ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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戊辰戦争後の山本家
ケセラセラのセラはとっても貧しそう くんじろう
戊辰戦争図
(画像は拡大してご覧下さい)
「戊辰戦争以後の山本家」
「鳥羽伏見の戦い」
で、
山本八重
の兄・
覚馬
は行方不明、
弟・
三郎
は戦死。
その悲報で幕を開けた
「八重の戊辰戦争」
だったが、
「会津戦争」
によって、さらなる悲劇に見舞われることになる。
61歳の父・
権八
は、50歳以上の藩士で構成された
「玄武隊」
に所属して連戦していた。
しかし、南方の兵站を断つべく攻めてきた新政府軍と、
激突した一ノ堰で、遂に戦死する。
降伏間近の9月17日のことであった。
さよならが魚のかたちにうずくまる 大西泰世
降伏開城すると藩士は猪苗代、そして東京で謹慎を命じられ、
女性や老人、子供は塩川から喜多方周辺の農家に当面、
住むように命じられる。
八重と母・
佐久
、兄嫁・
うら
、姪・
みね
の4人もしばらくは、
そこに滞在していたようだが、その後、米沢に移った。
会津に留学して
川崎尚之助
に砲術を師事していた
米沢藩士・
内藤新一郎
が、山本家の窮状を見かねて
援助の手を差し伸べてくれたのである。
傷口を重ね塗りしてB面へ 谷垣郁郎
やがて、
覚馬
が京都で生存していることがわかり、
一家は明治4年
(1871)
、京都に向かうことになる。
しかしそこに覚馬の嫁・うらの姿はなかった。
その時すでに京都では、身体が不自由になった覚馬を、
時栄
という女性が献身的に支えていた。
京都で覚馬が開いた洋学所に学んだ丹波郷士の
小田勝太郎
が、目の不自由な覚馬のために、
自分の妹・時栄に身の回りの世話をさせたのが、
きっかけだというが、八重たちが京都に向かった年には、
久栄
という娘も誕生している。
後ろ指さされても膝カックンされても 酒井かがり
恐らく、うらは自ら身を引く決断を下したのであろう。
また、八重の最初の夫、川崎尚之助もいなかった。
尚之助は会津戦争の頃には、
会津藩士になっていたらしく、他の藩士と共に謹慎した後、
となみ
会津藩が再興を許された地・
斗南
にむかったのである。
おとなしのかまえでこれからを泳ぐ 笠嶋恵美子
"みちのくの斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ"
〔 山川 浩 〕
尚之助なぜ、八重たちを連れず、
単身で斗南に向かったのか。
藩士に取り立ててくれた会津藩への恩義を感じつつ、
しかし蘭学者らしい合理的精神で、斗南での苦労を予見し、
当座、かつての弟子で米沢藩士の内藤に
家族を預けたほうが安心と考えたのだろう。
とはいえ酷寒の地・斗南の苦境は、
尚之助の想像さえ、はるかに超えた。
残高も踵のヒビも読み違う 井上一筒
藩士の餓死の危機を脱するために、
尚之助はデンマーク領事で商人でもあったデュースから
広東米を調達しようとする。
しかし、仲介した日本人貿易商が契約を履行せず、
尚之助はデュースから
損害賠償の訴訟
を起されてしまった。
藩を巻き込むことを恐れた尚之助は、
すべての罪を一身にかぶり、
東京での司法裁判に臨むのである。
≪八重と離縁したのはこの時と考えられている)
夕刊には小さく美談にされている 山本昌乃
いんじゅん
佐久は、因循なところが全くなく、八重の受洗に続いて、
明治9年
(1879)
末にキリスト教の洗礼を受ける。
そして、同志社女学校の舎監を務め、
女子生徒たちに実の祖母のようにやさしく接し、
「山本のおばあさま」
と慕われた。
今日の地図さて何色で塗りましょう 合田瑠美子
みねも、佐久と共に洗礼を受けた。
後に同志社女学校を卒業。
同志社英学校第一回卒業生で
横井小楠
の長男・
横井時雄
と
明治14年
(1881)
に結ばれる。
だが明治20年
(1887)
、長男の
平馬
を出産後、病死する。
時代の激動に翻弄された山本家。
明治以降の八重たちの歩みの陰には、
一人ひとりのドラマがあったのである。
今日と明日の間を痩せたらくだゆく 森中惠美子
[4回]
PR
y2013/07/17 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
籠城戦の中で
棘の深さを夢の深さと思ってみる 大西泰世
戦傷兵の手当てに活躍する城内の婦女子たち
(〔長谷川恵一画〕)
(画像は拡大してご覧下さい)
「籠城戦の中で」
城の中は多くの人たちが集まっていた。
先ず女たちは、誰に言われた訳ではないが、
手際よく、米を磨ぎ、飯を炊き、兵士たちのための、
「握飯」
を作り始めた。
大釜を幾つも並べ、火を熾し、炊き上がった飯から、
順々に握り始めた。
「炊きたてで熱いわよ」
「水で手を冷しながら握るといいわよ」
「熱っ!本当に熱いけど、戦っている男衆のことを思ったら、
何でもないよ」
「手に付いた米粒が桶に溜ったら、あとでお粥にするからね!」
「お焦げも捨てないでね、あとで女衆は、
それをいただきましょう」
などと実に結束しているのだった。
平凡がいいと握った塩むすび 太田 昭
また女たちは、
「弾丸作り」
も積極的に参加していった。
西軍の銃撃は激しく、城中からも応戦するのだが、
銃弾や大砲の弾が間に合わないほどだった。
そこで女も、兵士に教えてもらいながら弾丸作りをし、
出来上がった重い弾丸を運ぶのであった。
百個を一箱に詰めて運ぶのだが、
八重は、火事場の力持ちのごとく、
二箱も三箱も肩に担いで運ぶものだから、
男装していることもあって、
「三郎さん頑張るね!」
「力持ちだな、三郎さんは!」
「たよりにしてるよ三郎さん!」
「頑張り過ぎるなよ三郎さん!」
と、兵士たちは八重をねぎらうのであった。
振り向くとみんな大きな愛でした 牧渕富喜子
籠城戦も日をかさねて行くと、
敵の弾に当って負傷する者がでてきた。
薬も充分ではないが、八重たち女子は、
かいがいしく手当てをしていった。
しかし、ある晩のこと、
長い廊下に一列になって兵士が寝ているのを見つけて、
八重はびっくりしたものだった。
―よほど戦いに疲れておられるのだなあ、
風邪でもひかれたら大変だ。
と灯火をつけると、
寝ているのではなく死んでいるのであった。
―この人たちの分も戦わなくては!
再び強く決意する八重である。
夕日かも知れず隣の独り言 蟹口和枝
八重も何度か危険な目にあっていた。
籠城後三週間ほど経った頃、攻撃が激しさを増していった。
御女中見習いから側女中格になった八重が
照姫
の命で
食事を運んでいた時のこと、
敵の砲弾が足元近くで破裂したことがあった。
幸いにも直撃しなかったが、
土ぼこりで盆のおにぎりは泥だらけになるわ、
一緒に運んでいた女たちも皆、土をあび、まっくろな顔になった。
恐怖心よりも驚きと可笑しさの方が勝って、
皆大笑いしてしまった。
プロセスの涙に疎い土踏まず 中井アキ
銃弾が当りそうになり間一髪命拾いしたこともあった。
弁当を運んでいる時に、
チョットかかんだ拍子に弾が頭をかすめたのだ。
この時も運がよく、その前に知り合いになった兵士の一人が、
「三郎さん!頭を守りなよ!」
と言って、
くれた帽子をかぶっていたため、
その帽子がはじき飛ばされて八重の身代わりとなった。
鈍いふりして針の山生き延びる あかまつゆうこ
新政府軍となった敵の総攻撃が始まったのは、
9月の半ばのことであった。
そのすさまじさは、
月見櫓を守っていた老人が飛んできた砲弾を数えたところ
2000発を超えたという。
藩主・
松平容保
も大砲の威力や銃の重要性を再確認し、
城内に居る砲術に詳しい者を問い、
八重が推挙され、
御前で敵の不発弾を分解し、説明をした。
プラチナの匙真夜中を裏返す 井上一筒
城を見下ろす小田山に連合軍が砲列を敷き、
攻撃してきたので、
三の丸の土手から集中的に応戦することになった。
政府軍がアームストロング砲を撃つのは、
東に1360m離れた要衡・小田山から。
会津藩も大砲隊士や
川崎尚之助
らが、
小田山に向け四斤砲で撃ったが、空しい攻撃だった。
雨雲がぎっしり覆う後頭部 笠嶋恵美子
銃弾運びも忙しくなり頻繁に行ききしていた八重が、
尚之助に出会ったのも、そんな戦いのさ中であった。
開戦以来消息が判らなかった夫であったが、
尚之助と見つめあった八重は、
―生きていらしたのだ、よかった。
という思いでしばらく言葉がでてこなかった。
尚之助も同じ思いらしく、ただ八重をじっと見つめていた。
一筋のひとすじの道生きて来た 河村啓子
三の丸の大砲隊を指揮していたのが夫であったのだ。
憔悴しきったような夫を見つめて、
「お前さまどうなされました?お疲れのようですが?」
「ああ、人手がたりなくてな」
「では、私がお手伝いいたします」
「助かる!」
西軍の激しい砲撃に対して、八重の助けも加わり、
尚之助は敵砲の攻撃を黙させることができた。
しかし多勢に無勢であるこの戦は、
尚之助が指揮する砲台だけでは無力であった。
不連続というけどずっと雨である 田中博造
鶴ヶ城を取り囲んだ政府軍の数は3万人を超え、
9月14日、総攻撃がはじまった。
早朝から日暮れまで砲弾が雨あられと降りそそいだ。
会津藩は、窮地に立っていたが、
弱みを見せるわけにはいかなかった。
その一策が
凧揚げ
だった。
凧揚げは降伏する日まで続いたという。
満潮の時も鼻だけ沈めない 寺川弘一
[3回]
y2013/07/13 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
彼岸獅子
葬送に「いい日旅立ち」予約する 斉藤和子
山川大蔵獅子舞無血入城
(画像は拡大してご覧下さい)
「彼岸獅子」
籠城戦二日目の慶応4
(1868)
年8月25日、
城内の兵が少ないことを憂いた
松平容保
は、
日光口にいた家老・
山川大蔵
に使者を出した。
―城中兵少なく守備薄弱なり、速かに帰城すべし、
但し、なるべく途中の戦闘を避くべし。
この指令は即座に下郷町大内から、
北会津町小松に通達された。
さらに斥候を城に送り、
―賊徒城外に満つ、途中の衝突免るべからず。
との報告を受けた大蔵だった。
真っ直ぐを透かしてみれば傷だらけ 合田瑠美子
しかし、城外の会津藩の部隊にとって、
いかに帰還するかは、大問題であった。
が、
「可なり我に一策あり」
として大蔵が考えついたのが、
「彼岸獅子」
を利用した入城である。
日光口で戦っていた大蔵は、若松城近隣まで戻ると、
城から一里ほど離れた小松村で
彼岸獅子を調達
し、
その囃子を先頭に立てて行進させたのである。
≪その日、大蔵らは小松の
大竹小太郎
家に一泊、
小太郎に対し、
「松平家三百年の恩顧に報ゆるはこの時ぞ」
と伝え、小太郎は、勇気ある独身男子を集めたという≫
絶望のふちから上澄みをすくう 三村一子
「入城実況」
小松を出発した一団は、楽手を先頭にして縦隊をつくり、
秘かに阿賀川を渡り、全員が渡り終えると、
大蔵は、飯寺の西で一団を勢揃いさせた。
楽手を先頭に、大蔵が続き、縦隊整列。
大蔵の
「前進」
の命令で、彼岸獅子の囃子が始まり、
材木町、川原町橋周辺を占拠していた
長州藩と大垣藩の南側を堂々と行進した。
すると、
「西軍これを望みその勇壮活発なる奏楽威風凛々たる
隊容を見て、意表天外、拱手傍観、唖然、として、
銃を杖つき遥かにこれを迎送するのみ、
敢えて来り、其所属を問ふものなし」
(『小松獅子舞考』)
万華鏡に演技指導を受けました 美馬りゅうこ
かくて、
「大蔵の一隊意気揚々として、西追手門より入る。
城これを見歓声を挙げこれを迎ふ、
これに反し西軍初めて其東軍なりしを知り、
切歯扼腕すれども及ばず、ただ左右相顧み唖然として、
う
自からその迂を笑うのみ、
西軍は一団が城に入ると初めて会津藩兵と知り、
地団駄を踏んだ」
(『会津戊辰戦争』)
≪この時、獅子舞を演じたのは、
隊長の
高野茂吉
、数え30歳を頭に、平均15.7歳の10人。
茂吉以外すべて十代で、最年少は
藤田与二郎
11歳であった≫
真上からのぞけば穴があいている 嶋澤喜八郎
耳に馴染んだ囃子を聞けば、どんな会津兵も味方だとわかる。
一方の西軍は、一体何が起きているのか、呆気にとられ、
ただ拱手傍観、山川隊の隊列を見送るだけであった。
大蔵は河原町郭門から郭内に入り
全員無傷で西追手門から堂々の入城を果たした。
次々の入城で、城内の兵力は3千ほどになり、
士気も大いに高まった。
鬼が泣いている僕は笑っている 福尾圭司
会津藩は体制の立て直しを図り、
山川大蔵が軍事を統括するこことなり、
指揮系統は大いに旧来の面目を一新した。
この時、
佐川官兵衛
は城外の戦いの総督を命じられ、
8月29日に決死隊千名を率いて出撃し、
敵を掃討して、
城の南西方面の糧道を確保する任に、当たることになった。
ボタン一つで明日の風も予約する 八上桐子
8月28日夜、
容保
は
「官兵衛の出撃を壮
」として、
はいとう
酒を賜り、佩刀を与え、官兵衛も、
「もし利あらずんば、再び入城して尊顔をは拝せず」
と、その覚悟を示した。
だが官兵衛はその賜酒に沈酔し、
予定時刻の翌日未明になっても起きてこない。
結局、出撃は朝の7時を過ぎていた。
リポビタンD も効かない飲み疲れ 新家完司
融通寺町口から突出した会津藩は、
懐中に遺書を忍ばせ、文字通り決死の攻撃を敢行。
この方面の備前藩、大垣藩の陣地を取り、
さらにその先の長命寺を奪取する。
だが土佐、薩摩、長州などの軍が次々と来援。
会津藩は次第に押され、白兵突撃を幾度も敢行するが、
敵を崩すことができず、
遂に容保から退却命令が発せられた。
この戦闘で、会津藩の精鋭百数十名が戦死。
官兵衛は自軍を城内に退却させるも、
自らは敗戦の責を取り入城せず、以後、城外で手兵を率いて、
糧道確保
のための戦いを続けることとなった。
地平線つなぐ長芋 and 数珠 井上一筒
その
官兵衛
が大きな戦果を挙げたのは、
9月5日のことである。
薩摩の
中村半次郎
に率いられた日光口からの西軍部隊が、
若松城下に入ろうとしていることを知った官兵衛は、
砲兵隊を伏兵にして秀長寺付近で待ち構え、
敵が迫るや一斉に攻撃。
西軍は周章狼狽し、多くの軍需品を遺棄して潰乱した。
ろかくひん
官兵衛は銃砲や弾丸、糧食などの鹵獲品を、
城内に送り届けたのであった。
サーカスのテントの中にある絆 赤松ますみ
官兵衛や越後口の戦いから撤退してきた
一瀬要人
、
さらに
斎藤一
(山口二郎)
率いる
新選組
などの諸部隊は、
城の南西方面で糧道を確保すべく、奮戦し続けた。
だが、西軍が続々と来援。
その数はのべ3万にも上がり、
次第にこの方面も強く圧迫されるようになる。
二度噛んでいるやはり渋柿 武智三成
[3回]
y2013/07/10 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
八重の籠城戦
次の世は星になるのか風なのか 新家完司
(各画像は大きくしてご覧下さい)
「八重の籠城戦-マップ」
① 8月23日朝、
八重
、入城
三の丸下あたり
② 8月23日~、敵軍を三方向から銃撃し、
城内への侵入を防いだ。
伏兵曲輪の上
③ 8月23日~、
八重
、スペンサー銃で薩摩藩二番砲隊を狙撃。
大山弥助
(巌)を狙撃か
北出丸上
④ 8月23日夜、
八重
、夜襲にも出撃。以後も度々敢行
北出丸右
⑤ 8月24日頃、
八重
が夜襲に出ようとしたところ、
少年たちに随行することを請われる
天 守
⑥ 8月26日、
山川大蔵
らが
「彼岸獅子」
を先頭に立てて入城を果たす
西出丸
⑦ 8月26日、
中野こう子、優子
らが入城を果たす
西出丸
⑧ 9月14日の新政府軍の総攻撃後、大書院、小書院の病室に
食事を届ける途中で、
八重
の至近距離に敵の砲弾が落ちる。
本丸
⑨ 9月22日、
降参の白旗
が掲げられる
北出丸
⑩ 9月22日午後、会津兵が三の丸に移される
三の丸
⑪ 9月22日夜、
八重
が雑物庫の白壁に
「明日の夜は何国(いずく)の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ」
の歌を刻む
2つの三の丸の間
八重
、連日狙撃する
西の丸
松平容保
指揮所。八重が不発弾の解体を披露する
鉄門
藩士に弁当を届ける途中に、敵の銃弾で
八重
の帽子が飛ばされる
11番と同じ
川崎尚之助
が砲隊を指揮し、小田山の敵砲陣を砲撃。
豊岡神社に
四斤山砲
を据え、山頂の墓碑を目印とした。
八重
もこれを手伝う
下の方の三の丸あたり
南走長屋と干飯櫓
ひたむきな命は美しいものだ 杉本克子
「八重の籠城戦」
郭内に突入した西軍はただちに北出丸攻略にとりかかった。
北出丸御門は、藩主および公用をおびた重役のみが
出入りする
鶴ヶ城の表門
である。
西軍の銃撃に対して、城中からも激しく応戦した。
八重
もこれに参加、銃眼からスペンサー銃を撃ちまくった。
そのうち、西軍の銃声が砲声にかわった。
これは薩摩の
大山弥助
の率いる二番砲隊が、
活動を開始したのである。
たちまち犠牲者が続出した。
後悔がひたすら落ちる砂時計 石橋能里子
城中の旧式ゲベール銃などでは、
到底太刀打ち出来るものではない。
―このままでは表御門が突破されてしまう!
八重の脳裏に、その時、ひらめくものがあった。
城中に
四斤山砲
があったことを思い出したのだ。
八重は、玄武隊の兵によってこれを運び込むと、
城壁の土台の石垣を突き崩し、
そこから山砲の砲身を差し出して、砲撃を開始した。
もう一度同じ時間に乗ってみる 高島啓子
老兵たちは、彼女の指示に従って弾丸の装填をし発射した。
最初のうちは不器用だった彼等は、次第に馴れて、
敵陣に着弾するや、面白がって連発発射した結果、
さしもの薩摩砲隊も沈黙し、
「撤退した」
と知ると歓声をあげたものだった。
このことから初め男装の八重を見て、
単なる「お転婆娘」ほどに思っていた彼等も、
最後は言葉遣いまで改めて接するようになった。
「いやあ、女ながら、大したものだ」
と。
こうして八重の籠城は始まった。
ポニーテールほどいて四つキーをあげる 酒井かがり
八重はしかし、薩摩砲隊の撃退くらいで満足せず、
単独の夜襲出陣を企てた。
―これほどでは、三郎の無念は消えやせぬ。
との思いが強いのである。
スペンサー銃を担ぎ、
御台所門
に向かったところ、
12、3歳の少年が10人ばかり、
槍の柄を手ごろに詰めたものを持って、
たむろ
屯していたが、八重の姿を見ると、
「八重様、わたしたちも夜襲に同行させて下され!」
と誠意をこめて願った。
さすがに彼女も当惑し、本営にどうしたものかと諮ると、
心情は分らぬものではないが、敵方に、
「さては城中に兵少なく、会津様では、
女子供までも狩り出したかと、あなどりをかうではないか」
と叱責され、八重の夜襲は取りやめとなった。
生きていてくれと言われて生きている 永井 尚
間もなく、城内に藩兵の姿が急に目立つようになった。
城下の危急を知った遠征部隊が、馳せ戻ってきたのである。
それにつれて、西軍も長期作戦を取った。
以来、八重は藩兵の夜襲に混って、たびたび城外出撃をした。
が、彼女の場合は特殊であり、
籠城婦人たちの大方は、
兵士のための
炊飯
、
傷病兵の看護
および、
銃弾作り
が主な役目であった。
むろん八重もこれらに参加しなかったわけではない。
ことに銃弾作りと、運搬には、彼女らしさを発揮した。
ゴミ箱に私が落ちていませんか 守田啓子
百発を1箱に詰めた物を、
鉄砲隊に届けるのも女の仕事の一つで、
百発の重量は、女の細腕に余る重さであったが、
八重は2、3箱を抱えて平然としていた。
「三郎さんにはかなわない!」
女たちはそんな八重に嘆声をあげた。
この頃の八重は、友人に頼んで断髪していたので、
誰もが彼女を
「三郎さん」
と呼んだのであった。
城中城外での激しい攻防戦のすえ、
9月に入ると、ついに西軍は総攻撃を開始した。
UFOは蚊取り線香で追いはらえ 筒井祥文
城を見下ろす小田山に砲列を敷いて砲撃したのだ。
砲弾は月見櫓を越えて、城内へ落下した。
月見櫓を守った老人が数えたところ、
1日千発をはるかに越えた凄まじさであった。
八重が目撃しておどろいたのは、
天守閣に砲弾が着弾するや、猿のごとく屋根の上を走って、
その砲弾を素早く衣類に包んで投げ捨てていた
一団がいたことだ。
これは江戸屋敷出入りの鳶の者が40余人、
藩士に従いて会津に来、籠城したとのことであった。
「鉄砲や大砲の弾が恐くって、
逃げたとあっては、江戸っ子の恥だい!」
という啖呵が聞こえるようである。
火渡りのもう戻れない列につく 大西泰世
鉄 門
八重が
松平容保
の御前で不発弾を分解し、
砲弾の仕組みについて進講したのも、この時のことで、
黒金門内
の采配所で容保は、
感じ入った面持ちで八重の説明に耳を傾けていた。
八重が開戦以来、別れわかれになっていた、
川崎尚之助
と偶然めぐり逢ったのも、
西軍の砲撃が激しくなり、降りそそぐ砲火の中で、
銃弾運びをしていた時であった。
昨日から前頭葉に柿の種 森茂俊
三の丸鉄砲隊の陣地へ伺おうとし、
三の丸
の土手にさしかかった時、
さしもの彼女も思わず「あ」と棒立ちになった。
三の丸の土手の
大砲隊
を指揮し、
小田山の西軍に反撃を加えている人物が、
他ならぬ夫の尚之助だったからである。
八重に気付いた尚之助が、
片手を上げて
「お!」
と目をみはったのは、
八重が男装だったからに違いない。
まさしく、久方ぶりの対面であったが、
「ご苦労さん」
「お前様も」
「気をつけてな」
「あなたも」
二人の交わした言葉は簡略である。
直角に曲がる律義な人ですね 竹内ゆみこ
これが夫婦永別の時となるとは、もとより知る筈もなく、
八重は他の女達とともに、鉄砲隊の陣地へと向かい、
尚之助もまた、ふたたび大砲隊の指揮にとりかかっている。
会津藩は、籠城抗戦1ヶ月、
9月22日ついに白旗を掲げ開城と決した。
その後、八重は、耿々たる秋月の光を浴びながら、
三の丸雑物蔵の白壁
に笄で万感の想いを彫りつけた。
"明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ"
落城とともに、城と同じく八重の人生もどうなるかは分らない。
むろんキリスト者・
新島襄
とめぐり逢うことなど、
彼女の夢想だにせぬことであった。
唇の水別れは不意にやってくる 森中惠美子
[4回]
y2013/07/06 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
西郷家の悲劇
死ぬときに飾るものなど遺さない 森中惠美子
(各画像はクリックして拡大してご覧下さい)
頼母の長女・次女自刃前の覚悟の辞世読み合わせ
次女
「手をとりてともに行きなばまよわじよ」
長女
「いざたどらまし 死出の山みち」
みすこ
頼母の家族、妻・西郷千恵、母・西郷律、妹・西郷眉寿子、西郷由布子、
たえこ たきこ
娘・西郷細布子、西郷瀑布子6人は、それぞれ辞世を残し、
「官軍兵の恥辱に犯されるよりは武家の子女として操を守る」
ために足元が乱れないように縛り、自決した。
辞世は次の通り。
律 子
「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」
千重子
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
眉寿子
「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」
由布子
「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」
船がくる身をのり出して手を振って 山本昌乃
西郷頼母家の広大な屋敷(復元)
「西郷頼母一族の自刃」
若松城の城門近くに、
会津藩の家老の西郷頼母の家老屋敷があり、
この家老屋敷で
西郷頼母
一族21人が自刃に倒れた。
西郷頼母一族の自刃があったのは、
頼母が国境警備にあたっている時のことである。
藩士の女性や子どもたちも最後の戦いに臨もうとする中、
なぜ、頼母の妻や娘たちは自刃を選んだのか?
慶応4年8月23日
(閏1868年10月8日)
早朝、
城下町に早鐘が鳴り響き、
藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、
西郷一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
血小板に彫り込んである家訓 井上一筒
西郷千恵
頼母の母親・
西郷律子
は、
「女が城に居ては足手まといになる。
されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」
と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
頼母の妻・
西郷千恵子
は義母・西郷律子の後に続き、
まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、
返す刀で自分の喉を貫き、
会津藩士の妻としての役目を果たした。
こうして、頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった頼母の縁者12人も、
西郷律子らに続き自害した。
この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
小刻みに揺らぐ別れのレモン水 藤本鈴菜
「土佐藩の中島信行の介錯」
このとき、新政府軍・土佐藩の
中島信行
は、
若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。
中島は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。
しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
中島が長い廊下を渡って1室の障子を開け、
目にしたのは西郷家の女・子供たち21人の自刃の姿だった。
中に、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。
年齢から考えて、
女は頼母の長女・
西郷細布子
だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、
急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。
西郷細布子はもうろうとしながらも、
障子を開けた中島信行の気配に気づくと、
「敵か、味方か」
と問うた。
ト書を消そう 海のシナリオ 森吉留里惠
中島が
「安心せい、味方じゃ」
と答えると、
西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。
中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
※
(このエピソードの主役・中島信行はこのとき土佐藩を脱藩しており、
会津戦争にも参加していないため、別人の可能性がある)
会津藩士の家族の中には、
頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを
危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎
の家族も自害している。
内藤介右衛門
の家族も面川泰雲寺で自害している。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は、
計230人に上ったという。
わさびだな涙のツボを知っている 徳山泰子
明治時代に撮られた西郷頼母の写真
目立つのは伸びるにまかせた長いあごひげ。
「妻も子も失ってー頼母30年の漂泊」
慶応4
(1868)
年8月、新政府軍が若松城に迫る中、
頼母は陣頭指揮にあたっていた。
新政府軍のあまりの猛攻の前に、
重臣達の中には講和を申し出て降伏しようと言う者が現れた。
それに対し頼母は、
「降伏すれば会津の恥をさらすだけだ」
と激怒する。
しかしこの直後に頼母は城を追われ、
唯一残された長男・
吉十郎
と共に会津を去ることになった。
(これは敗色濃くなる会津藩で、
降伏論に激しく反対した頼母の口を封じるためとされている)
明治元年9月22日、会津藩降伏。
戊辰戦争の会津藩の犠牲者は、
女性や老人 子どもも含め3千人に及んだ。
その後、頼母は北海道へ向かう旧幕府軍に合流、
戦いに敗れるが、頼母は生き延び幽閉の身となった。
まんぼう笑う しょいきれぬもの抱きしめて 太田のり子
頼母の自叙伝「栖雲記」
会津戦争の後に頼母が伝え聞いた
妻や娘たちの凄惨な最期の様子が記されている。
明治3
(1870)年
、頼母は幽閉を解かれる。
会津藩は事実上解体、藩士たちは方々に離散してしまう。
頼母は長男とともに各地を転々とすることになり、
頼母は有志が開いた私塾で歴史や漢学を教えた。
明治7年、国の新たな制度で公立小学校が作られ、
頼母の塾が閉じられた。
それでも働いて跡取りの吉十郎を成人させた頼母だったが、
明治12
(1879)
年に吉十郎が病死。
頼母が会津崩壊とともに切腹をせず、
生き恥を晒すことを選んだのは、
西郷家の血である吉十郎を守ることであった。
が、ここで吉十郎が死んだとて、会津滅亡から12年今更、
切腹の意味もなかった。
切腹はいやだ 首吊りもいやだ 新家完司
頼母の心の内を伺わせる直筆の唄が残されていている。
そこに記されていたのはかたつむりだった。
その後、頼母が各地を渡り歩いた年月は20年に及んだ。
明治32年、70歳となった頼母は会津若松へと戻り、
ふるさとに居を構えた。
食べるだけのやっと暮らしだったのか、玄関には戸もなく、
筵を下げただけの長屋住まいだったという。
お金を無心することもあり、
恥を晒してでもふるさとへと戻ってきた頼母は、
妻や娘たちが眠る墓の傍らに、
自らの墓を建てることが最後の願いだった。
明治36
(1903)
年、西郷頼母 永眠 享年74。
白紙の周辺から一行足らずの私情 山口ろっぱ
[4回]
y2013/07/03 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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