- 2012/01/15
- Category : ポエム&川柳
すがめと鼻平太
≪武装して庭に控えているのが平家貞、
殿上で太刀を抜いているのが平忠盛。
家貞は忠盛・清盛の二代に仕えた。 (平家物語絵巻第一巻)≫
「殿上闇討」
長承元年(1132)11月、
念願の殿上人となった忠盛に、
反感をもつ貴族たちが相談して、
来るべき「豊明の節会」の際に、
忠盛を” 闇討ち ” にしようと企んだ。
それを知った忠盛は、懐に忍ばせた刀を抜き、
襲撃者の度肝を抜く。
後日、貴族たちは手出しができなかった腹いせに、
忠盛が宮中に刀を持参したことを鳥羽院に告げるが、
それは、木刀に銀箔を張っただけのものだったため、
上皇は忠盛の機転を大いにほめたという。
* 豊明(とよのあかり)の節会=新嘗祭の最終日に行われる宴会。
赤ペンのインクが洩れる雑木林 湊 圭司
「闇討ち」などというと、暗殺を想像してしまうが、
そのような物騒なものではなく、
せいぜい乱暴狼藉を働く程度のことであったのだろう。
殺人を生業とする武士の、
しかもその棟梁に暴力を振るおうというのだから、
見上げたものだが、
その程度の嫌がらせしかできないところに、
「斜陽の貴族階級」と「新興勢力である武士」の、
違いを見ることができる。
さるすべり赤い爪跡ふえている 安土理恵
もっとも、肩すかしをくらわされた貴族たちは、
直後の宴席で、さらに卑劣な嫌がらせを試みる。
天皇の命により、
忠盛が得意の舞を披露していたところ、
伴奏していた貴族たちが、急に拍子を変えたかと思うと、
「伊勢平氏はすがめなりけり」
とはやし立てたのである。
伊勢平氏の忠盛が " 斜視(すがめ) " であったのを、
「伊勢産の瓶子(へいし)が粗悪で、
酢を入れる酢甕(すがめ)にしか使えないこと」
にかけて、このようにからかったのだ。
公衆の面前で恥をかかされ、怒りに震える忠盛であったが、
宮中の酒席ではいかんともしがたく、
悔しさを押し殺しながら、早々に退出しるしかなかった。
正解硫酸銅の青の中 井上一筒
この「殿上の事件」を清盛が知っていたのかどうか?
は分からないが、何らかの形で、
耳にする機会もあったのではないだろうか。
こうした屈辱に耐えなければならなかったのは、
忠盛だけではなかった。
≪清盛が「鼻平太」のあだ名で呼ばれたというのは、
このころのことである。 「源平盛衰記」≫
鳥羽院の寵臣である藤原家成が、播磨守であったころ、
清盛は朝夕に柿色の直垂(ひたたれ)に縄緒(なわお)の
足駄(あしだ)という貧相なかっこうで、
家成邸に出入りしていたので、
京童(きょうわらわ)は「高平太」といって笑った。
清盛は恥ずかしく思ったのか、
扇で顔を隠したが、扇の骨の間から鼻が見えていたので、
京童は、「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」 といって、
その後は " 鼻平太 " と呼んだという。
絆創膏貼って剥がすじゃないか イタイ 山口ろっぱ
外見を笑いの種にする発想は、
「伊勢平氏はすがめなりけり」
にも通じる陰湿で幼稚なものだ。
ただし、家成の播磨守任官は、清盛が十三歳のときであり、
すでに官位を得て貴族の仲間入りをしていた。
忠盛も受領を歴任して、裕福だったはずであり、
この逸話には、かなりの誇張が混じっていると思われる・・・。
≪が、当時の京都や貴族社会には、依然として
平家をあなどるような雰囲気があったようだ≫
火葬場の横に噂が積んである 和気慶一
このような屈辱を受けるたびに、清盛はいつか、
「貴族たちを見返してやりたい」
と思いを抱いたかもしれない。
だからといって、
「いつか天下をとってやろう」
とまでは、考えもしなかっただろう。
渋い茶の底で沈んでいる我慢 百々寿子
清盛は現実主義者である。
いくら貴族たちのあざけりを受けても、
彼らに公然と仕返しできる力は、今の平家にはない。
屈辱に耐え忍ばなかればならない現実を、
かみしめていたのではないだろうか。
生垣の猫のこの世をこことして 筒井祥文




