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マフラーのように大蛇を巻きつける 青砥たかこ
「斬奸状」(真田宝物館所蔵)
佐久間象山が暗殺された日に、
京都の三条大橋に掲げられたといわれる張り紙「斬奸状」。
説明書きには 「象山を殺害した事の正当性を記す」資料とある。
『此者元来西洋学を唱ひ 交易開港之説を主張し
枢機之方へ立入御国是を誤候大罪 難捨置候処
剰□□賊会津彦根二藩ニ与同し 中川宮と事を諮り 恐多くも
九重御動座彦根城へ奉移候義企 昨今頻ニ其機会越窮候
大□無道不可容天地国賊ニ付 即今日於三条木屋町
加天誅畢但斬首可懸梟木ニ之処 白晝不能其義もの也』
元治元年七月十一日 皇国忠義士
破れない紙だ鎖がついていた 和田洋子
「佐久間象山」
佐久間象山、文化8年(1811)2月11日誕生。
幼名は啓之助。
誕生の時に、一際美しく輝いていた明けの明星に因み、
子明・大星などとも名付けられた。
象山は、26歳の頃からの名前で、一時は
「しょうざん」とも「ぞうざん」とも読まれたが、
"ぞうざん" と言う呼び名に統一された。
≪因みに象山の妻は勝海舟の妹≫
大宇宙すっぽり入る頭蓋骨 新家完司
41歳の時、江戸で私塾・「五月塾」を開き、
砲術・西洋兵学を教え実理を説いている。
弟子には、明治維新の布石となった勝海舟、坂本龍馬、
吉田松陰、橋本左内、小林虎三郎などがいる。
安政元年(1854)松陰の「海外密航事件」(象山の耳打ちによる)
に連座して、伝馬町に入獄する羽目になり、
更にその後は、
文久2年(1862)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
このとき、松代の象山を訪れた高杉晋作、中岡慎太郎、
久坂玄瑞、山県半蔵らが、
象山の論に大いに影響を受けたとされる。
出口さがすその一冊を読みながら 立蔵信子
元治元年(1864)4月、象山は一橋慶喜に招かれ、
「公武合体論・開国論」を説くため上洛する。
同年7月11日、放漫で自信過剰のところがある象山は、
一人馬上の人として、
京都・三条木屋町を通りかかったとき、
池田屋事件の直後で、いきりたっていた攘夷派の
志士・前田伊右衛門、河上彦斎ら刺客の刃に倒れる。
54歳の生涯であった。
≪余談として、暗殺者の一人河上彦斎は、
後に象山の大きさを知り愕然として、以後暗殺をやめてしまった。
というエピソードが残る≫
”折にあへば散るもめでたし山ざくら めづるは花のさかりのみかは”
辞世ともなる象山を推し量る一句。
もの凄い速さで今日が消えて行く 森 廣子
【豆辞典】-「斬奸状」(ざんかんじょう)
悪人を斬るうえで、その理由を記した書状。
桜田門外の変においても、水戸浪士たちは「斬奸趣意書」を残している。
また大久保利通を暗殺した嶋田一郎たちは、
陸義猶が書いた「斬奸状」を持参していた。
冒頭の「斬奸状」は1965年ごろまで、県町のホテル「犀北館」が所蔵。
展示されたことはなく、好事家が閲覧していた。
その後、長野市教育委員会が蔵書類などと一括して購入。
現在は真田宝物館で一般公開している。
意のままにならぬ自分という器 上山堅坊[3回]
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