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川柳的逍遥 人の世の一家言
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かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび  山口ろっぱ

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     松平容保と家族

最後列で本を開いているのが容保。

その左で本を開く女性が、一説には
照姫だともいわれている。

(画像を大きくしてご覧下さい)

一枚のセピアに静止した家族  山本早苗

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「照姫」ー(和歌とともに)

"夢うつつ思ひも分かす惜しむそよ まことある名は世に残るとも"

戊辰戦争の後始末として、薩長中心の新政府は、

会津藩に対し、「首謀者三家老の首」を求めた。

すでに、家老の田中土佐、神保内蔵助は、

城下で既に自刃していたので、席次から、

萱野権兵衛「斬に処す」との命令が下った。

その執行にあたったのが、
                                            まさあり
皮肉なことに照姫の弟・飯野藩主・保科正益であった。

それを聞き知った照姫は、

一身に会津藩の責を負う萱野に、歌を手向けた。

出口まだ探せぬかなしみの座標  たむらあきこ

照姫は、天保13年(1842)10歳の時、
                         かたたか
第八代会津藩主・松平容敬の養女に迎えられる。

その翌年、容敬の側室に敏姫が誕生。

≪弘化3年(1846)に容保も、養子として迎えられる。

    このとき、照姫14歳、容保11歳≫

                                    まさもと
18歳の時、豊前中津藩主・奥平昌服に輿入れ、

23歳で離縁するが、その理由は不明。

子がなかったからとも言われるが、

照姫が会津と容保の将来を心配しての結果とも、

推測されている。

照姫が安政元年(1854)に会津藩江戸屋敷に戻ってから、

7年後の文久元年、容保の正室となっていた敏姫が、

19歳の若さで他界する。

ほのかな色は無くした物の愛おしさ  森 廣子


"千とせとも祈れる人のはかなくも さらぬ別れになるぞ哀しき"

                           「娘をなくした照姫の哀悼の歌」

(明くれなつかしく、むつまじく、うちかたらひたる君の、


  はかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに)

照姫は十代にして早くも、書道、茶道、礼法、香道に通じ、

ことに、和歌や琴を好んだといわれ、

容保にも和歌を手ほどきするなど、

義理の弟を献身的に世話した。

たて書きの便箋を今日買いました  河村啓子

 "きてかへる頃さへゆかし都ぢの 錦を君が袖にかさねて"

(殿が京都でのお役目を無事に果たし錦を着てお帰りになるのが楽しみです)

文久2年(1862)容保が幕府より京都守護職を任命され、

京都に入るとき、詠んだ。

いつだってあなとを追っている視線  勝又恭子

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 陣羽織姿の容保

"御心のくもらぬいろも明らかに うつすかがみのかげぞただしき"

文久3年(1863)容保は天皇より下賜された緋の衣を、

陣羽織に仕立て、孝明天皇による天覧の馬揃えを行った。

このときに撮った写真は、照姫に送られた。

勇ましい姿に照姫は大喜びし、愛情溢れる歌を詠んだ。

≪照姫は、夫となるはずであった容保を生涯慕ったともいう≫

ときめくと睫毛がカールするのです  赤松ますみ

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「容保会津へ帰る」

慶応3年10月14日の大政奉還により、

江戸幕府は地上から消滅。

同月9日、朝廷は王政復古の大号令を発せられ、

新政府が樹立された。

その夜の小御所会議において、

慶喜に対する辞官納地が決定し、

慶喜は、京都の二条城から大坂城へ移る。

このとき、容保も慶喜と行動を共にしている。

≪その後、旧幕府方の武士たちが、薩摩藩邸を焼打ちにしたことから、

   慶応4年1月3日、鳥羽・伏見で幕府軍と新政府郡との間で、

   戦端が開かれ、「戊辰戦争」が勃発する≫


戻らない汽車と無条件のほのか  板野美子

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鳥羽・伏見の戦で形勢不利と見た慶喜は、

側近とともに軍艦・開陽丸で江戸へ逃亡。

自らを朝敵とする追討令が下ると、恭順の姿勢を示し、

事態収拾を勝海舟に一任、上野寛永寺大慈院に籠る。

は江戸城総攻撃直前に西郷と会談し、

4月11日に江戸城無血開城

江戸の街は新政府軍の支配化に入った。

どうしても流れの先を見てしまう  立蔵信子

慶喜の逃亡劇に容保も従った。

容保の行動は、君主としてあるまじきことであったが、

喜んで従ったわけではなかった。

容保は、突然、慶喜から江戸への随行を求められた時、

容保は、「徹底抗戦」を慶喜に訴えた。

が慶喜はそれを聞きいれず、脅迫的に容保に随行を迫った。

その強引な慶喜に押し切られるかたちで、

容保は気持ちと裏腹に

家臣を見捨てる結果となったのである。

反骨の奥歯ギリギリ鳴らしてる  高橋謡謡

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     討伐命令書

江戸に戻った慶喜は、

最初のうちは抗戦を叫んで威勢がよかったが、

恭順の意を示したあと、

新政府に憎まれている容保を、遠ざけはじめる。

二月に入ると容保も、養子の喜徳に藩主の座を譲って、

新政府に対し、恭順の意を表した。

やがて、新政府軍に敗れた会津兵たちが続々と、

江戸に戻ってきた。

当然、彼等は自分を見捨てた藩主容保に詰め寄った。

これに容保は深々と謝罪し、会津へ戻ることにした。

次の世はゴキブリでいく一壺天  加納美津子

"おもひきやわが身の上としら河の 関路をやがて越えぬべしとは"

容保と江戸の藩士らは、会津への帰国の途につく。

照姫は容保より一足早く鶴ケ城を目指し、

慶応2年(1869)、の春に会津・鶴ケ城に入る。

江戸育ちの照姫にとって、会津は未知の土地であった。

女が好きなコラムの中の青い風  森中惠美子

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"荒はてし野寺の鐘もつくづくと 身にしみまさる夜嵐の声"

8月23日から一か月におよぶ籠城戦においては、

照姫は、会津藩の婦女500人余を指揮して、

負傷者の看護、炊事、洗濯、消火活動、弾丸の始末、

製造にもあたり、獅子奮迅の働きをした。

鶴ケ城開城式の後、

容保は滝沢村の妙国寺に謹慎することとなり、

照姫もそれに従っっている。

悟りとも言えず諦めとも言えず  津田照子

"岩くだく滝のひびきに哀れその むかしの事もおもひ出つつ"

開城後は、和歌山藩江戸屋敷を経て、

実弟・正益が当主の飯野藩に戻る。

後半生は歌人として生き、

明治13年(1880)以降、会津を再訪し、

上記の歌を詠んだ。

大正6年(1917)会津若松市内に改葬され、

照姫は今、容保と静かに眠っている。

≪因みに容保は、明治26年(1893)58歳で死去している≫

さわやかな和音へ前頭葉が澄む  山本昌乃

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条約を遵守した餅の和え方  井上一筒

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 海路江戸へ向かう慶喜

鳥羽伏見の戦いの際、総大将である慶喜が大阪城を退去し、

江戸へ戻ったことは、幕府軍の士気を落とし、敗戦の要因とされた。


(画面をクリックしてご覧下さい)

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「鳥羽伏見の戦い」

慶応3年(1866)10月、将軍慶喜は大政奉還を行ない、

幕府の政権を朝廷に返上して、倒幕派の鋭鋒をかわしつつ、

政治の主導権を握ろうと目論む。

これによって薩摩・長州に、

岩倉具視から下達された「倒幕の密勅」は空振りとなった。

しかし薩摩藩らは、

同年12月に「8月の政変」と同様の政変を起こし、

「王政復古」の大号令を発した。

冷凍のインゲンマメというメンツ  井上しのぶ

同日、慶喜の将軍辞職、摂政・関白、京都守護職、

江戸幕府の廃止が決まる。

慶喜は衝突を避けるために、大坂城に移る。

この時、会津藩兵や桑名藩兵もともに大坂に退いた。

その後も慶喜は、驚異的な政治力を発揮し、

一時は、情勢を巻き返すかに見えた。

だが薩摩藩が江戸で騒乱を繰り返して挑発。

これに乗せられて、ついに戦端が開かれるのである。

振り出しに決して戻らぬ時雨の記  小林満寿夫

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薩長らの兵力五千に対し、

京都を目指す旧幕府軍は1万5千。

会津藩兵らは、伏見街道を進み、

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、鳥羽街道を進む。

だが寡兵ながら、新式火器を装備した薩長の火力は、

圧倒的であった。

慶応4年(1868)1月3日、

鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、

薩軍が待ち受けて一斉射撃を加えた。

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは反撃を試みるも、

敵に圧倒され壊乱する。

祈ろうかススキの光透けてゆく  増田えんじぇる

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 指揮をとる容保

同じ頃、伏見街道でも、

会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。

会津藩大砲奉行の林権助らが必死の砲撃で反撃し、

佐川官兵衛土方歳三率いる新選組と共に、

斬り込みをかけるが、

劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。

旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。

しかし、淀藩は譜代藩で藩主が現職老中であったが、

新政府側に寝返り、入城を拒否。

さらに山崎に布陣していた藤堂藩兵が、

淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。

結び目がささくれだった声を出す  岩根彰子

ここに至り、旧幕府軍は敗走せざるを得なくなった。

この戦いで会津藩の砲兵隊は、

死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。

大砲奉行のは全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、

江戸に退却する途中の船上で落命。

また覚馬の弟・山本三郎もこの時の戦傷により、

江戸に帰還後、死去している。

てのひらの石を出ていく一番列車  岩田多佳子

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金戒光明寺の会津藩殉難者墓地

この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。

会津藩士たちが大坂へ去った後も京都に留まって、

洋学所の塾生たちに教授を続け、

戦争勃発後に捕らえられたとも、

大坂に移り、その地で捕らえられたともいわれる。

薩摩藩邸に捕えられた覚馬は、

朋輩たちの戦死をどう噛み締めていたのだろうか。

この戦いで戦死した会津藩士115名の慰霊碑、

および、文久2年(1862)の上洛からそれまでの間に、

落命した237名の墓碑が、

金戒光明寺の会津藩殉難者墓地にある。

捨て石にきれいな色を塗りましょう  蟹口和枝

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やがて身は溶けて吸われる樹液かな  山田ゆみ葉

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   山本覚馬 建白書

「会津藩の怒り」

薩摩は会津と盟約したかと思えば、

密かに長州と結ぶなど表裏定かでなく、

謀略をも厭わなかった。

薩摩の標的でなかった南部藩家老・楢山佐渡ですら、

その横暴ぶりに義憤を覚え、

奥羽越列藩同盟に加わったほどだ。

ましてや、

当事者たる会津の心境たるや推して知るべしである。

山本覚馬とて、怒りを禁じ得なかったはずだ。

固い背がまだ許さない許せない  高橋謡子

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薩摩藩邸があった同志社大学のキャンパス

しかし覚馬は、伏見の会津軍に向かう途中、

薩摩藩に捕縛され、

京都二本松の薩摩屋敷の牢に収監される。

牢といっても稽古場をにわかに改造したもので、

畳敷きで夜具もあった。

西郷を知る覚馬は、優遇され、読書も自由だった。

≪覚馬はここで新国家構想を示した。

革新的な『管見』を口述筆記させ、勤皇の有職者たちを驚かせた。

その内容は三権分立や二院制をはじめ、

商工業振興や税制改革、能力主義の人材登用など、


日本の近代化を進めるにあたって、

具体案を23にわたる項目で論じたものだった。

「管見」のなかでも感心させられるのは、

「教育」と「物づくり」を重視している点である。

「教育」と「物づくり」を核にした国づくりという構想が、

いかに的を射たものであったかは、

その後の日本の発展が証明している≫


生駒聖天に黄色を塗りに行く  井上一筒

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囚われの身となった覚馬は、それでもなお、

怨讐を捨て争乱の拡大を抑えようとする。

旧幕府方が朝敵とされ、

大坂から江戸に向けて敗走したこと、

さらに新政府軍が江戸に進軍中であることを知ると、

自ら和平の使者となることを願い出るのだ。

「私が慶喜公と容保公を説得し、矛を収めさせましょう。

  もし新政府軍があくまで追討すれば、

  わが会津藩は、一兵残らず討死するまで戦うでしょう。


  そうなれば日本の国力が衰えるばかりで、

  外国の乗ずるところとなります」


風の樹は風になるまで勇ましい  田中博造

覚馬はもちろん、会津を愛する気持ちは強かったが、

それ以上に、日本そのものを守ろうとしていた。

視界から光が失われれば失われるほど、

覚馬の視野はむしろ広がりを見せ、

自分が会津藩士であると同時に、

日本人であることに目覚め、

「今は国内で争うべきではない」

と痛感したのである。

ルーズになってくる日本列島のかたち  森中惠美子      

しかし、覚馬の嘆願が聞き入れられることはなかった。

その直後に記した建白書『管見』も、

先進的な内容で西郷や小松を瞠目させたものの、

新政府軍の動きを阻止するにはいたらなかった。

遺言はなし伝説になりました  石橋能里子

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仏壇の鉦を合図にクーデター  井上一筒

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京都二条城一・二の間


慶応3年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は京都・二条城一の間に、

上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。

かくして徳川幕府265年の歴史は幕を閉じた。


(画面は拡大してご覧下さい)

「秒読みの戊辰戦争」

慶応3年(1867)5月頃まで長崎に滞在した覚馬が、

京都に戻ると、時局は混迷を極めていた。

わけても、薩長同盟を結んだ薩摩藩と会津藩の対立が,

激化していた。

覚馬が目指すべき道は、佐久間象山、勝海舟と同じく、

国内が一致して西洋列強にあたることにある。

両藩の対立は望むところではなかった。

そこで6月、覚馬は宥和を図るべく、

薩摩の西郷隆盛小松帯刀と会談するが、

会津藩内の強硬派は鎮まることがなかった。

一方、西南雄藩は倒幕の動きを加速させていく。

その機先を制すべく10月14日、

徳川慶喜大政を奉還する。

足し算の途中で夕陽が沈んだ  森田律子

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    二条城俯瞰

「大政奉還‐慶喜の真意」


『天下の政権を朝廷に奉還せしめ、

  政令宜しく朝廷より出ずべき事』

『上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、

  万機宜しく公議にに決すべき事』  


これは坂本龍馬が長崎から京都へ向かう船中で、

後藤象二郎に構想した「船中八策」である。

この船中八策は、土佐藩主・山内容堂から建白の形で、

慶喜に示された。

御破算で願いましては日記帳  黒田忠昭

慶喜の方でも、朝廷の方から「委任をやめる」と言い出す前に、

何らかの手を打たねばならないと考えていたので、

この大政奉還を一つの手として、

受け入れることにしたのである。

それはまた、薩長と土佐藩とを分断することにもなるし、

薩長の倒幕の口実を封ずることにもなると、

考えたからであった。

賞罰の欄に羊を押し込める  岩根彰子

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  徳川慶喜

「大政奉還後、慶喜はどのような位置を占めようと考えていたのか?」
                        せきむかい ひっき
慶喜生前の談話集・「昔夢会筆記」(慶喜談話集)によると、
                         かつきよ
慶喜側近の老中・板倉勝静らは、

慶喜を朝廷の摂政という形にして、

そのまま実権をとり続けさせたいと思っていたようである。

また幕臣の西周「議題草案」によると、

将軍は「大君」と名前を変え、諸侯議会の議長となり、

国家の行政権と立法権、

さらに軍隊の統帥権まで握るとしている。

通り名がもひとつあって太い骨  くんじろう

ところが薩長は権謀術数を用い、

12月9日に王政復古を宣言。

慶喜の将軍職辞職と容保の京都守護職解任が決まる。

新政権から排除された上、

辞官納地まで求められた慶喜は、事態の急展開に驚くが、

ひとまず会津藩などの旧幕府方を引き連れて、

京都をあとにして大坂城に入った。

(この時点ではまだ、討幕派の政治体制が確率していたわけでなく、

  慶喜自身も巻き返しは可能とみていたものと思われる)


サンダルを洗う潮騒きいている  三村一子 

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     馬上の慶喜                                   

ところが覚馬は、

同僚から身の危険を諭されながらも京都に止まる。

万一、薩長と旧幕府方が武力衝突するような時には、

身を挺してでも、双方の宥和を図るつもりだった。

だが薩摩は、江戸市中で狼藉を働くなど、

旧幕府方への挑発を繰り返していく。

旧幕府方、とりわけ会津藩の薩摩に対する憤りはすさまじく、

ついに慶応4年(1868)1月3日、

「鳥羽・伏見を戦場とする戦い」へと突入する。

この鳥羽伏見の戦いの開始が、

「戊辰戦争」の始まりであった。

戊辰とは、慶応4年の干支である。

かげろうだろうこころとか想いとか  新家完司

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捨てた紙屑青い炎があがり出す  森 廣子

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  孝明天皇

「孝明天皇の死の裏」


孝明天皇が即位したのは、

12代将軍・家慶の在位中のことである。

即位時、天皇はまだ16歳、政治経験が乏しいままに、

安政の大獄桜田門外の変などが起きた動乱の時期を、

駆け抜けることとなる。

また公武合体運動の推進などを行ない、

天皇としての尽力に努めた。

スムーズに回る水車を見届ける  山田幸子

天皇の多忙さに周囲は天皇の心労や体調を心配するが、

天皇はいたって健康だったという。

そんな孝明天皇が急な発熱で倒れたのは、

慶応3年(1867)1月16日のこと、

原因は天然痘と発表される。

すぐに24時間体制での治療措置がとられ、

その甲斐あって、天皇の症状は順調に回復しはじめたが・・・

病状は急変。

そのまま帰らぬ人となってしまった。

ああ四月 消しゴムのさら買いにゆく  河村啓子

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    岩倉具視

あまりにも急な出来事だっただけに、

孝明天皇は、何者かに暗殺されたのではないかと囁かれた。

「いったい、誰が何のために天皇を殺したのか」

「天皇が死んで一番得する人物は一体誰なのか」


そこでひとりの男の名が浮かび上がる。

岩倉具視だ。

黒を着る 秘密を持っている限り  福尾圭司

岩倉具視はかって公武合体論者だったが、

彼は世間が倒幕ムードになると、

あっさりと尊王攘夷に転向。 これが結果的に、

孝明天皇との関係に決裂を招くこととなる。

孝明天皇が在位されている限り出世することは難しい。

そう考えた岩倉が天皇暗殺を企てた、というのである。

孝明天皇から、14歳の睦仁親王(明治天皇)へ変わると、

岩倉は一躍出世している。

斜め三十度口笛吹く男  嶋澤喜八郎

そんな天皇暗殺が囁かれる岩倉だが、

彼にはもう一つ、疑いがかかっているものがある。

「天皇すり替え説」だ。

これは睦仁親王が明治天皇となる前、

別の者に差し替えられたというもの。

それを示すように即位前とあとで、

天皇はまるで違う人なのである。

≪たとえば、睦仁親王は天然痘を患っており顔面には、

   天然痘特有の後遺症があったが、明治天皇の顔には見られない。

   また虚弱体質だったという幼少時代に対し、


   即位後はといえば側近の者を相撲で投げ飛ばすことも。

   さらに、「字が下手」「政務に無関心」「乗馬の記録がない」

   という睦仁親王に対し、

   明治天皇は真逆の要素を持っているのである≫


カラカラと素焼きの壺の中のボク  加納美津子

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  明治天皇

「では誰にすり替えられたのか」
                                   おおむろとらのすけ
その相手は、南朝の末裔である大室寅之祐

つまり「北朝」系の子孫である睦仁親王に代わり、

「南朝」の大室が即位したのだ。

これにより、北朝系に仕えていた徳川家や松平家は、

天皇にとって「逆賊」になってしまった。

これが新政府にとって、

江戸幕府勢力を一掃する口実となり、

戊辰戦争が起きたのである。(・・・の考え方に繋がる)

卵は半熟ぬるま湯の企み  山口ろっぱ

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