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川柳的逍遥 人の世の一家言
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欠けてゆく度 重くなる月  森吉留里恵

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中野こう子、竹子、優子母娘の涙橋の戦い
                           (長谷川恵一画・会津武家屋敷蔵)

(すべての画像はクリックしてご覧下さい)

「中野姉妹・こう子」

中野竹子は江戸和田倉の会津藩上屋敷内で生まれた。

5歳で百人一首を暗誦し、

藩主容保の姉・照姫の薙刀指南だった赤岡大助から、

7歳の頃より薙刀や剣術を学んだ。

17歳の時、大坂の御蔵奉行に転出した大助の養女となり、

上方に住む。

大助は竹子を甥の嫁にしようとしたが、

男勝りの竹子は、

動乱の様相を呈する世情に無関心ではいられず、

結婚はまだ早いと養女の縁を切って江戸に戻り、

中野家に復した。

そして20歳の頃、

備中松山藩の板倉勝静の姫付き祐筆として、

奥勤めにも出た。

プラチナの涙も流す女心  小林満寿夫

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幕府が崩壊し、薩長の恨みが会津に向く中、

藩主容保の帰国に伴い、

中野家母娘ははじめて会津の地を踏んだが、

江戸詰めのため屋敷はなかった。

そこで日新館や山本八重の家に近い、

遠縁の田母神兵庫宅の書院を借りて、

会津戦争が始まる5ヶ月程前から住んだ。

この頃、赤岡大助も会津に帰り、

坂下で道場を開いたため、22歳の竹子は、

片道12キロの道を歩いて通い、薙刀の鍛錬に励んだ。

疲れます正直すぎて真っ直ぐで  安土理恵

当時、母・こう子、妹・優子も薙刀の訓練を日課とした。

44歳のこう子が中心になり、近所の者で婦女隊を結成し、

敵と戦う相談ができる。

薙刀も習っていた八重も誘うが、

彼女は鉄砲を選んで薙刀隊には加わらなかった。

※ (こう子は会津女ではなく、足利藩戸田家の家臣生沼喜内の娘)

やがて散ることも心に留めておく  竹内ゆみこ

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会津城城内の砲弾の火を消す女性たち
                 (長谷川恵一画・会津武家屋敷蔵)

「涙橋の戦い」

若松城下に新政府軍が突入して来た8月23日朝、

母娘3人は自宅で断髪し、切った髪を庭先に埋めて出陣した。

だが敵の侵入が余りに突然だったため、

近所の20人余人で約束した「婦女隊」の編成は叶わなかった。

鶴ヶ城に行こうとしたが、敵陣に阻まれ、

城とは反対の西に向かい、

避難する人々の流れに乗って、郭門を出た先の河原町で、

偶然に依田まき子・菊子の姉妹と、岡村すま子に出会った。

みな薙刀を持ち、刀を佩びていた。

6人で一緒に行動する約束ができ、

ここに「婦女隊」が生まれた。

空高く I を小文字にかえてみる  北村幸子

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中野竹子が使用した薙刀

ちょうど通りかかった侍から、照姫が坂下に立退いたと聞き、

6人は、「照姫様をお守りしよう」と坂下に向かったが、

誤報と知ってがっかりする。

翌日、出陣していた家老・萱野権兵衛に会い、

女ながらも戦いたいと直訴し、翌25日に、

鶴ヶ城へ進撃する衝鋒隊に同行することが許された。

その夜半、寝ている優子を前に、

こう子竹子のひそひそ話を、菊子は盗み聞きし仰天する。

洗練された言葉で花の首を切る  笠嶋恵美子

優子は16歳と若く美人なので、

戦って捕まれば敵の慰み者になってしまう。

そんな恥辱を受けるぐらいなら、

「いっそ今、自分らで殺してしまおう」

と相談していたのだ。

菊子は姉・まき子を叩き起すと、

2人で思いとどまるよう説得し、優子は命拾いをする。

襖の下貼りにちょうどよい聖書  森光カナエ

運命の25日、降る雨の中、

婦女隊6人は鶴ヶ城に向け進軍する衝鋒隊に従った。

湯川に架かる涙橋は鶴ヶ城の北西2キロ余りにあって、

越後街道と銀山街道の追分けに位置する、

交通の要衝だった。

長州と大垣の兵たちが涙橋に土塁を積んで、

会津方を待ち受けていた。

生と死は神の領域だと思う  佐藤正昭

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                                    (画像をクリックすると拡大され 文字が読めます)

夜9時、衝鋒隊が突破を図ろうと涙橋に殺到して、

戦闘がはじまる。

当初、衝鋒隊が優勢だったが薩摩と土佐の兵が駆けつけ、

しかも銃器の差によって立場は逆転し、

3時間の戦いで会津方に70人の死傷者が出てしまう。

6人の婦女隊は一塊となって湯川の薬師河原で戦った。

敵味方の放つ銃弾が、雨に濡れてピカピカと光って飛び交う。

6人は臆することなく斬り込み、接近戦となる。

敵の隊長が、女と知って「討たずに生け捕れ」と叫び、

群がるように6人を囲む。

「生け捕られるでない、恥辱を受けるな」

とこう子は怒鳴る。

一点を凝視心は閉じたまま  嶋澤喜八郎

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「ものゝ夫の猛き心にくらぶれば、数にも入らぬ我身ながらも」

竹子は自歌を短冊に認め薙刀に結びつけていた。

その薙刀がうなる。

切っ先が敵兵の白刃をしのいで幾人かの敵を倒した。

弾丸は真正面から飛んできた。

彼女の強さに恐れをなして、狙撃したに違いない。

弾は額を貫き、ドドッと竹子は倒れた。

即死だった。

飴玉を砕いた虹は消えました  森田律子

これを見た優子が、

間に立ちふさがる敵を薙ぎ払いながら、竹子に近づくと、

「お姉様の御首級を敵に絶対渡しはしませぬ。

私が介錯し持ち帰りましょうぞ」


と唇をきりりと結び、首をはねようとした。

だが髪の毛が引っ掛ってうまく行かず、

側で戦っていた農兵が手伝って

ようやく姉の首級を挙げたという。

逢えますかあなたそちらへ行く前に  北原照子

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竹子が死んだ時、すでに敗色は濃く、

白羽二重の布に首級を包み、

衝鋒隊と共に退却を余儀なくされたのだ。

家老・権兵衛は彼女らの奮闘を讃えると共に、

「今後は城に入り、負傷者の看護にあたって欲しい」

と要請し、5人は同意した。

そこで銃を装備した兵に守られて城に入ると、

容保照姫に御目通りが許され、

「よく女子ながらも働いてくれた」

とお褒めの言葉を賜った。

すずしろの花汚れても白でいる  河村啓子

時に、こう子の夫・平内は月見櫓におり、

また竹子と優子の間に男子の豊記がいたが、

白河口の戦いで右足に銃弾を受けて負傷していた。

籠城家族のほとんどが、

京都出陣以来、肉親を戦死させており、

悲しみは皆同じだった。

ところで、優子に劣らず18歳の菊子も美人で、

しかも男姿だったため、

2人は籠城者から白虎隊の美少年と間違えられて、

人気者になり、餅など沢山差し入れられたという。

見えますかこれでひかっているのです  桜風子

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粉々にすると豆腐は食べ易い  井上一筒

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  新政府軍進路図

(画像をクリックして大きくご覧ください)

慶応4年3月から会津に至る街道口を守るため、
各方面へ会津藩兵が向かう。


西郷頼母を総督として、(副総督・横山主税)ー白河口

大鳥圭介を総督として、(副総督・山川大蔵)ー日光口

合わせて、約千三百。 

太平口ー約七百(総督・原田対馬

米沢口ー約百、越後口ー約千三百(総督・一瀬要人

かき回されて泥色になるところ  石橋能里子

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「会津戦争の経過」

4/20     白河口の会津藩が白河城を陥す。
5/  1      新政府軍、白河城奪回。 横山主税戦死。
   6   日光口今市ー大敗。

6/ 24  会津藩ー棚倉城陥る。
7 /  2  西郷頼母・戦績不振で罷免。内藤介右衛門が後任に。

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    二本松少年隊像

  29  二本松城陥る。 二本松少年隊の悲劇

8/   4  会津藩ー越後口・村松にて敗北、石間へ戦闘が進む。

8/ 21  およそ1万の新政府軍は、
      母成峠を突破し一気呵成に若松城に迫った。
     22  猪苗代城落城。 
      その勢いで十六橋を突破。
      これを受け復職した西郷頼母、田中土佐
      神保内蔵助、萱野権兵衛、梶原兵馬、佐川官兵衛ら、
            重臣が緊急登城し、防衛策を討議。
     23  新政府軍、城下に侵攻炎上に城が落ちたと見誤り、
      2番隊/白虎隊が飯盛山にて自刃
     24  城下では入城のお触れが出て、籠城戦へ。
     25  急な敵襲の知らせに入城出来なかった女性たちが、
      薙刀をふるって城外で奮戦。
      中野竹子戦死。
  26   山川大蔵隊ー新政府軍の隙をつき入城し、
          籠城兵力三千となる。
     29  佐川官兵衛一千が出撃、長命寺を囲んで激戦。

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9月   戦線が膠着状態陥る中、城内の子供たちは、
      まだ余裕があることを敵軍に示すため、
      凧あげをしていた という。

   14     新政府軍鶴ヶ城を総攻撃。
  17  一瀬要人、八重の父・権八戦死
           城下への食糧補給が路断たれる。
  22  会津藩降伏

どこまでも人は哀しいものですか  庄田潤子


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      管  見

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人生の節目節目の立ち泳ぎ  合田瑠美子


『管見』ー概略

覚馬は安定した政体の構築を訴え、

そこで目指すものへの多岐ににわたる提言をした。

示されたのは政治新聞や軍事面から衣食や生活面にいたる

23項目もの提言である。


1  天皇奉戴の下で三権分立

2  大小の議事院による二院制として、大臣と小臣を置く。
   士分出身の小臣は藩の石高で人数を規定

3  京坂と重要港に学校設置

4  制令一定のための試行錯誤の必要性

5  人材抜擢と国是の設定

6  家臣は天皇から諸侯へ付属。士分の農商業選択の自由。
   各戸共通の軍役への派出や課税制度改革等

7  農業立国から商業立国への移行奨励

8  官命による製鉄所設置

9  貨幣を重視し、銅の保有量を公示

10 毛織物着用と肉食の奨励

11 女子への教育の奨励

12 財産の嫡子相続の見直しと均等相続の奨励

13 常食物の米から麦や葡萄への原材料の移行奨励

14 開港地神戸周辺への砲台建設

15 軍艦建造の官製限定

16 神戸開港にともなう地域水路の拡充

17 種痘奨励と性病対策

18 社会的問題の多い髪結所の廃止と髪型の自主選択

19 破戒僧の追放と僧侶の官許化

20 対外貿易航海時の海上・生命保険設置の提案と
   貿易社設立の奨励

21 外国式の時勢への変更

22 太陽暦への変更

23 家格に囚われぬ優秀な官医の抜擢

てのひらの石を出ていく一番列車  岩田多佳子

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 ドラマ以上のドラマ切り取るカメラマン  美馬りゅうこ

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白河口合戦絵図ー1

(画像クリックで拡大されます)

「白河城の戦い」

奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵が斬られた
          ふっきょう
その日の払暁、会津藩は、

新選組の斎藤一ら先鋒軍を差し向けて白河城を攻撃。

意を通じていた守備側の二本松兵は、

防戦の構えだけ見せて早々に退却した。

さらに、慶応4年4月23日には、

白石城で第二回の列藩会議が開かれ、

薩長の横暴を糾す方針が合意される。

私は絶滅危惧種です多分  高橋謡々

慌てた西軍は二日後の25日、宇都宮から大田原まで、

進出していた軍勢を白河に差し向けるが、

会津藩はこれを撃退し、大いに意気を上げた。
            そ ご
だがここで齟齬が発生する。

西軍を撃退した翌日、

会津藩の白河口総督・西郷頼母が白河城に入城し、

さらに仙台藩なども加わって総勢2500の軍勢となるが、

方針を巡り意見の対立が起きてしまうのである。

ぶらんこのきしみ気管に押しあてる  榊 陽子

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    西郷頼母句

新撰組隊長の斎藤一らは、

城から兵を出して「戦術的要衝を押さえる策」

を献策したが、総督の頼母はこれを却下。

「城で待ち構える方針」を決めたのだ。

鳥羽・伏見以来の連戦を経験し、

西軍の火力を知り尽くしていた斎藤らに対し、

頼母は実戦経験がなかった。

このことが重大な結果を招く。

一瞬をよぎる碧を盗まれる  山口ろっぱ

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    白河小峰城

5月1日、薩摩の伊地知正治が率いる西軍700が

白河城への攻撃を開始する。

会津藩及び奥羽諸藩(東軍)が兵力を城内に

止めていたため易々と進撃した西軍は、

軍を3つに分け、本隊で中央突破するように見せかけつつ、

残りの2軍で城近傍の2つの山を奪取し、

東軍を包囲殲滅することを狙った。

これに対し、

頼母は戦力を逐次投入し、被害を拡大させてしまう。

その間に西軍は、地元民に兵を誘導させて迂回路を進み、

要衝を悉く手中に収めた。

そこからの西軍の猛烈な攻撃により、東軍は総崩れとなる。

消しゴムのカスから零れ出る吐息  下谷憲子

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     西郷頼母筆

頼母は兵を叱咤激励するも、潰乱を止めることができない。

わが身だけでも敵陣に突入しようとするが、

部下から「総督はいまここで死ぬべきではない」と、

諫められ、後退せざるをえなかった。

結局、会津藩の副総督・横山主税、

仙台藩の主将・坂本大炊軍監・姉歯武之進

指揮官クラスが多く戦死し、

700もの兵を失うという大敗北を喫してしまうのである。

 姉歯武之進=世良を襲撃した人物

廃液の波に呑まれた尾骶骨  皆本雅

白河口の戦況は、その後もはかばかしいものではなかった。

5月1日の敗北から2ヵ月、

東軍は白河城への攻撃を繰り返すが、

奥羽諸藩の連携不備もあり、遂に奪還できずに終わる。

この間、日光口方面から転戦してきた板垣退助が、

白河城に着陣するなど、西軍の兵力は増強された。

また、5月15日には上野寛永寺に籠った彰義隊も敗北し、

新政府は援軍を海路で平潟港に送り込む。

6月16日に上陸した西軍は、

磐城平藩や相馬藩などを下し、仙台藩に迫った。

7月26日、この情勢を見た三春藩が西軍に寝返ってしまう。

胃袋を掴まれたならもう終り  蟹口和枝

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                少 年 隊

これにより、西軍は一気に攻勢を強め、

7月29日には二本松藩に迫った。

しかし二本松藩は、

主力軍を白河方面などに出兵しており、

老兵少年兵で西軍に立ち向かうしかなかった。

条件をみんな呑んでも風ぐるま  山本早苗


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    木村銃太郎

二本松藩(丹羽家)尚武の気風を誇る藩であり、

砲術師範の木村銃太郎が率いる少年砲兵隊20数名、

また二本松少年隊数十名もこの戦いに勇躍臨む。

彼らは新式銃を持ち、錬度も士気も高く、

敵に衝撃を与える。

だが、衆寡敵せず、やがて木村銃太郎は被弾。

少年たちは泣く泣く師を介錯した。

そして少年たちも、一人また一人と斃れていく。

(続きがあります。よろしければ「続きを読む」をクリックして下さい)

運命と割り切ったのに出る余り  松本柾子

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極月の首靴べらで刎ねて行く  井上一筒

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    奥羽列藩同盟

(画像は大きくしてご覧下さい)

「世良修蔵」ー(東北勢力の結束)

3月18日奥羽鎮撫総督府の兵数百が海路、仙台藩に到着。

総督の九条道孝は、早速、

「鳥羽・伏見戦争の首謀者は、容保は死罪、
     
    さかいただずみ
  庄内藩主・酒井忠篤は薩摩藩・江戸三田藩邸焼き打ちの

  罪により、城外で謹慎し処分を待て」


との命令を東北諸藩に伝え、

「直ちに会津を追撃せよ!」

と仙台藩に迫った。

人偏の横で胡坐をかいている  前中知栄

この派遣軍に長州の世良修蔵と薩摩の大山格之助という

傲岸不遜で常識のない、二人の者がおり、

下参謀の役職にありながら、まるでチンピラなのだ。

しかし、たとえチンピラであっても、天皇の派遣軍である。

仙台藩藩主・伊達慶邦はじっとこらえた。

礼を尽くして迎えねばならない。

藩主の丁重な応対にもかかわらず、

二人は横柄な態度で、上座から会津追討を急かす。

地元ではやや外股になるムカデ  きゅういち

「さっさと会津攻撃に兵隊を出せって言っちょるのに、

  もたもたしやがって!」


東北人をバカにする世良と大山の態度に、

藩士も領民も怒りを募らせる。

もともと仙台藩や東北の諸藩に、

会津藩や庄内藩を討つ理由がない。

それなのに大山と世良は戦争を強要する。

それでも東北の諸藩は、すべてが会津や庄内贔屓ではないが、

何とか会津や庄内藩の赦免歎願を、

「鎮撫総督」へ取り次ごうと奔走した。

そしてついに嘆願書提出にまでこぎつけることが出来た。

石ころは転がる前に考える  嶋澤喜八郎

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ところが総督府は、奥羽十四藩による嘆願をあっさり却下した。

とにかく大山世良の言葉が、総督府の言葉である。

最初から、会津や庄内藩をやっつける為に来ているのだ。

東北人には、彼らの異様な執念と、

戦争趣味を理解できなかった。

選択肢に雪隠詰めが残される  兵頭全郎

世良は世良で、東北人も怒りが昂じれば、

行動に出るということを理解していない。

「あいつらに何が出来る」 とバカにしている。

世良は大山に手紙を書いた。

「会津の入れ知恵だか知らんが嘆願書をよこしおった。

  仙台も米沢も兵隊は弱虫のクセに、朝廷を軽んじてる。

  東北の人間はみんな敵と見て、新たに反撃作戦を考えたい。

  まぁ仙台も賊徒は数人で、主人は好人物らしいがの。


  じゃよろしく」 と。
 
点滅のあしたをもっとなまぐさく  たむらあきこ

この手紙が仙台藩士・瀬上主膳姉歯武之進らに手に渡る。

「東北人はみな敵だとよ・・・」

彼らは激昂し、世良の居る金沢屋へ向かった。

金沢屋で世良は女と寝ていることも分かっている。

女郎の膝枕でごろ寝しながら、戦争指導とは、

東北人を心底ナメてかかっていた。

そこで世良は召し取られ、

福島の阿武隈川の河原で仙台藩士に斬首された。

世良を討った仙台藩は、皮肉にも会津に代わって、

薩長軍に宣戦布告したようなものだった。


ざけんなよ右から二つめのコブ  酒井かがり

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    世良修蔵の墓

(画面を拡大すれば文字が読めます)


これを機に東北諸藩は一気に結束を固め、

反新政府勢力の旗幟を鮮明にする。

5月3日、仙台藩を盟主とする奥羽列藩同盟が成立、

すでに4月10日に会津・庄内藩は会庄同盟を結んでおり、

会盟したのは25藩。

5月6日には河井敬之助率いる長岡藩など6藩も合流し、

31藩が大同団結する「奥羽越列藩同盟」の成立を見るに到った。

東北諸藩のほとんどを組み込んだ大同盟の結成に、

薩長新政府は驚愕した。

輪廻だとぷっと吹き出すように言う  筒井祥文

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点滅の止まらぬ古い非常灯  安土理恵

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 京都二本松薩摩藩邸跡

「覚馬の捕縛」

慶応4年(1868)1月3日、

鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、薩軍が待ち受けて、

一斉射撃を加えた。

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、反撃を試みるも敵に圧倒され、

壊乱する。 

また伏見街道でも、

会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。

会津藩大砲奉行の林権助らが必死の砲撃で反撃し、

佐川官兵衛土方歳三ら新選組と共に斬り込みをかけるが、

劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。

目から目へ赤信号が送られる  杉野恭子

旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。

しかし淀藩は、譜代藩で藩主が現職老中であったのに、

新政府側に寝返り、入城を拒否。

さらに山崎に布陣していた藤堂藩の兵が、

淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。

ここに至り旧幕府軍は、敗走せざるを得なくなった。

プロローグ あっという間のエピローグ  山口美千代

この戦いで会津藩の砲兵隊は、

死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。

大砲奉行の林は全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、

江戸に退却する途中の船上で落命。

また覚馬の弟・山本三郎もこの時の戦傷により、

江戸に帰還後、死去した。

葬送の列は兵馬俑まで続く  古田祐子

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この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。

会津藩士たちが大坂へ去った後も、

京都に留まって洋学所の塾生たちに教授を続け、

戦争勃発後の4年1月9日、

覚馬は京都蹴上で薩摩軍に捕えられ、獄舎の人となった。

撫で肩で未来がすべり落ちていく  河村啓子

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赤松小三郎

当時、赤松は薩摩藩に招聘されていた折、「幕薩一和の端を開く」ため、

西郷隆盛や会津藩の公用方と談じ合っている。

その会津藩の中に覚馬もいた。

赤松は国の未来を憂いながら、志半ばで斃れてしまうが、

彼の残した建白書は、覚馬に多くの影響を与えたといわれる。


覚馬が収監されていた獄舎に会津野沢村出身の

斎藤瑛斎という16歳の少年がいた。

瑛斎は慶応3年2月、洋学修業で長崎へ向かう途中、

覚馬から会津藩洋学所での修業を勧められた。

鳥羽伏見戦争の最中、書籍取り纏めを命ぜられて、

洋学所にいるところを捕えられて、拘留されたのだ。

意外な場所でゆかりの少年に再会した覚馬は、

天佑と思ったかもしれない。

世の中はそうでないとも そうだとも  藤本秋声

覚馬はすでに病で光を失っていたため、

信頼できる瑛斎に重要な口述筆記を依頼した。

まず覚馬は3月に、「時勢之儀二付拙見申上候書付」と、

題する上書を編んだ。

謙譲の姿勢で、新政府への陳謝の意を綴ったものだ。

前年6月に「万事一洗」、すなわちこれまでの軋轢を水に流し、

諸藩一致で国難に臨むべきと赤松小三郎を通じて

西郷らに提示し、理解を得ていたと記している。

さらに覚馬は6月までに、

新政府に向けた一編の建白書を策定した。 

『管見』である。

キリストと同じところに泣きぼくろ  井上一筒

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