生命線も運命線も汗をかく 森中惠美子
『人生に大切なことは、
五文字で言えば「上を見るな」七文字で言えば「身のほどを知れ」』 【家康の名言の一つ】
家康(幼名は竹千代)は、天文11年(1542年)、
父・岡崎城主・松平広忠、母・於大の方の子として、三河国岡崎で生れた。
幼少時代の竹千代は、今川氏の人質として護送途中、家臣の裏切りにより、
今川氏と対立する戦国大名・織田氏に連れ帰られ、
織田家の人質となって、そのまま、織田氏の元で数年を過ごした。
後、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られ
さらに数年間、今川氏の元で、人質として忍従の日々を過ごしている。
この間に竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(のちに元康)と改め、
弘治3年(1557)に今川義元の姪で、関口親永の娘・瀬名姫と結婚する。
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この瀬名姫が、家康の正室・「築山殿」である。
瀬名姫は、2年後に信康を、翌・永禄3年には、長女・亀姫を出産をしているから、
少なくとも、家康と瀬名姫は、この時期までは仲がよかったようだ。
ところが、亀姫の生まれる15日ほど前に、
義元が桶狭間の戦いで、信長軍に討たれ、
永禄5年(1562)3月、家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け、
今川氏真の怒りを買い、父・関口親永と生母が自害したあたりから、
生来気性の荒く、ヤキモチの強い、瀬名姫は、
世に言われる「悪女」へのイメージが顕著になっていくのである。
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築山殿
瀬名姫は、義元の妹の夫・上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児と、
於大(家康の母)の方の次男・源三郎(後の松平康元)との、
人質交換により、
駿府城から、子供達と家康の根拠地である岡崎に移る、も、
姑の於大の方の命令により、岡崎城に入る事は許されず、
岡崎城の外れにある、菅生川のほとりの惣持尼寺で、
幽閉同然の生活を強いられた。
≪岡崎城に入った瀬名姫は、「築山曲輪」に住むようになった事から、
「築山御前」とか「築山殿」と呼ばれるようになる≫
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永禄10年(1567)、信長の長女・徳姫が、
9歳のときに、同い年の信康に嫁ぐ。
しかし、築山殿は依然として、城外に住まわされたままであった。
≪こうした仕打ちも、築山殿をひん曲げる原因として、家康との不仲を誘発したようだ≫
9年後の天正4年(1576)、信康との間に、登久姫を、翌年には熊姫をもうける。
しかし、世継ぎとなる男子は生まれず、
それを心配した姑の築山殿が、
信康に、元武田家家臣の浅原昌時を、側室に迎えさせた。
何を告げたか埴輪の口が濡れている 奥山晴生
こうして信康が、側室を持ち始めたことにより、
徳姫との夫婦仲が、おかしくなっていく。
そして、於大の方と築山殿の関係のように、
徳姫と姑・築山殿との間にも、大きな溝ができてしまった。
とにかく、何らかの消し去りがたい怨恨が、
この家族間に、はたらいていたのだろう。
≪築山殿と徳姫は居城が別であり、また側室がいることが、当たり前の時代において、
そのようなことで、嫁姑の仲がこじれたということは、・・・考えにくいが・・・≫
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「築山殿事件」
この事件は、天正7年(1579)7月、徳姫が父の信長に、
築山殿と信康の罪状を訴える「訴状」を、書き送ったことに始まる。
「築山殿が、武田勝頼と密かに手を結び、信長・家康に背こうとしており、
しかも信康まで引き入れようと企んでいる」
「築山殿と唐人医師減敬との、不義密通」
「夫・信康の常軌を逸した、日ごろの行為」
「信康と家康の、不仲」
などなど、十二ヶ条からなる訴状である。
さざ波に前頭葉をさらわれる 草地豊子
この書状を読んだ信長は、家康の重臣・酒井忠次を呼びつけて詰問し、
忠次が、おおむねのところを認めたために、
信長から家康に、「築山殿の殺害」と「信康の切腹」が、通達された。
家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先。
これにより築山殿は、8月29日に小藪村で野中重政によって殺害され、
信康は、9月15日に「二俣城」で切腹して果てる。
☆ 一説①ー信長の嫡男・信忠をしのぐ器量を持っていたといわれる信康。
信長の冷徹な判断の裏側には、将来、信康によって、
織田家と徳川家の関係が、逆転するのを恐れたとする説がある。
諸行無常星の欠片の一隅で 中桐 徹
信康が切腹した二俣城跡
「築山殿と信康の終焉のシーン」
.築山殿の始末に、野中重政ら3人が家康から指名された。
野中らは、築山殿に、
「家康殿がお会いしたいと言っているので、来て下さい」
といって連れだし、舟で佐鳴湖を渡っていた時に、野中が突然後ろから、
「殿の命により、お命頂戴致します」
と言って、斬り、役目をまっとうした。
報告を受けた家康は、一応、頷いたあと小声で、
「体だけ大きくて、頭の回らない奴よなぁ。
女なのだから、尼にでもして逃がしてやればよいものを」
と言ったとか。
それを知った野中は、自分のいたらなさを恥じ、故郷の堀口に隠居した。
来世から見ればこの世はみな虚構 松田俊彦
一方、信康の方には、服部半蔵 と天方通綱が赴く。
半蔵は、はっきりと信康に告げた。
「殿からの命です。 切腹して下さい」
身に覚えのない信康は、
「なぜだ! 父に会わせてくれ!」
と言う。
しかし半蔵は、唇を噛みながら、
「それは許されてないのです」
と拒否。
納得のいかない信康であったが、命令には素直に従い、
形見の品などを託した上で、半蔵に介錯を命じ、
潔く腹を十字に切り、21年の生涯を終えたのである。
≪介錯を務めた服部半蔵は、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの、記録が残る≫
『滅びる原因は、自らの内にある』 【家康名言の一つ】
ゆっくりとすべてのみこむ黒である 浜田さつき
☆ 一説②-近年、築山殿と信康を処断したのは、信長の意思ではなく、
徳川家自身の事情によるものであるという説が出てきている。
☆ 信康の切腹のあと徳姫は、二人の姫を徳川家に残し織田家に戻り、
江戸時代のはじめまでは尾張に、ついで京都に移り、
寛永13(1636)年まで生き、77歳という長命であった。
☆ 二人の間の姫・登久姫と熊姫は、本田忠政、小笠原秀政に嫁ぎ、
沢山の子孫を残している。
ちなみに、千姫の二度目の夫・本多忠刻は、徳姫の孫である。
空の端めくって秋を覗き見る 谷垣郁郎
家康の元へ届いた信長の手紙と思い悩む家康
「妻の築山殿と息子・信康を処分せよ」というものだった。
大河ドラマ『お江』-第三回・「信長の秘密」 あらすじ
「己を信じ、己の思うまま存分に生きよ」
そう言って、自分が進むべき道をてらしてくれた信長(豊川悦司)。
江(上野樹里)は、一度会っただけの彼に、すっかり魅了されていた。
しかし、そんな彼女に、にわかには、信じがたい話が伝わってくる。
信長が、最も信頼する同盟者であるはずの徳川家康(北大路欣也)に、
自分の妻・築山殿(麻乃佳世)と長男の信康(木村彰吾)を、
殺すように命じたというのだ。
シルエットは美しく見えるのに 森口美羽
「なぜ伯父上は、徳川様にそのようなひどいことを・・・・」
江は、その話に衝撃を受けるが、一方で、腑に落ちない思いも抱く。
自分と話をした信長は、
理不尽に人を殺せと命じる人物には思えないからだ。
そこで彼女は、信長に宛てて、
事件についての真意を問う手紙を書くことにする。
優しい茶々(宮沢りえ)に励まされながら、幾度となく手紙をしたためる江。
のぼり坂人の言葉は気にとめぬ 杉本克子
しかし、返事は一向に届かず、手紙が読まれているのかさえ、わからない。
江が、「それならばせめてひと言お悔やみを」ということで、
家康を訪ねたいと言いだしたとき、待ちに待った信長からの返事が届く。
そこには、
「言いたいことがあるなら直接申せ」
と、江を再び安土に招く言葉がつづられていた。
ながながと恋歌つづり夢つづり 池 森子
千宗易(利休) お ね
そして、江は、信長の真意を確かめるため、母や姉たちと別れ、
再び安土城を訪ねる。
信長は、そう勢い込んでやってきた江を、上機嫌で迎えた。
そして、秀吉(岸谷五朗)の妻・おね(大竹しのぶ)、
当代きっての茶人・千宗易(石坂浩二)など、
自分が魅力を感じる人々に、彼女を次々と会わせる。
個性的な人たちとの出会いに、気勢をそがれた江は、
肝心の事件についての話を、なかなか切り出せない・・・。
時間差で責めるのねホットペッパー 山口ろっぱ
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