出発の朝から向こうずねを打つ 森中惠美子
現在の本能寺
≪旧・本能寺へは5時間前まで公家衆が信長のご機嫌伺いに訪れていた≫
「本能寺へ・・・」
明智光秀は、ひどい仕打ちや、折檻を繰り返す信長に対して、
かねてから深い憎悪を抱いており、
その感情が、突然命じられた国替えによって、
ついに爆発したとされている。
ところが、それを裏付ける確たる証拠は存在せず、光秀が、
「なぜ信長を殺さなければならなかったのか?」
という謎は、いまだ解明されていない。
「光秀謀反ー怨恨説の真相」
光秀が謀反を企て実行した動機として、もっとも、有力とされているのは、
度重なる信長からの、ひどい仕打ちを受けた光秀が、
激しい憎悪を抱いていたという、『怨恨説』である。
ワタクシを掬い損ねている両手 山口ろっぱ
丹波八上城で人質の母が殺される図
①-「丹波八上城事件」ー『総見記』より
天正6(1578)年、光秀が八上城を包囲した際、
城主の波多野秀治・秀尚兄弟が屈しないため、
光秀は、自分の母を人質として差し出し、
兄弟の命を保証したうえで、投降させた。
ところが、信長が約束に反して、兄弟を処刑してしまったため、
「報復として、光秀の母が城内で殺害された」
という事件。
裏切られた光秀は、これで信長に遺恨をもったとされる。
こう来ると読んでいたのに来ないとは 谷垣郁郎
「月下の斥候」ー〔月岡芳年絵〕
≪光秀の家臣である斉藤利三が、本能寺襲撃前に偵察にきているところ≫
②-「利三の一件」ー『川角太閤記、続・武者物語』より
天正8(1580)年、稲葉一鉄の家臣だった斉藤利三を、
光秀が召し抱えた際、
これを不服とした一鉄が、信長に訴え出た。
信長は、利三を「返せ」と命じたが、
それに逆らったために、光秀は髷をつかんで突き飛ばされ、
額を敷居に擦り付けられた、という一件。
頑張ったから下は向かない自負がある 森 廣子
光秀肖像画
≪額・頬にかかる傷(シミ)が気にかかる≫
③-「酒宴での折檻①」-『祖父物語』
天正10(1582)年、武田氏を滅ぼした信長が、法華寺で催した酒宴では、
「大変めでたくござります。我らも年来骨折りしたかいがござった」
と発言した光秀に、
「お前は、どこで骨を折ったのだ!」
と信長が激怒し、光秀の頭を欄干に押し付けたという一件。
④-「酒宴での折檻②」-『続・武者物語』
加えて信長が、家臣たちと夜を徹した酒宴を張った際には、
小用に立った光秀に、
「いかにきんかん頭、なぜ座敷を立ったか」
と信長が、言いがかりをつけ、首に刀をあてたとする一件。
づぼらやのフグの背中に冬が来る 井上一筒
☆ 「上記の怨恨説の検証」
1、「検証」ー丹波八上城事件について
落城寸前の八上城に、母親を人質として、差し出す必要があったか。
光秀の母親に関する記述は、「良質とされる史料」に、一切残されていない。
このとき母親が存命していたとすれば、70歳以上であったと思われる、が、
「それほど高齢の母親を、光秀が従軍させ人質としただろうか」
という疑問が残る。
判断が片寄らぬよう耳ふたつ 上田紀子
また、この事件が記された『総見記』は、
『信長公記』に創作を加えて、
江戸時代に書かれた『信長記』という書物に、
さらに潤色を加えて、
本能寺の変から120年後の1702年に、成立したもの。
≪これほどの事件が、「120年後に初めて記録に残されるということは有り得ない」
とする研究家が多い≫
つるつるが裏だったとは気づくまい 嶋澤喜八郎
2、「検証」-斉藤利三の一件
『川角太閤記』の著者は、
秀吉の甥・秀次に仕えた田中吉政の家臣・川角三郎右衛門が、
綴った「秀吉の一代記」で、
光秀を討って天下人となった秀吉の生涯を讃えた作品。
成立は、元和年間(1615-1623)と考えられている。
『祖父物語』は、尾張清洲に住んでいた柿屋喜左衛門が、
自分の記憶をもとに、1607年頃に記したもので、
『続・武者物語』もまた、別名・「武辺咄聞書」の示すとおり、
「伝聞」をもとに、1680年編纂された書物である。
噂など聞くでなかったプチ鬱日 山本昌乃
3、「検証」-『折檻』
光秀が信長から受けた折檻についても、
記された書物はすべて、後世に成立しているため、
「信憑性に乏しい」と、研究家は指摘する。
つまり、こうした通説が、多くの人に信じられているのは、
「江戸時代から、歌舞伎や人形浄瑠璃などで演じられ、
現代においても、テレビドラマなどで、さかんに描かれているからにほかならない」
としている。
丸い地球誰も落ちてはきやしない 米澤淑子
江戸時代に流行した『絵本太閤記』
≪信長が光秀を折檻している絵。
江戸時代の後期の戯作者・武内確斎による秀吉の出世物語で、
1804年に秀吉人気が高まるのを危惧した徳川幕府によって、絶版になる≫
無防備な耳だ噂が流れ着く 田中輝子
『では、光秀を”信長謀反”にかりたてたものとは、一体何なのか?』
『天正10年安土城献立』
⑤-『家康の接待』から
天正10(1582)年、宿敵・武田氏を滅亡させた信長は、
その功労者である徳川家康を安土に招待した。
家康はこの誘いを受け、
5月15日に安土に到着。
信長は、長年の盟友である家康の接待役という「大任」を、
光秀に命じる。
通説では、この任命こそが、
光秀を謀反に向かわせた”決定的な要因”とされている。
夕やけの底に予報士のあした 板野美子
⑥-『川角太閤記』よりー「接待役解任説」
光秀に接待を命じた信長は、家康一行が到着する直前に、
接待場所に予定していた光秀邸の下調べに出向いた。
すると、夏場だったこともあって、
光秀が用意していた魚が腐りかけ、異臭を漂わせていた。
信長はこれに激怒し、光秀を厳しく叱りつけたうえで、接待役から解任。
大いに面目を失った光秀は、用意していた魚、椀や皿などを、
やけになって、安土城の堀へ投げ捨ててしまったという。
何のためコオロギがいる僕がいる 新家完司
光秀によって定められた「家中軍法」
⑥-『明智軍記』よりー「国替え説」
さらに本能寺の変の五日前、家康接待の大失態で解任され、
中国出陣を命じられた光秀のもとに、信長の使者が訪れた。
そして光秀に
「丹波と近江は召し上げ、中国出陣のはたらきによっては、
あらたに出雲、石見などを領国とする」
と、「突然の国替え」を告げたのだ。
≪これは、長年にわたって丹波・近江の領国経営にあたっていた光秀にとって、
受け入れがたい宣告であった≫
そして、ついに光秀は、究極の「下克上を決意」したとされている。
一本のネジが自分を主張する 竹森雀舎
☆ 「検証」-『家康の接待』
国書「群書類従」に、このとき光秀が用意した「饗応料理」が、
『天正10年安土城献立』 として記録に残っている。
また、信長の半生を同時代に記録した第一級の史料・『信長公記』には、
「光秀は、京都や堺で珍しい食料を調達し、
たいへん気を張って接待した。
15日から17日まで3日間に及んだ」
と記されており、
『川角太閤記』にあるような光秀の不手際は、一切書かれていない。
ペットボトルの水はいつだって味方 立蔵信子
☆ 「検証」-『突然の国替え』
作者不明の『明智軍記』にしか記されていないエピソードで、
元禄年間(1688-1704)に成立し、
「史料的価値は乏しい」と、国史大辞典に明記されている。
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「秀吉妬み説」
事あるごとに重用され、出世を続ける秀吉を、光秀が妬んでいたという説がある。
しかし、ふたりの経歴をふり返れば、
この説もまた、根拠のないものになる。
☆ 検証ー「妬み説」
天文23(1554)年頃から、信長に仕えていた秀吉は、
永禄11(1568)年に、初めて信長に会った光秀の先輩で、
光秀が家臣となった頃には、すでにかなりの地位にあった。
しかし、信長からの寵愛を受けた光秀は、
出世街道を邁進し、楽々と秀吉を追い越してしまう。
太陽に向かって坂は下ってる 北田ただよし
元亀2(1571)年、朝倉征伐の翌年である。
光秀は秀吉より1年半早く、一国一城の主となり、
天正3(1573)年、秀吉より2年早く、丹波攻めの大将に昇進している。
さらに、天正8(1580)年、重臣・佐久間信盛を追放した信長は、
近畿の総司令官といえる地位に、光秀を据えている。
これは、織田家筆頭家老・柴田勝家に並ぶものだ。
≪少なくとも本能寺の1年前までは、信長は光秀をもっとも重用しており、
嫉妬するとすれば、やすやすと新参者に追い越された、
秀吉のほうではなかろうか≫
昇進の最大条件詫び上手 ふじのひろし
正親町天皇
また、天正9(1581)年2月28日、
信長は、京都で天下に信長軍団の武威を示す「馬揃え」を行った。
この軍事パレードは、正親町(おおぎまち)天皇、京都の公家衆、
織田軍団の主な武将が参加するという、
織田家の重要なイヴェントであった。
この馬揃の総括責任者に光秀を指名しているのだ。
こうした恩恵を受けていた光秀は、
「路傍の石のようだった私は、信長公に召し出され、
今日、莫大な兵を預けられる身となった」
と『家中軍法』(1581)の末尾に、感謝の気持ちを記している。
両の手を開けば何もない敵意 菱木 誠
信長の勘気に触れ屈辱的な扱いを受ける光秀
大河ドラマ『お江』-第四回・「本能寺へ」 あらすじ
馬揃えを開催する信長(豊川悦司)の招きで、
市(鈴木保奈美)と茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)
そして、江(上野樹里)の三姉妹は、京を訪れた。
母娘は、寺巡りなどをして楽しい時を過ごしているとき、偶然、
光秀(市川正親)と、その娘・珠(ミムラ)〔後のガラシャ〕に出会う。
名門・細川家に嫁いでいるという、
たまは、江が思わず見惚れてしまうほどの美しさ。
一方、今回の馬揃えの奉行を務める光秀は、
心ここにあらずといった様子で、挨拶もそうそうに立ち去ってしまう。
メルヘンの森にも怖い1ページ 柴本ばっは
神をも畏れぬ言葉を発する信長
天正9年、信長は王城の地・京で、
諸将に騎馬行列の壮麗さを競わせる”馬揃え”を開催した。
20万もの見物人を集め、時の天皇も招かれた前代未聞の催しである。
「みなみな、時は春である。わが春、信長が春である」
華やかな衣装に身を包んで登場した信長は、
押し寄せた群衆を見渡して、そう言い放つ。
誰もが、彼を拒む者はいないと感じた瞬間だった。
生魚の匂いをラップみんな消し 八木 勲
信長の勇姿に目を輝かせる江
その夜、江は信長の宿舎である広壮な寺院・本能寺を訪ねる。
馬揃えを見て身が震えるほど感動したと話す江に、
相好を崩す信長。
彼から南蛮の服を贈られた江も、幸せな気持ちで満たされる。
しかし天下人と幼い姪のなごやかな時間は、長くは続かなかった。
錯角がいい夢見せてくれました 一階八斗醁
「人は神になれない」と、信長に反論する江
きっかけは信長の不適な発言。
彼は、
「真なる神があるとすれば、それは、この信長をおいてほかにはない」
と言い切ったのだ。
・・・伯父は変わられた・・・
信長の言葉に衝撃を受けた江は、
「人は神になどなれません」
と、毅然と反論し、悲しみのなかで信長と別れることになる。
ニッポンと叫ぶカエルもゾウ亀も 森田律子
【ちなみに余談】
-光秀が用意したとされる・「天正十年安土御献立」が、『続きを読む』に入っています。