ひよこまんじゅうの鉱脈を逆探知 井上一筒
常盤御前
「源義朝の妻」
義朝の女房といえる女性は、正式には4人いる。
この4人とも、義朝の子を為している。
義朝の長男・義平の母と次男・朝長の母、
そして、由良御前と常盤御前である。
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「正妻は由良御前」
由良姫の父は、熱田大宮司・藤原季範。
長姉は、待賢門院の娘・上西門院・統子の女官。
次姉は、待賢門院に仕え、
由良姫自身も上西門院に仕えていたと伝えられている。
大宮司職は、代々尾張氏が務めていたが、
平安時代後期に尾張員職の外孫で、
藤原南家の藤原季範に、その職が譲られた。
※ 熱田神社は、
スサオウノミコトが「八岐の大蛇」の尾から取り出したという、
「三種の神器」のうちの一つ、"草薙の剣"が置かれ、
伊勢神宮に次いで、権威ある神社として栄えた。
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尾張の一ノ宮・熱田神宮の宮司の娘で
義朝は、この藤原氏という名門の出の由良姫と、
久安年間頃に、結婚したとされている。
そして二児のほか、久安4年(11147年)には、
三男・頼朝を産んだ。
頼朝が三男であるにも関わらず、
家督を継ぐ事ができたのは、
母・由良の出自と人脈が、あったからこそといえる。
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義朝は、院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、
鳥羽院や藤原忠通にも接近し、
仁平3年(1153年)31歳で、
従五位下・下野守に任じられ、
翌年には、右馬助を兼ねた。
河内源氏の受領就任は、
源義親以来50年ぶりの事であり、
義朝は、検非違使に過ぎない父・為義の立場を、
超越する事になる。
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「頼朝のほかに義朝 と由良姫の間の二子について」
土佐に流された地で成人し、
頼朝の挙兵に参じる途中に暗殺された弟・希義(まれよし)と
一条能保に嫁いだ妹・坊門姫である。
後に坊門姫の子孫が 鎌倉4代将軍・頼経となる。
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「義朝の愛妾ー常盤御前」
当代随一の美女・常盤御前は、源義経の母。
当時は、身分や格が重視され、
源頼朝の母・由良姫からみて、
常盤御前は、身分が低く、
兄弟とはいえ義経は、頼朝の「家臣」の地位になる。
こうした系統のなかで、
源氏の後継者になり得ない義経が、
兄・頼朝が定めた「鎌倉御家人の掟」に反し、
朝廷から官位を受理したことで、
頼朝の勘気を買う破目になり、
「義経追討」がはじまった。
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「清盛の妻」
清盛は、「海賊追討」の功により、
保延元年(1135)8月21日、「従四位下」に叙任され、
翌2年4月7には、19歳で「中務大輔」に任官している。
「明子・・・正確な名前は不明」
この頃に、清盛は、最初の妻となる「明子」と出会っている。
明子の父は、高階基章(たかしなもとあき)。
基章は、「近衛将監」で、内裏内の警衛・夜警、
及び、
天皇行幸の際の護衛や、高級官吏の護衛をしており、
清盛が中務大輔の公事に従事する際に、
接点があったのではないかとされている。
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近衛将監の官位は、
四等官の「判官」(ジョウ)に相当し、
序列は従六位上くらいで、
清盛の官位より、5階級ほど身分は低い。
運命的な出会いを果すも、当初は、身分の違いから、
2人の婚姻には、周囲の強い反対があった。
基章は、保延2年(1136)正月に、
右近衛将監に任じられている。
中務大輔の地位にあった清盛が、
惚れた明子と結ばれるために、
基章を昇格させたのではないかと、考えらている。
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その後、清盛が20歳で「肥後守」に任ぜられたおり、
2人は結ばれた。
保延5年に長男・重盛が誕生。
この翌年には、次男・基盛(とももり)が生まれている。
結婚への経過や重盛の育ちをみても、
明子の性格は、おとなしく従順ながら、
心に決めたことは変えない、
「芯の強さの持ち主だったようだ」 とみられている。
また、二人を生んで以降の明子のことは、
全く伝えられていない。
このため基盛を生んだ後、
基章の娘が病没したとみる研究者もいる。
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「平時子」
清盛の正室(継室)。
位階は従二位。
大病を患った清盛に従って出家し、二位尼(にいのあま)と称す。
父は堂上平氏の平時信。
母は、二条大宮(令子内親王)の半物。
同母弟に時忠、
異母弟に親宗・建春門院滋子(しげこ)がいる。
第一子の宗盛の誕生年・久安3年(1147)より推測して、
久安2年(1146)21歳の頃に、
清盛の後妻となったとみられる。
※ 半物(はしたもの)=下仕えの女房
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15歳位といわれた平安時代の適齢期に、
21歳で嫁いだ時子の婚期が遅れてしまったのは、
「時子が夢見る少女」であったからとされる。
王朝文学に憧れ、光源氏の出現を待つうちに
婚期が遅れてしまったというのだ。
≪ちなみに紫式部は28歳で結婚≫
結局は時子にとって、周囲の雑音に押され、
理想とは真逆の、清盛と結婚する破目になる。
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桓武平氏のうち高望王系の清盛は、
平家としては、傍流だったため、嫡流の高棟王系から、
時信の娘・時子を継室に迎えて、支配基盤を広げた。
清盛からすれば、
もっけの「逆玉」にのったことになる。
清盛には、重盛や基盛といった前妻との子がいたが、
時子も宗盛、知盛、重衡、徳子を相次いで出産する。
徳子が生んだ言仁(ときひと)親王が安徳天皇として、
即位すると、清盛とともに、准三号の宣旨を受けた。
重盛死後、宗盛を中心に時子の子らが、
平家一門を支える存在となっていく。
常盤御前と牛若丸
「常盤御前ーエピアソード」
みどりごのために常盤は色をかえ
子の手足のばす気で解く後家の帯
「子のため」と母入道をひん丸め 「江戸川柳三句」
古来戦いの勝利者が、
敗者の妻や愛人を我がものにすることは珍しくない。
「平治の乱」に勝利した清盛が、
義朝の愛妾・常盤御前を自分の妾とする代わりにに、
常盤の三人の子どもたちの命をたすけた、
と伝わるエピソードを時事的川柳にしたものである。
車座に益荒男らしきものの跡 山口ろっぱ
常盤は、
近衛天皇の中宮・九条院の雑仕女(ぞうしめ)だった。
九条院が中宮にたてられる際、
都中の美女を選んだ千人の中から、百人を選び、
百人の中から十人を選び、
その中から最も美しい女性として、
選ばれたのが"常盤"であったという。
いわゆる、最も古いミス日本コンテストである。
※ 雑仕女=雑事に従事する下級武士
【余談】
義経は,出っ歯なブオトコのように言われているが、
それが事実なら、
義経は母の美点をもらい損ねたのかも知れない。
焼き芋は焦げたところのそのまわり 藤本秋声
ひとしきり入道つきについている
入道の前に障子を持って出る
仏でも仏になるか白拍子
美人好きの清盛は、
白拍子の祇王と祇女という,十代の姉妹を妾に囲い、
また仏御前と立て続けに妾にしている。
ここで巻き起こる女のドラマは、
読み手の想像力にまかせるとして、
常盤が出現して、
この三人たちの閨へ清盛が遠ざかっていくのは、
彼女の美しさか、
三人の子を生んだ「女の強み」なのでしょうか。
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「蛇足」
【豆辞典ー①】
官人の序列は、
正一位~少初位下(しょうそいげ)まで30階に分かれている。
また、位階の三位以上の上級官人が、
正一位の太政大臣から左大臣・右大臣・大納言・中納言となる。
これらを「公卿」という。
【豆辞典ー②】
四等官とは、中央・地方の官職の序列で、
長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の、
4等級をいう。
なお、官庁で用いる文字が異なる。
省は、卿(きょう)、輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)
国は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(もく)。
【豆辞典ー③】
中務大輔=中務省の上次官。
定員は一人で、相当官位は「正五位上」のものがなる。
中務省は、「ナカノマツリゴトノツカサ」とも言われるように、
詔勅の施行から、後宮女官の人事まで、
朝廷の事務一般ほか、
天皇に近侍する侍従、宮中の警備(内舎人)
雑役及び行幸の際の警護役など、かなり幅広い職務である。
アンテナを立てて世間についてゆく 笠原道子
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