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川柳的逍遥 人の世の一家言
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神さまは前触れもなく「来い!」と言う  新家完司

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「源平合戦図屏風」ー〔屋島合戦図〕

(画像をクリックすれば拡大されます。大きくご覧下さい)

「清盛の遺言」


清盛は、仁安2年(1167)、太政大臣となり、

武士としてはじめての平氏政権を樹立し、一時は、

「平氏にあらずんば人にあらず」

といわれるほどの全盛を誇った。

煙突を抜けると美しい敬語  山本早苗

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しかし、清盛後白河法皇の近臣たちとの間に摩擦が生じ、

「打倒平氏」の声があがり、

ついに以仁王の令旨が出される。

以仁王の挙兵はすぐ鎮圧されたが、

源頼朝・木曾義仲らの挙兵によって、

国内は「治承・寿永の内乱」といわれる争乱状態となる。

触角の端にこの世のならずもの  清水すみれ

そうした中、養和元年(1181)閏2月4日、

清盛は熱病で64歳の生涯を閉じる。

死に臨み、死後、堂塔を建てて供養するより、

「頼朝の首をはね、我が墓の前に懸けよ」

と遺言したことが『平家物語』巻第6にみえる。

蔓伸びる先はかなしい空である  中野六助

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「壮絶な清盛の最期の言葉」

死を目前にした閏2月4日朝、

清盛は、円実法眼を使者として、後白河に

「自分が死んだ後は万事を宗盛と相談して遂行してほしい」

と言った。

指きりの語尾の辺りの生返事  美馬りゅうこ 

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それに対する後白河院の返事は曖昧であった。

清盛は怒りをあらわにして、藤原行隆に、

「天下のことは宗盛が専断するのだ。

 異論があってはならない」


と言った。

それは、東国追討のことだけでなく、

中央のことについても、同様との考えであった。

首までにしとく情けに沈むのは  清水すみれ

『吾妻鏡』閏2月4日条は、清盛の遺言として、

「三ヶ日以後、葬儀あるべきである。

  遺骨は播磨国山田法花堂に納めて、

  七日ごとに形の如く仏事を修せ。


  毎日は修するな。

  また京都で追善をなすな。

  子孫はひたすら東国帰往の計らいを営め」


と言ったとする。

散骨にしてくれ閉所恐怖症  播本充子

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しかし、実の息子が伝えたところによれば、

清盛の遺言はもっとすさまじかった。

のち治承5年8月1日以前、

後白河宗盛に、頼朝から、

「源平相並んで仕えるべきだ」 という、

和平の申し出があったことを内々に伝えた。

コップをかじるほど水を欲している  福尾圭司

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すると宗盛は、清盛が死ぬ直前に、

「我が子孫は、一人生残る者であっても、

  骸を頼朝の前に曝せ」


と遺言したので、

「和議には応じられない」 と返答している。

確かに父の喪中にも関わらず、

平重衡は閏2月15日に東国の追悼に発向したが、

『明月記』によれば、

それは清盛の遺言によるものであった。

逢いにゆく光を少し研いでから  たむらあきこ

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わたくしのあばらへ蔓草がのびてくる  大西泰世

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      清盛像

「興福寺の焼き打ち」によって、

南都方面の反平家勢力が壊滅したことは確かだった。

南都の悪僧に呼応した河内源氏の石川義基も討ち取られ、

畿内周辺の戦況はいったん落ち着いた。

すべて拭った少し新しい朝になる  山口ろっぱ

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「最後のサイコロ」

治承5年(1181)1月14日、高倉上皇が崩御し、

東山の清閑寺に葬られた。

享年21歳。

天皇になりながら、何ごとも思うにまかせず、

父・後白河と義父・清盛の政争に、

翻弄され続けた生涯だった。

ある人の提案により、

清盛夫妻が中宮・徳子を後白河の後宮に

入れようとしたのはこのときである。

「いっそ出家したい」

という徳子の必死の訴えによって、

代わりに厳島内侍との間にできた娘が送られたが、

法皇はそれほど喜ばなかったという。

月並みの銀の涙の乱反射  岩根彰子

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色好みの法皇といえども、

みえみえの懐柔策にのるほど愚かではない。

平家の権力維持のために、

治天の君の掌握は必要であったが、

清盛はそのような旧態依然とした宮廷対策だけに

奔走していたわけではない。

以上の政策と並行して、武家政権にふさわしい、

大規模な「軍制改革」を進めていた。

あいまいを許さぬ針が錆びている  たむらあきこ

上皇の死の2日後、

惣官職というポストを新設して宗盛を任命した。

畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)と近江・伊賀・伊勢・

丹波の9ヵ国に対して、

武士の動員と兵糧米の徴収を行う

高度の軍事指揮権が与えられたといわれている。

まんべんにレーズンパンな秋にする  山本早苗

2月7日には、

有力家人・平盛俊を丹波国諸荘園総下司に任じた。

≪京に隣接する丹波を対象に兵糧米の徴収を行うものである≫

畿内を中心とする広域の軍事指揮権を、

平家が直接掌握することで、

全国規模の内乱に対処する体制を構築するのが、

狙いであった。

平家政権はより高度な軍事機能を備えた

武家政権へ脱皮を図りつつあったのである。

秋蝶の膝関節もリハビリ中  河村啓子

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京の防衛体制も急速に整えられていった。

1月下旬頃から、

九条の末に六波羅、西八条に続く、

新たな拠点づくりを開始したのだ。

この付近には九条兼実皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)など、

上級貴族の邸宅もあったが、

所領の一部を強制的に没収して、

武者たちの宿舎にあてた。

お醤油をちょっと切らして借りに行く  津田照子

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2月17日には、安徳天皇を八条の頼盛邸に移した。

公卿たちは反対したが、

清盛が防衛上の必要性を主張して、強行したのである。

2月2日には、六波羅にいた後白河上皇も、

八条に近い最勝光院に移されている。

かみそりが鏡台にあるおそろしさ  森中惠美子

この時期、

清盛が九条周辺に拠点を構えようとしたのは、

南都や宇治に通じる交通の要衝をおさえる

戦略的な意味があった。

後年、木曾義仲の上洛に対して、

平家が京都を放棄したことからも分るとおり、

「京都は攻めるに易く、守るに難い」

平家の軍事施設と

天皇の御所が一体化した拠点を建設し、

新王朝の新都にすることが清盛の狙いだった。

打ちのめされてからが始まりである  森田律子

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しかし、真のねらいが明らかにされることはなかった。

安徳の八条行幸から一か月も経たないうちに、

突如清盛が熱病で、

帰らぬ人になってしまったからである。

宗盛は九条末の軍事拠点を放棄し、

ふたたび、六波羅を平家の拠点にした。

私は絶滅危惧種です多分  高橋謡々

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夢抱いておたまじゃくしは池を出る  大西將文

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  祇園遺跡新聞ニュース           発掘現場


(文字を拡大〔クリック〕してお読み下さい)


「福原京様子」

清盛が福原への遷都を決意したのは、

「古い政治に決別するためには遷都という荒療治が必要だ」

と考えたからだ。

「平安京」は貴族たちにとって伝統と栄華の都だが、

自由な政治活動を束縛する窮屈な都以外の、

何ものでもなかった。

色褪せた鱗一枚ずつ剥がす  嶋澤喜八郎

一方、福原は軍事拠点としてもすぐれており、

日宋貿易も軌道に乗り始めていた。

福原遷都によって、平家の武力と財力が朝廷を守る、

新しい国家をつくりあげ、

平家の血統を継いだ新たな王朝の幕開けを内外に

知らしめようとしたのである。

そろそろと殻を捨てたい蝸牛  松本あや子

しかし、十分な準備のないまま行幸を強行したために、

平家一門や貴族たちの反発にあい、

新都の建設は進まなかった。

やがて、頼朝をはじめとする諸国の反乱が勃発、

遷都はわずか半年で頓挫した。

新しく花開こうとする痛み  森廣子

清盛が私財を投じて、安徳天皇の内裏を建設し、

貴族たちの邸宅も順次建てられたものの、

行政府である八省や役所はつくられず、

首都機能が本格的に移転することはなかった。

「福原京は存在しない」とする説があるのはそのためである≫

以後、清盛は反乱勢力の追討に全力を注ぎ、

二度と福原に足を踏み入れることはなかった。

描き足した色に時々だまされる  中博司

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往時の福原の様子(平家物語・〔福原落ち〕)から、

平家一門の豪華な邸宅が競い合うように甍をならべていた

情景が思い浮かぶ。

『春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、

泉殿、松陰殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、

萱の御所、人々の館共、五条大納言邦綱卿の承って、

造進せられし里内裏、鴛(おし)の瓦、玉の石畳」


新しくなった使いにくくなった  森田律子

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    雪見御所跡

中心的な建物は、

何といっても福原の主である清盛の邸宅・平野殿だ。

平野の勝地、すなわち眺めのよい場所にあり、

建物正面に六本の柱がある寝殿で、

西に対屋がなく、

南に廊が伸びる変則的なつくりだったという。

厳島御幸の途中に立ち寄った源通親が、

「木立庭のありさまは、絵に描きとめたいほど」

であったと記している。

思案してまた思案して壁の色  俣野登志子

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雪見御所遺跡出土と伝えられる播磨系軒瓦

清盛邸から100㍍ほどの場所には「湯屋」もあった。

沸かした湯を浴びて身体を洗うタイプの浴室で、

清盛も日常的に用いていたのだろう。

流れゆく流れるものを追いながら  居谷真理子

もう一つの中心が、頼盛の邸宅である。

平野の南の大倉山の西麓にあったといわれており、

邸の様子は分らないが、

流鏑馬が行えるほどの広い馬場を備えていた。

遷都当初、安徳天皇の内裏になったほどだから、

清盛邸に劣らぬ広壮華麗な邸宅だったと思われる。

そのほか、規模は不明だが、

法皇の御所にあてられた教盛邸をはじめ、

宗盛重衡ら清盛の息子たち、

有力家人の平盛俊の邸などが、

遷都前から建てられていたと考えられている。

≪その後、遷都のプランが具体化するにつれて、

   平時忠や藤原邦綱、藤原忠親など公卿の邸宅が、

   次々と建築され都としての体裁を整えていった≫


遠くから見ると幸せそうな家  糟谷尚遊

寿永2年(1183)7月、平家の都落ちの折、

一門の人々によって、邸宅に火がかけられ、

清盛の夢の都は灰燼に帰した。

終の住処だから菱型の畳  井上一筒


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この福原京の痕跡を留めるものはほとんどないが、

近年発掘調査が進み平家時代の遺跡が確認されるようになってきた。


有馬街道を北上した上祇園町一帯は、

かっての福原の中心地であるが、

この祇園遺跡からは、

庭園や水路、石垣、土坑などが発掘された

庭園遺構からは、

山城でつくられた瓦などが発見されており、

京都から移築した邸宅が建っていたと考えられている。

清盛邸の南にあったと伝えられる雪御所は、

現在の雪御所町あたりにあったといわれており、

湊山小学校の校庭からは、

明治期に礎石や土器などが多数発見された。

過去の一つは桐箱にしまい込む  たむらあきこ

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空クジと阿保な夢が風に飛ぶ  森中惠美子

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 「東大寺大仏殿焼失」

左方には掲げられた赤幟のもと奈良に入る平重衡(しげひら)の軍勢、

右方に炎上する大仏殿が見える。

奈良に入った重衡は12月28日、夜陰に紛れ、攻撃を開始した。


(のちに一の谷合戦で重衡は、南都衆徒の強い要望で処刑され、

  その首は奈良坂にさらされた)


(画面は拡大〔クリック〕してご覧ください)

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「福原還都」


富士川合戦の敗北を目にして、

清盛も平安京への還都を決断する。

11月12日、高倉院のもとに有識の貴族が集まって、

帰都について検討し、清盛との意見調整の末、

夜に還都の方針が決まった。

11月26日、入京した安徳天皇藤原邦綱の五条東洞院亭に、

高倉院は平頼盛の六波羅池殿に、

後白河院は、故・平重盛の六波羅泉殿に入った。

11月29日に清盛も福原から上洛した。

それ以上走ると元の位置になる  杉野恭子

清盛が還都に同意したのは、

東国追討使が帰洛した直後の、

11月10日頃のことであり、当時は改めて、

東国に追討軍を派遣するという計画も出ていた。

院や貴族、一門内のも還都主張者がおり、

追討軍の編制・動員に天皇の権威高揚が必須という状況で、

清盛は追討軍の編制を万全なものとすべく、

福原から京への還都を決断したのである。

≪その頃美濃・近江を中心に畿内近国の諸勢力が反乱を起していた≫

 壊れても繕う蜘蛛の巣のように  新家完司

清盛は、兵糧米や兵士役を貴族や寺社に賦課し、

東国の反乱を鎮圧する体制に、無理やり組み込んでいった。

その一方で、後白河院藤原基房を復帰させている。

清盛が、福原から京への還都に続き、

治承3年11月、政変時の自身の非を認めるかのような、

処置を認めたのも、

反乱鎮圧の遂行のためであった。

上手から下手へ消えただけの人  井上一筒

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もし高倉院が没すれば、

後白河院政という形式をとるほかない。

清盛は彼等を復帰させた上で、

後白河院の院政再開後も、

自身が政治の実際を主導する体制を、

維持しようとしたのである。

お醤油をたらしてちょうどいい厚み  井上しのぶ

まず、近江の悪僧・武士に対しては、

知盛以下の大軍を派遣した。

そして、大和の悪僧に対しては重衡を派遣し、

12月28日には衆徒を退散させ、

興福寺・東大寺を炎上させている。

≪以上のように、知盛・重衡といった一門主流の有力武将が出陣し、

   還都に伴う軍事動員が機能したことで、

   近江・大和とその周辺の反乱鎮圧に成功したのである≫


ピリオドのために踏み出す第一歩  植田斗酒

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「南都炎上」

燃え盛るなか干戈を交える南都の僧兵と平氏軍の激闘が描かれている。

(クリックすると画面は大きくなります)

「南都焼討」

治承4年(1180)12月28日、

清盛の息子・重衡に率いられた軍勢は奈良に入った。

民家を焼いた炎が風に煽られ、

東大寺・興福寺が類焼し、

大仏殿も焼け落ち、

逃げ込んだ女・子供までが巻き込まれ、

あたかも地獄の様相だったとされる。

仏像を間近に罪を数えてる  松本としこ

焼討の前提となった平氏政権と南都北嶺について述べると、

延暦寺と平氏との関係は、良好であったものの、

園城寺や興福寺との関係は悪く、

以仁王の挙兵失敗の際、

以仁王が頼みとしたのは、園城寺や興福寺であった。

こうした対立の続くなか、

平氏は反平氏の拠点、南都に攻め入ったのである。

雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり

また、「南都焼討」の直前には、

園城寺焼討が重衡によっておこなわれており、

南都焼討が、平氏と寺院勢力との衝突の

一齣であったことを物語っている。

そして、両者の対立は、

園城寺と南都が攻められ焼き払われたことにより、

平氏政権側の勝利で締めくくられ、

寺院勢力は平氏政権に屈することになる。

躓いたところへ飾る余命表  桜風子

その後、東大寺・興福寺の所領・庄園は没収され、

重衡の兄に当たる宗盛が、畿内近国の惣官となるなど、

平氏政権はいよいよ、

体制を強化する方策を打ち出してくる。

しかし、「南都焼討」は、平氏政権を仏敵と認識させ、

完全に寺院勢力が平氏の敵にまわったこと、

京の公家の心も、平氏から離れさせたことなど、

長期的に見れば、

「政権を窮地に立たせる原因」 となった事件であった。

挽歌流れてオリオン父を引いてゆく  太田のりこ

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私をはずすと風が流れだす  河村啓子

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「朝敵揃えの事」ー平家物語

福原の自邸で頼朝挙兵の報告に接し激怒する清盛。

(画像はクリックしてご覧ください)

「わずか170日間で潰えた清盛の遷都の夢」

福原の内裏の造営や宅地の造成は続けられたが、

富士川の敗戦による平家の威信の低下は深刻だった。

還都に対する要求は日増しに高まり、

11月初旬には宗盛清盛と還都をめぐって、

激論を繰りひろげた。

棟梁の宗盛までが還都を公然と口にする状況となり、

もはや清盛の孤立は明らかであった。

8日には、遠江以東の15カ国が反乱軍に味方して、

「草木に至るまでなびかないものはない」

と報じられた。

十薬を煮込んでひとりきりの夜  桑原伸吉

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数日後、ついに清盛は還都を決意する。

新造の内裏において、

11月20日に行われた「豊明節会」帰洛することが、

正式に公表された。

結局、清盛の造営した内裏は、

節会のためだけに、作られたようなものだった。

天皇や群臣の前で、

繰りひろげられる五節の舞を見つめる清盛の、

心のうちには、どのような思いが去来していたのだろう。

遷都が未完に終ったことに対する無念の思いであったか、

あるいは、還都後の敵対勢力への反撃プランを思い描き、

闘志をたぎらせていたのだろうか。

ちょっとした旅の終わりに似た別れ  松田俊彦

清盛が遷都を断念したのは、寺社勢力の反発と、

高倉天皇の健康悪化にあるといわれている。

延暦寺や園城寺など、京周辺の寺院の究極の使命は、

国家的な儀式や祈祷を行うことで、

国家や朝廷を守ることにある。

守るべき朝廷が福原へ引越ししてしまったら、

自身の存在価値はなくなる。

≪そのため、以仁王に味方した園城寺や興福寺はもちろん、

   平家と協調関係を保っていた延暦寺の衆徒までが、

   東国の反乱勢力に呼応して蜂起し、

   還都の要求を激化させていたのである≫


これ以上笑うと空へ浮き上がる  加納美津子

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それ以上に清盛の心を動かしたのは、

高倉上皇の健康不良だった。

高倉上皇の病は7月下旬には、かなり深刻になっており、

「摂政・近衛基通に政務を譲りたい」

と弱音をはくほどであったが、

形式的にせよ高倉院政を勢力の基盤とする清盛が、

それを許すはずもなかった。

人間のエゴでブルーの薔薇が咲く  清水久美子

多忙な政務、遷都による心労、

慣れない海辺の環境などの、要因が重なって、

上皇の病気は、日を追うごとに悪化していったと考えられる。

「このような辺土(福原)で死にたくない」

という高倉の再三にわたる哀訴に、

さすがの清盛も耳をかさざるを得なかったのだろう。

また、棟梁の宗盛までが面と向かって,

還都を主張したことも、無関係でなかったかもしれない。

内乱が激化するなか、平家一門の結束が崩れるのは、

何としても、避けたかったのではないだろうか。

渋いしぶいと栗きんとんを食べる  井上一筒

だが遷都を断念する以上、

政権維持のために、

反乱勢力を根絶やしにするという決意も、

清盛は固めていたと考えられる。

京に戻るや清盛はただちに反撃態勢を整え、

敵対勢力の徹底的な弾圧に乗り出すのである。

眼差しを整えてから相手見る  たむらあきこ

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