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川柳的逍遥 人の世の一家言
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人生の上がりに匂う沙羅双樹  片岡加代

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雅仁親王の周りが騒がしくなる。

近衛帝が重篤になったとき、

崇徳院の屋敷に、にわかに人々が集いはじめた。

誰もが後継天皇は、

「崇徳の嫡子・重仁の即位しかない」

と考えたからである。

崇徳に寄った人々は、「新院方」と呼ばれ、

その筆頭には、

摂関家の藤原忠実と次男の頼長がいた。

集客力がある3階の野原  井上一筒

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一方、こうした、新院方の動きに対する反発や、

鳥羽の絶対権力を頼みとする人々が、

鳥羽殿へと集まり始めた。

「鳥羽方~内裏方」である。

その筆頭には、なんと忠実の嫡男・忠通がいた。

娘を近衛のもとに、入内させていたこともあったが、

父や弟との不仲から、

対立の道を選んだものだった。

シルエットだけから言えば狢です  合田瑠美子

この藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

結果、「崇徳院(新院方)」を中心とする勢力と、

「美福門院・近衛天皇(鳥羽方)」を中心とする勢力とが、

対立することになった。

美福門院の従兄弟は、

鳥羽院の一番の寵臣・藤原家成であり、

力関係は、美福門院の方が優勢であったが、

崇徳院派も、外戚である閑院流を中心に、

無視し得ない勢力をもっていた。

※ 閑院流=三条・西園寺・徳大寺など、藤原北家支流の公家の一門

発酵はまだアクセルとブレーキと  前中知栄

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ところが、「保元の乱」の前年の久寿2年(1155)

近衛天皇が17歳の若さで亡くなり、

バランスが大きく崩れてしまう。

近衛天皇に子がなかったため、

「誰を次の天皇にするか」

 の問題が、いよいよ熱をおびてくる。

おひさまのくしゃみに迷う磁気あらし  藤本鈴菜

そこで、候補として浮上したのが、

美福門院が、養子として迎えていた、

重仁親王と雅仁親王の子・守仁王の2人だった。

それまでの待遇は、

院の皇子である重仁の方が、格上であり、

守仁は、仁和寺に入って出家する予定であった。

並列の前後で散らかしてばかり  山本早苗

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ところが、いざ近衛天皇が死去すると、

重仁親王を即位させたのでは、

父・崇徳院の力が強くなり過ぎ、

美福門院たちを圧迫しかねない。

結局、鳥羽院は、美福門院のために、

崇徳院と重仁親王を切り捨てた。

矢印の太さに引き摺られている  たむらあきこ

とはいえ、守仁はまだ13歳。

政治的に独り立ちできる年齢ではない。

しかも、健全な父親を差し置いて、

子が即位するというのは、先例のないことであった。

最初から迷路の口は開いていた  佐藤美はる

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このとき、鳥羽院と美福門院との間には、

近衛天皇のほかに男子がなく、

娘の八条院を即位させる案も出されたが、

実現には至らなかった。

こうして、鳥羽院を中心に、協議が行なわれた結果、

後継者選びは、意外な人選で決着する。

鳥羽院と待賢門院との間に生まれた、

第4皇子・雅仁親王に白羽の矢が立ったのだ。

後白河天皇である。

都合よく裏口の鍵落ちている  安土理恵

いろいろと事情を考慮して、父の後白河天皇が即位し、

守仁は皇太子とされたのである。

つまり、後白河天皇は、

もともと、皇位を継承する予定ではなく、

守仁が即位するまでのいわば、

「中継ぎ」として立てられた「天皇」だった。

ワンランク上げた噂はもり上がる  山本昌乃

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つよ気とよわ気はしる稲妻もて余す  桜 風子

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     源 義朝

「源為義、義朝親子は、なぜ敵味方に分かれたのか?」

義朝は、少年期に父・為義と別れ、

東国の源氏一族の庇護を受けて成長した。

東国に下った理由は、定かではないが、

廃嫡同然に、勘当されたためではないかといわれる。

あれこれを月の光の所為にする  河村啓子

父の愛情を知らずに長じた義朝だが、

源氏の棟梁の嫡男として、

東国の豪族を傘下に収め、

鎌倉を中心にして、勢力を伸ばした。

東国に基盤を固めた義朝は、

やがて上洛し、鳥羽上皇に接近する。

新しい一歩の靴をはきかえる  山口美千代

一方、父・為義は、

天仁2年(1109)検非違使に任じられたものの、

さして振るわなかった。

摂関家の内紛に、

「悪左府」といわれた藤原頼長を有望とみて、

主従関係を結ぶ。

だが、やがて頼長は、鳥羽法皇に疎まれ、

同じく法皇に嫌われた崇徳上皇に接近する。

この上皇方が、乱の敗者となる。

何回も越えたつもりのバカの壁  佐藤狂四朗

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為義は一族の内紛を、収めることも出来ず、

源氏の棟梁としての、才覚を疑われていた。

八男・為朝が西国で、

狼藉を働いたことの、責任を問われる形で、

家督を義朝に譲りわたすと、

一族の多くが、若き頭首義朝になびく。

逆へ逆へと魚群探知機の渦  くんじろう

親子はこうして、対立を深め、

「保元の乱」では、

子が父を斬首する結果に終わった。

「父を切る子、子に切らるる父。

  切るも切らるるも宿執(しゅくじゅう-宿縁)の拙き事。

  恥ずべし恥ずべし、恨むべし恨むべし」
 (保元物語)

61の齢を重ねた、為義の「辞世の言葉」である。

錆色になって明日に拾われる  酒井かがり

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「保元の乱の後始末」

敵方の処罰は、勝者である清盛義朝にとっても、

つらいものになった。

清盛が叔父・忠正とその息子たちを、

六波羅の近くで斬首したのに続き、

その二日後、

義朝も自らの手で、父・為義と5人の弟を処刑した。

このとき、為朝は一人逃亡中であったが、

のちに捕らえられて、伊豆大島に流される。

定位置をかえても葬儀屋が見える  都司 豊

さして仲のよくない叔父一族を斬った清盛に比べて、

実の父や年若い弟たちに手をかけた、

義朝の心痛は大きかったはずだ。

『保元物語』によると、

清盛が忠正を斬ったならば、義朝も

「為義たちを斬らざるを得なくなる」ことを見越して、

進んで叔父の処刑に踏み切ったという。

それが、義朝に刑の執行を、

決断させることに、なったのかもしれない。

多情多恨誰も責めてはおりませぬ  山口ろっぱ

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注射針から噴き出したカーニバル  井上一筒

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義親を追討する正盛(大山寺絵巻)

 

出雲国のも目代を殺害した義親(左上・洞窟に座す)の、

追討を命じられた正盛(右方・舟上の指揮者)は、

討伐に向かった。

この勝利は、平氏の拡大のきっかけともなる。

薄氷の差だねと惜しみない拍手  青砥たかこ

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「平氏伸張のはじまり」

「朝敵追討は、源氏に限らぬこと、よう分った」

八幡太郎義家の嫡男・義親の討伐を、

見事成し遂げた、清盛の祖父・正盛を、

白河法皇は、頬を綻ばせ賞揚した。

ともあれ、この一件以来、

白河院は正盛を信愛し、
近臣として重用した。 

滾る血はひと色にんげんの鎖  鶴本むねお

 

こうした間にあって、正盛は悟るところがあった。 

「源氏のように武辺一点張りでは、武士は

  公家の頣使(しんし)するままに甘んじなければならぬ」
 

と。

そこで正盛は、嫡男・忠盛を当代一流の師につけ、

武術はもとより、和歌、舞など、公家の子弟に劣らぬまで、

徹底的に仕込んだ。

飛ぶために大きい荷物から捨てる  西山春日子

正盛は、「公家の青瓢箪に負くるな」 と叱咤し、

忠盛はこれに応えて、よく励んだため、

公家の子弟に劣らぬ、教養深き若者に成人した。

そして、正盛の目論みは、見事に成功した。

公家の中でも、良家の子弟しかなれぬ、

賀茂臨時大祭の「舞人」に選抜され、

華やかに、舞おさめたのだ。

人生の大きい無駄を温める  足立 暁

忠盛もまた、正盛の意思を受け継ぎ、

子どもたちに和歌・舞など、宮廷的教養を身につけさせた。

中には、和歌に秀逸ぶりをみせた、

忠盛の末子・忠度(ただのり)や、

後白河法皇五十歳を祝う賀宴で、

春の夕明かりの中、

雅に舞った清盛の孫・維盛がでている。

負けてたまるか階段を駆け上がる  新家完司

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「清盛、平氏の棟梁となって」ーあらすじ

平忠盛がこの世を去り、

正式に平氏の棟梁となった清盛に、

頭の痛い訪問者がくる。

平氏と親交の深い藤原家成が訪ねて来て、

自身の別邸で催す歌会で、清盛に、

「一首詠んでほしい」と依頼してきたのだ。

清盛が、父・忠盛の英才教育を無視し続けた。

そのツケが回ってきた。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

清盛は、しぶしぶ覚悟を決めるが、

歌会の日が間近に迫っても、

一向に歌ができる気配はない。

歌詠みの宿題に困り果てた清盛は、

信西を頼るが、あっけなく断られる。

そのうえ、歌会での振る舞いが、

「平氏一門の未来を左右する」

と言われ、清盛は重責を感じる。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

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一方、棟梁の妻となった時子といえば、

宴で振る舞う膳の数を、誤ったうえ、

名誉挽回にと請われた琵琶も、弾けないと辞退。

そんな彼女に清盛は、 

「それでも棟梁の妻か!」」とどなる。

焦る清盛、右往左往の時子と、

新しい棟梁の誕生は、

あたふた、ごたごたの家庭ドラマを生む。

ここで泣くここで笑うと言われても  合田瑠美子

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清盛の棟梁就任祝いにかけつけた常盤義朝

いざ、棟梁となって、 

「亡き父上の固き意志を継ぎ、武士の世を目指す!」

 

と、清盛は一同に宣言するものの、

実務を引き継いでみると、実に多忙。

清盛は父・忠盛の有能ぶりを、

改めて、痛感するのだった。

真っ直ぐに歩く心の叫ぶまま  佐藤后子

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「清盛が詠ったと思われる和歌」
 
久安3年(1147)平家一門の新しく棟梁となった清盛は、

 「そもそも、平家かやうに繁昌せられけることを、

   いかにといふに、熊野権現の御利生にてぞありける」


と伊勢の津港から、熊野にお礼参りに向った。

その航海中、大きな鱸が船中へ飛び込んできた。

今日がもう始まっている海の音  加納美津子

 
それを見た清盛は、

「昔、周の武王の船に白魚が躍り込み、

  やがて、天下を制する事になったと云う吉兆がある。

  精進潔済の旅ではあるが、これも権現様の神意とあれば、

  辱けなく頂戴してそなたらにもお裾分けをしよう」


と刺身に作り、家貞ら郎党たちにも食べさせて、

大いに、前途を祝したという。


手の届く高さに夢とあんぱんと  嶋澤喜八郎

和泉国大鳥大社に歌碑として残っている清盛の句

"かよひこぞよ帰りはてなば飛びかけり  育み立てよ大鳥の神 "

(平氏の旗印の蝶をなぞらえ、幼虫が成虫となり羽ばたくように、

  平氏もますます栄えありますことを・・大鳥の神)


清盛重盛が熊野詣での途中、

源義朝が、反乱を起こしたことを知り、

二人は、とってかえして京に戻る。

その途上、文武の神様が祭られている、

大鳥大社(和泉/堺)に立ちより


戦勝を祈願したとされる。

天上天下桜の下の御釈迦様  森 廣子

「ほか、二首」

"又も来ぬ秋を待つべき七夕の 別るゝだにもいとゞ悲しき"

"雲居より只洩り来る月なれば 朧気にては云わじとぞ想う"

見逃してくれる桜も青空も  清水すみれ

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生涯を独活まで来たる思いかな  大西泰世

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      公 卿

仁平3年(1153)1月、平忠盛が58歳で亡くなった。

武士として、初めて、「内昇殿」を許され、

大国の受領を歴任し、

受領としては、最高クラスの「播磨守」も経験した。

また、死の2年前には、「刑部卿」に就任しており、

位も「正四位上」と四位の最上位に達していた。

その上は三位、すなわち「公卿」である。 

紙ふぶきこぼしてて恋を終わらせる  笠原道子

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国政に携わるのも、

夢ではないところまできていただけに、

まことに惜しい死であった。

「祇園社乱闘事件」では、

忠盛・清盛父子の刑を主張した、

「悪左府」藤原頼長でさえ、

忠盛の死にあたって、次のように日記に記している。 

「数国の吏を経て、富は巨万を累ね、

  奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。

  然るに人となり恭倹にして、未だかつて、奢侈の行あらず。

  時の人、これを惜しむ」

 

(巨万の富と多くの家人をもち、人に勝る武威を身につけながら、

  性格はあくまで慎み深く、ぜいたくな振る舞いはなかった)

バネだけになってしまったバネ秤  筒井祥文

もっとも、「正四位上」というのは、

通例では、あまり、"与えられる者のない位階" である。

公卿になる人は、これを飛び越えて、

三位になることが、ほとんどであったのだ。

忠盛が、異例の正四位上についたのは、 

「何としても平家を公卿にしてはならない」

 

という政治的な力が働いた結果なのだろう。 

さっきの出血は赤ペンキでした  井上一筒

 

いかに富を蓄え、武力を持ち、

宮廷人としての、素養を身につけても、

武士が公卿にのぼる道は、

依然として険しかったのである。

だが、その道は、決して遠いものではなかった。

武士の地位、そして、

平家に飛躍をもたらす「保元・平治の乱」

すぐそこまで、迫っていたのである。 

海に出る覚悟を決めた冷奴  清水すみれ

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ときに、清盛36歳。

平家の棟梁となった清盛は、

いよいよ、

歴史の表舞台へ飛び出していく。

哀しみはマスクの中に閉じ込める  合田瑠美子

 

『余談』

忠盛が命じられた「高野山大塔」の造営事業は、

仁平3年(1153)の忠盛の死後は、

清盛に引き継がれ、

保元元年(1156)に竣工した。

厳島との関係が生まれたのは、この間のことである。 

いつの世も飽かず求める開け胡麻  下谷憲子

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鎌倉初期に生まれた説話集・『古事談』によると、

清盛が高野山の大塔を造営していたとき、

自ら材木を運んでいると、

弘法大師の化身である僧が現れて、

厳島に奉仕するよう勧めたという。

平家納経の「願文」に、 

「夢感誤り無く、早く子弟の栄華を験す」

 

(夢のお告げどおり、一門に栄華がもたらされた)

と述べられている。 

春嵐ゆっくり足を組みなおす  森田律子

 

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いま私積乱雲の中にいる  ふじのひろし

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"ならびおるふたつの黒き蝶々の舞い  いずれや高くのぼりけるらむ" 

これは、鳥羽の皇女・統子(むねこ)が詠った歌である。

ふたりの黒い蝶とは、藤原忠通頼長をさしている。

 

X と Y ひとすじなわでゆかぬ線  片岡加代

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「保元の乱への序章」

事の起こりは、天皇家と摂関家の内紛にあった。

摂関家の内部対立は、摂政の藤原忠通と、

その弟・頼長の主導権争いである。

「日本第一の大学生」 といわれた頼長は、

摂関となって、自ら政治を執り行うことを願っていた。

二分咲きは希望五分咲きは願望  立蔵信子

父の忠実も頼長を偏愛し、摂関の地位を譲るよう、

忠通にたびたび、圧力をかけたが、 

「実子の基実に継がせたい」

 

と考えていた忠通は、これを拒み続けた。

業を煮やした忠実は、忠通と絶縁し、

鳥羽法皇に懇請して、頼長を「内覧」につかせた。 

内覧=天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。

 

関白の忠通と、内覧の頼長というふたりの執政が、

並び立つ異常事態が、生まれたのである。 

かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび  山口ろっぱ

 

しかし、「祇園社乱闘事件」にもみられるとおり、

厳しい処罰を伴う頼長の、厳格な政治姿勢は、

多くの貴族の反感を買う。

さらに、久寿2年(1155)近衛天皇が崩御すると、

「天皇を呪い殺した」 という噂をたてられ、

鳥羽法皇の信任を失うのである。

ゆれる灯は終着駅か狐火か  新家完司

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天皇家の内紛は、さらに複雑だった。

崇徳と鳥羽の仲の悪さは、すでに述べたとおりりだが、

保延5年(1139)鳥羽の寵愛する藤原得子が、

体仁親王(なりひとー近衛)を産むと、

無理やり崇徳を退位させ、

近衛に天皇位を継がせた。

過去ひとつ引き摺るじゅんさいのぬめり  たむらあきこ

その近衛が皇子のないまま、

17歳で崩御すると、

崇徳は、我が子の重仁親王(しげひと)が即位し自身が

「治天の君」 となって院政を行なうことを期待した。

しかし、皇位を継いだのは、

同母弟の雅仁親王(まさひとー後白河)であり、

崇徳が院政を行なう望みは、完全に絶たれた。 

限りなく下まで落ちる立ち泳ぎ  森 廣子

 

今様に熱中し父の鳥羽法皇でさえ、 

「天皇の器にあらず」

 

とみなしていた後白河が、

にわかに皇位継承者として、浮上した背後には、

次のような理由があった。

ピリオドのために踏み出す第一歩  上田斗酒

鳥羽亡き後も、権勢を保ちたいと考えた美福門院は、

関白・忠通と組んで、

養子としていた雅仁の、

第一皇子・守仁親王
(もりひとー二条天皇)を、

皇位につけようと画策し、鳥羽もそれを支持していた。

しかし、父が天皇を経験していないにもかかわらず、

その皇子が、皇位についた例はない。

そこで、いったん後白河を即位させ、

そのうえで、守仁に譲位させることにしたのである。

政権から締め出された崇徳頼長が、

接近するのは、時間の問題だった。 

メデューサの口は形も見えぬまま  井上一筒

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       為 朝

【薀蓄】ー「源為朝の夜襲計画」

保元の乱が、まさに勃発しようとする直前、

父・為義とともに、崇徳側についた為朝は、 

「夜討ちに勝る策はありません。

  後白河天皇の本陣である高松殿にただちに攻め寄せ、

  火を放てば、容易に勝てましょう」

 

と軍議で述べた。

三日月に炎の一字を引っかける  谷垣郁郎

しかし、崇徳側の大将である藤原頼長は、

「夜討ちは武士同士で行なう野蛮な行為。

  このたびは天皇と上皇の戦いだから、卑怯な策はとれない」

と述べて、為朝の提案を退けた。

公家の発想からの決断である。 

捨てられたバナナの皮の声だった  夏瀬佐知子

 

13歳のとき、父・為義に勘当されて、

九州に追放された為朝は、

自在に暴れ回って、九州を平定するという、

豊富な実戦経験をふまえて、

「夜討ちが効果的である」 と確信していた。

また、兄・義朝が夜討ちを仕掛けてくることを危惧していた。

雲だった昨日小雨になる明日  中野六助

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「先手必勝」 が戦いの常識だが、

頼長はそれを「よし」としなかった。

そして、為朝の予想通り、

兄・義朝は、夜討ちを仕掛けてきたのだった。

もし、為朝の夜襲策が採用されていたら、

勝敗は逆転していたかも知れない。

いや、兵力に劣る上皇側こそ、

勝つためには、夜討ちが必要だった。

地獄の門までの赤い鈴である  森田律子

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義朝の夜討ちを受け入れた信西と、

為朝の夜討ち策を拒否した、頼長の戦略観の差が、

勝敗を左右したといえよう。

天皇側は、義朝の放火策も認め、

なりふりかまわない攻撃で、勝利を手にしたのだった。

眼下には桜まなうらに死者の数  井上恵津子

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「源為朝」

為義の八男。2メートルの巨漢とつたわる。

13歳の時に、父の不興を買って九州に追放され、

「鎮西八郎」 と号して暴れまわった。

訴えによると朝廷の召還にも、応じなかったが、

やむなく上洛したところ、

保元の乱に遭遇し、崇徳上皇方に立って参戦。

「夜討ち」を主張したが受け入れられず、

白河殿の防御にあたった。

この時、強弓をもって、清盛軍を撃退するなど活躍した。

思い出ほろほろニトログリセリン  酒井かがり

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