兵衛は使者という立場を考えて、断った。

すると正則は、「酒は飲めぬか。黒田の腰抜け侍が」と罵倒した。

芋の蔓 赤コーナーに青コーナー  河村啓子

 


そこで太兵衛は、

「望みのものを頂けるなら、飲んで差し上げましょう」

と応え、大杯になみなみと注がれた酒を3杯飲み干した。

この豪快さに正則は目が、点になったかのごとく唖然とした。

結果、天下の名槍・『日本号』は太兵衛のものとなった。

この槍は元々、正親町天皇が所有していたもので、後に、

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉を経て、福島正則の手に渡った。

これほどの重宝だけに、

酔いから醒めた正則は、太兵衛に「返してちょ」と返還を求めたが、

「武士に二言はない」といって太兵衛は断った。

結局、日本号は「母里家の家宝」に収まったという。

空耳を注文しては後悔す  蟹口和枝

このエピソードを元に生れたのが

「酒は飲め飲め、飲むならば日の本一のこの槍を・・・」

でおなじみの九州を代表する民謡・「黒田節」だ。

槍術に優れた剛力の勇将として知られ、また、

黒田藩きっての酒豪としても知られた太兵衛は、利安と共に、

黒田藩の先手両翼の大将を務めたほど豪放磊落な人物であった。

ゼッケンをつけてこの世を走り切る  青砥たかこ  

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甲乙丙そんな時代がきっとくる  合田瑠美子               



黒田二十四騎

(画像は拡大してご覧ください)


黒田家には譜代の臣は存在しない。

官兵衛の父・職隆の代に姫路城主となり、家臣団が形成された。

初代家老を曽我大隈守という。

官兵衛が家督を継いで、二代目家老になったのが吉田喜三右衛門

三代目家老は久野四兵衛

黒田家が播磨国から備前国中津へ国替えして、


栗山善助、母里太兵衛、井上九郎右衛門の三老体制となった。

その家臣団の中で、官兵衛が集め育てた精鋭部隊の侍大将たちを、

「黒田二十四騎」と呼ぶ。

戦国武将はファッションのように兜にこだわりを持ちました。
各武将の誰かは、兜で判別してください。

新しい家族の箸を選っている  杉本克子    



栗山四郎右衛門利安―善助

天文20年(1551)~寛永8年(1631)

姫路近郊の栗山に生まれる。

黒田二十四騎の中で選りすぐりの「黒田八虎」のひとり。

永禄8年(1565)、15歳の頃から播磨国の黒田官兵衛(孝高)に仕えた。

官兵衛に似て知略にも武勇にも優れ、

官兵衛を題材とした物語には頻繁に登場するほど、

利安は、官兵衛の股肱の家臣として最も厚い信任を受けている。

大きくはないが手応えある器  磯部義雄
 
 

「青山・土器山の戦い」に初陣として参加して以来、数々の武功を重ねた。

官兵衛が有岡城に幽閉された際は、伊丹の商人の助けを借りて牢に接近。

官兵衛を励ましながら播磨の情勢などを伝えたほか、

有岡城の落城時は、他の家来と共に官兵衛を救出した。

「山崎の合戦」にて勝龍寺城を攻めた際は、大手で槍により一番首を挙げ、

「小牧・長久手の戦い」の岸和田の陣で根来雑賀衆と戦った時にも、

大きな戦功を挙げた。

「関ヶ原の戦い」では、母里太兵衛と共に、

大坂城下の官兵衛・長政の布陣を脱出させた。
 
利安は永禄12年の初陣「青山の戦い」で、首級を2つ挙げて以来、

官兵衛に仕える間、戦場の功名を11度挙げた。

5度は勇士としての働きであり、6度は采配をとっての功名であった。

鏡の中の奥を引っ張り出している  森田律子

官兵衛の父・職隆は遺言で

「役に立つ者であるから重臣として扱うように」

と命じたため、中津で三老の一人として遇されている。

やがて、福岡藩の筆頭家老となり、2万石弱の大身となり、

その勇名も知られていたが、利安は万事が控えめで、

道で誰かに会った際には、身分に関係なく、

必ず馬から降りて挨拶し、決して礼を失わず、寡黙な人物だった。

驕りが無く身は質素で、小身の者が生活に困っていると聞くと,

有る時払いの催促無しで金銀を与えた。

福岡藩の時代までに貸した金額は100貫匁に及んだという。

太陽の裏へご一緒致します  井上一筒

官兵衛の恩顧に関して利安は、

「わしは先君(孝高)に仕えて3年目に初めて足軽の小者を1人もらった。

  これが1番嬉しかった。

  次は19歳の時、初めて知行地を貰い、

   83石にそえて馬・物の具などを賜った事で、

   その懇ろな処遇に感激した」

官兵衛が豊臣政権下で豊前中津の領主になると、

「一気に200石から5800石を加増されて6000石を賜った。

  筑前へ移った時には1万5000石を賜ったが、

   これなどはあまり恩とも思わず、かたじけないという気も起こらなかった。

  これをもって見ると、とかく人間というものは、付け上がるものだから、

  若者たちは初心を忘れぬように、よく注意しなければならぬよ」

と語っている。

おしるしまでとナガスクジラを頂いた  高島啓子    
 
 

     合子形の兜

官兵衛からは全幅の信頼を寄せられ、官兵衛臨終の時には、

長政とともに枕元に呼ばれた。
                                                ごうすなり
官兵衛は愛用の「合子形の兜」を托し、

長政に対して,「利安を父と思え」と言い渡したという逸話もある。

忠実に仕えた利安だったが、

後に子の大膳利彰と長政の嫡子・忠之との間に

「黒田騒動」と呼ばれる諍いが勃発。

幕府の裁判で忠之は警告を受けることとなる。

階段は一段づつと決めている  中野六助

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