忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[161] [162] [163] [164] [165] [166] [167] [168] [169] [170] [171]
嘘に嘘まぶしてかぎりなく濁る  たむらあきこ

435715f1.jpeg

       雨中の馬揃え

「尊攘激派」

京都守護職に就任した松平容保は当初、

井伊直弼の「安政の大獄」による強権政治の失敗を,

教訓として、宥和策をとる。

だが激派浪人たちは図に乗り、「天誅」と称して、

標的とする相手の家臣、出入りの小者までも襲って、

その耳、手首、さらに首を落として、

屋敷に投げ込むなどの狼藉を繰り返した。

また、尊氏ら足利三将軍の木像を等持院から奪い、

首を切り落として、三条大橋下に獄門台を据えて晒し、

「今世にこの奸賊に超過するものあり。

  その罪悪足利の右に出ずる」


と徳川将軍家を誹謗・弾劾する捨札を掲げた。

騒いでいるのはキプロス島の蝦蛄  井上一筒  

「軍事演習ー馬揃え」

容保は尊攘激派の果てしない無謀な抵抗に宥和策を捨て、

「新選組」を登用するなどして、

市中見回りを厳重にする強硬策にうって出た。

この容保を目の仇にしたのが尊攘激派の公家であった。

当時、長州藩と結んだ公家たちが、

朝廷での主導権を握っていた。

彼らは上洛した14代将軍の家茂に攘夷決行を迫り、

賀茂社への天皇の攘夷祈願に随従させるなど、

権勢を振るい、また容保失脚の機会を狙った。

感情の正面衝突おお危な  柴本ばっは

三条実美

京では三条実美が策略を巡らし動いていた。

慶喜が江戸に戻ったまま、一向に攘夷を決行しないので、

容保を江戸へ下向させて檄を飛ばすべく、

その旨、孝明天皇の勅書を出したのだった。

孝明天皇は、自分の意志を無視したやり方に憤慨し、

三条や長州派の公家には内緒で、近衛忠煕を呼びつけた。

勅書を受け取った容保も、いぶかっていた。

この時期に江戸へ下向するなど考えられなかったからだ。

そこに本物の勅書が届いた。

勅書は、孝明天皇が、

「会津を、容保を、頼りにしている旨」が書かれてあった。

容保は読みながら涙を流し、命をかけて帝を守る決意をする。

青や角かなぐり捨てて君の前  酒井かがり

05df47ad.jpeg


      建春門前

文久3年(1863)7月、

なお彼らは、天覧の軍事演習である「馬揃え」で、

容保に恥をかかせて失脚させようとした。

容保は、

「人心が不安な昨今御所の傍らで武事を演じるのはよくない」

と反対したが、彼らは強引に押し切った。

仕方なく会津藩は、御所で軍事訓練を披露することに。

天覧の馬揃えは、280年前に織田信長が行って以来で、

会津藩にとっては名誉だったが、

当日は雨で順延となった。

翌日も雨。三日目も雨が降った。

この日朝早く延期の達しがあったので、

容保は藩士を解散させた。

ところが御前十時、朝廷から

「雨中で馬揃えをやる」 と急に決行の知らせが届いた。

一秒の休み欲しいと言う時計  平田元三

「無理だ」と返答しても「ならぬ、やれ」との命のため、

容保は、ふたたび藩士たちに招集をかけた。

当時会津藩士には、薩長土の藩士のように、

祇園などで遊ぶような者はおらず、

堅物なほど真面目で、休みでも宿舎にいて、

緊急の召集にも強い団結力をみせた。

夕方四時、御所建春門前に、

甲冑具足をまとった会津兵が集結し、容保の合図のもと、

一糸乱れぬ長沼流軍法による、実戦さながらの

練兵を披露した。


この時、容保が着ていた陣羽織は、

帝が与えた衣で作ったものだった。

鍵穴のむこうで蜘蛛になる男  清水すみれ

この豪壮かつ規律ある演習に、孝明天皇は感激する。

藩士が集まらず、右往左往する姿を露呈させて、

職務怠慢のかどで、

容保を追放しようとした激派公家の思惑は外れた。

後ろ手で寒い雑音閉めました  美馬りゅうこ

【豆辞典】「馬揃え」

騎馬を集めてその訓練の状況や優劣を競いあった武家行事。

軍事パレード的な意味合いも持つ。

1184年の源義経による駿河浮島原、

1581年の織田信長が行なった京都馬揃え。


1632年に品川宿で徳川家康が行なったもの、

そして1863年に松平容保が孝明天皇の勅命によって、

行った馬揃えが有名。


国滅ぶ時も行列崩さずに  板垣孝志

拍手[2回]

PR
わけもなく淋し風船飛んでおり  大西泰世

c819ee3f.jpeg

     東山温泉

東山温泉は、約千三百年前、名僧・行基によって発見された、

奥羽三楽郷に数えられる、由緒ある温泉郷、

豊かな自然と美しい景観に恵まれながら、

会津若松市の中心地から車でわずか10分程度という便利さが、

市民や観光客に親しまれ、


竹久夢二与謝野晶子などにも愛された湯の街である。

ゆっくりとしたいと脳が言うもので  下谷憲子

t-8-8.jpg


紅葉の会津では、秋空の下を八重、覚馬、尚之助、

三郎が東山温泉に向かっていた。

藩主の容保と上洛する覚馬との、別れの旅だったが、

野郎ヶ前の茶屋にさしかかると、

神保修理と妻の雪子が仲むつまじく田楽を買っていた。

二人の目的地も東山温泉だった。

二組は途中の河原で休憩をとることに。

万病に効く「のほほん」という薬  新家完司

上洛する覚馬と修理は京の情勢を語り合い、

そんな二人をよそ目に八重たちは川面に石を投げ、

水切りで遊んでいた。

三郎は近くの松の枝に小石を投げて見事に乗せた。

投げた石が松の枝に乗れば、

願いが叶うという里のものたちの

運試しだったが、八重も見習って、

覚馬が京で手柄を立てることを願って投げた。

見事、枝に乗った。

続いて雪子も投げたが、何度投げても乗らなかった。

雪子の夫は神保修理。

修理は秀才の誉れ高く、期待もされていたのに、

35歳で詰め腹を切らされる。

坂道で女が拾う柿のたね  森中惠美子

eb948c37.jpeg


  じんぼしゅり
「神保修理の悲劇」

「鳥羽伏見の戦い」が開戦した翌日、

薩摩藩の本陣に「錦の御旗」が掲げられ、

江戸幕府軍が朝敵となった。

大坂城でこの報せを聞いた徳川慶喜は動揺し、

「この後は、江戸で戦う」 と言い、

大阪城を捨てて、海路で江戸へ逃走する。

会津藩主の松平容保も、慶喜に従い、

大阪から江戸へと逃れた。

さざんかの散りざま責任は誰がとる  安土理恵

総大将の戦線離脱という予期せぬ事態により、

江戸幕府軍は、総崩れとなって新政府軍に大敗。

そこで、会津藩士・佐川官兵衛ら抗戦派の怒りは、
                          
「総大将の徳川慶喜が江戸へ逃げたのは、

  神保修理の助言によるものではないか」
 として、

恭順を主張していた非戦派の神保修理に向けられた。

今日の地図さて何色で塗りましょう  合田瑠美子

一連の騒動を知った勝海舟は、慶喜に進言。

進言を受けた慶喜は、

会津藩に修理の身柄を幕府に引き渡すように命じた。

しかし、抗戦派の会津藩士が引き渡しを拒否。

そして、慶喜の要求に怒った抗戦派の会津藩士は、

「藩命だ」と言い、修理に切腹を命じたのである。

わたくしの音だどうりで寒すぎる  前中知栄

t-8-7-2.jpg


修理は会津藩主・容保との面会を求めたが、

面会は許可されず、「偽りの藩命」だと知りながらも、

藩命に従って自害した。

t-8-9.jpg

「神保雪子」

雪子と修理は仲睦まじい夫婦だったが、

前述のとおり、修理は悔いを残して切腹。

その後、雪子は、「会津戦争」が起こり実家へ戻るも、

「婚家と運命を共にせよ」

と父に追い出される。

が、神保家にはたどり着けず、

娘子隊に加わって戦い、捕えられ自刃。

哀しすぎる最後を遂げる。

古井戸をのぞくと遠い日のメモリー  山本昌乃

拍手[2回]

速報を読む菜箸を持ったまま  久保田 紺

t-7-1.jpg

   家訓を背負って

「会津藩政史」
               かたひろ
7代藩主・松平容衆の時代。

文化4年(1807)11月、会津は幕命によって、

唐太(サハリン)へ出兵することになった。

これはロシア人が唐太や北蝦夷地の日本人集落を、

荒らしたため、居留地を保護する必要が生じた。

翌文化5年1月に出動した藩兵は、

唐太へ800人、松前へ270人、宗谷へ370人、

利尻島へ350人。

「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」

と幕府への絶対忠誠を求めた会津藩家訓の精神は、

名君・保科正之の死から135年後、

会津松平家を、国防の第一線に立たせた。

二礼二拍手して蒸す日本  森 茂俊
      かたたか
8代藩主・容敬が弘化4年(1847)2月以降、

幕府から江戸湾警備を命じられ、

房総の富津・竹岡に陣屋を設けた。

容敬は、嘉永5年(1852)2月に生涯を終え、

その養子の9代・容保が9代にして、

最後の藩主に就任するが、

翌年6月3日にはペリーが浦賀に来航。

会津藩は小船多数で黒船を取りかこみ、

万一の場合に備えた。

一切を捨てて案山子になった由  筒井祥文

あけて嘉永7年(11月27日・安政改元)1月、

会津藩は江戸湾砲台(お台場)の守備を命じられた。

文久2年(1862)12月、

容保が新設の京都守護職に任命され、

尊王攘夷派の天誅の嵐が吹き荒ぶ京へ、

赴任せざるを得なくなった。

これらは、「困ったときの会津藩頼み」という発想が、

深く根付いていたことを物語る。

流れ星枯山水へ身を投げる  蟹口和枝

t-7-7.jpg


文久2年12月、容保は千名の精兵を引き連れ京に到着し、

黒谷金戒光明寺に入った。

当時、京に多くの藩士たちが集結していた長州藩は、

尊王攘夷の最たるもので、朝廷内の急進派公家を通じ、

幕府に攘夷の実行を迫っていた。

彼らの行動は、

攘夷決行の祈願のための天皇行幸を計画するなど、

孝明天皇をも蔑ろにするものであったため、

文久3年8月18日、会津藩と薩摩藩はクーデターを決行、

三条実美ら急進派公家7人を京都から追放した。

b1b7c051.jpeg

≪「8月18日の政変」≫ (拡大してご覧下さい)

火の山に向かうしばらく火にならん  前田扶巳代

誠実な人柄の容保は、

攘夷派の孝明天皇から信頼され、

「朝幕ともに国難に対処すべし」

とする公武合体の実現に努めた。

そんな折、容保の見通しが甘かった出来事が起こる。

オブラートがなくなった 苦い  田中博造

ad441b68.jpeg


 足利将軍3代の木像

徳川の身代わりとなった将軍 (左から尊氏、義詮、義満)

2月23日の早朝、

京の三条河原に木像の首が3つさらされていた。

首の下には、「初代等寺院殿尊氏」などと、

それぞれの位牌が吊るされ、

立て札には「逆賊 足利尊氏、同義詮、同義満」とあった。

朝廷を軽んじた逆臣、足利将軍に天誅を下すという意味で

徳川幕府へのあてつけだった。

首は、北山等持院にある足利将軍3代の木像から

引き抜かれたものだった。

盗んだ木像を三条河原にさらしたのは、

実は会津藩の密偵で、密かに、

攘夷浪人の監視をしていたはずの大庭恭平だった。

店を出た途端左は右になる  徳山泰子

2月10日発信の「会津家家訓の縛り」の中で誤記入がありました。

岩根彰子さんには、大変、ご迷惑をおかけしました。

謝罪して訂正いたします。


誤  表紙の桃は差し歯をされました  

正  表装の桃は差し歯をされました

t-7-11.jpg


    北山等持院

足利将軍家の菩提寺(霊光殿に歴代将軍の木像を安置)

【豆辞典】ー足利将軍三代

室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満のこと。

1863年に3人の木像の首と位牌が京都・等持院から持ち出され、

賀茂川にさらされた。


これは倒幕を意味した挑発行為と考えられ、

また、江戸で募集した浪士組の上洛前でもあったため、

松平容保は激怒。

          げんろどうかい
融和策である『言路洞開』を掲げ、討幕派とも話し合う

姿勢を見せていたが、それを一転させ、

浪士取り締まりを強化していく。


『言路洞開』ー「言路」とは君主や上役に意見を述べること。
          「洞開」は開け放つこと。

(ぺりー来航を受け、開国か否かの判断に迷った老中・阿部伊勢守
「言路洞開」を掲げて、広く意見を求めたという。
容保は浪士対策として「言路洞開」を掲げ前関白・
近衛忠熙に建白した)


結界がどんよりしてるから跨ぐ  岩根彰子

t-7-11.jpg


【豆辞典】-北山等持院

京都市左京区にある臨済宗天龍寺派の寺院。

1341年に足利尊氏は等持院を、2年後に別院北等持寺を建立。

尊氏の死後、寺は墓所となり、名も等持院と改めた。


「応仁の乱」で等寺院が焼失したため、

別院だった等寺院が本寺となる。

東西に分かれた庭園を持ち、

西の庭は、芙蓉池と称し衣笠山を借景にした池泉回遊式で、


北側には、茶室・清漣亭がある。

威風堂々等身大のグッドバイ  酒井かがり

拍手[3回]

私が私であるための指紋  三宅保州

yae-kazoku.jpg

「八重の生まれた山本家」

裕福な暮らしではないが、

生真面目な父・権八をはじめ、

面倒見のよい母・佐久、自慢の兄・覚馬

年の近い弟・三郎とともに八重は育つ。

時に射撃の音が響く家では、笑い声も絶えなかった。

「八重のファミリー」

f1f71e64.jpeg


山本権八ー八重の父

山本家の通りを挟んで、

向かい隣4軒目にあった永岡家の四男で、

八重の母・佐久とは幼なじみ。

19歳で山本家の養子となり、

名を繁之助から権八と改める。

山本家の家督を継いで、砲術師範役となるが、

十人扶持(1日米五升)で決して裕福ではなかった。

会津戦争時、すでに隠居をしていたが、

50歳以上の男性からなる玄武隊の一員として出陣する。

父あわれ太田胃酸が膝に散り  時実新子

a4d7e3b7.jpeg  yaekazoku-2.jpg


      山本佐久ー八重の母

会津藩砲術師範役の山本左兵衛の一人娘。

16歳の時に3歳年上の永岡繁之助と結婚し、

三男三女を産む(次男と次女は早逝)

おおらかで気さくな性格で、貧乏暮らしも苦にせず、

困っている人がいると放っておけずに世話をした。

城下では賢夫人として評判で、

会津で初めて種痘が行われた時、

敬遠する領民たちに根気よく効用を説いてまわり、

疱瘡の流行を防いだ。

覚馬は「母の聡明さにはとても及ばない」と語っている。

母と子がだまって母が折れてくる  桜井六葉

e950beec.jpeg


山本覚馬ー八重の兄

八重があこがれた17歳年上の兄。

生傷が絶えないほどのわんぱくな少年であったが、

辛い家事を平然とこなし、佐久を助けた。

日新館に学び、

文武に秀で弓馬槍刀の師伝を得て褒章を受けた。

23歳の時に江戸に遊学して、洋学を学び、

先進的な見識を持つに至る。

日新館教授となり蘭学所を開設し、

軍事取調役兼大砲頭取に抜擢された。

割烹着つけた夫を見直そう  柚木奏子

434eeb29.jpeg


山本うらー覚馬の妻

安政4年(1857)頃、樋口家から覚馬に嫁ぐ。

長女・初子を授かるが夭逝。

文久2年(1862)に次女・みねを産むと、

ほどなく夫・覚馬は藩命で上洛し、留守を預かることに。

「会津戦争」では、城中の足手まといになることを恐れ、

避難することを望んだが、

八重に説得され、ともに籠城する。

戦友と呼びたい妻と幾山河  小泉国男

yama-3.jpg

山本みねー覚馬の娘

文久2年(1862)覚馬・うら夫妻の次女に生まれる。

ほどなく父・覚馬は上洛したため、

幼少期の父との触れ合いはほとんどなかった。

会津戦争時は7歳で、

八重やうら、佐久と行動をともにしたと思われる。

ユーモアを覚え泣かなくなった次女  桑原伸吉

1e5787cc.jpeg


山本三郎ー八重の弟

八重の2歳年下の弟。

幼い頃から八重にくっついて遊び、八重も心底可愛がる。

一人前の会津藩士になるため鍛錬に励み、

藩命で京都勤めとなる。

「鳥羽伏見の戦い」で負傷し、海路江戸に戻るが、

傷がもとで芝新銭座にあった藩邸で死去。

会津の山本家には三郎の遺髪と衣服だけが戻り、

八重はその衣服を着て、籠城戦に参加する。

弟が好き 弟も姉が好き  平良航海子

e051151f.jpeg


川崎尚之助ー八重の夫

八重の最初の夫。

但馬出石藩に仕える医家の家系に生まれ、
     せいみ
蘭学と舎密術を学ぶ。

砲術家・佐久間象山の塾で知り合った覚馬が惚れこみ、

会津に連れ帰って日新館の蘭学所教授に就けた。

山本家に居候し、慶応元年(1865)頃に八重と結婚。

「会津戦争」では籠城戦に参加し、

銃隊や砲隊の指揮をするなどの活躍をする。

計算の下手な家族の灯が丸い  渡辺静江

拍手[3回]

常温で弾む程度の黒魔術  井上一筒

rekisi-9.jpg

会津松平家初代・保科正之

会津藩家訓。保科正之が寛文8年(1668)に制定。

その精神は代々の藩士に受け継がれた。


「京都守護職就任」

「京都守護職」就任から「会津戦争」終結まで

なぜ会津藩は「朝敵」の汚名を着せられたのか?

確かに会津藩は終始、幕府と行動をともにし、

薩長両藩と鋭く対立することもあった。

だが最後の将軍よりも、過酷な処罰が科され、

最後は悲惨な籠城戦に追い詰められている。

そこには初めは称えられ、次に恐れられ、

末は憎しみの的になる、強者ゆえの悲劇がある。

雲ひくく漢方薬を少し買う  森中惠美子

藩祖の家訓に従い京都守護職に

文久2年(1862)閏8月1日、

第九代会津藩主・松平容保は京都守護職を拝命する。

これが、会津藩が幕末動乱の渦に巻き込まれていく、

端緒であった。

おぼつかぬ道です内股でいきます  河村啓子

096f488e.jpeg


容保は初め、就任を固辞した。

会津藩はすでに、蝦夷の警固房総の守備、

品川砲台の守りを勤めている。

度重なる飢饉で出費がかさみ藩財政は苦しい。

その上、京都に出兵し、

暗躍する尊王攘夷過激派を取り締まり、

治安を回復するのは、

「火中の栗」を拾うようなものだ。

家老の西郷頼母ら家臣も猛反対した。

丸ごとを生きるいのちを愛しむ  前中知栄

しかし春嶽は諦めずに、次のような手紙を容保に認めた。

「土津公(はにつこう)以来のお家柄と申し、

  かたがた今の艱難を御亮察くだされ、

  只今お受けに相成り候へば・・・・」


土津公(保科正之)以来のお家柄ならば、

幕府が苦境の今こそ、

京都守護職を受けるべきと説いたのだ。

さらに春嶽はこの後に、

「もし正之公でしたら、お受けになったことでしょう」

と殺し文句を続けている。

どこまでも従いてくる昨日のしっぽ  清水すみれ

"大君の義、一心大切に忠勤を存ずべく、

列国の例を以て自ら処るべからず・・・"


容保は「会津藩の家訓」を思い出し、

「ここまで言われては、もはや断れぬ」

と観念した。

純真な人から嵌る落とし穴  河津寅次郎     

容保に京都守護職の白羽の矢が立ったのは、

条約調印や将軍継嗣をめぐる、政争を収拾する際、

大きな功績があったからだでもある。

大老・井伊による日米修好通商条約の無勅許調印、

十四代将軍に徳川慶福(家茂)を推す南紀派の勝利、

一橋慶喜擁立をめざした一橋派の粛清(安政の大獄)

そして、桜田門外の変・・・・。

せめてからやがてにかわるその日まで  北原 照子

水戸脱藩浪士らの井伊大老暗殺に激怒した将軍家茂は、

水戸家問罪の出兵を命じようとした。

この時、容保が、

「事件は脱藩浪士が起したもの。

  今は国内で争っている時ではありませぬ」


と諫止、家茂がこれを容れ、

水戸家処断は「沙汰止み」となった。

この功績で容保は左近衛権中将に昇任、

さらに水戸藩に下った密勅の返納もやり遂げ、

家茂の信頼はいよいよ厚くなる。

表装の桃は差し歯をされました  岩根彰子

a9476f62.jpeg


     松平容保

28歳の「会津中将」は幕閣の中でも、

一目も二目も置かれる存在になったのだ。

文久2年6月、

兵を従え上洛した薩摩藩国父島津久光が、

攘夷督促の勅使・大原重徳らを伴い江戸に入り、

幕府に圧力をかける。  その結果、

一橋派が幕政に復帰、

一橋慶喜が将軍後見職、

松平春嶽が政事総裁職に就き、

3代将軍家光以来となる

将軍家茂の上洛も決まった。

これを機に、新設されたのが「京都守護職」であった。

水のことばがわたくしを点すこともある  たむらあきこ

siro-3.jpg


【P・S】

容保は高須藩から養子で、

会津松平家に入っていただけに、会津藩主として、

「こうあらねば」

とより重く受け止めていたのだろう。

「我らには正之公の遺訓がある。

  また、数代にわたり隆恩に浴くしていることを、

  余は不肖といえども一日も忘れたことはない」


容保は家臣たちを前に、悲壮の覚悟を口にし、

「京師の地を死に場所にしよう」

と、藩士一同、泣きながら覚悟を固めたのである。

かくして会津藩は、将軍家のため、

また、宸襟(しんきん)を案ずるため、

全身全霊で京都治安維持の任務にあたり、

動乱の渦中に突入していくのであった。

生と死の話へ遮断機が下りる  板野美子

拍手[4回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開