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川柳的逍遥 人の世の一家言
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まなうらに畳んだ恋が喋り出す  中井アキ

 
   同志社第一期卒業生

「峯と時雄」

覚馬の娘・山本みね新島襄が設立した同志社女学校に入学し、

勉学に励んでいるとき、同校の横井時雄と出会い、恋が芽生える。

横井時雄とは、安政4年(1857年)

熊本藩士・儒学者の横井小楠の長男として肥後国に生まれる。

金森通倫・徳富蘇峰・徳冨蘆花は、母方の親戚にあたり、

妹は海老名弾正の妻である。

熊本洋学校に学び、明治9年には「熊本バンド」の結成に参加、

同年に上京し、開成学校(現・東京大学)に入学するが、

翌年に同志社に転入する。

身の丈に合った貝殻探してる  寺島洋子

 
          熊本バンド

横井小楠の嫡男 として生れながら何故、井上の姓を名乗ったのか。

それは時雄が4~5歳の時に、

父・小楠が江戸で遭遇した切り込み事件で、

「士道忘却罪」に問われ、危険と見た小楠の弟子の井上毅が、

井上家の相続を願い出て、養子とした経緯がある。

(時雄には、日下部太郎という別名もある。

 上記の難を逃れるために藩主の松平春嶽が、時雄を守るため、

 八木八十八(やぎやそはち)に日下部の襲名を命じた)

常識の沼へミズスマシを放つ  和田洋子

 
左から2人目が時雄・4人目がみね

明治12年、同志社を卒業後、

新島襄により按手礼を受け、初代・牧師として愛媛県今治市に赴任。

時雄とみねは明治14年に結婚する。

2年後に長女・悦子が誕生、明治20年には長男・平馬が生れる。

時雄の父・横井小楠の通称は平四郎、そこから「平」と、

山本覚馬の「馬」から「平馬」と名づけられている。

しかし、みねは産後に体調が悪化して、

明治21年27歳の若さで亡くなる。

(長男・平馬は、山本家の養嗣子になる)

時雄は明治30年に同志社の第3代目総長に就任。

明治32年に辞職。

是非ぜひの話に馬の耳になる  山本昌乃

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きびきびと小春日和を使いきる  大西泰世

 

        新島旧邸

京都寺町通りに、二人が暮らした屋敷が残っている

明治11年に建てられた。

襄が宣教師に設計を依頼し、

学校の一部や教会としても利用されたという。

「八重と襄の結婚生活」

新島襄八重の結婚生活では、

2歳年下の八重の大らかな人柄が襄を助けた部分も大きかった。

気の短い襄は、少し気に入らないことがあると、

すぐにこめかみに青い筋が立つ。

そんな時は八重が、

「おや、今日は雷でも鳴りそうですね。だいぶ雲行きが悪い」

などと和ませている。

いつからか胸に小鳩を飼っている  三村一子



 八重のオルガン

部屋にはオルガンがあり、学生の賛美歌が響いていたことも予想される。

また襄は、腹に据えかねることを、よく八重に相談した。

すると八重は、

「不平を言うより、お茶でも召し上がったほうがいいでしょう」

などと笑って受け流す。

カチンときた襄が、

「お前は私がこれほど怒っているのに、笑ってしまうということがあるか」

と言うと、八重は、

「あなたが怒っていらっしゃるのに、

  私までがご相伴して怒っては仕方がないではありませんか」

と、のんびり応える。

すると襄も、「それもそうだ」と、つい笑ってしまうのだった。

我が家にも湿布の匂いする忍者  吉道あかね

ただ八重にも強情なところがあった。

明治18年、山本覚馬が京都で迎えた後妻・時栄が、

覚馬に覚えのない子を妊娠してしまう。

覚馬が58歳、時栄が33歳の時のことである。

八重みねは断固許さず、時栄は離縁された。

あくまでも八重は、"ならぬことはならぬ" と考えたのだ。

襄も

「お前の強情は、かねがねお兄さんや槇村さんから聞いていたが、

 こんなにひどいとは思わなかった。

 わたしはとんだしもうたことをした」

と苦笑したという。

三味線にされたらワンと泣いてやる  岩根彰子



【付則】ー「時栄の不貞」

明治18年、山本覚馬の家で「一寸むつかしいこと」ことが起きる。

それは、山本時栄山本覚馬の2人が、

宣教師・グリーン牧師の洗礼を受けて少し後の出来事である。

ある日、妻の時栄が体調を崩したため、

覚馬は医師・ジョン・カッティング・ベリーを自宅へ呼び、

診察してもらうことになたった

診察を終えた医師・ジョン・カッティング・ベリーは帰りかけに、

覚馬に、

「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」 と告げた。

語り部の口 ふくろうが鳴いている  墨作二郎

その言葉を聞いた覚馬は、思わず、「覚えが無い」と驚いたため、

時栄の不貞が発覚した。

覚馬は時栄の罪を許したが、八重は、

「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」

として、時栄を糾弾した。

結果、八重が時栄を追い出す形となり、

明治19年に離縁に発展する。

熨斗つけてお返ししたい人がいる  新川弘子

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きつね狩りむかしむかしのものがたり  森中惠美子

『鹿児島暴徒出陣図』  月岡芳年画

「西南戦争」

士族反乱の中でも、もっとも大規模かつ最後となったのが、

西南戦争である。

やはり、「征韓論」に敗れて下野した西郷隆盛が中心だったが、

西郷自身は、はじめから乱をおこす意図はなかった。

次第にまつりあげられたというのが、真相だったようだ。

明治6年の政変で辞表をたたきつけて下野したときも、

「征韓」の意向が通らなかったからではなく、

裏で天皇を操作する大久保利通岩倉具視らのやり方に腹を立て、

政治に対する熱意を喪失したから と考えられるからである。

迷子になってぎんなんの実がはぜて  墨作二郎



しかし、周囲の人々は、そのまま西郷を隠居させなかった。

腹心の桐野利秋・篠原国幹も鹿児島にもどり、

鹿児島は反政府の「独立国」、言葉を変えれば、

「西郷王国」の体を示しはじめた。

明治7年6月に、士族教育機関として新設された私学校がその中心となり、

新政府に対抗する県政を展開したため、

大久保利通としても、何とか手を打たなければならない事態となった。

あるいは私が錆びるためのあまり風  山口ろっぱ

 

先行する「佐賀の乱」「神風連の乱」とは関係なく、

大久保利通西郷隆盛の衝突はもはや時間の問題だったのである。

反乱の機運は鹿児島側においても高まっていたが、

挑発したのは大久保利通側であった。

すでにみたように、警察権力を握っていた大久保は、

明治10年1月、鹿児島出身の警官20数名を一時帰郷させた。

隠しカメラは焼きおにぎりの中に  井上一筒

西郷側の動きをスパイさせるのがねらいだったが、

もう一つには、警官がつかまることも計算に入れていたようだ。

そして計算通り(?)スパイがつかまり、私学校党の拷問をうけ、

彼らの口から、西郷を暗殺し、私学校党を皆殺しにするという

政府の方針が暴露された。

バックネットは深層心理吊り下げて  岩根彰子


私学校党が怒ったのはいうまでもない。

しかし、このときも西郷自身は血気にはやる人々を押さえ、

とりあえず、暗殺未遂事件を糾弾するために上京することになった。

「西郷隆盛一人が上京したのではあぶない」

というわけで、私学校党が護衛することになった。

実は、西郷隆盛の挙兵は、この護衛軍の出発によってはじまったのだ。

「西南戦争は西郷を神輿にかつぐ、

  一種の強訴のような形で出発することになった」 (上田滋氏談)

まさに西南戦争の発端は一種の強訴だったのである。

今しがた友を喰らってきたところ  くんじろう

 

  西南戦争新聞記事

しかし、一度まわり出した車はなかなか止まらない。

結局は、3万の軍勢を擁する西郷隆盛の政府への反乱となり、

熊本城の攻防戦、田原坂の戦いなど、

近代戦史に残る戦いを経て、

とうとう9月24日、鹿児島の城山にこもったところを

政府軍に攻撃され、西郷は自刃する。

曖昧に秋と呼ばれている九月   新家完司

こうして佐賀の乱からはじまった一連の士族反乱は、

ことごとく大久保政権によって鎮圧された。

反乱を力で捻じ伏せたことによって、

大久保独裁権力はますます強大化するわけであるが、

その大久保利通も翌11年5月、

石川県士族・島田一郎ら6人に襲われて暗殺されている。

ホロコースト手繰れば魚網かすみ網  山田ゆみ葉

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崖に立つひとりの知恵がつきたとき  森中惠美子

 

         佐賀の乱  (画像は大きくしてご覧ください)

明治7年2月、江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった乱。

「不平士族の乱」

中央集権国家を建設するために、

明治政府が維新の功労者である士族を切り捨てるのは、

歴史の皮肉な必然であった。

まず明治4年、「廃藩置県」が断行され、士族はよりどころを失い、

明治9年には、「代々の禄(給与)も金禄公債(一時金)と引きかえ」

に打ち切られた。

金禄だけで生活できる者はまれで、多くの士族は、

資金を元手に商売を始めるが、

俗に「士族の商法」と嘲笑されたように大半は失敗した。

空き箱のその後やっぱりゴミになり  笠原道子

また、四民平等となり「苗字帯刀」の特権が失せ、

「徴兵制度の施行」で戦士としての価値も消失。

帯刀を禁じる「廃刀令」が追い打ちをかけた。

このように士族は、政府によって経済的困窮に追い込まれ、

その誇りもいたく傷つけられた。

300万士族の怒りは、いつ爆発してもおかしくなかった。

≪万が一、本格的な反乱に発展すれば、政府はひとたまりもないだろう≫

プライドの詰まる五体をどうしよう  清水すみれ



この状況を非常に憂慮した人物がいた。

西郷隆盛である。

西郷は士族の乱を未然に防ぐため、目を外に転じさせようとした。

討伐の名目で士族を朝鮮半島で戦争させ、

欲求不満を解消させようというのだ。

「征韓論」である。

政府内では、その是非をめぐって激論がかわされ、

結局中止される。

敗れた征韓派参議は全員下野し、皮肉なことに、

士族の乱を警戒していた彼ら自身が、

後年その首領に祭り上げられてゆくのである。

挽歌流れてオリオン父を引いてゆく  太田のりこ

明治8年八重にとって、どんな年であったかと言うと、

3月、 川崎尚之助、東京で死去。
4月、 覚馬・新島襄との出会い。
10月、八重、襄と婚約。(翌年1月結婚)
11月、八重、「女紅場」を解雇される。(キリスト教信者との婚約が原因)
     29日、「同志社英学校」を開設。

 (月岡芳年画)
  
  江藤新平 
(画像は大きくしてご覧ください)


この明治8年2月、

ついに佐賀県において大規模な「不平士族の乱」が勃発する。

首魁は司法職をつとめた江藤新平であった。

大久保利通は、政府軍(鎮台兵)を大量に投入してこれを完全に鎮圧、

捕えた江藤を見せしめとしてさらし首にした。

企みは天知る地知るあきらめる  安土理恵

その後も士族の乱は続発するが、

いずれも政府軍の前にあっけなく敗れた。

この頃、すでに徴兵制度が確立され、

近代軍備も整い、

不平士族は政府の脅威の対象ではなくなりつつあった。

むしろ政府としては、残る不平分子を挑発し、

暴発したところを徹底的に潰しておきたかった。

そして、明治11年2月、大久保らの誘いにのった西郷の、

「西南戦争」へと進んでいくこととなる。

焼きますかそれとも茹でてみましょうか  竹内ゆみこ



神風連の乱
(敬神党の乱) (画像は大きくしてご覧ください)


明治9年10月24日、
太田黒伴雄、斎藤求三郎らをリーダーに熊本市で起こった。

この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、
明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、
この事件に呼応して「秋月の乱」「萩の乱」が発生し、
西郷「西南戦争」へとつながる。


秋月の乱とは―
明治9年10月27日、
宮崎車之助、戸波半九郎を中心に福岡県秋月で起こった乱。

萩の乱とは―
明治9年10月28日
前原一誠、奥平謙輔を中心に山口県萩で起こった乱。

そして明治10年の西南戦争へと続く。


かじかんだまま猩猩の旗印  井上一筒

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蛸壺と蛸のふしぎな間柄  西澤知子



同志社英学校・仮校舎跡(新島旧邸)

「キリスト教と会津の心」

覚馬は、この数年間キリスト教伝道学校設立のために腐心していた。

当時、反対運動が盛んで、

『京都にキリスト教の学校をつくるのは、

比叡山を琵琶湖に投げ込むほど不可能なこと』

と言われるほどだった。

明治8年11月「同志社英学校」が開設された翌年1月の

最初の日曜日に八重がプロテスタント式の洗礼を受け、

キリスト教に入信する。

マリア様におたずねしたいことがある  安土理恵

京都で新たな歩みを始めた八重が、

会津のことを全く忘れていたわけではない。

むしろ、その逆である。

会津の人々にとって、

戊辰戦争は不条理以外の何ものでもない。

孝明天皇からも篤く信頼されていた会津藩が、

ある日突然に朝敵にされ、理不尽な侵攻を受け、蹂躙されたのだ。

戦いの中で、親しい者が次々に死んでいく悲劇も数多く味わった。

人一倍負けず嫌いの魂をもつ八重は、

大いなる怒りと悲しみを覚えていたはずである。

うたがいの日々むらさきの布を裁つ  森中惠美子



八重と覚馬が明治以降、キリスト教に惹かれたのも、

その心の傷ゆえかもしれない。

愛する国・会津を喪失した悲しみと絶望の中で、

「勝てば官軍・負ければ賊軍」

不条理な権力や秩序の枠を超えた、

「最上位の存在としての神」‐「仕えるべき主人としての神」

を求めたのではないかと思えるのである。

ジクソーの最後のピースですあなた  勝又恭子

そして、八重には、

「神の前では人は皆平等」ー「男女も平等」

という教えも大いに魅力だった。

八重のような女性は、

「女子だから」と押さえつけられたこともあっただろう、

兄の覚馬や夫の尚之助の識見が、

身分秩序の壁のために、十分に活かされない現実も、

目のあたりにした。

その不条理も、八重にとっては我慢できないものだったはずである。

玉入れのカゴが古いという理由  山本早苗



しかし、だからといって八重は、

「日本人全員がキリスト教になるべき」

などと、考えてはいないし、

平塚らいてうのように女性解放運動を行うわけでもない。

彼女は、社会を変えるのではなく、

むしろすべてを一度、自分自身の問題として、

受け止める道を選んだのだ。

キリスト教も、彼女にとっては、

「己の心を磨く砂」としての意味合いが強かったのだろう。

わたくしが歩む線です太く引く  早泉早人

そこには、会津の教育が根本にある。

会津藩では極めて高水準の儒教教育が行われていた。

儒教では第一義的に、

「身を修め、家を斉えることによって国を治め、社会の平安をもたらす」

ことを言う。

その点で八重は、

会津の教育で培ったものを失ってはならないと考えたのだ。

卓袱台で天声人語噛み砕く  岩根彰子

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