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川柳的逍遥 人の世の一家言
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雨風にさらされている耳の位置  小川佳恵

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戦が終り繁栄がはじまる江戸

「江の新しい戦い」

豊臣が滅び、徳川の世となり、平和な世の中となった。

だがには、「次の戦い」があった。

夫・秀忠の後継者争いだ。

乳母のお福に預けていた竹千代より、

自分の手で育てた国松に、愛情を注いでいた江は、

伯父・信長の面影の残る国松に、

第三代将軍を継がせようと思っていたのだ。

舞台反転 印鑑を捺すたびに  赤松ますみ

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駿府城家康坐像

ところが、お福の駿府での直訴に、

家康が、「長幼の序」の必要性を説き、

長男の竹千代を、跡継ぎに決めてしまった。

江は腹を決め、竹千代と向き合って、

将軍に必要なことをじっくりと語って聞かせる。

横からお福が、口を挟もうとするが、 

江の気迫は、それを寄せつけようとしなかった。

 

斬り捨てるときの木蔭を探さねば  森中惠美子

元和2(1616)年正月末、

駿府城で家康が倒れたという報せが、

江戸城の江たちのもとにもたらされ、

江と秀忠は駿府に赴き、家康と最期の別れをした。

そのとき、家康は秀忠の隠し子・保科正之の存在を明かす。

そして、数日後の4月17日、

家康は、75年の波瀾の生涯を閉じた。 

省かれた形に朝が白みだす  美馬りゅうこ

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江戸日本橋に入る大名行列

 

元和4(1618)年、秀忠は戦乱のなくなった世の中で、

将軍職を全うする為には、 

「政務の場と生活の場を分けることが大切だ」 

 

と言い、

生活の場を「奥」、

政務の場を「表」と区別する「大奥法度」を作った。

マタタビのエキスを目薬に混ぜる  井上一筒

元和9年(1623)、元服し名を竹千代から、

「家光」に改めた徳川家の長男は、

7月27日、伏見城で将軍宣下を受け、

三代将軍・「徳川家光」が誕生した。

それに伴い、秀忠は大御所となった。

≪それより三年前の元和6(1620)年には、

    後水尾天皇25歳へ14歳の和子の入内が決まっている≫

改札の向こうにあすという流れ  奥山晴生

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       千 姫

『余談-1』・・・「千は弟思い」

竹千代は病弱で、吃音であったとも言われ、

母のお江に愛されずに育ち、

女性の好みが、とても難しい人だった。

男色の噂さえあり、大奥へ渡ることも稀で、

世継ぎができず、周りにいる者の気をもませた。

めがねかけて裏返してもサンマなり  壷内半酔     

 ただ家光には、尼僧好みという一風変わった趣味があって、

伊勢の慶光院の住職でった尼さんを還俗させ、

側室にしている。

千姫が秀頼の短冊を納めた尼寺の、

眉目秀麗な尼さんである。

この尼さんを連れてきたのが、

家光と同腹の姉、千姫であった。

とても仲のいい姉弟だったから、好みの難しい弟のために、

姉が一肌脱いだということだろう。

筋書きの通りに行かぬ穴がある  西内朋月

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          武家諸法度

『余談ー2』・・「武家諸法度」

慶長20年7月7日、家康・秀忠の命により諸大名は、

伏見城に集められ、
本多正信から、

「このたび武家の法令をおおせいださる

と会合の目的を宣言された。

つづいて僧侶・崇伝が、

武家の法令・「武家諸法度」が読み上げられる。

注目は、幕府が一の目的として打ち出した、

「禁中並公家諸法度」だろう。

「天皇や公家は、今後一切政治に関与せずに、

  学問に専念すること」 
と言うのである。 

≪これによって、朝廷は、政治から完全に切り離されることになる≫

 

とんがり帽子の屋根が夕日を串刺しに  籠島恵子

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『余談ー3』・・「参勤交代」

諸法度のもうひとつの注目点は、参勤交代の制度である。

秀吉の聚楽第時代の習慣・強制を刷りなおしたもので、

人質のように、妻子を江戸に住まわせ、

大名行列を仕立てさせることで、

大名の財力を削ぐ目的があった。

この大名を苦しめた強制が、宿場町を繁栄させ、

江戸が大都市になっていく要因にもなったのである。

城下町ここだけ風が動かない  太田扶美代

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  宿場を進む参勤交代

「諸大名に厳守を命じた法度」 

の内容とは、
国元と江戸とを、

1年交代で往復する「参勤交代」を義務づけ、

大名の妻子は、江戸に住むことを強制され、

1年おきに江戸と国元で過ごすことを義務づけた。  

≪規定では、在府・1年・在国・1年であるが、関東の大名は半年交代であった≫

 

参勤交代城は死ぬまで痩せていた  小川しんじ


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大河ドラマ「お江」-第44回・「江戸城騒乱」  あらすじ

 

秀忠(向井理)は、伏見城に諸大名を集め、 

「徳川政権下で武家がどう振る舞うべきか」
 
を定めた『武家諸法度』を発表。

長く続いた乱世の終りを宣言する。

江(上野樹里)とともに目指す” 太平の世 ”に向けて、

大きな一歩を踏み出したのだ。

 指なめて明日のページを繰っている  谷垣郁郎

だが江戸にいる江は、

徳川家が、淀(宮川りえ)や秀頼(太賀)たちを、

死に追いやったことに、

深い悲しみと責任を感じ、食事ものどを通らない状態。

そのうえ、「淀たちには死んでもらう

と決断したのが秀忠だと知らされ、

さらに大きな衝撃を受ける。

ギシギシと地球の軋む音がする  新川弘子

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そんな中、常高院(水川あさみ)千(忽名汐里)が、

江戸に移されてきた。

3人でひとしきり泣いた後、

常高院から淀の最後の文を手渡される江。

文には、

「するべきことをした秀忠様を恨まないように

と記されていたが、

江は父を許せないという千が、憐れでならず、

夫の非情な決断に対して、

複雑な思いを拭い去れない。

泣き言はお止し湿度が高くなる  オカダキキ

やがて、秀忠が江戸に帰還した。

秀忠は、自分を出迎えた江に、さっそく戦の経緯を話し、 

「最後の決断については、憎まれてもしかたがない、

  だが乱世を終わらせるには、必要なことで悔いてはいない」

 

と述べる。

江は、夫の胸の内を理解しながらも、

太平の世のために、
多くの人が犠牲になったことを、

どうとらえていいのかわからない。 

「この胸が裂けてしまいそうなのです」
 
と、江は
自身の混乱を夫にぶつける。

それを受けて秀忠は、江にある覚悟を語る。

アナログの窓に埃も木漏れ日も  岡谷 樹

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一方、「父に夫を殺される」 という重すぎる現実に耐えかね、

泣いてばかりいる千。

国松(松島海斗)は、そんな姉になぐさめの言葉をかけ、

江を感心させる。

実は、竹千代(水原光太)も、

同じように千を心配していたが、

引っ込み思案な性格ゆえ、

弟のように声をかけることができず、

ただ物陰から見守るばかり。

しかし、常高院だけは、姉を思う竹千代の優しさに、

気がついていた。

秋風にあなたが言いかけたことば  河村啓子

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そして、息子たちに対する江の接し方の違いが気になり、

江と秀忠に、

「もっと竹千代の話を聞いてみては」

と提案する。 

「竹千代と国松、どちらが世継ぎにふさわしいか見極めたい」

 

と考えていた秀忠は、よい機会と考えてその提案に乗り、

ある日、2人の息子を呼び出す。

城は今節電中で悪しからず  合田瑠美子

拍手[4回]

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わが死後の植物図鑑きっと雨  大西泰世

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  大坂・夏の陣図屏風         

 

「大坂の陣の悲劇」

         

徳川家康が豊臣家を滅ぼし、

天下統一を完成させた戦いとして知られる「大坂の陣」。

自らも大坂の役に参戦した黒田長政が、

絵師を集めて描かせたとされる「大坂・夏の陣図屏風」に、

その合戦の様子が、克明に描かれている。 

絶えることなきゲルニカの野辺送り   井上一筒
 
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  大坂の陣切り取りー1

屏風絵に描かれた通り、

「大坂の陣」は、戦乱の世においても、

非常に珍しい " 市街戦 ” であり、

多くの非戦闘員が、巻き込まれた戦いであった。

まず、屏風絵の「右側」には、

徳川家康真田幸村など、

武将たちによる戦闘の様子が、描かれている。

原爆の図がいつまでも乾かない  河村啓子

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            大坂の陣の切り取りー2・3

そして、屏風絵の「左側」には 

徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり 

偽首を取る様子、

略奪を働き身包みを剥がすところ。   

さらには、

川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景 

女性を手篭めにする様子、

雑兵に襲われる女性、

首を斬られる農民、

奴隷狩りに遭う人々。 

  

などが 生々しく描かれている。  

ポップコーンの底一面に焼け野原  岩田多佳子
 
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  奴隷狩りに会う民衆

記録によれば 一万数千の首の内、

偽首を取られるなど、殺害された民衆が数多くおり 

生き残ったものの、奴隷狩りに遭った者の数は 

大人から年端の行かぬ子供まで、

数千人に達したとされる。

かなしみの言葉ばかりが地に溜まる  森中惠美子

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        道々で争いが絶えなく繰り返される

これら非戦闘員への被害が拡大した背景には、

徳川・豊臣両家の思惑や、

政治的、軍事的要因が、大きな影響を及ぼしていたことが、

近年の研究によって明らかになった。

さらに、最近発見された史料から、

この戦いは大坂の民衆を分裂させ、

一族同士でさえも、殺し合うという、

最悪の事態を引き起こしていたことが、分かってきた 

もう雲になったか風に聞いている  笠嶋恵美子
 
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       川を逃げる市民・中には、女を守る男もいる

まだ水になれぬ悲しみ抱いている  湯澤冬扇坊     

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           川を逃げていく市民も動物も  

肋骨は木魚じゃないよ渡し船  増田えんじぇる

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            雑兵が婦女子を襲う-1

生命線今年あたりで切れている  森 廣子

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            雑兵が婦女子を襲う-2

空碧く救命胴衣あとふたつ  小嶋くまひこ

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          雑兵に身包みを剥がされる市民

入っています入っていますこの世です  時実新子

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          生きて行く為にひたすら逃げる

命でしょうか秋雨の香りして  前中知栄

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         にせ首にするために狙われる首

人間に生まれて楽しかったかい  笠原道子

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         首をもって逃げる雑兵とその首の妻

ロバの死にロバの貌した神が来る  小川しんじ

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         中には、市民を助ける兵もいる
 
諦めたとき美しくなるこの世  新家完司   
 

「その後」

 

大坂の陣の1年後の元和2年(1616)5月7日、

淀殿が父・浅井長政の菩提寺として建立した養源院で、

仏事が執り行われた。

施主は、だった。

将軍の御台所である以上、夫と義父によって、

自害させられた姉・淀を弔う仏事など、

執り行えるはずもなかった。

だが江は、この日にせめて、仏事を執り行うことで、

姉を救えなかった自分への、

慰めにしたのかもしれない。

ぎゅうぎゅうに詰めた袋の後日談  山本早苗

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そして、豊臣氏が滅んだ大坂の陣で大坂の町は、

一時的に荒廃したが、

江戸幕府は、大坂を天領とし、大坂城を再建する一方、

河川の改修や堀の開削を行い、

諸藩も蔵屋敷を置いた。

蔵屋敷へは、水路で年貢米が運ばれたため、

「八百八橋」と言われるほど、橋と水路の多い町となった。

こうして、「水の都」として復興した大坂は、

日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、

「天下の台所」と呼ばれて繁栄した。 

チンすると溶けてしまった蟠り  岩根彰子

 

拍手[3回]

まぼろしを剥がしつづけた現在地  たむらあきこ

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    大坂城落城

「大坂城落城ーよもやま」

外堀まで埋められ、裸同然の大坂城では、籠城はできない。

大坂方の諸将たちは、外に出て奮戦した。

天王寺、岡山田の戦いでは、

家康の孫娘の婿・松本城主・小笠原秀政と嫡子・忠脩を、

討ちとり、
さらに、真田幸村が家康の本陣に迫り、

馬印を倒さざるを得ないまでに、追い込んだ。

ピーマンを刻むと獅子唐になった  井上一筒

しかし、所詮は多勢に無勢。

この戦いで、大坂方が有利だった時に、

秀頼が出陣する絶好のチャンスはあったが、

淀やその側近が、躊躇しているうちに期を逃してしまった。

淀君も、張り切って具足をつけ、

城内を駆け回り、指示を出していたが、

いざという部分で迷ったり、

決断のタイミングを逃すことが多かった。

言い訳をするうっかりが重すぎる  神野節子

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    夏の陣・模様

やがて、幸村も戦死し、

毛利勝永がなんとか兵をまとめて、城内に撤退した。

ここで、大野治長がようやく、

淀殿と秀頼の「助命嘆願」に乗り出し、

千姫を城外に脱出させた。

城内が混乱する中で、

常高院は、家来に背負われ城外へ脱出。

常高院に、淀殿とゆっくり別れを惜しむ時間などなく、

たとえ淀殿が、死ぬのを思い止まっても、

秀頼を含めて、助命を願っても、

家康が許すはずもなかった。 

どの坂を下るか夕日待っている  黒田忠昭

 

淀殿と秀頼の助命については、千姫も願った。

それに対し、家康、「将軍次第」といい、

秀忠は、 

「一度だけでなく、何度も戦いを挑んだのだから、

  仕方ないから早々に腹を切らせよ」

 

と言ったという。

秀忠としては、

父・家康が言わんとすることが分かっていたから、

仕方のない回答だった。 

見つからぬ答に黙秘しつづける  山本昌乃
 
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     秀 頼

淀殿と秀頼は、「山里丸の糒櫓」(ほしいやぐら)に入った。

ここで、井伊直孝から大野治長に、 

「助命は叶わない」

 

という最後通告があった。

最後をともにした中には、

大蔵卿局や長政の従兄弟にあたる饗庭局など、

浅井家ゆかりの者たちがいた。

見限った処へひたひたと足音  安土理恵

この隠れ場所を突き止めたのは、片桐且元だという。

浅井ゆかりの者が、

心ならずも家康の掌のうえで踊らされ、

残酷な役回りをさせられていたのだ。

そして、元和元年5月8日、「大坂城炎上」。

京都からも、大坂の方角の空が赤く染まるのが見え、

御所では清涼殿の屋根に上って、

眺める公家もいたという。

騙し絵を透かせばいくつかの伏字   山口ろっぱ

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     夏の陣・模様

大坂城が燃え上がるのを見て、

家康は、大政所の妹を母とする小出三尹(みつまさ)に、

「どうだ?」 と声をかけた。

その問いに、三尹は、 

「思し召しの程は、心得ず候えども、

  三尹は、未だかかる憂きことには逢い候ことなし」

 

と真情を吐露したので、

家康に諂って、祝いを述べていた諸大名は驚き、

三尹の勇気ある発言に、感じいって涙したという。

ひょっとして今飲み込んだのは毒か  みぎわはな

常高院は、落城の寸前にも、豊臣方の使者として、

徳川方との間の和睦交渉にあたっていた。

が、周辺の混乱が激しくなり、

常高院は、城内に一緒に入っていた従者とともに城外へ、

そして、京都をめざした。

その合戦の最中、足を負傷する。

その時の様子を、

淀殿に仕えた侍女のお菊が、証言している。

フルートが今日のできごとを話す  立蔵信子

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大坂城を脱出する常高院と菊

『おきく物語』

本丸に火の手が上がったため、

菊は、城外への脱出をはかるが、

途中、秀頼の馬印である「金の瓢箪」が、

置き捨てられているのに気付く。

敵の徳川方に奪われたならば、

豊臣家にとって、大恥辱になるため、

もうひとりの侍女とともに、馬印を壊し、

その場を立ち退いた。

歩いたら意外に長い一時間  清水一笑

その後、城外に出た菊は、

和睦の交渉に向かおうとしていた、常高院の一行に出会う。

常高院も戦いに巻き込まれて、足を負傷していたため、

自力で動けず、武士に背負われていた。

菊は、一行に加わり、

大坂城から12キロ離れた守口まで出て、

休んでいたところ、

家康側から、常高院を迎える駕篭がやって来た。

その時、常高院から菊たちに、

「城内にいた以上は、女といえども罰せられるかもしれない。

  できるだけのことはするが、覚悟はしておくように」

と諭したという。

神さまにやっと繋がる声がする  ひとり静

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   大坂城残念石               巨大石運搬模様

≪大坂城の石垣になれなかった石、そして、その石はこのように運ばれていた≫

こうして常高院は、戦場から離脱できたが、

姉・淀と再び会うことはなかった。

翌・8日、大坂城は落城寸前となり、

大坂城天守閣下の山里廓(やまざとくるわ)で、

淀殿は、秀頼とともに自害して果てたのである。

そのときの短刀は母・市の遺品だった。

風のたよりを信じてしまう彼岸花  森中惠美子

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大河ドラマ・「お江」-第43回・「淀、散る」  あらすじ

 

「大坂の陣」が終わって、しばらくすると、

家康(北大路欣也)は、淀(宮沢りえ)秀頼(太賀)に、

到底受け入れられない要求を突きつけた。

そして要求が拒否されるや、

それを理由に、再び豊臣攻めの兵を起こす。

仏滅のあっけらかんと開くドア  井上しのぶ

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秀忠(向井理)も、豊臣攻めに加わるべく上洛するが、

実は、ぎりぎりまで戦を避ける道を探っていた。

彼はまず、常高院に会い、 

「皆の無事を願う江の気持ちを淀殿に伝えてほしい」

 

と依頼。

また、東山の地に高台院(大竹しのぶ)を訪ね、

戦を避けるよう淀を説得してほしいと頼む。

だが、高台院は、今となっては、 

「淀の心を動かすことはできない」

 

と言って、秀忠の頼みを断る。 

同じとこ行ったり来たりする頭  石橋芳山
 
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家康は、そんな息子を一喝する。 

「戦なき世が欲しいなら、戦うて勝ちうる他にない。

  それもわからず、戦がいやと言うなら、

  今すぐここを去るがよい!」   

 

豊臣家を滅ぼさなければ、太平の世は築けない。

それが家康の信念だった。

家康から、一喝され戦いを決意した秀忠は、

軍議の席で、

「総大将として敵主力に当りたい」 と申し出る。

彼には、「避けられない戦」 ならば、

せめて将軍である自分の手で、

締めくくりたいという思いがあった。

何故ダメなのか推しピンで留めておく  田中博造

だが、家康は自ら、「戦の指揮を執る」 

と宣言する。

家康も、これから太平の世を築く秀忠を、

危険にさらしたくはなかった。

そして、豊臣家を滅ぼすという、血なまぐさい仕事は、

古い世代である自分の役割だと考えていたのだ。

外角に強い蛙の眼球ぞ  岩根彰子

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一方、淀と秀頼は、本丸のみの姿となり、

かつての威容は見る影もない大坂城で、

家康との決戦を覚悟していた。 

「戦はお避けくださりませ」

 

と懇願する常高院(水川あさみ)に、淀は、 

「もはや引き返すことはできぬ」 
 
と言う。 

かくして慶長20(1615)年4月

「大坂夏の陣」
が始まる。

地下道を出よう欠片になる前に  くんじろう

豊臣方の諸将は、

裸同然となった大坂城に籠るわけにもいかず、

野戦に打って出た。

武士らしい死に場所を求めるかのような、彼らの奮闘に、

徳川方は、おおいに慌てさせられる。

中でも、幸村(浜田学)率いる真田隊の士気は高く、

敵本陣に突撃をかけて、家康に肉薄した。

端っこが欠けて真ん中あわてだす  籠島恵子


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だが、豊臣方の抵抗もそこまで。

幸村をはじめ、

名のある武将はことごとく討ち取られ、

盛りかえした徳川勢は、いよいよ、

大坂城本丸に迫る。

ことここに至り、

秀吉の遺志を継いで、豊臣家の誇りを守り続けてきた淀は、

ようやく、自分の気持ちに区切りをつけるのだった。

地図にない抜け道なのに混んでいる  寺川弘一

拍手[4回]

切れ味の悪いジョークにけつまずく  合田瑠美子

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「秀吉迂闊」

豊臣秀吉自慢の大坂城は、

三重の堀と運河で囲まれた、高い防御機能を持つ名城で、

建設中に城を訪れた大友宗麟に、

「三国無双」 と讃えられたほどだった。

 横顔を回転ドアにほめられる  山本早苗

築城が開始されたのは、天正11年(1583)8月、

本能寺の変の翌年で、

三姉妹が、秀吉に保護されたあと、

北ノ庄城落城、柴田勝家とおの方が自刃、

秀吉は、「天下統一」に向けて奔走していた時期にあたる。

存在を知らしめるナメクジの軌跡  下谷憲子

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   黄金の天守閣

これだけ大きい城となると、

完成まで10-15年は要するが、

完成時には、当主交代も考えられる歳である。

実際、完成したのは慶長3年(1598)、

秀吉が没した後であった。

本丸、二の丸、三の丸、総構えを擁する堅城で、

また天守閣は、外観五層で、

秀吉好みに、
金箔をふんだんに使った、

華美な城であった。  

≪家光の時代になって100万都市の江戸城は、大坂城の5倍の大きさに≫

  

塀の上少し胸張る贅沢微糖  酒井かがり

大阪城は、秀吉自身の居城とするためだけに、

建てたのではなかった。

そんな日本随一の堅城として、建てられた大坂城だが、

作った秀吉だからこそ思いついた、

「大坂城攻略法」 があった。

自慢したがりの秀吉は、大坂城に家康ら諸将を招いて、

酒宴を開いたときに、その攻略法を披瀝した。

警戒心まるでないから人だろう  河津寅次郎

その時、酔いも助けて秀吉は、家康らに、 

「この城を攻めるなら、どう攻める」

 

と問答をしかけた。

答えがすぐに出せない一同に対し、

秀吉は、得意気に攻略法を語った。

それは、 

「外堀を埋めるという条件で、和議を申し込み、

そのまま内堀を埋めてしまい、本丸を裸同然にしてしまうこと」

 

だと。

石垣のところどころに湿布薬  平井美智子

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秀吉は、感心する一同を見て、

大層にご機嫌だった。

家康は、この笑談を、しっかり覚えていた。

家康は、秀吉直伝の作戦のまんま、

「大坂・冬の陣」後の和議に利用したのである。

もし、その酒宴で、秀吉の真横にいた淀殿が、

この戯れ言を、真剣に聴き、覚えていれば、

家康の術中に、嵌ることもなかっただろう。

記憶とは近づき遠ざかるものだ  杉本克子

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  秀吉の墓・「豊国廟」

阿弥陀ヶ峰中腹にある秀吉の墓・大五輪塔に着くまで、

「秀吉らしさ」に、たっぷり汗をかかされる。

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豊国廟参道ー

「女坂」から「太閤坦(たいこうだいら)」

中央にある拝殿に一礼し、

そこから石段があり、それを登り詰めると、

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さらに、急な485段の石段が待っている。

それを登っていかなければ、

秀吉に会えない「遺言の墓」である。

マテ貝は泣きだすぼくは手を合わす  湊 圭史

拍手[4回]

死に顔はこうか薄目で鏡見る  堀尾すみゑ

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       二条城

家康は二条城から「大坂の陣」に出陣した。

「大坂冬の陣」

「関ヶ原の役」後に、御家取り潰しなどに遭い、

徳川家への復讐に燃える者、

戦乱に乗じて、一旗上げようとする者など、

集まった豊臣方の総兵力は、約10万人。

そんな中に、真田幸村、長宗我部盛親、後藤又兵衛、

毛利勝永、塙直之、大谷吉治 など、

豊臣軍に歴戦の勇士が揃った。

強靭な遺伝子を持つ草の種  新家完司

とはいえ、寄せ集めは、寄せ集めである。

烏合の衆を、なかなか一つに纏めることが出来ない。

豊臣軍の内部は、二つに割れた。

大野治長を中心とする " 籠城派 " は、

二重の堀で囲われ、

さらに巨大な惣堀(防御設備)で固められた、

大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて、

有利な講和を、引き出そうというのである。

つぎはぎだらけのシャトルの乗り心地  井上一筒      

一方、真田幸村ら” 攻撃派" は、

近江の瀬田川で、関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、

足止めしている間に、諸大名を味方につけ、

その見込みが無いときに、初めて城に立て籠るという

二段構え作戦 を主張した。

これに、後藤又兵衛・毛利勝永も、幸村案に同調し、

対立したが、

結局は、治長の 「堅固な大坂城に籠城する案

が採用された。

時間を買えば生命線がのびますか  岩田多佳子

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     大坂冬の陣

「家康の老獪な豊臣打倒の手順」

11月18日、家康が秀忠のいる茶臼山に着陣。

    19日、戦闘が開始される。

12月1日、豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は、

             約20万の軍で完全包囲する。

        2日、家康、攻城設備の構築を命じ、

      攻撃設備の構築を行いつつ
大坂城に接近する。

こうした攻撃的な戦法の裏で、

12月3日より、徳川の方から、和議の打診を行っている。

             ① 真冬の戦であること。

             ② 徳川方の兵糧不足(豊臣方の買占めによる)。

             ③ 真田丸・城南の戦で被った徳川軍の大きな損害。

などで、家康は和議を求める作戦に出ている。 

しりとりは「る」攻めをすればほぼ勝てる  毛利由美

 

     9日~家康、大坂城に大砲による本格的な攻撃を指示。 

≪ 国産3貫目の大砲、イギリスの大砲(5門)・オランダの大砲(12門)

  和議の成立まで撃ちつづけた≫

 

砲声は京にも届き、

その音が、途切れることはなかったという。

これに対し、豊臣方・塙直之らも、

夜襲をしかけ、応戦したが、

劣勢であることは否めず、和議に応ずることとなる。

あっと秋それもかなりに深い秋  時実新子

織田有楽斎を通じて、行っていた和平交渉は、

  12日、有楽斎と治長が、本多正純、後藤光次

       講和について、
書を交わす。

その中に、「浪人たちを城内に留め置くかわりに

       「淀殿が人質として江戸に行く」

という案も出ていたという。

    16日、兵糧不足、弾薬の欠乏、

      徳川方の心理戦による将兵の疲労
などで、

淀殿も、軟化せざるを得なくなったようだ。 

手折られて花に虚ろな風ばかり  井上裕二

 

    18日より、徳川方の京極忠高の陣において、

         詰めの交渉が行われる。

            家康側から、本多正純、阿茶局

            豊臣側から、常高院。

   19日、講和条件が合意する。

    20日、誓書が交換され和平が成立。

諸将の砲撃が停止され、約一か月の戦いは終息した。

ハンもらうまでは貫く低姿勢  片岡加代

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ところが、家康は、

当初に取り決めた城の破却と、堀の埋め立てを、

豊臣側の領分まで、徹底的に行い、

大坂城を、丸裸にしてしまった。

人間の声をうたがう耳になる  中 博司

抗議する常高院に対し、家康は、

「秀頼の領地替え」 か、

「城内の浪人者の放逐か」 を条件に加え、

「それが出来なければ、ふたたび攻める」

と言い出す。

大坂に帰った常高院は、必死に淀殿を説得するも、

淀殿は、拒否。

ふたたび戦は、避けられなくなった。

許せないことのひとつを咀嚼する  合田瑠美子

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       大坂・夏の陣

4月14日、大坂・夏の陣が始まった。

戦況は明らかに徳川軍有利だった。

秀頼が陣頭に立てば、

「戦況は変わる」 という幸村たちの要請に、

秀頼は、その気になったが、淀殿はこれを拒否した。

もし秀頼が出馬していたら、

家康に味方していた福島正則、黒田長政、細川忠興

山内一豊たち、豊臣系大名は、

大坂城を攻めることに、躊躇しただろうし、

あるいは、

豊臣側として働いたかも知れないのだ。

ハンカチよりタオルがほしいエピローグ  谷垣郁郎

7b9b576e.jpeg  8ea0695f.jpeg  

大河ドラマ・「お江」-第42回-「大坂冬の陣」  あらすじ

慶長19(1614)年11月19日、

徳川方の軍勢が豊臣方の砦に襲いかかり、

ついに、「大坂・冬の陣」が始まった。

数で勝る徳川方は、大坂城周辺での戦いで勝利を重ね、

一気に城を落とさんばかりの勢い。

陣中では、

「このまま大坂城に攻め入るべし」 

と主張する武将も続出する。

だが、家康(北大路欣也)は、慎重だった。 

太刀打ちが出来ぬとぼけた顔がある  牧浦完次

 

家康は、「焦っては思わぬ手落ちを招く

と諸将をなだめ、城攻めには打って出ない。

それどころか、はやばやと、

豊臣方に和睦を申し入れるのだ。

だが、豊臣方は、家康の申し入れを突っぱねる。

総大将である秀頼(太賀)は、和睦に前向きだったものの、

家康を信用できなくなっていた淀(宮沢りえ)が、

断固反対したのだ。

偽物を掴んでからの不整脈  山本昌乃

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そんな中、大坂城の弱点ともいえる場所に、出丸を築き、

不気味な存在感を示していた幸村(浜田学)が、

彼の誘いに乗って、攻撃を仕掛けてきた徳川勢を、

さんざんに打ち破る。

この勝利により、豊臣方は息を吹き返した。

水たまりに浮かんだ乗り気らしきもの  壷内半酔

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それでもなお、家康は慌てない。

家康は、無理に攻めることなく、敵に圧力をかけ続け、

優勢のまま、

和議を結ぶことしか考えていなかったのである。

なぜなら、家康の真の狙いは、

講和条約に、堀の埋め立てを盛り込み、

停戦するやいなや堅城・大坂城を

裸同然にしてしまうことにあった。

さらさらと滞空時間さらけだす  酒井かがり

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一方、江戸城では、 

「これより先は、大坂からもたらされる、

  ありとあらゆる知らせを私のもとに届けよ」

 

ついに大坂で、戦が始まったと知り、

江(上野樹里)は、江戸城に残る家臣たちにそう命じる。

それが、大坂城にいる姉や娘の身を案じていた彼女が、

今できる唯一の行動だった。

あとはただ、祈るのみである。

指に止まったアカトンボの伝言  田中博造

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やがて、そんな江のもとに、和睦成立を伝える文が届く。

豊臣方の交渉役を務めた常高院(水川あさみ)の、

尽力もあり、

淀や秀頼は、無事に大坂城にとどまれる

ことになったとのこと。

ひとまず胸をなでおろす江。

だが、講和後すぐ、大坂城の堀が埋められていると聞き、

一抹の不安を覚える・・・。

数珠入れたままで吊るしてある喪服  小佐野昌昭

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