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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ハンカチの黄色は褪せて黒ずんで  嶋澤喜八郎

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   会津戦争記聞

迫り来る新政府軍から、馬上の容保を守る会津藩士たち。

左から3番目に
中野竹子も描かれている。

(画像は大きくしてご覧ください)

「会津のために」

急を告げる城内の警鐘が乱打された。

それは城下すみずみまで鳴り響いた。

郭内の武家屋敷では、藩士の留守を守る家族が残っており、

この鐘が鳴る時には、

籠城して城を守る合図として会津藩では通達されていた。

同じこと聞かれて同じこと言うて  都司豊

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朝餉の片付けも終り、自室に戻っていた八重は、

突然鳴り響いた鐘の音に、びくっとしたものの反射的に動いた。

―家族を守るのだ!

「お母さま!!」

「八重!早く避難せねば!うらや!何も持たずともよいから、

  みねを連れて逃げるのです!」

「お母さま!今、お城を守るのは、

  郭内に残っている私たちの役目です!

 逃げても会津のためにはなりませぬ!!」


真実を伝える唇が赤い  笠嶋恵美子

母・佐久は、そんな強い語気の八重を初めて見る思いで、

「八重や!女や子供が、城の中に入っても、

  戦いのジャマになるだけですよ!」


日頃から、おとなしいうらも、

「そうですよ八重さん!私の実家がある村へ早く逃げましょう!」

「八重や!みねもまだ幼いゆえ足手まといになるだけですよ!」

「そうですよ、八重さん!早く逃げましょう!」


信号が青になっても出ない足  牧浦完次

そんな母や嫂のうらの差し迫った言葉も八重にとって、

会津藩の一大事の前では、只々悲しく聞こえるのであった。

ー城が落ちて、会津藩がなくなってしまえば、

父や兄や、三郎が、今まで戦ってきたのは、

何のためなんだろうかと。


ー今ここで城を後にして、ただ逃げるだけなのか。

最後の最後まで、私は家族のためにも、会津のためにも、

戦いたい!


ー会津は間違っていない! 殿さまを守らなければ!!

柔よく剛に挑んだのは女たち  桑原伸吉

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八重は決意をこめた口調で、

「お母さま、嫂さん!私は、幼い頃からお父さまや兄さまに、

  砲術を教わってきたのですよ。

 藩のためにも殿さまのためにも、それを役立てとうございます」


それを聞いて、佐久は面くらいながら、

「でも八重や、私やうらが何のお役に立てるというのですか?」

うらも、

「そうですよ八重さん。みねも危険ですし、

  私なんぞ、何の役に立てるというのですか?」


八重は、郭内がさわがしくなってきているのを聞きながら、

辛抱強く2人を説得した。

微笑んだ頬に涙の跡がある  藤井裕司

「お母さまや嫂さんは、

  食事を作ることができるではありませぬか。

 ケガをした兵士がいれば手当てをすることだってできるし、

 火を熾すことも、水を運ぶことも!

 女だって、子供だって、
戦の力となります!

 それに郊外の村に逃げる間に、


   敵にみつかってしまうかもしれません。

  女、子供だけで、どう立ち向かえばいいのですか?」


「でもお前・・・」

と母は、まだ不安そうな表情で、うらも呆然としながら、

逃げたそうな面持ちであった。

わたしにもまだ差し上げるものがある  安土理恵

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「お嫂さま、兄さまの行方は判りませぬが、

  必ず生きていらっしゃいます!

 なにとぞ八重のことを信じて、ついて来ていただけませぬか?


 お母さまも、お嫂さまも、みねのことも、

 八重が守ってみせますから!!」


そう言いながら、八重は、

亡き三郎の袴と軍服に素早く着替え、

麻の草履をはき、両刀を佩いて、スペンサー銃を肩に担いだ。

母佐久は、「八重・・・」と、あとは言葉にならず、

一瞬のうちに、八重の心情を察した。

重ね着の隙間を風がすり抜ける  神野節子

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母佐久と嫂うら、姪のみねと共に、

八重たち山本家の女たちが、城内に入ったのは、

城下のそこかしこで銃撃戦が始まり、

火の手が上り、甲賀町郭門口、桂林寺郭門口が突破され、

銃声や怒声が飛びかい、

間一髪で城門が閉まる直前の時であった。

「嫂さん、お母さまとみねのこと、よろしく頼みますよ!」

「八重さんは、どうなさるおつもりなの?」


ーここまで来れば大丈夫。

なんとか頑張って城を守っていきましょう。

心の中で言いながら、弟の仇を討つ意気込みで、

八重は鉄砲隊のいる場所を目指して、駆け出した。

生きるためそれから人を愛すため  清水すみれ

拍手[5回]

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ひとりではないよないよと仏の灯  森中惠美子

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「白虎隊 飯盛山自刃の図」 (浅井応翠筆)

(画像を拡大してご覧下さい) 


慶応4年(1868)8月23日、

戸の口原にて
板垣退助率いる新政府軍に破れた、

白虎隊士中二番隊の一部17名は、

退却途中に
飯盛山にて集団で自刃した。

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       飯盛山

「白虎隊ーひとりの美少年-東梯次郎」

東梯次郎というひとりの少年がいる。

父の名は佐太夫...食禄130石で会津藩にあっては

大目付まで出世し、しきりに藩の行く末を案じている人物だった。

そんな上士の息子が4歳の頃、

忘れられない光景をまのあたりにした。
よねだい
郭内米代四之町にある隣家の娘の光景である。

その娘の名は山本八重

藩の砲術指南役、150石取り山本権八の娘である。

梯次郎よりも九つ年上だから、

当時はまだ13歳になったばかりだったろう。

それはともかく、その光景、

梯次郎にとってはなんとも恐ろしいものだった。

大人へと化学反応し続ける  山口美千代

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「むんっ」という掛け声とともに、

八重が米俵をいとも軽々と担ぎあげたのである。

米俵がどれだけ重いのかは、4歳の子どもでも知っている。

四斗(60㌔)である。

1斗樽の油ですら梯次郎は持ち上げられないというのに、

八重は八重は、ヒョイと担いでみせる。

化け物ではないかと感じた。

ところが、その化け物、御仏のように優しい。

いつも下女の手伝いで米蔵から米俵を担ぎ出して、

母屋まで運んでやるのだが、そうした時、

きらきらと輝くような笑顔を見せるのだ。

どんな時も幸せですと言うている  太下和子

7歳になっても10歳になっても、梯次郎は同じ疑問に包まれた。

八重に手を引かれて野や川で遊んだり、

祭礼などの見物に出かけたりするたびに首をひねった。

石投げをしても近在の小僧など足元にも及ばない。

何から何まで男勝りに出来ている。

砲術にしても、そうだ。

門前の小僧が習わぬ経っを読むごとく、

父親の仕事ぶりを見ているうちに、

いつのまにやら知識を蓄え、鉄砲を憶え、

藩士が目を丸くするほど、

見事に撃ち放って見せるようになっていった。

いろいろな形でいいの愛なんて  山本昌乃

「八重さんは凄い」  

梯次郎は素朴にそう思ったが、親の側としてはそうはいかない。

「あの男勝りは、なんとかならんか」

父の権八は妻の佐久と相談し、裁縫を習わせようと決めた。

八重は近所に住む町奉行の日向左衛門の娘ユキと仲が良い。

2人で日向家の隣の高木家の老母の元へ通わせ、

裁縫を習わせることにした。

ただ、なかなか上達しない。

意にそまぬことなんですが私です  桜風子

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恐らくは向いていないのだろう。

しかし、うまれつき健気に出来ているのか、

20歳までの数年間、せっせと励んだ。

かといって、鉄砲を忘れたわけではない。

気が向けば鉢巻をきりりと締め、

庭先に設えられた的をめがけて、

轟然と撃ち放ったものだ。

そんな八重のことが、梯次郎は好きだった。

生真面目にゴトン各駅停車です  清水すみれ

ところで梯次郎は、父親によく似て物腰の柔らかい少年だった。

頭も良く、父から漢籍を学び、

11歳の春には日新館に通うようになり、

尚書塾一番組に編入された。

しかし、いくら頭脳が明晰で、姿容が優美で、

仏式歩法調練によって逞しく鍛えられていようとも、

武士として戦場の務めを全うできねばしかたない。

ことに、これからの時代、銃が撃てねば話にならない。

なるほど、会津の藩士らは上級になればなるほど、

鉄砲は下級武士の武器だとか、

武士が腹這いになれるかとか空威張りをしているが、

梯次郎のような若侍にそんな見栄はない。

洋式銃を受け入れねば、故郷を守ることはできない。

どの箱を開けても海は荒れている  中野六助

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梯次郎は脇目も振らずに八重のもとへ走り、

「鉄砲を教えて下さい」 

ここぞとばかりに頭を下げた。

「鉄砲は、鉄砲の上手な方に教えて戴きたいです。

  鉄砲の似合う方は、鉄砲上手です」

「わたしは鉄砲など似合いませぬ」


八重はそのおり機を織っていた。

京にある兄・覚馬へ反物を送ってやろうと思っていたのか、

夫・尚之助に着物を新調しようと思っていたのか、

それはわからない。

が、このところ、とみに女らしくなってきた八重は、

機織りの手を止め、首を横にふった。

柿の実のたわわに熟れていて遠い  佐藤美はる

だが梯次郎は諦めない。

「機織りなど八重さんには似合いませぬ。

  八重さんに似合うのは、鉄砲です」


八重は溜息をつき、諦めたように微笑み、

「わかりました」

と頷いた。

「教えて差し上げましょう」

だが、機織りをやめた八重の教えは、

乙女時代の性格が甦ったようにきつかった。

最初に引き鉄を引いた時からして、そうである。

思わず眼を瞑ってしまったのだが、

―臆病者っ。

いきなり、頭ごなしに叱られた。

―あなたのような臆病者には教えられませぬ。

とはいえ、生まれて初めて銃を手に取ったのである。

射撃の轟音と衝撃に驚かぬ者がいるはずもない。

しかし、八重は赦してくれなかった。

甘やかすつもりなどない角砂糖  竹内ゆみこ

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―今度は瞑りませぬゆえ教えて下さい。 

と頼み込み、ようやく二発目を撃った。

が、またもや瞑ってしまった。

「そんなふうでは、敵など、撃てるものではありませぬぞ」

「次こそ、次こそ瞑りませぬ。もう一遍っ」


梯次郎は懇願し、三発目は必死に堪えた。

「好いでしょう。教えて差し上げます」

まるで母か姉のような口ぶりだったが、

そのとおり、

八重は精一杯の愛情を傾けて鉄砲を教えてくれた。

射撃の姿勢、照準の付け方、火薬の配合、息遣いなどと、

事細かに誠心誠意、教授してくれたものだ。

弱点を谷折にして立ち上がる  オカダキキ

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ところがある時、こんなことがあった。

―そのざんぎりになった前髪では、

引き鉄を引く際、動きの妨げになりますね。


いうが早いか、剃刀を手にして、

ばっさりと切り落としてしまったのである。

これには、さすがの両家の者が驚いた。

いや、驚いただけではない。

八重の母・佐久に到っては、火をふくように叱りつけた。

女だてらに鉄砲を教授するばかりか、

―隣家の許しも得ずに前髪を切るとは何事か

と憤激したのである。

どうしょうもないがあきらめかねる  藤井孝作

しかし、八重はひるまない。

「母上はそう仰いますが、

そもそも女ごときに砲術を教えてくださったのは、

父上と兄上にございます。

八重は薙刀も習い憶えましたが、戦さの際に役に立つのは、


何をさしおぴても砲術と心得ております。

ですから八重は、父上と兄上の申されるままに、

砲術の奥義を極めんと欲し、精進してまいりました。

かつまた、梯次郎どのに対しましては、

父上と兄上の教えを、そっくりそのまま伝授して差し上げました。

もしこの先、梯次郎どのが戦さにおいて、

見事に鉄砲を披露して下されば、

それはすなわち、

山本家の教えが世に披瀝されることであり、


我が家の誉れというべきものになるのではありませぬか。

つまり、八重は、山本家の名誉のために、

梯次郎どのの前髪を切り落としたのです」


まん丸でつきたて餅のお人柄  徳山泰子

庭先に立ち尽くして事のなりゆきを見守っていた梯次郎は、

ふと、かたわらに佇んでいる人影に気づいた。

八重の夫、尚之助だった。

尚之助は妻の反論をじっと見つめ、

やがてにっこりと微笑んでみせた。

「あれでこそ 八重だ」

だから八重は好いのだ、というのであろう。

みんな許して石段おりる  河村啓子

やがて事なきを得た後、教授の終わりの挨拶として、

梯次郎にこう告げた。

「寒夜に霜を聞くごとく、引き鉄をお引きなさい。

由来、寒い冬の夜には霜が降ります。

けれど、霜の降りる音は、

おいそれと聞き取れるものではありません。

余計なことは一切考えず、

気持をひとつにして霜の音色に耳を傾けるのです。

鉄砲も同じです。

引き鉄にそっと指をあて、ただ的のみを見つめ、

寒夜に霜を聞く如く、

引き鉄を引くのです」


それこそが、鉄砲の極意であると。

目標はきっときっと見つかるから  庄田潤子

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慶応4年(1868)8月下旬、

(慶応4年は閏で8月下旬は東北では雪が下りはじめる10月にあたる)

戊辰戦争の戦火が会津にもおよび、

梯次郎は白虎隊の隊士として出陣した。

―八重さんっ。

見送りに来てくれた八重に、梯次郎は叫んだ。

「立派に撃ち放ってみせますよ」

そういい、ヤーゲル銃を、頭上に高々と掲げてみせた。

この温柔にして勤学を謳われた美少年は、

こうして戦さの野に進んだ。

戸ノ口原で敵を待ち受け、噎せ返る夏草の間に臥し、

銃を構えた。

銃身の上に、照準を付けるための櫓を立て、

引き鉄に指を絡ませる。

寒夜に霜を聞くごとく―
                        (秋月達郎)

恋がほんのりそっと背を押す  小山紀乃


  「白虎隊を写真で見る」ー(画像は拡大したご覧下さい)

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     隊士の手記

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白虎隊二番中隊士・津川喜代美の手紙

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   隊士たちの胸の内

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松平容保が陣を敷き白虎隊士が出陣の命を受けた旧・滝沢本陣

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    白虎隊・隊士像

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    白虎隊士の墓

碑には、


「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽じとぞ思う」 

と刻まれている


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      隊士霊像


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    白虎隊記念館

ブランコに乗せる十五夜お月さん  本多洋子

拍手[3回]

欠けてゆく度 重くなる月  森吉留里恵

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中野こう子、竹子、優子母娘の涙橋の戦い
                           (長谷川恵一画・会津武家屋敷蔵)

(すべての画像はクリックしてご覧下さい)

「中野姉妹・こう子」

中野竹子は江戸和田倉の会津藩上屋敷内で生まれた。

5歳で百人一首を暗誦し、

藩主容保の姉・照姫の薙刀指南だった赤岡大助から、

7歳の頃より薙刀や剣術を学んだ。

17歳の時、大坂の御蔵奉行に転出した大助の養女となり、

上方に住む。

大助は竹子を甥の嫁にしようとしたが、

男勝りの竹子は、

動乱の様相を呈する世情に無関心ではいられず、

結婚はまだ早いと養女の縁を切って江戸に戻り、

中野家に復した。

そして20歳の頃、

備中松山藩の板倉勝静の姫付き祐筆として、

奥勤めにも出た。

プラチナの涙も流す女心  小林満寿夫

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幕府が崩壊し、薩長の恨みが会津に向く中、

藩主容保の帰国に伴い、

中野家母娘ははじめて会津の地を踏んだが、

江戸詰めのため屋敷はなかった。

そこで日新館や山本八重の家に近い、

遠縁の田母神兵庫宅の書院を借りて、

会津戦争が始まる5ヶ月程前から住んだ。

この頃、赤岡大助も会津に帰り、

坂下で道場を開いたため、22歳の竹子は、

片道12キロの道を歩いて通い、薙刀の鍛錬に励んだ。

疲れます正直すぎて真っ直ぐで  安土理恵

当時、母・こう子、妹・優子も薙刀の訓練を日課とした。

44歳のこう子が中心になり、近所の者で婦女隊を結成し、

敵と戦う相談ができる。

薙刀も習っていた八重も誘うが、

彼女は鉄砲を選んで薙刀隊には加わらなかった。

※ (こう子は会津女ではなく、足利藩戸田家の家臣生沼喜内の娘)

やがて散ることも心に留めておく  竹内ゆみこ

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会津城城内の砲弾の火を消す女性たち
                 (長谷川恵一画・会津武家屋敷蔵)

「涙橋の戦い」

若松城下に新政府軍が突入して来た8月23日朝、

母娘3人は自宅で断髪し、切った髪を庭先に埋めて出陣した。

だが敵の侵入が余りに突然だったため、

近所の20人余人で約束した「婦女隊」の編成は叶わなかった。

鶴ヶ城に行こうとしたが、敵陣に阻まれ、

城とは反対の西に向かい、

避難する人々の流れに乗って、郭門を出た先の河原町で、

偶然に依田まき子・菊子の姉妹と、岡村すま子に出会った。

みな薙刀を持ち、刀を佩びていた。

6人で一緒に行動する約束ができ、

ここに「婦女隊」が生まれた。

空高く I を小文字にかえてみる  北村幸子

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中野竹子が使用した薙刀

ちょうど通りかかった侍から、照姫が坂下に立退いたと聞き、

6人は、「照姫様をお守りしよう」と坂下に向かったが、

誤報と知ってがっかりする。

翌日、出陣していた家老・萱野権兵衛に会い、

女ながらも戦いたいと直訴し、翌25日に、

鶴ヶ城へ進撃する衝鋒隊に同行することが許された。

その夜半、寝ている優子を前に、

こう子竹子のひそひそ話を、菊子は盗み聞きし仰天する。

洗練された言葉で花の首を切る  笠嶋恵美子

優子は16歳と若く美人なので、

戦って捕まれば敵の慰み者になってしまう。

そんな恥辱を受けるぐらいなら、

「いっそ今、自分らで殺してしまおう」

と相談していたのだ。

菊子は姉・まき子を叩き起すと、

2人で思いとどまるよう説得し、優子は命拾いをする。

襖の下貼りにちょうどよい聖書  森光カナエ

運命の25日、降る雨の中、

婦女隊6人は鶴ヶ城に向け進軍する衝鋒隊に従った。

湯川に架かる涙橋は鶴ヶ城の北西2キロ余りにあって、

越後街道と銀山街道の追分けに位置する、

交通の要衝だった。

長州と大垣の兵たちが涙橋に土塁を積んで、

会津方を待ち受けていた。

生と死は神の領域だと思う  佐藤正昭

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                                    (画像をクリックすると拡大され 文字が読めます)

夜9時、衝鋒隊が突破を図ろうと涙橋に殺到して、

戦闘がはじまる。

当初、衝鋒隊が優勢だったが薩摩と土佐の兵が駆けつけ、

しかも銃器の差によって立場は逆転し、

3時間の戦いで会津方に70人の死傷者が出てしまう。

6人の婦女隊は一塊となって湯川の薬師河原で戦った。

敵味方の放つ銃弾が、雨に濡れてピカピカと光って飛び交う。

6人は臆することなく斬り込み、接近戦となる。

敵の隊長が、女と知って「討たずに生け捕れ」と叫び、

群がるように6人を囲む。

「生け捕られるでない、恥辱を受けるな」

とこう子は怒鳴る。

一点を凝視心は閉じたまま  嶋澤喜八郎

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「ものゝ夫の猛き心にくらぶれば、数にも入らぬ我身ながらも」

竹子は自歌を短冊に認め薙刀に結びつけていた。

その薙刀がうなる。

切っ先が敵兵の白刃をしのいで幾人かの敵を倒した。

弾丸は真正面から飛んできた。

彼女の強さに恐れをなして、狙撃したに違いない。

弾は額を貫き、ドドッと竹子は倒れた。

即死だった。

飴玉を砕いた虹は消えました  森田律子

これを見た優子が、

間に立ちふさがる敵を薙ぎ払いながら、竹子に近づくと、

「お姉様の御首級を敵に絶対渡しはしませぬ。

私が介錯し持ち帰りましょうぞ」


と唇をきりりと結び、首をはねようとした。

だが髪の毛が引っ掛ってうまく行かず、

側で戦っていた農兵が手伝って

ようやく姉の首級を挙げたという。

逢えますかあなたそちらへ行く前に  北原照子

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竹子が死んだ時、すでに敗色は濃く、

白羽二重の布に首級を包み、

衝鋒隊と共に退却を余儀なくされたのだ。

家老・権兵衛は彼女らの奮闘を讃えると共に、

「今後は城に入り、負傷者の看護にあたって欲しい」

と要請し、5人は同意した。

そこで銃を装備した兵に守られて城に入ると、

容保照姫に御目通りが許され、

「よく女子ながらも働いてくれた」

とお褒めの言葉を賜った。

すずしろの花汚れても白でいる  河村啓子

時に、こう子の夫・平内は月見櫓におり、

また竹子と優子の間に男子の豊記がいたが、

白河口の戦いで右足に銃弾を受けて負傷していた。

籠城家族のほとんどが、

京都出陣以来、肉親を戦死させており、

悲しみは皆同じだった。

ところで、優子に劣らず18歳の菊子も美人で、

しかも男姿だったため、

2人は籠城者から白虎隊の美少年と間違えられて、

人気者になり、餅など沢山差し入れられたという。

見えますかこれでひかっているのです  桜風子

拍手[3回]

粉々にすると豆腐は食べ易い  井上一筒

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  新政府軍進路図

(画像をクリックして大きくご覧ください)

慶応4年3月から会津に至る街道口を守るため、
各方面へ会津藩兵が向かう。


西郷頼母を総督として、(副総督・横山主税)ー白河口

大鳥圭介を総督として、(副総督・山川大蔵)ー日光口

合わせて、約千三百。 

太平口ー約七百(総督・原田対馬

米沢口ー約百、越後口ー約千三百(総督・一瀬要人

かき回されて泥色になるところ  石橋能里子

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「会津戦争の経過」

4/20     白河口の会津藩が白河城を陥す。
5/  1      新政府軍、白河城奪回。 横山主税戦死。
   6   日光口今市ー大敗。

6/ 24  会津藩ー棚倉城陥る。
7 /  2  西郷頼母・戦績不振で罷免。内藤介右衛門が後任に。

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    二本松少年隊像

  29  二本松城陥る。 二本松少年隊の悲劇

8/   4  会津藩ー越後口・村松にて敗北、石間へ戦闘が進む。

8/ 21  およそ1万の新政府軍は、
      母成峠を突破し一気呵成に若松城に迫った。
     22  猪苗代城落城。 
      その勢いで十六橋を突破。
      これを受け復職した西郷頼母、田中土佐
      神保内蔵助、萱野権兵衛、梶原兵馬、佐川官兵衛ら、
            重臣が緊急登城し、防衛策を討議。
     23  新政府軍、城下に侵攻炎上に城が落ちたと見誤り、
      2番隊/白虎隊が飯盛山にて自刃
     24  城下では入城のお触れが出て、籠城戦へ。
     25  急な敵襲の知らせに入城出来なかった女性たちが、
      薙刀をふるって城外で奮戦。
      中野竹子戦死。
  26   山川大蔵隊ー新政府軍の隙をつき入城し、
          籠城兵力三千となる。
     29  佐川官兵衛一千が出撃、長命寺を囲んで激戦。

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9月   戦線が膠着状態陥る中、城内の子供たちは、
      まだ余裕があることを敵軍に示すため、
      凧あげをしていた という。

   14     新政府軍鶴ヶ城を総攻撃。
  17  一瀬要人、八重の父・権八戦死
           城下への食糧補給が路断たれる。
  22  会津藩降伏

どこまでも人は哀しいものですか  庄田潤子


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      管  見

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人生の節目節目の立ち泳ぎ  合田瑠美子


『管見』ー概略

覚馬は安定した政体の構築を訴え、

そこで目指すものへの多岐ににわたる提言をした。

示されたのは政治新聞や軍事面から衣食や生活面にいたる

23項目もの提言である。


1  天皇奉戴の下で三権分立

2  大小の議事院による二院制として、大臣と小臣を置く。
   士分出身の小臣は藩の石高で人数を規定

3  京坂と重要港に学校設置

4  制令一定のための試行錯誤の必要性

5  人材抜擢と国是の設定

6  家臣は天皇から諸侯へ付属。士分の農商業選択の自由。
   各戸共通の軍役への派出や課税制度改革等

7  農業立国から商業立国への移行奨励

8  官命による製鉄所設置

9  貨幣を重視し、銅の保有量を公示

10 毛織物着用と肉食の奨励

11 女子への教育の奨励

12 財産の嫡子相続の見直しと均等相続の奨励

13 常食物の米から麦や葡萄への原材料の移行奨励

14 開港地神戸周辺への砲台建設

15 軍艦建造の官製限定

16 神戸開港にともなう地域水路の拡充

17 種痘奨励と性病対策

18 社会的問題の多い髪結所の廃止と髪型の自主選択

19 破戒僧の追放と僧侶の官許化

20 対外貿易航海時の海上・生命保険設置の提案と
   貿易社設立の奨励

21 外国式の時勢への変更

22 太陽暦への変更

23 家格に囚われぬ優秀な官医の抜擢

てのひらの石を出ていく一番列車  岩田多佳子

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 ドラマ以上のドラマ切り取るカメラマン  美馬りゅうこ

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白河口合戦絵図ー1

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「白河城の戦い」

奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵が斬られた
          ふっきょう
その日の払暁、会津藩は、

新選組の斎藤一ら先鋒軍を差し向けて白河城を攻撃。

意を通じていた守備側の二本松兵は、

防戦の構えだけ見せて早々に退却した。

さらに、慶応4年4月23日には、

白石城で第二回の列藩会議が開かれ、

薩長の横暴を糾す方針が合意される。

私は絶滅危惧種です多分  高橋謡々

慌てた西軍は二日後の25日、宇都宮から大田原まで、

進出していた軍勢を白河に差し向けるが、

会津藩はこれを撃退し、大いに意気を上げた。
            そ ご
だがここで齟齬が発生する。

西軍を撃退した翌日、

会津藩の白河口総督・西郷頼母が白河城に入城し、

さらに仙台藩なども加わって総勢2500の軍勢となるが、

方針を巡り意見の対立が起きてしまうのである。

ぶらんこのきしみ気管に押しあてる  榊 陽子

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    西郷頼母句

新撰組隊長の斎藤一らは、

城から兵を出して「戦術的要衝を押さえる策」

を献策したが、総督の頼母はこれを却下。

「城で待ち構える方針」を決めたのだ。

鳥羽・伏見以来の連戦を経験し、

西軍の火力を知り尽くしていた斎藤らに対し、

頼母は実戦経験がなかった。

このことが重大な結果を招く。

一瞬をよぎる碧を盗まれる  山口ろっぱ

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    白河小峰城

5月1日、薩摩の伊地知正治が率いる西軍700が

白河城への攻撃を開始する。

会津藩及び奥羽諸藩(東軍)が兵力を城内に

止めていたため易々と進撃した西軍は、

軍を3つに分け、本隊で中央突破するように見せかけつつ、

残りの2軍で城近傍の2つの山を奪取し、

東軍を包囲殲滅することを狙った。

これに対し、

頼母は戦力を逐次投入し、被害を拡大させてしまう。

その間に西軍は、地元民に兵を誘導させて迂回路を進み、

要衝を悉く手中に収めた。

そこからの西軍の猛烈な攻撃により、東軍は総崩れとなる。

消しゴムのカスから零れ出る吐息  下谷憲子

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     西郷頼母筆

頼母は兵を叱咤激励するも、潰乱を止めることができない。

わが身だけでも敵陣に突入しようとするが、

部下から「総督はいまここで死ぬべきではない」と、

諫められ、後退せざるをえなかった。

結局、会津藩の副総督・横山主税、

仙台藩の主将・坂本大炊軍監・姉歯武之進

指揮官クラスが多く戦死し、

700もの兵を失うという大敗北を喫してしまうのである。

 姉歯武之進=世良を襲撃した人物

廃液の波に呑まれた尾骶骨  皆本雅

白河口の戦況は、その後もはかばかしいものではなかった。

5月1日の敗北から2ヵ月、

東軍は白河城への攻撃を繰り返すが、

奥羽諸藩の連携不備もあり、遂に奪還できずに終わる。

この間、日光口方面から転戦してきた板垣退助が、

白河城に着陣するなど、西軍の兵力は増強された。

また、5月15日には上野寛永寺に籠った彰義隊も敗北し、

新政府は援軍を海路で平潟港に送り込む。

6月16日に上陸した西軍は、

磐城平藩や相馬藩などを下し、仙台藩に迫った。

7月26日、この情勢を見た三春藩が西軍に寝返ってしまう。

胃袋を掴まれたならもう終り  蟹口和枝

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                少 年 隊

これにより、西軍は一気に攻勢を強め、

7月29日には二本松藩に迫った。

しかし二本松藩は、

主力軍を白河方面などに出兵しており、

老兵少年兵で西軍に立ち向かうしかなかった。

条件をみんな呑んでも風ぐるま  山本早苗


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    木村銃太郎

二本松藩(丹羽家)尚武の気風を誇る藩であり、

砲術師範の木村銃太郎が率いる少年砲兵隊20数名、

また二本松少年隊数十名もこの戦いに勇躍臨む。

彼らは新式銃を持ち、錬度も士気も高く、

敵に衝撃を与える。

だが、衆寡敵せず、やがて木村銃太郎は被弾。

少年たちは泣く泣く師を介錯した。

そして少年たちも、一人また一人と斃れていく。

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運命と割り切ったのに出る余り  松本柾子

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