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川柳的逍遥 人の世の一家言
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障子から射すのがきっと未来です  清水すみれ            



       福原城本丸跡

「毛利との攻防の始まり」

信貴山に籠る松永久秀を攻め滅ぼした信長は、

毛利との直接対決を決断。

天正5年(1577)10月、秀吉を将として兵7千を西播磨へと進攻させた。

ただ、この秀吉播磨出陣前の9月、信長は官兵衛に人質を求めている。

それに応じて官兵衛は、嫡男の松寿丸を人質として信長のもとに預けた。

官兵衛は小寺政職の家臣でしかなかったが、

実質的に、小寺家を支えていたのが官兵衛であることを、

信長が見抜いてのことである。

秀吉を迎えた官兵衛は、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り渡す。

一族は国府山城に移らせ、自らは姫路城の二の丸に詰めた。

いよいよ,5年に亘る織田軍の毛利との攻防がはじまる。

ぽろりんと生れた日から鬼ごっこ  菊池 京

秀吉の軍勢がやって来たとはいえ、

毛利氏の勢力圏内に近い西播磨の豪族の多くは、

信長に敵対する姿勢を崩さなかった。
                      すけなり          まさのり
なかでも作用城の福原助就、上月城の赤松政範などは、

毛利方の有力大名のひとり、備前の宇喜多直家の支援を受け、

あからさまに反抗してきた。

秀吉軍は11月、1千の兵で福原城(作用城)に籠る福原軍を包囲。

この福原城と同時に、4キロほど離れた上月城も攻撃している。

この陣には竹中半兵衛も参加、官兵衛との揃い踏みとなった。

「福原城の戦い」である。
                                           いしひっけつ
ここで、『孫子』軍第7にある兵法のひとつ「囲師必闕」の策を、

官兵衛は見事に活用している。

わたくしとまだやりますか泥試合  安土理恵          



              福原霊社

福原城跡・福原霊社には、頭脳明晰だった城主・福原氏を祀っている。

「福原城の戦い」

官兵衛の調略によっての播磨の大半の城主たちは戦わずして、

秀吉方になびいたが、作用城(福原城)と上月城だけは、

毛利氏に属す宇喜多直家の支配下にあるため、

徹底して織田氏の軍門に降ろうとはしなかった。

そこで官兵衛は、半兵衛とともにこれらの城を攻めることになった。

孫子の兵法・「囲師必闕の兵法」とは、

「囲師には必ず闕き、窮冠に迫ることなかれ」

と続き、

「敵を追い詰めても必ず逃げ道をあけ、

  窮地に追い込んだ攻撃をしかけてはならない」

というものである。

これは四方全部を囲んでしまうと「窮鼠猫を噛む」の状態となった敵が、

死にもの狂いで抵抗するため、

味方の損害がそれだけ増える危険性がある と教えているのである。

考える形で影が離れない  早泉早人

官兵衛はそれに倣い、福原城を三方から攻めた。
            すけなり
城主の福原助就をはじめ城兵たちは、

思惑通り、包囲のゆるい一方向から逃げてくる。

官兵衛は空けておいた逃げ道の先に伏兵を潜ませた。

そのため逃げ出してきた大部分の城兵たちが討ち取られたのである。

官兵衛に指示されてその場所に待機していた平塚為広は、

秀吉の勘気にふれて浪人の身となっていたが、

官兵衛のおかげで、見事手柄を挙げることができ、

秀吉の配下に復帰することができたというオマケまでついている。

(黒田家の記録「黒田家譜」には、官兵衛の計略、孫子の兵法・「囲師必闕」

  によって福原城(作用城)を落城させたと記されている。

  そして毛利に与し敗北した宇喜多直家は天正7年に織田方に寝返っている)

沈黙のしこりをついに笑わせる  岡内知香



福原則尚の肖像画福圓寺所蔵)

「福原助就」
                                           のりひさ
播磨国高倉山城主。本来、福原城主は福原則尚と伝わるが、

『黒田家譜』などは、福原助就が福原城主としている。

秀吉の中国遠征がはじまると、毛利と手を結んで抵抗したが、

官兵衛らの猛攻にあい平塚為広によって討たれたという。

『黒田家譜』では、城主・福原助就、城主福原則尚両名とも

黒田官兵衛の家来に討ち取られたことになっている。

が、地元の伝承では、福原則尚は戦死せず、

城に火を放って高尾山福円寺まで逃れ、

12月1日ここで自害して果てたと伝えている。 (『三日月町史』)

福圓寺には則尚の墓だけでなく、後世の人が想像して描いた肖像画もある。

国滅ぶ時も行列崩さずに  板垣孝志



      柴田勝家ー(太平記英雄伝)

【豆辞典】ー「手取川の戦い」

現在の石川県白山市付近を流れる手取川で繰り広げられた合戦。

信長の先発隊である柴田勝家と上杉謙信軍が矛を交えた。
                            ちょうつぐつら
畠山の居城・七尾城の重臣・長続連の救援要請に応じた信長は、

柴田勝家を総大将とする先発隊を派遣して、

自らも大軍を率いて加賀へ出陣した。

ところが柴田軍が進軍する途中、
                                ゆさつぐみつ 
以前から続連が実権を握ることに不満を抱いていた遊佐続光
ぬくいかげたか
温井景隆ら親上杉派が内応して、七尾城は落城。

その情報を手取川を渡りきったところで知った勝家は、

すぐさま撤退を命じたが、

満を持して待っていた上杉軍の襲撃にあい惨敗。

運悪く手取川の増水で逃げ場を失った柴田軍は多数の溺死者を出した。

謙信は関東情勢が気にかかっていたので柴田軍を追撃せず、

関東を平定した上で上洛しようと考えて、

居城・春日山城にいったん凱旋したが、その半年後に病死した。

川あかりだけを頼りに行きますか  酒井かがり

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木漏れ日は古い小さな椅子になる  河村啓子



三顧の礼ー(月岡芳年/玄徳風雪に孔明を訪う)

劉備、関羽、張飛が「軍師」孔明を迎える三国志の名場面・『三顧の礼』

江戸時代・「三国志演義」が日本に輸入されて民衆にも広く愛読され、

その名場面が錦絵にもなった。
                              (画像は拡大してご覧ください)

 
      諸葛孔明


「軍師の原点」

この世に、「軍師」という存在が初めて誕生したのは、
                        ちこう
遡ること紀元1世紀、西暦23年(地皇4年)と考えられている。

『後漢書』に、
かいごう
隗囂という君主が、方望なる人物を軍師として招聘したと記され、

彼が正式な形で、軍師の地位・肩書きに就いた史上初の人物とされる。
             かんきん  こうほぶん
同時代には、韓歆皇甫文が軍師の地位に就いていたという。

制度としては彼らが初めてなのだが、

それ以前にも、似たような地位に就いた人物はいた。

切株に父の帽子が置いてある  笠嶋恵美子


       太公望
                                                          りょしょう
有名な処では紀元前1100年頃に周の文王を補佐した呂尚(太公望)
      りゅうほう                           ちょうりょう
前漢の劉邦(紀元前200年頃)に仕えた張良などがいる。

とくに張良は、戦場で手柄を立てたことは一度もなかったが、
      いあく
「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」 

と、主君の劉邦に評価されている。

帷幄=幕。作戦を立てる所。

そこから時代が少し下ると軍師は、よりハッキリとした形で現れる。

中国の後漢時代(25~220年)で、その末期が「三国志の時代」である。

飛び降りてよいかあなたのてのひらへ  むさし

 
      張 良

軍師を初めて制度化し、有効に使った君主といえば、
                                                 そうそう
三国の中でも最大の勢力を誇った「魏」の創始者・曹操である。
                                             じゅんいく
この曹操に仕えた軍師で、もっとも有名なのが荀彧だ。

彼は正式に「軍師」という役職についたわけではないが、

「わが子房(張良)が来た」

と曹操に喜ばれたほどの才知をもって、曹操の相談役を務めた。

戦争の際は同行せず、

曹操の留守を預かって、政務を代行することが多かったようだ。

曹操は窮したとき、戦場から手紙を出して彼に戦況を知らせ、

軍の進退を相談したほどだった。

沖凪いで沖の返事がいま届く  桑原伸吉
       じゅんいく       じゅんゆう         かくか  ていいく
曹操は荀彧の他に、荀攸をはじめ、郭嘉、程昱など、

複数の補佐役を、傍において重用し、

その参謀グループに「軍師祭酒」という名前をつけていた。

その筆頭が荀攸だった。

荀攸は荀彧の甥にあたるが、叔父とは異なり、

よく戦場に同行して、謀をめぐらせるタイプの軍師だった。

例えば呂布軍との戦いでは、水攻めを考案して曹操に提案し、

籠城した敵を追い詰め開城させた。

こだわってけやき並木のもたれぐせ  墨作二郎



        周 瑜
                               そんけん
同じ三国の一つ「呉」の孫権は、制度上「軍師」という職は用いなかった。

しかし特定の有能な人物に軍の全権を預け、

総指揮を任せるという活用の仕方をした。
しゅうゆ  ろしゅく  りょもう  りくそん
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜 などがそれである。

とくに周瑜は、「赤壁の戦い」で曹操軍を撃退し、

陸遜は、「夷陵の戦い」で劉備軍を撃退するなど、

いずれも国難に際して重要な働きをし領土を守り抜いた。

ひと口に「軍師」といっても、用いる人物や制度によって、

さまざまにその役割を変えたのである。

裏側の貌は見せない薔薇の艷  前岡由美子



   曹操の石像

【荀彧】 

涼やかな風貌を持ち、

若くして「王佐の才」(王者を助ける才能)を持つと評された。


大局を見据えることに長け、人材を見る目も確かで数多くの賢人を曹操に推挙した。

【荀攸】

戦場に同行することが多かったが、性格は慎み深く、

常に目立たないよう振る舞って曹操を盛り立てた。

【郭嘉】

常に前線において曹操のために献策し、勝利にたびたび貢献した。

呂布討伐戦では、荀攸とともに徹底抗戦を進言し水攻めを提案した。

太陽の裏へご一緒致します  井上一筒 

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イモリの黒焼きで眉毛だけ生えた  井上一筒



「弾正忠松永久秀」ー芳年武者牙類

刀を抜いた久秀の頭上に破片のようなものが飛び散っている。

自刃の前に最期の杯を飲み干して叩き割った刹那を描いている。

「松永久秀」

逆上型で知られる信長が、何故か、松永久秀には甘かった。

信長を久秀は2度裏切っている。

しかし、信長は「この男なかなかの悪人である」と言いながら、

3度目の裏切り対しても「許そう」 と使者を送っているのだ。

狡猾で傲慢不遜の「戦国乱世の梟雄」とか「日本三大梟雄」といわれ、

謀略や暗殺など手段を選ばない人物なのにである。

戦国の三梟雄=『斉藤道三』・『宇喜多直家』・『松永久秀』
日本三大梟雄=『斎藤道三』・『北条早雲』・『松永久秀』

みての通り、どちらにも久秀の名前が見てとれる。

さらに、

① 13代将軍・足利義輝暗殺。
② 東大寺大仏殿の焼討ち。
③ 主家・三好家に対する暗殺と謀略。

この三つを前置きして、信長は、

「この人物は全く油断ができない、

 彼の三悪行は天下に名を轟かせた男である」

と久秀を家康に紹介しているのである。

着地する悪い噂のどまん中  嶋澤喜八郎   



三好三人衆・岩成友通

永禄3(1559)年8月,松永久秀、大和信貴山城主となる。

主家の嫡男・三好義興と供に将軍・足利義輝の御相伴衆になり、

主君・三好長慶と同格の桐紋と塗輿の使用を許された。

久秀は多聞山城を築き六角家と争い、政所執事伊勢家を討伐。
                   そごうかずまさ
永禄6年(1562)、長慶の弟・十河一存、嫡男の義興を毒殺し、

弟・三好義賢の討死後、三好政権は、
                      ろうだん
三好長逸「三好三人衆」と久秀が壟断するようになる。

長慶が病死すると、久秀らは喪を秘したまま、将軍・足利義輝を暗殺。

(三好三人衆=三好長逸・三好政康・岩成友通)

久秀はこの三人衆と別段仲が良かった訳でも無く、

足利義栄を擁立直後、三人衆との対立が表面化する。

その辺から久秀は孤立、一時、消息が途絶える。

矢面に立てるか長になるならば  伊藤志乃



永禄10年(1566)、突如として姿をみせた久秀は、

東大寺に立て篭る三好三人衆を奇襲し、大仏殿に火を放つ。

この内粉で消耗、弱体化した三好政権は、

翌年の9月、信長の軍事力の前に崩壊。

このとき久秀だけは、大和一国を安堵されている。

信長が足利義昭を擁して上洛した際は、

義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として、「久秀を誅殺せよ」と命じた。

が、信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。

この時この恩をもって久秀は信長に、

臣従の証しとして名器・「九十九髪茄子茶入」を献上している。

第一次信長包囲網の折には朽木元綱を調略し、信長のピンチを救う。

これが信長に対する久秀最初で最後の忠節であった。

敵の敵は味方じゃないと傷が言う  竹内いそこ

元亀2年(1571)、義昭と呼応し、久秀は武田信玄に通じて信長に背く。

これは信玄の死によって実らず、降伏。

これを信長は、「一回目は許す」を信条として,

久秀を許し、大和支配を安堵させた。

天正3年(1575)、多聞山城と大和守護を失うと、

北陸の上杉謙信を頼んで,再び信長に背く。

天正5年(1577)、上杉謙信・毛利輝元、石山本願寺などの

反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。

信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり、

再び対決姿勢を明確に表した。

時々は堪忍袋解き放つ  合田瑠美子



『太平記英勇傳松永弾正久秀』-平蜘蛛釜・謀反-落合芳幾

信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、

使者には会おうともしなかった。

信長は、嫡男・信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、

信貴山城を包囲。

所有していた「名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命する」

と寛容な対応を提示したが、それに対して久秀は

「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ。

  粉々に打ち壊すことにする」

と返答したという。

信長のもとに人質として預けていた2人の孫は、京都六条河原で処刑。

そして東大寺大仏殿を焼き払った10年後の同じ10月10日に、

久秀はついに抗しきれず、名器・「平蜘蛛の茶釜」を抱いて、

火中に投身した。享年六十八。 

『平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ』

は久秀辞世の句とされている。

地獄の扉に「ようこそ」と書いてある  新家完司

「信長のなぜを考える」

信長が語った久秀の「三悪事」に対し、

信長自身も主君に当たる織田大和守家の当主・織田信友を討滅し、

将軍であった足利義昭を追放し、「比叡山焼き討ち」を敢行する等、

久秀とまったく同じような所業を成している。

似た者同士、「親近感を抱いた」のではないかという説がある。

また、下克上でのし上がった乱世の奸雄としては、

斎藤道三とも類似しており、

「信長は道三の面影を久秀に見ていた」

のではないかという説もある。

赤い血を出さないように串を刺す  寺川弘一


「平蜘蛛」


蜘蛛が這いつくばっているような低く平らな形から名付けられたという。

「松永久通」

大和国多聞山城主。 松永久秀の嫡男。
                         ながやす
三好三人衆の一人三好長逸とともに将軍義輝暗殺の実行犯となった。

三好三人衆との内戦では多聞山を死守し、

将軍義昭を奉じて、上洛した信長に父・久秀とともに臣従。

しかし信長と義昭が不仲になると、父とともに信長に反逆して敗北。

裏切者にきびしい信長からなぜか父子とも許されたが、

その後に謙信の上洛の話にのって再度反旗をひるがえし、

父とともに、信貴山城で自害した。

ポキポキポキポキそれは無駄骨  鳴海賢治

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灰色を桃色にする春嵐  新家完司



   フランシスコ・ザビエル

スペイン・ナバラ生まれ。
ポルトガル王ジョアン三世の依頼でインドのゴアに派遣された。
天文18年(1549)日本へ初めて訪れ、キリスト教を伝えた。
                                  (画像は拡大してご覧ください)

リアリスト・官兵衛」

日本に初めてキリスト教が伝来した戦国時代。

天文18年(1549)、F・ザビエルの九州上陸に始まり、

大勢の宣教師が海を渡り、わが国に教えももたらした。

「ドン・シメオン」これが官兵衛の洗礼名である。

官兵衛がキリスト教に入信したのは、

天正13年(1585)前後といわれている。

その模様が当時布教活動にあたっていたルイス・フロイス

著書・
「日本史」にみられる。

空即是色あんたはわたし手を挙げろ  むさし



フロイスが記した「日本史」

ここには書かれていないが、官兵衛は表向き棄教しただけで、
ひそかにキリスト教を信仰し続け、信徒らを保護したという逸話もある。

「時に天下は太平で、各地の武将たちは頻繁に政庁を訪れるために、

 大坂に出入りし、その機会に我々の説教を聴き・・・中略・・・洗礼を受けた。

 その受洗者の中に関白(秀吉)の顧問を務める貴人がいて、

 毛利との和平を成立させた」

この貴人こそが官兵衛である。

彼は日本人キリシタンの一人としてフロイスの書物に登場している。

官兵衛をキリスト教へ誘ったのはフロイスではなく、

高山右近小西行長であった。

2人ともキリシタン大名として知られる熱心な信徒だった。

当初、官兵衛はキリスト教のすべてを理解していたわけでなく、

右近や行長の熱意に応えた格好だったようだ。

よもぎ餅あんたの鼻へストライク  井上一筒
  
それでも一時期、官兵衛は熱心にキリスト教の布教にも協力した。

秀吉の命令で九州征伐を行う前、

彼は先発隊の司令官として毛利家の領地・下関へ赴き、

退廃していたキリスト教の教会を復活させるよう、

領主・毛利輝元に頼んでいる。

挑戦を受けてみろよと言う日差し  立蔵信子

ここでは、司祭が定住することを認め、

司祭に無期限で土地を提供すること、自由に布教することなどを認めた。

下関では、名声のある貴人たちに説教を聞かせ、

およそ60人が洗礼を受けたほか、

播磨から遠征してきた二人の弟(利則、直之)にも、

説教を聞くよう命じ、洗礼を受けさせた。

秀吉の側近中の側近である官兵衛の名は全国に轟いていたため、

輝元の重臣たちは、輝元の前に出る時以上に緊張していたという。

弓を引く的はあなたののどぼとけ  池部龍一

その官兵衛が司祭に対して、深い尊敬と恭順を示したので、

人々はこれを見て驚嘆したそうだ。

九州征伐では布陣中の諸隊の陣営を巡回したが、

その際に2名の修道士を同伴した。

各陣営には、キリスト教の訓えに興味を持つ者もあり、

その者らに対して修道士の口から説明させたのである。

しかし天正15年(1587)7月に秀吉がバテレン追放令を出し、

右近らがこれに反抗して改易されると、

官兵衛は率先して令に従い、キリスト教を捨てた。

揺れたのは片時歩には歩の仕事  松谷大気



   ルイスフロイス

ポルトガル・リスボン出身のカトリック司祭。宣教師。
戦国時代の日本に上陸し織田信長や豊臣秀吉と会見。
文才に優れ『日本史』や『日欧文化比較論』など、
当時の日本社会や偉人たちの、
人物像を伝える貴重な資料の数々を書き残した。

秀吉の側近である官兵衛を頼りにしていたフロイトを

はじめとする宣教師、他のキリシタン大名は、

秀吉の側近である官兵衛の棄教にショックを隠せなかったようだ。

高山右近は棄教できず、マニラに追放されたほどで、

官兵衛がもし公に信仰を続けていれば命はなかったかもしれない。

一方、フロイスは官兵衛のことを

「熱意にもかかわらず、教理の知識が不足していた」 と評している。

嘆き節である。 

続篇の生むアドリブが騒がしい  古田祐子

官兵衛は、「宗教は頼るものではなく利用するもの」

と考えていたリアリストだったのだろう。

彼にしてみれば、「秀吉がダメというのならダメ」

というスタンスに従っただけであり、

そこにはいささかの躊躇いもなく、秀吉への強い忠誠心も伺える。

秀吉は当初、キリシタンやキリスト教に寛容であったが、

やがてその勢力拡大および、それに伴う外国の侵略に危機感を覚え、

先の「追放令」を結構したのだ。

続いて政権を握った徳川家康もキリスト教を禁じてる。

官兵衛と同じく、息子の黒田長政もキリスト教を捨て、

江戸時代になると率先して、キリシタンを迫害する側へ回っている。

信仰に関していえば、その変わり身の速さは、親子共通だったようである。

片方の耳はしぶしぶ承知する  山本昌乃 

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指切りのきっとときどき疼きだす  三村一子               

 

「揺れ動く播磨」

英賀の戦いで毛利の大軍を追い払った官兵衛は、

姻戚関係にある明石氏棚橋氏などを説得し、

戦わずして播磨の大半を織田方に調略した。

その外交手腕に感嘆した秀吉は、

官兵衛への信頼を高め義兄弟の契りを交わした。

しかし、西播磨は毛利氏の勢力圏に近いこともあって、

信長に敵対する勢力が残っている。

一方、信長は毛利の水軍を味方にした本願寺を落すのに手こずっている。

官兵衛は約束の羽柴軍が一刻も早く播磨に入る日を待ち望んでいた。

ところが、事態は官兵衛の期待する反対の方向に進みだす。

蛇口から水はけっして疑わぬ  森田律子

信長が播磨行きの中止を決めたのだ。

このとき、足利義昭の仲立ちで上杉、武田、北条が和睦し、

背後をつかれる恐れがなくなった上杉謙信が、

上洛の兵を出す懸念が生じていた。

そのため信長は越前を固め、謙信に備えることに軌道修正をした。

しかも、毛利の水軍を味方につけた本願寺を落すのに手こずっており、

ますます本願寺戦が長引くことが考えられた。

さらには、反旗をひるがえした丹波の波多野秀治

容易に片付く相手でなかったことから、

「信長は播磨を見捨てる決断をした」 のだった。

幹はアカペラ枝葉のことは気にかけぬ  阪部文子



〔波多野秀治〕

丹波国八上城主。娘は三木城主・別所長治に嫁いだ。

足利義昭を奉じて上洛した信長に臣従していたが、

突如として反旗をひるがえし、

丹波平定戦をしていた明智光秀を急襲して敗走させた。

これに激怒した信長は、光秀に大軍を与えて攻撃を厳命。

八上城は約1年半の籠城戦を耐え抜いたが、

「秀治たちの助命、および光秀の母を人質に差し出す」

という破格の条件を提示され降伏した。
                ひでひさ
しかし秀治と弟・秀尚を許さず、安土にて処刑。

信長が約束を反故にしたことで、怒った波多野家の家臣たちの手によって、
           たっけい
光秀の母が磔刑に処された。

このことが、本能寺の変を招く一因になったともいわれている。

よけたのは目の前だけの水たまり  みつ木もも花



〔宇喜多直家〕

不遇の幼少期を過したのち、浦上宗景に仕官して数々の武功を挙げ、
おとご
乙子城主となる。

領土を拡大するために姻戚関係を結び、

身内となって油断したところを殺す

などの容赦のない手口を繰り返し、謀略の限りを尽くして、

備前美作を領有する戦国大名となる。
          きゅうゆう      ぼうれい  しせいかんねい
そのため「梟雄」「悪逆暴戻」「資性奸佞」などと形容された。

踏めばすぐ落ちる梯子を駆け昇る  筒井祥文



〔本願寺顕如〕

12歳で継職して本願寺11世となり、

祖母・慶寿院の補佐を受けて教団を運営する。
                                 おおぎまち
信長との石山合戦を主導した後、正親町天皇の仲介により和睦し、
      さぎのもり
紀伊国鷺森に退去した。

信長の跡を継いだ秀吉とは友好関係を保ち、

天正19年(1591)京都堀川七条に寺地寄進を受け、

翌年、京都に本願寺を再興した が、その年に50歳で死去する。

命預けます散らかってますが  酒井かがり

【本願寺】

戦国時代の最大宗教勢力。

親鸞が開いた浄土真宗の本願寺派の宗教団体で、通称は一向宗。

武士に不満を持つ信者の農民たちが一向一揆の集団として勢力を強め、

加賀国では国主を自害に追い込んで、

本願寺門徒の支配する国が誕生するほどだった。

法主・本願寺顕如は信長に敵対して10年にもおよぶ「石山合戦」を展開。

降伏する際、徹底抗戦を唱える子・教如を勘当したことで、

顕如派の西本願寺、教如派の東本願寺に分かれることとなった

借景がヒタヒタしてる蟹歩き  岩根彰子 



〔足利義昭〕

諸国を転々としていたが、信長の助力で上洛を果たし、

室町幕府15代将軍に就任する。

しかし、信長と不和を生じ、

各地の大名にひそかに「打倒信長」を呼びかけるようになる。

逆鱗にふれた信長から追放されても、幕府の復権をあきらめず、

中国の毛利氏を頼って、「反信長同盟を画策」 し、

足利家の家名と「御内書」と呼ばれる手紙だけを武器に戦い続けた。

和解したしるしの首がぶらさがる  佐藤正昭



〔小早川隆景〕

深慮遠謀の覇者・毛利元就を父とし、

勇猛果敢な武者・吉川元春を兄とする。
     かいい         えけい
容貌魁偉な安国寺恵瓊とともに、本家の若き当主・毛利輝元を支え、

毛利家を盛り立てた知将。

中国地方に攻め寄せる秀吉の軍勢をあらゆる手段で阻止しようと試みた。

最終決戦となった備中高松城の攻防戦で出会った官兵衛とは、

互いに認め合い、やがて畏友となる。

取り分は1対9で合意した  井上一筒



〔安国寺恵瓊〕

毛利家の軍師・外交官として働き、

本能寺の変と秀吉の台頭を、早い段階で予見していた鋭い眼力を持つ。

毛利氏の名代時代に秀吉との交渉を担当し、やがて、

豊臣政権となると秀吉に重用され、東福寺の修復や建仁寺方丈を確立。

しかし関が原で敗北し、

石田三成、小西行長らとともに西軍の首謀者として処刑される

百八の魑魅魍魎がノックする  園内知香



〔高山右近〕
                                   いみな
摂津国高槻城主。幼名は彦五郎で、諱は友祥、長房、重友など。

当初は荒木村重に属したが、

村重が有岡城に籠城した際に信長に仕えた。

信長の死後は秀吉に従い、播磨国明石6万石を拝領。

「キリシタン大名」 として知られ、洗礼名はジュスト。

「利休七哲」のひとりで文武両道に優れ、

右近の影響で官兵衛や蒲生氏郷が受洗した。

秀吉の禁教令に従わず改易され、家康の禁教令で国外追放、

フィリピンのマニラで病没した。

満月の置場を探している茶室  くんじろう

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