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川柳的逍遥 人の世の一家言
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なにか企んでいる枯葉のしおり  山口ろっぱ

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   織田信長

『信長の本心をのぞく』

城の象徴といえる「天守閣」は、信長が築いた「安土城」がはじまりだった。

城は、敵の攻撃から身を守るための軍事施設である。

城という文字が、「土」「成」で構成されていることからもわかるように、

土を掘って濠をめぐらし、残土を盛り固めて土塁を築いた内側を、

ふつう「城」と規定する。

自叙伝のどのページにも酒のシミ  新家完司

城というと、どうしても広大な石垣の縄張りをもち、

壮麗な天守閣がそびえ立つ威容を、思い浮かべてしまうが、

それは戦国・江戸時代に入ってからの、城である。

城郭の起源は、戦争がはじまった弥生時代にまで遡る。

といっても、もちろん城が軍事的拠点として、

もっとも多く築かれ、最高に機能したのは戦国時代である。

見はるかす墨汁たらす虫もいて  壷内半酔

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    岐阜城・山城

戦国大名は、平地に置かれた政庁で領国の経営を行い、

敵が来襲すると「山城」にこもって戦った。

時代が下るにつれ、その構造も複雑になる。

山全体にいくつもの”削平地(郭ーくるわ)””掘割”をもうけて大要塞とし、

周辺に出城や支城を築いて、防御ネットワークを築いていった。

街道や宿場にも、砦やのろし場といった簡素な城をつくって、

監視体制を強化した。

青空に案外のるかそるかです  酒井かがり

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  清洲城(平城)

しかし、戦国時代後期になると、

鉄砲の出現によって、峻険な場所に要塞を築く意味が薄れ、

大名の政庁そのものを、城郭化するようになってくる。

これがいわゆる「平城」である。

そして、城は、軍事拠点としてだけでなく、政治や経済の中心地となり、

周辺には城下町が形成される。

憎からず思う土塀の三角州  井上一筒

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       安土城

≪ちなみに近世の城の象徴たる天守閣は、

 信長の築いた「安土城」が手本となっている。

 本能寺の変のおりに、城は消失しているが、

 記録によると、25メートルの石垣の上に、5層の天守閣がそびえていたといい、

 地上60メートルにもおよぶ、高層建築だった≫

勝ち誇る後姿が鬼に見え  綿井晴風

信長の城の変遷をみてみると、

那古野城から清洲城へ、清洲城から小牧山城へ、小牧山城から岐阜城へ、

岐阜城から安土城へと、たびたび居城を移していく。

新しい支配の中心となる土地へ、自分の城を移し、

止まることを知らない信長は、

最終目標に、安土城を築いたのではないかと思われる。

億光年の世界を抜けてきた狐  本多洋子

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   安土城天主の内部

「安土城が最後の城と、信長が考えていたことは間違いない」

”本能寺の変”の1ッヶ月ほど前、朝廷から勅使が安土に下され、

信長に対し、

「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」

といっている。

「三職推任」といわれるものである。

三職推任は、朝廷が信長に要請したものか?、

信長が朝廷に強要したものか? で意見が分かれているが、

いずれにせよ当時の状況から、

その実現が、いかに難しいものであったのかが確認できる。

温泉に錯角があり四季がない  松山和代

「太政大臣」近衛前久が、就任したばかり、

「関白」は公家の最高職で、武家は就任できない。

そして、いくら実権がないとはいえ、

「征夷大将軍」足利義昭が、その職にあった。

≪こうした状況から多くの研究家は、

 「仮に朝廷が三職推任を要請したとするならば、

 それ以外の選択肢がないところまで、追い詰められていたのだろう」

 と考えている≫

横波を蹴って独りの立ち泳ぎ  山本早苗

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『永亨9年三島暦』(足利文庫所蔵) 

実は、信長は、当時の朝廷に残されていた数少ない権限であった、

「暦の管理・管轄、元号の制定」 を意のままに操作し、

朝廷権威を公然と、侵害しようとしていた。

まず、元亀4(1573)年7月18日、義昭を京都から追放して、

室町幕府を事実上滅亡させた信長は、

朝廷に圧力をかけて「元亀」を「天正」へと改元させた。

パン屋も花屋も天になるのを待っている  板野美子

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       宣明暦

天正10(1582)年には、

朝廷が管轄していた「宣明暦(せんみょうれき)」を、

尾張などの東国で用いられ、

自らが慣れ親しんでいた「三島暦」に変更するよう強要。

改暦を拒んだ朝廷を、信長は認めず、

”本能寺の変”の前日にも、

勅使として本能寺を訪問した勧修寺晴豊(かんじゅうじはれとよ)らに、

同じ要求を突きつけた。

≪晴豊は、「それはとても無理ですと申し入れた」と日記に残しているが、

 当時”神の領域”とされていた改元・改暦を、朝廷は信長から強要されていたのだ≫

悪の華神の死角で咲き誇る  上嶋幸雀

また、天正7(1579)に完成した信長の居城・安土城のなかに建てられた

「摠見寺(そうけんじ)」という寺院について、

宣教師のルイスフロイスは、

「信長は、この寺の神体は自分であるとし、

 生きたる神仏である自分の誕生日を聖日と定め、崇拝するように命じた」

と母国への報告書に記している。

信長は、「起源は天皇にある」と信じられてきた天皇の存在に、

真っ向から挑戦していたのだ。

こめかみに挑戦状がいつもある  森中惠美子

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2000年に発見された安土城天主わきの殿舎跡。

さらに、平成11(1999)年の安土城の発掘調査によって、

城内に「天皇の御所・清涼殿」を模した建物の存在が、確認されており、

信長は、天皇を京都から安土城へと移し、

「住まわせようとしていたのではないか」 とも考えられている。

自らを神体とした寺院を建てた安土城に、

「天子」である天皇を呼び寄せ、

信長は「天主」と名付けた天守閣から、それを見下ろす。

不可侵とされた朝廷の権威に挑む、信長らしい考え方である。

霧のなか岩が条理を問うてくる  森廣子

【豆辞典】-「三職推任」

永禄11(1568)年、

織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭を奉じた上洛を、果たせたのは、

その前年に、正親町(おおぎまち)天皇から受けた、綸旨(りんじ)があったからである。

信長は、”禁裏を修復し、御料所を回復し、誠仁親王の元服費用を調達”

するという、三項目を請け負う代償として、

天皇の命を受けて上洛するという、大義名分を得たのだ。

とりあえず発酵させておきました  立蔵信子

こうした信長と朝廷の蜜月関係は、上洛後も変わることはなかった。

信長は莫大な費用をかけて造営した”壮麗な二条御所”を、親王にプレゼントしたり、

朝廷のために、”年貢を徴収”したりといった、援助を続け、

経済的・軍事的に朝廷を支えていたのだ。

もはや完全に信長に依存していた朝廷は、

天正10(1582)年、

”太政大臣、関白、征夷大将軍”のいずれかの官職に就くよう勅使を送り、

信長に「三職推任」を要請したのであった。

爪丸く切って賛成派にまわる  片岡加代

 

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生命線も運命線も汗をかく  森中惠美子

『人生に大切なことは、

 五文字で言えば「上を見るな」七文字で言えば「身のほどを知れ」』
 【家康の名言の一つ】

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家康(幼名は竹千代は、天文11年(1542年)、

父・岡崎城主・松平広忠、母・於大の方の子として、三河国岡崎で生れた。

幼少時代の竹千代は、今川氏の人質として護送途中、家臣の裏切りにより、

今川氏と対立する戦国大名・織田氏に連れ帰られ、

織田家の人質となって、そのまま、織田氏の元で数年を過ごした。

後、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られ

さらに数年間、今川氏の元で、人質として忍従の日々を過ごしている。

この間に竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(のちに元康)と改め、

弘治3年(1557)に今川義元の姪で、関口親永の娘・瀬名姫と結婚する。

くじ引きでガラスの靴にされました  嶋澤喜八郎      

この瀬名姫が、家康の正室・「築山殿」である。

瀬名姫は、2年後に信康を、翌・永禄3年には、長女・亀姫を出産をしているから、

少なくとも、家康と瀬名姫は、この時期までは仲がよかったようだ。

ところが、亀姫の生まれる15日ほど前に、

義元が桶狭間の戦いで、信長軍に討たれ、

永禄5年(1562)3月、家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け、

今川氏真の怒りを買い、父・関口親永と生母が自害したあたりから、

生来気性の荒く、ヤキモチの強い、瀬名姫は、

世に言われる「悪女」へのイメージが顕著になっていくのである。

鼓動さえ乱さぬ狐抱いている  森 廣子

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築山殿

瀬名姫は、義元の妹の夫・上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児と、

於大(家康の母)の方の次男・源三郎(後の松平康元)との、

人質交換により、

駿府城から、子供達と家康の根拠地である岡崎に移る、も、

姑の於大の方の命令により、岡崎城に入る事は許されず、

岡崎城の外れにある、菅生川のほとりの惣持尼寺で、

幽閉同然の生活を強いられた。

≪岡崎城に入った瀬名姫は、「築山曲輪」に住むようになった事から、

 「築山御前」とか「築山殿」と呼ばれるようになる≫

貸し借りで曇りマークの仲になる  中田たつお

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永禄10年(1567)、信長の長女・徳姫が、

9歳のときに、同い年の信康に嫁ぐ。

しかし、築山殿は依然として、城外に住まわされたままであった。

≪こうした仕打ちも、築山殿をひん曲げる原因として、家康との不仲を誘発したようだ≫

9年後の天正4年(1576)、信康との間に、登久姫を、翌年には熊姫をもうける。

しかし、世継ぎとなる男子は生まれず、

それを心配した姑の築山殿が、

信康に、元武田家家臣の浅原昌時を、側室に迎えさせた。

何を告げたか埴輪の口が濡れている  奥山晴生        

こうして信康が、側室を持ち始めたことにより、

徳姫との夫婦仲が、おかしくなっていく。

そして、於大の方と築山殿の関係のように、

徳姫と姑・築山殿との間にも、大きな溝ができてしまった。

とにかく、何らかの消し去りがたい怨恨が、

この家族間に、はたらいていたのだろう。

≪築山殿と徳姫は居城が別であり、また側室がいることが、当たり前の時代において、

 そのようなことで、嫁姑の仲がこじれたということは、・・・考えにくいが・・・≫

打ち合わせ中の閻魔とキリストと  井上一筒

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「築山殿事件」

この事件は、天正7年(1579)7月、徳姫が父の信長に、

築山殿と信康の罪状を訴える「訴状」を、書き送ったことに始まる。

「築山殿が、武田勝頼と密かに手を結び、信長・家康に背こうとしており、

 しかも信康まで引き入れようと企んでいる」

「築山殿と唐人医師減敬との、不義密通」

「夫・信康の常軌を逸した、日ごろの行為」

「信康と家康の、不仲」

などなど、十二ヶ条からなる訴状である。

さざ波に前頭葉をさらわれる  草地豊子

この書状を読んだ信長は、家康の重臣・酒井忠次を呼びつけて詰問し、

忠次が、おおむねのところを認めたために、

信長から家康に、「築山殿の殺害」「信康の切腹」が、通達された。

家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先。

これにより築山殿は、8月29日に小藪村で野中重政によって殺害され、

信康は、9月15日に「二俣城」で切腹して果てる。

☆ 一説①ー信長の嫡男・信忠をしのぐ器量を持っていたといわれる信康。

 信長の冷徹な判断の裏側には、将来、信康によって、

 織田家と徳川家の関係が、逆転するのを恐れたとする説がある。

諸行無常星の欠片の一隅で  中桐 徹

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 信康が切腹した二俣城跡

「築山殿と信康の終焉のシーン」

.築山殿の始末に、野中重政ら3人が家康から指名された。

野中らは、築山殿に、

「家康殿がお会いしたいと言っているので、来て下さい」

といって連れだし、舟で佐鳴湖を渡っていた時に、野中が突然後ろから、

「殿の命により、お命頂戴致します」

と言って、斬り、役目をまっとうした。

報告を受けた家康は、一応、頷いたあと小声で、

「体だけ大きくて、頭の回らない奴よなぁ。

 女なのだから、尼にでもして逃がしてやればよいものを」

と言ったとか。

それを知った野中は、自分のいたらなさを恥じ、故郷の堀口に隠居した。

来世から見ればこの世はみな虚構  松田俊彦       

一方、信康の方には、服部半蔵天方通綱が赴く。

半蔵は、はっきりと信康に告げた。

「殿からの命です。 切腹して下さい」

身に覚えのない信康は、

「なぜだ! 父に会わせてくれ!」

と言う。

しかし半蔵は、唇を噛みながら、

「それは許されてないのです」

と拒否。

納得のいかない信康であったが、命令には素直に従い、

形見の品などを託した上で、半蔵に介錯を命じ、

潔く腹を十字に切り、
21年の生涯を終えたのである。

≪介錯を務めた服部半蔵は、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの、記録が残る≫

『滅びる原因は、自らの内にある』    【家康名言の一つ】

ゆっくりとすべてのみこむ黒である  浜田さつき

 一説②-近年、築山殿と信康を処断したのは、信長の意思ではなく、

 徳川家自身の事情によるものであるという説が出てきている。

 信康の切腹のあと徳姫は、二人の姫を徳川家に残し織田家に戻り、

 江戸時代のはじめまでは尾張に、ついで京都に移り、

 寛永13(1636)年まで生き、77歳という長命であった。

 二人の間の姫・登久姫と熊姫は、本田忠政、小笠原秀政に嫁ぎ、

 沢山の子孫を残している。

ちなみに、千姫の二度目の夫・本多忠刻は、徳姫の孫である。

空の端めくって秋を覗き見る  谷垣郁郎

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       家康の元へ届いた信長の手紙と思い悩む家康

「妻の築山殿と息子・信康を処分せよ」
というものだった。

大河ドラマ『お江』-第三回・「信長の秘密」 あらすじ

「己を信じ、己の思うまま存分に生きよ」  

そう言って、自分が進むべき道をてらしてくれた信長(豊川悦司)。

江(上野樹里)は、一度会っただけの彼に、すっかり魅了されていた。

しかし、そんな彼女に、にわかには、信じがたい話が伝わってくる。

信長が、最も信頼する同盟者であるはずの徳川家康(北大路欣也)に、

自分の妻・築山殿(麻乃佳世)と長男の信康(木村彰吾)を、

殺すように命じたというのだ。

シルエットは美しく見えるのに  森口美羽

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「なぜ伯父上は、徳川様にそのようなひどいことを・・・・」

江は、その話に衝撃を受けるが、一方で、腑に落ちない思いも抱く。

自分と話をした信長は、

理不尽に人を殺せと命じる人物には思えないからだ。

そこで彼女は、信長に宛てて、

事件についての真意を問う手紙を書くことにする。

優しい茶々(宮沢りえ)に励まされながら、幾度となく手紙をしたためる江。

のぼり坂人の言葉は気にとめぬ  杉本克子

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しかし、返事は一向に届かず、手紙が読まれているのかさえ、わからない。

江が、「それならばせめてひと言お悔やみを」ということで、

家康を訪ねたいと言いだしたとき、待ちに待った信長からの返事が届く。

そこには、

「言いたいことがあるなら直接申せ」

と、江を再び安土に招く言葉がつづられていた。

ながながと恋歌つづり夢つづり  池 森子

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    千宗易(利休)                お ね

そして、江は、信長の真意を確かめるため、母や姉たちと別れ、

再び安土城を訪ねる。

信長は、そう勢い込んでやってきた江を、上機嫌で迎えた。

そして、秀吉(岸谷五朗)の妻・おね(大竹しのぶ)、

当代きっての茶人・千宗易(石坂浩二)など、

自分が魅力を感じる人々に、彼女を次々と会わせる。

個性的な人たちとの出会いに、気勢をそがれた江は、

肝心の事件についての話を、なかなか切り出せない・・・。

時間差で責めるのねホットペッパー  山口ろっぱ          

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ミサイルが来たら枕で受けてやる  壷内半酔

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 「小谷城絵図」

「対信長を想定したけ堅固な城郭」-小谷城が、今も現存していれば、

マチュピチュに匹敵して、世界遺産になっていただろうと思われる。

そんな、小谷城を散策したいと思います。

ルーツ探るとナマハゲに辿り着く  新家完司

戦国時代の山城は、山頂部の防御空間としての「詰城」と、

山麓部の居住空間としての「居館」という、”二元的構造”が基本となる。
 
しかし小谷城では、

詰城として,小谷山山頂に築かれた「大獄」(おおずく)と、

大獄の南東に伸びる屋根頂部に構えられた「本丸・大広間地区」、

その両屋根筋に挟まれた「山麓居館の清水谷地区」

という”三元構造”になっている。

さらに大獄の南西に伸びる屋根頂部に「福寿丸」・「山崎丸」を、

また、唯一の屋根続きとなる東方屋根筋に、「月所丸」

といった出城が構えられた。

避難場所もっと増やしておかなくちゃ  立蔵信子

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  「小谷城復元図」

こうした構造は、元亀元年から天正元年の間に、

対・織田信長戦対策で、構えられたと考えられる。

特に、”福寿丸、山崎丸、月所丸”は、

敵を横から攻撃する横矢の効く折を、多用した「土塁」「枡形虎口」を構え、

竪堀を3つ以上並べた「畝状(うねじょう)空堀群」を設けるなど、

非常に発達した城郭構造を示しており、

朝倉氏の援助のもとで、増築されたものと考えられる。

出入口は味方ばかりのものでない  森中惠美子

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  「千畳敷曲輪」

本丸・大広間地区は南側より、江戸時代に作成された絵図によると,

番所、御茶屋、馬屋、桜馬場、大広間、本丸、中丸、京極丸、小丸、

山王丸、六坊と記された「曲輪群」より構えられている。

実はこのエリアの中で、最高所に位置するのは、「山王丸」である。

小谷城跡に残存する石垣も、

この山王丸のものが、”最も大きい石材”を用いており、

山王丸が、事実上の本丸に相当する「曲輪」であったことは、

間違いない。

上目づかいの天邪鬼にナムアミダ  岡田幸子

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   「黒金門跡」

なお石垣は、山王丸以外にも、黒金門、本丸をはじめ、

清水谷地区の大野木土佐守屋敷、三田村屋敷などにも認められ、

信長の安土築城以前に、

浅井氏が、城郭に本格的な石垣を導入していたことは注目される。

大広間は小谷城跡中で最も広い曲輪で、

発掘調査の結果、巨大な礎石建物跡が検出された。

最後まで他者には見せぬ土の中  松原澄子

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  曲輪から出土した「銅製菊皿」と同・「銅鏡」

また、この曲輪からは、3万7000点におよぶ遺物が出土している。

そのうち実に、約96%が「かわらけ」はと呼ばれる土師器皿であり、

大広間では、盛んに饗宴が催されていたことが明らかとなり、

この山上部には、恒常的な居住空間が存在していた。

小谷城では山麓に清水谷地区があり、

そこには「浅井屋敷」と称される一画があり、

ここが、普段の浅井氏の「居館」であった。

おそらく、山上の大広間との間には、

屋敷機能の使い分けが、されていたものと考えられる。

清水谷の御屋敷が表となる公邸として用いられ、

山上の大広間が奥となる私邸に、用いられていたようである。

カマキリの巣がある弥勒菩薩の背  井上一筒

つまり、長政の妻お市三姉妹が住んでいたのは、

この山上の大広間であった可能性が高い。

ところで、大広間の発掘では、焼土が一切検出されていない。

出土遺物にも火を受けた痕跡はなく、

礎石にも火災の跡は認められなかった。

実は小谷城は落城に際して、建物は焼失しなかったのである。

≪落城イコール放火、焼失という図式は単なるイメージに過ぎないのである≫

逆光に浮かびあがったのは背びれ  森田律子

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   「大手門跡」

小谷城の西側にあった清水谷に通じる道沿いにある。

写真の門は近年になって、小谷城址保勝会が復元したもの。

≪☆ 大手門の先には、小谷城戦国歴史資料館がある≫

実はまだ予報室には下駄がある  ふじのひろし

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    「本丸跡」

「鐘の丸」ともいう。

石垣をめぐらした約12メートルの高所に、

約30メートルに20メートルの説明広さをもつ、

落城寸前まで、城主・長政が居住していた処である。

≪☆ 古絵図には「鐘丸」と記されている。

 南北2段構造で北側に設けられた大堀切によって、小谷城の主要部を分断している。

戦したことなど秘めて波静か  柴本ばっは

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   「山王丸跡」

山王権現(現・小谷神社)の祀ってあったところ。

海抜395メートルの高所にあり、詰ノ丸と思われる。

東南部の巨石による野づら、積み石垣は興味つきない遺構の一つである。

≪☆ 小谷城の詰丸で約00メートルの位置にある。

 石垣に使われている石は小谷城で最も大きく、大石垣は現存している≫

アナログの時代の息をしています  たむらあきこ

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   「京極丸跡」

大永四年(1524)亮政が主君・京極高清・高延親子を迎えた処である。

天正元年(1573)八月廿七日夜半、この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て

侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され、

小丸の久政と本丸の長政の連絡を絶たれた。

≪☆ 浅井亮政に迎え入れられた京極高清が居を構えたという曲輪があった。

 羽柴秀吉は、この場所を攻めて本丸と小丸を分断した≫

歓声が挙がり続ける相手側  奥 時雄

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   「大広間跡」

一名「千畳敷」という約35アールの広さである。

主殿の跡と推定され、

その昔、多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。

礎石、貸銭、陶器片、その他多数が発掘された。

≪☆ 山上にあった小谷城内で最大の広さを誇る曲輪があったとされる場所。

 大広間には御殿が建てられ、南側には黒金門があった≫

溜息を拾ってくれる人がいる  小野真備雄

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   「赤尾屋敷跡」

ここから100メートル先に、重臣・赤尾氏の二段になった屋敷跡がある。

天正元年八月廿八日戦破れた長政は、この屋敷に入って自刃し、

二十九歳の生涯を閉じた。

小谷城一の聖域である。

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  「長政自刃の地」

長政は、本丸ではなく、ここ赤尾屋敷跡で自刃している。

背後の京極丸を落とされた長政は、信頼する赤尾家の屋敷を、

最期の地と決めた。

人生のドラマに黒い句読点  木天麦青

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   「大石垣跡」

小谷城の中でも大きく石垣が残る箇所。

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    「小丸跡」

二代目城主・浅井久政の隠居所、小谷城落城のときここで切腹した。

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    「刀洗池跡」

本丸近くにある、刀を洗うためにある池。

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  「桜馬場跡」

御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪。細長く左右2段になっている。

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   「馬洗池跡」

横に長く連なる小谷城の端に位置する馬を洗うための池。

飲料水確保のための池であったとも言われる。

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  「首据石跡」

浅井氏の家臣・今井秀信が敵方に内通した罪で処罰し、この石に首を晒した。

美水澄んで澄んで何やら住みにくし  中村幸彦

拍手[2回]

カラスなぜ泣く母と歩いた道ばかり  森中惠美子

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    小谷城背景

落城はもはや時間の問題だった。

浅井長政は、お市と娘たちを、信長に引き渡すことに決めた。

長政は、を呼び、3人の娘を連れて城を出るよう命じた。

「そなたまで命を落とすことはない。信長も、実の妹と娘たちまで殺すことはなかろう」

このあたりは、長政と信長の相談のうえでの判断とも、

長政独自の判断とも言われ、

真相は、よくわかっていない。

≪しかし、いずれにせよ男の子については、命が助かる保証はないので、

 あらかじめ、城を出させていたことは、間違いない≫

落日よ思い出は皆無色なり  武内美佐子

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       市

城を出たお市と三姉妹は、信長に保護され、

信長の弟でお市の兄にあたる織田信包(のぶかね)に、

預けられることになった。

お市が信長の妹だったから、命を助けられたわけであるが、

当時、”離縁したときなど、娘は女親につけられる”という慣習もあり、

三姉妹がお市につけられたのも、その慣習に従ったという解釈もある。

≪しかし、男子はそうはいかない。

 男子の場合、成長すれば「親の仇」といって、敵対する可能性が高く、

 事前にその芽を摘んでしまっておこうという動きになるからだ≫

穏便な処置に異論は許されず  中島久光

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上野城址は現在公園になっている。

信包は信長より9歳年下で、信長の連枝衆(親族の家臣)としては、

信長の長男・信忠、次男・信雄(のぶかつ)につぐ、3番目の地位にあった。

当時の伊勢は、複数の武家が共存しており、

彼らを併合するのに、信長は苦労していた。

北伊勢、神戸家には、三男・信孝を、南伊勢・北畠家には、次男・信雄を、

それぞれ養子にさしだしたものの、それでもなお統合には至らず、

天正四年(1576)には、

信雄に命じて、北畠具教を暗殺、家を乗っ取っている。

そんな中で信包もまた、北伊勢の長野氏の名跡を継いでいた。

ポケットの底たくらみはかび臭い  墨作二郎

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現在も残っている(安濃)津城の堀と石垣

信包は、「伊勢上野城」「安濃津城(あのつ)」を拠点としており、

お市と三姉妹は、そのいずれかで

「本能寺の変」
(1582)までの10年間を過ごした。

信長は浅井・朝倉や足利幕府を倒したとはいえ、

依然周囲を強敵に包囲されており、

「和睦の持ち駒」として、お市たちを嫁がせる」

という選択肢もあった。

しかし実際には、この10年の間、

お市はもちろん、長女・茶々次女・初にも、縁談が持ち込まれたという

記録は残っていない。

「これはなぜか・・・?」

蓋をしておくウワサバナシの因子  山口ろっぱ    

お市は、落城時には27歳。

当時の年齢からすると、まだ再婚が可能であった。

長女・茶々は、6歳。

初はその一つ下。

お江は0歳。

彼女たちが、ここで暮した約10年近い日々と、

この時代の女性の初婚時期が、10代半ばであったことを考えると、

茶々とお初については、

すでにすでに適齢期であったといえるのだが・・・。

下駄のつもりを解っているブーツ  井上一筒

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戦国時代、同盟の人質として女性が差し出されるケースは多い。

歴史は男性が書き残すので、

つい、『か弱い女性が人身御供に』 と想像しがちであるが、

「実のところ、意外と本人の意思が、尊重されていた」

同盟の人質として、差し出した娘が自害でもしたら、

同盟なんぞ吹っ飛んでしまうからだ。

友愛を捻ると無理心中の仲  菱木 誠          

とはいえ、仮に縁談が持ち込まれるとしたら、

彼女たちの血縁の濃さから考えて、

信長の希望(あるいは命令)としか、考えられない。

だとすれば、彼女たちはあの信長さえ、手出しができないほどの、

「強固な意思を持っていた」と言えるだろう。

気が強いともいえるが・・・。

≪いずれにせよ、この時期のお市とお江たち三姉妹は、

 中央の政治から距離をとり、

 まるで世捨て人のごとく、ひっそりと穏やかに暮していたものと思われる≫

ものごころついた頃からほうれん草  山本早苗

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大河ドラマ『お江』-第二回・「父の仇」-あらすじ

落城する小谷城から逃れた市と茶々、初、そして江は、

信長の弟で、市の兄でもある織田信包(小林隆)のもと、

伊勢上野城で暮していた。

一方、天下統一に向け、着々と勢力を拡大する信長(豊川悦司)は、

天正7(1579)年、琵琶湖に程近い近江・安土の地に、

巨大な城・安土城の壮麗な天守を完成させ、

人々にその威風を示していた。

そんなある日、その信長から、

「城を見にこい」 

との誘いを受け、市(鈴木保奈美)江(上野樹里)たち三姉妹は、

安土を訪れる

江は、ずっと会いたいと思っていた伯父との対面が、

楽しみでならない。

深入りしそう女心をかきたてる  山本昌乃

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        茶々                  初

しかし、茶々(宮沢りえ)初(水川あさみ)の表情はさえなかった。

2人は、信長が父・長政の仇だと知っている。

一方、父が亡くなったとき、まだ赤子だった江は、

何も覚えておらず、

その後も、父の死にまつわる事情を知らされずに、育ってきたのだ。

絢爛豪華な城内を案内された後、いよいよ信長と対面した江。

だが、彼女はそのとき、

信長と市が、緊張感あふれるやりとりを交わす様子に驚く。

姉たちに信長は、

「さぞわしを恨んでおろうな」

と声をかける。

「自分の家族と信長との間にいったい何が・・・・」

と何か、江の胸中を横切るものがあった。

後れ毛に揺らぐ心は隠せない  上田 仁

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「ずっと、おわび申し上げとうございました。

 長政様を、ご切腹に至るまで、追いつめしことにございます!」

混乱する江に、

長政を切腹に追い込んだことを詫びる秀吉(岸谷五朗)の言葉が、

突き刺さる。

彼女はそのとき初めて、

父が信長の軍勢に攻められて、自刃したことを知ったのだ。

『余談』

≪さて、今回のドラマの見どころは、9歳時のお江が、登場する。

 9歳の江を演じるのは、ドラマの主役・上野樹里ー24歳。

 なんぼなんでも、9歳は、無理があるのではないか!?

 逆の意味で、楽しみでもあるか≫

桶のない寺の屋根から水たまり  森 廣子

これが9歳の上野樹里ですー。

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オニギリの梅が異変で芽を出した  樋口百合子

拍手[6回]

栄光の時知っている飾り棚  杉本克子

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   浅井久政

「浅井家戦国大名へ躍進」

浅井三代の初代・浅井亮政(すけまさ)は室町時代後半に、

相次いだ主君・京極氏の、家督争いによる内紛に乗じて勢力を伸ばした。

16世紀前半の頃には、ほぼ湖北を支配下に置き、

亮政の跡を継いだ久政を経て、

孫の長政の時代には、戦国大名へと成長していく。

浅井氏の勢力範囲は、他の戦国大名に比べると、かなり小さい。

しかし、

「北近江という畿内から東海、北陸、さらには東国へ向かう要衝に位置した」 

ため、一躍歴史の表舞台に立つこととなった。

水滴を集め命を飼い慣らす  谷垣郁郎

浅井久政は、亮政と側室・尼子氏の間に生まれ、

天文11年(1542)に、亮政が死去すると家督を相続した。

久政の時代には、六角氏との戦闘が行われていない。

これは、久政が六角氏の旗下に入っていたためで、

六角定頼の花押と久政の花押が、類似していることが象徴的である。
 
さらに久政は、弘治2~3年(1556~57)にかけて、

六角氏が行った伊勢侵攻にも従軍している。

この対、六角融和路線は、久政が軟弱な当主であるとの印象を与えてしまい、

”浅井三代記”などには、無能の当主として描かれた。

男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

しかし久政は、この平和な時期に、湖北三郡の領国経営で手腕を発揮している。

領内の水争い(用水争論)などの「調停者」としての役割や、

土豪間の土地争いの調停で活躍した。

内政面で手腕を振るった久政は、決して、暗愚な領主ではなかったのだ。
 
しかし、六角氏の傘下に入るという消極的な姿勢は、

家臣の反発を招いてしまい、

永禄3年(1560)に引退して、子の長政に家督を譲ることになる。

おはようからおやすみまでのコマ送り  兵頭全郎

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     浅井長政
 
浅井家の領土を最大にした長政は、

天文14年(1545)に父・久政と母・井口氏の間に生まれた。

永禄2年(1559)正月に元服して、「賢政」と名乗る。

これは、六角義賢から一字を得たものであり、

六角家家臣・平井定武の娘を妻として迎えている。

しかし、同年4月に平井の娘を離縁して親元へ送還。

翌年の永禄3年8月には、愛知県野良田(滋賀県彦根市)で、

六角氏と合戦に及び、歴史的勝利を挙げた。
 
この前後に久政から家督を譲られ、

永禄4年(1561)5月頃に、浅井賢政は「長政」に改名した。

≪「長」は織田信長の一字で、長政への改名は、長政と信長の妹・お市との婚儀、

すなわち「浅井・織田同盟」の成立による改名と考えられる≫

一本の川の流れに身を添わす  清野玲子

長政の登場によって、浅井氏は、戦国大名への進化を、

加速させていくことになる。
 
戦国大名へと成長していく浅井氏を、支えていた家臣団は、

旧国人領主である上層家臣と、土豪である下層家臣に分かれていた。

上層家臣は、坂氏・赤尾氏・堀氏・安養寺氏・三田村氏などで、

彼らは京極氏家臣としても名が見えるため、国人領主であろう。

この中で、特に赤尾氏は重臣で、赤尾清綱は長政の時代に、

筆頭家老の地位を確保していた。

髭になる組軟骨になった組  井上一筒

磯野氏雨森氏・海北氏などは、浅井氏時代に台頭した村落領主で、

その規模から言っても磯野氏以外は、

一般の下層家臣と、大きな差異が見られないのが現実である。

長政の重臣には、阿閉貞征・遠藤直経・中島直親などが名を連ねる。

彼らは京極氏の家臣ではなく、村落の領主から台頭として、長政に重用された。

浅井氏家家臣団の中では、上層家臣(国人)と下層家臣(土豪)の差は、

あまりなかったと思われる。

欠く義理と欠かない義理の使い分け  小西 明

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長政一家の銅像(長浜市役所浅井支所前に建つ)

≪お市が指を指し、一家が目を向ける先に小谷山がある≫
 
浅井氏に仕えた家臣の多くは、

居住地に築かれた一辺70メートルの堀と、土塁で囲まれた城館に居住し、

村の農民を被官(家臣)として軍事動員していた。
 
さらに信長との小谷城の戦いでは、

重臣たちが、次々に降伏していったが、

土豪出身の下坂一智入道垣見助佐衛門、片桐孫右衛門など、

小谷落城の直前まで篭城戦を戦った家臣たちもいたのである。

長政は、織田信長の妹・お市を妻として、

織田家と同盟関係を結びながら、最期は敢然と信長に立ち向かい、

そして、敗れた悲劇の武将として、

「今も湖北の人々に語り継がれている」

のである。

飾り過ぎたかかさむけが痛み出す  奥山晴生

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