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川柳的逍遥 人の世の一家言
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シュレッダーの刃に横顔がひっかかる  くんじろう

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「観音霊験記 西国巡礼十五番・山城京今熊野  後白河」

(画面をクリックすると画面が大きくなります)

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「建春門院(平滋子)」


滋子(しげこ)は、堂上平氏・平時信の娘。

清盛の妻・時子時忠とは、異母兄弟である。

もとは後白河院の姉・上西門院統子に仕える女房で、

小弁と呼ばれていた。

その関係から後白河院の寵愛をうけ、

応保元年(1161)憲仁親王
高倉天皇)を産んでいる。

(余談だが、のちに時子の娘・徳子が高倉天皇に入内している。

  いわゆる、いとこ同士の婚姻が行なわれたことになる)


真珠から神が検出されました  湊 圭史

仁安3年(1168)高倉天皇の即位により、

皇太后に冊立、

嘉応元年(1169)に院号宣下を受け、

女院になっていた。

清盛と同じ平氏とはいっても、

時子滋子が属した平氏(堂上)は、

武士ではなく、代々摂関家の家司を務める公卿で、

故実に通じた貴族であった。

言の葉にうっすら紅を載せてみる  合田瑠美子

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後白河院は、生涯で34回も熊野参詣に行っているが、

建春門院も、それに何度か同道している。

また福原における千僧供養にも、

後白河院は、建春門院を伴っており、

非常に寵愛していたことがわかる。

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里恵      

建春門院については、

藤原定家の姉・健寿御前が記した『たまきはる』に、

何事にも几帳面で、

周囲への細やかな気配りを欠かさないなど、

その聡明な人柄が記されている。

また、建春門院のもとに初めて出仕し、

対面を果たした健寿御前は、

「この世の中には、こんなに美しい人がいるのかと思った」

と記している。

≪また、建春門院は、後白河院が熊野詣でなどで不在のときに、

    政務運営に参加していた・・・と推測される≫


声をかけられずに横顔を見つめ  杉本克子

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「たまきはる」にも、建春門院が、

「政治において思いのままにならないことは何もなかった」

と記されている。

建春門院が、このような人物であったからこそ、

政治的に対立を深めつつあった清盛と、

後白河との間に立って、両者を仲介する、

役割を果すことができたのであろう。

清盛にとって建春門院は、

後白河院との関係維持のため、

欠かすことのできない、貴重な存在であった。

コーナーキックからお茶室に移る  井上一筒

建春門院が両者の間に立って、

政治的に仲介する役割を果たしていたため、

なんとか、協調関係は維持されていた。

そんな中、安元2年(1176)6月初旬頃から、

建春門院の体調不安が伝えられ、

7月8日、種々の祈祷もむなしく法住寺において没し、

2日後、蓮華王院の東の法華三昧堂に葬られる。

(そのわずか1年後に鹿ヶ谷事件が起こる)

※  蓮華王院=京都し東山区にあった法住寺殿の一院として、

   後鳥羽法皇が造営。俗称ー
三十三間堂。

真下から真近で説教白い骨  岩根彰子

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     本 宮
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     新 宮
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     那 智


「熊野詣」

紀伊国の熊野本宮・新宮・那智の三社(熊野三山)への参詣。

極楽往生を願う人々の信仰を集め、

全盛期の院政期~鎌倉初期には、

後白河34回、後鳥羽30回など、

頻繁な御幸があった。

従者も千人に及び、沿道の農民の負担は大きかった。


京都からの道筋の随所に熊野王子が祀られ、

100を超えて超えていたという。


わが首とゆかりの寺の花の首  森中惠美子


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「藤原頼長の命運」

院政の続く天皇家の内部抗争と、

時を同じくして、

藤原摂関家でも、家督争いが起きていた。

藤原忠実は、長男の忠通より、

次男の頼長の方を寵愛し、

一度は忠通に家督を継がせて、

近衛天皇在任中に忠通が関白を務めるが、

事ある毎に引退をすすめる。

しかし、忠通は拒否し続け、

とうとう忠実は忠通を勘当して、頼長を内覧にしてしまう。

≪関白の忠通とは別に、内覧もいるという奇妙な事態が発生する≫
        
氷点下28度のおうどいろ  蟹口和枝

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一方頼長は、せっかくの地位まで昇りながら、

鳥羽上皇の寵臣と喧嘩し、

乱闘騒ぎを起こして、

鳥羽天皇の信頼を失ってしまう。

更に、仁平5年(1155)近衛の後継者をめぐっては、

兄の忠通が推薦した後白河天皇が即位してしまう。

ときに後白河 二十九歳。

順番にボタンを押して涙橋  森 茂俊

そして、その年の暮、頼長が拠り所としていた、

妹で鳥羽上皇妃の高陽院・泰子が死去してまう。

更に、近衛天皇が死んだのは、

「忠実・頼長親子が呪詛を掛けたからだ」

という噂が流布する。

頼長の命運はまさに、尽きようとしていた・・・。

あとはもう最終改札口ひとり  片岡加代

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かさぶたの下仄かに煮えることがある  たむらあきこ

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    保元合戦図屏風

画面左に「白河北殿」、右側に攻め寄せる「源義朝軍」を描く。

右面・後方でひときわ立派な黒馬に乗り、戦況を見守るのが
義朝

門脇では、弟の
為朝が強弓を引いて応戦する。

門内で騎馬の一団を率いるのは、二人の父親・
為義である。

殿内には、不安そうに戦況を見守る公卿が描かれている。

左上・高欄から身を乗り出しているのは、
藤原頼長だろうか。

(画面上でクリックすると画像が大きくなります)

おいでおいでと四面体のキツネ  山口ろっぱ

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「開戦秒読み」

藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

人々は、「新院方」「鳥羽方」に競って参集しはじめ、

そうした異様な雰囲気が、盛り上がるなかで、

鳥羽の死が、伝えられたのだった。

何色に咲くのか知らぬ種をまく  杉本克子

その夜から、早くも、「新院謀叛!」

という噂が市中を駆けめぐった。

新院方(崇徳方)では、

不穏な情勢下での警護の強化という名目で、

武家に召集をかけ、

柳ノ水の御所には、源氏、平家の武将たちが、

続々と集まり始めていた。

市中を駆ける兵馬は、

いっそう、人々の不安と興奮を煽った。


右向け右の列の怖さを忘れない  森 廣子

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一方、鳥羽の亡骸を守る側は、後白河がいることから、

「内裏方」(鳥羽・美福門院方)と呼ばれ、

得子と入道・信西、忠通らが、新院方の動きに呼応して、

こちらも武家に召集をかけ始めた。

信西は鳥羽の第一の寵臣と、誰もが認めてきた人物で、


下級の公家では、

「うだつが上がらない」 と出家して、

院政体制に食い込んできた辣腕の政治家だった。


眼の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし

当時の武家は、公家階級に比べると、

格段にその地位が低かった。

内裏や御所の警備にあたり、

地方の反乱鎮圧に向かう、

武力行使の専門集団という程度の、存在でしかなく、


摂関政治のころは、

指令を発する藤原氏を主筋と仰いできた。


粘るとはこうして今日も生きること  河村啓子

だが、院政時代になって、

少しづつ意識も変わりはじめ、

しだいに"自我"が芽生えてきた時期にあたる。

こうした情勢下で、摂関家が親子二つに割れ、

鳥羽の死とともに、

それぞれが、武家に召集をかけ始めたのである。

そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子


新院方には、源氏の頭領・為義頼賢(よりかた)

頼仲、為朝など、息子たちを引き連れて参集した。

平家からも、清盛の叔父の忠正

一族の長盛、康弘などの武将が、

手勢を率いて駆けつけた。


てのひらの感情線を握りしめ  谷口 義

一方の内裏方には、為義の嫡男・義朝が駆けつけた。

愛人の常盤が、亡き近衛帝の中宮に仕えていたためで、

源氏一党の落胆は大きかった。

が、為義は源氏嫡流に代々伝わる鎧を届けて、

別れを告げた。


さよならさよなら流れて行くのだね  安土理恵

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60余年前に白河が院政を始めるまでは、

長いこと、摂関政治が行なわれてきた。

つまり、摂政・関白を出す藤原家が、

天皇を補佐するという名目で、政権を握ってきたわけで、

それを天皇家に取り戻そうというのが、

白河が院政を始めた理由だった。


忠実頼長には、新院方について、

重仁とともに、再び

「摂関政治を復活させたい」 という思惑もあった。


どぶ板の含み笑いを聞き流す  井上一筒

拍手[3回]

人生の上がりに匂う沙羅双樹  片岡加代

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雅仁親王の周りが騒がしくなる。

近衛帝が重篤になったとき、

崇徳院の屋敷に、にわかに人々が集いはじめた。

誰もが後継天皇は、

「崇徳の嫡子・重仁の即位しかない」

と考えたからである。

崇徳に寄った人々は、「新院方」と呼ばれ、

その筆頭には、

摂関家の藤原忠実と次男の頼長がいた。

集客力がある3階の野原  井上一筒

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一方、こうした、新院方の動きに対する反発や、

鳥羽の絶対権力を頼みとする人々が、

鳥羽殿へと集まり始めた。

「鳥羽方~内裏方」である。

その筆頭には、なんと忠実の嫡男・忠通がいた。

娘を近衛のもとに、入内させていたこともあったが、

父や弟との不仲から、

対立の道を選んだものだった。

シルエットだけから言えば狢です  合田瑠美子

この藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

結果、「崇徳院(新院方)」を中心とする勢力と、

「美福門院・近衛天皇(鳥羽方)」を中心とする勢力とが、

対立することになった。

美福門院の従兄弟は、

鳥羽院の一番の寵臣・藤原家成であり、

力関係は、美福門院の方が優勢であったが、

崇徳院派も、外戚である閑院流を中心に、

無視し得ない勢力をもっていた。

※ 閑院流=三条・西園寺・徳大寺など、藤原北家支流の公家の一門

発酵はまだアクセルとブレーキと  前中知栄

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ところが、「保元の乱」の前年の久寿2年(1155)

近衛天皇が17歳の若さで亡くなり、

バランスが大きく崩れてしまう。

近衛天皇に子がなかったため、

「誰を次の天皇にするか」

 の問題が、いよいよ熱をおびてくる。

おひさまのくしゃみに迷う磁気あらし  藤本鈴菜

そこで、候補として浮上したのが、

美福門院が、養子として迎えていた、

重仁親王と雅仁親王の子・守仁王の2人だった。

それまでの待遇は、

院の皇子である重仁の方が、格上であり、

守仁は、仁和寺に入って出家する予定であった。

並列の前後で散らかしてばかり  山本早苗

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ところが、いざ近衛天皇が死去すると、

重仁親王を即位させたのでは、

父・崇徳院の力が強くなり過ぎ、

美福門院たちを圧迫しかねない。

結局、鳥羽院は、美福門院のために、

崇徳院と重仁親王を切り捨てた。

矢印の太さに引き摺られている  たむらあきこ

とはいえ、守仁はまだ13歳。

政治的に独り立ちできる年齢ではない。

しかも、健全な父親を差し置いて、

子が即位するというのは、先例のないことであった。

最初から迷路の口は開いていた  佐藤美はる

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このとき、鳥羽院と美福門院との間には、

近衛天皇のほかに男子がなく、

娘の八条院を即位させる案も出されたが、

実現には至らなかった。

こうして、鳥羽院を中心に、協議が行なわれた結果、

後継者選びは、意外な人選で決着する。

鳥羽院と待賢門院との間に生まれた、

第4皇子・雅仁親王に白羽の矢が立ったのだ。

後白河天皇である。

都合よく裏口の鍵落ちている  安土理恵

いろいろと事情を考慮して、父の後白河天皇が即位し、

守仁は皇太子とされたのである。

つまり、後白河天皇は、

もともと、皇位を継承する予定ではなく、

守仁が即位するまでのいわば、

「中継ぎ」として立てられた「天皇」だった。

ワンランク上げた噂はもり上がる  山本昌乃

拍手[3回]

つよ気とよわ気はしる稲妻もて余す  桜 風子

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     源 義朝

「源為義、義朝親子は、なぜ敵味方に分かれたのか?」

義朝は、少年期に父・為義と別れ、

東国の源氏一族の庇護を受けて成長した。

東国に下った理由は、定かではないが、

廃嫡同然に、勘当されたためではないかといわれる。

あれこれを月の光の所為にする  河村啓子

父の愛情を知らずに長じた義朝だが、

源氏の棟梁の嫡男として、

東国の豪族を傘下に収め、

鎌倉を中心にして、勢力を伸ばした。

東国に基盤を固めた義朝は、

やがて上洛し、鳥羽上皇に接近する。

新しい一歩の靴をはきかえる  山口美千代

一方、父・為義は、

天仁2年(1109)検非違使に任じられたものの、

さして振るわなかった。

摂関家の内紛に、

「悪左府」といわれた藤原頼長を有望とみて、

主従関係を結ぶ。

だが、やがて頼長は、鳥羽法皇に疎まれ、

同じく法皇に嫌われた崇徳上皇に接近する。

この上皇方が、乱の敗者となる。

何回も越えたつもりのバカの壁  佐藤狂四朗

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為義は一族の内紛を、収めることも出来ず、

源氏の棟梁としての、才覚を疑われていた。

八男・為朝が西国で、

狼藉を働いたことの、責任を問われる形で、

家督を義朝に譲りわたすと、

一族の多くが、若き頭首義朝になびく。

逆へ逆へと魚群探知機の渦  くんじろう

親子はこうして、対立を深め、

「保元の乱」では、

子が父を斬首する結果に終わった。

「父を切る子、子に切らるる父。

  切るも切らるるも宿執(しゅくじゅう-宿縁)の拙き事。

  恥ずべし恥ずべし、恨むべし恨むべし」
 (保元物語)

61の齢を重ねた、為義の「辞世の言葉」である。

錆色になって明日に拾われる  酒井かがり

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「保元の乱の後始末」

敵方の処罰は、勝者である清盛義朝にとっても、

つらいものになった。

清盛が叔父・忠正とその息子たちを、

六波羅の近くで斬首したのに続き、

その二日後、

義朝も自らの手で、父・為義と5人の弟を処刑した。

このとき、為朝は一人逃亡中であったが、

のちに捕らえられて、伊豆大島に流される。

定位置をかえても葬儀屋が見える  都司 豊

さして仲のよくない叔父一族を斬った清盛に比べて、

実の父や年若い弟たちに手をかけた、

義朝の心痛は大きかったはずだ。

『保元物語』によると、

清盛が忠正を斬ったならば、義朝も

「為義たちを斬らざるを得なくなる」ことを見越して、

進んで叔父の処刑に踏み切ったという。

それが、義朝に刑の執行を、

決断させることに、なったのかもしれない。

多情多恨誰も責めてはおりませぬ  山口ろっぱ

拍手[2回]

注射針から噴き出したカーニバル  井上一筒

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義親を追討する正盛(大山寺絵巻)

 

出雲国のも目代を殺害した義親(左上・洞窟に座す)の、

追討を命じられた正盛(右方・舟上の指揮者)は、

討伐に向かった。

この勝利は、平氏の拡大のきっかけともなる。

薄氷の差だねと惜しみない拍手  青砥たかこ

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「平氏伸張のはじまり」

「朝敵追討は、源氏に限らぬこと、よう分った」

八幡太郎義家の嫡男・義親の討伐を、

見事成し遂げた、清盛の祖父・正盛を、

白河法皇は、頬を綻ばせ賞揚した。

ともあれ、この一件以来、

白河院は正盛を信愛し、
近臣として重用した。 

滾る血はひと色にんげんの鎖  鶴本むねお

 

こうした間にあって、正盛は悟るところがあった。 

「源氏のように武辺一点張りでは、武士は

  公家の頣使(しんし)するままに甘んじなければならぬ」
 

と。

そこで正盛は、嫡男・忠盛を当代一流の師につけ、

武術はもとより、和歌、舞など、公家の子弟に劣らぬまで、

徹底的に仕込んだ。

飛ぶために大きい荷物から捨てる  西山春日子

正盛は、「公家の青瓢箪に負くるな」 と叱咤し、

忠盛はこれに応えて、よく励んだため、

公家の子弟に劣らぬ、教養深き若者に成人した。

そして、正盛の目論みは、見事に成功した。

公家の中でも、良家の子弟しかなれぬ、

賀茂臨時大祭の「舞人」に選抜され、

華やかに、舞おさめたのだ。

人生の大きい無駄を温める  足立 暁

忠盛もまた、正盛の意思を受け継ぎ、

子どもたちに和歌・舞など、宮廷的教養を身につけさせた。

中には、和歌に秀逸ぶりをみせた、

忠盛の末子・忠度(ただのり)や、

後白河法皇五十歳を祝う賀宴で、

春の夕明かりの中、

雅に舞った清盛の孫・維盛がでている。

負けてたまるか階段を駆け上がる  新家完司

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「清盛、平氏の棟梁となって」ーあらすじ

平忠盛がこの世を去り、

正式に平氏の棟梁となった清盛に、

頭の痛い訪問者がくる。

平氏と親交の深い藤原家成が訪ねて来て、

自身の別邸で催す歌会で、清盛に、

「一首詠んでほしい」と依頼してきたのだ。

清盛が、父・忠盛の英才教育を無視し続けた。

そのツケが回ってきた。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

清盛は、しぶしぶ覚悟を決めるが、

歌会の日が間近に迫っても、

一向に歌ができる気配はない。

歌詠みの宿題に困り果てた清盛は、

信西を頼るが、あっけなく断られる。

そのうえ、歌会での振る舞いが、

「平氏一門の未来を左右する」

と言われ、清盛は重責を感じる。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

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一方、棟梁の妻となった時子といえば、

宴で振る舞う膳の数を、誤ったうえ、

名誉挽回にと請われた琵琶も、弾けないと辞退。

そんな彼女に清盛は、 

「それでも棟梁の妻か!」」とどなる。

焦る清盛、右往左往の時子と、

新しい棟梁の誕生は、

あたふた、ごたごたの家庭ドラマを生む。

ここで泣くここで笑うと言われても  合田瑠美子

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清盛の棟梁就任祝いにかけつけた常盤義朝

いざ、棟梁となって、 

「亡き父上の固き意志を継ぎ、武士の世を目指す!」

 

と、清盛は一同に宣言するものの、

実務を引き継いでみると、実に多忙。

清盛は父・忠盛の有能ぶりを、

改めて、痛感するのだった。

真っ直ぐに歩く心の叫ぶまま  佐藤后子

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「清盛が詠ったと思われる和歌」
 
久安3年(1147)平家一門の新しく棟梁となった清盛は、

 「そもそも、平家かやうに繁昌せられけることを、

   いかにといふに、熊野権現の御利生にてぞありける」


と伊勢の津港から、熊野にお礼参りに向った。

その航海中、大きな鱸が船中へ飛び込んできた。

今日がもう始まっている海の音  加納美津子

 
それを見た清盛は、

「昔、周の武王の船に白魚が躍り込み、

  やがて、天下を制する事になったと云う吉兆がある。

  精進潔済の旅ではあるが、これも権現様の神意とあれば、

  辱けなく頂戴してそなたらにもお裾分けをしよう」


と刺身に作り、家貞ら郎党たちにも食べさせて、

大いに、前途を祝したという。


手の届く高さに夢とあんぱんと  嶋澤喜八郎

和泉国大鳥大社に歌碑として残っている清盛の句

"かよひこぞよ帰りはてなば飛びかけり  育み立てよ大鳥の神 "

(平氏の旗印の蝶をなぞらえ、幼虫が成虫となり羽ばたくように、

  平氏もますます栄えありますことを・・大鳥の神)


清盛重盛が熊野詣での途中、

源義朝が、反乱を起こしたことを知り、

二人は、とってかえして京に戻る。

その途上、文武の神様が祭られている、

大鳥大社(和泉/堺)に立ちより


戦勝を祈願したとされる。

天上天下桜の下の御釈迦様  森 廣子

「ほか、二首」

"又も来ぬ秋を待つべき七夕の 別るゝだにもいとゞ悲しき"

"雲居より只洩り来る月なれば 朧気にては云わじとぞ想う"

見逃してくれる桜も青空も  清水すみれ

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