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川柳的逍遥 人の世の一家言
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扉から扉 この世という場所は  森田律子

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              西郷頼母邸跡


「あいづねの遠近人に知らせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」

                         (西郷頼母の辞世)
                   ちかのり
西郷頼母の諱は近悳(保科頼母)

頼母は会津松平藩の名門に生まれ、

文久2年(1862)に32歳で筆頭家老となった。

同年8月、

藩主容保に京都守護職の内命が下った時には、

同職田中土佐とともに江戸に駆けつけ、

国力に鑑み、強く反対したが容保は守護職を拝命した。

また文久3年(1863)4月に上洛し、

容保に守護職辞職を求めるが容れられず、

容保の怒りを買い家老職を解任され、

以後5年間、会津で幽居生活を送っている。

縦列駐車がヘタクソな蓮根  くんじろう

慶応4年(1868)に旧幕軍が「鳥羽伏見の戦」で敗走し、

容保が会津に帰国してから、頼母は家老に復職。

しかし、恭順謝罪を説き、登城差止め・蟄居処分を受けた。

新政府軍が城下に迫るのをみて、

禁を犯して登城するが、

再び恭順を説いて主戦派と対立し、

越後口方面への使者にかこつけて城を出された。

「中道を行く者の厳しさは、右から見れば左に見え、

 左から見れば右に見えることである」


再考をなさいませタピオカの鬱  前中知栄

頼母が登城した後、屋敷に残った一族は、

戦闘で足手惑いになるのを恐れて自刃する。

 「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」


                      (妻・千重子の辞世の歌)

「女(め)竹、細竹は、風に任せているように見え、

  私も今の時代に身を任せているが、

  竹にも折れないための節があるように、

  女性にも貞節があることを知っていてほしい」


「なよたけの碑」は,墓とともに善龍寺に建っている

歌わないのがカナリアの返事です  奥山晴生

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    西郷頼母の屋敷

「西郷頼母一族の悲劇」

幕末の西郷頼母は、

容保の守護職就任に強く反対したが容れられず、

家老職を解かれ、蟄居処分を受け、また、

鳥羽伏見の戦いを経て容保が帰国した後も、

恭順謝罪を説き、登城差控え・蟄居処分を受けていた。

しかし、新政府軍が城下に迫るのをみて、

禁を破り、息子吉十郎を伴って登城していった。

真夜中に骨を齧るハギシリのついで  山口ろっぱ

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屋敷に残った一族のひとたちは、

戦火の迫るなか足手惑いになることを恐れ、

若松城の城門近くの西郷頼母の家老屋敷で、

頼母一族21人は自刃に倒れた。

この一族の自刃があったのは、

家老の頼母が,国境警備にあたっている時のことである。

慶応4年(1868)8月23日早朝、

城下町に早鐘が鳴り響き、

藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、

一族は、家老屋敷に集まっていた。

画鋲を抜くと熱をもっていた  畑山美幸

そこで頼母の母・西郷律子は、

「女が城に居ては足手まといになる。されど、

  敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」


と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。

妻・千恵子は義母・律子の後に続き、

まだ自害できない幼い我が子を刺した。

ケチャップでごまかすシュールリアリズム  藤本秋声

そして千恵子は、我が子の死を確認すると、

返す刀で自分の喉を貫き、

会津藩士の妻としての役目を果たした。

こうして、頼母の家族9人が自害。

また、別室に集まった縁者12人も律子らに続き自害。

この日、頼母の家老屋敷では、

一族21人が自殺したのである。 (西郷頼母一族の自刃より)

一錠で眠る百錠なら死ねる  清水すみれ

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腹のたつときにはたてよ鰯の目  森中惠美子

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      孝明天皇の歌二首と宸翰(しんかん)
 やわ
"和らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄へん"
もののふ
"武士と心あはしていはほをも 貫きてまし世々の思ひて"

「八月の政変」とは、文久3年(1863)8月。  

孝明天皇中川宮に「会津藩・薩摩藩」が協力する形で、

京都から長州藩を中心とした尊王攘夷派を追放した事件。

長州藩は攘夷実行のため、天皇の大和行幸を計画。


これに対抗するための公武合体派である会津・薩摩の

両藩が起こしたクーデター。

この結果
三条実美三条西季知ら急進派の公卿が長州に下った。

どないにもならなくなったので消える  竹内ゆみこ

「八月の政変」

馬揃いの日から13日後の8月13日、

大和行幸の詔が下される。

天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し、

攘夷祈願を行った後に、伊勢神宮に向かうというものだった。

時に孝明天皇は妹・和宮を将軍・家茂に嫁がせ、

公武合体による朝廷と幕府の共存を願い、

激派公家に朝廷が牛耳られる現状を憂えていた。

曲がるべき辻はいくつもあったのに  清水すみれ

孝明天皇の行幸は、表向きであり、

実はその間に御所に火を放ち、

帝を戻れなくして関東に下向させる。

その後、箱根で倒幕の挙兵をして、

江戸へ攻め込むという長州派の陰謀だった。

容保は苦慮する。

この情報に乗って薩摩と組んだら、

一歩間違えば、朝敵の汚名を着せられる畏れがあった

ちょっと待ってそっちは聞こえぬ方の耳  安土理恵
                                                       大和行幸が決行されれば、幕府にとっても一大事。

容保は将軍後見職の一橋慶喜等と図り、

尊攘激派一掃を狙う。

容保は、交代で上京してきた新参の藩士に加え、

会津に戻る途中の千名の藩士も呼び寄せ、

二千人を御所の警備にあたらせることにした。

枝分かれしたのか明日が尖ってくる  谷垣郁郎

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   八月の政変

8月18日、午前零時。

容保の号令一下、会津藩士二千人は、

黒谷の本陣を出て、御所へ向かった。

行列の最後尾には、斉藤一たち壬生の浪士たちもいた。

やがて、会津・薩摩の両藩士たちは、

御所の門という門を閉じて兵で固めた。

会津の旗が翻り、

全員が配備に就いたのを見計らって空砲が放たれた。

砲声を合図に、在京の諸侯や公家たちが集められ、

中川宮が帝の勅書を読み上げた。

この道を行かねばならぬ赤い月  森田律子

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勅書は、長州を御所の警備からはずし、

三条実美らの参内を禁止、

追って取り調べるというものだった。

異変に気づいた長州藩は、武装して河原町の藩邸から、

自分たちが警固を担当していた境町御門へ駆けつけると、

門前に大砲二門を据えて陣を敷いた。

門前に立った久坂玄瑞が、

中にいる会津藩士に怒鳴った。

砂時計くるりそしてそしてを繰り返す  太田のりこ

久坂 門を開けれ!ここはわが藩の持ち場じゃ!

覚馬 長州は禁門守護の任を解がれだ。早々に退散せよ!

会津・薩摩の連合軍と、長州のにらみ合いが続いたが、

夕刻になると長州は引き上げた。

会津、薩摩の連合軍が御所を守り通したのだ。

負け犬の足ふるさとの長い橋  奥山晴生

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長州藩は京都政界から失脚し、

三条実美ら激派公家7人は長州に逃れた。

孝明天皇は、自分の悩みを払拭してくれた

容保の忠誠を喜び、

公武合体の平和な世をともに実現しようと、
                         しんかん
詠んだ歌二首を納めた宸翰を密かに贈った。

以後、

この宸翰を心の支えにした容保は、

薩長新政府軍に鶴ヶ城を攻められた時も、

会津が決して「賊軍でない」という

何よりの証として、肌身から離さなかった。


だあれにも見られずそっと土になる  嶋澤喜八郎

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「大河・ネタばらし」

お国入りした照姫を迎えるために、

八重たち会津藩の子女は、

黒河内道場で薙刀の稽古をしていた。

そこに西郷頼母の妻・千恵がやってくると、

久栄綾絵が進み出た。

頼母は家老職を免じられ蟄居中、

「その妻が公の場所に来るとは何事か」

と非難して道場を出るように促した。

だが、千恵は蟄居の身でも、

「夫の忠誠心は変わらない」と意に介さない。

そこに照姫がやってくる。

待つだけの場所に並んだ固い椅子  八上桐子

稽古がはじまると、照姫は、八重と千恵に目がいった。

必死で薙刀を振るう二人の姿が、

照姫になにかを感じさせたのだ。

稽古が終わり、照姫が訓示を垂れた。

その照姫の話に、千恵が、会津の子女たちが涙した。

八重も同じで、

なんとしても照姫のお側に仕えたいと思った。

そして、藩士の子女から、

照姫の右筆を選ぶという話があり、

八重が「右筆」の最右翼だと噂が立った。

いつになく私の場所が騒がしい  北原照子

時尾たちと一緒に、尚之助から、

漢書の読み書きを習っていた八重は、

やんわり否定しながらも、まんざらでもなかった。

誰もが八重が選ばれると思っていたが、

指名されたのは高木時尾だった。

前のめりしたのは春の土踏まず  前中知栄

【豆辞典】-右筆

武家の秘書業務や文書作成を担当する文官。

鎌倉時代など中世においては文書の代筆が主な業務

だったが(文盲の武士も多かったため)、やがて公文書や

記録の作成といった事務官僚的な役割をはたすようになる。


右筆とも表記する。

一途とは柩には 窓 いりません  田中博造

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喉仏ふたつの影の置炬燵  山本早苗

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「佐川官兵衛」ーエピソード

天保2年(1831)9月5日。

家禄300石の佐川直道の長男として、

会津若松城下に生まれる。

性格は直情的だが、槍の名手で勇猛果敢、

人情に厚く、多くの藩士から慕われた。

文久二年(1862)藩主・松平容保が京都守護職に就くと、

それに従い上洛する。

元治元年(1864)には、

藩士の子弟を選んで「別撰隊」を組織し、

隊長として、京都市中の警護にあたる。

頭突きでよければ助太刀をいたす  酒井かがり   

鳥羽・伏見の戦いで、伏見街道で薩長勢を迎え撃った時、

その壮絶な抜刀切込みや、

また、銃弾により眼を負傷したにもかかわらず、

ひるまず血まみれた阿修羅のごとき形相で、

指揮を執っていたことから、

「鬼の官兵衛」と呼ばれるようになり、

薩長の志士を震え上がらせたという。

その戦いに破れ、ついに会津藩も降伏。

官兵衛は下北半島へ追放され、謹慎生活を送る。

ポッケには明日の欠片も2・3粒  谷垣郁郎

江戸幕府が倒れ、明治維新となり、

廃藩置県が行われると会津藩に帰郷。

その後、官兵衛は、多くの藩士をつれて、

東京の警視局に奉職。

一等大警部の職を得るが、大藩の家老としては低い待遇に、

藩士たちは怒るが、官兵衛はこれをなだめ、

月給五十円のうちから一部を、

藩主に送るなど忠臣ぶりをみせた。

前略のかたちで動く足の裏  山本芳男

明治10年(1877)の「西南の役」が起きた時、

麹町の警察署長をしていた官兵衛は、

西南の役に参戦するよう、政府から命ぜられる。

当時の官軍は、農民を中心に組織されており、

基盤が弱かったため、

士族の警察隊が必要だったのである。

そして、官軍として戦った官兵衛は、阿蘇の地で散る。

明治10年(1877)3月18日、46歳。 

辞世の句は、

"君が為都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる"

スナメリの歯で噛むキシリトールガム  井上一筒

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嘘に嘘まぶしてかぎりなく濁る  たむらあきこ

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       雨中の馬揃え

「尊攘激派」

京都守護職に就任した松平容保は当初、

井伊直弼の「安政の大獄」による強権政治の失敗を,

教訓として、宥和策をとる。

だが激派浪人たちは図に乗り、「天誅」と称して、

標的とする相手の家臣、出入りの小者までも襲って、

その耳、手首、さらに首を落として、

屋敷に投げ込むなどの狼藉を繰り返した。

また、尊氏ら足利三将軍の木像を等持院から奪い、

首を切り落として、三条大橋下に獄門台を据えて晒し、

「今世にこの奸賊に超過するものあり。

  その罪悪足利の右に出ずる」


と徳川将軍家を誹謗・弾劾する捨札を掲げた。

騒いでいるのはキプロス島の蝦蛄  井上一筒  

「軍事演習ー馬揃え」

容保は尊攘激派の果てしない無謀な抵抗に宥和策を捨て、

「新選組」を登用するなどして、

市中見回りを厳重にする強硬策にうって出た。

この容保を目の仇にしたのが尊攘激派の公家であった。

当時、長州藩と結んだ公家たちが、

朝廷での主導権を握っていた。

彼らは上洛した14代将軍の家茂に攘夷決行を迫り、

賀茂社への天皇の攘夷祈願に随従させるなど、

権勢を振るい、また容保失脚の機会を狙った。

感情の正面衝突おお危な  柴本ばっは

三条実美

京では三条実美が策略を巡らし動いていた。

慶喜が江戸に戻ったまま、一向に攘夷を決行しないので、

容保を江戸へ下向させて檄を飛ばすべく、

その旨、孝明天皇の勅書を出したのだった。

孝明天皇は、自分の意志を無視したやり方に憤慨し、

三条や長州派の公家には内緒で、近衛忠煕を呼びつけた。

勅書を受け取った容保も、いぶかっていた。

この時期に江戸へ下向するなど考えられなかったからだ。

そこに本物の勅書が届いた。

勅書は、孝明天皇が、

「会津を、容保を、頼りにしている旨」が書かれてあった。

容保は読みながら涙を流し、命をかけて帝を守る決意をする。

青や角かなぐり捨てて君の前  酒井かがり

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      建春門前

文久3年(1863)7月、

なお彼らは、天覧の軍事演習である「馬揃え」で、

容保に恥をかかせて失脚させようとした。

容保は、

「人心が不安な昨今御所の傍らで武事を演じるのはよくない」

と反対したが、彼らは強引に押し切った。

仕方なく会津藩は、御所で軍事訓練を披露することに。

天覧の馬揃えは、280年前に織田信長が行って以来で、

会津藩にとっては名誉だったが、

当日は雨で順延となった。

翌日も雨。三日目も雨が降った。

この日朝早く延期の達しがあったので、

容保は藩士を解散させた。

ところが御前十時、朝廷から

「雨中で馬揃えをやる」 と急に決行の知らせが届いた。

一秒の休み欲しいと言う時計  平田元三

「無理だ」と返答しても「ならぬ、やれ」との命のため、

容保は、ふたたび藩士たちに招集をかけた。

当時会津藩士には、薩長土の藩士のように、

祇園などで遊ぶような者はおらず、

堅物なほど真面目で、休みでも宿舎にいて、

緊急の召集にも強い団結力をみせた。

夕方四時、御所建春門前に、

甲冑具足をまとった会津兵が集結し、容保の合図のもと、

一糸乱れぬ長沼流軍法による、実戦さながらの

練兵を披露した。


この時、容保が着ていた陣羽織は、

帝が与えた衣で作ったものだった。

鍵穴のむこうで蜘蛛になる男  清水すみれ

この豪壮かつ規律ある演習に、孝明天皇は感激する。

藩士が集まらず、右往左往する姿を露呈させて、

職務怠慢のかどで、

容保を追放しようとした激派公家の思惑は外れた。

後ろ手で寒い雑音閉めました  美馬りゅうこ

【豆辞典】「馬揃え」

騎馬を集めてその訓練の状況や優劣を競いあった武家行事。

軍事パレード的な意味合いも持つ。

1184年の源義経による駿河浮島原、

1581年の織田信長が行なった京都馬揃え。


1632年に品川宿で徳川家康が行なったもの、

そして1863年に松平容保が孝明天皇の勅命によって、

行った馬揃えが有名。


国滅ぶ時も行列崩さずに  板垣孝志

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わけもなく淋し風船飛んでおり  大西泰世

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     東山温泉

東山温泉は、約千三百年前、名僧・行基によって発見された、

奥羽三楽郷に数えられる、由緒ある温泉郷、

豊かな自然と美しい景観に恵まれながら、

会津若松市の中心地から車でわずか10分程度という便利さが、

市民や観光客に親しまれ、


竹久夢二与謝野晶子などにも愛された湯の街である。

ゆっくりとしたいと脳が言うもので  下谷憲子

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紅葉の会津では、秋空の下を八重、覚馬、尚之助、

三郎が東山温泉に向かっていた。

藩主の容保と上洛する覚馬との、別れの旅だったが、

野郎ヶ前の茶屋にさしかかると、

神保修理と妻の雪子が仲むつまじく田楽を買っていた。

二人の目的地も東山温泉だった。

二組は途中の河原で休憩をとることに。

万病に効く「のほほん」という薬  新家完司

上洛する覚馬と修理は京の情勢を語り合い、

そんな二人をよそ目に八重たちは川面に石を投げ、

水切りで遊んでいた。

三郎は近くの松の枝に小石を投げて見事に乗せた。

投げた石が松の枝に乗れば、

願いが叶うという里のものたちの

運試しだったが、八重も見習って、

覚馬が京で手柄を立てることを願って投げた。

見事、枝に乗った。

続いて雪子も投げたが、何度投げても乗らなかった。

雪子の夫は神保修理。

修理は秀才の誉れ高く、期待もされていたのに、

35歳で詰め腹を切らされる。

坂道で女が拾う柿のたね  森中惠美子

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  じんぼしゅり
「神保修理の悲劇」

「鳥羽伏見の戦い」が開戦した翌日、

薩摩藩の本陣に「錦の御旗」が掲げられ、

江戸幕府軍が朝敵となった。

大坂城でこの報せを聞いた徳川慶喜は動揺し、

「この後は、江戸で戦う」 と言い、

大阪城を捨てて、海路で江戸へ逃走する。

会津藩主の松平容保も、慶喜に従い、

大阪から江戸へと逃れた。

さざんかの散りざま責任は誰がとる  安土理恵

総大将の戦線離脱という予期せぬ事態により、

江戸幕府軍は、総崩れとなって新政府軍に大敗。

そこで、会津藩士・佐川官兵衛ら抗戦派の怒りは、
                          
「総大将の徳川慶喜が江戸へ逃げたのは、

  神保修理の助言によるものではないか」
 として、

恭順を主張していた非戦派の神保修理に向けられた。

今日の地図さて何色で塗りましょう  合田瑠美子

一連の騒動を知った勝海舟は、慶喜に進言。

進言を受けた慶喜は、

会津藩に修理の身柄を幕府に引き渡すように命じた。

しかし、抗戦派の会津藩士が引き渡しを拒否。

そして、慶喜の要求に怒った抗戦派の会津藩士は、

「藩命だ」と言い、修理に切腹を命じたのである。

わたくしの音だどうりで寒すぎる  前中知栄

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修理は会津藩主・容保との面会を求めたが、

面会は許可されず、「偽りの藩命」だと知りながらも、

藩命に従って自害した。

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「神保雪子」

雪子と修理は仲睦まじい夫婦だったが、

前述のとおり、修理は悔いを残して切腹。

その後、雪子は、「会津戦争」が起こり実家へ戻るも、

「婚家と運命を共にせよ」

と父に追い出される。

が、神保家にはたどり着けず、

娘子隊に加わって戦い、捕えられ自刃。

哀しすぎる最後を遂げる。

古井戸をのぞくと遠い日のメモリー  山本昌乃

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