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川柳的逍遥 人の世の一家言
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人の手も杖も死ぬ日のためにある  森中惠美子

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閉塞作戦で戦死した日本兵の棺を、エスコートするロシア軍の水兵の一隊

「広瀬死す」

広瀬武夫は、慶応4年生まれの帝国海軍軍人。

豊後竹田(大分県)の人である。

海軍兵学校に通いながら、講道館で柔道も習った。

日露戦争の劈頭(へきとう)、旅順港を「閉塞」するため、

湾口に閉塞船を沈める作戦に、従事していたところ、

ロシア軍に発見され、撤退しようとしたが、

部下の杉野孫七上等兵曹がいない。

広瀬は閉塞船の福井丸に戻り、三度も船内を探したが発見できず、

カッターで母船に戻る途中で、ロシア軍の砲撃によって戦死した。

1904年3月27日、享年36歳であった。

友の訃を聞いて沈黙するばかり  堀尾すみゑ

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  広瀬ほか死亡報告書

それをもって「軍神」とたたえられ、「文部省唱歌・広瀬中佐」が作られた。

作詞から、具にその時の状況が浮かぶ。

① とどろくつつ音  飛び来る弾丸    荒波あらふ  デッキの上に
  
   闇を貫く中佐の叫び           「杉野はいづこ、杉野は居ずや」

② 船内くまなく  たづぬる三たび    呼べど答えず  さがせど見えず
   
   船はしだいに  波間に沈み          敵弾いよいよ あたりにしげし

③ 今はとボートに 移れる中佐            飛び来る弾丸に たちまち失せて

      旅順港外 うらみぞ深き                軍神広瀬と その名残れど

                                         
 (作詞作曲不詳)
思い出を削ってごらん歌になる  立蔵信子

「軍神・広瀬武夫の戦死の状況については、様々の本に描かれている」

『そのとき、広瀬が消えた。

 巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。

 その隣に座って舵をとっていた飯牟礼ですら、気づかなかったほどであった』

                                司馬遼太郎ー『坂の上の雲』
 
『一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は、一片の肉魂を艇内に残して、

 海中に墜落したるものなり』                  
                                 江藤淳
ー『海は甦える』

『その瞬間、『うーん』という声か呻きか、にぶいさけびが聞えたので、ふと顔を上げると、

 少佐の首が見えず、真っ赤な血がもくもくと首から溢れ出ると見るうちに、

 その胴体がころりと海中に落ち込んでしまった』   生出寿ー『知将・秋山真之』

笛ですかいいえ心の風の音  くんじろう

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ロシア船の甲板に横たわる広瀬中佐の遺体

軍外套を着た遺体は、ほとんど損傷もない状態で収容された。

この写真をよく見ると、不鮮明ではあるが、五体がちゃんと残っているように見える。

ということは、砲弾によって身体が四散したのではなく、

やはり頭部への銃弾か砲弾が、致命傷になったようである。

びしょ濡れになった名前のご冥福  井上しのぶ

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海軍葬ー軍の栄誉礼をもって行われた日本兵の葬儀

ところで、海中に消えた広瀬の、その後については、どの本も触れていない。

実は広瀬武夫の遺体は、

ロシア軍によって発見され、ロシア軍によって葬られた。

広瀬の遺体が敵軍の将校ながら、

名誉の戦死として、丁重に葬られていた事実に驚く。

そして、旅順のロシア海軍墓地に葬られた。

切り裂いた穴から青空が湧いた  井上一筒

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 右の二人がアリアズナの兄

ペテルブルグ時代に親交のあったゴヴァレフスキー子爵の2人の子息、

アリアズナの兄が、ロシア船の船上で遺体の確認に立会い、

広瀬の遺体であることを証明した。

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『葬儀の目撃者の証言―』

「旅順港閉塞作戦で戦死した日本人たちの葬儀が行われた。

 それは、完璧な軍隊の栄誉礼をもって行われた。

 それぞれの棺は、日本の軍旗で覆われ、

 水兵の一隊は、吹奏される葬送曲と合唱の中、

 多数の参会者によって行われた葬儀のあいだ、

 厳粛に名誉ある軍人の、エスコートを続けた」

海岸の位置が地図とはずれている  杉本克子

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  「アリアズナ」

アリアズナは、将来敵になるかもしれない異国の軍人・広瀬武夫に、

一途な思いを抱いた。

アリアズナは兄・セルゲイから、

「お前たちが、何かよからぬことをしたら、あの日本人を殴り倒すからな」

と釘をさされたこともある、・・・が、

彼女は負けず嫌いな性格だったので、兄の言いつけと反対の行動に出た。

広瀬が病に臥せっているとき単身見舞いに行ったのは、

その例だが、

”これは貴族令嬢として上流社会の常識から外れた行為だった” グザーノフ記)

大人ですが約束やぶることがある  安土里恵

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懐中時計(ドラマ使用小道具)

遺体を納棺する前に、広瀬の外套のポケットから、

アリアズナが贈ったパーヴェル・ブーレの懐中時計も発見された。

≪現在その時計の行方は不明≫

 置き去りにされて真っ白い時間  小山紀乃

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『明治ニュース辞典』―(1904年4月11日付毎日新聞)

”死体を収容しロシア軍が葬儀を営む”

4月1日、旅順に於いて日本海軍将校のために葬儀を営めり。

当時将校及び水夫、これを見送り、かつ楽隊を附せり。

この将校の死体は、福井丸の船首なる海上に浮かびしものにて、

頭上に砲丸にての大疵あり、その深さ一寸、外套の袖に金線あり、

頚には革紐にて望遠鏡をかけ、ポケットには短剣を差し居れり。

電報によれば、露人は該死体の広瀬中佐たる事は、

知らずして、葬儀を営みたるものならんも、

その広瀬中佐たる事は、当時船上に留めたる肉片が、

電報に伝へる頭部の深さ一寸の大疵と、符号する事、

並びに、外套の袖に金筋の入り居りし事だけにても、

疑ひなきがごとし。

凛として書は風雪を語り継ぐ  山本芳男

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別れがくることを予感していた広瀬とアリアズナ

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黄昏のなか二人のふる里を語り合う


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広瀬の死に祈るアリアズナ

水に映っている神様の居場所  岩田多佳子         

拍手[8回]

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九条を棚から下ろす声がする  井上一筒

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閉塞作戦で沈められた報国丸

「旅順港を閉鎖せよ!」

ロシア海軍は、「極東艦隊」「バルチック艦隊」という、2つの艦隊を持っていた。

極東艦隊では、「旅順」「浦塩」という、

2つの基地を持っていたが、

この時期の浦塩港は結氷期にあるために、

極東艦隊のほとんどが旅順港に集結していた。

それを撃破しなければいけないものの、

要塞砲に守られている港内にいる限りにおいては、

攻撃の手段は、限られたものになってしまう。

柔軟にスナック豆のなかにいる  増田佐代子

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2月8日夜、まず駆逐艦による水雷攻撃が実行されたが、

確たる成果は上げられなかった。

翌9日には、二等巡洋艦ディアーナの挑発を受けて、

旅順港の外において、初めての主力決戦が行われた。

後に、「旅順口外の海戦」と呼ばれるものである。

しかし、両軍のダメージは小さなものである。

日本側から見ても、勝利には程遠かった。

そこで、次なる作戦は、旅順港から艦隊をでられないようにすること、

即ち『閉塞』となった。

目玉が光る右岸左岸の茂みから  井上恵津子

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 旅順港口閉塞方位図

「司馬氏のナレーション」

≪ロシアと戦う場合、当然海軍の第1期作戦は、「旅順港」との格闘になる。

 海軍司令部の案として「閉塞」ということは早くからあった。

 旅順口に船を沈めて、そのびんの口をとざしてしまい、

 港内の敵艦隊を物理的に、閉じ込めてしまうのである。

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 旅順の港口はじつに狭い、その幅は、《273メートル》で、

 しかもその両側は、底があいたために、巨艦が出入りできるのは、

 真ん中の《91メートル》幅しかない。

 そこへ古船を横に並べて5、6隻沈めてしまう。

 「それ以外にないのだ」 ということを、

 開戦の前から唱えていたのは、

 東郷の参謀のひとりである有馬良橘中佐と、

 戦艦朝日の水雷長である広瀬武夫少佐である。 

終わり方ありき画鋲にひかる海  富山やよい

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 ところが、「閉塞」の権威であるはずの真之は、実際には、にえきらなかった。

 彼は旅順要塞の実情がわかってくるにつれ、

 サンチアゴ港でこそ出来たが、旅順要塞はまるでちがう。

 サンチアゴ港の千倍の砲力をもっているし、

 第一、港内の艦隊がスペイン艦隊ではなく、ロシアの大艦隊だ。

 「やれば必ず死ぬ」

 と言い出したのである。

 真之は、「流血のもっとも少ない作戦こそ、最良の作戦である」

 と平素言い、閉塞には冷淡になった。

 しかし、自分の先任参謀の有馬が自らやるということを、まっこうから反対もできず、

 煮えきらなかった≫  「坂の上の雲」より

選択肢はどちらも同じ枝毛です  渡邉理沙

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【真之はアメリカ留学中、アメリカ陸軍の輸送船に観戦武官として乗り込み、

 スペインとの戦争でアメリカ艦隊がスペイン艦隊をキューバ島のサンチアゴ湾に、

 閉じこめる閉塞作戦を実見した・・・】

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天才・秋山真之にして決断できなかった「閉塞作戦」は、

やはりうまくいかなかった。

2月23日、薄暮、閉塞隊の5隻は、

円島の東南20海里の洋上に集合し、翌深夜作戦行動に出たが、

先頭の「天津丸」が、猛烈な砲火と探照灯に目が眩み、進路を誤ったこともあって、

2隻を除いて有効な閉塞は、出来ないままに沈没した。

期待した程でなかった出来ばえだ  大炭暁星

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3月26日夜、「第二次閉塞作戦」のための4隻が出発した。

今回も、海岸にある砲台と艦艇からの猛射に

よって予定位置の手前で沈没、完全な封鎖はできなかった。

おまけに、後に軍神としても謳われた広瀬武夫少佐が、

壮烈な戦死を遂げることにもなった。

広瀬はオーバーの上に引廻しを羽織り、

ボートの右舷最後部にすわって、

ともすれば、恐怖で体がかたくなろうとする隊員を励まし、

「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」

と言ったりした。

負けいくさがチームワークを固くする  遠山唯教

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探照灯が、このボートをとらえつづけていた。

砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。

その時、広瀬が消えた。

巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。

その隣に座って舵をとっていた飯牟礼ですら、

気づかなかったほどであった。

波がしらふっーと白い花咲かす  小西カツエ

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    報国丸と広瀬

『坂の上の雲』・第9話‐「広瀬死す」-あらすじ

1904(明治37)年2月5日、

連合艦隊司令長官・東郷平八郎(渡哲也)のもとに命令が下り、

翌日、連合艦隊は佐世保港から出撃する。

真之(本木雅弘)は、参謀長の島村速雄(舘ひろし)とともに作戦を練る。

同日、日本はロシアに対して、国交断絶を通告。

夜のうちに、旅順港に停泊している敵軍艦を、沈めるという奇襲作戦を実施する。

これによって皇帝ニコライ二世(ティモフィー・ヒョードロフ)も宣戦布告を発する。

前へ進めそして兵士は還らない  西出楓楽

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 真之と有馬

一方日本では、騎兵第一旅団の旅団長をしていた好古(阿部寛)が、

出征を控え準備を整えていた。

三笠では、有馬良橘(加藤雅也)が、港内に閉じこもるロシア旅順艦隊に対し、

閉塞戦を試みることを提案。

真之は乗組員の生還率の低さから反対するが、

東郷は作戦を受け入れる。

広瀬(藤本隆宏)も指揮を執り作戦を実行するが、

最初の閉塞作戦は失敗する。

私の空を削ってゆく訃報  萩原三四郎

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二度目の閉塞作戦が実行されるが、

旅順口に達した閉塞隊は集中砲火を浴びる。

広瀬が指揮する福井丸の乗組員は爆薬を仕掛けた船を離れ、

短艇に乗り込み脱出を図るが、広瀬は砲弾を受けて落命。

海軍の閉塞作戦は、再び失敗に終わる。

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旅順監獄展示室に陳列される報告丸の錨

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広瀬の訃報を聞くアリアズナ

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広瀬の葬儀はロシア軍によって執り行われた


ヤッホーが向こう岸から戻らない  嶋澤喜八郎

拍手[3回]

しあわせは他人の家に住んで知り  森中惠美子

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「この人はいったい誰?」

「坂の上の雲」の出演者がみな、ほかのドラマなら主演を張るような名優が、

顔を揃えるなかで、軍神・広瀬武夫役だけが新顔。

それでも、その演技力と存在感は圧倒的で、

冒頭のような疑問を持った人も多かったはず。

藤本隆宏さん、40歳である。

ソウル五輪、バルセロナ五輪の水泳・200m・400m個人メドレーで活躍した顔である。

和尚さん和服で会うと只の人  秋貞敏子             

お茶を飲む手は、細く長い指ながら、その指を広げると短く見える。

見事な水かきが、びっしり張っているからだ。

水かきは、水中運動への適応のために、後天的に発達した主体作用とされ、

その手が持ち主がいかに、『努力の人』であるかを物語っている。

雑学も無駄ではないと信じてる  吉岡 民

この努力の人が、第9話・『広瀬死す』で壮絶に最後の演技を披露してくれる。

この旅順港閉塞作戦の場面は、マルタ島で撮影され、

実際の爆弾や濁流と格闘しながら、闇夜の中で10日間つづいたという。

撮影が終ると、若手俳優全員から、Tシャツと花束を貰った。

Tシャツにはこう書かれていた。

「隊長 ありがとうございました」

藤本には、この上ない嬉しいサプライズだった。

藤本の彼らに対する何気ない気配りが、脇役陣にそんな行動をとらせたのだ。

求めずにひたすら磨くことにする  田中新一 

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「彼らの気持ちが痛いほど分かっていましたから・・・、

 マルタにまで来て、命からがらの演技をしたのに、セリフがほとんどない。

 『自分も同じ立場の出身者なんだ』 ということを分かって欲しかったし、

 大きな役をいただいても、『みんなのお陰で自分が生かされている』 という

 感謝の気持ちを忘れたくなかった」

≪それにしても、秋山兄弟正岡子規を始め、広瀬武夫、東郷平八郎など、

 探せばきりがないが、明治の男たちのなんと魅力的なことか。

 建国という熱いエネルギーがあったにしろ、祖父や曽祖父が暮らした身近な時代が、

 あまりにも遠く感じられる・・・と藤本は思う≫

うしろの正面仲間がいてくれる  山本希久子

明治という時代に、どっぷりつかった藤本は言う。

「自分は日本人でよかった、とつくづく思いました。

 こういう祖先にもって誇りに思います。

 純粋で、他人のために自己犠牲もいとわない。理想の人たちです」

選手時代に日本を背負ったメンタリティーに通じるものを、藤本は感じたのだろう。

大という無限の空が僕にある  山本芳男

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     広瀬武夫

1868年(慶応4)、豊後(大分県)の岡藩士の次男として生れる。

西南戦争で自宅を焼かれ、飛騨高山を経て、明治18年に海軍兵学校へ入学。

日清戦争後にロシアへ留学。

海軍将官のアリアズナと恋仲になった。

帰国後、戦艦・「朝日」の水雷長として日露戦争に出征し、

旅順閉塞作戦の主導的役割を担う。

第二次・閉塞作戦で、

行方不明の部下(上等兵曹・杉野孫七)を沈没間際まで探して、

離船の瞬間、敵弾により爆死する。

1904年(明治37)3月27日、享年36歳であった。

港町かなしい匂いのするところ  宇治田志津子

広瀬は少佐だったが、戦死後中佐に昇進し、海軍で初めての「軍神」となった。

竹を割ったような気性で柔道の達人、男らしく豪胆だが、心優しく部下思い。

まさに理想的な日本男児の典型であり、国民的英雄だった。

≪真説―広瀬は砲弾に撃たれたのではなく、戦艦レトヴィザンから放たれた、

複数の内火艇による一斉射撃で戦死した・・・≫

こんにゃくも持てなくなったヘラクレス  井上一筒

拍手[4回]

腹決める酒だ心がほろ苦い  碓氷祥昭

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「司馬遼太郎氏が語る日露戦争の成り行き」

『満州に居すわったロシアは、北部朝鮮にまで手をのばしている。

 当然ながら日本の国家的利害と衝突する。

・・・・・〈中略〉・・・・・  

 日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして、考えているだけではなく、

 李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいとおもっていた。

 他の列強が、中国をそれにしたように、日本は朝鮮をそのようにしようとした。

迷わないように歩いた獣道  佐藤后子

笑止なことに、維新後30余年では、まだまだ工業力は幼稚の段階であり、

 売りつけるべき商品もないにひとしいというのに、

 やり方だけはヨーロッパのまねを、つまり、手習いを朝鮮においてしようとした。

 そのまねをしてゆけば、やがては強国になるだろうと考えていた。

 自然、19世紀末、20世紀初頭の文明段階のなかでは、

 朝鮮は、日本の生命線ということになるのである』―「司馬遼太郎氏-坂の上の雲」

半分に聞いてもでかい夢を吐く  嶋澤喜八郎

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清国を牛耳る横暴なタコ(ロシア)

「なぜ日露戦争は避けられなかったのか・・・?」

ロシアは、満州の独占的支配をはかろうとして、清に対し、

「ロシアの合意なしに、満州の港や市を、外国に開放しないこと」

「ロシアが占領中に獲得した満州の権利は、撤兵後も有効とすること」

など、7ヵ条の要求を突きつけている。

当然、清はロシアのこの要求を拒否したが、

ロシアはそれを無視して、そのまま満州に居座ってしまった。

朝鮮から、さらに満州へと進出することをねらっていた

「日本の政府の考え方」 と、

この、「ロシアの動向」 が、

衝突するのは、ごく自然の成り行きであった。

どこまでも交わることのない議論  住田英比古

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 日本軍司令部

ただ、日清戦争以来、急速に海軍の増強をはかってきた軍部も、

ロシアと戦争に踏み切るだけの自信はなく、

軍事力が増強されるまでは、交渉によって、

何とかロシアの満州・朝鮮への進出を、くいとめようと考えた。

たとえば、明治36年(1903)8月、駐露公使・栗野慎一郎

「日本は韓国に、ロシアは満州の鉄道経営に、それぞれ特殊利益をもち、

  これを保護するための出兵権を、お互いに認めること」

「ロシアは、日本が朝鮮の鉄道を、延長させて満州の鉄道につなげるのを、妨げないこと」

「ロシアは、日本が朝鮮政府に対し、援助と助言の専権をもつことを、認めること」

などの内容を含む6か条の「日露協商案」を、

ロシア側に提示している。

 カギカッコをつけて闘ってることば  森中惠美子 

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   39度線

この日本提案に対するロシア側の回答は、

「北緯39度以北を、中立地帯とすること」

などを要求するものであり、結局、この「日露協商」は決裂してしまった。

「朝鮮を思うままに、支配下に置こう」

と考えていた日本政府の思案は、はずれる結果となり、

あとは、「大人しく引き下がるか」「ロシアと一戦まじえるか」、

の2つに1つの選択となったのである。

その後、政府は日露開戦の道を選ぶわけであるが、

決断の一番大きな要因というか背景は、

さきに締結していた「日英同盟」であった。

九条も腹をくくって鐘を聴く  井上一筒

「ロシア追い出すべし」・・・46ec7ffd.jpeg

「出て行ってくれないか!」と英国と米国を後ろ盾に・・・

ところで、日露開戦に至る経過の中で、一番気になることは、

政府がこうしたロシアとの交渉を、

「国民に秘密にして進めていた」

という点である。

「交渉しても、はじめから日本の要求通りの答えは、得られないだろう」

と判断していたことも理由の1つだろうが、

日英同盟を結んでる以上、

「ロシアとの交渉は、公にせず進める」

という方針にした理由がある。

そして結果、これが、ロシアとの開戦をあおる動きにつながった。

談合はヒソヒソ話するところ  辻 葉

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ロシアが、北清事変で出兵させた兵を明治36年4月に、

「第2次撤兵の期限がきても、撤兵させていない」

という状況が、新聞によって公表される。

すると、それを知った国民は、

ロシアへの不信感を抱くようになり、あげくの果ては、

「満州からロシアを追い出せ」

という要求となる。

大きい穴掘ってみましたさあどうぞ  古久保和子

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日本とロシアの軍事力を、冷静に比較してみる前に、

感情論で、
ロシア追い出すべしの大合唱が、まきおこってきたのである。

しかも、ここで注目しなければならないのは、

そうした国民の大合唱が、

むしろ、マスコミによって形成された側面があることだ。

明治36年に結成された対・露同志会や、戸水寛人ら、

東京帝国大学の7人の教授たちが、意見書を出し、

主戦論を唱えたことを新聞が大々的に報じ、

国民の意識を、開戦の方向にもっていく作用を果たした点は重要だ。

手のひらをそっと返してまわしもの  内藤光枝

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平民新聞だけは、戦争反対を唱えた

当時の新聞をみると、社説の中で、

”ロシアと戦うべし”との論調で、読者をあおったものもあり、

一般の記事でも、開戦を要求するグループの集会の模様を、

大々的に扱うなど、
とにかく、マスコミ総ぐるみで主戦論が、

展開せれていった。

そうした動きの中で、はじめ非戦論を唱えていた”萬朝報”ですら、

ついには開戦を主張するようになり、

マスコミは一斉に、熱狂的な論調でロシアに対する敵愾心を、あおったのである。

新聞だけではなく、雑誌も主戦論を展開していき、

戦争反対を唱えるのは「国賊的扱い」をうける状況が、

つくりあげられていった。

鬼退治本当の鬼は桃太郎  山田こいし

拍手[4回]

錯角を肯定してくる砂の城  小川一子

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  子規思い出の下駄

「『坂の上の雲』・第8回 「日露開戦」 あらすじ」

外国勤務を解かれ、イギリスから帰国した真之(本木雅弘)は、

常備艦隊参謀に就任し、海軍少佐に昇進する。

帰国後、胃腸を病んで入院している間に、資料を取り寄せ、

瀬戸内水軍(海賊)の戦法を学んだのち、

海軍大学校戦術講座の初代教官となる。

診察券の数とわたしの持ち時間  山岡冨美子

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清国から戻り騎兵第一旅団長となっていた好古(阿部寛)は、

すぐに、シベリアのニコリスクで行われるロシア陸軍の、

大演習を見に行くことになる。

ロシア騎兵将校と酒を酌み交わし、演習を見学。

その実力のほどをしかと確かめ、ハバロフスク、旅順経由で帰国する。

それは世界一と自負する陸軍を見せることで、ロシアに対する戦意をくじこうとする

ロシアの目論みだった。

咲く前にドライにされたバラの花  合田瑠美子

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      乃木と児玉

日露開戦が避けられないことを理解している児玉源太郎(高橋英樹)は、

対露戦研究の権威であった陸軍の参謀本部次長・田村怡与造が急死すると、

異例の降格ともいえる人事を、自ら望んで後任についた。

そして、休職中の乃木希典(柄本明)を陸軍に復帰させる。

曲がり鼻それなりにある指定席  北田ただよし

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東郷と山本

一方、海軍大臣の山本権兵衛(石坂浩二)は、

艦上勤務を離れ舞鶴にいた東郷平八郎(渡哲也)を、連合艦隊司令長官に任命。

宮内省御用掛・稲生真履の三女・季子(すえこ)(石原さとみ)と結婚した真之は、

ふたたび常備艦隊参謀となり、東郷平八郎と会い、

その人物に惚れて帰ってくる。

真之は、東郷から作戦参謀を任命され、

艦隊が集結する佐世保に向かう。

だからこそ険しい道を行くのです  足立淑子           

宮中では、行き詰まりを見せる対露交渉についての、議論が交わされていた。

日本政府は、外交交渉による前途に絶望して、

何度か断交しようとするが、

そのつど明治天皇(尾上菊之助)は許さなかった。

≪ここまでが、あらすじです≫

対岸の妬心はさみで切っておく  赤松ますみ

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「秋山真之と東郷平八郎」

秋山が季子と結婚したその年、

秋山は海軍大学で学ぶことなく、いきなり教官になった。

才気煥発な秋山に、人事局員が伝えた。

「近く常備艦隊の作戦参謀に抜擢されるから、長官の私宅を訪ねて、

 挨拶しておくように」
 と。

その夜東郷は、夜更けまで待っていたが、秋山は姿をみせなかった。

発令はデマとみて、すっぽかしたのだ。

たいへんな非礼を犯したことになる。

どこまでがタブーかみんな知っていた  田頭良子

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翌日、秋山は海軍省の一室で東郷と対面した。

「私が秋山少佐です」

と名乗っただけで、昨夜の非礼を詫びようとしなかった。

「このたびのこと、あなたの力に待つこと大である」

それっきり東郷は、一言も発しなかった。

おそろしく無口な老提督から、秋山は人徳のようなものを感じたが、

将としての器とは、別のものだ。

「日本海軍に自分より勝れた作戦参謀はいない」

という自信があるから、

秋山には誰が長官かということは、さほど問題ではなかった。

顎すこしあげておとこを見きわめる  たむらあきこ

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≪英雄・東郷が格好良いに越したことはないが・・・?≫

”才気走った生意気な若僧”ということにもなろうが、

東郷は一向に気にしなかった。

要は天才的な頭脳から、奔放自在な作戦を引き出すことだ。

”小男で外見の貧相”な東郷が、常備艦隊の長官に据えられたとき、

秋山も部内の下馬評に同調して、東郷を一介の凡将と見た。

裏返ししたい上司がいるのです  山本憲太郎

しかし、秋山の東郷観は次第に修正されて行く。

東郷が初めて、秋山に待ったをかけたのは、旅順港の”閉塞作戦”である。

陸上砲台の射程距離内を突進して、湾口に接近し、

汽船数隻を沈めて、ロシア艦隊を封じ込めるというものだ。

秋山は、米国留学中に米西戦争を体験した。

ハバナ軍港にスペイン艦隊を閉じ込めた、アメリカ艦隊の”封鎖作戦”を、

詳さに観戦しているから、いわばその道の権威である。

東郷が注文をつけたのは、

「文字通りの決死隊にならぬように、閉塞隊員の生還に万全を期せ」

ということだった。

これこそ、作戦すべての核心に触れるものだ。

凡将の口から発せられることではない。

秋山は東郷への見方を改めた。

不器用にアンモナイトの回復期  岩田多佳子

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≪当時の新聞に載った風刺記事・開戦への盛り上がり≫

「日露戦争ー短期決戦しかない」

いよいよ時局は、”日露開戦”に向かっていく。

内務大臣・文部大臣を兼任している児玉源太郎は参謀次長となり、

戦費調達交渉のため、財界の大御所・渋沢栄一に会い、協力を取りつける。

政府は、最終段階として対ロシア交渉に入っていたが、

ロシアの態度は強硬にして倣満だった。

政府は、ロシアと戦争をすることに恐怖を抱いていた。

政府の財政状況も緊迫していたが、世間は、

開戦論で盛り上がっていた。

人払いして長ネギ茹であがる  井上一筒

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      御前会議

≪内閣閣僚や元老による通常の会議とは別に、

 天皇が出席することで、大きな権威を持たせた会議≫

明治37年2月4日の御前会議において、

ついに”日露開戦”は決定されることになる。

明治37年2月6日、日本はロシアに国交断絶を通告した。

ロシアの宣戦布告は、9日、日本の宣戦布告は10日だが、

戦争はすでに始まっていた。

もはやたまさか月刊狂気  酒井かがり

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国交断絶前日の2月5日、

連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、指揮官らに大命が下った旨伝達し、

海軍大臣・山本権兵衛から下された「連合艦隊命令第一号」を伝えた。

連合艦隊参謀長・島村速雄は、真之にひそかに言っていた。

「すべて君に一任する」 と。

2月6日午前9時、連合艦隊は佐世保を出航。

海軍に課せられた任務は、旅順艦隊を撃って、制海権を握り、

朝鮮の仁川港に、陸軍部隊を揚げることにあった。

ノックして隣の留守を確かめる  嶋澤喜八郎

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秋山真之参謀は、「三笠」の艦橋にいた。

その任務は、ロシアの旅順艦隊を撃破して、

「制海権を手に入れる」

ことと、

「朝鮮仁川港に陸軍を陸揚げする」 ことであった。

一等巡洋艦の浅間を中心とした瓜生戦隊(瓜生外吉司令官)は、

主力が出た2時間後に抜錨し、仁川に向かったのであるが、

その途中で、仁川港から脱出してきた三等巡洋艦・「千代田」に出会う。

死ぬ暇のないほど今が忙しい  井上恵津子

その報告では、

「二等巡洋艦ワリャーグと砲艦コレーツが、仁川港に停泊している」

とのことで、早速、仁川港に赴いてロシア艦に出航を迫り、

港外に出たところで戦闘を開始した。

この時に浅間から発砲された8インチ砲弾が、

”日露戦争の海戦における第1発目”

と言われている。

≪結果は、ワリャーグは大破、コレーツは無傷であったが、

 共に仁川港に逃げ帰り自沈した≫

海が泡だつ人間はいくさ好き  森中惠美子

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