むかしむかしの狼藉者を忘れかね 森中惠美子
光秀が戦勝祈願をした愛宕神社
逆臣、謀反人の汚名を着せられる光秀だが、果してそう言い切れるのか。
怨恨、野望、恐怖、さらには足利義昭や朝廷の黒幕説など、
明智光秀が、主君の織田信長を本能寺に急襲した理由については、
さまざまな憶測があるが、どれも定かではない。
もしかしたら、本人さえ明確な理由が分からなかったということも、
あり得るのではのではないだろうか。
半分の月へゆりかもめは飛んだ 壷内半酔
細川ガラシャの父で、愛妻家としても知られていた光秀は、
諸学に通じ、和歌や茶の湯にも、秀でた文化人でもあった。
行政手腕にすぐれ、領民からも愛されたと伝えられている。
比叡山焼討ちで武功をあげ、丹波国を平定するなど、
知将として信長の信頼も厚かった。
偉大なる凡人などとほめられて 小寺万世
その光秀がなぜ、と、やはり勘繰りたくなる。
毛利元就が光秀に会ったとき、
「彼の中に狼のような一面が残っている」
と、看破したと伝えられているが、
その狼が牙をむいたのが、「本能寺の変」だったのかも知れない。
彼の心理の一面を光秀研究家が、次のように解析している。
諸説あるがスーダラ節で読め遺言 山口ろっぱの
建勲神社に伝わる「信長公記」
天承10(1582)年5月27日、
中国出陣を命じられた光秀は、京都の愛宕神社へ参詣し、
なにか思うことがあってか、
「おみくじを、二度も三度も引き直した」という記述が、『信長公記』にある。
この翌日に光秀は、
愛宕山西坊で『愛宕百韻』と呼ばれる連歌会を催した。
「本能寺の変」を目前としたこの日、光秀によって発句されたのが、
「ときは今 あめが下知る 五月かな」
という有名な句であった。
この句は、謀反を決意した光秀が、
連歌会の出席者に向けて行った、意志表明だったと認識されている。
凶が出るまで安心して眠れない 島田握夢
「とき」とは、光秀の出自とされる「土岐氏のとき」であり、
「あめ」を天として、下と合わせて、「天下」。
つまり、「土岐氏(私)が、ついに天下を取る」
という解釈である。
吹っ切れたようだな語尾がしゃんとする 鈴木栄子
しかし光秀の発句を、決意表明とする見方には、
かねてから多くの疑問が指摘されてきた。
ひとつは―、
「いくら光秀が動揺していたとしても、
連歌師や社僧に、”本能寺夜襲”といった大事の計画を見破られるような、
ヘマなことはしなかったであろう」
と光秀研究の第一人者である桑田忠親さんが解析する。
嘘つけぬ夫がちょっともどかしい ふじのひろし
”国史画帖大和桜」に描かれた”本能寺の変”
もうひとつは―、歴史研究家の津田勇さんによる、
「”ときは今”は、諸葛孔明の『出師表(すいしのひょう)』
からの引用であるとし、光秀の発句を、
”並々ならぬ決意を表明したものだ”とした上で、
「知る」という言葉は、
古代では、「神の力によって土地を知る」という意味であることから、
教養のある光秀が、自分のこととして、
「このような重い言葉を使うとは考えられない」と主張。
そして、「知る」という言葉にあてる主語は、
「『天皇』としか考えられない」と結論づけた。
津田さんの解釈による愛宕百韻は、
「朝廷の意向を受けた自分が、信長を討つことの正当性の表明」
だったとする説である。
シロナガスクジラになったしゃぼん玉 井上一筒
このような解釈は、信長が朝廷との密接な関係を築くために、
「もっとも重用した家臣が光秀だった」という事実と深く関連している。
無骨もの揃いの織田軍団にあって、
和歌を詠み、茶の湯に通じるという粋人で、
教養も高かった光秀は、織田家の代表として、
公家衆との折衝にあたらせるには、打ってつけの人材だったのだ。
結果論針の筵が羽根布団 上嶋紅雀
又かって、光秀とともに、義昭に仕えていた細川藤孝も、
誠仁親王の勅使・吉田兼見の子に、娘を娶らせるほど、
公家衆との交際が広かった。
信長は、朝廷とのコネクションを磐石にするために、
自ら媒酌人となって、
藤孝の嫡子・忠興に光秀の三女・珠(ガラシャ)を嫁がせている。
前ボタンちょっと外して風を入れ 神野節子
ところが、天下統一を目前とするにつれ、
朝廷を尊重していた信長に、
その権威を否定するような、言動・行動が目立つようになる。
もはや、信長は、朝廷を必要としなくなったのだ。
この政策転換は、この時点で、
完全に信長に依存していた朝廷・折衝役・吉田兼見、近江前久、勧修寺晴豊などの
上流公家、さらには明智光秀、細川藤孝をも、
窮地に追い込んだと考えられる。
シナリオの通りに人間を降りる 和田洋子
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